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つぶやきすれっど2
1980
:
犀角独歩
:2006/04/08(土) 08:17:09
どちらに投稿をしてよいのか判りませんので、こちらとさせていただきます。
4月6日、悲母が逝去しました。
お励ましをくださった皆様には、衷心より御礼申し上げます。
以上の事情から、ここ何日間か投稿ができませんでした。
まだ、しばらくは整理その他から、お声かけに十分なお答えができないこととなろうかと存じます。恐縮ながら、御斟酌をお願い申し上げるものです。
有り難うございました。
1981
:
問答迷人
:2006/04/08(土) 08:26:24
犀角独歩さん
ご母堂のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。お力落としの事と存じます。暫くは、ご静養される事と存じます。落ち着かれましたら、又、掲示板でのご活躍を拝見致したく存じます。ご愁傷さまでした。
1982
:
れん
:2006/04/08(土) 11:33:17
犀角独歩さん。
三日の松山師ご講義にもご参加なさっておられなかったので、もしや御母堂様の御体調が御悪いのではないかと心のなかで危惧しておりました。
六日に、御母堂様ご逝去の由、謹みて、御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。
何と言葉をかけるべきか、適切な言葉が出てきません。
今は、心身ともに、なにかと大変なことと拝察申し上げますが、今は、とにかく諸事、周りの状況が落ち着くまでは、心ゆくまで、御母堂様をお送り下さい。早々
1983
:
パンナコッタ
:2006/04/08(土) 12:36:17
犀角独歩さん、
お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。
ご親族の方におかれましても、ご傷心はさぞ深いことと拝察いたしますが、
なにとぞお気を取り直されて、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
まずは、謹んでお母様のご冥福をお祈り申し上げます。
1984
:
独学徒
:2006/04/08(土) 13:03:19
犀角独歩さん、お母様ご逝去とのこと伺いました。謹んでお悔やみ申し上げます。
私を彫刻信仰から覚醒させてくださった、犀角独歩さんの論考『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』、及び『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を、拝読させていただく中で、犀角独歩さんのご家族への思いを強く感じておりました。
お母様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
1985
:
顕正居士
:2006/04/08(土) 13:59:20
犀角独歩さん。
御母堂様のご逝去を悼み、
謹んでお悔み申し上げます。
1986
:
一字三礼
:2006/04/08(土) 20:49:57
犀角独歩さん
御母堂様のご逝去謹んでお悔やみ申し上げます。
まことに勝手ながら、題目、読経を勤めまして御母様の菩提を弔わせていただきました。
ご心痛の中、やらなければならない事は尽きないと思いますが、どうぞお体もご自愛ください。
1987
:
文殊
:2006/04/08(土) 21:00:57
犀角独歩さん。
お母様のご逝去の報に接し、謹んで
ご冥福をお祈り申し上げます。
1988
:
空即是進化
:2006/04/08(土) 22:30:45
犀角独歩様
御母堂様のご逝去をお悔やみ申し上げます。
やはり悲しいものは悲しいですね。
お気を落とすことなく、これからもご活躍をお願いします。
1989
:
ラキ
:2006/04/10(月) 02:50:02
犀角独歩さん
お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。
1990
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/04/10(月) 06:53:19
犀角独歩さん
ご母堂様、ご逝去の報に接し、心からお悼み申し上げます。
1991
:
犀角独歩
:2006/04/13(木) 12:36:17
皆様には、ご弔辞、並びに暖かいお励ましを頂戴しましたこと、謹んで御礼申し上げます。
悲母葬儀は、楠山日道(泰道)上人、貫名日泰(英舜)上人の大導師を得て、お二方のお慈悲溢れる御計らいの許、三浦本山と称される金谷山大明寺に於いて執行していただきました。
法名 帰真院妙行日松信女 位
皆様の御回向を賜れれば、有り難く存じます。蹲踞
1992
:
みかん
:2006/04/13(木) 23:49:59
犀角独歩さま。
お母様がご逝去されたとのこと、こころよりお悔やみ申し上げます。
なんと申し上げて良いか、言葉もありません。
こころより、ご冥福を祈念させていただきます。
さぞ、お力落としのことと存じますが、ご無理なさいませんよう。
1993
:
犀角独歩
:2006/04/14(金) 04:40:57
みかんさん
お久しぶりです。ご祈念下されるとのこと、痛み入ります。
有り難うございます。
1994
:
雖念
:2006/04/15(土) 20:37:35
犀角独歩さん
ご母堂様、ご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。
小生も近年両親を送ったばかりですので、ご心中をお察しいたします。
あわせて、ご母堂様のご冥福を祈念させていただきます。
1995
:
犀角独歩
:2006/04/16(日) 07:22:10
雖念さん、お久しぶりです。
有り難うございました。
1996
:
犀角独歩
:2006/05/01(月) 23:19:19
一字三礼さん
本日は、たいへんに有り難うございました。
追って、詳しく投稿させていただく所存ですが、頂戴しました御香、ただいま、母の遺骨に供えさせていただきました。お気持ち、衷心より御礼申し上げます。
1997
:
Taitsu
:2006/05/02(火) 00:10:42
金谷山大明寺とは衣笠の・・・
私以外に横須賀に縁の有る方がここにお出でとは、ちょっと嬉しく思いました。
不謹慎と思われましたならお詫び申し上げます。
1998
:
犀角独歩
:2006/05/02(火) 08:19:58
Taitsuさん
わたしも嬉しく思います。
機会がありましたら、大明寺でお会いしましょう。
1999
:
犀角独歩
:2006/05/08(月) 22:27:13
本日、日蓮宗の千部会に参列してみたのですが、いくつか発見があり、日蓮宗の様を観て、いまさら、石山とはなんたるかと、慨歎を禁じ得ない発見がありました。
わたしが法華講にいた頃、石山御影堂の法要で散華というものを初めて観ました。教学部の説明では、古式豊かに、よく研究して行ったとかという口上でしたが、本日、日蓮宗の法要で、この散華があったのです。その華の取り出し方、構え方、そして、散らし方に至るまで、ほとんど、同じ。
日蓮宗のほうの散華は、昨日今日始まったものではなく、要は「石山が言う古式豊か」というのは、ただの日蓮宗のパクりということなのでしょう。もっとも、檀林その他で、他派の日蓮門徒と席を同じくし、共に教を唱えてきたからこそ、離間した現在でも、方便自我偈に唱和することに苦労はないわけです。信者を食った話だと思った次第です。
このような呆れ話は、類は幾つもあります。石山で、正式書籍にも載る日目の身延修業時代を謳ったとする古歌「法華経を我が得しことは薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし(『日蓮大聖人正伝』321頁)という話が、実は、比叡山の修行で僧侶たちが口ずさむ歌であることを、わたしは指摘したことがあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/37
また、地名さんもその元は、拾遺集哀傷 一三四六、大僧正行基の歌であると、正確に情報をご指摘下さったわけでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573970/724
御受戒の「持(たも)ち奉るや否や」「持ち奉るべし」という遣り取りも、日蓮宗の法要における経巻頂戴の儀式の台詞そのままであり、「乃至法界平等利益」もまた、日蓮宗の勤行の台詞です。
まあ、なんというか、先に勤行は二品読誦で一経読誦謗法だなんだという話がありますが、謗法を云々するのなら、行基の歌を日目の修行を謳ったなどと寝惚けた戯言を記したり、散華その他を日蓮宗からパクッたりするほうが、よほど、問題であろうと思った次第です。
七百年の伝統とか、富士の清流とか、祖道の恢復とか、聞こえは善いのですが、それぞれ結局、近代の捏造で、よくもすぐにばれるような作り物を「伝統」だなんだといって憚らないものだと改めて思った次第です。
2000
:
なし
:2006/05/09(火) 01:42:39
延暦寺本堂での散華を見た。身延もパクリかな。正倉院にもあるという。
2001
:
なし
:2006/05/09(火) 06:42:36
叡山、散華行道僧の衣がカラフル。身延は?
狩野派の日蓮像、衣が真っ赤。
2002
:
犀角独歩
:2006/05/09(火) 07:34:09
散華に関しては、2000、2001に言うとおりでしょう。
その元々は、他派に由来するのでしょう。
石山で散華の記述として、僧俗が誰しも知るのは、化儀抄の記述でしょう。
「経を読むに必ず散華有るべし信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり其の一仏の三身に供するなり、是れ即ち本門無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり」
わたしが着目していたのは、この日亨師の『註解』です。
「他宗にては厳儀の折などに・紙に製したる蓮華の葩を華籠に入れて・行道の僧童が参集の衆の頭を降らすことあり」
という一節です。つまり、紙で造った華(多くは蓮華の花弁を模す)を参集に降らすやり方は「他宗」であると言っている点です。ですから、「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした。
なお、化儀抄における散華は、石山の勤行では、経机の経本に置かれてある三枚葉の樒を、勤行の終わりに、一枚一枚に切り離すことを言います。
この三枚葉の樒の様もまた天台密教、密壇に置かれるものと同じ。つまり、そこが起原となっているのでしょう。
あと、他日蓮門下の日蓮像の衣は真っ赤なのではなく、緋衣。五位の朝服の色ということですが、この点は、わたしなどより、藤川さんがお詳しいところでしょう。
日蓮が終生、薄墨衣であったかどうか。わたしはやや決しかねますが、先に挙げた化儀抄、その他聞き書きを瞥見すると、薄墨、白五条袈裟は早い時期に定着していた如きです。ただし、ここで重要な点は「素絹」といった簡素な衣であるという点です。
「真っ赤」な衣が、批判されるのであれば、色ばかりは薄墨で、しかし、石山住職が着る衣など、100万とも数100万もするといわれる豪奢なものでしょう。これは日蓮の粗衣、名字折伏を示すという中世の自宗の化儀にも反するという批判は既に為されているところでしょう。
日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか、その御影像には在世当時を表す質素な薄墨衣を着せ、その前に座る石山住職は、桁違いの豪奢な衣を纏うことが是なのか、自宗に贔屓目を捨て考えてみるべき点です。
2003
:
犀角独歩
:2006/05/09(火) 12:07:32
やや補足しますが、緋衣が五位の朝服を法衣としたものであり、かつ、明治以前からそのような衣が着せられていたとすれば、これはその御影を祀る寺院が勝手に行ったことではないだろうと思われます。つまり、これは朝廷からの勅許なくしては、出来ないことであったろうという意味です。
日本という国は、後継者が既に故人になっている者の、生前の名誉を称揚するために、あたかも生者のように、官位、称号を朝廷に願うことが行われるという特殊な監修を有した国です。
帝都弘教を果たした日像お、既に故人の日蓮への大菩薩号を勅許の功は夙に著明なことです。また、近代では「明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺にある時宗の墓にお遣わしになって、四階級特進して従一位をご追贈なられた」(『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)渡部昇一 P280)という話も伝わります。
また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。
日蓮御影に緋衣を着せることが江戸時代までのことであれば、以上のような朝廷に対する正式な手続きを経ずしては行えることではなく、終生流人の汚名を背負った日蓮の名誉復権に苦心した門下の熱意がその衣と現れているということでしょう。しかし、近代では、このような官・衣は撤廃され、勝手に団体を興したものが自ら法皇を僭称するご時世ですから、御影に好き勝手な法衣を着せる風潮もまま見受けられるのかも知れません。また、僧位・法衣も各宗の独自性に任せられる故、これもまた、明治以前のような、一つの尺度にはならなくなったという一面もあります。
わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。
つぶやきスレッドなので、これくらいといたします。
2004
:
犀角独歩
:2006/05/09(火) 12:10:44
【2003の訂正】
誤)特殊な監修
正)特殊な慣習
2005
:
ミカ
:2006/05/09(火) 17:56:48
はじめまして。
こちらの掲示板は、以前から知っておりましたが、私が「自由な茶寮掲示板1F」にて、犀角独歩氏の著書を紹介をしましたが、あちらの掲示板で氏の著書に付いての議論があり、氏の名誉を傷つけかねない発言もありました。
この原因を招いたのは、私の責任でもあり、発言者、UWFさんがこちらで、反論をなされるように進めたしだいでありますので、ご迷惑かもしれませんが、こちらで議論する場をお貸し願いたく、ご挨拶がてら、書き込みをさせて頂きました。
犀角独歩氏にたいして、他の掲示板で名誉を傷つける発言の原因を招いた事を、ここでお詫び申し上げます。
「自由な茶寮掲示板1F」
http://mt.advenbbs.net/bbs/kensho.htm
2006
:
顕正居士
:2006/05/10(水) 06:48:16
素絹薄墨の衣に白五条の袈裟は天台宗からです。『有師談諸聞書』、『当家三衣抄』に詳しい。
これは律衣ではなく俗服、それも折伏(戦闘)用の僧兵の服です。日有師、日寛師は慈覚大師
以来としていますが、池田令道師は慈恵大師以来とし、それが正しいようです。
参考 『天台の教え』ページ9
http://www.shosha.or.jp/syukyou/main/tendai/osie/osie/osie9.htm
なお、日蓮は『八幡抄』に八幡大菩薩が伝教大師に授けたのが紫衣の起源だとしており、紫衣
などを否定していません。『三衣抄』もこれを会通できていない。薄墨・白五条は天台宗から来て
いるのですが、色袈裟の否定は神道、修験のほうからではないかと想像します。
参考 『風俗博物館』
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/
2007
:
なし
:2006/05/10(水) 07:00:52
散華の博識ご披露ありがとうございます。
儀式の淵源を尋ねれば誰かの創作でしょうから後にはすべてパクリでしょう。
学ぶの語源は真似ぶからだと聞いたことがあります。
>「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした
なるほど。
>日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか
報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう。アバタもえくぼに見えますか。緋衣の聖人、お弟子がカラフルの図、もう別世界でしょう。高価な法衣もご指摘どおりだとは思いますが。
>また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。
これは初めて知りました。
>わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。
日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。
興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝
興師筆の御遷化記録には「仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し」とあるそうですが、ど素人の私にはこの程度でいいご処置でありこれ以上ではないように思いますが。
ブツブツとつぶやきです。
2008
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 08:04:44
2005 ミカさん
はじめまして。当掲示板にご訪問なされたことを歓迎いたします。
ご紹介の該当掲示板において、わたしの名誉が穢されたかどうか、現時点では判断をつきかねますので、謝罪を戴くまではないと判断しております。
やや瞥見しましたが、所謂「本門戒壇の大御本尊」と日寛が呼んだ彫刻品についての議論は、当掲示板ではほぼ落着し、すでに拙書でも落着したことです。
あとは、その事実を受け入れられるかどうかは、各人の健康な精神状態によるほかありません。特定信念体系に誣いられて、事実を事実と認められない人は、事実を受け入れられないという過悪において、事実に打ち捨てられ、その仮想現実の中で長い彷徨、つまり、虚偽の夢想の輪廻に陥り続けるほかないことを気の毒に思うばかりです。
該当の掲示板の、わたしに係る一連の遣り取りは瞥見しましたが、これは議論になっていません。つまり、わたしが提示した彫刻に関する事実鑑別についてのミカさんの投げかけに対して、回答側は、顕正会と同じ話法で、その質問に答えず、ただ悪口を以て、回答を回避しています。つまり、質問内容を悪口にすり替えて、答えることから逃げるという、よく見かける人格攻撃の論理のすり替えという常套手段を悪用しています。
また、このような回答回避を受けた側は、その起因、たとえばわたしの事実鑑別が議論の主眼であったところから、人格攻撃に係る論理のすり替えにはまって話がずれされる主題から脱線してしまうという事態に陥るわけです。
この悪辣な論法はしかし、該当掲示板のミカさんのご投稿に対してに限ることではなく、そもそも、顕正会の常套手段です。これに嵌っては肝心の議論ができないことになります。
彫刻が、日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為された模造品であることは、わたしがサイトにアップした写真でも一目瞭然なのであって、もはや、そこに疑問を挟む余地はありません。反対者側は、その写真を見ることをせず、ただ、その提示者への悪口を以て、論理をすり替えています。その第一が浅井さんでしょう。
浅井さんの言うところに依れば、法道院で何度も日禅授与漫荼羅を観た、この論法自体、既にすり替えているわけです。観たが、それが彫刻の原本であると見抜けなかったのは、浅井さんの鑑識眼の能力が劣っていただけのことです。わたしは図形を以て鑑別したわけですから、その反論は図形を以て論じるそれ以外の反論の方法はないわけです。ところが彼は、「大謗法者」「魑魅魍魎」「学会くずれ」と口を極めて、わたしは悪口することで、この真偽鑑別を人格攻撃にすり替えたうえで、回答から逃げています。また、それを鵜呑みにする誣いられた人々は、その口真似・物真似を以て議論をすり替えるという連鎖に陥ってる自分の姿に気付かないでいます。
もっとも、顕正会員は、観たこともない彫刻を信じさせられているわけですから、その真偽を論じること事態、できるはずはありません。それを信じさせ議論を悪口にすり替える卑怯な論法を口真似するほか、何もできないのでしょう。
2009
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 08:05:39
―2008からつづく―
この結果が、わたしの名誉を傷つけたかどうか、いまのところ、子供が棒を振り回して自分が一番強いと思っている他愛なさとしか映じておりませんので、子供の“いきがり”に、腹を立てることは大人げないことなので、以上の分析に留めることにいたします。
ただし、昨年10月25日付『顕正新聞』における顕正会の公式発表、並びに浅井さんの前後の発言については、謂われない誹謗中傷であり、十分に名誉毀損に当たると判断すれば、名を挙げられたわたしのみならず、楠山泰道JSCPR代表理事、紀藤正樹弁護士とも協議のうえ、JSCPRに所属する弁護士複数を以て弁護団を結成し、オウム真理教、統一教会、法の華三法行、ライフスペースといったカルト団体を処理したきたことと同様、法的措置に訴える用意はあります。
しかし、人づて、新聞で見るばかりで、当人浅井さんから、わたしに直接、何ら言ってくるわけでもなく、ただ、わたしの知人を処分している悪口をして、それだけで終わる様は、ずいぶんと恐がりの人物だと、いと面白く感じるばかりです。次にアクションがあれば、裁判の当事者は、私設の掲示板で口真似をしている人々ではなく、ズバリ、裁判のターゲットは浅井さん本人です。
以上わたしの名誉に係ることとしかし、彫刻の真偽は、別問題です。
わたしが採用した該当の写真は熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたものです。わたしの批判者は、この原資料を確認しておらず、この写真自体から疑うというお話にならない稚拙さですので、この点については一言すれば、同書には、
「本門戒壇の大本尊…大石寺に宝蔵す由井一乗居士特に寄贈せらる」(『日蓮上人』P375)
とその写真の提供者を「由井一乗」であると明示してあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenshonin_p375.html
同氏は昭和4年に総講頭に日開氏が任命した人物です。『日蓮上人』の発刊は、明治44年のことです。
さらに、写真が発表されたことが事実であることは細井精道(のちの日達)氏が『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮抄宗務院編)のなかで認めています。
また、わたしが使用した日禅授与漫荼羅の写真は、北山本門寺宝蔵調査で撮影されたものです。この北山所蔵漫荼羅と、大石寺所蔵の同漫荼羅が見分けがつかないことは堀日亨氏も認めたことでした。そのことから、この二体は相剥で分かたれたものであると目されるわけです。仮にこの二幅の相貌が不一致であっても、日蓮上人に載る「戒壇の大本尊」写真と日禅授与漫荼羅の相貌が一致していることは、既に鑑別したとおりです。
以上のことは、わたしの管見をご理解いただいている以上、屋上屋を重ねるところですが、取りあえず、記しました。
感情的、人格攻撃によって回答を避け、事実を認めない類の議論は時間の無駄ですから、こちらで、落ち着いた議論をされることをお薦めするものです。
2010
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 08:21:06
―2009からつづく―
ご承知のことと思いますが、彫刻に関しては2頁、わたしのHPは2箇所設けてあります。
何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html
佛教再考
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
BLOG 犀の角のように独り歩め
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/
2011
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 08:44:31
2007 なしさん
できれば、何かHNをお決めになって落ち着いて議論されては如何でしょうか。
ここは、つぶやきですから、議論はNG。ですから、感想程度に、以下、留めます。必要があれば、適切なスレッドに移動して、議論を続けたいと希望します。
> …パクリ…学ぶ・真似ぶ
は、御説のとおりでしょうが、わたしが「パクリ」と慨歎したのは、そのパクリ元を謗法だなんだと誹謗したうえで物真似をしているからです。これは学ぶ姿勢とは言えません。「盗人猛々しい」という非難の対象だろうという意味です。
> 報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう
それは、なしさんの個人的な勘繰りでしょう。
世間一般でも親が年を取れば、赤いちゃんちゃんこを着せるといった風習はあります。それは親孝行からの思い、報恩であるのに、世間気といってしまえば、その志は潰えます。
たとえば、日蓮の『立正安国論』が認められ、国士と認められ、朝廷の帰依も受け、官位を衣を下賜されたとしたらどうでしょうか。それを日蓮は拒否したでしょうか。わたしは、むしろ、当初の日蓮は、国師を標榜していたと思えます。となれば、それを否定する言われもないことになります。そんな拒否するぐらいであれば、そもそも、坊さんスタイル、頭を剃って、袈裟衣を着て沙門と名乗る世間気自体から否定すればよいわけです。薄墨=折伏ということ自体、後付の日蓮潤色のみてくれじゃないでしょうか。
> 日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。
ええ、これは仰るとおりです。
> …仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し
この点ですが、恰も釈迦仏像の扱いを、この文献が既定しているような誤解があるとわたしは考えます。この釈迦像を墓所に置けとされたのは、これが日蓮手製の持仏、すなわち、日蓮個人の本尊だからです。
このような慣習は今でも行われていますが、堂塔伽藍に奉安される本尊と、各人が個人的に護本尊として所有する持仏とは、その性質が違います。
これを同等に論じるなど、石山で下付する個人用のお守り本尊を、本門戒壇の大御本尊として戒壇堂に懸けることだと言っているようなものです。ナンセンスな、勘違いというほかありません。
2012
:
藤川一郎
:2006/05/10(水) 11:27:03
薄墨色というのは、面白い。
天皇陛下の衣冠束帯は通常「黒色」であるが、仏門への帰依を顕すときに着用されるのは薄墨色です。
また、伊勢神宮や色々な場所への勅許が下される場合、各種色彩に施された詔書(用紙)が下されますが、
最高神を祀る社である伊勢神宮への詔書の色が薄墨色であります。
つまり、宮中でも特別な意味を持つのが「薄墨色」なのです。
2014
:
犀角独歩
:2006/05/10(水) 17:07:23
探したら、石山で七百遠忌の時にもらった散華が出てきたので、日蓮宗のものと並べてみました。
右が日蓮宗、左が石山。描いてあることに違いはありますが、その形は、そっくりです。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html
2015
:
ミカ
:2006/05/11(木) 00:22:43
犀角独歩氏へ。
暖かいお言葉ありがとうございます。
犀角独歩氏の「本門戒壇の大御本尊」の書籍を紹介したかいがあります。
顕正会の掲示板では、散々に言われておりますが、いくら騒いでも、証拠を持って反論証明できないのが現状であり、なにを言われても説得力がないと思っております。
顕正会員として、会長の発言矛盾等指摘しても、何の回答も反応も出来ない、同じ会員としては情けない限りです。
私もこちらに参加して反論でもと思いましたが、次元が違いすぎて無理なので、閲覧専門になります。(汗)
こちらの顕正会のスレットでも、反論できる余地が恥ずかしいですが、微塵もございません。
私信の板汚しになって申し訳ございませんが、ご了承の程お願い申し上げます。
2016
:
なし
:2006/05/11(木) 01:05:14
>2007
失礼だとは思いますが、お許しを、削除は受け入れますので
お説を疑問に思うことはあるのですが議論などとてもできないのです。
散華の写真ありがとうございます。左右が逆では?
大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。
世間と出世間とを同列視して飛躍した譬えのように思います。
世間の人は僧の中身より位階に平伏します。出世間に住しながら行態、思考が世間気の僧も数多見かけます。
仮定の上でなんですがセンダラが子と国師の両極の気位をお持ちの聖人、下賜をそのまま応諾されるでしょうか。階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。 勝手な想像です。
>日蓮手製の持仏、
海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。
信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。
波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。
2017
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 01:45:07
なしさん
散華の写真、たしかに左右逆でした。
>大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。
先の資料からするとそういうことになりますね。
> 世間と出世間とを同列視して飛躍した譬え
そうでしょうか。僧侶というのは、何時の時代にも日本では、国家認可ですよ。
日興にしても、四十九院の供僧でしたし、日目その他にしても、自分の領地を持っていたわけです。そんな歴史は知りませんか。まさか、坊さんは、供養だけで食べていると思っていますか。
> 階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。
では、なぜ公卿の弟子が多いんでしょうね。新田卿の日目、日尊みんなその類ではないでしょうか。また、出世間といいながら、日興は公家天奏しない、いや、できなかった。武士の出身だからでしょう。しかし、日目、日尊はできました。出身が公卿だからでしょう。(まあ、大雑把な表現ですが)
ここで問題です。では、日蓮が「センダラ」の身で、国家祈祷をできるんでしょうか。日蓮にその気があっても、当時の日本社会構造はそれを許さなかったでしょう。そんなことは日蓮は百も承知で、立正安国論ではないでしょうか。つまり、日蓮の出身には謎があるということです。
では、国師とはどういう意味か? あの当時、民衆凱歌なんかありえません。国家祈願、本門戒壇、それが階位なくしてできるなんて、非現実的な議論でしょう。
現在の民主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。
>>日蓮手製の持仏、
> 海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。
この点は、つい最近、投稿し、れんさんの補完も受けたことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/1972-1973
> 信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。
当たらずとも遠からずでしょう。
その個人用の隋身仏を日蓮も持っていた問い事です。
> 波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。
そうですね。しかし、これは釈迦立像建立が離山の理由ではなく、(多分、日蓮手製の)隋身仏が持ちされたからといって、第二転、つまり、その身代わり複製を建立したことに対する抗議、さらに日興は仏像は一尊四士であるという持論を持っていたので、一体仏であるという、以上二つの理由から、これに抗議したことでした。以下、その文献です。
「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」(原殿御返事)
刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。
2018
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 01:46:37
【2014の訂正】
誤)右が日蓮宗、左が石山。
正)左が日蓮宗、右が石山。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html
2019
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 02:01:55
【2017の訂正】
誤)現在の民主儀
正)現在の民主主義
2020
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 02:33:34
持仏は、日蓮手製であること
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenteseinobutuzo.html
2021
:
なし
:2006/05/11(木) 06:39:41
>現在の民主主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。
ご指摘のとおりですね。ありがとうございました。出家の原点はことごとくを捨て去る事から始まると思っていましたが
世の中は認めてくれない。優秀な僧侶にはジレンマもあったでしょうね。 大甘でありました。
聖人手製の持仏、証拠の提示ありがとうございます。伝承鵜呑みはあぶない。
波木井氏の釈迦像建立についての文献提示ありがとうございます。よくわかりました。
御文は強い、後世に残すことに尽力された日興上人のご功績は計り知れない。有難い事です。
>刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。
心しているつもりです。
恥のさらしついでにもう一つ。
独歩さんの日目上人の評価が気に入らないのです。聞くところではば問答第一であられたという。
天奏でお尋ねあった時、問答に詰まってはお話にならないのでは。
2022
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 10:36:59
なしさん
まあ、気に入らないと、言われても困ります(笑)
さて、この「問答第一」「天奏」という2点に就き、あなたの思いは矛盾していませんか。伝説によれば、日目は42度の天奏を行ったといいますね。(『五段荒量』等)最後は美濃で臨終されたわけですから41度ということになりましょうか。41度です。では、あなたがいうとおり、問答第一ならば、そこで問答がされ、相手が納得しなかったのならば、これでは、まるで問答第一ということになりませんが、どうでしょうか。
さきにれんさんが、日目に取り立てた教学的な特徴を見られないのは、むしろ、日蓮、また、日興の教えを忠実に継承したからではないか、顕正居士さんがご指摘されるとおり、特に著書が伝わらないわけです。それでも、日目の様を伝える伝記は古く、『御伝土代』に見られます。
「大聖仰せに云く。卿公問答せよ…聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云」
この記事を見る限り、日蓮は、日目の問答能力を高く評価していたことが知られます。また、これは『家中抄』日目伝では「小日蓮」さらに「肉牙」問答第一の証に脱けた歯を下す(御肉牙)へと潤色されていきます。このようなところから、日目の問答第一の伝説は出来上がって言ったのでしょう。
わたしが日目の教学力に疑義を唱えたのは、問答第一という側面ではありません。概ね二つです。一つは、日目は日興在世の時から既に本尊を認めています。これは石山流の師弟の筋目に反しないかということです。もう一点は、日蓮の漫荼羅は「書写」の二文字がないことは、当掲示板でも話題に上ったことで、これは本尊書写のとしては、ルール違反ではないのかという点です。問答についてではありません。
問答というのは、勝ったほうが教学力も、信心もあると看做されることになりますが、わたしは問答の勝敗と、述べる教学の是非は別問題であると考えます。単に口がうまく、場を握れば、問答には勝つことができるからです。その好例が半世紀前の小樽問答の創価学会の勝利です。ここでなされた問答内容の学会側の主張はまさに噴飯ものですが、しかし、見かけでは学会の圧勝ということになります。しかし、その勝利に際し、主張された内容は、少しも日蓮の教学といえるものではなく、「本門戒壇の大御本尊」も偽物でした。
日目が問答第一であったか、懐く教学の日蓮を継承したものであったのか、今のところ、資料が乏しくその落着は困難であろうかと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、なしさんは、一つの固定観念に基づいて天奏を考えているのではないでしょうか。それはつまり、問答が巧みで天奏して問答して朝廷を納得させれば、日蓮の教えに帰依する。これがまず、言われてきた物語を鵜呑みにしてしまったことによる判断の誤りの第一です。
当時のの事情、文献をから考えるとき、天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう。
ですから、日目が問答第一であったかどうかと、天奏とは、直接、脈絡のないことであるとわたしは思いますが如何でしょうか。
2023
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 13:19:49
2020に就き、「船守弥三郎許御書にある」というメールを頂戴しましたので、ご本人の許可をいただき、その後指摘を紹介させていただくと共にこの点を記します。
『船守弥三郎許御書』に「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事」(定230)
この一節から、持仏は海中出現であるというのが、その反論でした。
わたしは、これを類推解釈であると思うわけです。「仏体」とあって、仏像とはないからです。
同御書は真蹟を遺さず、その内容からとても日蓮の真筆とは思えません。しかし、仮にここに記される出現の仏体という伝説が事実であったとしても、それが直ちに仏像であるということにはならないと考えます。
むしろ、ここで日蓮がたまわったとするのは、「海の定木」であり、それを仏像に刻んだゆえに仏(の)体としたという類推は成り立ちます。
漫荼羅正意論からは見えない日蓮の伊東流罪の心情があります。
当時は、当然、漫荼羅図示を日蓮は始めていません。日蓮が伊東で実際に過ごした場所はどのようなところであったのか、憶測の域を出ませんが、幼少より仏教に慣れ親しみ、虚空蔵菩薩に願もかけ、弥陀仏を簡んで釈迦を崇めた日蓮は、仏教の僧侶として、当然、仏像は崇敬の対象であったでしょう。
しかし、流人として流された日蓮の寓居は同宇ではなかった。当然、そこには仏像もないような場所であったのだろうと想像できます。
漫荼羅正意論者が、家に本尊がないことを寂しく不安に思うように、仏教僧として、仏像のない場所での暮らしは、どれほど、心細いものであったのか、わたしは、そんな流地伊東で流人の身上で日々を送った日蓮を想像します。そこで、海に浮かぶ一木を献上された日蓮は、自らの思いを篭めて一体の仏像を彫り、それを持仏として充て、無仏の寓居で、流罪を越した…。その苦しみを共にした手製の持仏を日蓮は、終生、大切に身に帯し、死んで身延に墓所を希望するに及んでも、身が荼毘に付されて骨となっても、その辛苦を共にした持仏を墓の傍らに置いて欲しいと願ったというのが、その日蓮の心情であったのではないでしょうか。
この持仏彫刻の伝承は、しかし、重須文献に見られる富士方が護るところであったのに、その後、徐々に漫荼羅正意に傾いた門派では、日蓮が自ら仏像を彫ったという伝説はまことに都合が悪いところであり、ゆえに今日では文献が残っているのにもかかわらず、語られるところがないことになったのであろうとも思えます。
いくえにも日蓮の痛みが伝わる顛末であると、わたしには思えます。
2024
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 13:42:09
ところで、この海中出現仏像伝説というのは、日蓮門下に限らず、むしろ、他で先行して、その物語があります。
なぜか、仏像の海中出現の仏像の伝説は古今東西に聞かれるのですが、こんな物語の延長で船守弥三郎献上の海中出現の仏像伝説も紡がれたのであろうと思われます。
彰往考来さんが得意とされるテーマと感じます。
「推古天皇36(628)年に土地の漁師、浜成・竹成の兄弟が投網で聖観世音菩薩像を海中から拾い、土師真中知が居宅を寺として奉安」
http://masuda91.hp.infoseek.co.jp/page07b.html
「白鳳元年3月15日、この地の漁船が八幡浦で難風に遭ったとき、荒れる海中より出現した阿弥陀仏像を、船にお載せ」
http://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4088_muryoji.htm
「閻浮檀金釋迦如来像…唐代貞観十九年(646年)
下関赤間ヶ渕の海中出現の金像」
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/y04/0409taka/jihou.htm
「普賢寺は平安時代、寛弘3年(1006)の創建で、開山は播州書写山円教寺の性空上人(910〜1007)といわれる。本尊の普賢菩薩像は海中から出現したという生身の霊仏」
http://www.kvision.ne.jp/~h-kanko/new-hp/bunkazai.htm
貞和3年(1347)「柴村の漁師が海中にまばゆいばかりの光を放つ物を見付け、村人たちは光をたよりに恐る恐る網を入れた。と、その光の主こそ、大津波のとき身替りになった長浜の観音さまだったのである。
長年、海中に沈んでいたためカキ殻が一面に付着。村人は「貝付<かいつき>観音」といい、別に「海中出現の観音」とも呼んだ」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/21/21.htm
「応安元年(1368)妙謙和尚によって、開かれたといわれ、本尊の毘沙門天は、行基の作と伝えられています。この毘沙門天は、海中出現の像」
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-MIURASI-B.htm
「済鱗寺…1570)に海中より出現の阿弥陀仏像を本尊」
http://www.kcc.zaq.ne.jp/sitihukujin/sairinnji.htm
等々
2025
:
藤川一郎
:2006/05/11(木) 16:13:03
京都のIH法衣店にて、法衣の作成をする場合、一番出しにくいのが「薄墨色」だそうです。
一見逆のようですが、この微妙な色は出すのが難しい。
ネズミ色は簡単に出来ますが、薄墨色は難しく手間もかかるそうです(同一ではありません)。
一見派手な色の方が、染めが簡単だそうです。
だから究極の薄墨色の衣を作るとすると、最大の金額の物も作れるのですが、残念なことに日蓮正宗ですらそこまでの法衣は作ってくれないそうです。
それを宮中御依頼で作成するのが、数十年に一度だそうです。
2026
:
れん
:2006/05/11(木) 19:14:12
なしさん、初めまして。
目師の教学については、独歩さんのご指摘の通り、目師自身の著作は殆どなく、目師による日蓮聖人の御遺文の写本も、一代聖教大意(保田妙本寺蔵)・法華経題目抄(柳目妙教寺蔵)・四信五品抄(富士大石寺蔵)・法華取要抄(富士大石寺蔵)が伝承されるのみです。もっとも四信五品抄については奥書に「弘安元年五月二日」とあり、日蓮聖人在世、恐らく身延山での書写でしょうから、日蓮聖人から、この書の法義について何らかの教示を受けた可能性の推定は可能でしょう。ともかく目師が自身の日蓮聖人の教学に対する認識を披瀝した文献は現存しないので、現在、独歩さんが要約してくださった視点に落着しています。
一応の参考資料を提示すれば目師の孫弟子の郷門の日叡師の類聚記には「大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承ハ弘安五年正月一日也云々」とあり、また同師の後信抄に「師傳ニ又本佛、本戒、本尊等の大事アリ、可秘可秘」とあり、上記の法門伝授が行われたことが上代目師門下に確認出来ます。道師門でも、大同の法門が伝承されていた模様でこちらは耳引法門として纏められたようですね(石山三十一代日因師の三四月会合抄に引用される日目直授相承〈三口一徹の相伝〉はその一部分の可能性があるかもしれません)。ただし郷門のそれは貫首一人の秘伝というわけではなく、日叡にも伝承されていた訳ですから当器伝授という位置付けだったと思います。
目師の問答については、日叡師の兄弟の慶俊師の写本を底本としたという戦国期の写本を翻刻した「問答記録」にありますね。目師筆の本尊には、現在公開されている三幅の御筆写真には「書写之」が記されてないのは、どういうわけによるものか、釈然としないものがありますね。まあ、図顕といった意識の方が強かったのかもしれません。
2027
:
なし
:2006/05/11(木) 20:01:41
先ほど帰ってきました。とりあえず1行だけ
お会式で読まれる申状はどんな位置づけなのでしょう。
2028
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 21:48:18
れんさん
つぶやきで、やや議論になってしまいますが(笑)
『百五十箇条』に「三箇秘法とは日蓮日目と御相承し・日興聖人は唯授一人の相
承たる間、我が臨終の時・耳にさゝやげと仰せられけるほどに・其の剋に御耳にこそ唱へて聞せ奉り御座す事なり、大聖より御聴聞有る故にこそは日朗の「卿公は御法門聴聞」とて強くも目の耳を引きたまふ日朗の耳引法門とは今の三箇のいはれなり、此の時は日蓮・日目・日興と次第し、御付法は日蓮・日興・日目と次第するなり、此の三箇の秘法は当宗の独歩なり」とあります。
この文章を信頼する限り、耳引法門とは、臨終に囁く三箇の秘法であり、これは、蓮目興の次第であるけれど、付法となると蓮興目なのだという趣旨です。
この辺のところは、内心ではまだまだ決着していないのですが、以前の話し合ったことかと存じますが、蓮目直授という相承譜は、あるめん、洛の始原であると思うのです。しかし、これが天文法難以降、寺院拠点を喪った洛中では、その復興に際し、権威を富士に求めたところ、その頃には既に蓮興目の次第が定着していた。そこで、上古の蓮目尊という直授相承観と、蓮興目の相承観の整合性を諮る必要性が迫られたということはないでしょうか。
もう一点。わたしはどうも耳引法門という点の判断に迷いがあるわけですが、上記の文献にいう説明というのは至当なものとお考えになりますか。
2029
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 21:51:06
> 申状はどんな位置づけ
認可嘆願書といったところではないでしょうか。
お会式のといことなので、一言しますが、これを法要で捧読するようになったのは、日精の時代ではありませんでしたか。その際、申状が存在しない歴代のものをいくつか作って補填したということでしたね。
2030
:
れん
:2006/05/11(木) 23:00:01
犀角独歩さん
やはり突っ込まれてしまいました(笑)
御引用の文は百五十箇條ではなく、左京日教が石山転派後に著述した穆作抄ですよね。左京日教が富士に転派する以前の著作の百五十箇條では、「法門の大事・三箇の秘法を授け玉ふ日興」と記して、三箇秘法を日蓮が授与したのは日興という設定で、こちらが当時の尊門の伝承と思います。日教が富士に転派してからの著作には、日蓮が三箇秘法を授けたのは日目としている訳で、こちらが日教が帰依した当時の三箇秘法に関する石山義だったと思います。上古の尊門の系譜観は百六箇の奥に垣間見えるようにむしろ蓮興尊で、蓮目の直授相承観は富士山麓の目師門程には色濃くなかったと思えます。日教は石山日有とほぼ同時代に活動した天文法難以前の人で、石山に帰依してから三箇秘法については以前の蓮興直授の主張を捨て、蓮目相承を主張したので、整合性を諮るというという意図が日教にあったか否かは、私には分かりません。
石山日有の言では、石山で蓮目直授とされる耳引法門を文献化したのは六世日時だとするわけで、御提示の日教が穆作抄に記した耳引き法門にかかるエピソードの設定は、日有の言を補完するものではありましょうね。このエピソードの設定は、おそらく日時が四帖に記したものがネタ元だと思います。
堀日亨師によれば現在要山に所蔵される日蓮在世に日興が書写した観心本尊抄の写本は後世に石山が要山に与えたとのことですから、私の根拠の無い勝手な想像ですが、上古石山においては、石山にあったという観心本尊抄日興写本が、蓮興目の相承観に使われていた可能性はあると思います。
以上のことから、日教の穆作抄の耳引法門に関する説明は、当時の石山の主張を示したものとしては至当と判断しております。
以上ご参考まで。
2031
:
なし
:2006/05/11(木) 23:36:19
>> 申状はどんな位置づけ
>認可嘆願書といったところではないでしょうか。
目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。
小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。
2032
:
犀角独歩
:2006/05/11(木) 23:58:23
れんさん、ご批正、有り難うございました。
たしかに『穆作抄』でした。どうも、最近は耄碌したせいか、すぐに間違います(笑)
れんさんと議論の始まりは、『四帖抄』でしたね。空き缶さんや、現時点さんとの、この件に関しては賑々しく議論しましたね。
わたしは、四帖と聞くと、やはり、慶林日隆を想起するのですが、石山では、そうはならないわけですね。「四帖の聖教」というのは、当時、回達された『四帖抄』にあやかって、悪くいえば、パクって付けた名前ではないのかと、わたしは思ったりするのです。富要で見る限り、この語彙は『有師談諸聞書』でしか、確認できません。相変わらず、歴全を所持しない怠慢なのですが、確実な資料として、この初出というのは一体いつ頃のことになるのでしょうか。
後付で日時に仮託すれば、日隆に先行することになりますが、日有であれば、受け取った張本人以降ということになります。日精に依れば受け取ったが読まなかったというけれど、そんなことはないでしょう。面白いともうのは、『四帖抄』を受け取ったのが、日有であるというのは、日蓮門下一般でも通説になっていて、その他の人の名が上がらないことです。それで、石山は勝劣義というわけですから、影響がないとは誰も思っていないわけです。
関連するかどうか分かりませんが、耳引法門といえば、三箇の秘法で、『三大秘法抄』も日時本があると主張してきたのも、石山。どうも、日時となると疑わしい気分になるわけです。
この辺り、れんさんは、どうお考えになりますか。
2033
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 00:07:00
なしさん
「正法を崇められんと請ふ」というのは嘆願以外の何でしょうか。
> 問答…簡潔、痛烈な一矢
それはあなたが考える問答でしょう。
では、逆に聞きましょうか。日目の申状のどこに痛烈な一矢があるのでしょうか。そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)
2034
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 00:09:12
それから、なしさんに一つ記しておきますが、れんさんもあなたに話しかけ、記して下さっているわけですし、わたしも時間を割いて、レスをしています。
それなりの儀礼を以て、応じる矜持を示せないのであれば、他のバトル系のBBSでやればよろしいのです。
2035
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 01:06:43
日目四十二度の天奏は後付の伝説か?
いま、ざっと検索してみたのですが、日目の四十二度の天奏は、古い資料で『五人所破抄見聞』の「日目上人四十二度の天奏」、『申状見聞』の「目上は一代の間四十二度の御天奏」といったところです。日目寂から、150年ほど、あとの伝説ということになります。
わたしが、日目の天奏に就き、許認可嘆願の類といったのは、その結末が日尊が代奏した結果、土地を賜って、一宇建立したのが上行院であるからです。
この史実は、死身弘法であるとか、国諫という語彙のニュアンスからほど遠いではないかと思うからです。
ただ、これは日尊のみのことかといえば、その他の事例も大同小異という印象があります。
また、申状を受けた側も、他宗他派を斥けて日蓮法華一宗を採ったなどということはなく、常に複数の宗教を是認しているのが、為政者の常でした。新興宗教の代表者が朝廷その他に謁見を求め、内裏に上がるのに、諫めの目通りが適うなどということは、実際上、考えづらいところです。むしろ、やや穿った見方をすれば、このような目通りには、その斡旋、紹介者を含めて、巨額の資金が動き、むしろ、主眼はそちらに傾きやすい面があったのではないのかと想像します。
中世の不受布施派のように、謗施、謗法与同、破邪顕正といった趣きの国諫が実際になされたとすれば、そのレスポンスは、日蓮と同様、法難流罪といった形となったでしょう。ところが、日目にしても、日尊にしても、そうはなっていないわけです。
申状とは「個人が公に差し出す上申書。申文ともいう。または日本中世における訴訟状。本解状・目安。所領等の争いにおいて安堵を要請する原告者の訴状」(日蓮宗事典)というのが、本来の意味ですから、国家諫暁書を直ちに意味すると考える点にわたしは疑問を懐いているということです。
なお、各師の申状の文面は定型化しており、それはつまり、現代の法令書式一般のように、一定の決まりに基づいて書かれたことを意味するのだと思います。
2036
:
なし
:2006/05/12(金) 03:27:01
れんさんからご挨拶をいただいておりながら大変失礼いたしました。
れんさんの書き込みの詳細部分、私にはレベルが高すぎて何につながっているのかは実はよくわからなかったのです。ご指摘を受け何度も読み返して目師の著述に関してのご教示でありました。れんさんすみませんでした。
わたしは」日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです。加えて頭頂の凹むご奉公、身延で「聖人の御説法を聴聞せずということなし」これによって習学せざることも亦よく暁了したまえり----。亦予の伝奏の代として二度流難三度の高名これあり----,亦巧於難問答に達せり---伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる、---、と
これらをもって著述が少ないことが何の不足になるだろうかと思っています。
独歩さん、短文過ぎて誤解をあたえてしまったようですみませんでした。
>認可嘆願書といったところではないでしょうか。
目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか。
この質問は独歩さんの以下の記述を受けてのものでした。
>天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう
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日 目 上 人 申 状
日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。
殊に天恩を蒙り、且つは一代説教の前後に任せ、且つは三時弘経の次第に准じて正像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請うの状。
副え進ず
一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文
一通 先師日興上人申状 元徳二年
一、 三時弘経の次第
右、謹んで案内を検えたるに、一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意(ぶっち)に任すベし。三時の弘経は則ち如来の告勅なり、進退全く人力に非ず。
抑、一万余宇の寺塔を建立して、恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社壇を崇めて如在の礼奠怠懈しむることなし。然りと雖も顕教密教の護持も叶わずして、国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験(しるし)なく、自他の反逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思い難し。倩(つらつら)微管を傾け聊(いささ)か経文を披きたるに、仏滅後二千余年の間正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三つあり、所謂法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。之を信敬せらるれば、天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり。就中我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず。三界は皆仏国なり、仏は則ち謗法を誡む。然れば則ち爾前迹門の謗法を退治せらるれば、仏も慶び神も慶ぶ。法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え国も栄えん。望み請う、殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を棄捐せられ、一乗妙典を崇敬せらるれば、金言しかも愆(あやま)たず、妙法の唱え閻浮に絶えず、玉体恙(つつが)無うして宝祚の境え天地と疆(きわ)まり無けん。日目先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ。誠惶誠恐謹んで言す。
元弘三年十一月 日 目
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独歩さんは答えとして「請うの状」をあげられました。嘆と請う
申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません。
二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。
小樽問答あれは吊るし上げでしょう。問答に饒舌の必要はないと思います。
簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います。
問答について小樽問答を出されましたので感想と問答の要点を述べたまでです。
「伊勢法印と問答したまうときも一両句にて閉口いたされたる」を連想してのことだったのですが。
なぜか「出て行け」とお叱りを受けました。まもなくお暇いたします。
お叱りを受けて一本指で一所懸命に書きました。御寛恕を。
2037
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 09:37:44
なしさん
わたしは「出て行け」と記したのではありません。
せっかく、れんさんが声をかけてくださり、長いレスを下さったのだから、挨拶を返してしかりである、そのようなことが出来ないような無礼な態度はこの掲示板に馴染まない、挨拶も出来ないのであれば、他のバトル系の掲示板にいってはどうかという意味で記したのです。しかし、ちゃんと、2036に挨拶をされたのですから、その限りではありません。
なお、2036では、先の投稿内容を繰り返しています。これはたぶん、先の投稿が短文で誤解を招いたので、それを補完して繰り返したのであろうと思います。しかし、この同一内容の繰り返しは、当掲示板では投稿規約に抵触します。
「4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。」
特に管理者さんから注意がないので、今回は看過しますが、よく『当掲示板への書き込みルール』を熟読されて、投稿されては如何でしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/
#13
さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。
> 日目上人に教学の著述が少ないことには興味がありません
あなたの興味は、関係ありません。
事実証拠がなければ実証されないということです。
> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです
該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一
わたしは先にも記した際に小樽問答を上げましたが、これは問答ではなく吊し上げだというのがあなたの反論でした。では、この問答と、称賛したのは誰でしょうか。大石寺一山ではありませんでしたか。あなたがどのような信仰者であるか知りませんが、文面からすれば、小樽問答を批判する側であるということは、この点については当時の石山を批判する立場にあるということですね。その点ではわたしは同意しますよ。
2038
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 09:38:17
―2037からつづく―
しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二
> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか
この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。
1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。
こ・う こふ 【請う/乞う】
(動ワ五[ハ四])
(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)
日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。
日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。
> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません
ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。是三
2039
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 09:38:47
―2038からつづく―
またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四
> 二度流難三度の高名
これが日目とどのような関係があるのでしょうか。日目の事跡であると勘違いしているのでしょうか。日蓮の伊東、佐渡の二度の流罪のことでしょう。三度の高名とは『撰時抄』の以下の文章を指すのでしょう。長いですが、コピペします。
「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には、去し文応元年〈太歳庚申〉七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。この事を御用ひなきならば、この一門より事をこりて、他国にせめられさせ給ふべし。二には、去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には、去年〈文永十一年〉四月八日、左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。もし大事を真言師調伏するならば、いよ球究いそいでこの国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。この三つの大事は、日蓮が申したるにはあらず。ただ偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く、「所謂諸法如是相」と申すは何事ぞ。十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。「智人は起をしる、蛇はみづから蛇をしる」とはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始しは、日本国には一稀一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道はこれよりほかにまたもとむる事なかれ」
その迫力といい、身に法難を呼び起こした実際といい、まさに国諫というに、相応しい内容です。日目の定型文とは、比較になりません。
> 問答…簡潔、痛烈な一矢でいいのではと思います
先に記したとおり、そのようなものでは、何の役にも立ちません。
以上、あなたが個人的に日目を崇拝するのはけっこうですが、ここでの議論は、実際の証拠を挙げて、事実を追求することに目的があります。日目崇拝の押し売りはなじみません。押し売りでないというのであれば、上述したわたしの記述を拾い読みしたり、一部をつまみ出して反論するのではなく、事実証拠を付して、一々に議論に臨むことが望まれます。
2040
:
れん
:2006/05/12(金) 10:38:24
犀角独歩さん
石山の四帖については、公開されていないですし、不現存説もありますので、内容を確認出来ない以上考証はできませんが、独歩さんのおっしゃるとおり、日有が日隆から渡された四帖抄にあやかって、または触発されて、当時の石山義を纏めた書である可能性も否定できませんね。石山蔵の三大秘法抄の古写本は、戦後発見され、発見当時は日時筆とされたものの、近時の興風談所の研究と筆跡鑑定により日時筆は否定され、筆者不明本(日主の署名花押が別の箇所に見えることから、日主所持本と考えられています)とされていますから、三大秘法抄と日時の繋がりは、無いとは存じます。
石山の四帖が日時の真書と仮定したとして、私の推定では、三師伝も、四帖の一部では…と想像しています。宗祖伝(一帖)日興伝(二帖)日目伝(未完ですが一応三帖)、残りの一帖に耳引法門を含む当時の石山義が記した…という推定です。まあこれについてはこれといった根拠は全然ないので、お気になさらずにご笑覧ください。
2041
:
れん
:2006/05/12(金) 10:49:49
追記
石山の四帖や耳引法門の初出はやはり、文献的には、日有の例の富要収録の雑雑聞書ということになりますね。年代は特定できませんが、まあ、有師老年の頃すなわち室町中期と仮定すればあたらずとも遠からずであろうと存じます。
なしさん、ご挨拶痛み入ります。私については、そんなにお気になさらずに結構です。目師に限らず上代富士門とくに石山は教義についての文献が少なく、考証が困難です。ですから、答えを早急に出すのではなく、ここでの皆さんの議論を拝聴して、一通り勉強してから結論を出しても遅くないと思いますよ。
2042
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 11:22:02
れんさん
ご回答、有り難うございます。
> 石山の四帖…公開されていない…不現存説
かさねての問で恐縮ですが、つまり、石山は、条々事や、示書のように真筆があるという主張があるのでしょうか。
この“帖”というのは、いまでいう和綴じ本の体裁を言うとのことでした。
これまた、何で読んだのか失念したのですが、日隆以前では巻本が主流で、帖と綴じられた本がなかった。故にいわば一種の出版革命の趣があり、大いに興隆したということでした。この手のことは、多分、彰往考来さんがお詳しいと思います。
申すまでもありませんが、四帖抄とは『法華天台両宗勝劣抄』。
つまり、四帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが、そのような類推です。
2043
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 11:38:19
2042の自己レス
帖(じょう)というのは、辞典で調べると、和綴本ではなく、折り本を意味するのですね。
どうも、あぶなかっしい記憶のようです。
どなたか補完していただければ有り難く存じます。
2044
:
顕正居士
:2006/05/12(金) 15:02:39
「帖」は折本、つまり屏風のようなものです。源氏物語は54帖です。
四帖というのはそれが四つという以外の意味はありません。
2045
:
れん
:2006/05/12(金) 16:21:05
犀角独歩さん
今から十年程前に、石山で刊行した蓮祖の真筆影印集について同山に問い合わせた際、話のなかで、時師が石山の法門を纏めたものがある…というようなことを聞いた記憶があります。それが有師の言う四帖にあたるのか、また別物なのか、本当に時師筆なのか否かも存じ上げません。
まあ、石山にはそのようなものが有るらしい?という程度の認識です。
2046
:
れん
:2006/05/12(金) 16:23:51
追記
不現存説は、大黒師編「日興門流上代事典」によります。
2047
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 16:49:42
顕正居士さん
そうしますと「四帖抄」とは、どんな意味になりますか。
折本4冊でよろしいでしょうか。
れんさん
有り難うございます。
それにしても、近代以降の石山では四帖も、耳引もいわれなくなりましたね。
散失してしまって「猊下」もご存じないと言ったところでしょうか。
2048
:
顕正居士
:2006/05/12(金) 20:32:56
>>2047
折り本四部の著述という意味に過ぎず、日隆の抄とは無関係でしょう。
巻子本の次に行われた製本ですが、平安時代からです。経本は今もこの形です。
一帖抄、二帖抄、八帖抄、三帖和讃、観経四帖疏、古今六帖…。
帖数で呼ばれる著述は多いです。
製本の歴史
http://www.tokyo-seihon.or.jp/seihon/history-1.html
2049
:
犀角独歩
:2006/05/12(金) 21:57:38
顕正居士さん
ご教示有り難うございます。
どこかでたしか、帖としたことが、功を奏したといった記述を読んだのですが、いまは思い出せません。たしか日本への輸入も仰るように折本は中国には、かなり早い時期にあったようで、であれば、平安期に日本にあって然るべきかと存じます。ただ、「日蓮門下では」ということでもあったような。しかし、いまはこれまでといたします。
それにしても、日隆は「著述は古来三千余帖と伝えられている」(『日蓮宗教学史』P113)のに、取り分け、そのなかで四帖抄、一帖抄と切り出されていることに不思議を感じます。
2050
:
犀角独歩
:2006/05/13(土) 12:06:55
2039のわたしの応答に対して、なしさんからはいまのところ、返答はありませんが、もう少しだけ、申状ということについて、記しておきます。
日蓮が、鎌倉で布教をはじめようとしたとき、『立正安国論』を上申しました。
日蓮滅後、6人の派祖たち、また、その系脈に係る人々は、主に京に向けて申状を提出していったわけです。門下一般では、これを「国諫」と称し、捨邪帰正、一乗法華経帰依の旗印のように論じられてきました。
しかし、わたしは、この説明は、どうも納得がいかない。なぜならば、為政者というのは、常に複数の宗教者、複数の寺院を認めていて、ただ一つに帰依するなどということはなかったからです。
申状…、というより、国諫?と言われた行動を、わたしが「許認可」と言ったのは、たとえば、日蓮は新幕府の地、鎌倉で布教をはじめるのに上申をした、また、その門下は、やはり、日本の中心地である京都に向かい、上申をした。その内容は表面的には確かに自己正当の主張であったけれど、詰まるところ、為政者、国王に自分たちの教えが正しいことを認めてもらうことに主眼があった。これは結局のところ、布教基盤の確保、自己存在の確保という主眼があるわけで、つまるところ、現在の宗教法人の許認可とさほど、変わらない行為であると映じるからです。
しかし、取り分け、そのなかで、近代の国家神道のように、もしくは伝教当時の比叡山のように、その主導権を自らが握ることに主眼が置かれれば、その許認可内容はさらにランクアップしたものとなる、従来の主導権を握る、宗教権威に自らが取って代わる第一歩は、まず、弘教の認可の確保であり、次には為政者、国王の帰依、ついには、日本一国の宗教的主導権の掌握という概ね三段階を、日蓮は想定していたし、また、その意志を継いだ六弟子も標榜した。日蓮が密事とした本門戒壇構想もそんな一環にあったのではないのかとわたしは考えます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
時代を遡れば遡るほど、宗教というものは呪術性というか、祈祷的側面が色濃かったわけですが、その性質はいまの言葉で言えば、「国家安全保障」の、霊的というか、神的というか、ともかく防衛の一環を、実は担っていたわけです。
近代でも、他国が責めてきても、神風が吹いて日本は守られると、本気で信じていたのが日本人でした。ところが、東京中心に都市に無差別爆撃をし、非戦闘員を大量殺戮されたうえ、ついには、2度までも原爆を落とされたわけです。ここに日本人の神風信仰は潰えたのでしょう。
結局のところ、日本の戦後というのは、この手の霊的防衛論からの卒業にあったわけです。日蓮滅後から、近代日蓮主義は敗戦で、ようやくその終焉を迎えたわけです。ところが、いまの顕正会の類は、この幻想をいまだに懐いて、高校生を中心に仏教の右も左もわからない不勉強な連中を誑かしているわけです。
いずれにしても、日目が本当に42度も天奏をしたのだとしたら、高名3度で流罪2回の日蓮のような眼に、どうして遭わなかったのか、日尊はどうして、京に代奏ののちに上行院を持ち得たのか、朗門に目を向ければ、どうしても日像に菩薩号、日蓮は大菩薩号を下賜され、それでも、一国帰依でなかったのか、という歴史的事実と照らし合わせたうえで、国諫?であるとか、申状というものを再読してみれば、その本来の意味するところは、冷静に、客観的に判断できることになるだろうと思うわけです。
まあ、返答がなくても、つぶやきということです。
2051
:
れん
:2006/05/13(土) 17:54:25
犀角独歩さん
>2047
近代以降の石山…四帖…耳引もいわれなくなりましたね。散失…「猊下」もご存知ない…
独歩さんの仰るとおりですね。耳引との関連が予想される“日目上人直授相承”については、石山三十一代日因の三四月会合抄上巻に引用され、安政六年成立の大石要法血脈問答にも「唯授一人極秘の御大事とは大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承と聞く」(富要第七巻10ページ)とあり、日目直授相承=三口一徹の相伝の存在を金口相承と並記しており、江戸後期まで確認できますが、近代以降は四帖も耳引も、目師直授相承さえもいわれなくなりましたから、独歩さんの仰るとおり、すでに散失してしまっていて、“猊下”ももはやご存知ないというのが真実かもしれません。
まあ、日有の頃の石山義における三箇秘法を左京日教の著述からみますと「当家には本門教主釈尊・本門戒壇・南無妙法蓮華経の広宣流布あるべき事の三箇の秘法と申すなり」(類聚翰集私)「三箇の秘法とは仏と土と教法なり」(日辰の造読論議に引用される大石寺顕応房=左京日教が会津実成寺泉養房へ宛てた消息文)ということになるのでしょうね。当時の石山ではこの三法門についての教義は日蓮から日目に伝承されたという主張していたということですね。
なお郷師の門下の日叡の後信抄に「本仏、本戒、本尊」とありますが、本来は、本仏、本戒、南無妙法蓮華経とでもあるべきですが、それが本尊とあるのは、案外、もしかしましたら文永十一年十二月の“大本尊”の図顕讃文を有する日蓮御筆漫荼羅の存在を念頭に置いていたが故かもしれません。日興門流上代事典によりますと日郷書写「万年救護本尊讃文」が日向定善寺に現存し「恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測」(上代事典383ページ)されるからです。まあ、これは私の根拠薄弱な思い付きにすぎないのですが…。
2052
:
犀角独歩
:2006/05/13(土) 23:16:56
れんさん
> 大石寺金口の御相承・三口一徹の御相伝等、惣じて三十三箇の御相承
に該当するものは六巻抄ほか、日寛の公刊されている文献に確認できるものでしょうか。
2053
:
なし
:2006/05/13(土) 23:22:03
遅くなりすみません。
やはり恥の上塗りをやってしまいました。
「予が天奏の代として二度流難三度の高名これあり巳上」を目師を指してのことと勘違いして
二度流難三度の高名これありとは何のことでしょうか。と質問してしまいました。初歩の事なのに恥ずかしい。
独歩さんは申し状をを嘆願書と表現されました。申状には 請うの状とあります。嘆と表現しながら 請うの語意を
示されました。同じ大辞林で「嘆」の語意を示してみます。
【嘆/▼歎】
(1)感心すること。感動のあまり、うめき声やため息を出すこと。「―を発する」
(2)なげくこと。なげき。 「亡羊の―」「髀肉(ひにく)の―」
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
--------------------------------------------------------------------------------
たん‐がん〔‐グワン〕【嘆願・×歎願】
(名)スル事情を説明して、ある事柄の実現を切に願うこと。「助命を―する」[ 大辞林 提供:三省堂 ]
[名](スル)事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。「釈放を―する」 大辞泉
--------------------------------------------------------------------------------
申状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが。請うは矜持を感じます。
独歩さんは天奏の背景には権益取得の狙いがあったされています。
真跡主義をとられる独歩さんが申状の中には一言の記述もないにもかかわらず
弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。と述べられています。
副えられたのは 一巻 立正安国論 祖師日蓮聖人文応元年の勘文 一通 先師日興上人申状 元徳二年 一、 三時弘経の次第です。
日目上人の申状が権益取得を願うという具体的な嘆願であった事実証拠を示す文献をお教えください。
以下、是○の問いの答えを記しました。
さて、日目申状が許認可・嘆願書の類ではないかという点について、説明しましたが、どうも、申状の文のみにとらわれて、わたしの記した意味がわからないようなので、やや補完します。
> 「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」と日興上人は仰せです
該当文章は『日興跡条々事』、日目譲状と称されるところですが、これを日興の真筆だといっているのは石山門下ぐらいのものです。
石山では日興真筆があると主張しますが、本日に至るまで、その影本を見せず、石山僧が論文まがいのものを発表し真筆であると言っているのに過ぎません。わたしは偽書説を採ります。偽書を以て証拠とするは笑止千万。この書は日興の真筆である証拠があればお聞きします。是一
是一の答え
『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません。富士門のいうには「日興跡条々事」を与えられる数日前に、日興上人より「最前上奏の仁、新田卿阿闍梨日目にこれを授与す一が一の中の弟子なり」と脇書のあるご本尊授与があったとの説明を信じるのみ。また文中に他筆もあると解説することは思うに筆跡は鑑定ずみということなのではと。
「日目は十五の歳に日興に値い法華を信じて、以来七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なく----」との日興上人は仰せは事実に反するとは思えません。
しかし、日目の御伝土代に記されるところの問答において、相手が問答に詰まって閉口した。それが、ですから、朝廷に対する国諫でどんな意味を有するのかというのがわたしの問い返しです。意味を持ちますか、そんなことが。是二
是二の答え
早く尋ね聞こし食(め)され、急ぎ御沙汰ある、そんな機会があれば有効に働くのではという程度です。論理が通っても相手が受け入れるかどうかはまた別問題でしょうし。相手がいなければ話にもなりません。
2054
:
なし
:2006/05/13(土) 23:23:47
ー2053つづきー
> 目師の申状のどこに認可嘆願書に該当する文面があるのでしょうか
この点については、既に記しましたが、どうも通じないようなので、やや補足しましょう。読み飛ばさず、一々の記述をしっかりと認識してください。
1.「請う」という言葉の意味は以下のとおりです。
こ・う こふ 【請う/乞う】(動ワ五[ハ四])
(1)ある物を与えてくれるよう、またある事をしてくれるよう相手に求める。
「この道の専門家に教えを―・う」「近日上映。―・う、御期待」「みどり子の乳(ち)―・ふがごとく/万葉 4122」
(2)願いの叶(かな)うよう神仏に祈る。
「天地(あめつち)の神を―・ひつつ我(あれ)待たむはや来ませ君待たば苦しも/万葉 3682」(三省堂提供「大辞林 第二版」)
日目の申状の場合、文面だけで読めば「末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められん」ことのみを請うているわけですが、本当にそれだけが趣旨なのか、というのがわたしの発題です。ですから、わたしが記したことは申状における文章だけの意味ではなく、所謂「国諫」と称された行為そのものがどのような意味のことなのかを記してきたことです。そのうえから、今一度、申状に戻り、読めば、許認可・嘆願を趣旨とした文章なのだろうという意味です。
日目の天奏が本当に42度に及んだのかどうか。この点については、日目寂150年後の書と覚しき『五人所破抄見聞』に載るところであるけれど、上古の文献にそれが見られず、単なる伝説の類、潤色の称賛ではないのかというのが、先に記したことです。となると、実質的に日目の天奏は、美濃の垂井で旅途上で寂した時に、日尊が代奏を果たした事跡に史実が見られる。では、この史実の顛末は、と言えば、日尊は、代奏の巧を嘉見せられ、土地を受け、上行院を建立した。つまり、この史実が示す顛末は、結局のところ、京都における布教の安堵、寺院土地堂宇の下賜ということになっているではないか、つまり、このことが申状の目的であったのだろうというのが、先のわたしの投稿の意味です。
> 申状の内容には弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願はありません
ですから、文だけを読めば、あなたが言うようになるけれど、結果的には、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援にしかなっていないと言っているのです。違いますか。 是三
是三の答え
私は違う思いです、天奏の申状の文面も、副えられたものからして聖人のお心、日興上人のお心と寸分も違わぬものであり、表裏などまったく無いと思います。
天奏途上の遷化を聞き、為政者としては無視はしていてもその労苦は承知のはず、惻隠の情のわかぬはずはない。後に下賜があっても何も不思議ではないと思いますが。
下賜のそれが目的であったなどとは邪推の域であり牽強付会ではないかと思います。
頑固ですがどう読んでも独歩さんとは見解が異なります。
またもし、日目の意志に「国諫」という意志があったのであれば、日蓮のように流罪・死罪に及ばないのかは不思議である。それはつまり、「国諫」と称される申状を上申する行為が、言うほどの諫めを目的としたものではないから、もしくは、相手にされなかったかのどちらかということになる。であれば、問答が巧みであることにならないし、仮に問答が巧みであっても意味をなさないというのが、先のわたしの記したことです。日目が問答が巧みであったことが国諫に何か役立ちましたか。是四
是四の答え
聖人の赦免の例もあり、時の経過もあり、さわらぬ神に祟りなしを決め込んだのではないのでしょうか、勝手な想像ですが。
>そもそも、内裏に通された僧侶が、朝廷に言辞とは言え、痛烈な一矢など放ったら、その場で即刻、頚を刎ねられますよ(笑)
日目上人、元より望むところであられたのでは、。斬首がこわくて天奏などできないでしょう。熱原法難を経験しておられます。竜ノ口では四条金吾が殉死の覚悟を示しました。俗でも法の為なら惜しまぬ命を僧が惜しむでしょうか。
他のお弟子は申状に天台沙門と名乗り幕府の安寧を祈ったやに聞きます。へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。
独歩さんこれにて退散いたします。多くの誤りを指摘していただき、また多くの教示を賜りありがとうございました。しかし、通じもしない論に拘泥されるのは独歩さんらしくありません。
れんさん、後になりましたがご忠告ありがとうございました。私は去年新井田の本源寺に参詣しました。
車で行きましたが遠路でした。目師は奥州へも数度行かれ京への往復も数多く、最後の出発の模様はすさまじいものを感じます。痛む足をひきずり、雪の中お題目を唱えながら歩を進められたお姿は尊く、欲得の世界は離れられていたであろうと拝します。
2055
:
なし
:2006/05/13(土) 23:43:40
書き忘れました。
管理人さんつぶやきすれスレッドのルール違反を謝ります。
削除はおまかせいたします。
2056
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 00:02:27
なしさん
> 状の請うは、嘆とは趣が違うのではと思いますが
どうしてでしょうか。あなたが上げた嘆願の意味がそのまま、申状の文面ではないでしょうか。
> 日目上人の申状…事実証拠を示す文献をお教えください。
わたしがいう真蹟主義は文章だけから示すなどと言う狭量なことを言っているのではありません。先に上げたとおり、日尊の安堵がそれを示すのではないかと言っているのです。
> 『日興跡条々事』真筆か否かを私に問われても真贋を見抜く力などありません
では、話にならないでしょう。あなたは、真筆かどうかもわからず日興の文章だと言って、これを引用したわけですか。
そのようなあなたが、わたしに真蹟云々を問うというのはあまりに厚顔無恥、図々しすぎませんか。わたしには真蹟から説明しろと言い、自分は真蹟かどうかわからない。そんな無責任な遣り取りがありますか。あなたが、わたしに真蹟から説明しろと言うのであれば、自分が上げた文章が真蹟であるかどうかをまず示すというのが筋でしょう。
> 説明を信じるのみ
信じるのは勝手です。では、わたしも日目のやったことは許認可だったと信じるのみと、これを答にして善いのですか。他人に厳しく、自分に甘い。そんな遣り取りは成り立ちません。
あなたに課せられたことは、条々事が日興真筆の証拠をここに挙げることです。
> 相手がいなければ話にもなりません。
そうでしょう。ですから、もし、42度、日目が天奏をしたとすれば、相手にされず、話にならなかったことをあなたは認めたと言うことですね。
> 下賜があっても何も不思議ではないと思います
そうですか。そうなると、為政者が信心をしなくても土地を下賜してもらうことが、日目の目的であったとあなたは認めるわけですか。
それが、日蓮と日興と、少しも違わぬ意志であったと。
> 見解が異なります。
見解が異なるなどということは、どうでもいいのです。
わたしはあなたと頷きあうことを目的にしているのではありません。
わたしの興味は、事実は何か、それだけです。
2057
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 00:03:02
―2057からつづく―
> 勝手な想像ですが。
そうですね。まったく勝手な想像です。答にも何もなっていません。
ちゃんと回答しなければ駄目ですよ
> 日目上人、元より望むところであられた
臨む望まない話をしているのではなく、そうならなかったのは、なぜか。相手にされなかったか・実際に42度の天奏がなかったからか。そうでなければ、申状の文面は定型文で、国を諫めているなどと採られていなかったのどれかだろうと言っているのです。
> 他のお弟子は申状に天台沙門
石山のアナウンスや、重須文献を鵜呑みにしていませんか。たとえば、日向でも、日蓮の弟子として、申状を提出していますよ。ちゃんと文献を調べて書いたほうがいいですよ。
「申状…日蓮聖人遺弟日向申」(日宗全【向尊之部】P36)
「申状…日蓮聖人遺弟日高謹申」(〃【日高之部】P47)
「日祐日樹申状…日蓮聖人遺弟日祐日樹等謹言」(〃【日祐之部】P403)
以上、天台沙門とは書いていません。
> …聞きます
まさにそのとおり。聞いただけで信じたあなたは軽率です。
> へつらいにさぞや恩賞に与ったことでしょう。
こうした他を貶して自分の信じるものだけを養護するのは、冷笑を誘うだけですからおやめになったほうがいい。みっともないだけです。
> 通じもしない論
いや、別にわたしの論が通じないのは、自分に執着している方だけです。
寧ろ、これはあなた自分に当てはまることでしょう。
まあ、逃げて退散する以上、これにて終了ですか。
真実を何も掴めず逃げ去ることしかできない姿だけをさらして終わりにするのは、後に恥を遺すことになります。もう少しちゃんと回答していったほうがよろしいのではないでしょうか。
それより、その囚われた心を早く解放してあげたほうがよろしい。あなたの囚われた心が可哀想です。
2058
:
犀角独歩
:2006/05/14(日) 10:07:19
すでに日蓮門下も六派祖の時代に入ってからは、それぞれ、本拠を構えて、弘教、弟子の養育を行ったことを、各寺院の縁起などからも窺えます。
これはまた、換言すれば、僧侶が寺院を構えることは、その土地の地頭(国主)の認可なくしてはできないことであったという歴史的背景に基づくものです。
それは派祖に限らず、日蓮にしても、波木井の庇護と認可に基づいて、身延に久遠寺の堂を結んでいることからもわかります。日興が身延を離山したのも、その力関係では、地頭が勝っていることを物語っています。
日目が大石寺を開けたのも南条の認可であり、この地頭と僧侶の力関係は重須でも同様でしょう。
天奏は、現代で言えば、宗教法人の許認可を求める嘆願といったところと、わたしが記したのは以上の事情から類推するところで、この歴史的背景を通じて、申状を読まないとその意味を取り違えるだろうというのが一連の遣り取りでした。
それにしても、日目に係る資料を手放しで、ただひたすらに日目崇敬を懐くという有様は、所属団体の刷り込みが如何に大きなものであるか、その一例を見た思いがしました。一中一弟子については、先にれんさんと議論になりましたが、そんなことは何処吹く風という態度にも嘆息を禁じ得ないものがあります。
さて、京は、鎌倉に新幕府が樹立されようと、武家政権となろうと、日本人にとって、変わらぬ中心地であった。その中心地に寺院を建立し、布教の本拠とすることは、これまた、現代風の言い方をすれば、地方区から全国区への進出を目指す悲願であったわけです。天奏が意味することは、この日本の中心地、京都における布教とその本拠の安堵を、幕府も、地頭の、さらに上に位置する朝廷から勅許されることを求めるものであったのでしょう。そして、実際のところ、日尊は油六角小路の土地を受け、上行院を建立するに至ります。
このように京都を目指した日目が、では、単に京都進出だけにその意図があったのかという点は、先のれんさんが提出される日目に係る“相承”と大いに関連するとわたしは考えます。
真蹟遺文から見る限り、日蓮は本門戒壇の具体的内容の言及は見られません。題目についても、本尊についても、あれだけの言及をしているのに、殊戒壇については、その名目を挙げるばかりで、言及がないわけです。依って、わたしは、日蓮は戒壇思想を構築以前に死去したのではないのかと考えていました。しかし、この考えを覆すに足りる資料が存しました。『法華取要抄』の草案である『主要抄』『以一察万抄』です。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
この提示をわたしは彰往考来さんから受けたわけですが、都守師の秀逸な分析は、わたしのそれまでの考えを覆すに足りる論攷でした。『善無畏抄』の件という、まさに日蓮宗にこの人ありと言うに相応しい優秀な学者であると、わたしは尊敬します。
横道に逸れましたが、派祖の時代、富士方で言えば、日興・日目の時代、では、戒壇義を含めた三箇秘法というのは、門下一般にとって、現在のように遍く知られたものであったのかという疑義は立ちます。わたしは、そうではなかったと考えます。いまですら、日蓮の戒壇義は不闡明であるわけですが、当時はさらにその名目すら“密事”に属したのではないかと思うわけです。ここから、れんさんがお示しの、日目三箇秘法直授、また、耳引法門ということも成り立っていたのではないのかという、歴史性は付加して考えてみる必要があると思うわけです。しかし、時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着すれば、密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて、忘れ去られていったという経緯であったのではないのかと、類推しているわけです。この点については、是非とも、れんさんのご賢察を窺いたいと希望します。
ともかく、天奏を目指した日目は、第一、帝都弘教の安堵、朝廷の帰依、ついには、日目直授、“要”の一密事、成就、すなわち、迹門戒壇に代わる、本門戒壇建立構想を、他の天奏をなす人々とは違い、懐いていたかも知れないという想像はできます。しかし、この想像を補強するためには、れんさんがお示しの日目直授の相承…、というか日蓮の特命があったかどうかに掛かると考えられます。しかし、いまとなっては、この点を証明することは困難を極めることでしょう。
なお、「一中一弟子」については、すでにれんさんの議論をしましたが、数カ年前にも指摘しましたが、ここに上がる「最前上奏仁」の最前が最も最初に上奏したという意味であるとする解釈は、石山でまことしやかに取り沙汰される以下の記事
1281 弘安 4 日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)(富士年表)
と齟齬を来していることが指摘できます。
2059
:
れん
:2006/05/14(日) 20:40:39
犀角独歩さん
>2052
管見にはいったものでは、日寛にかかる文献では「金口の相承」の語は寿量品談義(富要第十巻所収)に見えますが、三口一徹の相伝は日寛の文献には見えず、石要血脈問答以外では日因の三四月会合抄上巻に日目上人直授相承に云くとして引用されている一文のみに見えるだけですね。
>2058
派祖の時代…その名目すら“秘事”…時代を経り、「三大秘法」という造語も漸々と定着…密事は、門下教学の解釈に取って代わられ、日目直授相承は色も褪せ、やがて忘れ去られていったという経緯であった…
私も歴史的経過を考える時、仰る通りと存じます。私の愚見では、近世から現代にいたる石山の三大秘法義はあの彫刻を中心に据えたものですが、石山上代に見える日目直授という本門三大秘法義が色褪せ忘れ去られた背景には、石山義としては新義といえるであろう彫刻を中心とする三大秘法義にたいする信仰とその後付け教学の影響があったと思えます。要するに忘れさられたということは、日目直授とされていた上代石山の三大秘法義と近現代石山の彫刻を中心とした三大秘法義は、異質であったからということを表していると思います。
初期日目門下の三法門は、日目には法華取要抄の写本(ただし公開されてないので、内容が草案か中山本かどうか不明)が石山にありますから、恐らくそれに準じたものと思えます。それを土台として、日蓮・日興からの師伝を付加したものが、日目の三法門観ではないかと思います。日興による付加とは門徒存知事に見える日興による本門寺(戒壇含む)建立地を富士に選定したということであるとは考えられます。
日目に近い時代に成立した初期郷門の日叡・後信抄の記述は、初期日目門下の三法門観を窺う一つの資料となるかと存じます。
以上、日目の三法門観についての資料があまりに少ないので、これが限度なのですが、雑雑ながら、賢察などというレベルには千万が一にも及びませんが愚見をしるしてみました。
2060
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/15(月) 07:47:03
>2043 犀角独歩さん
京都へ出張していましたので亀レスとなりました。ちょうど京都では「鴨川をどり」が開催されている最中で「鴨川をどり」を観ることができました。夜は先斗町(ぽんとちょう)で「鴨川をどり」に出演した芸妓さんもみえて皆で飲んで盛り上がりました。(エヘヘ)
さて「帖」(じょう)ですが、検証居士さんから詳細がレスされいますので、できるかぎり重副しないように進めます。「帖」とは「折本」のことをさします。巻物を軸からはずし、継ぎ紙を等分に折り重ねていき、前後に厚めの表紙をつけたものです。読経するときに手にもつ縦長のお経の形です。現在でも経文などはこの形が残っています。「折本」は一帖(いちじょう)二帖と数えます。
書誌学的にみれば、「折本」は中国では「経折装」(きょうせつそう)といって唐代から始まり、日本には平安時代に伝わったものです。
なお日隆師の『四帖抄』ですが北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば日隆師の真蹟は兵庫県尼崎市の本興寺にあり、「折本」ではなく、「巻子本」(巻物)だそうです。
従いまして
>2042
帖とは4冊の和綴本としたという意味で、これが日隆に始まる。となれば、それ以前にそのようなものはなかったのではないのかという類推も交えて、日時の時代には遡れないのではないのかという、まあ、書誌学といえるかどうかわかりませんが
ということはございません。
2061
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:21:48
れんさん
ご賢察のご呈示、有り難うございました。参考になりました。
「日目には法華取要抄の写本」が本物であれば、さらに現実味を帯びますね。
公家出の日目に、直接、本門戒壇勅許の特命を、日蓮を課したなどというストーリーが証明されれば、これは面白いと思えます。ただ、これは、大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います。
それにしても、日目が美濃の垂井に寂したあと、その報告を富士方に告げる必要があったことはわかるのですが、日尊と日郷は、そこで別れ、そこから、まったく別の展開をしていくことは、実に不思議に感じます。
わたしの感覚すれば、二人で日目の遺志を継いで、代奏をし、六角小路に土地を拝領し、寺院建築の基礎ができた段階で、また、二人で富士に戻って、日目の墓も建立するということが通常の在り方ではないのかと思うわけです。
ところが、そうはなっていません。日目の遺骨を、垂井の荼毘の段階で、二分しているわけです。日尊は鳥辺山に塔したわけですが、日郷は、日目の遺骨半分を下之坊に持ち帰ったといいます。大石寺ではなく、下之坊です。そして、いまに至るまで、石山には日目の正墓すら造られなかったわけです。造られてなくなったのか・当初から造られなかったのかわかりません。ともかく、ないわけです。身延に日蓮の正墓、北山に日興の正墓があるのにもかかわらず、石山には日目の正墓がない。日郷が退出に当たってもって出たのかというと、そんな事跡もなかったように記憶します。いったい、日目の遺骨は何処へ行ってしまったのか。この点は、1年前にもれんさんと応答し合った点ですが、それ故、わたしは5年前から、石山で日蓮の灰骨と言われているものこそ、日目の遺骨であると考えてきたわけです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015567021/99
話が横道に逸れましたが、日目直授があったかどうか、わたしは血脈、相承の類は疑って掛かるほうですが、この日目に係る件については、れんさんのご呈示ということもあり、かなり興味を懐いております。
2062
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:27:14
2060 彰往考来さん
なかなかお楽しみであったようで(笑)
さて、四帖に係るわたしの記憶は、どうやらガセであったようですね。
顕正居士さんのご指摘と併せ、一点、思い込んでいた点を修正することができました。有り難うございました。
それにしても、そうなると、何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか。この点がまた疑問と残りました。
2063
:
ラキ
:2006/05/16(火) 00:34:42
自由な茶寮掲示板を見ていましたが、浅井さんが独歩さんに対して法論を挑む事はないのに、きっと時が来れば破折してくれると、信じてる会員が居るのは、可愛そうです。
独歩さんから浅井さんに法論などめんどくさいかも知れませんが、申し込んだら、浅井さんの反応が楽しみなんですけど!・・・
それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
浅井会長さん〜独歩さんとの法論を会員達が期待してますよ〜〜
つぶやきでした。ヾ(≧∇≦)ノ"
2064
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 13:05:09
ラキさん
他の掲示板のことは他の掲示板で、が、まあ、原則ですが、「法論」という話ではないでしょう。
わたしは図形鑑別を通じて、石山の彫刻は日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為した模造品であるとしたわけです。そして、それを研究発表もし、講演もし、本にもまとめ、ネットでも公開しているわけです。であれば、この彫刻が従来の石山下の論調のとおりのものであることを証明するためには、図形を持っての反論しかないわけです。しかし、そのようなことを少しもできず、単に悪口雑言をもって人格攻撃しかできない。これは忍性良観が日蓮に行った手口と一緒です。つまり、道理から言っても、既に決着はついてます。つまり、浅井さんの負けです。
浅井さんの勝ちにしたければ、図形的特徴から、それを説明すればよろしいだけです。それができない悔し紛れに、悪口を言って、自分の取り巻きをそそのかし憎悪を煽り、発言者の人格を貶めて、その論説を考えることを、やめさせて、自説に呪縛させようとするという手口は、古今東西、悪しき先導者の常套手段です。
しかし、その本質は結局、負け犬の遠吠えに過ぎません。
客観的に見て、顕正会と浅井さんは、この悪人の手口に手を出してしまったわけです。これが、かつて、正本堂について、日達さんに、論を尽くして糺した同一人物の発言なのか、正直、目を疑うほかない愚考であったわけです。
結局のところ、この浅井さんにそそのかされた会員たちは、わたしの鑑別の内容に至ることなく、ただ人格攻撃に翻弄されて、浅井さんの話を鵜呑みにするというロボトミー化、社会心理学で言えば、憎悪に基づく代理状態に陥っているわけですから、このような心理操作下にある人はとは、法論どころか議論も成り立たないでしょう。
この掲示板の善き慣習は、挙証義務の励行ばかりではなく、人格攻撃にすり替えて、回答不能をごまかす悪意を断じて許さない管理者さんの姿勢にあります。
人格攻撃、悪口雑言を除けば何も残らない空虚な遣り取りは、結局、真実を見られない被害だけが残るということです。わたしは、ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。深刻な宗教被害の実例を見るだけです。
2065
:
ラキ
:2006/05/16(火) 15:29:08
>2063>>それにしても、自由な茶寮掲示板てワイドショーを見てる感じで面白い。(・∀・)ニコッ
>>>ラキさんが感じるようにワイドショーのようであるとも、面白いと思いません。
つぶやきで突っ込まれてしまいました(^^;
2063の該当箇所の発言は、ご指摘を受けて、安易な発言あると私も思いましたので、撤回させていただきます。
2066
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 16:43:25
あ、そうでした。ここはつぶやきでしたね。失礼しました。
2067
:
Taitsu
◆bnx86/FFP2
:2006/05/17(水) 04:00:49
解る人にはその偉大な功績、ドグマを打ち破った事実は良く解っている筈ですし、
無疑曰信を身体で示した功績は大きいと私は思っています。
どうやら迷える人達は「待った無し」の様です。
私にもお手伝いさせて頂きたく、色々模索中です。
ちょっとつぶやいてみました。
運良く犀の角の様に一人で歩いてる方のお目に留まって
連絡なんて頂けたら良いかな、なんて。。
あくまでもつぶやきです。
2068
:
れん
:2006/05/18(木) 21:27:26
亀レスにて失礼します。
2061
>大石寺相続系統の話ではなく、同じ公家筋の日尊系へ受け継がれた話であろうと思います…
日尊が公家筋とは驚きました。日尊は、日興門流上代事典によりますと桓武平氏千葉氏族の一族亀卦川胤氏三男とのことで、どちらかというと武家出身の匂いがします。日道は日目の実家の新田小野寺氏出身で、日郷は保田文書によりますと清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とされる太田氏出身だったと記憶します。
もっとも小野寺氏について、ネットで検索してみますと、どうやら秀郷流藤原氏山内首藤氏族というのが史実のようですね。日目の直授についての話は、郷師の門弟日叡師の記述にも見えますし、道門では日時が文献化したという伝承もありますから、日尊系のみでなく、どうも日道系にも日郷系にも受け継がれた話だという感触がありますね。
2069
:
青門
:2006/05/19(金) 00:57:07
初めまして。文献だけをみて判断するとした場合、立正安国論をどこか時の権力者が受け入れていたら歴史は大きく変わったいたでしょうか。大して変わらないと私は判断します(あくまで文献だけをみて)。話を変えます。私自身の成長を考えると難に合うことや難問に立ち向かうことを望みますが、弱い私は苦労から逃げ気味です。しかし、信じて南無妙法蓮華経を唱えると大聖人が難を乗り越えられたのと同じくらい成長が頂けると思っています。でないと日蓮仏法の意味は無いのではないでしょうか。言いたかったことはどの宗派のひとも細かいことより大聖人の大慈悲を原点に一致団結できないのでしょうか。細かいこだわりも究極に凝縮すると単純なことです。大聖人の大慈悲が全てのひとにもあるんですから、それをどうやって引き出すかですよね。南無妙法蓮華経と唱える。ここから先のことはこれより大事なことじゃないですよね。間違い探しに陥り本質を忘れていたので反省で書き込みしました。乱筆乱文で失礼しました。つぶやきにつきお許し下さい。
2070
:
顕正居士
:2006/05/19(金) 02:00:22
日蓮宗主要本山と現在の包括法人
http://bukkyo.rissho.jp/inform/shugaku/shu_0141.htm
現状、過半は単称日蓮宗に所属しており、その余は小規模教団、単立です。
また日蓮宗学の専攻課程は立正大学仏教学部宗学科が唯一ですから、
すでに事実上、日蓮教団は統一されているのではないでしょうか。
2071
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 08:36:45
Taitsu さん
もしお時間等のご都合がつけば、、28日にオフ会にご参加なさってみては如何ですか。お誘い申し上げておきます。
れんさん
有り難うございます。
桓武平氏千葉氏というのは、その祖を桓武天皇とするのではありませんでしたか。
日目は武家南条の縁、けれど、小野寺家の末裔といい、新田卿をいいました。この場合も武家方ということになりますか。
美濃垂井での日目寂後、そこで、日尊、日郷が別れたと、先に記したのですが『日蓮宗事典』によれば
「日興滅後、日目に随い日郷と共に天奏上洛の任についてが、中途にして日目の遷化にあい、日郷を随えて天奏の役を果し、日郷は富士に帰り日尊は関西の遊化にあたり、暦応元年(1338)再び入洛、翌年2年六角油小路に上行院を建ててここに住した」
といい、わたしが記憶していたこととは違っています。以上の記述は『祖師伝』に基づく如くでした。
日目直授ということは、要は、日目が唯授一人相承をしたという話ではなく、日蓮・日目という直授に主眼があるのだと思います。ですから、京の日尊、富士の日道、保田の日郷等の系譜を潤色するのに、日蓮直授、さらに直授という経緯であったのではないでしょうか。
これが、天文法難以降、京の地盤を失った日辰、のちの要法寺系や、教学的根拠の一端を富士の求めた保田では、日教が北山において、一つの体系をものにしていたことなども相俟って、加上する経緯のなかで、権威を日興に求めた。その結果、「三箇秘法とは日蓮日目と御相承…御付法は日蓮・日興・日目と次第」といった折衷案を経て、蓮興目に落着していった歴史があるのではないのかというが、いちおうの、現段階でのわたしの考えです。
2072
:
れん
:2006/05/19(金) 10:16:31
犀角独歩さん
>2071
目師直授についてのご見解のご披瀝有難うございます。大変参考になりました。
桓武平氏は当然桓武天皇の子孫ですが、平朝臣姓を下賜されて臣籍降下した時点で皇族ではなく天皇の臣下ですし、千葉氏を出した桓武平氏が関東に土着したのは、中央では殆ど無位無冠で、新天地を関東に求め、子孫は関東に土着して武士化したという流れだったと記憶しております。ですから、私は武家という認識でおります。
目師の新田卿の卿も、小野寺氏の家系伝承ではその祖首藤資清が藤原道長の流れとされていたことによる命名でしょうが、やや時代は下るものの室町時代の公家・洞院公定撰の尊卑分脈によるとその首藤資清は「本姓守部」云々とあって、守部姓の資清が秀郷流藤原氏の猶子となって藤原朝臣姓を名乗ったのが史実の様で、わたしとしては小野寺氏を御堂関白道長の流れとするのには懐疑的です。まあ出自はどうあれ、小野寺氏は鎌倉幕府御家人として奥州に多く領地があり、日目のパトロンとして、その上奏の資金をカバーするだけの経済力は十分に有していたのは事実ですね。
2073
:
犀角独歩
:2006/05/19(金) 23:39:57
れんさん、仰る意味はわかりますが、そもそも僧侶になった段階で、無位も無冠もありません、出世間ですから。
ただ、仰るような系図的判断は、たしかに加上、潤色が伴うことですから、慎重に期すことに異論はありません。
わたしが公家方と言ったのは、その方面に発言と人脈を持つといった意味であると解していただければと存じます。
近代で言えば、華族制度は、廃されましたが、しかし、それでも、この人々は、かつて平民と言われた人々より、皇族との関係は、それでも濃厚です。
僧侶となって身分を捨てたとはいえ、また、その出自がかつて天皇家であったけれど、(また、そう主張していたに過ぎないにせよ)その後、無位無冠であり、武家となっていたとしても、実際のその影響力から、公家との接点を有していたのではないかとという意味での投稿であるとお考えいただければと存じます。
2074
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/20(土) 08:58:54
>2062 何故、『法華天台両宗勝劣抄』は四帖などと称されていたのでしょうか
日隆師の『四帖抄』ですが、北川前肇師講述『四帖抄に聞く(一)』(平成16年、本門法華宗学院、15頁)によれば、「現在の装幀は、本興寺二十八世の日顕上人の代に改めたもので、江戸時代の貞亨三年(一六八六年)正月二十三日の日付が記載されている」とありますので、あるいはこの時に「折本」から「巻子本」に改装されたのではないかと思います。
「巻子本」から「折本」はよくある改装ですが「冊子体」の本が「巻子本」に改装されることもまま行われたようです。
例えば、西本願寺所蔵で重要文化財に指定されている『歎異抄』の蓮如上人筆写本は、現在「巻子本」になっていますが、もとは半葉六行の「袋綴じ」であったものを江戸時代中期に今日のように改装されたと考えられています。
http://www.otani.ac.jp/tannisyo/a_tannisyo/tan_b.html
ただし北川前肇師は『四帖抄に聞く(一)』で『四帖抄』が「巻子本」であることについて、「当初よりの形態とみられます」(15頁)と記述しています。尼崎本興寺蔵の御真筆の形態をみてみないと判断できませんが、仮に当初から「巻子本」であったとするなら上述の「改装説」は崩壊することになり、再度なぜ「巻子本」でありながら「帖」と称されているのかという疑問は解消されません。
奉書紙・杉原紙・美濃紙などの和紙で1帖とは48枚を表わしますので、
http://www.hm2.aitai.ne.jp/~row/kazu/kazu.html
『四帖抄』というのは和紙192枚分量(=4帖)の『法華天台両宗勝劣抄』という書物なのですよ、という意味ではないかとも考えましたが少々こじ付けに近いものです。ただ日隆師には『一帖抄』もありますので、このような分量を示す略称があったとしても不思議はないでしょう。
私自身は「巻子本」でありながら『四帖抄』と称するのは「折本」から「巻子本」に改装されたためと考えています。
2075
:
独学徒
:2006/05/20(土) 16:31:18
横レスにて失礼します。
隆師の『四帖抄』について、「法華宗全書 日隆1」の解題では、第1巻:42紙、第2巻:46紙、第3巻:64紙、第4巻:59紙となっています。
また『四帖抄』という通称は、隆師自身命名によると出ています。
こちらの解題は、大平宏龍師のものですが、やはり巻子本は当初からの形態と出ています。
隆師の意図するところの「四帖」とは、なにか別の意味があるような気がします。
2076
:
れん
:2006/05/20(土) 20:02:40
犀角独歩さん
>2073
了解いたしましたm(__)m
2077
:
犀角独歩
:2006/05/21(日) 07:06:37
彰往考来さん
独学徒さん
貴重な情報と、ご賢察の披瀝有り難うございました。
参考になりました。
「帖」の意味するところ、振り出しに戻りました。
2078
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/22(月) 07:45:27
>2075 独学徒さん
>「法華宗全書 日隆1」の解題・・・やはり巻子本は当初からの形態と出ています
「法華宗全書 日隆1」の解題にも同様の記載がありますか。参考になりました。
2079
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/05/22(月) 12:33:57
こんなアホな行動をする議員が公明党にもいるのですね。まず政治をやりなさい。国民の血税でしょ!
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_05/t2006052003.html
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