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日蓮聖人の本尊観

1管理者:2002/07/30(火) 19:07

「オフ会 開催案内」スレッドにおいて、議論が沸騰しています。内容的に、仮に、「日蓮聖人の本尊観」と名前を付けて、別スレッドとして立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08

すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

143犀角独歩:2002/11/07(木) 15:58

141 問答名人さん:

恐縮です。

144犀角独歩:2002/11/07(木) 15:59

顕正居士さん:

> 事壇思想と結合し漫荼羅正意論が発達した

となると、この場合の漫荼羅正意論は、もちろん、現石山義とは別のものであるのでしょうが、久成釈尊造像を前提とした正意論であるということでしょうか。

また、漫荼羅正意論は造像不要を言えば、論として成立しなくなることも意味しましょうか。

ご教示いただければ有り難く存じます。

145顕正居士:2002/11/07(木) 16:51
>この場合の漫荼羅正意論は、もちろん、現石山義とは別のものであるので
>しょうが、久成釈尊造像を前提とした正意論であるということでしょうか。

「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は
一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候」

「御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候
いしを安置候べし。いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば
、最前には破し給うべきと」

これらの文は、一尊四士であればよいが、という以上の意味に思えるのです。

『原殿御返事』
http://nakanihon.net/nb/haradono.htm

>また、漫荼羅正意論は造像不要を言えば、論として成立しなくなることも
>意味しましょうか。

興師、順師においてはそうであったのでないでしょうか。

146犀角独歩:2002/11/07(木) 16:58

> 145 顕正居士さん:

自分の考えを補強できました。
有り難うございました。

147ワラシナ:2003/01/04(土) 21:56
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」1

*謹賀新年
0−<目的1>

前回、法華経本門仏身の内面を「客観的主観性」と規定したが、「主観性」がどうして二種に(客観的主観性と主観的主観性)分けられるのかの理由には触れなかった。この二種類は、そのまま種脱相対の二種、文上文底の二種顕本、につらなる範疇と予想されるのであるが、今回「主観性の二種」が「自己同一性の二種」に等しい事に気がついたのでこの角度から「主観性の二種」論について新説明をしてみるのが目的である。特に主観的主観性を「自閉的固有領域」と捉え直してみた。

0−<目的2>
正宗信徒としてやり続けていくためにどうしても必要になる教学上の謎解きが二つA、Bある。
その一つAは、上行菩薩顕本論の合理性の是非問題。二つ目Bは、御文字御本尊様の中の釈迦牟尼佛は中尊七文字に比べてなぜ異様なほど小さく書かれてあるのか、その合理性を宗祖釈尊論の観点から説明しきること。

上の二つの課題に対して特にAについて考えた一応の結果を示す事。

1-0、<初めに>
人は誰でも落ち込んだ時、自分一人しかいない「自閉的固有領域」の中で身勝手な自己肯定をして自分を慰め鼓舞する。
「俺は俺さ」「あたしはあたしよ」と。この「一人称的自己同一性表現」を許しているのが「自分一人しかいない自閉的固有領域」と考えられる。

1ー1 これはかなり強力なパワーをもっている。「かなり強力な」と限定を加えたのは、人間の自己意識の中にはこれと同程度に強力な別な領域が対等にあるからであって、それは、この自己同一性を破壊するような「自分は自分以外の何者でもあり得る筈」という「原始偶然衝動の領域」と言える、と考えられるからである。

1―2、例えば、話は脱線するが、先ごろSATさんが、攻撃誘発の因子として同一視を挙げられた事に関係していると思うのだが、埴谷雄高の哲学的私小説のテーマが「AはAである、とする自同律に対する不快感の追求」とはよく言われる事であった。ところで不快感情の強度が極限に高まったものは、「怒り、憤り」であって、この時人の怒りは「お前は何故お前のままなんだ、俺は俺のままなんだ!何故お前は俺になろうとしないんだああ!!馬鹿野郎!」という無茶な哲学的テーマを相手に絶叫している風なところがあって興味深い。この絶叫感情の巣を「自分というものを持たない、何にでもなり得る原始偶然衝動の領域」と考えたわけである。であるから、この場合の憤りの合理性は、その存在の仕方自身に向けられていて、、自分自身も含めたそれがそれとして当然のようにえばってそこに存在していること(当然性)自体が癪に障ってならない、と理解されるのである。

148ワラシナ:2003/01/04(土) 21:57
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」2

2−0、さて、ここで自己同一性領域がなぜ、主観性の二種に平行していると言えるのかと言えば、特に「自閉的自己同一性=主観的主観性」の働き様を見ればわかる。まず人は、無原則的にこれに寄りすがろうとする。この時、善悪の二面の反動が影響として出てくる。
「善」を言えば、既にその効果から触れたように「慰撫、安心感情の獲得」
「悪」をいえば、自閉的即ち、他者関係性の無視からくる当然の反動として精神疾患症、異常心理、犯罪心理の温床の提供、である。「俺は俺」の自己同一性主張の持つ悪しき面を考えてみれば納得する。

2−1、従って、上の悪作用に規制をかけて思慮深く生きる為に「オレはオレなの」という「自閉的自己同一性領域」を変形して、「オレという自我の直接性を「A男」という名前・間接性に包み込んで「客観的(社会的)主観性」に直したのが、「オレはA男なの」という表現、と考えられるのである。
だから、「客観的(社会的)主観性」とは、「他人向けの自閉的自己同一性領域」と考えられる。これは、「自閉的自己同一性領域」が
元々が「自分向けのだけの自己同一性領域」だったから、その否定形ともいえる。だから、次の表現は「主観的主観性」>「客観的主観性」>「主観的主観性]へと言い換えに等しい、と思う。

「オレはA男だ。」「A男はオレだ。」「あたしはB子よ。」「B子はあたしよ。」

2−2、さて、ここで、次の例をだして「自閉的自己同一性領域=主観的主観性」を想定することの合理性をもう少し確かめたい。

それは、ごく親しい知人からかかってきた電話に出てくる次のようなせりふである。
「あ。た。し。あたしよ。あたしっつってんじゃ」「オレだよ。オレ。オレっつってんじゃ」

自我表現が完全に自閉的主観性から直接的に押し出されてしまっていて他人向けに言い換えられていないから、これでは、誰の「あたし(主観)」だかわからない。そこで全く自分向けの「あたしの反復」をあきらめて他人向けのわたしたる「B子」という名前でわたしを間接化(客観的社会的)した次の言い換え、
「あ、た、し。(わからないの?ばか!)B子よ!!」を「主観的主観性の客観的主観性への変形」と理解したのである。

(2−1、余談、この事と時枝誠記、北原保雄などの文法学者が日本語表現の全てが客体的表現(詞)と主体的表現(辞)との結合でできていると説いている事とは深い関わりがあると思われる。)

149ワラシナ:2003/01/04(土) 21:58
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」3

3−0、実は以上で、それとなく法華経本門寿量品の釈尊内面の二重性の意義説明をしてしまった積もりでいるのである。

3−1、経典中の寿量品の釈尊の内面性格は、上に挙げたような一種の「B子!」的な「客観的主観性」にあって、釈尊自身のもう一つの権利である「わたし、わたし、おれだよ」と言い張れる「主観的主観性」領域の合理性は経典中には隠されてしまっている事を、なのである。

3−1−1、ここで今言った「B子!的な客観的主観性」についてもっとふさわしい例を出せば、、、。
B子自身が「わたしはこう思うの」とは言わずに「B子はこう思うの」という例、
それと同じで、「お母さんはこう思うの」と言っている本人が自分を、「お母さん」なる、一種の家族と言う関係性社会の位置名で自らを客観化して呼んでいる例、でなどある。

更に、「お父さんはお父さんだ」と其のお父さんが自分を指して「おとうさん」と言う場合も、教師が自分を「先生は」と呼ぶ例、などである。
又、文中で「わたしはこう思う」と書くより「筆者はこう思う」と書いた方が断然カッコいいのも、‘わたし’語のもつ自我の直接性の露骨さ、ダサさが、「筆者」と言う客観性という美しい衣装を纏った言葉によって間接化され文中の舞台に登場してくるからである。
また遺文中の宗祖が凛々しく見えるのもご自分の事を「オレはねえ」「わたしはねえ」みたいには決して書かず、「日蓮」という外部向けの名前で語っている事にもよっている、と思うのである。

3−2、さて、富士教学で寿量品釈尊を「他受用即自受用身」語で表現する時は、釈尊外面に対しての、というより釈尊内面の主体面(報身)を担っている「釈尊自身にとっての‘わたし’」が二重性格を持っている点を指摘しているのである。そして、釈尊の場合今言った内面の二重性の内、その客体面(荘厳応身として出力させる働き=客観的主観性)だけが表面に現われていて、「自閉的、独我論的、主観的主観性の‘露骨なわたし’」が裏面に回って隠されている、微妙な性質を捕らえている言葉なのである。

3−3、そして、絶対見逃されてはならない事は、「表面に現われている客観的主観性という目に見えない筈の内面性」がどうしてそれとして外側から解ったのか、という問題である。なぜ、どうしてという、ここらあたりの教理機構の丁寧な説明は、(どちらかというとぶっきらぼうな)日寛上人の御教示を眼光紙背に徹して思索し得た故福重照平師の頭脳に依るところが大きいのである。(少なくとも私にとっては)

答えは、文中に出ている。目に見えないはずの「荘厳応身として出力させる働き」客観的主体性(他受用的自受用身という報身)の内面存在は、外側から見られ得るものとして、出力させられて出現している荘厳応身如来という外面存在と一対一の対応物だったからである。

従って、「他受用的自受用身」と捉えた時の「他」とは、「所化側の九界衆生の為」と解される。「他人向けにすぐ分かるような客観的‘わたし’(主観性)」であれば、自他の比較の上から言って、自受用報身という主観性を共有していることは共通しているから「与えて言えば自受用身」なんだけれども「奪って言えば他受用身」などと言われるのである。

さて、だから、在世寿量品釈尊内面本質が、客観的主観性なら、在世所化側の九界衆生、特に本門法身の菩薩衆の内面本質も客観的主観性を共有していると考えられるのである。

3−4、更に、関連して、故福重照平師が、「在世寿量品釈尊の報身顕本は応身顕本に隠されて見えない」と言った訳、或いは、「日蓮正宗要義」に「釈尊の寿量品に報身顕本があってもそれは応身色相荘厳の相に含み説かれている」と説明されている訳も、元々が内面主体(報身)の外面客体化が「応身」になる、と言う外部的関係と、内面主体の作用内においても、その内面主体にとって理法身が客体対象側に置かれる=内面客体化に当たってしまって、両者は同じ客観同士になって、内部客体の存在は外部客体にかぶせられてしまう関係になっている、だから外側からは(文字表現的には)確認できない、と言うこと言っているのである。(と自分は解した。)

ここに重大な事が浮かび上がってきている。言うなら、外面客体たる荘厳応身如来の内面主体の有り様の表現は特別にしなくてもよい、省いても可である、その内面主体の特徴たる「客観的主観性」は外面客体たる応身の荘厳相にそっくり対応していると見られるからである。

150ワラシナ:2003/01/04(土) 22:00
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」4

4−0、上行顕本論

ところで上の(3)によれば、釈尊の寿量品顕本とは、自己の内面性が,客観的主観性たることを明かしたことと解される。ならば、冒頭の「自己同一性領域」との関係がどうなっているかが気になってくる。
ところが、哲学者、九鬼周造の「偶然性の問題」によれば、「自己同一なものが必然性」であるから、「永遠性」「本有常住」「顕本」などは一括して必然性問題に帰着する。であるから、この角度から、富士教学でもっとも難解な上行顕本論の合理性を探ってみたのである。

4−1、そのためには冒頭の「自閉的固有領域=主観的主観性」に寄りすがって、現在の不安を解消しようとする際のやり方をもっと注意深く観察する必要がある。単に「俺は俺さ」「あたしはあたしさ」だけでは自己同一の形式が見えるだけで、表現者の真意ではなかろう。実際には、「オレはオレだ」のオレ「だ」の断定辞の後部には「オレでよかった筈だ」のように、自己内面が持つ歴史的時間相の尾ひれを付けて意識しているのであった。このような時制的、時間様相の一つに自己が自己たることの必然性や偶然性が出ている。

4−2、そこのところをよくよく観察した結果、これに二種類有る、というのが私の観察なのである。もちろんこの場合の二種類とは偶然性ではなく「自己が自己たること(自己同一)の必然性」に限っての観察である。

まず、「現在」に抱かれる不安をよくよく見つめれば、自己が現在に現象してはいないように見える。自分の居場所が、およそありえないような静止的な過去、静止的未来に固定されてしまっている。だから、上を「およそ有り得ないような」といった事に対比させて、経験世界で現実化する範囲での必然性の本質を九鬼周造にならって、ここでは「不断に成り続けている持続性、成就性の持つ、なになに、している」現在進行形的性質」と規定してみる。

4−3、この観点から、冒頭の「自閉的固有領域」がどう利用されているかを見て、まず第一に気がつくのが「俺は俺さ」が、「自分だけに用意された自分勝手性の基盤」としてである。「いつどこで何をどうしていようが自分の勝手だ」という確信態度の基盤を提供しているのである。言うならば、これは、自己同一性基盤を、すなわち自己を「不在、未在」側に置いて、未在の自己が、未来から不断の到来進行性の現象として、現在居るもの」として捉えられていて、「未在型の今の永遠性(必然)」の捉え方をしていると考えられるのである。

現在の不安を未来から不断の到来という必然性によりかかって解消している態度と解されるのである。
この場合に働く必然性は次に引く「過去既在型の今の永遠性」とは、若干違って可能的自己が生まれる際に「相対的偶然性」を帯びてくる。 それは過去になる時の必然性と未来がやってくる時の必然性を比べてみれば、「過去という」拘束と「それが無い」無拘束という条件の違いがあるからである。

151ワラシナ:2003/01/04(土) 22:02
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」5

4−4−1、若干堅苦しくなるが、整理してみると、「経験世界の時間様相の必然性に二種有り」とは、九鬼の著書には書いてないので、九鬼の思索を忠実に辿っていった私の思考なので間違ってるかもしれない。それによれば、「二種有る」訳は、「成り続けている事」「進行している事」を方向性の違いから区別したもので、「今」の不断持続性という現象(永遠性)には、

一つは、未来の、未在(無)から、新規未曾有の現在の(有)が不断に現象し続けていると見る「未来客観的今の永遠性」で、簡単に言えば未来が現在に成り続けていると見るものである。(この場合には現在が未在領域に置かれる)「永久の新しさに包まれ続けている一瞬」とも言える。

今一つは、現(有)が過去既在(無)に消滅し続けているとみる「過去客観的既在的今の永遠性」(この場合には現在が過去既在領域に置かれる)「永久(とわ)の、極限の古びに侵食され続けている一瞬」とも言える。

の二つの違いである。

4−4−2、両者は似たようなものかもしれないが、主語と客語が違う。未来、未在が主語でそれが、現在に持っていかれ続けている様、と現在が主語で過去に持っていかれ続けている様を区別しなければならない、時が自分に交わる時の自分の居場所のあり方が若干違うように感じたからである。

4−4−3、で詰まり「現在今」という元々が任意主観性(偶然という時の本質が主観性にある)がそれとして現象する為には、過去か未来のかどちらかの客観と合体して、その内面主体を客体性質に転換して不断持続性の現象として現す、それしか方法がない、関係を示しているのである。何れにしてもここで大事なことは、「現在」は元々が任意な主観性領域であるが、自己内面内部で「成り続けている現象」として自覚された時、過去側か未来側かの客観領域に配置される、ということである。

4−4−4、ところで、そのような「二種必然性の現在常住論」という上の考えは、元々の九鬼の結論「偶然性の時間本質の特徴は現在にあり」とどう関係しているのかが気になってくる。それは、九鬼の偶然性定義が必然性否定形であることで言えてくる。九鬼によれば、必然性とは「有が無に成ったり、無が有に成ったりする、二元が一元に帰着される思惟」でその否定形「有が無に直面したまま、無が有に直面したまま、二元対立に帰着される思惟」が偶然性となる。(と自分流に理解している。)

152ワラシナ:2003/01/04(土) 22:03
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」6

4−4−5、
であるから、経験的必然性の否定形「不断持続性の否定」が経験的偶然の本質となる。九鬼はそれを「邂逅(思いがけなく出会うこと。めぐりあい。)」といい、それを心理感情に翻訳して「驚嘆」と言った。それは、「持続性の突如的破綻、崩壊、離脱の反動感情」と言いかえられると思う。こういう形の偶然性は、現在でしか経験され得ず、現在の時間性の内のその一瞬性だけが強く自覚されるのが特徴となってくるから「突如的」と言う。
この偶然瞬間では、未来が現在に成らず、現在も過去に成らないので、時が止まり、時間が消滅したように感じられる筈で、「時の裂け目との邂逅」とも言え、一種の宗教的奇跡感情を帯びてくるように思う。

4−4−6
さて、ここまで来ると、九鬼説を発展させて「二種必然性定義」の側から、経験的偶然事「邂逅」の反動感情「驚嘆」も二種分けしたい誘惑に駆られてしまう。

不意にみまわれる<死との邂逅>などを「離脱性消滅驚嘆」として、「過去既在型必然性の否定形」に当て、不意にみまわれる<生との邂逅>などを「誕生驚嘆」として「未在型必然性の否定形」に当てる、と言う様な構想である。

4−4−7、この根拠として、例えば、宗祖の「観心本尊抄」の四十五字法体段「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」中の「、を離れ、を出で」の「離出性」という悟達獲得の一瞬間では、一会の大衆にとってそれは「離脱性消滅驚嘆」に等しかった筈だと考えられるからである。それまで所化大衆はそれぞれが既存の元品の無明煩悩の持続性に生きていて、釈尊顕本の瞬間は、一種の邂逅偶然性の一瞬でもあって、その悪い持続性が突如的破綻し、それは同時に既在型永遠性を獲得した瞬間でもあったと解されるからである。

4−4−8、さて、この型の場合の偶然が、経験世界で事実的に起きる「邂逅」なら、客観的に捉えられるていることになるが、命題概念的同一律でその本質が定義される定言的必然性が、冒頭から問題にしている「俺は俺であるべきもの」という自己同一的必然性だったわけである。

ところが、「今までもこれからも何をどうしてどうなろうが自分の勝手だ」という任意無規定的自己は、自己同一的必然性の否定形たる「定言的偶然性」を存立基盤にしている、と言えるのである。九鬼はこの「定言的偶然性」の特徴を「孤立性」「例外性」としたが、これが当を得たものである事が分かる。

何故なら、自分と言う歴史を不要とし、時間も不要とする、一切の関係性の埒外にいて自己そのものを無常化していると言えるからである。この時の内面主体は全くの主観性で出来ていると考えられる。何故なら、自己の客体化を拒否していると思えるからである。(若干話題からはずれてしまったが、、。)

153ワラシナ:2003/01/04(土) 22:05
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」7

5−0−1、上行顕本論のまとめ

さて、ここまでくれば、在世寿量品釈尊の報身顕本が、「過去既在型、過去客観的「今」の永遠性」を現したものといい得る。永劫過去の時間経過量はそのこと自体にあまり意味はなく、現在というものの捉え方の元になっている内面主体の客観的性格(=客観的主観性)を示す為の手段の意味に重きがある、と思う。

5−0−2、だがその様な事が言えるためにはまず「観心本尊抄」解釈が示されねばならない筈だが、それを省いたのは、「本尊抄」の肝心の四十五字法体段「今本時の娑婆世界は、、常住の浄土」の本質を「過去既在型、過去客観的「今」の永遠性」と言ってしまったからそれで済んだ積もりになっていたためである。「今本時」語の「今」を「成り続けが開始された最初の、成ったものとしての今」として「経験世界」の必然性の内の一つ過去客観型永遠性の獲得」と捉えたのである。

5−1、そして、現在常住性=今の永遠性の捉え方の方向性が釈尊とは逆な(元々過去を持たない未来向き)特性を自己の自己たることの内面本質(主観的主観性)としてそれを現したのが、上行菩薩(宗祖)の報身顕本と想定されるのである。

5−2、最初、在世鎌倉期までの御化導では、宗祖は在世寿量品釈尊の報身顕本の証明役として出現した在世上行菩薩の再誕のお立場で振る舞われた。法華経は釈尊の内面主体、魂を表現された経典だから、この立場では、釈尊帰一主義のお振る舞いなのである。ところが、釈尊内面は「単純な客観仏」ではなく「客観的主観性」の二重性格であった。在世上行菩薩は釈尊本因妙時代からその必然性の方向が釈尊と同じ向き「客観的主観性」を現している。ところが、竜口御法難で「御首刎ねられ」た。その際その事を「迹を払って」という「迹」が、ここで再三言った「客観的主観性」に当たると考えるものである。

そして、「魂魄佐渡に至りて」の「魂魄」語が、、「主観的主観性」に当たるもの、と考えるものである。この時からは、元々持っていた宗祖の内面主体が輝き出して、「未在的、新規未曾有の不断到来性の「今」の永遠性」として「現在」を捉えていると拝察されるのである。この瞬間は、過去という束縛を元々持たない、これから歴史が造られる「はじめ」であるから「元初」と言うに等しい。また相対的偶然性を帯びてくる。

常に過去向きの釈尊と常に未来向きの上行菩薩で両者居場所が違うように見えても、確かに現実の場所を選んで現象する時には、外面客体=応身相を違えて出現するから、違う場所かもしれないが、しかし、各自の内面主体(わたし報身)は共有されている。だが、その部分というか重心としているところが違っている、と言える。

154ワラシナ:2003/01/04(土) 22:06
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」8(最終)

5−3、上行菩薩が釈尊に対等なのがおかしいと思う道理も分かるが、だが、上で荒っぽく展開された釈尊上行内面一体論は、決して釈尊の権威を傷つけたものとは思われないのである。
言うところは、本佛釈尊の本佛の座席が一人掛けでなく二人がけの椅子でできている、という主張に過ぎない。従来は、一人がけの本佛椅子に一人お座りになっておられた本佛釈尊のところへ日蓮宗祖が押しかけて釈尊を蹴飛ばしてご自分がお座りになってしまった、釈尊蹴飛ばし論が宗祖本佛義のように理解される事が多かったのである。

5−4、「二人がけの本佛椅子」にどちらか一方が絶えず座っている関係のようなものと理解するものである。そしてこの二人の出現現象だけを証拠事実的に掲げて釈尊論を展開しているのが「観心本尊抄」と思う。


5−5、このように「二人がけ椅子」に喩えられるように釈尊内面(報身)を二重に複数化した事で真の釈尊の普遍化解釈が可能になった利点の価値を強調しているのである。本仏釈尊ひとりで何が不足かといえば、複数化する事で対十界衆生全てに対しての釈尊普遍性の獲得が可能になるからである。

5−5、地球上全人類が白色人種であったすれば、人種を包含する上位概念としての人類は意義を失う。現実には、皮膚の色様々な人種が複数いるから、人類なる「類的普遍性」の価値が出たのである。そこで釈尊内面が二重化している事は「釈尊自身にとっての‘わたし’」が釈尊以外の上行内面にも共有されている事に等しいから「釈尊のわたし」に「類的普遍性」がある事になる。そして、それは、下位概念たる釈尊種族と上行菩薩種族という「二つの釈尊種族」に分類され、両者は共に釈尊類として其の「類的普遍性」が共有される関係になってくるからである。また共有されるからこそ末法の衆生も在世の釈尊や十界衆生と間接的な関係で結ばれる事ができるのである。(この間接的と言うところが大事)「本佛釈尊の顕本によってその慈悲が十界全てに及ぶ」と言われる時、上のように拡大解釈してわたしは解している。

6−1、最後に若干の反省点
上の考えだけでは信仰論の裏付けとしては不十分と思う。取りあえず「自己同一性」問題と釈尊論の関係交渉に気づいた事の嬉しさからその点だけを取り上げたのである。余計なことも一杯書いたが勝手に省略した部分も多い。これは自分の為の謎解きだからそうなってしまう。
また、諸般の事情からあわただしくせかれたような文体になってしまった事はお詫びするものである。
(h15/1/4)

155ワラシナ:2003/01/04(土) 22:43
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」9(語句訂正)

4−4−3、「過去か未来のか」の「のか」を「かの」に訂正。
4−4−5、「奇跡」を「奇蹟」に訂正。

156犀角独歩:2003/01/04(土) 22:53

久方にワラシナさんのまとまった文章を拝読し、年頭に少し知的欲求が満たされたような気分になりました。

福重照平師は、いまでは石山でも異轍の如く扱われますが、たしかに、あの『日蓮本佛論』を面白いものでした。いまの時代にその正統な継承者はワラシナさんであると感じます。

全体の流れとして、寛師の本佛義から自在な視点を置き、さらに九鬼周三をもって論じられると、近代石山義をモチーフにし、哲学諸般を掌中にしたエッセイと言うより、耽美的な日記を拝見しているようで、ワラシナさんのお声が聞こえるようでした。

勝手な愚見というか感想を述べさせていただきました。有り難うございました。

159むむむ:2003/01/05(日) 08:33
ずっと過去ログを遡ってみなさんのお話し読んでて、ふと。はっきりいってただの思い付きです。
蓮祖の考えていた、本仏・久遠釈尊て、(久遠の)成道以前の菩薩時代の釈尊だったんじゃないかなー。その例えが不軽だったりして。すみません、バカなもんで。

160むむむ:2003/01/05(日) 08:43
思い付きついで
どなたかが人間としての日蓮像とおっしゃってたけど。
蓮祖のイメージしてた久遠釈尊も、人間としての釈尊だったんじゃないかな?
完成された伝説仏じゃなくて、泣きもすれば笑いもする血の通った久遠仏。
ゴータマさんだってそうだよね。
ダイバダッタの事口汚く罵倒してるし。

161むむむ:2003/01/05(日) 09:05
法華成立史って謎解きっぽくてワクワクしますねー。
でも嘱累を最後に持ってくるバージョンだと間に入る薬王品とかダラニ品とかが、何か変ですよね。
実は妙法華の順番が正しくて一度嘱累品で終わったんじゃないかなー?
で、あとから残りの六品付け足す時に経典の体裁つくる為(お経は嘱累で終わるというお約束)に多宝がまだいたりいなかったりしちゃったんじゃないかなー?
あ、そうだ「薩曇分陀利経」って宝塔・ダイバ品だけのバージョンあるそうですね?
聞如是で始まって、「薩曇分陀利の無央数のゲを説き終わった」という始まりだそうです

162むむむ:2003/01/05(日) 09:07
書き方がバカ丸だしでゴメンね。
でも、ここの人達なら知ってると思って。

163犀角独歩:2003/01/05(日) 09:12

むむむさん:

はじめまして。

> 159〜162

私は概ね、投稿の内容に賛同です。

164むむむ:2003/01/05(日) 09:22
「久遠釈迦菩薩の師」
難しいですよね。法華のような気もするけど。
でもそれまで、過去世で師弟が逆転する話しがあったりしたから案外その時は地涌が師だったりして。
人類みんな仏様って考えたら本仏も無数にいてもいいような…。
あと師なしで悟るって内薫なんとかだっけ?師がいてもいなくても悟りって基本的にはそうなんじゃないの?仏教って?
また、バカな事書いちゃった。
ゴメンね。

165犀角独歩:2003/01/05(日) 10:06

法華経を虚心坦懐に読む限り、釈尊を仏に成させたのは菩薩道です。また、この経典には無数(むしゅ)の仏が記述されているのも事実でしょうね。

むむむさんは、ご自身で「バカ」などと徳を隠していますが、なかなか深い見識をお持ちですね。「能ある鷹は爪を隠す」というところでしょうか。

166むむむ:2003/01/06(月) 02:06
受け売りなんだけど、薩曇分陀利の中で薩曇分陀利の無数のゲってことは、このゲは別経典で、化城を除く序(方便だったかな?)から法師で出来た経典の事じゃないかっていう説があるんだけど。序(方便)から法師では漢約では法華になってるけど、原典では「アグラダルマ(最上の法)」ってなってて、元々別のお経を当時の法華教徒が意味が通じそうだと合体させて、名前を正しい教え白蓮にしたんじゃないか?なんか深い味のあるタイトルにしたんじゃないかって説。だから訳だけ見ると羅什のって問題あるけど作品のテーマとか?(書き切れないから続く

167むむむ続き:2003/01/06(月) 02:28
読んだ人がどう感じるかに重点をおいたんじゃないかな?バージョンによっては「地踊」になってるって話を聞いたら、ますます図に乗って勝手な解釈したけど。経の中のここぞ!という時の奇跡は実はインド人のお約束で昔、お経を聞いてメチャ感動した人にはホントに(というかノリで)大地が震動して花がたくさん降ってきたんじゃないかな?って「踊るマハラジャ」って映画見て思った。ゲは実はメロディが有って。法華って実は大乗経のエンターテイメント超大作?だから日蓮さんの書も案外朗読にミソあったりして。また調子こいておバカな話ししました。

168むむむ:2003/01/06(月) 02:39
実は試しにマハラジャのテーマで序品の散文だけど最初のところ無理やりうたったら結構はまった。羅什ってリズムとか音感とかを意識して訳したんじゃないかな?
もひとつ「如来所演経典」如来が演(の)ぶる所の経典。如来が演ずる所の経典なんてわざと読んだりして勝手に戯曲でもあったのかな?とか、モーソーして、じゃ地涌のシーンは観客全員参加の総立ち?(シャッ化他方の檀上お役者スーパースター菩薩に対して無名の菩薩大集団なんてね。
映画演劇大好き人間の空想おとぎ話しでした。
チャンチャン。

169犀角独歩:2003/01/06(月) 21:02

うん。むむむさんが示すところ、言えてますね。
日本人が経典を読み出すと、途端にリズム、音楽、ドラマ性、そして、光が消えてしまいます。

170天蓋真鏡:2006/12/19(火) 10:53:05
[天台密教から法華一乗へ]【顕事】題目本尊【密事】一尊四士

171そううそ:2007/02/23(金) 22:19:20
こんばんは。はじめまして。「そううそ」といいます。
元創価学会員ですがこちらで質問しても良いでしょうか?

現代の研究において、日蓮の真筆遺文あるいは(真筆が存在した)曾存の遺文から
日蓮の本尊観はどのようなものなのでしょうか?

皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
お答え頂く際に皆さんの基になるお考えが分かりませんので、ご面倒でも
”私は日蓮正宗の人間ですが、正宗のここには賛成してここには反対です。”
こんなかんじで書いて頂けると幸いです。

元学会員でしたので以前は下記のような学会教学を信じて無謬であると信じていました。

http://www.sokaspirit.com/content-ja/matsuoka/chapter01.html
 学会の池田大作名誉会長が長期にわたって行った教学対談の中に「日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった」i「大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を観じとり、御自身の生命のコスモス(宇宙)を虚空会を用いて御図顕された。それが、十界具足の曼荼羅本尊です」
(中略)
個々人が曼荼羅本尊への信を通じて本仏の内証を直接継承する、という意味での「信心の血脈」が最重要事となるわけである。

 こうした理論には今では否定的です。
創価学会の信仰に功徳はあるか? 一念三千、法華経、文底、題目、本尊 の議論
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/02c65be0a900979851c506574dab380a

>>124-126の問答迷人さんと三学無縁さんの考えに私も賛成します。

●虚空会、霊山会の違い

○虚空会、霊山会はどう違うのでしょうか?


>>118
>平成版御書全集の全体を探しても、『御本尊様は虚空会の儀式を図示したものだ』という箇所は見当たりません

sokanetで「虚空会」を検索すると5つ出てきますが、御義口伝、御講聞書は除いて他も全て偽書なのでしょうか?
(真筆が存在した)曾存の遺文でもないということでしょうか?
ネットにあったエクセルの表で個人見解?において真筆度が低かったですが。。。。。

下山御消息(359ページ)
 十方の諸仏は各各の国国を捨てて霊山・虚空会に詣で給い宝樹下に坐して

釈迦一代五時継図(639ページ)
 二処三会の儀式 二に虚空会 宝塔品より神力品に至る十一品

諸法実相抄(1360ページ)
 過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん

172そううそ:2007/02/24(土) 01:03:07
>○虚空会、霊山会はどう違うのでしょうか?

これは取り下げます。検索したら出てきました。
折伏の際には「虚空会」しか使っていませんでしたね。
どこかで二処三会は学会の書籍で読んだはずですが、
これを折伏で口に出した事はないですね。

173パンナコッタ:2007/02/24(土) 01:24:11
そううそさん、はじめまして。ブログの方拝見させていただいています。

詳しくはのちとしまして、かいつまんで
霊山会については、本尊三度相伝の
「今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり、末法広宣流布の時分に於いて
本化弘通の妙法蓮華経を受持せん輩は霊山一会の儀式を直に拝見し奉る者なり」
の事でしょう。
また、下山抄は真筆断片未存部分、一代は未決文、諸法は未決文で偽書が有力視されていますね。

174犀角独歩:2007/02/24(土) 09:53:34

パンナコッタさんのご投稿楽しみです。
「虚空会の儀式」については、以下の如き、先行議論があります。

03/03/21:顕本法華宗の見解
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/578

03/08/07:顕正会員の見解
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573970/390

03/11/05〜07:Libraさんとの会話
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573638/154-156

05/01/18:彰往考来さんとの会話
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/432-437

05/07/23〜08/02:乾闥婆さんとの会話
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/83-108

06/07/14〜08/19:主に『人間革命』の記述に掛かる常連さんとの会話
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1067405428/175-228


パンナコッタさんが引用されたとおり、石山では古来から、本尊図示は霊山の儀式ということになっています。

また、中世においては『御義口伝』に

「第十四 時我及衆僧倶出霊鷲山事 御義口伝云霊山一会儼然未散文也。時者感応末法時也。我者釈尊及者菩薩聖衆衆僧説タリ。倶者十界也。霊鷲山者寂光土也。時我及衆僧倶出霊鷲山也。可秘可秘。本門事一念三千明文也。御本尊此文顕出玉フ也。サレバ倶者不変真如理也。出者随縁真如智也。倶者一念也。出者三千也云云。又云時者本時娑婆世界時也。下十界宛然曼陀羅顕文也。其故時者末法第五時時也。我者釈尊及菩薩衆僧二乗倶者六道也。出者霊山浄土利出也。霊山者御本尊也」

と「霊山とは御本尊」とあります。

創価学会における「虚空会の儀式」の定型化は、もちろん、『人間革命』移行のことでしょうが、では、戸田さんは何の影響を受けて、このようなことを言い出しかと類推すれば、上古以来の籍山教学ではなく、たぶんは他派の日蓮教学解釈の影響に拠ったのでしょう。それは顕本法華宗であったり、また国立戒壇論の如きは国柱会にも拠ったのでしょう。ついで、顕正会も、同様の影響を受けていたことが窺われます。

175犀角独歩:2007/02/24(土) 11:39:02

【174の訂正】

誤)『人間革命』移行
正)『人間革命』以降

誤)籍山教学
正)石山教学

176パンナコッタ:2007/02/25(日) 01:11:37
有益な過去のやり取りを独歩さんが紹介して下さったので、この点は特に自分が
言うことはないですし、そちらをご覧になって下さい。
また、釈迦一代は未決としましたが、後代かなり人の手が加わったものと考えられます。

さて、独歩さんに期待されても困りますが、蓮祖の本尊観という事で真蹟遺文中を見てみると
"本尊"の記述は15編を数えますが、そのうちの諫暁八幡抄の
『我が弟子等の内、謗法の余慶有る者の思ひていわく、此の御房は八幡をかたきとすと云云。
これいまだ道理有りて法の成就せぬには、本尊をせむるという事を存知せざる者の思ひなり』
『此れを対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮、氏の神を諫暁するは道理に背くべしや。
尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。蘇悉地経に云く「本尊を治罰すること鬼魅を治するが如し」等云云。
文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間、法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしばり、
或は打ちなんどせよととかれて候。相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。此れは他事にはにるべからず』
    
この辺を見てみると、八幡の諫暁を本尊治罰と等閑視して正当性を主張していますね。
現在でも縛り地蔵は各地にありますし、選挙の片目ダルマも脅迫行為で成就させる形の一つでしょう。
しかし、富士系の信者が功徳が出ないからと言って"御本尊様"を縛ったりするでしょうか?
(半狂乱で唱題する人や、棄教して敵意を持って破壊行為をする人はいるでしょうけど)此処の所は、
唯一の礼拝対照として"本尊"を見る富士系信者と、蓮祖自身の温度差のある部分でしょう。

現存しない紙幅や遺文は結構あるので不明な点が多いとしか言いようがないのですが、
日眼女釈迦仏供養事や四条金吾釈迦仏供養事の存在は、当時の信徒のスタイルを伝えているものでしょう。
蓮祖自身が漫茶羅正意を信徒に押しつけたのではない証ですし、画一的ではなく人によっては
釈迦仏を建立出来る富のある人もいるけど、そうではなく唯題目だけを唱えている人もいる。
そんな人には法華経二十八品の要として、主題が"本尊にもなりうる漫茶羅"という位置づけだったのかもしれませんね。

177犀角独歩:2007/02/25(日) 09:47:27

パンナコッタさん、おはようございます。

実に興味深いご投稿と拝しました。

まず前題の補足、「虚空会の儀式」について。
富要で見る限り、この用法は、ほとんどありませんね。
ただ、『百五十箇条』に「昔虚空会の時は釈迦を本尊として脇士に上行無辺行の四菩薩・迹化他方あり是脱益の導師なり」と、まあ、類型といえば、そう見えなくもない一文はあります。
一方、日蓮門下通論では、この考えは一般的のようですね。『日蓮宗事典』には「日蓮聖人はこの妙法を虚空会説法の儀式に則り、曼荼羅に顕現された」(「虚空会」の項)。まとめれば、以下の如くです。

┌日蓮門下通論 虚空会の儀式
└富士門下相伝 霊山会の儀式

ところが『人間革命』以降、創価学会は、日蓮宗通論を採ったということでした。
個人的には日蓮の意向は、富士相伝に結構したほうが近似値であると考えています。

さて、次。『諫暁八幡抄』における本尊のご考察。これはたいへんに参考になりました。日蓮の当時、本尊治罰という風習があったのでしょうね。同抄における本尊とは、八幡大菩薩像ではないでしょうか。

よく、故事で、海中とか、山中から御像が発見される物語があり、わたしは不思議に思っていたのです。今回、この謎が解けました。要は、祈念して効験がなかった尊像は治罰する、時には棄て去ることが一般に行われていた前提があるために、海や山から、その棄てられた仏像が発見される物語となったのでしょうね。時系列として、後者は、本尊治罰という風習が廃れたあとの発見であれば、合点もいきます。

178犀角独歩:2007/02/25(日) 10:03:36

余談。今回、パンナコッタさんが引用された『諫暁八幡抄』には、以下の一節があります。

「八幡大菩薩は本地月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若爾者此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給とも、法華経の行者日本国に有ならば其所に栖給べし」

法華経の行者の許に、神は栖んでいるというのです。
それを神去法門といって、天を拝むことは、本抄の意に合わないことだと改めて思いました。

179そううそ:2007/02/26(月) 00:39:57
こんばんは。

パンナコッタさん、犀角独歩さん、たくさんのお返事有り難うございました。

日蓮の本尊観についてはパンナコッタさん、
>>124-126の問答迷人さんと三学無縁さん達と同じ様な印象、感想を持ちました。
創価の様にとにかくまずは入信しないと駄目、御本尊を持たないと駄目とか

「本尊を理由に罰や幸不幸で人を縛り付けるものではない」

ということが伺えますね。
むしろ人の幸不幸や祈願成就が大事(というように解釈できますね。)であり、
本尊を縛り付けろ!とは(笑)(^_^;)

>"御本尊様"を縛ったりするでしょうか?

あり得ないですね。
日蓮を信ずる人にとっては日蓮の本尊を疑う余地はないでしょうね。
修行の足りない自分に原因がある、ということなのでしょうね。

>犀角独歩さん

たくさんの引用感謝します。
全てを理解できていないのですが、何度も読んでみたいと思います。

>ところが『人間革命』以降、創価学会は、日蓮宗通論を採った

これ、ふと折伏された時のことを思い出していました。

虚空会や霊山会の話題と一緒に話したかどうかが記憶が曖昧ですが、
もしかして「霊友会」と誤解を招かないように明確に分ける必要が
あったのかもしれませんね。
それで「虚空会」を多用したのかも。

>天を拝むことは、本抄の意に合わない

とのことですが、日蓮は最初、朝日に唱題したはずですが、
諫暁八幡抄執筆時点では変わったという事でしょうか?
それとも両方を肯定されますか?

独歩さんのお考えは一番新しいコメントのこれということでしょうか?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/108

今、MCも勉強中なのですが、犀角独歩さんのここの発言
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1067405428/212
私が以前から思っていた「人間革命によるMC」と同じだったりします。(^_^;A
MCは自分にとって難しいので思っている事もなかなか文章に出来ていないようです。

色々有り難うございます。本尊論は引用前後も読んでみます。

180犀角独歩:2007/02/26(月) 08:24:52

そううそさん

> 虚空会や霊山会の話題と一緒に話したかどうか…「霊友会」と誤解を招かないように明確に分ける必要があったのかもしれませんね。
それで「虚空会」を多用したのかも。

うーん。まあぁ、そういうことではないでしょうけれどね。
因みに「霊山会」という団体はあります。

【りょうぜんかい】湯川日淳(一八七六−一九六八)の提唱する唱題行運動に賛同し結集した僧俗一体の信仰団体をいう。日淳は既に戦時中行われた玉沢の日蓮宗錬成道場において唱題正行を強調して唱題行の指導に当り、敗戦後は国土の荒廃、人心混乱を唱題行普及により救済することを発願した。そのため昭和二二年(一九四七)長崎県大村本経寺より、同信の者と共に身延山に集り、九月一日より五日間、唱題行中心に行学講習会を開催し、霊山会と称した。爾来春秋二期に、身延山信行道場・清澄山(一九四九−五六=別当職)信育道場において霊山会を開催し、また全国各地においても霊山会が開催された。昭和三三年三月に、東京石神井に唱題道場釈尊教会を建立し、霊山会本部を置き組織的に唱題行の普及を計った。昭和四〇年には霊山会を求道同願会と改称し、京都本山本法寺(一九五六年晋山)に本部を移す。昭和四三年五月一七日、釈尊教会を開妙山釈迦本寺と寺号公称し、唱題行の根本道場とした。同年七月二一日、日淳遷化するや、本法寺より本部を釈迦本寺に移し、求道同願会二代目会長を真間山弘法寺貫首鈴木恵隆が、釈迦本寺二世を弟子権藤泰隆がつぎ、法灯を継承した。(日蓮宗事典)

> 日蓮は最初、朝日に唱題したはず…諫暁八幡抄執筆時点では変わった

わたしが記したことは「日蓮が」ではなく、「日興が」「大石寺が」ということです。

> 独歩…考え…一番新しいコメント

四衆僧伽という視点から、八正道を指標し、しかし、対他的には、後天的な発生原理であるが菩薩道は棄てるべきではないという考えはあります。

> MC…犀角独歩…発言
> …「人間革命によるMC」

まあ、小説『人間革命』をツールとするMCとは言えるでしょうね。

181パンナコッタ:2007/02/26(月) 15:12:24
ここの処遅く、深夜の纏まっていない投稿ばかりで非常に恐縮です。

学会の場合、「常住此説法」「我常住於此」「常在此不滅」→過去世に説法を聞いた、虚空会。
現世滅後に霊山へ と、イメージ付けているの感じですね。
また、人間革命以外にも、最近の大白蓮華は"平和・文化・教育運動を推進する創価の理論誌"との
副題も落ちて、まるまる一冊、名誉会長賞賛の内容に成り果てていますね。


もう一点、"本尊"の語彙使用で曾谷入道殿許御書(文永十二年三月十日・1275)があり。その中の
『不空三蔵の還りて天竺に渡りて真言を捨てて漢土に来臨し、天台の戒壇を建立して
 両界の中央の本尊に法華経を置きし等是也』 がありますが、
割と不空を肯定的に捉えたこの記述は、法華儀軌の事でしょうし(天台の戒壇、不空の両界は?ですが)
直接関係はなさそうなのですが、金胎両界大日勧請のNo.018(文永十一・1274)をなにやら連想しますね。
むろん撰時抄(建治元・1275)での不空叩きをみれば、伝・建治元年十一月の両界大日勧請の漫茶羅が在ったとしても
以後作られた事は無いでしょう。(関連があればですが)
撰時抄は推敲の多さで有名ですし、花押の鍵手が出現した時期でもあり思考と漫茶羅本尊の位置は、
常に蓮祖の中では進化系と見受けられますが、本尊=漫茶羅 と蓮祖に遡れるのは保田の大本尊と是日尼の記載
のみなので、遠からず何か関連があるかもしれなさそうな物は、みなさんのヒントになるかもと思い、
記してみました。

182パンナコッタ:2007/02/26(月) 15:17:36
失礼
>過去世に説法を聞いた、虚空会。
 →過去世に説法を聞き、現在進行形でもある虚空会。

>イメージ付けているの感じですね。
 →イメージ付けているような感じですね。

183そううそ:2007/02/28(水) 06:27:55
こんばんは。

犀角独歩さん

>わたしが記したこと

理解できました。

パンナコッタさん

>最近の大白蓮華は(中略)まるまる一冊、名誉会長賞賛の内容に成り果て

そうですか、成り果てましたか。。。。。
名誉会長の行動(だけ?)が「平和・文化・教育運動を推進」ということなのでしょうね。
自画自賛ですが学会の言いたい事として、おそらく何らかの賞賛する理由を一応は書いてはあるのでしょうけどね。

>割と不空を肯定的に捉えたこの記述は、法華儀軌の事

法華儀軌の事はさっぱり分からないのですが、
----------------
本尊問答抄(真筆なし?) P0365

 二には法華経の釈迦多宝等を引き奉れども法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし、不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり。
----------------

----------------
http://wame.seesaa.net/article/9692959.html
御書(全集)を読めば明瞭ですが、本尊抄、報恩抄、開目抄等
(中略)
日蓮(大聖人)は明言されています。
----------------
 これに賛成です。それと数にしていくつの曼陀羅がLibraさんの言う「日蓮は東を向いている」のかは分かりませんが「日蓮は東を向いている」は同意できます。結局の所、虚空会、霊山会どちらなのかは解釈が2つあるようですね。虚空会、霊山会どちらか一方に私の中で断言できませんでしたが、本尊観は以前よりは明確にする事が出来ました。

有り難うございました。

184犀角独歩:2007/02/28(水) 06:45:58

そううそさん

そう簡単に納得できるものですか(笑)

日蓮の本尊語の使用はもっと多様です。
そのなかに『本尊問答抄』が真筆であれば、同抄に展開される本尊観もあるということです。

殊に同抄では「末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定べきや。答云、法華経の題目を以て本尊とすべし」と法華経典ではなく、題目本尊を言っています。しかし、儀軌は法華経典を本尊というのです。題目と経典は違います。
この点は、大いに難問の筈です。

なお、Libraさんが「日蓮が東を向いている」というのは、日蓮漫荼羅は法華経宝塔品の多宝塔をモデルにしている故に、西に向いている。となれば、その前に座している日蓮は東向きということでしょう。
では、日蓮が上行だということはどうなるのかという問題が生じます。
日蓮上行のわけですから、同一人物が両方いることになります。
この点を説明したのは日教で、互為主伴をもってきて説明したのでしょう。

わたしの考えは、以上とは違い、漫荼羅の図示と日蓮花押は別、図示した漫荼羅允可の意義を署名書き判で表したわけだから、日蓮に向きもなにもないという考えです。

185パンナコッタ:2007/02/28(水) 15:30:09
儀軌なんぞ持ち出して、すいません。 しかし、本尊問答抄の真筆があったとして刊本録内の記述どうり
弘安元年のものなら、辻褄は合っている論理でしょう。(笑)
曾谷入道を持ち出したのは、この前後の時期において真言批判を加えた心境の変化が漫茶羅本尊にも
現れているのではないか と試みたつもりで、四箇格言が当たり前の前提になっている現代の我々にとって
違和感のある大日勧請の意味は、蓮祖の不空に対する見方が要因の一つではなかったのかと思った次第です。

ちなみに、遡れる本尊問答抄は北山日興本ですが後1/3の部分はなく、現在活字化されている全文は
正応三年庚寅七月十五日書写之 日源の実相寺本ですね。

186パンナコッタ:2007/02/28(水) 15:43:09
本尊問答抄の追加
茨城の富久成寺にある写本"伝・日興本"は、日興筆ではないようですね。

187犀角独歩:2007/02/28(水) 16:39:47

パンナコッタさん、どうも。

話が錯綜してしまいましたが、仰る所は、大筋、そのとおりだと思うのですが、わたしが申し上げているのは『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳」とあり、日蓮は明確に五字は経典でないと、ことわっているからです。

それにもかかわらず、『本尊問答抄』で「法華経の題目を以て本尊」と言いながら、そこで挙げる文証は「天台大師法華三味云於道場中敷好高座安置法華経一部亦未必須安形像舎利並余経典唯置法華経一部等云云」などというのでは齟齬を来すだろうというのが、わたしが記したことです。

日蓮は、経典より、題目の五字を優位に置いたわけですから、経典を以て本尊としたから、題目が本尊であるという論法は成り立たないという意味です。

188れん:2007/02/28(水) 17:23:01
横レス失礼します。

パンナコッタさん
茨城県富久成寺蔵の本尊問答抄写本は本文は他筆ですが、末尾に日興筆で「弘安五年月日」とあり、日興所持本とでも称すべきものの様です。富木常忍氏の目録にも写本の部に本抄は出てくるので、日蓮の写本遺文の著述の中では上代の記録に残っている確かなものの範疇にはいるのではないかと愚考します。


犀角独歩さん
本尊問答抄で、日蓮が自義として、広略要の中の要・文義意の中の意である上行所伝の題目をもって本尊とすると主張するならまだしも、強いて天台のあの釈を持ち出して“文証”に備えたので、現代人の感覚からすると齟語をきたしているということになるということなのでしょうね。

189犀角独歩:2007/02/28(水) 19:08:43

れんさん、仰る意味での違和感です。そう思うわけです。

190パンナコッタ:2007/02/28(水) 19:58:01
>>187
独歩さん、これは自分の悪文投稿で話をこじらさせてしまい、申し訳ないです。
仰る論法の意味、理解しております。

>>188
れんさん、ありがとうございます。 以前、書写日なのか本文の日付なのかどっちなのかと、
あったような気がしたのですが、実際の処どうなんでしょうか?
本尊問答抄は、つれづれにメモしたような断簡を後代無理矢理一つの文章にした気がするのですが。

191天蓋真鏡:2007/02/28(水) 22:59:25
横レス失礼します。 ●日蓮在世の時は『法華一乗』を信者学者行者其れぞれのタイプが目指していたから、漫荼羅も引用文証もちょっとずつ違っていたのでしょうか。●摂受の証?

192れん:2007/02/28(水) 23:15:47
パンナコッタさん
富久成寺本の日興の年月日の書き入れは、書写日ではなく、恐らく本写本を書写した人から譲り受けた年を後に記入したものと思います。日源本・富久成寺本ともに本文は無記年ですので、源師や富久成寺本の書写者が底本にした原本は恐らく無記年で、そうとう後代の写本に弘安元年云々がある様です。

>つれづれに記した断簡を後代に…

真蹟が伝わらないので、何とも言えませんが、後代といっても、日興が富久成寺本を所持したのが弘安五年と思われるので、少なくとも日興が富久成寺本に記入した弘安五年には本抄の現態は成立していたと思います。このことを考えますと、本抄は日蓮在世の成立、つまり日蓮の著述の可能性もある写本遺文の一つであると思います。

193パンナコッタ:2007/03/01(木) 12:06:26
れんさん、
詳しい解説、ありがとうございます。

194そううそ:2007/03/02(金) 20:02:28
こんばんは。

>犀角独歩さん

>そう簡単に納得できるものですか(笑)

ええ出来ません。(笑)

私は仏教の歴史や文献をほとんど知らないのですから、そう簡単に納得は出来そうにないだろう、、、との考えから、
皆さんのお考えを聞きました。

私は理解や議論参加できないと思いますが、新たな議論が読めるだけでも嬉しいです。

それにここで決着がつくのであれば、2002/07/30(火) 19:07からのスレッドなんですから
とうの昔に決着がついていると思います。
これは以前にLibraさんと独歩さんの本尊の議論を呼んでますますそう思っていました。

(皆さんの結論だけを聞く形になってしまい、皆さんにはご不快でしょうか?
もしご不快であれば申し訳ないです。)

>しかし、儀軌は法華経典を本尊というのです。題目と経典は違います。

そうでしょうか?
(法華儀軌の事はさっぱり分からないのですが、)日蓮は題目=経典なのではないでしょうか?
元々、法華経という”経典”の題名から”題目”が成立しているのでは?

本尊(=題目=法華経)は経典の一部を受持読誦ということではないでしょうか?
人が本尊なしで題目を唱える事、読む事は無意味ではないとの前提に立って、さらに本尊や経典があればベターなのでは?
日蓮は慈悲を理由?に信徒には題目だけでもいいよ、という許容ではないのでしょうか?
当然、僧侶などには法華経(その精神も含め)そのものの受持読誦が必須だったのではないでしょうか?

>>187
>日蓮は、経典より、題目の五字を優位に置いた
>経典を以て本尊としたから題目が本尊であるという論法は成り立たない

有り難うございます。
よく考えてみます。

蛇足ですが、「本尊は経典の一部を受持読誦」と書いていますが、
私は以前から「創価学会には言葉を省略する伝統みたいなものがある」と思っていました。
記事に書こうかと思ったくらいです。
余りにも下らない事に思えてアップするのを辞めてしまったのですが、再考するかな?
師弟不二とか南無三!(南無三宝)とか。。。

ふと思ったのですが、新たな言葉が出てくる事や省略される事は仏教の歴史上、問題になった事はあるのでしょうか?
これが議論されたスレッドはあるのでしょうか?>皆さん

>では、日蓮が上行だということはどうなるのかという問題が生じます。
>日蓮上行のわけですから、同一人物が両方いることになります。
>漫荼羅の図示と日蓮花押は別、図示した漫荼羅允可の意義を署名書き判で表した、

そういえば、学会員時代には 題目と上行菩薩で二人いるという疑問を持ち、
質問を学会員にした事がありましたが、例によって例のごとく答えが返ってくる事はありませんでした。
当時は題目=日蓮の生命=宇宙のリズム、宇宙の生命を信じていました。

日蓮花押は花押として理解していましたね。
そういえば本尊の花押が日興以降も全部日蓮花押なのは可笑しいですね。


このBBSのどこかで御書の真筆度を書いたエクセルの表がありました。
既にダウンロードはしたのですが、アドレス表記を自分のブログにしたいのでご記憶の方はいらっしゃいませんか?

195そううそ:2007/03/02(金) 20:24:32
>BBSのどこかで御書の真筆度を書いたエクセルの表

私がファイル名を変えていなければ、「goibunhyo.xls」のようです。

196犀角独歩:2007/03/02(金) 21:44:23

194 そううそさん

> 私は理解や議論参加できない

そんなことはありません。

> 皆さんにはご不快でしょうか?

そんなこともないでしょう。皆さんもそうお感じになっていると思います。

> 日蓮は題目=経典なのではないでしょうか?

違いますね。先に『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳」と引いたとおりです。

> 元々、法華経という”経典”の題名から”題目”が成立しているのでは?

日蓮の思惟としては、むしろ逆ではないでしょうか。
法華経典の時制は、今番、印度応誕の釈尊の時代です。
一方、題目は五百塵点に置くわけでしょうね。
ただし、これを受け取ったのは、先の時制です。

> 本尊(=題目=法華経)は経典の一部を受持読誦

誤解はないと思いますが、「一部」とは、日蓮の用法では法華経典全巻を意味します。現代の用法の意味の一部分とは違います。
経典の(現代語の)一部を受持読誦するのではなく、題目(現代で言う題名)を受持、唱えるということです。

> 人が本尊なしで題目を唱える事、読む事は無意味ではないとの前提に立って、さらに本尊や経典があればベターなのでは?

これは現代的なアレンジで、日蓮の教えとは違います。
日蓮は上行所伝の妙法蓮華経の五字が釈尊の因行果徳の二法を具足するといい、その五字を受持すればその因果の功徳をを自然(じねん)に譲与されるというのです。ここにおいて、既に法華経典ではなく、題目の文字五字を選んでいます。

> 日蓮は慈悲を理由?に信徒には題目だけでもいいよ、という許容ではないのでしょうか?

ここでいう題目とは何を意味しますか。

> 当然、僧侶などには法華経(その精神も含め)そのものの受持読誦が必須だったのではないでしょうか?

これは、先の『四信五品鈔』と齟齬を来します。

> 師弟不二

日蓮が、こんなことをどこで言っているのでしょうか?

> 南無三!(南無三宝)とか

仏と法、そして、僧。在家仏教ではそろわないことです。

> 新たな言葉が出てくる事や省略される事は仏教の歴史上、問題になった事はあるのでしょうか?
これが議論されたスレッドはあるのでしょうか?>皆さん

日蓮以後の教学の見直しは、すべてこの線で為されてきましたが?

> 本尊の花押が日興以降も全部日蓮花押なのは可笑しいですね。

これは仰っている意味がよくわかりません。
日興以降は、「日蓮聖人」「日蓮御判」「日蓮在御判」ではありませんか?

197犀角独歩:2007/03/03(土) 18:45:28

自己レスです。日本語というのは難しいですね。
誤解はないと思いますが、

> そんなこともないでしょう。皆さんもそうお感じになっていると思います。

そんなこともないでしょう。皆さんも「不快、そんなことはない」、そうお感じになっていると思います。

という意味です。

198そううそ:2007/03/05(月) 22:30:25
こんばんは。
お返事が遅くなってすいません。

>違いますね。先に『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳」と引いた

>日蓮の思惟としては、むしろ逆

>一方、題目は五百塵点に置くわけでしょうね。
>ただし、これを受け取ったのは、先の時制です。

日蓮の本尊観や題目観には多少、疑問が残っていますので、調べたくなってきました。
もう一度よく考えてみたいと思います。

>誤解はないと思いますが、

あ”ーーーー大変に申し訳ありません。
私のブログ内でも頭の中でもここでもゴチャゴチャにして使っています。
ここでのコメントは「部分的に」という意味で使っています。

>妙法の五字が釈尊の因行果徳の二法を具足する
>題目の文字五字を選んでいます。

創価学会でも同等の説明を学んでいます。
日蓮の題目観は確かにおっしゃるとおりだと思います。

私の題目観は元々、サダルマプンダリーカスートラの翻訳されたものなので日蓮ほど肯定できていません。

>ここでいう題目とは何を意味しますか。

唱題する事かあるいは経文を前に題目を唱える事、と考えています。

>>師弟不二
>日蓮が、こんなことをどこで言っているのでしょうか?

当然、創価学会だけです。いらぬ語句を持ち出してすいません。
師弟という意義深さから師弟不二という省略された言葉が出来た事例というだけです。
(私個人は創価の師弟不二には否定的です。)

>>仏教の歴史上、問題になった事はあるのでしょうか?
>日蓮以後の教学の見直しは、すべてこの線で為されてきましたが?

日蓮以後の教学の見直しは日蓮系宗派にとって、新たな考え方を追加するのか
それとも原点回帰される方向にあるのでしょうか?
曖昧かつ大まかな質問で申し訳ありません。
これは本尊論に限ってお話しして頂いて結構です。

>「日蓮聖人」「日蓮御判」「日蓮在御判」では

そういえばそうだったような?(^_^;A
最近、真筆写真ばかり見ている気がします。
忘れているという事は私にとって良い事です。
所持していた本尊にこだわりが無くなりMCが一つ解けたかな?

200犀角独歩:2007/03/06(火) 10:22:39

※お名前を間違えました。再投稿させていただきました。

そううそさん、恐縮です。
『創価学会の信仰に功徳はあるか?』も最近、拝読させていただいております。

> 日蓮以後の教学の見直しは日蓮系宗派にとって、新たな考え方を追加するのか
それとも原点回帰される方向にあるのでしょうか?

創価学会などの組織にいると、他者蔑視が盛んで、他では日蓮のことはちゃんと考えていないような錯覚を覚えがちです。実際は、そんなことはなく、かなり真剣に研究されています。

「新たな考え方を追加する」というような認識はないように見えます。いっぽう「原点回帰される方向」というのは、あるのではないでしょうか。教学研究はこの線でしょうね。

本尊論に関しては、当然、片岡随喜師、山中喜八師といった先哲はあるでしょう。日蓮の御筆大漫荼羅研究は真摯に為されていると思います。
現代でも、ここでよく名前が出る中尾堯師、都守基一師、桐田征一師など、わたしも敬意を表し、その研究を参考にさせていただいております。
わたしは、在野で実際の真筆に触れることができないわけですが、最先端では、科学的分析にまで立ち入って研究は為されているわけです。
先の当方の合宿でも拝観させてもらいましたが、日蓮の真筆は、書道的な見地から真偽を判定するなどと言うレベルではなく、使われている紙の科学分析がむしろ先行している観があります。このようなことは現代だからこそできることですね。

教学的な側面では、以下、『大崎学報』所載論文程度は、ここで議論をされている皆さんは、ほぼ、お読みになっています。

http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/index.html

さらに石山議論では、富士宗学要集、日宗全興尊部、歴全、さらに文献影本を手にとっての議論です。わたしは、歴全・影本資料は手薄なので、皆さんのご教示を仰いでいます。

本尊というのは、信仰の対象であるわけです。また、自分たちが受け取った在り方という経験値がそれに付随します。このために本尊を考えているわけですが、それがためにかえって、その意味がわからなくなるパラドックスがあるように思えます。また、最近、特に感じるのは、石山周辺の議論については、教相と観心について混乱があると思います。

それと石山・学会が印刷本尊を濫造頒布したために、本尊は万人が持つ必携のような誤解が、しばしば生じているように思えます。
日蓮の漫荼羅は、いわば個人仕様で万人を相手取っていないという当たり前の基本から議論が脱線しています。漫荼羅=本尊とう等式も単純化であれば、書かれている内容で、その意義が決まるとするのも単純化ですね。
日蓮は終生、釈尊一体立像を本尊としていたことは動かし難い事実です。しかし、漫荼羅本尊正意という宗派が有する固定観念を引きずった形で発言が為されることも多いですね。

以上の有様を見ると、原点回帰も、新たな方向性も生じないだろうと思えます。ただ、当掲示板のように、各人の意思で選び取るような場に置いては、それぞれの見地で本尊を掌握していく方向は生じるだろうと思えます。

> 所持していた本尊にこだわりが無くなりMCが一つ解けたかな?

MCとの関わりはどうであるかわかりませんが、日蓮真筆への原点回帰は、たいへんにけっこうなことであろうと思います

201天蓋真鏡:2008/04/29(火) 04:48:37
本仏=釈尊、本尊=内証、でしょうか

202犀角独歩:2008/08/07(木) 12:58:52

以下、mixi のわたしの日記から、諸賢のご批正をいただければと存じます。

■此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国

過日、OMさんと話し合ったとき、日蓮宗の某機関の中心的な人物が、「日蓮聖人の漢文の用法において「為」を“ため”と読むものはない」といったという。
これは、つまり、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」の“為”を如何に訓読するのかという問題についての話題だった。
門下一般と大石寺の訓読の相違に係ることだった。
そのとき、わたしは手許に遺文も何ももっていなかったが、どうも釈然としないものが残った。もとより、該当の文は“ため”との読みに当たらないが、どうやら、この人物は門下一般の読みに疑義があるという。わたしは大石寺読みから門下一般の読みに転じた者であるから、この方とはちょうど逆の経緯となることになる。

それぞれの訓読を挙げる。

「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士とな(為)りて、一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし」(門下一般)

「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(大石寺)

こうしたことで資料手放しで、あれこれ意に任せて諍うことは、まことに時間の無駄である。よって、ここでは『本尊抄』の“為”の用法が瞥見してみればよい。

所以称為不可思議境
以三千而為指南
為正修方便
草木有心如有情可為成仏如何
外典内典共許之為本尊
若人為仏故乃至皆已成仏道等
章安大師云仏将此為大事
此法華経最為難信難解
>設雖為仏説難取信
学大乗者雖有肉眼名為仏眼
四韋陀等為縁入正見者有之
以自見為正義故
然以天台呼小乗為三蔵教其名謬濫等
已今当説最為難信難解
仏将此為大事
此法華経最為難信難解随自意故等
已為臣民之所宗敬諸大王子以為伴侶
諸大菩薩以為眷属乃至常為諸仏之所護念慈愛偏覆
胡法以六為具足義
吉蔵疏云沙者翻為具足
其有能護此経法者則為供養我及多宝
・其本尊為体
正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士
進者以華厳経等前四味為助縁令覚知大通種子
或聞一句一偈等為下種
或至普賢涅槃等或正像末等以小権等為縁入法華
涌出品半品為序分
寿量品前後二半此為正宗
譬如雖為王女懐妊畜種其子尚劣旃陀羅
迹門十四品正宗八品一往見之以二乗為正以菩薩・凡夫為傍
再往勘之以凡夫正像末為正
正像末三時之中以末法始為正中正。
以本門論之一向以末法之初為正機
以久種為下種…迹門為熟…末法之始為詮
>設雖為教主一仏将勧之
*此等偏為叶仏意也
*寿量法門為滅後請之也。
*一往為扶釈尊行化来入娑婆世界
若我以是神力於無量無辺百千万億阿僧祇劫為嘱累故説此経功徳
*前五神力為在世後五神力為滅後雖爾再往論之一向為滅後也
以地涌菩薩為頭迹化他方乃至梵釈四天等嘱累此経。
薬王品已下乃至涅槃経等地涌菩薩去了為迹化衆他方菩薩等重付属之
我弟子中粗説之皆可為誹謗 黙止
*仏出世非為霊山八年諸人為正像末人也
*又非為正像二千年人。末法始為如予者也
四依大士以小権為縁在世下種令脱之
以迹門為面以本門為裏百界千如一念三千尽其義
此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国
以阿弥陀他方為本尊
*所詮為地涌千界譲与此故也

上記、文頭に * に付したものは“ため”と読むほかない。つまり、日蓮『本尊抄」で「為」を“ため”とする用法は確認できる。

203犀角独歩:2008/08/07(木) 13:00:04

―202からつづく―

次に、ざっと瞥見した限りでは、日蓮の「為」の用法は、ほぼ「〜とな(為)す」であることがわかる。
そうなると、該当文は、大石寺が読む在り方が正しいことになるのか。> を付した文は“な(た)りいえども”だが、これは用法の相違である。

結論から言えば、わたしは門下一般の読みは、たに美(うま)い読みはあろうと思うが、ともかく、大石寺の読みよりは至当であると思う。その理由は脇士を四菩薩としているからだ。左京阿日教のごとく、互為主判と釈義をもって、この文を読むのであればいざ知らず、素直に読めば、四菩薩が本門釈尊の脇士になるはずはない。なにより、そうした事例はまったくないのであって、日蓮の本尊観と異なっている。しかし、そうは言いながら、門下一般の読みはたしかに美を尽くしていないのだが、これは、そもそも文の成り立ちにその原因があるのではないか。「為」を“〜となす”とするのは、主に単の用法だが、該当文は複文である。分解してみよう。
(以下、PCで閲覧ください。図が乱れるときは、以下サイトを参照
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
この文章は、以下のような意味ではないか。

・文の構造は
 此時
 地涌千界出現
 本門釈尊
 地涌千界為脇士
 一閻浮提第一本尊可立此国

・複文として、それぞれの主述の関係は
 地涌千界┬出現
     └為脇士

つまり、「地涌千界が出現する」「地涌千界を脇士となす本尊」という意味合いで、では、地涌千界は誰の脇士かと明確化するために「本門釈尊」の四文字の挿入がある。故に門下一般の読みは間違いとは言えない。少し捻ってわかりやす諄く書けば「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の、(地涌千界を)脇士となす、一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし」という意味合いである。

なお、上記、『本尊抄』抜き書き中、為の熟語としての用法は「最為」である。これは訓じて「もっとも、〜となす(り)」でもよい。
もう一つ問題なのは ・ を付した「其本尊為体」である。これは門下大石寺共に「その本尊の体たらく」として、つまり、「為体(ていたらく)」という熟語としてとらえている。わたしはこの点にこそ、異議がある。この「為」の用法こそ“〜となす”なのではないか。すなわち「その本尊を体となし」である。では、「体」とは何か。本体の謂いである。本体とは何か。すなわち、その前段にある「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土 仏既過去不滅未来不生 所化以同体 此即己心三千具足三種世間也」でいう“体”である。所化は能化に対する語である。能化・本門釈尊と、所化・地涌千界菩薩を頭とする九界衆が同体となるところの本尊、これを図示すれば十界勧請大漫荼羅となる。故にここを「体たらく」などいうことは、まことに地に落ちた体たらくである。この「体」は能化所化もって同体の体と読まなければ、この書一巻の画竜点睛を欠くのではないか。

204犀角独歩:2008/08/09(土) 18:20:31

以下、重ねて mixi のわたしの日記から転載。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=896638606&owner_id=14027330

諸賢の批正を仰ぎます。


先の投稿において、『本尊抄』の「其本尊為体」の為体は“ていたらく”ではなく“体(たい)と為(な)す”と読むのではないかという私案を呈した。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/202
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/203

以下、遺文中における「為体」の用。文書冒頭に○を付すは真蹟を存す。
概ね「体となす」が占める。ただし、23例中、「四晧為体」「我朝為体」「此疏の為体」「日本国之為体」「此山の為体」の5分の1が“ていたらく”の用法となっている。“ていたらく”の用法はしかし、国の惨状を嘆ずるといった用法であって、本尊のごとき、崇敬対象に用いるものとは考えがたい。

「此経云凡聖戒尽心為体」戒体即身成仏義
「然は譬喩品十四誹謗以不信為体」念仏無間地獄鈔
「玄二云主質名為体」一念三千理事
「此国為体在所之有様可有御問候」富木入道殿御返事
「随当世為躰大日本国与大蒙古国合戦」○曽谷入道殿許御書草案
「其本尊為体」○如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「伝教大師釈云問法華経何以為体耶 答諸法実相以為体文此釈分明也」当体義鈔
「四晧為体」○曽谷入道殿許御書
「当時我朝為体盛於二難」○強仁状御返事
「此疏の為体」○下山御消息
「我等が身は以諸苦為体」太田左衛門尉御返事
「当時日本国之為体」滝泉寺申状
「十法界為体十法界為心」三世諸仏総勘文教相廃立
「此山の為体」秋元御書
「是は七位の中の十回向の菩薩歓喜地を証得せる為体也」妙一女御返事
「玄義九云諸行以傍実相為体…依諸経方法常行等行以傍為体」一代五時継図
「法界悉常住不滅為体」御講聞書
「煩悩濁指五鈍使為体見濁指五利使為体命濁指連持色心為体矣」御義口伝巻上
「釈云今経以何為体以諸法実相為体矣」御義口伝巻下

205パンナコッタ:2008/08/09(土) 20:43:13
為体 (タラクは助動詞タリノ語法) ①すがた。なりゆき。ありさま。
 平家物語七 「覚明が為体、褐の直垂に黒革織の鎧きて」
  ②(後世には非難の意をこめて用いる)ざま。 広辞苑 より引用

為体 (名)ありさま。姿。体裁。なりゆき。
 太平記十 「唐の玄宗傾廃せし為体も、かくこそはありつらめ」
【参考】 現在のような悪い意味はない。   旺文社古語辞典 より引用

現在の"ていたらく"の読みと意では違和感ありありですが、
日蓮時代の用法としては、(体と為すの意ですが)問題ないようですね。

206犀角独歩:2008/08/09(土) 20:59:26

パンナコッタさん、有り難うございます。

天台の教学との関係からすれば、「体」は三如是の中心の、如是体の“体”、倶体倶用の“体”ということで、平家物語などの用法とは、ちょっと違うと思いますが、この点は如何でしょうか。

207パンナコッタ:2008/08/10(日) 12:26:15
如是体ですか。これは考慮していませんでした。
倶体倶用であれば法身・応身の意も含んできますので、≠ という感じですね。

平家物語は、覚一本や流布本などの語り本系と、長門本・延慶本の読み本系に大別されますが
三門十八類三十四種すべてをチェックして≠と記したわけではない主観なので、そこはご了承願います。

ただ主題から大きく外れてしまいますが徒然草に、
「この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり。
 さて、山門の事を殊に由々しく書けり」
などという記述があり、直接にはあたれないが日蓮とほぼリンクする時代の
参考資料・手がかりとして平家物語は有意義なのではないか と思っています。

208犀角独歩:2008/08/10(日) 14:15:56

パンナコッタさん

「為体」の日蓮当時の用法のご説明有り難うございます。もっともなご意見であると拝読しました。

ちょっと、わたしが「体」に拘ったにはそれなりの愚案がありました。ちょうど、日記に書いたところでした。文章をこちら用に書き換えるのが面倒なので、そのまま、以下貼ります。再度、ご批正いただければ有り難く存じます。

*** 以下転載 ***

先の「為体」から続けて、考える。

日蓮の、というより、羅什が「如是体」と訳した思想背景に遡れる。

…… やや、脱線すれば、法華梵本では十如是に該当するところは、所謂「五何法」となっていて、十如是としての訳出は羅什の達意であるというのが言われてきたことだ。ところが、実は梵本には異本があって、羅什が使ったものは五何法となっていないといった反論もある。実際にそうしたものがあれば、資料として提出してもらえばよいことなる。 ……

羅什自体が、訳語としての‘体’を説明した文献は知らないが、訳経の現場にいて羅什から直接聴いた講義に基づくという道生の『妙法蓮華經疏』に「相は外に拠り、性は内を主(つかさ)どり、体は相と性との通称なり」(『法華経の成立と展開』第1章「法華経の教理」坂本幸雄(P277)とある。この説明は極めて簡潔である。外:内=相:性、相+性=体 ということだ。他の如是もまた、この体を述べるところなのだ。

つまり、十如是と称される訳出部分は‘体’を説明したことと言うことになる。となると、五何法という‘法’との脈絡はどうなるのか。こうした点で、解釈を積み重ねる中国仏教はよくできている。

どんと天台に飛んでしまおう。妙法華でいう「如是体」の‘体’。天台三大部においても主要な位置を占めている。そのもっとも端的な説明は玄義の五重玄の名体宗用教の‘体’だろう。玄義には「法即是体」とある。では、法とは十法界であり、止観に、つまり「三千法」といい、「三千在一念心」という。
体=法、法=三千、三千=法、つまり、体=法=心であるという構造がそこにある。

ここから、『本尊抄』の「其本尊為体」を読めば、日蓮の意図はわかる。
本尊が体であるというとき、それは三千法であり、心である。その三千の観ることを観心であり、それを本尊とすれば、観心本尊なのだ。こうした日蓮教学の骨格は、まさに體(体)に基づいているのだ。

大正時代以降、生命という言葉が流行し、戸田城聖さんは「仏とは生命のことなんだ!」と言ったとか。それがドキュメントかどうかはどうでもよいのだが、先頃亡くなった原島嵩元さんは祥伝社から『生命のドラマ法華経』という罪づくりな本を出版した。『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉さんも、「生命」という流行語で解釈する影響を受けていた。

こうしたことで、仏教の骨格「体」は蚊帳の外に追いやられてきた。しかし、(異本だというお考えは、ちょっと横に置いておき)羅什が五何‘法’を如是‘体’云々と訳出して以来1500年間、法華・漢訳仏教の骨格は、まさに‘体’にあったのだろう。ある意味、日蓮が「所化以って同体なり…其の本尊を体と為(な)す」と喝破したのは過去千年の法華漢訳仏教界集大成として、見事と言うほかない。やはり、日蓮は面白い。

209顕正居士:2008/08/11(月) 01:05:54
>>202 >>203

犀角独歩さん。

本化四菩薩を脇士とすることで本門の教主をあらわすのが日蓮の意匠なのは直弟以来誰も異論が
ないし、むろん曼荼羅はそうなっているから日寛師の奇説を検討する必要はないのですが。

文の主語は「地涌千界」でこれが本門の釈尊を脇士とするのならば「以本門釈尊為脇士」と書かねば
なりません。「以」は「ヲ」に当たります。ところで「為本門釈尊脇士」と書くと、「本門釈尊ヲ脇士ト為ス」
のか「本門釈尊ニ脇士ト為ル」のかわからない。それで先のように読まれないため「本門釈尊為脇士」
(本門釈尊ニ脇士ト為ル)と書いたのですね、多分。「以」がなければ「本門釈尊ニ(ノ)脇士ト為ル」と
読むのですが、念のためでしょう。そういうわけで日寛師の奇説は漢文法上も検討に値いしません。
漢文のデタラメな訓読(「自も我も得たる仏来れり」の類)にことよせ教相を超越した己証を述べるのは
本覚法門で普通のことですが、日寛師の場合はテキストに即した解釈を真面目にやっている中で
突然それが飛び出して来ることがあるのが特徴です。そういうのは切紙とかでやるのですが、細草の
談林は大石寺と八品派のマイナーな趣味の学問の場所だから、現場では区別が付いていたのかも。

210犀角独歩:2008/08/11(月) 15:43:16

顕正居士さん

有り難うございます。

> 細草の談林は大石寺と八品派のマイナーな趣味の学問の場所だから、現場では区別が付いていたのかも

「なるほどなあ」と感心しながら、拝読しました。

211犀角独歩:2008/08/11(月) 17:45:59

『創価学会のまちがいをただす』P78に、森山諭氏は、以下のような説を書いています。


「此時地湧干界出現本門釈尊為脇士」
とある。日蓮の文章には、処どころに誤字やあて字があるから、彼はこの時も「……本門釈尊成脇士」と書くべきところを、成と為とを書き違えたのではなかったか。すなわち、「本門の釈尊を脇士と為す」ではなく、実は、「本門の釈尊の脇士と成る」と読ませるつもりであったろう。その証拠には、
「日蓮は釈迦仏の御使ぞかし、乃至教主釈尊の御使なれば云々」(種々御振舞御書縮遺1404頁、学会版919頁)
「日蓮は愚かなれども釈迦仏の御使法華経の行者なり」(一谷入道御書縮遺1182頁、学会版1330頁)
等々、その他にも日蓮は釈迦の使であると自負しているのであるから、大石寺門下が日蓮を本仏として、釈迦を迹仏とするようなことは、まったく本末転倒の解釈であって、日蓮がもし現代に再誕したとすると、彼は烈火の如く憤って、正宗信者を叱責するであろう。


一つの説として転載しました。

212犀角独歩:2008/08/12(火) 18:07:27

現代は大正以来、「生命」が説明語として、強い影響力を有していますが、これはまったく近代のことで、日蓮において、その用例を見ると、「霊」が、そうした概念に当たると、わたしは考えてきました。ところが、今回、「為体」ということを通じて、少しばかり調べてみると、現代、「生命」語をもってするような概念説明は、寧ろ「体」であるのではないのかと思えました。

日蓮の真蹟遺文中では、体は128、霊は99
智邈の法華三大部では、体は874、霊は33

「体」は、たとえば「大体」といった熟語に活用されることもあり、上記数にも含まれています。だいたい15前後、その用例があります。また、「霊鷲山」での用例は9あります。それを差し引くと、日蓮では「体」と「霊」の使用頻度は、概ね同じ程度と思えます。

これに対して智邈の法華三大部では上述のとおり「体」は900近い用例があり、「霊」は霊鷲が11でこれを引くと20ほど。圧倒的に「体」の用例が勝ります。

わたしが「倶体倶用」を挙げると、パンナコッタさんは「≠ という感じ」と仰ったのはさすがだと思いました。つまり、智邈の用例にこの4字熟語はなく、湛然の釋籤の段階で「三身並常倶體倶用」で登場するからです。日蓮は湛然の強い影響を受けていますが、真蹟遺文にこの用例は見られません。

湛然の法華三大部では、1502、霊は54
最澄の伝大師全集では、1477、霊は449

霊については、全体の資料に言えることですが、霊鷲山、霊山、霊峰といった用例もあり、これをすべて除外して考えるべきところですが、いまは大まかに瞥見する程度なので、そのままの比較としています。また、智邈、湛然の資料は3編ずつ、それにたいして伝全では30倍の90の資料を対象にしています。文字数、資料数も考慮して、比較すべきですが、それもいまはやめます。故にあくまで概観ですが、湛然の「体」の用例は圧倒的に多く、また、「霊」の用例は少ないことはわかります。もっとも、湛然は智邈の言を再掲しているケースもあるわけですから、この点も除外しなければなりませんが、いまはしていません。

いずれにしても、智邈、湛然、最澄、日蓮、通じて、「体」の用例は特別な意味を有していることはわかります。

いったい、いつごろから「体」概念は生じてきたのか、興味が惹かれます。
いい加減なことを記すと、また罵倒の対象になりかねませんが、無我、有部、空、化、中、諦、識など、漢訳される仏教のこうした概念語。これに隠れて、案外、「体」が軽視されてきたのは、何故なのか。これまた、実に興味を惹くテーマですが、少なくとも、近代では、大正生命主義の爆発的な流行から、この主要概念はスポイルされてしまったのではないかと思えます。

さらに日蓮における「体」の用法と、その後の中古天台本覚的な「体」は、かなり意味に開きもあることは想像に難くありません。

わたしは不勉強ですから、こうした点を精査した研究論攷がありましたら、是非ともご紹介ください。

213犀角独歩:2008/08/14(木) 19:21:08

212に挙げた検索結果を加え、経年順に並べてみました。

妙法蓮華經  体は 3、霊は 0(身体、霊鷲山を除外)
智邈三大部  体は 874、霊は 33
湛然三大部  体は1502、霊は 54
伝大師全集  体は1477、霊は449
真蹟遺文中  体は 128、霊は 99
富士宗学要集 体は3163、霊は699

こうしてみると、体と霊の用例をみると、法華経では霊の用例はなく智邈・湛然では少なく、最澄で体が3倍程度、日蓮においては大きな開きはありませんが、4倍程度といった感じです。ただし、如是体の体といった用例以外をすべて除外したわけではなく、霊にしても霊鷲山等を除外し切れていません。かなり、大雑把なものです。それでも、「体」が実に重要な意味を有してきたように見えます。

■他経典に見られる「如是体」の用例

以下、電子仏典から拾った「如是体」の用例。
訳出年代順に並べたわけではありませんので、『妙法蓮華經』との前後関係は考証していません。しかし、如是体・如是相・如是性という三如是との類型が散見できます。羅什の訳出が先か、あるいは、参考にしたのか、さて、どうなのか興味が惹かれます。

『大方廣佛華嚴經卷第十六』
T10n0279_p0086a23(00)|過去世中曾所有,  如是體性如是相,
T10n0279_p0086a24(00)|欲悉了知其宿住,  菩薩以此初發心。

『大方廣佛華嚴經卷第四十三』
T10n0279_p0225c19(07)|何以故?菩薩三昧,如是體性,如是無邊,如是殊勝故。

『大般若波羅蜜多經卷第一百七十』の
T05n0220_p0915b19(15)|正等覺以無上佛智了達遍知諸功紱善根有如是類、有如是體、有如是相、
T05n0220_p0915b20(03)|有如是法而可隨喜,我今亦應如是隨喜。

『金剛般若波羅蜜經』
T08n0236bp0758b25(12)|汝意云何?如是體相為勝大不?」須菩提言:「甚大,世尊!
T08n0236bp0758b26(07)|何以故?如來?非有名為有身。此非是有,故?有身。」

『深密解脱經卷第一』の
T16n0675_p0666a24(03)|是?妄法。?妄法者。常無如是體種種分別。

『大莊嚴法門經卷下』
T17n0818_p0833b01(00)| 如是貪瞋癡  及一切煩惱
T17n0818_p0833b02(00)| 如是體性法  善哉甚微妙

『入楞伽經卷第五』
T16n0671_p0545b09(06)|而彼彼法無彼如是如是體相。惟自心分別。世尊。


以上のような考証を、何故、当スレッドに投稿しているのか、ご不審の筋もあろうかと存じますが、「日蓮の本尊」を考えるうえで『妙法蓮華經』の「如是体」の体が、『本尊抄』の「其本尊為体」と脈絡を存し、その関係を結ぶのが法、心であると、わたしは考えるからです。

諸賢のご批正をいただきたく存じます。

214犀角独歩:2008/08/15(金) 06:36:01

【213の訂正】

誤)日蓮においては大きな開きはありませんが、4倍程度といった感じです。
正)日蓮においては大きな開きはありませんが、富士宗学要集掲載資料では4倍程度といった感じです。

215Horologium:2008/09/18(木) 23:02:58
 「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」については、こんな説(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-19.html)もあるみたいですけど、これもやっぱり検討に値しない奇説なのかしら。

216パンナコッタ:2008/09/19(金) 21:08:24
Horologiumさん、はじめまして。
ご紹介のブログの説は、特に変じゃないと思いますけど。

奇説と感じたのは、"興風ですら誤読しているというブログの主張"あたりでしょうか。
ならば興風のスタンスは各人の温度差はあるようですが、日蓮本仏論・戒壇板本尊からは
脱却していませんので(信者でなければ)仕方ない所でしょうか。
また門流勝劣意識(御書システム・1月コラム 産湯相承の大日蓮華山 参照)が根底にあるような
人もいますので、発表したことは学術的にすべて確証ありき、とは言い切れないでしょうね。
主観ですが該当部分の読みを興風は、本仏論ありきで意図的に"本門の釈尊を"とシステム上で提示して
そのままでいるみたいだなぁ。

ちなみに此処の読みを遡ると、
「かかる送仮名を確定したのは日寛の『本尊抄文段』であるが、しかしこのような読方は、保田の日要あたりによって
なされたのではなかろうかと思える。〜 ところでこの日要の資、日我の『観心本尊抄抜書』に 
 一、本門釈尊為 2脇士1    此文点異議有り 文点は一様に読んでも苦しからず。  とあることによって、
日我以前にかかる威儀があったことが知られる』と、執行師の指摘(創価学会批判 教理編)もあったところです。
室町末ぐらいにこの様な読みが一部でされて、漫茶羅本意の骨子に肉付けされていったのだと思われます。
日我は元亀の頃、蓮祖の花押に キリーク阿弥陀・ヘイ薬師・ハク釈迦、イー三面宝珠の意味付けをした筆法伝授や、産湯切紙を
相承した人ですから、注意しなければならないですね。

217顕正居士:2008/09/22(月) 00:58:27
地涌千界は主語です。地湧干界(主)-出現(動詞)・為(動詞)-脇士(補語)という構文。

1 民為邦本 民ハコレ邦ノ本ナリ
2 民以食為天 民ハ食ヲ以テ天ト為ス

1も2も民が主語。この場合の為はコレと訓む。

民ヲ以テ邦ノ本ト為ス は 以民為邦本 と書かなければならない。

218顕正居士:2008/09/22(月) 01:21:08
補足

もし地湧干界で一回切って次に本門釈尊を主語にする場合は

地涌千界出現 本門釈尊以之為脇士 と書かなければなりません。

為を他動詞として使う場合は「以-目的語」の構文が必要です。

転禍為福 禍ヲ転ジテ福ト為ス は すでに先に他動詞があるので以之を省略してもよい。
しかし禍転為福 は 禍転ジテ福ト為ル であって福ト為スと訓むことはない。
「以-」がない為は である、なる という意味です。

219あんたがたどこさ:2008/09/26(金) 01:14:33
顕正居士さん、此処の方々も大分主張が良い方向へ転換されましたね。昔は、随分と正宗系の漢文の読み方が正しいと拘っていたようですが・・。

「日蓮本仏という歪曲」も参考になります。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/shudatu%20detarame.htm

220れん:2008/09/26(金) 18:55:48
一応の参考までに、大崎学報第二十八号に掲載された、富谷日震師“本尊鈔興本對照記”によると、京都要法寺に所蔵すると伝わる日興の観心本尊抄写本には「為脇士ト1」とあり“為”字の左に“ナリテ”のルビがありますので、ここの部分は、京都要法寺蔵の日興写本(もっとも、日興の署名は無い様ですが、同記によると日興筆にて完尾に「弘安四年太歳辛已三月五日申時拝書写了、南無妙法蓮華経」の奥書があるとします。)でも「脇士となりて」と読んでいます。ですから、江戸以降現代に至る石山流の「脇士となし」の読みは、所詮、後世の後付けであって、自らが開山と仰ぐ日興がふったルビに基づかない点は、石山ならびに石山系の信徒会員が主張する相承とやらの底が既に割れていることを表するものですね。

221犀角独歩:2008/09/27(土) 11:10:02

顕正居士さんのご講義もさることながら、れんさんのご指摘も、参考になりました。

石山教学批判は、石山教学内の上古資料との矛盾を突くという在り方が、いちばん効果的ですね。執行海秀師の説得力も、ここにありました。

他宗派教学から、石山教学を批判は、我田引水、自讃毀他、他人のことを言う前に自宗の矛盾と間違いを反省しなさいと言うことになります。

222あんたがたどこさ:2008/09/27(土) 13:47:04
石山教学批判は、日蓮聖人の重要な真蹟遺文から批判するのが一番効果的だと思いますね。
他宗派教学も、日蓮聖人の重要な真蹟遺文の違うものであれば、批判の対象になるでしょうね。

223犀角独歩:2008/09/27(土) 19:28:45

ここでの掲示板も、挙証義務を課してやってきたので、真蹟重視は当然のことなんですね。

ただ、「効果」という点で言うと、石山は相伝仏法という建前で「師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」ということで、「御法主上人猊下」の言葉は、そのまま日蓮の言葉とするわけです。おまけに石山が偽書とするのは『垂迹法門』ほか何典かで、写本に関しては、自分たちの教学と合えば大いに活用という立場です。

まあ、わたしも『平成新修日蓮聖人遺文集』などを挙げて真蹟主義で貫いてきたわけですが、信者の蒙を啓くには、いま一つぱっとしません。「一番効果がある」という手応えを感じないわけです。

また、端的な例としては『百六箇抄』なんか後加された文書も、すべて日蓮の言ととらえるというのが石山流の訳です。そもそも『百六箇抄』は、後世の、それも尊門文章であるにもかかわらず、この扱いです。

しかし、実際に書き込む段階で、上古、それもに日興の文書とされるものを必ずしも考慮して後加していない。そのために多くの矛盾をはらんでくるというのが、つまり、れんさんがご提示くださった話です。そのために矛盾を突く一番効果があるのは、こうした資料だというのが、れんさんからわたしが受けて、書いたことです。

判読いただければと存じます。

224Horologium:2008/09/28(日) 07:14:44
 顕正居士さん、ご解説ありがとうございました。顕正居士さんのご解説によりますと、Libraさんって人の意見は漢文法的には間違いってことになるんですね。

 ついでにもう1つ教えてくださると助かります。本尊抄にある「正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士権大乗並涅槃法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」という文章の「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」の部分には「以-」がないので、顕正居士さんのご解説にしたがって、ここの「為」も他動詞として読まないことにしますと、どう読むのが正しいということになるのでしょうか。

225顕正居士:2008/09/28(日) 09:11:37
Horologiumさん。

普通は「迦葉・阿難を脇士と為し」と訓んでいるみたいですが、
この文節には「以」が無く、次の文節にはあるのですから

「正像二千年の間は小乗の釈尊には迦葉阿難脇士と為れども、
権大乗並に涅槃法華経迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す」

と訓むのがよいのではないでしょうか。何となく「以」を落したのでなければ
「しかし」というニュアンスを入れるためかとおもいます。

226Horologium:2008/09/28(日) 17:18:44
 顕正居士さん、さっそくのご解説、ありがとうございました。

 顕正居士さんがおっしゃるように、あの部分は、普通、「迦葉・阿難を脇士と為し」と読まれています(これ以外の読みをわたしはこれまで見たことがありません)。言語現象として、そのように読むのが現に普通であるという事実があるとおもいます。Libraさんという方のご意見も、この事実にもとづいているわけで、たしかに、この普通の読みに従うなら、あのような議論も成立するのでしょう(漢文法の一般論としてではなく、日蓮さんが書いた漢文の解釈問題というローカルな範囲の議論としては成立するようにわたしにはみえます)。

 もちろん、顕正居士さんのように読むのが正しいのなら、従来の読みは訂正されなければならないわけですが、その場合、なぜ正しい読みのほうが普通とならずに、顕正居士さんの理論によれば漢文法的に異常であるはずの読みのほうが宗派的立場を超えて現に普通になってしまっているのかが不思議だという印象を個人的にはもちます。

 しかし、少なくとも、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」の部分を「〜本門釈尊に脇士と為る〜」と読んでいる人は、「正像二千年之間小乗釈尊迦葉阿難為脇士権大乗並涅槃法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士」の部分も「〜小乗の釈尊には迦葉阿難脇士と為る〜」と読むように訂正されたほうがよろしいのではないかしら。じゃないと整合性がないとおもいます。

227どしろうと:2008/09/29(月) 06:12:29
突然失礼します。
はじめてお曼茶羅を目にしたとき、へぇ、南無妙法蓮華経の脇にお釈迦さんがいるんだ、
これが日蓮聖人の世界観なのだと思ったものでした。

なんか色々こねくり回しておられるようだけど、お曼茶羅がすべてを語っているんではないのかな?

突然失礼しました。

228あんたがたどこさ:2008/10/01(水) 01:36:16
さらに、観心本尊抄には「この(神力品の)十神力は、妙法蓮華経の五字を以て、上行、安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもう。」「嘱累品に云く、爾の時に、釈迦牟尼仏法座により起つて大神力を現じたもう。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、乃至、今以て汝等に付嘱す等云云。地涌の菩薩を以て頭となし、迹化・他方、乃至、梵・釈・四天等にこの経を嘱累したもう。」と述べているように、日蓮聖人の描かれた曼陀羅本尊は、本門の教主釈尊、即ち久遠実成の釈迦牟尼仏が、霊鷲山の虚空会に於いて、妙法蓮華経の五字を以て、経典とその経典の意義を弘めることを地涌の菩薩を筆頭として付属(委任)する儀式が顕されたものです。したがって、曼陀羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経」と、日蓮聖人は大書してあるのであって、けっして中央に書かれている「南無妙法蓮華経」の文字が本仏であると言うわけではありません。そのことは、観心本尊抄の最後に「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。」と述べられている通りです。

上記は http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/shudatu%20detarame.htm に書かれちました。
真蹟に依れば、それが日蓮聖人の描かれた御曼陀羅の語るところだと思いますが・・・。
お釈迦さんが南無妙法蓮華経の脇士だとは、日蓮聖人の御遺文には何処にも書かれていないと思います。

229顕正居士:2008/10/01(水) 12:19:11
首題は宝塔をあらわしています。この首題=宝塔の中に釈迦多宝の二仏が
並坐しているのが妙法曼荼羅です。
二仏は宝塔の外にいるわけではありませんよ。

http://www.chohoji.or.jp/blog/uploaded_images/hokkemandara-701581.jpg

230どしろうと:2008/10/01(水) 22:04:14
ありがとうございます。
お曼茶羅を拝すれば
塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏まします。
中央に南無妙法蓮華経 日蓮と大書されています。
上行菩薩もまします。 そのまんま素直に拝しております。

231天蓋真鏡:2009/12/13(日) 04:34:52
犀角独歩さんのブログの「日蓮の発想」等拝見して気になった事。 法華経は菩薩道其物では無くて皆成仏道へ導くカタログ。 成仏得道のマニュアルは一人ひとりが随自意とか自灯明でつくりあげる人生説計。 題目に全て備わるとは 短絡では無くて結果論を見据えたキャッチフレーズ。いつ理想通りに出来るか判らないから。 なむみょうほうれんげきょうで呪術信仰から言霊信仰へ変えられるなら良いですけど、呪術も言霊も唱える行者の心の質で千変万化するでしょう。依法不依人は悟りの一つでは無いでしょうか。

232犀角独歩:2009/12/13(日) 04:45:46

わたしの名前が出ましたので、いちおう、記します。

法華経は「教菩薩法」「菩薩道」と、経典自体に書かれあり、しかし、皆成仏道の指標はありません。あるのは、記別です。

題目にすべてが具わるとする日蓮の発想は、本人が『本尊抄』に「私加会通如黷本文 雖爾文心者釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足」という、この会通が文章の脈絡からして短絡であるというのが、わたしの指摘です。

こちらの掲示板は挙証義務を課し、主張をするのであれば、かならず、文献証拠を提示して行うことによって、秀でた議論が重ねられてきました。

単なる個人の思いつき、感情の吐露といった発言が最近、富みに目立ちますが、投稿規約や、遵守する方々の姿勢を参考にされ、矜持のある投稿をされ、せっかくの佳例を傷つけないことを望みます。

233天蓋真鏡:2009/12/13(日) 14:33:59
レスありがとうございます。 ●菩薩である為に寄せ集め的法華経に書いてある類例?全てとなると難儀では無いでしょうか。 ●犀角独歩さんともあろう者が挙げ足取りだと考えます。鎌倉時代の僧・日蓮も経典に書いてある事は理想像のゴールで、心が大事・信が大事・修行が大事と書いてなかったでしょうか。 ●掲示板の主旨に沿わないレスは全て消去して、議論レスと挙証が無くても質疑応答出来るレスと連絡交換用レスにまとめたら良いのでは無いでしょうか?

234犀角独歩:2009/12/13(日) 14:41:55
> 菩薩である為に寄せ集め的法華経に書いてある類例?全てとなると難儀では無いでしょうか。

判読致しかねます。

> 挙げ足取りだと考えます

なにを揚げ足取りと言っているのかわかりません。

> 鎌倉時代の僧・日蓮も経典に書いてある事は理想像のゴールで、心が大事・信が大事・修行が大事と書いてなかったでしょうか

具体的に、どこに、どのような書いてあるのでしょうか。

> 掲示板の主旨に沿わないレスは全て消去して、議論レスと挙証が無くても質疑応答出来るレスと連絡交換用レスにまとめたら良いのでは無いでしょうか?

これは管理運営に関わることなので、管理人さんに属することです。

こちらは応酬自体、禁止ですので、これまでといたします。

235質問者:2011/11/30(水) 01:45:28
昭和55年6月21日日顕上人書写の御形木御本尊ですが
何故、竜樹菩薩と妙楽大師が抜けてるんでしょうか
(普通は天台大師と伝教大師の横にそれぞれ書かれているのに)

誰に聞いても教えてくれません
詳しい方レスお願いします

ちなみにこの御本尊は当時の学会員に下付されたものです

あと、この御形木本尊持ってる方いますか?


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