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日蓮聖人の本尊観

150ワラシナ:2003/01/04(土) 22:00
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」4

4−0、上行顕本論

ところで上の(3)によれば、釈尊の寿量品顕本とは、自己の内面性が,客観的主観性たることを明かしたことと解される。ならば、冒頭の「自己同一性領域」との関係がどうなっているかが気になってくる。
ところが、哲学者、九鬼周造の「偶然性の問題」によれば、「自己同一なものが必然性」であるから、「永遠性」「本有常住」「顕本」などは一括して必然性問題に帰着する。であるから、この角度から、富士教学でもっとも難解な上行顕本論の合理性を探ってみたのである。

4−1、そのためには冒頭の「自閉的固有領域=主観的主観性」に寄りすがって、現在の不安を解消しようとする際のやり方をもっと注意深く観察する必要がある。単に「俺は俺さ」「あたしはあたしさ」だけでは自己同一の形式が見えるだけで、表現者の真意ではなかろう。実際には、「オレはオレだ」のオレ「だ」の断定辞の後部には「オレでよかった筈だ」のように、自己内面が持つ歴史的時間相の尾ひれを付けて意識しているのであった。このような時制的、時間様相の一つに自己が自己たることの必然性や偶然性が出ている。

4−2、そこのところをよくよく観察した結果、これに二種類有る、というのが私の観察なのである。もちろんこの場合の二種類とは偶然性ではなく「自己が自己たること(自己同一)の必然性」に限っての観察である。

まず、「現在」に抱かれる不安をよくよく見つめれば、自己が現在に現象してはいないように見える。自分の居場所が、およそありえないような静止的な過去、静止的未来に固定されてしまっている。だから、上を「およそ有り得ないような」といった事に対比させて、経験世界で現実化する範囲での必然性の本質を九鬼周造にならって、ここでは「不断に成り続けている持続性、成就性の持つ、なになに、している」現在進行形的性質」と規定してみる。

4−3、この観点から、冒頭の「自閉的固有領域」がどう利用されているかを見て、まず第一に気がつくのが「俺は俺さ」が、「自分だけに用意された自分勝手性の基盤」としてである。「いつどこで何をどうしていようが自分の勝手だ」という確信態度の基盤を提供しているのである。言うならば、これは、自己同一性基盤を、すなわち自己を「不在、未在」側に置いて、未在の自己が、未来から不断の到来進行性の現象として、現在居るもの」として捉えられていて、「未在型の今の永遠性(必然)」の捉え方をしていると考えられるのである。

現在の不安を未来から不断の到来という必然性によりかかって解消している態度と解されるのである。
この場合に働く必然性は次に引く「過去既在型の今の永遠性」とは、若干違って可能的自己が生まれる際に「相対的偶然性」を帯びてくる。 それは過去になる時の必然性と未来がやってくる時の必然性を比べてみれば、「過去という」拘束と「それが無い」無拘束という条件の違いがあるからである。


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