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日蓮聖人の本尊観

151ワラシナ:2003/01/04(土) 22:02
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」5

4−4−1、若干堅苦しくなるが、整理してみると、「経験世界の時間様相の必然性に二種有り」とは、九鬼の著書には書いてないので、九鬼の思索を忠実に辿っていった私の思考なので間違ってるかもしれない。それによれば、「二種有る」訳は、「成り続けている事」「進行している事」を方向性の違いから区別したもので、「今」の不断持続性という現象(永遠性)には、

一つは、未来の、未在(無)から、新規未曾有の現在の(有)が不断に現象し続けていると見る「未来客観的今の永遠性」で、簡単に言えば未来が現在に成り続けていると見るものである。(この場合には現在が未在領域に置かれる)「永久の新しさに包まれ続けている一瞬」とも言える。

今一つは、現(有)が過去既在(無)に消滅し続けているとみる「過去客観的既在的今の永遠性」(この場合には現在が過去既在領域に置かれる)「永久(とわ)の、極限の古びに侵食され続けている一瞬」とも言える。

の二つの違いである。

4−4−2、両者は似たようなものかもしれないが、主語と客語が違う。未来、未在が主語でそれが、現在に持っていかれ続けている様、と現在が主語で過去に持っていかれ続けている様を区別しなければならない、時が自分に交わる時の自分の居場所のあり方が若干違うように感じたからである。

4−4−3、で詰まり「現在今」という元々が任意主観性(偶然という時の本質が主観性にある)がそれとして現象する為には、過去か未来のかどちらかの客観と合体して、その内面主体を客体性質に転換して不断持続性の現象として現す、それしか方法がない、関係を示しているのである。何れにしてもここで大事なことは、「現在」は元々が任意な主観性領域であるが、自己内面内部で「成り続けている現象」として自覚された時、過去側か未来側かの客観領域に配置される、ということである。

4−4−4、ところで、そのような「二種必然性の現在常住論」という上の考えは、元々の九鬼の結論「偶然性の時間本質の特徴は現在にあり」とどう関係しているのかが気になってくる。それは、九鬼の偶然性定義が必然性否定形であることで言えてくる。九鬼によれば、必然性とは「有が無に成ったり、無が有に成ったりする、二元が一元に帰着される思惟」でその否定形「有が無に直面したまま、無が有に直面したまま、二元対立に帰着される思惟」が偶然性となる。(と自分流に理解している。)


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