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日蓮聖人の本尊観

208犀角独歩:2008/08/10(日) 14:15:56

パンナコッタさん

「為体」の日蓮当時の用法のご説明有り難うございます。もっともなご意見であると拝読しました。

ちょっと、わたしが「体」に拘ったにはそれなりの愚案がありました。ちょうど、日記に書いたところでした。文章をこちら用に書き換えるのが面倒なので、そのまま、以下貼ります。再度、ご批正いただければ有り難く存じます。

*** 以下転載 ***

先の「為体」から続けて、考える。

日蓮の、というより、羅什が「如是体」と訳した思想背景に遡れる。

…… やや、脱線すれば、法華梵本では十如是に該当するところは、所謂「五何法」となっていて、十如是としての訳出は羅什の達意であるというのが言われてきたことだ。ところが、実は梵本には異本があって、羅什が使ったものは五何法となっていないといった反論もある。実際にそうしたものがあれば、資料として提出してもらえばよいことなる。 ……

羅什自体が、訳語としての‘体’を説明した文献は知らないが、訳経の現場にいて羅什から直接聴いた講義に基づくという道生の『妙法蓮華經疏』に「相は外に拠り、性は内を主(つかさ)どり、体は相と性との通称なり」(『法華経の成立と展開』第1章「法華経の教理」坂本幸雄(P277)とある。この説明は極めて簡潔である。外:内=相:性、相+性=体 ということだ。他の如是もまた、この体を述べるところなのだ。

つまり、十如是と称される訳出部分は‘体’を説明したことと言うことになる。となると、五何法という‘法’との脈絡はどうなるのか。こうした点で、解釈を積み重ねる中国仏教はよくできている。

どんと天台に飛んでしまおう。妙法華でいう「如是体」の‘体’。天台三大部においても主要な位置を占めている。そのもっとも端的な説明は玄義の五重玄の名体宗用教の‘体’だろう。玄義には「法即是体」とある。では、法とは十法界であり、止観に、つまり「三千法」といい、「三千在一念心」という。
体=法、法=三千、三千=法、つまり、体=法=心であるという構造がそこにある。

ここから、『本尊抄』の「其本尊為体」を読めば、日蓮の意図はわかる。
本尊が体であるというとき、それは三千法であり、心である。その三千の観ることを観心であり、それを本尊とすれば、観心本尊なのだ。こうした日蓮教学の骨格は、まさに體(体)に基づいているのだ。

大正時代以降、生命という言葉が流行し、戸田城聖さんは「仏とは生命のことなんだ!」と言ったとか。それがドキュメントかどうかはどうでもよいのだが、先頃亡くなった原島嵩元さんは祥伝社から『生命のドラマ法華経』という罪づくりな本を出版した。『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉さんも、「生命」という流行語で解釈する影響を受けていた。

こうしたことで、仏教の骨格「体」は蚊帳の外に追いやられてきた。しかし、(異本だというお考えは、ちょっと横に置いておき)羅什が五何‘法’を如是‘体’云々と訳出して以来1500年間、法華・漢訳仏教の骨格は、まさに‘体’にあったのだろう。ある意味、日蓮が「所化以って同体なり…其の本尊を体と為(な)す」と喝破したのは過去千年の法華漢訳仏教界集大成として、見事と言うほかない。やはり、日蓮は面白い。


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