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日蓮聖人の本尊観

177犀角独歩:2007/02/25(日) 09:47:27

パンナコッタさん、おはようございます。

実に興味深いご投稿と拝しました。

まず前題の補足、「虚空会の儀式」について。
富要で見る限り、この用法は、ほとんどありませんね。
ただ、『百五十箇条』に「昔虚空会の時は釈迦を本尊として脇士に上行無辺行の四菩薩・迹化他方あり是脱益の導師なり」と、まあ、類型といえば、そう見えなくもない一文はあります。
一方、日蓮門下通論では、この考えは一般的のようですね。『日蓮宗事典』には「日蓮聖人はこの妙法を虚空会説法の儀式に則り、曼荼羅に顕現された」(「虚空会」の項)。まとめれば、以下の如くです。

┌日蓮門下通論 虚空会の儀式
└富士門下相伝 霊山会の儀式

ところが『人間革命』以降、創価学会は、日蓮宗通論を採ったということでした。
個人的には日蓮の意向は、富士相伝に結構したほうが近似値であると考えています。

さて、次。『諫暁八幡抄』における本尊のご考察。これはたいへんに参考になりました。日蓮の当時、本尊治罰という風習があったのでしょうね。同抄における本尊とは、八幡大菩薩像ではないでしょうか。

よく、故事で、海中とか、山中から御像が発見される物語があり、わたしは不思議に思っていたのです。今回、この謎が解けました。要は、祈念して効験がなかった尊像は治罰する、時には棄て去ることが一般に行われていた前提があるために、海や山から、その棄てられた仏像が発見される物語となったのでしょうね。時系列として、後者は、本尊治罰という風習が廃れたあとの発見であれば、合点もいきます。


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