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日蓮聖人の本尊観

203犀角独歩:2008/08/07(木) 13:00:04

―202からつづく―

次に、ざっと瞥見した限りでは、日蓮の「為」の用法は、ほぼ「〜とな(為)す」であることがわかる。
そうなると、該当文は、大石寺が読む在り方が正しいことになるのか。> を付した文は“な(た)りいえども”だが、これは用法の相違である。

結論から言えば、わたしは門下一般の読みは、たに美(うま)い読みはあろうと思うが、ともかく、大石寺の読みよりは至当であると思う。その理由は脇士を四菩薩としているからだ。左京阿日教のごとく、互為主判と釈義をもって、この文を読むのであればいざ知らず、素直に読めば、四菩薩が本門釈尊の脇士になるはずはない。なにより、そうした事例はまったくないのであって、日蓮の本尊観と異なっている。しかし、そうは言いながら、門下一般の読みはたしかに美を尽くしていないのだが、これは、そもそも文の成り立ちにその原因があるのではないか。「為」を“〜となす”とするのは、主に単の用法だが、該当文は複文である。分解してみよう。
(以下、PCで閲覧ください。図が乱れるときは、以下サイトを参照
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
この文章は、以下のような意味ではないか。

・文の構造は
 此時
 地涌千界出現
 本門釈尊
 地涌千界為脇士
 一閻浮提第一本尊可立此国

・複文として、それぞれの主述の関係は
 地涌千界┬出現
     └為脇士

つまり、「地涌千界が出現する」「地涌千界を脇士となす本尊」という意味合いで、では、地涌千界は誰の脇士かと明確化するために「本門釈尊」の四文字の挿入がある。故に門下一般の読みは間違いとは言えない。少し捻ってわかりやす諄く書けば「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の、(地涌千界を)脇士となす、一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし」という意味合いである。

なお、上記、『本尊抄』抜き書き中、為の熟語としての用法は「最為」である。これは訓じて「もっとも、〜となす(り)」でもよい。
もう一つ問題なのは ・ を付した「其本尊為体」である。これは門下大石寺共に「その本尊の体たらく」として、つまり、「為体(ていたらく)」という熟語としてとらえている。わたしはこの点にこそ、異議がある。この「為」の用法こそ“〜となす”なのではないか。すなわち「その本尊を体となし」である。では、「体」とは何か。本体の謂いである。本体とは何か。すなわち、その前段にある「今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土 仏既過去不滅未来不生 所化以同体 此即己心三千具足三種世間也」でいう“体”である。所化は能化に対する語である。能化・本門釈尊と、所化・地涌千界菩薩を頭とする九界衆が同体となるところの本尊、これを図示すれば十界勧請大漫荼羅となる。故にここを「体たらく」などいうことは、まことに地に落ちた体たらくである。この「体」は能化所化もって同体の体と読まなければ、この書一巻の画竜点睛を欠くのではないか。


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