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日蓮聖人の本尊観
152
:
ワラシナ
:2003/01/04(土) 22:03
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」6
4−4−5、
であるから、経験的必然性の否定形「不断持続性の否定」が経験的偶然の本質となる。九鬼はそれを「邂逅(思いがけなく出会うこと。めぐりあい。)」といい、それを心理感情に翻訳して「驚嘆」と言った。それは、「持続性の突如的破綻、崩壊、離脱の反動感情」と言いかえられると思う。こういう形の偶然性は、現在でしか経験され得ず、現在の時間性の内のその一瞬性だけが強く自覚されるのが特徴となってくるから「突如的」と言う。
この偶然瞬間では、未来が現在に成らず、現在も過去に成らないので、時が止まり、時間が消滅したように感じられる筈で、「時の裂け目との邂逅」とも言え、一種の宗教的奇跡感情を帯びてくるように思う。
4−4−6
さて、ここまで来ると、九鬼説を発展させて「二種必然性定義」の側から、経験的偶然事「邂逅」の反動感情「驚嘆」も二種分けしたい誘惑に駆られてしまう。
不意にみまわれる<死との邂逅>などを「離脱性消滅驚嘆」として、「過去既在型必然性の否定形」に当て、不意にみまわれる<生との邂逅>などを「誕生驚嘆」として「未在型必然性の否定形」に当てる、と言う様な構想である。
4−4−7、この根拠として、例えば、宗祖の「観心本尊抄」の四十五字法体段「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」中の「、を離れ、を出で」の「離出性」という悟達獲得の一瞬間では、一会の大衆にとってそれは「離脱性消滅驚嘆」に等しかった筈だと考えられるからである。それまで所化大衆はそれぞれが既存の元品の無明煩悩の持続性に生きていて、釈尊顕本の瞬間は、一種の邂逅偶然性の一瞬でもあって、その悪い持続性が突如的破綻し、それは同時に既在型永遠性を獲得した瞬間でもあったと解されるからである。
4−4−8、さて、この型の場合の偶然が、経験世界で事実的に起きる「邂逅」なら、客観的に捉えられるていることになるが、命題概念的同一律でその本質が定義される定言的必然性が、冒頭から問題にしている「俺は俺であるべきもの」という自己同一的必然性だったわけである。
ところが、「今までもこれからも何をどうしてどうなろうが自分の勝手だ」という任意無規定的自己は、自己同一的必然性の否定形たる「定言的偶然性」を存立基盤にしている、と言えるのである。九鬼はこの「定言的偶然性」の特徴を「孤立性」「例外性」としたが、これが当を得たものである事が分かる。
何故なら、自分と言う歴史を不要とし、時間も不要とする、一切の関係性の埒外にいて自己そのものを無常化していると言えるからである。この時の内面主体は全くの主観性で出来ていると考えられる。何故なら、自己の客体化を拒否していると思えるからである。(若干話題からはずれてしまったが、、。)
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