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日蓮聖人の本尊観

212犀角独歩:2008/08/12(火) 18:07:27

現代は大正以来、「生命」が説明語として、強い影響力を有していますが、これはまったく近代のことで、日蓮において、その用例を見ると、「霊」が、そうした概念に当たると、わたしは考えてきました。ところが、今回、「為体」ということを通じて、少しばかり調べてみると、現代、「生命」語をもってするような概念説明は、寧ろ「体」であるのではないのかと思えました。

日蓮の真蹟遺文中では、体は128、霊は99
智邈の法華三大部では、体は874、霊は33

「体」は、たとえば「大体」といった熟語に活用されることもあり、上記数にも含まれています。だいたい15前後、その用例があります。また、「霊鷲山」での用例は9あります。それを差し引くと、日蓮では「体」と「霊」の使用頻度は、概ね同じ程度と思えます。

これに対して智邈の法華三大部では上述のとおり「体」は900近い用例があり、「霊」は霊鷲が11でこれを引くと20ほど。圧倒的に「体」の用例が勝ります。

わたしが「倶体倶用」を挙げると、パンナコッタさんは「≠ という感じ」と仰ったのはさすがだと思いました。つまり、智邈の用例にこの4字熟語はなく、湛然の釋籤の段階で「三身並常倶體倶用」で登場するからです。日蓮は湛然の強い影響を受けていますが、真蹟遺文にこの用例は見られません。

湛然の法華三大部では、1502、霊は54
最澄の伝大師全集では、1477、霊は449

霊については、全体の資料に言えることですが、霊鷲山、霊山、霊峰といった用例もあり、これをすべて除外して考えるべきところですが、いまは大まかに瞥見する程度なので、そのままの比較としています。また、智邈、湛然の資料は3編ずつ、それにたいして伝全では30倍の90の資料を対象にしています。文字数、資料数も考慮して、比較すべきですが、それもいまはやめます。故にあくまで概観ですが、湛然の「体」の用例は圧倒的に多く、また、「霊」の用例は少ないことはわかります。もっとも、湛然は智邈の言を再掲しているケースもあるわけですから、この点も除外しなければなりませんが、いまはしていません。

いずれにしても、智邈、湛然、最澄、日蓮、通じて、「体」の用例は特別な意味を有していることはわかります。

いったい、いつごろから「体」概念は生じてきたのか、興味が惹かれます。
いい加減なことを記すと、また罵倒の対象になりかねませんが、無我、有部、空、化、中、諦、識など、漢訳される仏教のこうした概念語。これに隠れて、案外、「体」が軽視されてきたのは、何故なのか。これまた、実に興味を惹くテーマですが、少なくとも、近代では、大正生命主義の爆発的な流行から、この主要概念はスポイルされてしまったのではないかと思えます。

さらに日蓮における「体」の用法と、その後の中古天台本覚的な「体」は、かなり意味に開きもあることは想像に難くありません。

わたしは不勉強ですから、こうした点を精査した研究論攷がありましたら、是非ともご紹介ください。


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