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日蓮聖人の本尊観

148ワラシナ:2003/01/04(土) 21:57
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」2

2−0、さて、ここで自己同一性領域がなぜ、主観性の二種に平行していると言えるのかと言えば、特に「自閉的自己同一性=主観的主観性」の働き様を見ればわかる。まず人は、無原則的にこれに寄りすがろうとする。この時、善悪の二面の反動が影響として出てくる。
「善」を言えば、既にその効果から触れたように「慰撫、安心感情の獲得」
「悪」をいえば、自閉的即ち、他者関係性の無視からくる当然の反動として精神疾患症、異常心理、犯罪心理の温床の提供、である。「俺は俺」の自己同一性主張の持つ悪しき面を考えてみれば納得する。

2−1、従って、上の悪作用に規制をかけて思慮深く生きる為に「オレはオレなの」という「自閉的自己同一性領域」を変形して、「オレという自我の直接性を「A男」という名前・間接性に包み込んで「客観的(社会的)主観性」に直したのが、「オレはA男なの」という表現、と考えられるのである。
だから、「客観的(社会的)主観性」とは、「他人向けの自閉的自己同一性領域」と考えられる。これは、「自閉的自己同一性領域」が
元々が「自分向けのだけの自己同一性領域」だったから、その否定形ともいえる。だから、次の表現は「主観的主観性」>「客観的主観性」>「主観的主観性]へと言い換えに等しい、と思う。

「オレはA男だ。」「A男はオレだ。」「あたしはB子よ。」「B子はあたしよ。」

2−2、さて、ここで、次の例をだして「自閉的自己同一性領域=主観的主観性」を想定することの合理性をもう少し確かめたい。

それは、ごく親しい知人からかかってきた電話に出てくる次のようなせりふである。
「あ。た。し。あたしよ。あたしっつってんじゃ」「オレだよ。オレ。オレっつってんじゃ」

自我表現が完全に自閉的主観性から直接的に押し出されてしまっていて他人向けに言い換えられていないから、これでは、誰の「あたし(主観)」だかわからない。そこで全く自分向けの「あたしの反復」をあきらめて他人向けのわたしたる「B子」という名前でわたしを間接化(客観的社会的)した次の言い換え、
「あ、た、し。(わからないの?ばか!)B子よ!!」を「主観的主観性の客観的主観性への変形」と理解したのである。

(2−1、余談、この事と時枝誠記、北原保雄などの文法学者が日本語表現の全てが客体的表現(詞)と主体的表現(辞)との結合でできていると説いている事とは深い関わりがあると思われる。)


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