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日蓮聖人の本尊観

200犀角独歩:2007/03/06(火) 10:22:39

※お名前を間違えました。再投稿させていただきました。

そううそさん、恐縮です。
『創価学会の信仰に功徳はあるか?』も最近、拝読させていただいております。

> 日蓮以後の教学の見直しは日蓮系宗派にとって、新たな考え方を追加するのか
それとも原点回帰される方向にあるのでしょうか?

創価学会などの組織にいると、他者蔑視が盛んで、他では日蓮のことはちゃんと考えていないような錯覚を覚えがちです。実際は、そんなことはなく、かなり真剣に研究されています。

「新たな考え方を追加する」というような認識はないように見えます。いっぽう「原点回帰される方向」というのは、あるのではないでしょうか。教学研究はこの線でしょうね。

本尊論に関しては、当然、片岡随喜師、山中喜八師といった先哲はあるでしょう。日蓮の御筆大漫荼羅研究は真摯に為されていると思います。
現代でも、ここでよく名前が出る中尾堯師、都守基一師、桐田征一師など、わたしも敬意を表し、その研究を参考にさせていただいております。
わたしは、在野で実際の真筆に触れることができないわけですが、最先端では、科学的分析にまで立ち入って研究は為されているわけです。
先の当方の合宿でも拝観させてもらいましたが、日蓮の真筆は、書道的な見地から真偽を判定するなどと言うレベルではなく、使われている紙の科学分析がむしろ先行している観があります。このようなことは現代だからこそできることですね。

教学的な側面では、以下、『大崎学報』所載論文程度は、ここで議論をされている皆さんは、ほぼ、お読みになっています。

http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/index.html

さらに石山議論では、富士宗学要集、日宗全興尊部、歴全、さらに文献影本を手にとっての議論です。わたしは、歴全・影本資料は手薄なので、皆さんのご教示を仰いでいます。

本尊というのは、信仰の対象であるわけです。また、自分たちが受け取った在り方という経験値がそれに付随します。このために本尊を考えているわけですが、それがためにかえって、その意味がわからなくなるパラドックスがあるように思えます。また、最近、特に感じるのは、石山周辺の議論については、教相と観心について混乱があると思います。

それと石山・学会が印刷本尊を濫造頒布したために、本尊は万人が持つ必携のような誤解が、しばしば生じているように思えます。
日蓮の漫荼羅は、いわば個人仕様で万人を相手取っていないという当たり前の基本から議論が脱線しています。漫荼羅=本尊とう等式も単純化であれば、書かれている内容で、その意義が決まるとするのも単純化ですね。
日蓮は終生、釈尊一体立像を本尊としていたことは動かし難い事実です。しかし、漫荼羅本尊正意という宗派が有する固定観念を引きずった形で発言が為されることも多いですね。

以上の有様を見ると、原点回帰も、新たな方向性も生じないだろうと思えます。ただ、当掲示板のように、各人の意思で選び取るような場に置いては、それぞれの見地で本尊を掌握していく方向は生じるだろうと思えます。

> 所持していた本尊にこだわりが無くなりMCが一つ解けたかな?

MCとの関わりはどうであるかわかりませんが、日蓮真筆への原点回帰は、たいへんにけっこうなことであろうと思います


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