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日蓮聖人の本尊観

147ワラシナ:2003/01/04(土) 21:56
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」1

*謹賀新年
0−<目的1>

前回、法華経本門仏身の内面を「客観的主観性」と規定したが、「主観性」がどうして二種に(客観的主観性と主観的主観性)分けられるのかの理由には触れなかった。この二種類は、そのまま種脱相対の二種、文上文底の二種顕本、につらなる範疇と予想されるのであるが、今回「主観性の二種」が「自己同一性の二種」に等しい事に気がついたのでこの角度から「主観性の二種」論について新説明をしてみるのが目的である。特に主観的主観性を「自閉的固有領域」と捉え直してみた。

0−<目的2>
正宗信徒としてやり続けていくためにどうしても必要になる教学上の謎解きが二つA、Bある。
その一つAは、上行菩薩顕本論の合理性の是非問題。二つ目Bは、御文字御本尊様の中の釈迦牟尼佛は中尊七文字に比べてなぜ異様なほど小さく書かれてあるのか、その合理性を宗祖釈尊論の観点から説明しきること。

上の二つの課題に対して特にAについて考えた一応の結果を示す事。

1-0、<初めに>
人は誰でも落ち込んだ時、自分一人しかいない「自閉的固有領域」の中で身勝手な自己肯定をして自分を慰め鼓舞する。
「俺は俺さ」「あたしはあたしよ」と。この「一人称的自己同一性表現」を許しているのが「自分一人しかいない自閉的固有領域」と考えられる。

1ー1 これはかなり強力なパワーをもっている。「かなり強力な」と限定を加えたのは、人間の自己意識の中にはこれと同程度に強力な別な領域が対等にあるからであって、それは、この自己同一性を破壊するような「自分は自分以外の何者でもあり得る筈」という「原始偶然衝動の領域」と言える、と考えられるからである。

1―2、例えば、話は脱線するが、先ごろSATさんが、攻撃誘発の因子として同一視を挙げられた事に関係していると思うのだが、埴谷雄高の哲学的私小説のテーマが「AはAである、とする自同律に対する不快感の追求」とはよく言われる事であった。ところで不快感情の強度が極限に高まったものは、「怒り、憤り」であって、この時人の怒りは「お前は何故お前のままなんだ、俺は俺のままなんだ!何故お前は俺になろうとしないんだああ!!馬鹿野郎!」という無茶な哲学的テーマを相手に絶叫している風なところがあって興味深い。この絶叫感情の巣を「自分というものを持たない、何にでもなり得る原始偶然衝動の領域」と考えたわけである。であるから、この場合の憤りの合理性は、その存在の仕方自身に向けられていて、、自分自身も含めたそれがそれとして当然のようにえばってそこに存在していること(当然性)自体が癪に障ってならない、と理解されるのである。


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