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日蓮聖人の本尊観
196
:
犀角独歩
:2007/03/02(金) 21:44:23
194 そううそさん
> 私は理解や議論参加できない
そんなことはありません。
> 皆さんにはご不快でしょうか?
そんなこともないでしょう。皆さんもそうお感じになっていると思います。
> 日蓮は題目=経典なのではないでしょうか?
違いますね。先に『四信五品鈔』に「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳」と引いたとおりです。
> 元々、法華経という”経典”の題名から”題目”が成立しているのでは?
日蓮の思惟としては、むしろ逆ではないでしょうか。
法華経典の時制は、今番、印度応誕の釈尊の時代です。
一方、題目は五百塵点に置くわけでしょうね。
ただし、これを受け取ったのは、先の時制です。
> 本尊(=題目=法華経)は経典の一部を受持読誦
誤解はないと思いますが、「一部」とは、日蓮の用法では法華経典全巻を意味します。現代の用法の意味の一部分とは違います。
経典の(現代語の)一部を受持読誦するのではなく、題目(現代で言う題名)を受持、唱えるということです。
> 人が本尊なしで題目を唱える事、読む事は無意味ではないとの前提に立って、さらに本尊や経典があればベターなのでは?
これは現代的なアレンジで、日蓮の教えとは違います。
日蓮は上行所伝の妙法蓮華経の五字が釈尊の因行果徳の二法を具足するといい、その五字を受持すればその因果の功徳をを自然(じねん)に譲与されるというのです。ここにおいて、既に法華経典ではなく、題目の文字五字を選んでいます。
> 日蓮は慈悲を理由?に信徒には題目だけでもいいよ、という許容ではないのでしょうか?
ここでいう題目とは何を意味しますか。
> 当然、僧侶などには法華経(その精神も含め)そのものの受持読誦が必須だったのではないでしょうか?
これは、先の『四信五品鈔』と齟齬を来します。
> 師弟不二
日蓮が、こんなことをどこで言っているのでしょうか?
> 南無三!(南無三宝)とか
仏と法、そして、僧。在家仏教ではそろわないことです。
> 新たな言葉が出てくる事や省略される事は仏教の歴史上、問題になった事はあるのでしょうか?
これが議論されたスレッドはあるのでしょうか?>皆さん
日蓮以後の教学の見直しは、すべてこの線で為されてきましたが?
> 本尊の花押が日興以降も全部日蓮花押なのは可笑しいですね。
これは仰っている意味がよくわかりません。
日興以降は、「日蓮聖人」「日蓮御判」「日蓮在御判」ではありませんか?
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