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日蓮聖人の本尊観

153ワラシナ:2003/01/04(土) 22:05
現象仏と内面仏の二重内面(3)「自己同一性の二種」7

5−0−1、上行顕本論のまとめ

さて、ここまでくれば、在世寿量品釈尊の報身顕本が、「過去既在型、過去客観的「今」の永遠性」を現したものといい得る。永劫過去の時間経過量はそのこと自体にあまり意味はなく、現在というものの捉え方の元になっている内面主体の客観的性格(=客観的主観性)を示す為の手段の意味に重きがある、と思う。

5−0−2、だがその様な事が言えるためにはまず「観心本尊抄」解釈が示されねばならない筈だが、それを省いたのは、「本尊抄」の肝心の四十五字法体段「今本時の娑婆世界は、、常住の浄土」の本質を「過去既在型、過去客観的「今」の永遠性」と言ってしまったからそれで済んだ積もりになっていたためである。「今本時」語の「今」を「成り続けが開始された最初の、成ったものとしての今」として「経験世界」の必然性の内の一つ過去客観型永遠性の獲得」と捉えたのである。

5−1、そして、現在常住性=今の永遠性の捉え方の方向性が釈尊とは逆な(元々過去を持たない未来向き)特性を自己の自己たることの内面本質(主観的主観性)としてそれを現したのが、上行菩薩(宗祖)の報身顕本と想定されるのである。

5−2、最初、在世鎌倉期までの御化導では、宗祖は在世寿量品釈尊の報身顕本の証明役として出現した在世上行菩薩の再誕のお立場で振る舞われた。法華経は釈尊の内面主体、魂を表現された経典だから、この立場では、釈尊帰一主義のお振る舞いなのである。ところが、釈尊内面は「単純な客観仏」ではなく「客観的主観性」の二重性格であった。在世上行菩薩は釈尊本因妙時代からその必然性の方向が釈尊と同じ向き「客観的主観性」を現している。ところが、竜口御法難で「御首刎ねられ」た。その際その事を「迹を払って」という「迹」が、ここで再三言った「客観的主観性」に当たると考えるものである。

そして、「魂魄佐渡に至りて」の「魂魄」語が、、「主観的主観性」に当たるもの、と考えるものである。この時からは、元々持っていた宗祖の内面主体が輝き出して、「未在的、新規未曾有の不断到来性の「今」の永遠性」として「現在」を捉えていると拝察されるのである。この瞬間は、過去という束縛を元々持たない、これから歴史が造られる「はじめ」であるから「元初」と言うに等しい。また相対的偶然性を帯びてくる。

常に過去向きの釈尊と常に未来向きの上行菩薩で両者居場所が違うように見えても、確かに現実の場所を選んで現象する時には、外面客体=応身相を違えて出現するから、違う場所かもしれないが、しかし、各自の内面主体(わたし報身)は共有されている。だが、その部分というか重心としているところが違っている、と言える。


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