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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

1管理者:2002/03/08(金) 16:52

ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/gohonbutu.htm


スレッドテーマのご提案がありましたので、立ち上げます。

古来、日蓮大聖人様が御本仏である、というのは、大石寺、富士門流の根幹教義です。この教義について、幅広く、根源的な議論が展開される事を期待して、このスレッドを立ち上げます。

434苦悩乱者:2003/08/25(月) 21:21

カンコさん

浅井さんがどんな指導をされているのか知りませんが、四無量について聞いたこと有りませんか。

正信会の御僧侶は、きちっと教えてくれますよ。

435犀角独歩:2003/08/26(火) 08:35

苦悩乱者さん:

pundarika のわたしとの議論は一問答にも及ばず、先送りにした割には元気に書き込んでおりますね。「風邪を引いたPCは直った」とお見受けします。向こうでお待ちしておりますが、いらっしゃらないので、こちらでひと言申し上げます。

> 私の基本…偽書、偽経……我見…迷わない道が無い

自分の都合の好いものであれば、偽書・偽経も問わず、それは迷わないでしょう。
しかし、それで他人と接して議論が成り立つはずはありません。所謂、「独り善がり」ということでしょう。我見というより、独善という批判を免れません。四依で言えば「依智不依識」が廃れます。

本因妙抄と御義口伝について、少し申します。

本因妙抄は蓮興尊に継承したとされる書、石山系になんの謂われがありますか。尊門の血脈譜を肯定するわけでしょうか。御義口伝は京都の古書から見出され、尊門の系譜がこれを奇貨とし、のちに石山にもたらされたものと聞きます。前書は時師写本を遺すと石山は主張するもののその信憑性を外に信じるものはおらず、後者に至っては元亀年間に石要合同で開版をなし、あたかも両山の相伝書の如き扱いですが、そんな手前味噌を信じるわけにはいきません。まして、元亀の開版は、石山が要山の影響下にあったことを語るばかりでしょう。

そもそも、熟読玩味すれば、すぐにわかることですが、本因妙抄と御義口伝はその教学的姿勢は異なっています。特に後者は就註法華經口傳と言われるのであって、蓮師が終生、持たれたいた『註法華経』に就いて解読する口伝である故にこの名があるのでしょう。しかし、学会版の御書全集はこの名を隠しています。さらに以下の文を削り取ってもいます。

「六老僧の所望に依って老期たりと雖も、日蓮が本意の一端護義せしめ畢んぬ。是併ら私に最要文を集めて読誦せしむる所なり。然る間法華諸要の文書き付け畢んぬ。此の意は或は文を陰して義を取り、或は義を隠して文を取り、或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。
 委しくは註法華経を拝見すべし。然りと雖も文義甚深の間、愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや}

ここにはっきりと「六老僧」の名が見えるのであって、故に興師唯受一人の口伝とする如き本因妙抄とはその姿勢を異にします。また、重要な点はここに「六老僧」の名が見えながら、この書の日付が「弘安元年戊寅正月一日」となっていることです。言うまでもなく、六老僧(本弟子六人)の選定は興師真筆を残す遷化録に明確です。すなわち、

「蓮華阿闍梨日持、伊予公日頂、佐渡公日向、白蓮阿日興、大国阿日朗、弁阿日昭。右六人者本弟子なり仍つて向後のために定る所件の如し。
 弘安五年十月八日」

 この4年も前に「六老僧」などと記せるはずもありません。

「さらに末文には「委しくは註法華経を拝見…此の註法華経に過ぎん」と言うのであって、御義口伝の如きは、註法華経に過ぎるものではないと明言されているわけです。

この部分のみ、後人の添加などと嘯けるものではありません。

この日付に関する疑義は本因妙抄にもあるのであって、この署名が「弘安五年太歳壬午十月十一日 日蓮花押」などというは、到底、不可能なことでしょう。

以上の事情を隠蔽し、あるいは知らず、引文する姿勢を、既にこの掲示板では何度となく、弾訶してきたわけです。まして、真跡に「久遠元初」なる語はただの一度も現れないばかりか、真偽未決書にすら現れない語であることは周知の事実です。これを恰も蓮師の言の如く扱う神経はわたしに理解できません。そして、この語が使われる書こそ、本因妙抄、語義口伝あることをわたしは注視しています。

もっとも偽書・偽経なんでもござれであれば、上述の如きは意味をなしません。
しかし、それは、ここ富士門流信徒の掲示板で真摯な議論を続ける人々と、ロム者に対する冒涜であるとわたしには思えます。

真面目なロムの方には以下の文書をお薦めします。

日蓮教学上に於ける御義口伝の地位
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_002.html
日興の著作と真偽論
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_004.html

> 正信会の御僧侶は、きちっと教えてくれます

所詮、依法不依人ではなかったのではないでしょうか。

436犀角独歩:2003/08/26(火) 08:40

−435の補−

本因妙抄に云う血脈譜は蓮興目尊とするもあり、また、また蓮目尊とするが上古に先行したと記憶しています。
いずれにせよ、蓮興目道時という石山の主張する血脈譜とは無縁のものです。

437犀角独歩:2003/08/26(火) 08:59

重ねて 苦悩乱者さん:

昨晩、pundarika にスレッドを立てていらっしゃいましたか。
これは失礼いたしました。この点を謹んで訂正し、お詫びいたします。
では、種脱相待(相対)、向こうでしっかりと議論いたしましょう。

pundarika
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html

438苦悩乱者:2003/08/26(火) 10:48

犀角独歩さん

おひさしぶりです。

>pundarika のわたしとの議論は一問答にも及ばず、先送りにした割には元気に書き込んでおりますね。「風邪を引いたPCは直った」とお見受けします。向こうでお待ちしておりますが、いらっしゃらないので、こちらでひと言申し上げます。

私は、pundarikaの密室より、こちらが好きです。こちらでお話いたしましょう。又、種脱の事は、昨日pundarikaのスレッドに書き込みました。行き違いでしょう。

>独善という批判を免れません。四依で言えば「依智不依識」が廃れます。

独善とみられれば、甘受いたしましょう。
「依智不依識」については、ご教示ねがいます。

>「さらに末文には「委しくは註法華経を拝見…此の註法華経に過ぎん」と言うのであって、御義口伝の如きは、註法華経に過ぎるものではないと明言されているわけです。

この件に関しては聞き及んでおります。
私は、何れの「派」にも執して居りません。

>偽書・偽経なんでもござれであれば、上述の如きは意味をなしません。

偽書だ・偽経だと言い争っていても「らち」があかないのではないですか。
偽書であれ、偽経であれ、そこに人を「安らげる心」を観ればそれで良いと私は思っております。争いは避けるべきと言うのが私のスタンスです。時には矛盾も生じるかもしれませんが。

「法」に依るとはどういうことなのか、良く解るようにご教示ください。
「教主釈尊の出世の本懐は、仏の御振舞いにて候らいけるぞ、日蓮が出世の本懐は「南無妙法蓮華経」には過ぎず」という御文が有りますが(出典は忘れました)どのような意味なのか、ご教示ください。

独歩様は学識豊かな方とお見受けいたします。どうぞよろしくお願いいたします。

>所詮、依法不依人ではなかったのではないでしょうか。
「法」は自ら口を利きません。人を介してのみ口をききます。

これから17:00頃まで失礼します。

439犀角独歩:2003/08/26(火) 13:35

こちらで長く話をする気はありません。
1回だけ、残りは pundarika で、といたします。

> 私は、pundarikaの密室…

pundarika は別に密室ではありません。
茲より更に、厳粛に議論を進めているだけです。

> 「依智不依識」については、ご教示ねがいます。

金光玄義、法界次第、涅槃經疏、涅槃經南、隨自三昧などに出ております。

>> …御義口伝の如き…
> 私は、何れの「派」にも執して居りません。

派を問うているのではありません。相伝書は相伝に預かるもののみにその内容を有効とするものです。ですから、それ以外の者が引用したところで意味はなさない(是一)
また、不預の立場からすれば、その信憑性を問うのは当然のこと(是二)
以上、二重の意味で、相伝書を以て、論じるのであれば、その相伝に預かるか否か、その証憑性は是非を論じて、拠出するのが真面目な姿勢であるといっているのです。

> 偽書だ・偽経だと言い争っていても「らち」があかないのではないですか。

なぜでしょうか。もっとも大事なことです。
蓮師が言っていないことを蓮師が言ったように語るのでは嘘になります。
そのようにならない責任ある投稿をすべきであると言っているわけです。

> 偽書であれ、偽経であれ、そこに人を「安らげる心」を観ればそれで良いと私は思っております。争いは避けるべきと言うのが私のスタンスです。時には矛盾も生じるかもしれませんが。

安らぎがあるのは別段否定しませんが、それを真書として扱えば、虚偽を申し述べることになる、そのような無責任なことをいまだに平然としてのは富士門流ぐらいのものだ、恥ずかしいからやめようと、通年、申し述べてきたのです。

嘘でもなんでもいいのであれば、何もこのような議論の場で論じることもありません。
これは安らぎ云々とは同列に論じることではありません。

> 「法」に依るとはどういうことなのか、良く解るようにご教示ください。

依法不依人については、法界次第、涅槃經疏、涅槃經南にあります。ご自分でお調べください。

> 「教主釈尊の出世の本懐は、仏の御振舞いにて候らいけるぞ、日蓮が出世の本懐は「南無妙法蓮華経」には過ぎず」という御文が有りますが(出典は忘れました)どのような意味なのか、ご教示ください。

なんですか、このデタラメな記述は。

「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」

です。まったくお話になりません。
人にものを尋ねるのであれば、もっと真面目に致すべきでしょう。

>> 所詮、依法不依人ではなかったのではないでしょうか。
> 「法」は自ら口を利きません。人を介してのみ口をききます。

何を根拠にこのような戯れ言を。
法が口を聞くはずはありません。人の口から出たものが法であるわけもありません。
智邈師の「言語道斷心行處滅」を思い合わすべきでしょう。
なお、申すまでもありませんが、法の四依を以て捌くのは、苦悩乱者さんがこれを以て挙げたからです。それを説明するわけでもなく、逆に問うというのは問答の常道に反します。

では、続きは pundarika にて。
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html

440苦悩乱者:2003/08/26(火) 17:28

犀角独歩さん

メールの記録です。
(私)
> 2、種脱相対について私が知っているのは,真蹟遺文では「観心本尊抄」ですね。

(犀角独歩さん)
この書のどこに種脱相待がございますか。
五重相待はむしろ『開目抄』に説くところであり、内外は省きながらもその名目を覗か
せ、大小、権実、権迹、本迹の相違を考えられたものではありませんか。
『本尊抄』に「彼脱此種」というのは別抄に述べるところであって、五重相待義に含むべ
きものではないと拝します。
種脱相待とは“解釈”さればかりで、蓮師、興師ともにその考えは窺えないと存じます。

次に私が送らせて頂いた開目抄の抜粋(御書システム 興風談所発行)です。
菩薩心を発せる者の父なり」等云云。真言・華厳等の経々には種熟脱の三義名字す
ら猶なし。何に況や其の義をや。華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は、経は権
経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居
せんとせしがごとし。
 宗々互ひに権を諍ふ。予此れをあらそわず。但経に任すべし。法華経の種に依り
て、天親菩薩は種子無上を立てたり。天台の一念三千これなり。華厳経乃至諸大乗経
・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師一人此の法門を得給えり。
・・・中略・・・・
(これは開目抄 下 学御上巻p.215 終から6行目あたりからです。)

手塚師による意訳開目抄(上、下)によれば,同p.204に,「天親菩薩はその著,法
華論の中で十無上という事を言っています。
・・中略・・即ち,1、種子無上,2、修行無上,3、増上力無上,4、了解無上,5、
清浄国土無上,6、脱無上7、教化衆生無上,8、成大菩提無上,9、涅槃無上,10、勝
妙力無上の十がそれであります。」とあります。

(そして犀角独歩さんの御返事です。)
> 手塚師…

この人の考えにわたしはまるで賛同いたしません。問題外です。

なお、『御書辞典』と記されていますが、これは何でしょうか?
創価学会教学部編とかいうパクリ回しあの稚拙な語彙と珍解説を載せる書を使用されての
ことですか。
わたしは、これほど醜悪な辞典はないと考えます。
この手をお調べになるのであれば、『織田佛教辞典』をお薦めします。

更に私の返事です。(>が私です)

> 残念ながら,私は漢文を読めません。

それでは、漢訳の経論は何もわかりませんね。

> 所謂,一文不通の荒凡夫という事です。
> 己心の仏性を信じるのみです。

これはただの言い訳にしか聞こえません。
わたしも最初から白文が読めたわけではありません。
読めるようにならざるを得なかったのです。

> 末法に入りぬれば,余経も法華経も詮なし,只,南無妙法蓮華経なり
> どの御書は忘れましたが,確か真蹟では無いと思います。
> 不正確ですみません。確認はしておきます。

蓮師の御書を自分の不勉強の言い訳に使ってはいけませんね。

> 寛道師を全く評価しないのであれば,お話になりません。

はて、依法不依人ではありませんでしたか。

真跡ではありませんが「強敵を伏して始めて力士をしる」です。
真跡ならば「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべ
し」を挙げておきましょう。

1日も早く“風邪”が治ることをお祈り申し上げます。

こんな風に険悪な雰囲気なので、密室ではお断りします。

尚、開目抄の種脱相対の記述について、お答え願えれば幸いです。

もともと、種脱相対についてお話ししたかったのです。

最後に、諸経が教主釈尊の真説(真蹟ではありません)であるという証明は、三身即一身、一身即三身、この思想以外にそれを証明できる方法は無いのではないでしょうか。

再度、申し上げますが、私は公開された場所でしか、お話し合いは致しません。

441苦悩乱者:2003/08/26(火) 20:35

犀角独歩さん

更に以前のメール記録です。

>は私
>学会御書には,開目抄の真蹟は無いことになっているのですが
> 私の無智のいたすところでしょう。

(犀角独歩さん)
開目抄は、かつて身延にありましたが、大火で焼けてしまったために、いまはないとされ
ますね。
ご承知のように、ここに焼けた書の数は多く、しかし、それらを真跡無しと捨てること
は、通常はいたしませんでしょうね。
ただし、精査な写真技術が発達以前に、これを失したために、その流伝の段階でいくつの
瑕疵を残すところが、議論を分かつことになっておるのでしょう。
開目抄自体はまだ身延にあった頃にすでに断片に分かれていたと言うことでした。
数年前のことですが、開目抄の真跡を手に取り目の当たりに拝見したことがあります。
紙の質、墨痕ともに優美でした。宮崎師の鑑定も付されていましたが、では、「真跡か」
と問われれば、確証はありません。

> 日興要文となっていて,録内御書です。

(犀角独歩さん)
日興要文とは如何なる根拠によるものでしょうか。
古写本として伝わるのは、保田妙本寺蔵・我師本、本満寺・乾師本ですね。
興師本があるのでしょうか。未聞で驚き入っています。

442愚鈍凡夫:2003/08/26(火) 22:50
横レス失礼します。
学会版の御書全集には北山本門寺に日興師写本の「開目抄」があるとありますが・・・・。
何故未聞なのでしょうか?

443愚鈍凡夫:2003/08/26(火) 22:52
苦悩乱者さんへ

>>432:に引用の
> 我が法華経も本迹和合して利益を無量にあらわす。・・・中略・・・内より論出きたればいっぽうの相扼も漁夫の恐れ有るべし、南無妙法蓮華経と御となえ、つつしむべし、つつしむべし、恐恐」 兵衛志殿御返事(学御p.1108)真蹟 京都本隆寺

ですが、確かに学会版によると「京都本隆寺」に真蹟があるようですが、日蓮宗ではこの遺文は偽書扱いになっていると思います。それに、録内・録外の何れにもない遺文です(それだけで偽書と判断するのは早計だと思いますが)。にもかかわらず真蹟としているのは、何か根拠があってのことでしょうか?
例えば、筆跡鑑定の結果真蹟であるとの結果が出たとか。
御書全集に詳しいようなので、ご存知ならば宜しくお願いします。

444苦悩乱者:2003/08/27(水) 10:03

愚鈍凡夫さん

お久しぶりです。
資料を送るせていただきます。

● 兵衛志殿御返事
    1-248・24184・C0
 《書名備考》 『本満寺録外』は「兵衛志御書」、『日諦目録』『高祖遺文録』は「与兵衛志書」、『縮刷遺文』『定本』『新定』『対照録』『真蹟集成』は「兵衛志殿御返事」である。
 《系年》 「建治三年六月十八日」 『境妙庵目録』『日諦目録』『高祖遺文録』『縮刷遺文』『新定』は弘安四年六月十八日に系け、『定本』『対照録』は建治三年六月十八日に系ける。いま、花押を見るにバン字型であり弘安四年ではないことが明らかであり、『対照録』の文字鑑定を尊重して建治三年とする。
 《対告》 「 兵衛志」 真蹟本状奥に、「兵衛志殿御返事」とある。
 《真蹟蔵所》 真蹟一紙完、京都府本圀寺蔵
 《解題》 真蹟一紙完、京都府本圀寺蔵。『本満寺録外』『高祖遺文録』等所収。
 兵衛志が銭五貫文を供養した返状である。南無妙法蓮華経と一返唱えたことを伝える誠に短い書状である。「新池殿御消息」に「今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて、南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候畢」とあるのと同意であろう。

御書システム (興風談所)からのコピーです。

445苦悩乱者:2003/08/27(水) 10:29

愚鈍凡夫さん

すみません。資料を間違えたようです。
同名の御書が他にあるので、
もう少しお待ちください。

446苦悩乱者:2003/08/27(水) 11:03

愚鈍凡夫さん

有りました。同名御書が七つ見つかりました。今度は間違い有りません。

兵衛志殿御返事
    2-041・32264・C9
 《書名備考》 本書宛所に「ひやうえの志殿御返事」とある。
 《系年》 「弘安三年」 『日蓮聖人遺文講義』『定本』など弘安三年に系ける。内容に問題はあるが、従来の説を掲げておく。
 《対告》 「 兵衛志(池上宗長)」 本書宛所に「ひやうえの志殿」とある。
 《真蹟蔵所》
 《解題》 『縮刷遺文』(続集)に収録。『縮刷遺文』ならびに『日蓮聖人遺文講義』では、真蹟の所在を京都本隆寺と記しているが、『定本』以降に刊行された諸本には存在を記していない。『真蹟集成』にも未収録である。
 本書は兵衛志に対し、『法華経』の本迹・車の両輪・鳥の羽などを例にとって、二人の兄弟が力を合わせてこそ物事は為し得るのであると説いている。ただ文中に「二人同心して大御所・守殿・法華堂・八幡等つくりまいらせ給ならば法華経の御利生とをもわせ給ざるべき」との記述があって、これについては一考を要する。 番号405「八幡宮造営事」では、池上宗仲は八幡宮の「大ばんしやうをはづされた」と記されているし、何よりも宗祖は弘安三年の「諫暁八幡抄」において、八幡の捨国を記しているから、その再建を宗祖が肯定されているとも考えられず、少なくとも本書を弘安三年以降に系けることは難しいのではないだろうか。また鶴岡八幡宮の炎上は弘安三年十一月十四日だから、本書を同年に系けると、炎上前に再建について記していることになり、この点も矛盾しよう。また『遺文講義』は「今迄の御消息に於ては、親父と兄弟との不和が問題であったが、本書に於ては、兄弟の女房達の不和が問題となつて居る」と注意を促している。文献的には慎重に扱わなければならないが、本書には「八幡宮造営事」や、永仁3年(1295)7月29日の「鎌倉幕府政所裁許状」に見られる池上氏の職種(大工)に関連する記述があり、これらをトータルにとらえて検討すべき文書と言える。→『鎌倉遺文』25-125P:18878号、高木豊『日蓮とその門弟』、福島金治「信濃国太田荘と金沢北条氏」(『信濃』561号)。

御書システム 興風談所発行より

真蹟は無いもようです。

447苦悩乱者:2003/08/27(水) 11:47

犀角独歩さん

犀角独歩さんとのメールのやり取りの中で、犀角独歩さんの真蹟主義は破綻したと存じます。厳密にいえば、真蹟主義は全ての資料に対して「真蹟」を求めるもので有って、諸経典、止観、法華玄義、文句、等々、全てがその俎上に登るのではないでしょうか。当然、真蹟主義者はそれら全てを真蹟であることを証明してから、論を進めるべきだと考えます。

相手は私達のように法華を信じる人ばかりでは有りません。論に窮する事になりませんか。私の知る限りでは、久遠寺で二回、大石寺で二回の大火に見舞われております。多くの真蹟遺文が失われた事は犀角独歩さんも認めておられたではないですか。犀角独歩さんは漢籍をお読みになられるとの事、ご尊敬申し上げます。私はあるいは「祈り」の道を歩んできたのかも知れません。独歩様とのやり取りの中で、失礼がございました事などお詫び申し上げます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

448アネモネ:2003/08/27(水) 14:28
苦悩乱者さん

横レスを失礼いたします。
非常に重要なテーマの議論を提示されていることと拝察いたします。
ただ一点、教義内容とは別に気になることがございまして、レスをさせて頂きます。

ここに掲載された独歩さんとの個人メールのやりとりというのは、独歩さんの承諾を得て転載されていらっしゃるものなのでしょうか?
もしも承諾を得ていないのならば、このような公の場に個人メールのやりとりを一方的に公開することは、あまり好ましい行為ではないように思われます。
内容は大変興味深いものですが、もしも無断転載であるならば、マナー違反ではないでしょうか。
お節介がましく、ぶしつけにお尋ねする失礼の点、お許し下さい。

尚、pundarikaに参加されており、スレッドも立てられていらっしゃいますが、管理者さんからの指示も出ましたので、スレッド提案の手続きをふまえて頂けないでしょうか。
あちらの掲示板は、手続き上、参加規制はありますが、ロム閲覧には規制はありませんので、苦悩乱者さんが懸念されるほどの密室議論ではありません。ぜひ、続けてご参加されますことをお待ちしております。
また、私からは「富士門信徒の掲示板の過去ログについては、どの程度お読みになられているのでしょうか」といった質問も投稿させて頂いております。
こちらの掲示板でのご返答でもけっこうです。今後の議論のうえでの参考までに、お答えを頂ければ幸いです。

細かいことを申し上げるようで恐縮です。横レス失礼いたしました。
どうぞ、議論をお続けください。

449苦悩乱者:2003/08/27(水) 15:59

アネモネさん

始めまして、苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。

>個人メールのやりとりというのは、独歩さんの承諾を得て転載されていらっしゃるものなのでしょうか?

ルール違反でした。すみませんでした。
>447 独歩様とのやり取りの中で、失礼がございました事などお詫び申し上げます。
は、そのことも含めてのお詫びの言葉です。

唯、全体を通してお読みいただければ、お解りかと思いますが、「手塚師は問題外」と言う発言を始めとして、全体に私に対する言葉が乱暴に感じられ、独歩さんの直近のレスにも現れていますように、私に対する敵対心を感じるようになりました。まあ、売り言葉に買い言葉と言う処でしょうか。独歩さん自身の言葉ではありますが。

プンダリカのことですが、開目抄の出典については、論議しても、私には埒をあけられないので、出典に関しては論議できません。学会版御書と御書システムを前提にするしか、私には方法がありません。「種子無上」の文字を指し示しただけです。なお、私は独歩さんとのやりとりで非常に不愉快な思いを致しました。

>私からは「富士門信徒の掲示板の過去ログについては、どの程度お読みになられているのでしょうか」といった質問も投稿させて頂いております。

荒々というところです。私が申し上げたかった事は、大聖人様の法門には種脱相対がある。ということです。

最後に参考になる御書を紹介したいと思います。

減劫御書(学御p01465)と上野殿御返事(学御p.1545)です。

それでは。

450ガンコ:2003/08/27(水) 16:25

議論が錯綜しているようなので、発言を控えさせていただいておりましたが、もっとも基本的なところに戻って申し上げますと、わたくしなどは御相伝書を認める立場ではありますけれども、相手が認めないというのであれば使えないものだと観念しております。
今は底辺において、法華講対学会、あるいは法華講対顕正会、あるいは学会対顕正会の法論もどきが行なわれていますが、御書の使用範囲ということでは特に問題はないように思われます。ところが他山と法論をするとなると問題が起きてまいるわけです。まず、法論に先立っていろいろの取り決めが行なわれますが、その時に御書の使用範囲も決められます。そしてほぼ間違いなく、大石寺で当たり前に使っている御相伝書は使っちゃダメということになるようです。結局、その御書の正当性を証明できないのだから、どうしようもないわけです。

ただ、苦悩乱者さんのおっしゃりたいことはわかるような気がします。例えば、ちょっと前に紹介しましたが、わたくしの好きな御書に「信心強盛にして但余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり」というのがありまして、残念なことにこれは本因妙抄の御文なのです。では、もう使えないのかといえばそうではないような気がします。
わたくしのつたない言葉で申しますれば、たとえ本因妙抄が偽書であってもそこに説かれていることが「絶対的真理」であれば捨てるべきにあらず、という考えです。

本門と迹門の相違についてしばらく考えをめぐらせていたのは、だいたいにおいて、皆さん「一切衆生悉有仏性」ということをおっしゃるわけですが、確かにこれば現代的にわりと受容されやすい意味内容をもっているわけですが、あくまでこれはいまだ迹門の範疇に過ぎないと思うのです。そして大聖人の真理観はまさしく本門こそ絶対的真理であるとされているように思うのです(あるいはさらに文底があるとするか)。ところが、これが案外にわかりにくい、現代的には受容しづらい、気がするわけです。

おそらく単純には「悉有仏性」を迹門の理とするならば、「悉皆成仏」を本門の理(あるいは事というべきか)とするのでしょう。
ここで問題となるのは、本当にそれが絶対の真理なのか? ということであり、すでに日蓮信仰を卒業してしまった人が必ず突いてくる点であろうと思います。
そうなると「凡身即仏身」もまったく同じ俎上にのってくるわけであり、大聖人は本仏なのか上行なのか凡夫なのか、そんなことを論じている場合ではなくなってくるような気がします。問題は本当に成仏できるのか否か、このことが虚妄であったならば議論の意味はない、最終的にはこの点まで視野に入れて論ずるべきだと考えます。

なんだか、じぶんで書いていて、うわあ〜これは無理だあ〜、って思っちゃってます。

451犀角独歩:2003/08/27(水) 16:54

アネモネさん:

有り難うございます。

愚鈍凡夫さん:

> 学会版の御書全集には北山本門寺に日興師写本の「開目抄」があるとありますが・・・・。
何故未聞なのでしょうか?

仰るとおり、亨師編による学会版御書全集ではたしかに「日興要文・北山本門寺」となっていますが、その後、川澄師編・昭和新訂でも、顕師編・平成新編でもこの点を先述したように改めており、いわば、「日興要文」を引っ込めた形になっているからです。
つまり、この北山蔵の信憑性が確認されたことを「未聞」とわたしは言ったのです。
逆に質問申し上げますが、「日興要文」が興師の筆であることは確証されたのでしょうか。

452犀角独歩:2003/08/27(水) 16:59

苦悩乱者さん:

さて、個人でやり取りしたメールを公開するばかりではなく、自分の都合の良いように切り文して公開することはまさにネチケット違反の極みであると断固、抗議いたします。本来であれば、この投稿の削除を求めるべきところですが、いったん出てしまったものを引っ込めて今さら遅いと言わざるを得ません。故に、切り文ではなく、全文を公開し、切り文との比較を皆さんにしていただくことにいたしましょう。

『苦悩乱者さんとの往復メール』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kunoransha.html

いずれにしても、今回の議論は、そちらから申し出、さらにpundarikaに会員登録をし、なおさらにスレッドまで提案したものでした。それを「密室」云々と批判したうえでその議論を打ち切ること事態、常軌を逸しています。その言い訳のために当人の許可もなく、個人のやり取りを発表することもまた常軌を逸した行為です。

なお、わたしの「真跡主義が破綻した」云々などと言っています。こういう決めつけこそ、敵対心、険悪というのです。また、仮にそれが事実であっても「偽書・偽経なんでもござれ」という考えが破綻していないとは言えません。


言われる如く真跡の調査は、逐一、研究が進められるべきでしょう。
わたしは蓮師の考えを知るうえでは真跡主義によらざるを得ないという学問的な姿勢を遵守してるのに過ぎません。偽書・偽経なんでもござれでは議論の仕様がないからです。

なお、灌頂記が果たして、本当に智邈師の言に拠るのか、この点については、もちろん、わたしは慎重です。故に法華三大部なども「天台」とせず灌頂記としています。さらに湛然師の思想は、およそ灌頂が言うところの智邈説から論理の飛躍が見られ、わたしはこの点に大いに疑義を懐きますので、智邈・灌頂・湛然を一色単に語ることはしません。

あと、法華経を含む教典の真筆云々などという的外れな言いがかりをわたしにつけていますが、この掲示板をお読みいただければ、それらを後世の創作であるという立場をわたしが取っていることは一目瞭然のはずです。さらに漢訳者・鳩摩羅什にも疑義を向けてもいます。

> 全体に私に対する言葉が乱暴に感じられ

文章を切り文して、このような記述するのはやめていただきたいと思います。
乱暴、不愉快というのは当人の許可を取らずメールを平然と公開する如き態度にこそ言われるべきことです。

また、種脱相対の議論をしようというものが、その議論の結末を待たず、「種脱相対がある」と決めつけるような態度こそ、乱暴というものでしょう。

だいたい、手塚師をどう思うと、それはわたしの見解であって、この点について、とやかく言われる謂れも、また、手塚師への個人的な見解を公にされる謂われもありません。

453愚鈍凡夫:2003/08/27(水) 18:46
犀角独歩さん勘違いしていました。済みません。
苦悩乱者さんのレスが犀角独歩さん同意のもとであると勝手に判断してしまいました。
横レスする前に苦悩乱者さんに確認すべきだったと思います。

> その後、川澄師編・昭和新訂でも、顕師編・平成新編でもこの点を先述したように改めており、いわば、「日興要文」を引っ込めた形になっているからです。

このことを知りませんでした。申し訳御座いません。 m(__)m

454犀角独歩:2003/08/27(水) 19:36

愚鈍凡夫さん:

いえいえ、お詫びには及びません。
ご丁寧に有り難うございます。

455苦悩乱者:2003/08/28(木) 10:20

犀角独歩さん

私との往復メールの件確かに間違い有りません。
皆様にも読んでいただきたいと思います。
又、私からの、一方的なメール公開は改めてお詫び申し上げます。

今回の件については、私は議論というより、お話し合いを望んでいたのですが、いつしか法論(勝敗を決する)に思われていたのですね。私はすこしでも「何か」がわかるようになると良いなと思っているだけです。

開目抄に関しても、どうも独歩さんの持っておられる「開目抄」と私の持っている「開目抄」では内容が違う印象を持っています。そこで、プンダリカにスレッドを立てさせていただいたのです。開目抄の真偽を糾す目的では有りません。あくまでも、両開目抄の相違を確認する事が主眼でした。言葉が足らない為に誤解を生じたのかもしれません。其の点についてもお詫びいたします。

更に、再度申し上げます。プンダリカは会員制との事、私は誰でも参加できる方を選びます。横レス(この言葉もようやく意味が解るようになりました)大歓迎です。

456犀角独歩:2003/08/28(木) 10:42

苦悩乱者さん:

謝罪、承りました。

> 法論(勝敗を決する)に思われていた

まったく、そのようなことは考えていません。

> 開目抄の真偽を糾す目的では有りません

わたしも斯様な考えはありません。

> 私は誰でも参加できる方を選びます

どうぞ。何度も申し上げたとおり、原則的にわたしは当掲示板で記すべきことは記しましたので、こちらで議論をする気はありません。

上述の如きですので、以下、述べて、この投稿を終了します。

伝教大師は日本顕密の元祖、秀句に云く ̄他宗所依経雖有一分仏母義然但有愛闕厳義。天台法華宗具厳愛義。一切賢聖学無学及発菩提心者之父等云云。
 真言・華厳等の経経には種熟脱の三義名字すら猶おなし。何に況んや其の義をや。華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし。宗々互いに権を諍う。予、此れをあらそわず。但経に任すべし。法華経の種に依て天親菩薩は種子無上を立てたり。天台の一念三千これなり。華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子、皆一念三千なり。天台智者大師一人、此の法門を得給えり(『昭和定本日蓮聖人遺文』)

この文をどうやら種脱相対の依文とする如くです。が、果たしてそうでしょうか。種脱相対とは、釈尊末法の蓮師(下種仏)・在世の釈尊(脱益仏)の相対を言う寛師説と見えます。また、石山における日蓮本仏論は二つの系譜があり、一つは蓮師が釈尊の久遠の師であるとするもの、そして、もう一つは蓮師こそ、久遠の釈尊であるとするものです。寛師の記述はどちらかというと後者に偏っていますが、現石山系教学圏にある集団では蓮師が釈尊の師である説に拠っていると映じます。この点で前者を支持する日蓮本仏論者は実は寛師説を否定した日蓮本仏論者なのですが、このことを当人達も気付いていない構造があります。

さて、上述の開目鈔に言うところは「天台智者大師一人、此の法門を得給えり」なのであって、そもそも蓮師と釈尊の相対にもなっていません。また、ここの教学的な姿勢は法華経と華厳・真言を比するもののであり、法華経・一念三千のみが種であるというのであって、いわゆる種脱相対の種と、字こそ同じであれ、意味するところはまったく違っています。

史実的には、引用される天台智邈師は華厳との相克はあれ、では「真言は」となるとこちらは最澄師に係ることになります。引用文では現れませんが、最澄師については「日蓮云く 日本に仏法わたりてすでに七百余年、但、伝教大師一人計り法華経をよめりと申すをば諸人これを用いず」とその師の意義を示しています。また、「新来真言家則泯筆受之相承 旧到華厳家則隠影響之軌模〔新来の真言家は則ち筆受之相承を泯し 旧到の華厳家は則ち影響之軌模を隠す〕」との一節から最澄師の弘法師批判の実際を引いて、加えて華厳に触れ、伝教(天台) 対 真言・華厳の優劣と論は進みます。ここで法華・一念三千=種の盗人と華厳・真言と言うのであり、ここでも天台と華厳・真言の対峙を述べるに留まっています。

さて、法華・一念三千=種とするこの既述が、どうして種(日蓮)脱(釈尊)相対の文章となり得るわけがあるでしょうか。また、引文の箇所は像法・天台/伝教の所談なのであって、末法・蓮師の身上に触れる段でもありません。

実際に末法・蓮師自身について、触れるのは、あとの「此に日蓮案じて云く 世すでに末代…権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。外道外典に堕ちぬ。結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり。日本国に此れをしれる者、但日蓮一人なり」と言う前後からでしょう。しかし、ここでも所謂種脱相対?なることをいうのではなく、当世の日本の状態が、権経に堕ちぬ(権実相対廃る)権経より小乗経に堕ちぬ(大小相対廃る)外道外典に堕ちぬ(内外相対廃る)という浅ましい状態にあることをただ蓮師一人が知ったというのです。ここから、ご自身の半生を述べ、法華・一念三千=種(実教)の顕彰を身業読誦から宣揚しようとするので、しかし、法華経の行者の名が示すとおり、五重相対で言えば権実相対の範疇から論及を越えません。ちなみにこれが種脱相対ともなれば、「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」などと尊門相承に現れるような明確な記述が求められましょうが、そのようなものは真跡遺文に窺うことはできません。

やや、後文まで触れましたが、苦悩乱者さんが示すところの開目鈔の引文中の「種」は種脱相対の種とは何等関係のないものであることは明確です。

以上、畢ります。

457苦悩乱者:2003/08/28(木) 10:56

450 カンコさん

なんかもう、すごく核心に迫って居られる様な気が致します。

458ガンコ:2003/08/28(木) 11:54
日蓮大聖人の御法門に種脱相対が説かれているかどうかといえば、説かれていると申し上げてよいかと思います。
申すまでもなく、観心本尊抄に「但し彼は脱、此は種なり。」とあるごとくです。
問題は、大石寺でたてるがごとくの勝劣・・・つまり、種勝脱劣を意味するか、もっとあからさまにいえば、下種の本仏と熟脱の迹仏といった明確なたてわけを仰せなのかどうか、これが議論の分かれ目であろうかと思います。
本因妙抄に「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。」とありますが、これが確実な文証たりえれば話は早いんですけど・・・

もうひとつの問題は、開目抄における五重の相対ですが、肝心の種脱相対はどのように説かれているかといえば、苦悩乱者さんの云はく、「・・・真言・華厳等の経々には、種熟脱の三義、名字すら猶なし。・・・種をしらざる脱なれば・・・」 あれ? そ、そうでしたっけ?
これはちがうと思います。文意は明らかに権実相対をさしていると読めますから。つまり、真言・華厳等を法華経と対比しているわけですから、これを種脱相対としてしまうと、「彼は脱、此は種」の意味がちがってきちゃいます。本尊抄では在世の本門を脱、末法の初めを種としているのに、開目抄では真言・華厳等を脱、法華経を種としているように読めます。
大胆に読むならば、後年の「余経も法華経も詮無し」との仰せを含意せしめて、在世の本門すら「種をしらざる脱」に置換してしまう・・・まあ、大胆というよりアホウと言われそうですが、だいたいに文底読みというのはそういう芸が好きなのです。

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。」というのがいわゆる種脱相対の依文であろうかと思いますが、これもいろいろと問題の多い箇所です。もっとも御文に忠実な読み方は、前後の「華厳宗と真言宗との二宗は偸かに盗んで自宗の骨目とせり。」「善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとって・・・華厳宗は澄観が時・・・天台の一念三千の法門を偸み入れたり」を拝せば明白で、やはり権実相対を仰せのように読めます。ところが寿量品文底大事には「文の底とは他門徒に於ては、平文面には様々の料簡を為すと雖も、聖人の御本懐に於ては全く知らざる者なり。」とあって、かくかくしかじか書かれているわけです。それはそれとして、なぜに平文面に相違があるのか? すなわち文底大事では「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」となっているのです。ちなみに顕正会版御書では「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘してしづめたまへり。」となっています。
種脱相対を考える以前に、なんなんだ〜この不整合は? ってな気分になってしまいます。

459ガンコ:2003/08/28(木) 12:04
なんだか独歩さんのご所論とダブってしまって、まるでまねして書いたみたいで、そのわりには稚拙な文章で、まったくお恥ずかしいかぎりであります。

開目抄の要文というのは、開目抄のどの御文なのか、わかっているんでしょうか?
つまり、日興上人が御写しになられたというのであれば、あの長文の開目抄のどの部分をピックアップせられていらっしゃるか、その傾向から日興上人の法門理解ということがわかるのでは? また、いろいろと読み方で問題になっているところも、日興上人の写本を基準にするならば、説得力を増すのでは? それとも都合が悪いことが書かれている?

ご存知の方、よろしくお願い申し上げます。

460ガンコ:2003/08/28(木) 12:09
苦悩乱者さん

密室? あえて密室にこだわるならば彼の掲示板は全面ガラス張りの密室でしょうか。だって、わたくし、くまなく拝見してますもの。

461ガンコ:2003/08/28(木) 12:25
そ、それと、四無量でしたっけ?

そんなに大事の法門ではないのでは。だって大聖人もほとんどあげていらっしゃらないようですし。

ちなみに浅井からはいちども教わったことありません。だいたい戒定慧の三学を“難しくなるからやめておきましょう”といって説明しないんですから、知らないことだらけなんです、わたくし達は。

462苦悩乱者:2003/08/28(木) 13:10

犀角独歩さん

>456 拝読いたしました。
本当に有難うございました。

今後の研鑚の為の貴重なご教示とさせていただきます。私論ですが、確かにはっきりとは種脱相対を云われておらないのかも知れません。「いや相対だ」、「いや相対ではない」、どちらにしようかな、と言うところでしょうか?

開目抄(上)学御p203 11行目からの
「但し世間の疑ひといゐ、自心の疑ひと申し、いかでか天扶け給はざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者にはさる(猿)になりとも法華経の行者とがうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそをぼすべきに、其の義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑は此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑を強くして答へをかまうべし。」(御書システム 興風談所より)と仰せの如くに、開目抄の真の目的は、五重の相対を論説するに有るのではないのでは無いか。と思っております。五重の相対を論説するのであれば、「五重相対抄」と題しておられたのではないか?と思って居ります。五重の相対は御書全般に渡って読み取るものと考えます。

これは、私論ですから、反論は読ませていただきますが、議論は極力避けさせていただきます。ご容赦をお願い致します。

重要な事は全体として、大聖人様の法門には「種脱相対」が存在するか否かと言うことであって、わたしは「存在する」という立場にあるということです。ここから先はいわゆる「相伝」の範疇に入る事なのだと思っているので、信じる者は、求めるもよし、信じないものは求めざるも良し、と言うところでしょうか。

なにか独善的と云われてしまいそうですが、もうこれ以上は仕方が無いことだと思っております。

独歩様、本当に有難うございました。

463苦悩乱者:2003/08/28(木) 13:26

458 カンコさん

>苦悩乱者さんの云はく、「・・・真言・華厳等の経々には、種熟脱の三義、名字すら猶なし。・・・種をしらざる脱なれば・・・」 あれ? そ、そうでしたっけ?

いや、これは開目抄の種脱を論じられた箇所と思う所を抜粋したものです。手塚師の「意訳開目抄」に、「種脱相対の教え」の章が「ここに最も重大な事は真言宗、華厳宗等の諸経には、種・塾・脱の・・・」で始まるので、其のへんであろうと(これは間違っていないと思います)思いまして。

464苦悩乱者:2003/08/28(木) 13:55

461 カンコさん

四無量のことですが、

いつも読誦する処の、「方便品第二」中頃に「如来知見、広大深遠、無量無碍、・・・」とあるところの、無量無碍の内の無量、省略されていますが、これが、四無量心、つまり 1、慈無量心、2、悲無量心、3、喜無量心、4、捨無量心、これを略すと、大慈大悲大喜大捨、更に略すと、慈悲喜捨となると教えていただきました。

人を慈しみ、人の悲(かなしみ)を自分の悲とし、ひとの喜(よろこび)を自分の喜とし、自分の手柄を自慢せず捨ててしまう。小乗と大乗では解釈が違っているようですが(大乗はより積極的)だいたいこんな事です。

465ガンコ:2003/08/28(木) 16:39
苦悩乱者さん

四無量心というのは方便品に説かれているのですか。毎日勤行しているけど、まったく気がつきませんでした。
法蓮抄に載っているようですが、文意をよくつかんでいません。

しかし、ネットで検索をかけると、なんだかオウム真理教あたりがよく使っているみたいですね。

466苦悩乱者:2003/08/28(木) 17:22

465 カンコさん

>なんだかオウム真理教あたりがよく使っているみたいですね。

そうですか、オウムはものすごい慈悲ですね。

>460 密室? あえて密室にこだわるならば彼の掲示板は全面ガラス張りの密室でしょうか。だって、わたくし、くまなく拝見してますもの。

私は、BBS初めてなので(これがBBSだってことも子供に聞いて初めて知ったのです。それからメールのことも無断で公開してはいけないなんて!)いやはや、子供にも怒られました。

それから、方便品のことですが、私は方便品の長行を読んでいます。無量無碍の経文は、如是本末究竟等までの短かい経の中間頃にあります。長行は世雄偈とも呼ばれ、そのあとに続く比丘偈はいちおう除外されているようです。

467ガンコ:2003/08/28(木) 17:46
>長行は世雄偈とも呼ばれ、そのあとに続く比丘偈はいちおう除外されているようです。

世雄偈があるということは聞いたことがありますが、比丘偈というのもあるんですか? まったく知りませんでした。知らないことばっかり。

そうすると、勤行はどのような形式なのですか? ものすご〜く時間がかかりそう。

468苦悩乱者:2003/08/28(木) 17:49

管理人様

いろいろ錯綜したこを書き込みましてすみませんでした。

私のハンドル・ネームに免じてお許し願いたいと思います。

何故富士門が(宗教全般か)分裂するのかを垣間見たような気がいたします。

やはり、下種だけで済ますべきなのでしょうか。

荒らし屋みたいなことをしてしまったのか?と、少し反省もしています。

川澄勲師の書き物に「大石寺の法門は大石寺自身も本当は解っていないのでは?との記述がありますが、その川澄師は最後には「川澄の教学」から「川澄の狂学」とまで、ののしられたと述懐しておられました。その川澄師の法門は「己心の法門」と呼ぶべきものだと、私は解しております。そして、大石寺は「心でも己心でも良い、それを捨てよ!」と言い切ったそうです。

以上、大変ご迷惑をおかけいたしました事、お詫び申し上げます。
又、苦情を呈する事も無く、書き込みをお許しいただいたこと、感謝いたします。

草々

今後は誰かの呼びかけに出来るだけ応じることに専念いたします。

469苦悩乱者:2003/08/28(木) 18:22

467 カンコさん

月水御書に、方便品の長行と寿量品の長行とご教示のように、


天拝には
両長行共省略読誦後、引き題目、御観念文
その後
方便品の長行と寿量品の長行のあと唱題最低数珠玉一巡、親玉を超えないように送って(112返くらい)
その後、2、3、4、5座のご観念文です。
これでも省略型です。
夕は
天拝を省きます。(日有上人の時代には御宗門では朝夕の天拝があったようです)

しかし、これは私が会社勤めを止めたので、できるようになっただけです。
四信五品抄にご教示あるように、私はそれほどこだわらなくても良いと思います。

唯、方便品の長行は是非、時間があるときに読んで見てください。新しい発見があるかもしれません。

カンコさんが、なにか一番分かり合えるようなそんな気がします。
なにもかも一致しているなんて、考えるだけで恐ろしい事です。
あるご住職がその様に語ってくれました。

それから、夜はきちんと寝た方が良いのでは、と思います。
私も、結構眠れない日が続いたりしますが、そんな時は適当に遊びます。

それでは、お体をお大切に。

470愚鈍凡夫:2003/08/28(木) 18:30
横レス失礼します。

「在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也」(「観心本尊抄」 昭定P715)
の文証が種脱相対の依文なのでしょうか。
これは、末法の衆生の初発心の機根と釈迦牟尼在世の衆生の仏道修行に於ける最終段階の機根が共に円機であるとの意味ではないでしょうか。
要するに、本已有善の衆生は一品二半(従地涌出品後半部、如来寿量品長行、分別功徳品前半部)の信解によって成道するが、本未有善の衆生は法華経の題目の信受によって成道するということではないですか。
従って、この文証は種熟脱の三益の上から衆生の機根を述べ、それぞれに応じた成道の法を示したものであるとの意味ではないですか。
決して種脱相対の意味ではないように思います。
むしろ、時機相応の修行ならば、行法は違っても共に成道するとの意味と解釈します。

471ガンコ:2003/08/28(木) 18:41
>それでは、お体をお大切に。

まるでお別れみたいじゃないですか。もっと教えてください。

>方便品の長行と寿量品の長行のあと唱題最低数珠玉一巡、親玉を超えないように送って(112返くらい)

親玉を超えないとはどういう意味でしょうか? あんまり長く唱えてはいけないってこと?

472ガンコ:2003/08/28(木) 19:02
あっ、愚鈍凡夫さん、どうもです。

ええ、ええ、おっしゃるとおりです。だいたい、そういうことを想定して書いたつもりだったんです。
もう、種脱相対といえば、大聖人の勝・釈尊の劣ってことを意味してしまうと思われちゃうけど、そこまではわたくし申してませんです。(ほんとは言いたい)

ちょっと前の過去レスにも書きましたが、一同に純円である以上、勝劣はないとの意味を申しました。また、所説の法門の相違をもって、能説の教主の相違を示されたものと拝すると書きましたが、常住此説法の意味から教主はあくまで一人であろうから、そうすると大聖人を教主とは呼べないかもしれない、というようなことも書きました。

つまり、現状では御書の字面どおり、大聖人御みずから種と脱を対比せられていることを申し上げたまでのことです。

473愚鈍凡夫:2003/08/28(木) 21:01
訂正

> 従って、この文証は種熟脱の三益の上から衆生の機根を述べ、それぞれに応じた成道の法を示したものであるとの意味ではないですか

変な日本語ですね。

従って、この文証は種熟脱の三益の上から衆生の機根を述べ、それぞれに応じた成道の法を示したものではないでしょうか。

こっちに変えます。

ガンコさんレス有り難うございます。
何やら、苦悩乱者と2人で種脱相対肯定論に持ち込もうとしているように感じたものですから。
種脱相対が蓮祖の法門であると仰るのは構わないと思います。しかし、それならそれである程度の説明責任が生ずるように思うのです。
悪しからず。 m(__)m

474愚鈍凡夫:2003/08/28(木) 21:05
再び訂正です。

>何やら、苦悩乱者と2人で
ではなく、
何やら、苦悩乱者さんと2人で
です。
再び、悪しからず。 m(__)m

475アネモネ:2003/08/29(金) 01:09
苦悩乱者さん

またもや横レス失礼いたします。

>449
レスありがとうございます。

私も含めて誰しも感情的になってしまうと、冷静な振る舞いが出来なくなってしまうものですね。しかしそうなってしまっては、せっかく記述されている仏の教えも、語るに落ちてしまいかねません。私などが、生意気を申し上げましたが、どうぞこれからは留意なされますように。

>唯、全体を通してお読みいただければ、お解りかと思いますが、「手塚師は問題外」と言う発言を始めとして、全体に私に対する言葉が乱暴に感じられ、独歩さんの直近のレスにも現れていますように、私に対する敵対心を感じるようになりました。

具体的な記述内容につきましては、私には深い見識もなく、見解はまるで述べられませんが、ただ拝見させて頂いた全体の感じとしましては、別段、独歩さんが苦悩乱者さんに敵対心をあらわにしているという印象は受けず、むしろ公の場のレスも個人宛のレスも、変わりない論調と姿勢なのだという印象を受けたくらいです。
しかしまあ、感じ方は人それぞれで、苦悩乱者さんにとっては、違った受け止められ方をされたものなのでしょう。またそう思わざるを得ない、大きなこだわりのようなものもあおりだったと拝察いたします。

>まあ、売り言葉に買い言葉と言う処でしょうか。独歩さん自身の言葉ではありますが。

いささか個人的なことになるかもしれませんが、私も、過去2〜3回、独歩さんとは意見が衝突したことがありました。
私はもとより自己主張が強く、またおいそれとは自説を曲げませんし、一方の独歩さんは、歯に衣着せぬ単刀直入なレスをされますから、そのまま見解の相違がぶつかってしまったことが幾度かありました。
しかし、そのようなぶつかり合いをしながらも、この掲示板で長く議論に参加させて頂きながら、独歩さんが単刀直入に示す言葉のひとつひとつは、昨日今日の教義研鑚で導き出されたものではないということが、次第にわかってきたものです。
そのことが理解できるようになってからは、独歩さんの痛烈なレスも、私なりに真摯に耳を傾けられるようにもなりました。少し冷静に考え直してみると、非常に納得のいくことが多く、今となっては、学ばせてもらったことはたくさんあります。

まあ、そんなことで、せっかくのご参加なのですから、どうぞ苦悩乱者さんも気を取り直して、できれば過去ログを少しずつでも、じっくり読みながら結論を急がす、多くの対話を重ねて、これからも議論に取り組んでみられてください。

476アネモネ:2003/08/29(金) 01:10
(つづき)
それから、偽書か真蹟かという議論について、少し。
長く、日蓮聖人の書として読み親しみ、また深く感涙してきた御文が、偽書の可能性ありと言われたところで、俄に自分の中に受け入れ難い気持ちは私なりにもよくわかります。
しかし、この問題、非常に重要なことだと思います。
私はここに参加されている方々ほど、御書を精読してきたわけではないので、たいして説得力を持たないかもしれませんが、以前、この偽書問題における独歩さんのレスのなかで、私が意識改革に至るうえで、非常に納得させられた文章があり、検索でみつけましたので、ここに紹介させて頂きます。

「富士大石寺の歴史について」の以下過去ログにおける、>128のレスです。
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm

該当する独歩さんのレスを、以下転載しておきます。

「平和呆けした我々からすれば『仏教は平和主義』などと何の躊躇いもなく答えるのですが、日本はオウム真理教の出現を待つまでもなく、仏教テロリズムの国家であり、各寺院は武装し、僧侶は僧兵となって軍勢をかね、自分たちの都合に遭わない寺院・本尊は焼き落し、不利な資料は簒奪して破り捨て、さらには偽書を捏造しては己が正統性を主張して憚らない謀略が罷り通った国であった、このような視点を失うと、すべてを見間違う点を私はつくづく最近、感じるのです。」

私は、この一文で、偽書問題の歴史的な根深さを理解するようになったんですね。
現在、私は富士門の信仰からは距離を置いて、そして広く日本の仏教に関する書物などにも時折目を通してきましたが、独歩さんが記された文面通りの史実が横たわっていたことを、改めて認識してきたものです。また大石寺といえども、その例外ではなさそうです。

>争いは避けるべきと言うのが私のスタンスです。時には矛盾も生じるかもしれませんが。

争いを避ける…一見平和的な言葉に思われますが、実際に避けているのは「争い」ではなくて、「真実」かもしれません。矛盾に目を背ければ、当然、真実を遠避けてしまうことになるでしょう。結局は、現状にただ妥協しているだけということも有り得ますね。

重ねて、生意気なことを申し上げ失礼いたしました。
こちらの掲示板で議論をお続けになりながら、またいつでもpundarikaにご参加ください。お待ちしております。

477犀角独歩:2003/08/29(金) 13:14

昨日で投稿は終わらせようと思ったのですが、いくつかのレスをいただき、それぞれに気になるところもありますので、少しだけ失礼します。

まずはアネモネさん:

かつて「意見が衝突した」ことがありましたお相手に、自分のことをご説明いただき、こそばゆい思いです。
有り難うございました。

愚鈍凡夫さん:
ガンコさん:
苦悩乱者さん:

470のご投稿、仰るようだと思います。
以下、たぶん、愚鈍凡夫さんには特にご賛同いただける点ではないのかと思います。

どうも、所謂、下種教学が固定観念化してしまうと真跡本文が素直に読めなくなる障害が起きるものだと愚鈍凡夫さんも観察されておられるでしょうね。
いつも思うのですが、本当に皆、ちゃんと本文を読んでいるのだろうかと。
種脱観は、もっともその典型であると思うわけです。

蓮師が言う種というのは、一念三千です。権大乗では久遠実成が記されていないので、真の下種の意味が現れていない、それが蓮師の言う下種の意味ですね。それで、下種の正体は一念三千、下ろされたのは(地涌の菩薩)後に他の結縁衆であるとし、自分は法華経の行者か、日本国衆生の親であり得るかと自身を論じていくのが開目鈔の規模でしょう。

そこから、この下種は久遠実成の仏様が菩薩にされたものであるという点を重視されているわけです。ですから、

つまり、久遠に脱益した仏が一念三千を衆生に下種した。
脱とは仏、種一念三千、下した先は結縁衆。
故に本尊鈔に「彼(仏)脱・此(菩薩)種」という関係を述べているわけでしょう。

これはしかし、もちろん、相対論ではありません。脱(仏):種(一念三千)係です。この二つを相対したら(わたしは人法一箇論にはもちろん否定の立場ですが)人法一箇が崩れます。

そもそも開目鈔における展開が、本尊鈔の語句を待って完結するなどと言うのはなんともはや、よくぞ考えたこじつけであると思うわけです。この点はしかし、批判して言うのではなく、富士門で当然のように言われてきたこの常識を「当然のこととして刷り込まれている」のだと指摘したいわけです。しかし、実際の本文はそうはなっていません。

開目鈔では、一貫して法華経の一念三千という種と下ろされる菩薩衆生を説明するのであって、その意味でその種が、なんでひっくり返って仏などと言われるのか、本文をしっかり読めば読むほど、よくもまあ、こんなことが思いつくものだと呆れもします。

もちろん、その理由ははっきりとわかります。『秘密荘厳論』に

「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏なり」

からの連想でしょう。種は一念三千、その一念三千は自受用身で仏であるという連想ゲームです。ちなみに、出尊形仏を「示同凡夫」であるとする記述は、富要で見る限りでは、教師、我師、寛師の順番になっています。これまた、日蓮本仏論創作のあの時代の出来事でした。この頃に種は人法にわたる仏と相成って、今に至るのでしょう。蓮師の真跡にまったく現れない、中世教学と限りなく偽書と考えられる真偽未決書、相伝書で塗り固められ、わたしが捏造教学と呼ぶものです。

なお、相対などといいますが、この点もどうも短絡であると見えます。それは、蓮師は湛然師の言を挙げて儒について
「妙楽大師云く ̄仏教流化実頼於茲。礼楽前駆真道後啓〔仏教の流化、実に茲に頼る。礼楽前きに駆せて真道後に啓く〕
といい儒道を仏教宣布の道を整えるためのものであったととらえ、また外道についても、
「外道の所詮は内道に入る、即ち最要なり」
というも、およそ相(あい)対する概念とはなっていません。相対というより、むしろ灌頂記の如く相待というべきであると見えます。また、儒から数えれば、六重となるでしょうし、もし本当に種脱を入れるのであれば、七重とすべきでしょう。台学の装いから五重と整理したかったのが日蓮門下であったのかと想像しています。

さて、この記述をご理解いただくためには、富士門教学の常識を、いったん捨てて、読み物を読むように頭から虚心坦懐に開目鈔を読んでみることです。この書が書かれたときにはもちろんのこと、相伝書はありませんでした。なかった時点の読者に徹してみると、文意はストレートに心に飛び込んでくることでしょう。かつてわたしが心がけた仏教再考、蓮師教学再考のアプローチの有様です。

478苦悩乱者:2003/08/29(金) 14:54

471 カンコさん

当家三依抄 の最後に書かれています。
「・・・前略・・・此くの如き三宝を一心に之を念じて、『唯』まさに南無妙法蓮華経と称(とな)え、乃(すなわ)ち一子(いちご)を過すべし云々。行者謹んで次第を超過するなかれ、勢至経の如くんば妄語の罪に因(よ)って当(まさ)に地獄に堕つべし、亦復(またまた)母殊を超ゆることなかれ・・・」
「勢至経」を探して読んでみます。日にちがかかるかも知れません。

それと、なにか、「唯まさに南無妙法蓮華経と称(とな)え、乃(すなわ)ち一子(いちご)を過すべし」この「ご教示」は「生死一大事血脈抄」や「上野殿御返事 学御p1545」のご教示にそっくりですね。「『担』南無妙法蓮華経なるべし。上野殿御返事」、「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の『所詮』是なり・・生死一大事血脈抄」

解らないのに色々と議論するより「担南無妙法蓮華経」と信心無二に唱えなさい、と言われているような、そんな気が・・・。四無量心を磨きなさいと。

479苦悩乱者:2003/08/29(金) 15:05

477 犀角独歩さん

>(わたしは人法一箇論にはもちろん否定の立場ですが)

実は私もそうなんです。否定ではなく、まだ懐疑的の段階ですが、独歩さんのおっしゃるとおりだと思うんです。この事は私の先生と論議すると、たぶんおかしなことになってしまうでしょうけれど。富士の教義はやはり理解不能になりやすいです。

480苦悩乱者:2003/08/29(金) 15:13

475 476 アネモネさん

ご忠告有難うございます。

自分で言うのもなんですが、わたしは、非常に敏感なのです。過剰なくらいに。

481苦悩乱者:2003/08/29(金) 15:32

477 犀角独歩さん

相対、勝劣、相待、この三つを同義に扱っているようなところがあるような気がするのですが、本来は「相待」が正しいのですか。そうするとすんなり理解が進むように思います。私の感なのですが。

482苦悩乱者:2003/08/29(金) 15:35

481 訂正

>相対、勝劣、相待、この三つを同義に扱っている=誤

富士門では相対、勝劣、相待、この三つを同義に扱っているような・・・です。

483愚鈍凡夫:2003/08/29(金) 21:16

>>477:犀角独歩さんへ

> 470のご投稿、仰るようだと思います。
有り難うございます。

> というも、およそ相(あい)対する概念とはなっていません。相対というより、むしろ灌頂記の如く相待というべきであると見えます。また、儒から数えれば、六重となるでしょうし、もし本当に種脱を入れるのであれば、七重とすべきでしょう。台学の装いから五重と整理したかったのが日蓮門下であったのかと想像しています。

大乗仏教自体が、いろんな宗教の影響を受けながら理論構築(理論武装?)してきたわけですよね。にもかかわらず、相対関係で優劣を論じ、この教義以外は全て邪義とする考え方は、大変な害毒をもたらすと思います。
特に○○学会に見られるような唯我独尊の姿勢にその害毒の恐ろしさを感じます。

484ガンコ:2003/08/29(金) 21:18

犀角独歩さんには、よき先輩ぶりを発揮されまして、たびたびのご教示、まことにありがたく思うものであります。

何よりも、多くの独歩ファンがよろこんでいることでありましょう。わたくしはファンじゃありませんけどね。

しかし、まあ、いままで、相手にもしてもらえなかったけど、ようやく相手にしていただけるようになって、うれしく思っております。

さて、御法門について、わたくしのほうからも、申し上げたいことがあるのですが、今日あたりはとても暑くって、もう、頭が湯だってしまって使い物になりません。(うちは貧乏でクーラーがありませんの)

一両日中くらいに書き込みたいと思っておりますが、まあ、わたくしの意見を読まれて、相手にする値打ちなし、と思われましたら、そのままほっといてください。(相手にする値打ちなし、なんて書かれたら、ショックで死んでしまいそう)

485ガンコ:2003/08/29(金) 21:23

苦悩乱者さん

当家三依抄ですか。いや、まいりました。いくら勉強してもぜんぜんおっつかない。まったく恐ろしい世界だわ。

486ガンコ:2003/08/29(金) 21:27

しかし、なんだろう、みんな人法一箇に否定的じゃあないですか。独歩さんといい、愚鈍さんといい、おまけに苦悩さんまで。

ひょっとして、アネモネさんも?

487愚鈍凡夫:2003/08/29(金) 22:33
>>485:ガンコさんへ

苦悩乱者さんはこの文証のことを仰っているんです。
「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ、数珠経の如き過諸罪に越ゆ、数珠は仏の如くせよ云々。
母珠を超ゆるの罪何んぞ諸罪に越ゆるや、今謂わく、蓋し是れ名を忌むか、孔子勝母に至り暮る、而も宿らずして過ぐ、里を勝母と名づくれば曾子入らず等云々、外典尚お然り、況んや仏氏をや。」(当家三依抄)

ちなみに、下のアドレスから「六巻抄」をダウンロードできます。

御歴代上人文書
http://nakanihon.net/nb/gorekidai.html

488犀角独歩:2003/08/30(土) 02:28

度々書き込んでしまい恐縮ですが…

愚鈍凡夫さん:

> 487

ちょっと、引用の頭が切れています。これではまるで寛師の言葉みたいですよ(笑)
「宗祖録外御書の四、戒法門御書中に数珠経」からの引用でしょうね。

戒法門「数珠経に云はく「応に母珠を越ゆべからず、過(とが)諸罪に越ゆ。数珠は仏の如くせよ」と。」

たしかに三衣抄にもありますが、『対俗三依談』にもあります。いまさらわたしが引くのもなんですが、こちらのほうが詳しいでしょう。

ただ、父珠・母珠、四菩薩、心一境法性珠なんて言っても、ガンコさん当たりはピンとこないかもしれません。(ご存じでしたら失礼)以前に数珠の各部位の名称を記した図を挙げたことがあります。再掲します。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/juzu.gif

房の着いた部分の珠は数取り用ですね。父珠から四菩薩は飛ばして題目一遍に一珠を送り、母珠に至って、母珠を越えずに折り返して父珠へ戻ってと百遍とします。これが「母珠を越ゆべからず」の意ですね。念仏の平念珠での数取りではグルグル一方向に数珠を回していきますが、これを批判した記述であるということでした。

苦悩乱者さん:

相待と書いている例は、石山文書でも、実際にあったと記憶します。

>> わたしは人法一箇論にはもちろん否定の立場
> 実は私もそうなんです。否定ではなく、まだ懐疑的の段階

おお、これは共通の見解が見出せました。嬉しいことです。

ガンコさん:

では、投稿されましたら、読ませていただきます。

489犀角独歩:2003/08/30(土) 02:55

【488の訂正】

誤)対俗三依談
正)対俗三衣談

490ガンコ:2003/08/30(土) 10:23
アネモネさん、苦悩乱者さん、愚鈍凡夫さん、犀角独歩さん・・・(不次第)

早坂鳳城先生の論文を読んでいて、ひじょうに興味深い記述を発見しました。
「法と佛の関係において、人勝法劣の立場を取るのは、爾前権教=応身正意論の立場。法勝人劣の立場を取るのは、「法華経」迹門=法身正意論。人法一箇の立場を取るのが、「法華経」本門=三身即一=報身正意論と言えるのである。」
わたくしには応身・法身・報身ないし三身即一などさっぱりわからないのですが、ここに人法一箇とあることにびっくりしているのです。早坂先生はいったいこの言葉をどこから引っ張ってきたのか? 正宗系の人なら同じような疑問を持たれることかと思います。
誤解のないように同じ論文からもうひとつ引用しますと、
「根本的には、根本の久遠佛も釈尊も同じであり、久遠佛が本体である故に本佛とするのである。この本体の一つの現われが裟婆の化佛=印度の釈尊である。だから、裟婆の化佛を普遍化、原理化したのが、久遠実成、久遠の本佛である。そして佛本尊とは、この原理的な面で表現し、原理面を本尊としている。つまり三身即一の報身正意論である。」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_170.htm
早坂先生が日蓮本仏論者であるわけなどありません。つまり、釈迦本仏論の立場において人法一箇を言っておられるのですが、まあ、この用語をどこから仕入れたかは別の問題として、ともかく人法一箇思想が日蓮宗にも存在することに驚いたものです。
さて、ここでわたくしが大いに悩んだのは、爾前経=人勝法劣、法華経迹門=法勝人劣、法華経本門=人法一箇 ということがどうして言えるのか、よくわからないことです。論文の末には、法本尊の文証・人本尊(佛本尊)の文証と思われるものを列記しているけど、直接的には人勝法劣・法勝人劣・人法一箇の文証を提示していないように思えます。文中、法佛一如を原始仏典より証明していますが、もちろん、この論文は他宗の人に対するものですから単に日蓮教説より文をとり出だしても意味がないでしょうけど、わたくしにとっては大聖人がどのように御教示であられるかが大事なのです。
いま現在、大聖人の御書を拝するに、爾前→迹門→本門を、人勝法劣→法勝人劣→人法一箇とは読み取れない、というのがわたくしの理解です。
もっとも、みなさんが必ずしも早坂先生の論に同意であるわけではないでしょうから、あんまり興味をひかないかもしれませんけど・・・
とりわけ独歩さんあたりは、再三にわたって、日蓮教説における三身論には慎重の意味を述べておられますし、してみると当該論文については早坂先生のご所論といえども「用いず」でありましょうか?
とりあえず、こんなところです。

491愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 10:26
うっ・・・。 ヾ(;´▽`A``アセアセ
中途半端に書き込むんじゃなかった(かな?)

ほんじゃ、これらなどうだ!!なんちゃって。 (^▽^;)

「問ふ宗祖録外御書の四、戒法門御書中に数珠経に引いて云はく母珠を越ゆべからず過か越法罪なり、数珠は仏の如くせよ云云、他受用御書二冊之れに同し、数珠経に云はく母珠を越え莫過すべからず珠を越ゆる罪千万と云云、答ふ御書には台家の相伝を挙げたり故に本文に合せざるか、然るに御書引文の意は即ち母珠を捨てゝ数を取らざるの失を明す、故に一返の念仏、十の数珠を越ゆる等是れ妄語の罪重き証文を引く、既に母珠仏の如し何ぞ数を取らずして母珠を超越せんや、若し強いて之を執せば則ち菩薩の勝果珠を数えて何ぞ忽に仏母の正珠を捨てんや、故に勢至経を引いて云はく次第を超ゆる者は妄語の罪に因つて当に地獄に堕つべしと云云。

問ふ若し爾らば母珠は是れ百八珠の外なり何ぞ母珠を数ふと為んや、答ふ若し爾らば百八の外、四珠の小珠何ぞ唱る数と為るや、会合して曰はく凡そ数珠は是れ三宝を表する故に百八珠は法性の百八珠を以つて百八煩悩及び報障を対治することを表し、四小珠は是れ上行等四大菩薩、常楽我浄の四徳波羅蜜を唱へ顕すことを表するなり、釈迦多宝の二母珠は是れ境智の二法を唱へ顕はすことを表す、若し小の四珠大の母珠を除く人は只是れ法宝のみにして仏宝僧宝なし、何ぞ仏法僧の三宝を表はす数珠と云ふべけんや、然れば先師方の伝法は仏母の宝珠を捨つるに似たる者か、更に詳にせよ。

応に知るべし、此れ皆要法寺日大の邪伝を信ずる故に此の過失有る者なり、又上行等の四徳波羅蜜は界外の四顛倒を破して九界の生死を出づることを表する故に、一百八の小珠は界内の見使を破して六道三界の生死を出づる事を表するのみ、当に知るべし二母は本有の妙覚及び修徳本果の妙覚本末究竟等の故に、根本無明結業の惑を破して九界六道の生死を出づるものなり、故に御書十四(卅)但専ら本門寿量の一品に限り出離生死の要法なり云云、又録内卅一(十三)爾前迹門にして猶生死離れ難し本門寿量品に至りて必す生死を離るべし云云。」(袈裟数珠の事)

下記アドレスからダウンロードできます。
『袈裟数珠の事』
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm

492ガンコ:2003/08/30(土) 10:34

数珠のことですが、戒法門にあったとは・・・うああ、御書が読めていないのがばれちゃった。

493アネモネ:2003/08/30(土) 10:51
ガンコさん

>ひょっとして、アネモネさんも?

はい。いつのまに、そうなっていました。といっても、元々の理解度が低いですから。私の教学レベルを参考までに言いますと、法華講での教学試験の初級どまりです。

参考になるかどうかわかりませんが。私は、元々がキリスト教ですから、恐らく振り返ってみて、キリスト教の教義に日蓮正宗の教義を当て嵌めて(いや逆かな?)、そうやって教義を理解しようとしていたと思うんですね。
pundarikaにも少し書きましたけど、キリスト教の三位一体という教義解釈と、本仏論とか三身即一身は、とても似ているんです。
三位一体は、神と聖霊とイエスは一体であるという考え方なんです。ですから、神を久遠の釈尊もしくは本仏、法が聖霊、イエスを日蓮と置き換えて捉えてみとる、しっくり理解できたというわけなんです。
私は折伏を受けるとき、日蓮はインド応誕の釈尊の生まれ変わりと教えられたので、イエスのところをお釈迦様=日蓮と置き換えて捉えていたと思います。

しかしキリスト教のこの三位一体という教義ですが、イエスはそんなこと言っていないんです。そもそもイエスはお釈迦様と同じで、自分で書いた書物は残していませんしね。結局、後世の弟子たちのなかから発生した解釈というわけですが、しかし世界中に広まったキリスト教勢力の大半は、この三位一体の解釈を受け継いできており、絶大な主流となっています。やはり数の力、権威の力はすごいです。でもだかといって、それが教祖の教えを正しく汲んだものや真実だとは限らないわけです。
後世の人の解釈なのですから、三位一体を証明することはできないです。ただその解釈の源流をたどれば、誰だったか、イエスの直弟子にたどりつくはずです。
でもまあ、私はいずれにしても教義については明るくないので、感覚的なことしか書けませんけれども、結局はどこまでいっても観念的なことなのではないかなと思ってしまうんです。
平たく言い換えれば、計り知れない昔に私たちと同じ生身の人間としてこの世に生まれた方が、この世の一切の森羅万象すべてを司る法そのものだったってことでしょうか。このような表現が大きく外れたものでないとしたら、確かにロマンに満ちた話ではありますが、かといって今の自分がそのことを実感として感じられるかというと、とてもとてもそこまでのものではないのが正直なところです。その正直な実感をそのまま受け止めています。

494アネモネ:2003/08/30(土) 10:54
ところで、ガンコさんも、愚鈍凡夫さんも、富士門の掲示板の過去ログはもちろんのこと、独歩さんのサイトなども、とても熟読されていらっしゃるのですね。
あのー、もしもよろしかったら、こちらの掲示板と並行してpundarikaにも参加されてはいかがかと。独歩さんとも落ち着いて対話が出来ますし、それこそ何か新しいテーマをご提案なされば、また違った趣からの議論ができるのではではないかと思います。

495ガンコ:2003/08/30(土) 11:04
アネモネさん、どうも。

>平たく言い換えれば、計り知れない昔に私たちと同じ生身の人間としてこの世に生まれた方が、この世の一切の森羅万象すべてを司る法そのものだったってことでしょうか。このような表現が大きく外れたものでないとしたら、確かにロマンに満ちた話ではありますが、かといって今の自分がそのことを実感として感じられるかというと、とてもとてもそこまでのものではないのが正直なところです。その正直な実感をそのまま受け止めています。

ええ、わたくしもロマンに酔いしれているだけなのかも、って思うことがあります。けっこう、近いかもしれませんね。

496ガンコ:2003/08/30(土) 11:08

>あのー、もしもよろしかったら、こちらの掲示板と並行して

あっ、ダメダメ、そんな器用なことできませんですよ。

497愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 11:10
「問ふ宗祖録外御書の四、戒法門御書中に数珠経に引いて云はく」
とは、下記の文証のことです。

「数珠経に云く「応に母珠を越ゆべからず過諸罪に越ゆ。数珠は仏の如くせよ」よ。勢至菩薩経に云く「平形の念珠を以ふる者は此れは是れ外道の弟子なり、我が弟子に非ず。我が遺弟は必ず円形の念珠を用ゆべし。次第を超越する者は因果妄語の罪に依て当に地獄に堕すべし」云云。此れ等の文意を能く能く信ずべし。平たき念珠を持ちて虚事をすれば、三千大千世界の人の食を奪う罪なり。」(戒法門)

498犀角独歩:2003/08/30(土) 11:32

愚鈍凡夫さん:

お、さすがですね。頼もしいです。

ガンコさん:

> とりわけ独歩さんあたりは、再三にわたって、日蓮教説における三身論には慎重

より、正確に言えば、それが灌頂記であれなんであれ、三身説に慎重と言うことです。
アネモネさんも挙げていらっしゃいますが、わたしは三位一体と三即一・一即三は同一ルーツではないのかと考えています。
つまり、外来説という予想です。

> 早坂先生のご所論といえども「用いず」でありましょうか

どなたの諸説であるかは問題にしていません。問題にしているのは、説の証憑性のみです。
たとえば、わたしが尊敬する執行海秀師でも『五人所破抄見聞』を妙蓮寺眼師であるとしています。
しかし、この点は用いません。
学説は日々書き換えられる、我が考えも日々書き換える、人にも学説にも固執は一切しません。
ですから、日蓮聖人と雖も、仰る内容が事実と違えば、「用いず」です。

なお、ついでに記せば、もし蓮師が、真跡中でご自身を「仏である」と言っていたとしても、それは記述として確認するのみです。
その他の事実を照らし合わせて、違うと思えば「蓮師は自分を仏と言っているけれど、これは違う」と何の躊躇いもなく斥けます。

499ガンコ:2003/08/30(土) 12:01
独歩さん

次に申し上げたいことは・・・じつはまだぜんぜん書いていないので、気長に待っててください。

さて、
>外来説という予想

これは日本におけるキリスト教伝来をお考えですか、それとも、古代の東西交流によって仏教・キリスト教に相似性がある、との意でしょうか?

>わたしが尊敬する執行海秀師でも『五人所破抄見聞』を妙蓮寺眼師であるとしています。

ええ、最近読みましたけど、師の書きようはまったく疑いを置いておられない、と読めました。

>ですから、日蓮聖人と雖も
>躊躇いもなく斥けます

まあ、これが独歩さんのご主張でしょうけど、最近はとくにその傾向が顕著ですね。

500アネモネ:2003/08/30(土) 13:53
ガンコさん

>ええ、わたくしもロマンに酔いしれているだけなのかも、って思うことがあります。けっこう、近いかもしれませんね。

自分の置かれた立場とか、蓄積とか、人間的つながりとか、それら諸々に対する愛着(執着)とか、そういうことが、ある種のしがらみとか、足かせになってしまうんですよね。
でも、時間をかけてでも納得がいくまで探求されることは、決して無駄ではないと思います。最近のガンコさんのレスを拝見していて、そういう姿勢が伺えるなあと思って拝見させて頂いています。

>あっ、ダメダメ、そんな器用なことできませんですよ。

気が向いたら、いつでも来てください。

独歩さんに対するレスですが、興味深いので少し…
>これは日本におけるキリスト教伝来をお考えですか、それとも、古代の東西交流によって仏教・キリスト教に相似性がある、との意でしょうか?

ガンコさん、着眼的がいいですね。
私は、「キリスト教伝来」の影響ということもあるかもしれませんが、やはり「古代の東西交流によって仏教・キリスト教に相似性がある」のではないかと思います。
恐らく仏教が伝来する聖徳太子の時代から既に、そのような概念の原型があるのではないでしょうか。
日本の神道にしても、完全に日本の古代人のオリジナルではなく、海を越えてもたらされたものという説はよく聞かれ、物語の類似性もみられますし、またその変遷を示すように言語の類似性までもが日本語の中にも数多く残っているらしいです。

ちなみに、ユダヤ教(キリスト教)の救世主信仰は、ペルシャのゾロアスター教のミトラ神の影響が強く、またそれは東に向かっては弥勒菩薩の源流となったといわれいるそうです。この点は、独歩さんがより詳しいと思います。

また、キリスト教が東に伝えられて中国では景教となり、一説では西暦200年頃には早くも日本に伝わっているとのことですから、ゾロアスター教、ユダヤ教(キリスト教)、さらには密教や神道や仏教などから見出される神話の類似性は、間違いなく東西文明の交流と融合を如実に証明しているものでしょうね。
古代オリエントにおける文明の交流は、それこそロマンがあって面白いです。けこう、私は興味を持っていますよ。

ここからは私の勝手な想像ですが、文字を持たな古代人が、真理に結びつくような概念を人に伝えようとするとき、それを擬人化もしくは化身化して捉えて表現することが最もわかりやすかったのではないでしょうか。
日本の八百万の神にしても、またギリシャ神話にしても、そうですしね。それもまたひとつの人間の智恵かもしれません。
だけど、人間の人知を超えた存在の化身を観念的に想定して象徴とし、その象徴に教えを説かせるということが、たとえ一種の方便だとしても、そのことによって学び伝えられた崇高な精神というものは確かにあったと思います。
なにより、人間がその存在を奢り高ぶることを抑制する力となっていたのではないかと考えたりもします。

501愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 15:34

横レス失礼します。
参考になるかどうか分かりませんが、本からの引用です。

ギリシアと仏教の融合―ガンダーラ美術

 アレキサンダー大王のギリシア軍は、北インドで仏教に遭遇した。一行はその地にバラモンの反攻のために足留めを余儀なくされていたのである。アレキサンダー軍の子孫であるインド=ギリシアの往事たちは仏教徒になった。そしてギリシアの様式と特色を仏教的姿勢と主題に組み合わせ、ガンダーラ芸術として知られる驚くべき芸術様式を始めたのは彼らの治世においてであった。ガンダーラというのはペシャワール地方の別名で、現代の研究者たちはこの様式の多くの例をここで発見している。19世紀のヨーロッパ人が北部インド(その頃にはそこから仏教は完全に消え失せていた)で、インド人の一般的なずんぐりと歪んだしかめつらの顔形とは異なる、豊かな曲線と額の線から続いている真直ぐな鼻をした、丸形の古典的なギリシアの顔に突然遭遇した時の驚きは、充分想像することができよう。ガンダーラ芸術は正確に言うならカニシュカ王時代のものである。ギリシアからきてラテン芸術家たちに影響を与えた様式は、それまでパミールで止まっていたのである。仏教の東漸はじめ中国に、後には日本にその様式を伝え、1世紀以上も大西洋から太平洋に及ぶ地域で支配的であったと言ってよいだろう。この様式はギリシアの神々の保護のもとに地中海を取り巻き、アレキサンダーとともにインドへ行き、ブッダの肖像の中に定着したのである。そして初期の中央アジアや中国への使節団の後に続くのが、まさにこの仏教的要素(象徴と型にはまった構え)とギリシアの形式との混合であった。
(『シルクロード』リュセット・ブルノア著 長澤和俊・伊藤健司訳 河出書房新社 P118)

502愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 15:46

>>501:訂正

> アレキサンダー軍の子孫であるインド=ギリシアの往事たちは仏教徒になった。
 アレキサンダー軍の子孫であるインド=ギリシアの王子たちは仏教徒になった。

> 仏教の東漸はじめ中国に、
  仏教の東漸ははじめ中国に、

です。悪しからず。 m(_ _)m

503苦悩乱者:2003/08/30(土) 15:57

犀角独歩さん、アネモネさん、愚鈍凡夫さん、カンコさん

ほんとうに有難うございます。

皆さんの御投稿は、御僧侶方の説法より、有り難いですね。あっ、これ大変な事言ってしまったかな。まあ、私は苦悩乱者ですから、もう地獄ですからいいんですけど。

あんまり多くには、答えられないんですけど
>500 アネモネさんの >ここからは私の勝手な想像ですが、文字を持たな古代人が、真理に結びつくような概念を人に伝えようとするとき、それを擬人化もしくは化身化して捉えて表現することが最もわかりやすかったのではないでしょうか。

これが私の一番大好きな方法なのです。勝手とは云いながら、きちんと書を読んでいらっしゃる。其の上で、それを踏まえて、想像を巡らせて勝手に想像される、いちいちあの書籍の誰が書いた何処何処発行の、なんてやらない、そんな事しても、その書が正しいことを書いてあるのか否か、なんて証明も出来ないわけでして、だいたい同レベルの人であれば解ってしまう。そういう事って、私みたいな不勉強な者には都合がよい、最近になって、私の先生が教えてくれた法門が有ります。御義口伝の総題釈です。これを広めてほしいと言われました。私の御書は学会版で不完全なので誰か、ここに載せて、解釈してくださませんか?

504愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 18:22

>>501:に関連して、めげずに再度投稿です。

仏教興隆の中心地――クシャン王朝

 古代が終わり、中世が始まる頃、テュルク=モンゴル族が古代ロシア、シベリアおよびヨーロッパの半分を席巻した時、事実上彼らは何ら存続するようなものは残さなかった。蛮族の波が寄せるたびに、蛮族は先住者を圧倒し絶滅させた。しかし、600年か700年ほど経っても彼らは決して文化をうち建てようとはしなかった。彼らはむしろ自分たちが征服した人びとの文化に同化することを好んだ。(中略)
 中央アジアは2つの交通路の中心であった――それはペルシア経由の陸路とインド経由の回路である。――そして少なくとも100年の間、それは絶え間ない往来の場であった。この時代のクシャン帝国の領内、とくにタリム盆地の西部では、仏教が大いに広まった。商人たちに広められた路は仏教思想の広汎な布教・伝播にこのうえなく好都合であった。(中略)
 班超が緋の皮を着た騎兵を率いて、西域を平定し、パミール高原に行った時には、クシャン王国の首都は世界的に主導的な仏教の中心地になっていた。当時の貨幣からわかるように、この国には多種多彩な宗派が併存していた。ある貨幣は牡牛を伴った完全なヒンドウー教のシバ神を表しており、またあるものはブッダ、ヘリオス(太陽神)あるいはセレネ(月の女神)、太陽神ミトラス、月なるマー、水神アートースプ、あるいはセム族の豊饒の女神ナナイアを表していた。しかし、ある王の個人的な好みの結果なのか、それともめざましい宗教的指導者の影響下にあってのことなのか、それともめざましい宗教的指導者の影響下にあってのことなのか、この時代にもっとも著しい進展をなしたのは仏教であった。この宗教的な混合主義(これはクシャンの統治上の諸条件に好都合であったし、またこの期の非常に幅広く異なった貨幣があることからも証明される)、この4つの異なった宗教的思想の融合を反映する思想の自由さは、大乗仏教(マハーヤーナ)の混合的性格と比較されうるということは、一再ならず言われてきたことである。仏教思想はバクトリアナを席巻し、ソグディアナに瀰漫し、それまでゾロアスター教徒の国であったホラズミアのすぐ近くまで広がった。そしてそれに伴い、仏教がアラル海沿岸まで進展するとガンダーラのグレコ=ブッディスト(ギリシア仏教)芸術を引き起こした。ホラズミアでは、たとえば考古学者たちはギリシア様式の織物や塔のミニチュアを発掘している。これらの遠隔の地のグレコ=ブッディスト芸術には、実際にはそこでは決して見られない猿さえ表されている。さらに北方、カスピ草原を横切り、ボルガ川とカマ川を遡る陸路と水路に沿って、クシャン貨幣が発見されたが、われわれの知るかぎり仏像やその他の典型的仏教遺品は見られない。
(『シルクロード』リュセット・ブルノア著 長澤和俊・伊藤健司訳 河出書房新社 P114)

クシャン朝の時代には、想像以上にいろんな宗教が混在していたようですね。

505ガンコ:2003/08/30(土) 18:54

アネモネさんの博識ぶりにはあらためて感嘆しております。また、愚鈍凡夫さんにしても、ただちに適切な資料を提示できるところなど、日頃の研鑽振りがうかがえます。

苦悩乱者さん、学会版の御書は不完全だから? それで、何をどのように解釈しろとおっしゃっる?

506苦悩乱者:2003/08/30(土) 19:40

503
誤=解釈してくださませんか?
正=解釈してくださいませんか?

それから、最後?に一言
私達いつまで観念世界に漂っていれば良いのでしょうか?
「母殊を超えない」ということも、念珠のことではなく、もっと違う事のご教示のように思うのですが。

507苦悩乱者:2003/08/30(土) 19:49

505 カンコさん

御義口伝の総題釈です。南無妙法蓮華経です。

508愚鈍凡夫:2003/08/30(土) 20:23
苦悩乱者さんへ

> 私達いつまで観念世界に漂っていれば良いのでしょうか?

このBBSに集う人たちは、観念世界に漂っている人などいないと思いますよ。
逆に、我見の教学の世界に漂うことの恐ろしさを知っている人たちばかりだと思います。
小生は、我見の教学の恐ろしさを創価学会で嫌というほど思い知らされました(創価学会では実践の教学と呼んでいますが・・・・・)。
我見を避けるには、まず、自分の信じていることが本当に正しいのか、それについて疑念を持つことが出発点だと思います。逆の言い方をすれば、疑念を持って教義を検証し、その結果、かえってその疑念を晴らすことになれば、より一層信心が深まるのではありませんか。
小生は、少なくともその姿勢でこれからも教学研鑽に励みたいと思います。
また小生は、基本的に信じる者は救われるといった、信者を思考停止に追い込むような教団は信じません。それこそカルト宗教の証だと思っているからです。
それ故、今は個人として信仰が成り立つか、そのシミュレーションの最中です。そして、我見に陥らないために、このBBSを訪れています。
ここに書込をされる方々は、言葉遊びをしているのではありません。そのことは忘れないで下さい。

509ガンコ:2003/08/31(日) 14:49
観念世界・・・とは何を意味するかわかりませんが、わたくしのばあいはよく所属組織の中で「頭でっかちの信心はダメだ」と言われてました。

個人の資質にある程度は任せて好いと思います。考えるのが好きな人は大いに思索をめぐらせればよいし、実践あるのみと思えばそれもよし、あんまり型にはまらないほうが好いでしょう。といっても組織というのはそうもいかないですよね。ですから、この掲示板の価値があるんでしょう。わたくしなんかは建前上は御法門を学ばせていただくなんてかっこつけてますけど、いつの間にか掲示板を朝昼晩開くのが楽しみみたいになっちゃってます。多い時は一日十回くらいはのぞいていると思います。ですから、これが観念世界というのなら、もうそれが楽しみになっちゃってるんだからしょうがない、って思います。
ともかく個人の自由ですから、べつに義務感で書き込むこともないし、ほんとに書きたい、何かをうったえたい、という衝動のみで好いんだと思います。
ですから、苦悩さんの「私達いつまで観念世界に漂っていれば良いのでしょうか?」というのも切実な叫びに聞こえます。なるほど名前が苦悩さんだけのことはあるなあ、と。

だいたい御義口伝なんか持ちだすからいけないんですよう。難しくってわかるわけないじゃあない。いちおう、貫首直伝の秘書ってんですから。

もし、差し支えなければ、手塚先生の御講義を紹介してください。もちろん、この掲示板に投稿すれば、手厳しい批判にさらされることになりますけど。

510観山 念子:2003/08/31(日) 18:40
友人に勧められ時々覗かせて頂いて居ります。 No.508〜509様の御説に御同感です。 ただ506の悩乱者様が御提起された「、、観念、、??」なるもを御感じになるのは=「今までの権威(大本尊)が疑義にまみれて、その代替策をも不透明な現況、」からは一応は理解できます。
 私女としましては、愚鈍様ご指摘「、、我見の創価教学に漂う恐ろしさ、、」という件には「ハッと、グサリ、」と「共感」しました。

 「信のみを強要するのは===思考停止を誘導するカルト!!」との言には「ウーム、ナルホド、、」と膝を打ちました、。 貴重なる御議論「有り難う御座いました」、、。 勉強になりました。

511苦悩乱者:2003/09/01(月) 12:24

508 愚鈍凡夫さん
509 カンコさん
510 観山 念子さん (始めまして、どうぞよろしくお願い致します。)

まとめてしまってすみません。

私は皆様(アネモネさんも、独歩さんも、常徳庵さんも、kaneさんも、そのほかの人々も)が好きです。兎に角皆様は真面目に真理を追究されていると感じます。私の教学は皆様に比べれば、微々たるものです。担一つ申し上げたい事が有ります。「法華の心」というものが一番大切だと思います。数ある御書篇の中から、「所詮」、「種」、「妙」、「担」「これ体のこと」という文字を探しだされることをお勧めします。

509 カンコさんの >もし、差し支えなければ、手塚先生の御講義を紹介してください。もちろん、この掲示板に投稿すれば、手厳しい批判にさらされることになりますけど。

相談してみます。

512犀角独歩:2003/09/01(月) 21:24

苦悩乱者さん:

> …「法華の心」というものが一番大切」

こういう書き方をすると、茲の投稿者がそのようなものがないような意味に取れることになりますね。

みな法華の心に従った投稿でしょう。

513アネモネ:2003/09/02(火) 03:02
所要で、投稿ができないでいました。

愚鈍凡夫さんの501>504>の内容、とても興味深いですね。

>ギリシアと仏教の融合―ガンダーラ美術

レスを拝見させていただきながら、昨年東京で開催された、インド・ガンダーラ彫刻展で観てきた数々の仏像を思い出しました。
文献のみでは、まさに平面的な二次元的思考に狭められてしまうとすれば、仏像などにもよる考古学的研鑚というのは、まさに立体的な三次元的思考といえるものであり、目から鱗で大きく意識の変った体験だったことが思い出されます。

>仏教興隆の中心地――クシャン王朝

これは特に大乗仏教にとって、とても興味深いところですね。私は、NHKスペシャルの「文明の潮流」ではじめて知って、とても興奮した点でした。

これだけが正しいのだと教え込まれて、他の世界を見ることを閉ざされてしまうのが、日蓮正宗系といえるかと思いますが、しかし、それは実にもったいないことです。
法華経成立に至るまでの、こういった考古学的史実などに目を向けることもなく、それどころか頭ごなしに否定し、ほとんど今日的な仏教の常識や水準を知らないまま、「この信心が絶対に正しい」とだけ確信をもって言い切ってしまう、その虚勢の強さというのは、結果的には自分をどんどん限りなく追い詰めてしまうものではないかと、つくづく思い返すところです。
しかし、このようなことを平然と書くようになった私でさえ、約二年前に参加しはじめた当初の頃は、もしかして謗法になるんじゃないかと、半分は怯えていたものです。
実に図太くなったものですが、しかし考えてもみれば、これこそが絶対に正しい教えと確信をもって世間に広宣流布しようとすることのほうが、図太い神経かもしれません。

514苦悩乱者:2003/09/02(火) 11:46

512 犀角独歩さん

誤解を生むような表現を致しました。すみません。

515犀角独歩:2003/09/02(火) 18:11

苦悩乱者さん:

真摯に応じくださり、有り難うございます。

516愚鈍凡夫:2003/09/02(火) 20:25

>>513:アネモネさんへ

あっ。どうも、今日は暑いですね。
今日の関西地方は、9月になって油断してたらいきなり反則攻撃喰らったような感じでした。

> 私は、NHKスペシャルの「文明の潮流」ではじめて知って、とても興奮した点でした。

実は、小生もあの番組を見ました。その時に思い出したんです。
「あれっ。確か、昔読んだ本に同じこと書いたぁったんちゃうかな?!」
と思って探したら「シルクロード」が見つかったんです。
それで、懐かしく読み返しました。
小生も、シルクロード関係の展覧会があるときは、時間の許す限り観にいくことにしています。

シルクロード関係の逸話は面白いものが多いですよね。
例えば、敦煌の莫高窟は1900年頃、偶然に1人の道教僧によって発見されたことや、431年にエフェソスの宗教会議で異端と宣告されたネストリウス派キリスト教がシルクロードを渡って中国に辿り着き、景教と言われるようになって、中国思想に福音の概念、三位一体の概念、洗礼の儀式、そして十字架の象徴をもたらし、中国思想新しい風を吹き込んだことは意義のあることだと思います。

517ガンコ:2003/09/04(木) 17:51
人法一箇論のつづきです。
早坂先生はあっさりと、本門=人法一箇 を言っておられるけど、はたしてそれが大聖人の御考えなのか? というと、ちょっと前に触れましたが、わたくしは大聖人の御書全体から受けた印象として、あくまで印象ですが、「法勝人劣」が大聖人の御考えであろうと思っております。ですから、大聖人所弘の御法門をいわゆる法華本門とするならば、本門=法勝人劣 であろうと考えます。
「昔金珠女は金銭一文を木像の薄と為し、九十一劫金色の身と為りき。其の夫の金師は今の迦葉、未来の光明如来是なり。今乗明法師妙日並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼は仏なり此は経なり。経は師なり仏は弟子なり。・・・夫劣れる仏を供養するに尚九十一劫に金色の身と為りぬ。勝れたる経を供養する施主、一生に仏の位に入らざらんや。」(乗明聖人御返事)
ここで劣れる仏とは何か明らかではありませんが、木像とだけはわかります。わたくしが曼荼羅正意を唱えるのは仏像を劣れる仏とするこの仰せに拠りますが、それはさておき、この御文の逆の仰せが存在するのかどうか・・・つまり、法華経を劣れる経とする御文があるのかどうか・・・といえばどうもなさそうです。
「夫法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。・・・されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給ふ。」(法蓮抄)
「夫法華経と申すは八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄なり。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。・・・さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。」(兄弟抄)
まさしく法勝人劣の仰せであります。大聖人は、大日・阿弥陀などの諸仏と対比する時には釈尊の勝を仰せでありますが、法華経の前では釈尊すら弟子に過ぎないと仰せであります。では、人法一箇はどうなるのか?
人法一箇は御書の表面には容易にあらわれていない、すなわち文の底にある、と拝します。
早坂先生は原始仏典に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る。」とあることを法佛一如の文証としていますが、そうしますとなおさら本門=人法一箇は成り立たないと思われます。(もちろんこの所論は河口氏に対する反論ですから不要の説明を省かれたとは思いますが、)ともかく、すでにして原始仏典にあるということは、そのエッセンスは爾前経にも反映されるでしょうし、法華経迹門にもあることになると思います。つまり、法華本門だけが人法一箇なのではなく、仏教思想全体の底流として、人法一箇(法佛一如)が説かれていることになりましょう。
何のことはない、人法一箇はあったりまえのことだから、大聖人はことさら強調されなかった。
ええ、もちろん、“文の底”というのは仏教思想全体の“底流”という意味になりますから、開目抄の「文の底」とも違いますし、種脱相対の説明でもなんでもありません。
短絡的には 本門=法勝人劣 だから 文底=人法一箇 と言いたいわけですが、そんなごまかしが通るわけないことは百も承知しております。
・・・次回は、なぜ大聖人は法勝人劣を強調されたのか? について考える予定です。(予定は未定にして確定にあらず云々)

518愚鈍凡夫:2003/09/04(木) 20:12

>>517:ガンコさんへ。

ガンコ説に気になるところがあったので、私見を少々。
「昔金珠女は金銭一文を木像の薄と為し、九十一劫金色の身と為りき。其の夫の金師は今の迦葉未来の光明如来是なり。今の乗明法師・妙日並に妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼は仏なり、此れは経なり。経は師なり、仏は弟子なり。涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり。乃至是の故に諸仏恭敬供養す」と。法華経の第七に云く「若し復人有て七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢を供養せし、是の人の得る所の功徳は此の法華経の乃至一四句偈を受持する其の福の最も多きに如かず」。夫れ劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ。勝れたる経を供養する施主一生に仏位に入らざらんや。」(『乗明聖人御返事』昭和新定御書より)
を依文として、

> わたくしが曼荼羅正意を唱えるのは仏像を劣れる仏とするこの仰せに拠りますが

と仰いますが、
「夫れ劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ。勝れたる経を供養する施主一生に仏位に入らざらんや。」
の文は、ガンコさん引用の文の後に続く、
「但真言・禅宗・念仏者等の謗法の供養を除き去るべし。譬へば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬するが如きのみ。」
を強調するための仰せではないでしょうか。

それに、この御遺文は法華経帰依の重要性を述べているのであって、曼荼羅正意を述べているのではないように思うのですが。

早坂氏は
「『六巻抄』の構造と問題点(二) 「文底秘沈抄」本門の本尊編を通して」
の論文の中で、

> 法の本尊、人の本尊、人法体一の本尊の、3つあるとする日寛のこの三分類本尊論ですが、天台も妙楽も伝教も日蓮聖人もいずれも本尊に三分類は行なっておりません。人法本尊の分類というのは、爾前権教の三宝論の亜流的思考です。小乗経では仏が優れております。権大乗では法が優れておる説を取ります。法華経の迹門では法が優れ人が劣る。法華本門は人法一箇です。従って、三宝論は法華経本門によって三宝一体となり、三大秘法の中の本門の本尊は三宝一体が前提ということでありますので、この日寛の分類もおかしいといえます。

と述べ、そしてさらに、

> また、本尊に人法論を展開し、人法一箇の本尊を立てますがその本尊の特徴は、文底独一の本門の事の一念三千と称します。人法一箇の人とは日蓮、法とは文底事の一念三千と規定します。この説は伝教大師の『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身」を拠所といたします。人即法の理論は成立いたしますが、人即法の本尊の文証たりえません。堅樹日寛の人法一箇本尊は独善的己義であり、曲会私情の釈だということでとりあえず結論として終らせていただきます。

と述べています。「人法一箇」という言っていますが、「人法一箇の本尊」とは言っていません。
従って、ガンコさん記述の、

> 早坂先生は原始仏典に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る。」とあることを法佛一如の文証としていますが

とは何ら矛盾しないと思いますが。

519愚鈍凡夫:2003/09/04(木) 20:22
訂正

誤 「人法一箇」という言っていますが、「人法一箇の本尊」とは言っていません。
正 「人法一箇」と言っていますが、「人法一箇の本尊」とは言っていません。

です。悪しからず。 m(__)m

520ガンコ:2003/09/04(木) 21:01
愚鈍さん、ありがとうございます。

>それに、この御遺文は法華経帰依の重要性を述べているのであって、曼荼羅正意を述べているのではないように思うのですが。

人本尊・法本尊というのは富士の言い方なんでしょうね。それで、法本尊といえば曼荼羅本尊のことだと、そういうことになってますから、確かにその辺の整理があまいと自覚しております。おそらく正宗系だけで議論していれば指摘されることはまずない部分なのだろうと思います。ゆえに愚鈍さんのご指摘はありがたいと思っています。
曼荼羅正意についてはこれからも考えを深めていきたいと思っていますので、とりあえず保留します。

>「人法一箇」と言っていますが、「人法一箇の本尊」とは言っていません。

ここですが、よくわからないです。それ以前に、早坂先生の本門=人法一箇がわかりません。教えてください。

521愚鈍凡夫:2003/09/04(木) 22:31

んモ〜!(牛かお前は) (;^_^A アセアセ…
そうくるだろうと思ったんだよな〜。
まず、『素朴な質問』スレの>>628に紹介した論文を読んで下さい。
人法一箇の依文は法華経にありますので、その文証を法華経から引用します。

「我為仏道。於無量土。従始至今。広説諸経。而於其中。此経第一。若有能持。則持仏身。(我仏道を為て、無量の土に於て、始より今に至るまで広く諸経を説く。而も其の中に於て此の経第一なり。若し能く持つことあるは則ち仏身を持つなり)」(妙法蓮華経見宝塔品第十一)

「若し能く持つことあるは則ち仏身を持つなり」の一節が依文になると思います。
この一節は法華経迹門ですが、法華経を持つことが仏身を持つことになるのであれば、人法一箇ですよね。
これを本尊論に持ち込んだのが日寛師だと思うのです。おかげで、早坂氏御指摘のような様々な論理矛盾をきたすわけです。

「我成佛已來。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。自從是來。我常在此。娑婆世界。説法教化。(我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)」(妙法蓮華經壽量品第十六)
と、久遠実成が明かされます。そして、
「若有受持讀誦。正憶念。修習書寫。是法華經者。當知是人。則見釋迦牟尼佛。如從佛口。聞此經典。當知是人。供養釋迦牟尼佛。(若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり)」(「妙法蓮華經普賢菩薩勧發品第二十八」)
とあります。ここにも
「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり」
と説示されているように、人法一箇が説かれていますね。
本来、人法一箇とは本尊のことを示唆しているのではないと思います。法華経を信受する者は、そのまま「教主釈尊」を拝謁し、その言葉を聴聞することになるとの意味ではないでしょうか。
これで、ガンコさんへの回答になっていますか?

522ガンコ:2003/09/05(金) 01:26
>まず、『素朴な質問』スレの>>628に紹介した論文を読んで下さい。

もちろん、紹介していただいた時点で、読ませていただいておりましたが、難しくて半分も理解できていません。基礎的な教学がまったくないのですよ、わたくしは。

しかし、愚鈍さんに法華経の文を提示していただき、法華経に人法一箇が説かれていること、よくわかりました。
いや、まあ、それはそうなんでしょうけど、わたくしが疑問とするのは、法華経のみが、なかんづく本門のみが人法一箇であるとする論拠です。すでに申しましたように、原始仏典にその意味を見出せるということですから、必ずしも本門だけが人法一箇とはならないのでは? それとも法佛一如と人法一箇はぜんぜんちがうと?

さらに、やや意地悪な質問かもしれませんけど、愚鈍さんのおっしゃりようですと、法華経信仰は本尊を必要としない? 経典そのものが本尊? ってなことでしょうか?

わたくしの曼荼羅正意は、つまり法華経においては文字に価値を見いだす意味があるから、大聖人の御文字御本尊が末法における“それ”に当たるのだろうと拝するわけですが・・・

523愚鈍凡夫:2003/09/05(金) 12:42

ガンコさん。
仏といっても、法といっても、多種多様なわけでしょう。
その中で最高の組み合わせが「法華本門の教主釈尊」と「法華経」ということでしょう。
更に絞れば、「教主釈尊」と「一品二半」ということですね。
だから、早坂氏は仏と仏の説く法との関係を言ってるんだと思いますよ。
ただ、「人法一箇」の一点に絞って言えば、原始仏教の経典にも説かれているということじゃないですか。
天台・伝教・日蓮の流れから言うと、「法華経」は随自意で、諸経は随他意です。
このことを視野に入れて考察する必要があると思います。
それから、「人法一箇」と「本尊論」は別問題です。日寛師が言っているから、それが蓮祖の法門であるとの解釈は間違っています。

法華経を本尊とする件に関しては、ガンコさんがよく引用する「本尊問答抄(未決書)」に、次のように記述されていますよ。

「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(「本尊問答抄」 学会版P366)

大曼陀羅の中尊は法華経の肝心です。ガンコさんはこのことを忘れているのじゃありませんか。曼荼羅は諸尊が勧請されて、それぞれの座に着くことによって本尊に成りうると言うことでしょう。

「教主釈尊」と「大曼荼羅」の関係は、犀角独歩さん推薦の論文に詳しいので、そこから引用します。
「即ち日興上人の直弟間の本尊意識に於ては、本門本尊としての一尊四士と、大曼荼羅との間に何等の区別もなく、またその間に何等の軽重をも認めて居ない。いな寧ろその本尊意識を克実すれば、それは大曼荼羅所顕の久遠本仏、即ち一尊四士の形相に依て現されるところの本門の教主釈尊であったのである。然してこの本門の釈尊の因果の功徳体、即ち事三千の相を図顕したのが大曼荼羅であると解していたものゝようである。故に大曼荼羅は、本門の本尊たる本門の教主釈尊の仏心を図顕したものに外ならないのであったのである。」(初期の興門教学に於ける本尊意識の展開)
とあります。
以前、川蝉さんが小生に御教示下さったように「一尊四士」、「大曼荼羅」、ともに本尊として差し支えないのではないですか。

524ガンコ:2003/09/05(金) 18:55

ううっ、む、むずかしい〜っ。

早坂先生の論文は半分も理解できないと申しましたが、さらに執行海秀先生のそれはほとんど理解できないです。
ひとえにわたくしの頭が悪いからなのです。もやは議論は成り立たない。まったくもって申し訳ありません。

ということで、こちらの意見を申し上げるというよりはご質問ばかりになってしまいますが、まず、早坂先生は法華経迹門を法勝人劣であるというのです。しかし、すでに愚鈍さんがお示し下さったように迹門にも人法一箇の意味が説かれているわけですから、なぜに迹門を法勝人劣にするのかその根拠がわかりません。
また、ガンコさんのよく引用する本尊問答抄・・・ですが、そう言われるのがイヤだから今回は使っていなかったんですよ。しかし、逆に今回、はっきりしたのではないかと思うのですが、法蓮抄・兄弟抄など、本尊問答抄と矛盾しない御書が多いように感じるのです。それで、御書全体の印象として法勝人劣ではないのかと考えたのですが、これは間違いなのでしょうか?

それともうひとつ、一尊四士・大曼荼羅を本尊とするのではなく、法華経の経巻を本尊とするのではないのか? ということを申し上げたわけですが、これも御書全体の印象として一尊四士の仰せは皆無に等しく、大曼荼羅もそうです。つまり、大聖人のおかれましては単に「法華経」と仰せられるケースが圧倒的なのではありませんか?
すでにこんな質問は富士門の考え方ではないと自覚しておりますが、あえて申し上げました。おそらく御書のどこに注目するかで、ぜんぜんちがったとらえ方ができてしまうのだろう、というのが今の実感であります。

525犀角独歩:2003/09/05(金) 19:58

この手のことを、今さら書くのもなんですが、ちょっとだけ。

「人法」、この用法には注意が必要です。わたしは人法ではなく、「仏法」というべきであると思っています。

真跡で見る限り、蓮師の「人法」の用法は「過人法(上人法)が一般で、『秀句十勝抄』でも使用が見られますが、これとて、今の用法とは異なっています。蓮師が「人法」というとき、人は必ず「人師」です。しかし「人法一箇」などの用法では人は仏の意義を持たせますが、このような用法は真偽未決にしか見られないものです。

わたしは蓮師は『秘密荘厳論』は見ていないであろうと思います。真跡から諮ってもその思想系譜は感じられません。しかし、『就註法華經口傳』寿量品廿七箇大事第廿一自我偈事ではもちろん使用されています。

「一念三千即自受用身 自受用身者出尊形仏矣」

出尊形仏は凡夫僧で解されることになるのでしょう。これが同じ経脈で論じられているか否かは一考を要しますが、常不軽菩薩品下三十ヶ大事第十三不値佛不聞法見僧事には

「末法佛凡夫也 凡夫僧也 法ト者題目也 僧と者我等行者也 佛共云ハレ 又ハ凡夫僧共云はるゝ也」

寛師はこれを「示同凡夫」とも言うわけですが、この語彙の使用は寛師より教師、我師が先行するものと思われます。要山と保田の影響と言うことでしょう。もちろん、日蓮本仏論と板漫荼羅濫觴の文明年間以降のことでしょう。蓮師から見れば200年もあとのことです。真跡から計るに、とてもこのような考え方が蓮師にあったとは思えません。

なお、真偽未決書に現れる『金剛ぺい(金ぺい論)』の

「阿鼻依正全處極聖之自心 毘盧身土不逾下凡之一念」

を恰も凡勝仏劣の如く扱うのは『諸法実相鈔』です。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり」

しかし、斯様な逆罪を犯す如き思想が蓮師にあったとは到底思えません。
これら蓮師とは異なる思想系譜のなかで仏法はやがて人法と置換されていき、ついには人法一箇という石山教学に影響を与えるに至ったのでしょう。これしかし、石山のオリジナルではなく、恵心流のパクリであるというのが、由比師、早坂師が指摘した点でした。

なお、法華経が「人法一箇」であるという点には、実はわたしは反対です。
その理由は法華一経を虚心坦懐に読む限り、いま言われる法に該当するものは何一つ説かれていないからです。そこに説かれるのは、ただ「教菩薩法」のみで、仏が成就したというのは「阿耨多羅三藐三菩提」、すなわち菩提であるというに留まります。

しかし、法華経に諸法実相が説かれていると意訳を加えたのは羅什であり、そこから不可思議境三千を提示したのは智邈説・灌頂記であり、さらに一念三千と結語したの湛然述でした。蓮師は、この一念三千を殊の外珍重し、妙法蓮華経の五字の内にこの珠(一念三千)を包む故に本門題目と呼称し、それを持(たも)つ久遠釈尊を本門本尊と愛敬しました。しかし、果たして、この一念三千>題目と釈尊を同一視していたのでしょうか。本法所持という意味合いを越えないのではないのかとわたしには思えます。

諸法実相=一念三千>題目の関係は見られるものの、法=仏を示す脈絡を看取できません。但し、蓮師は『本尊鈔』に我実成仏を釈するに「所見三身無始古仏」としながら、我本行菩薩道では、身土に約するに決の

「當知身土一念三千 故成道時稱此本理 一身一念遍於法界」

を引いて「所化以同体」を言うものの、これらを人法一箇とする蛮勇は、わたしは俄に生じません。

十界論という基礎概念を頂く脈絡では、いずれにしても人が仏であるわけはなく、仏法を言うならばいざ知らず、人法とはまことに仏を人より貶める逆罪・凡夫本仏論の穿った語彙の用法であると思えるわけです。もっともこの使用は何も富士の専売ではなく、他派でも使用されていることは失笑を禁じ得ないところではあります。

以上、反論される方は多々あるでしょう。是非とも真跡からご批正を賜れれば幸甚です。

526愚鈍凡夫:2003/09/05(金) 20:35

前にもやったテーマのような気がするのは小生だけだろうか・・・・・(独り言)。
攻めに回ると、いきなり復活しましたね(ズッコ〜!! by関西弁)。
ところで、何でガンコVS愚鈍凡夫なんだろう。

> なぜに迹門を法勝人劣にするのかその根拠がわかりません。

迹門の仏は「始成正覚」の釈迦牟尼仏だからじゃないですか。未だ「久遠実成」が明かされていませんから。

> 御書全体の印象として法勝人劣ではないのかと考えたのですが、これは間違いなのでしょうか?

個々の御書によってはそういう解釈ができると思いますが、経年による法門の熟成ということもあるので、一概にそうとはいえないと思います。

> 一尊四士・大曼荼羅を本尊とするのではなく、法華経の経巻を本尊とするのではないのか? ということを申し上げたわけですが、これも御書全体の印象として一尊四士の仰せは皆無に等しく、大曼荼羅もそうです。

「一尊四士」という言葉がお気に召さないのなら、「教主釈尊と四菩薩」という言葉に置き換えます。ちゃんと文証がありますよ。

「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(「観心本尊抄」 昭定P720)

「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、」(「報恩抄」 P328)

これらの文証がそうです。そして、
蓮祖が曼荼羅もまた本尊と位置づけていた証拠はありますよ。

「このまんだら(曼陀羅)を身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく子ををやのあいするがごとくいをの水をたのむがごとく草木のあめをねがうごとくとりの木をたのむがごとく一切の仏神等のあつまりまほり昼夜にかげのごとくまほらせ給う法にて候、よくよく御信用あるべし」(「妙心尼御前御返事」 学会版P1477 日興写本大石寺蔵)

「御本尊図して進候」(「報恩抄送文」 学会版P330 未決書)

これでいいですか?

527犀角独歩:2003/09/05(金) 20:49

ガンコさん:

横レス失礼。

> 迹門を法勝人劣にするのかその根拠がわかりません

この理由は至って簡単です。
わたしは上述のとおり、人法語彙反対論者なので、仏法でこれを説明します。
迹門では久遠実成を説いていません。ですから、この段階の仏は、まだ完全に権を払っていません。ですから、法華経を法とすれば、そこでもっとも言おうとしていることに至っていない段階の釈尊はまだ爾前づりの仏で「法勝/仏(権迹)劣」となります。しかし、本門では久遠実成が説かれ、法華経で説こうとするところは余すことなく説かれますので、これを説く仏と説かれる法は一致しています。仏法は一致しているわけです。これを早坂師などは「人法一箇」と言ったんじゃないでしょうか。もちろん、この人は仏、つまり久遠釈尊です。(人というのは、わたしは違うと思います。仏と言うべきでしょう。法華経を法とする考えにも反対ですが、まあ、その点は前述したとおりです)

> 一尊四士・大曼荼羅を本尊とするのではなく、法華経の経巻を本尊とするのではないのか?

これはやや混乱した疑問でしょうね。

法華経創作者は当然、経典とそれを安置する宝塔崇拝論者ですから、まったくガンコさんの言う如くです。しかし、智邈師(灌頂記)では羅什の漢訳・妙法蓮華経の五字に意義を論じるわけで、ここでは一経と五字の崇拝は兼ねる形になるのでしょう。

なお、智邈・灌頂・湛然三師の段階では、そもそも「本尊」「曼陀羅」という言葉自体、まったく使用されていないことは過去に論じたとおりです。

この言葉と思想の使用は、本尊は儒家その他の中華思想・曼陀羅は密教からと、わたしは類推しましたが、顕正居士さんは共に密教の影響であると仰ったと記憶しています。

この本尊・曼荼羅が天台宗に流入したあとに蓮師は台を学びます。
蓮師はそこで特に法華一巻というより、五字の意義に傾きます。また、智邈が意識もしなかった本尊・曼陀羅の意義を含めて仏法を考えたわけでしょう。
しかし、蓮師が現実的に生涯崇めた本尊は、随身仏、つまり釈迦一体立像であったことは紛れもない事実です。

けれども、本尊鈔その他の著述から拝すれば、蓮師は一尊四士も本尊と考えていたようであり、その仏と法を中心に据えた勧請を記した曼陀羅は、当然、本尊を含むものであるから、それらを同等に扱うことに痛痒なしとしたのが執行師の見解でしょう。

以上のような時間軸の変遷があるということではないでしょうか。

ああ、また書いてしまいました。お邪魔さま。

528愚鈍凡夫:2003/09/05(金) 20:51
あっ! 犀角独歩さん有り難うございます。投稿が行き違いになってしまいました。

訂正

誤 「妙心尼御前御返事」 学会版P1477 
正 「妙心尼御前御返事」 学会版P1479

です。

529犀角独歩:2003/09/05(金) 20:54

愚鈍凡夫さん:

同時にお書きになっていたようで。
気が合いますね(笑)

530愚鈍凡夫:2003/09/05(金) 20:56
済みません。勘違いです(少々疲れております)。

「妙心尼御前御返事」 学会版P1477が正解です。

悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

531ガンコ:2003/09/05(金) 21:31
愚鈍さん、独歩さん

迹門=法勝人劣はなるほど、じぶんでも少し考えてはいたのですが、おっしゃること、よくわかりました。
しかし、そうすると、わたくしには大聖人の御法門が法勝人劣に見えてしまうのですが、御書の読み方が偏っているのでしょうか?

それと、
>小乗経では仏が優れております。権大乗では法が優れておる説を取ります。

わたくしが引用した早坂先生の論文では、爾前権経を人勝法劣としておりまして、若干ずれがあるわけですが、まあ、わたくしにとってはどっちでもいいのですが、ご存知でしたら人勝法劣の根拠を教えてください。

独歩さん。人法の語彙はともかくとして、乗明聖人御返事では「経勝仏劣」を仰せですが、これが大聖人の法華経観ではなかろうかと思われるのですが、ちがいますでしょうか?

>ところで、何でガンコVS愚鈍凡夫なんだろう。

知りませんよ、そんなこと。

532愚鈍凡夫:2003/09/05(金) 22:50

>>531:ガンコさんへ。

> わたくしには大聖人の御法門が法勝人劣に見えてしまうのですが、御書の読み方が偏っているのでしょうか?

一言。 偏っているんですよ。

> ご存知でしたら人勝法劣の根拠を教えてください。

始成正覚の釈迦牟尼仏が、衆生の機根に応じて一機一縁の法を説いたからでしょう。故に、人勝法劣なのではないですか。

ところで、ガンコさんはいつから曼荼羅正意から法華経正意に転向されたんですか。

533ガンコ:2003/09/06(土) 00:40

>一言。 偏っているんですよ

あらららら、こうもきっぱりとおっしゃられると、なんとお返ししてよいものか、わからないですね。ともかく御書の拝読が足りないのは事実ですから、今後も拝読を重ねてまいります。

>始成正覚の釈迦牟尼仏が、衆生の機根に応じて一機一縁の法を説いたからでしょう。故に、人勝法劣なのではないですか

さ、さすがですね。ようやくわかってきたような気がします。

>ところで、ガンコさんはいつから曼荼羅正意から法華経正意に転向されたんですか

いやいや、そういうつもりはなかったんですよ。簡単に申しますと、通常は仏像本尊VS曼荼羅本尊の構図があって、どちらが大聖人の正意かという議論ですが、法華経に還って見たらどうなるか、という視点をじゃっかん取り入れてみただけの話です。
いずれにしても仏像はどうも抵抗がある・・・やっぱり、これも偏っているんでしょうかね。


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