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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
458
:
ガンコ
:2003/08/28(木) 11:54
日蓮大聖人の御法門に種脱相対が説かれているかどうかといえば、説かれていると申し上げてよいかと思います。
申すまでもなく、観心本尊抄に「但し彼は脱、此は種なり。」とあるごとくです。
問題は、大石寺でたてるがごとくの勝劣・・・つまり、種勝脱劣を意味するか、もっとあからさまにいえば、下種の本仏と熟脱の迹仏といった明確なたてわけを仰せなのかどうか、これが議論の分かれ目であろうかと思います。
本因妙抄に「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。」とありますが、これが確実な文証たりえれば話は早いんですけど・・・
もうひとつの問題は、開目抄における五重の相対ですが、肝心の種脱相対はどのように説かれているかといえば、苦悩乱者さんの云はく、「・・・真言・華厳等の経々には、種熟脱の三義、名字すら猶なし。・・・種をしらざる脱なれば・・・」 あれ? そ、そうでしたっけ?
これはちがうと思います。文意は明らかに権実相対をさしていると読めますから。つまり、真言・華厳等を法華経と対比しているわけですから、これを種脱相対としてしまうと、「彼は脱、此は種」の意味がちがってきちゃいます。本尊抄では在世の本門を脱、末法の初めを種としているのに、開目抄では真言・華厳等を脱、法華経を種としているように読めます。
大胆に読むならば、後年の「余経も法華経も詮無し」との仰せを含意せしめて、在世の本門すら「種をしらざる脱」に置換してしまう・・・まあ、大胆というよりアホウと言われそうですが、だいたいに文底読みというのはそういう芸が好きなのです。
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。」というのがいわゆる種脱相対の依文であろうかと思いますが、これもいろいろと問題の多い箇所です。もっとも御文に忠実な読み方は、前後の「華厳宗と真言宗との二宗は偸かに盗んで自宗の骨目とせり。」「善無畏三蔵・金剛智三蔵、天台の一念三千の義を盗みとって・・・華厳宗は澄観が時・・・天台の一念三千の法門を偸み入れたり」を拝せば明白で、やはり権実相対を仰せのように読めます。ところが寿量品文底大事には「文の底とは他門徒に於ては、平文面には様々の料簡を為すと雖も、聖人の御本懐に於ては全く知らざる者なり。」とあって、かくかくしかじか書かれているわけです。それはそれとして、なぜに平文面に相違があるのか? すなわち文底大事では「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘して沈めたまへり」となっているのです。ちなみに顕正会版御書では「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘してしづめたまへり。」となっています。
種脱相対を考える以前に、なんなんだ〜この不整合は? ってな気分になってしまいます。
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