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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

517ガンコ:2003/09/04(木) 17:51
人法一箇論のつづきです。
早坂先生はあっさりと、本門=人法一箇 を言っておられるけど、はたしてそれが大聖人の御考えなのか? というと、ちょっと前に触れましたが、わたくしは大聖人の御書全体から受けた印象として、あくまで印象ですが、「法勝人劣」が大聖人の御考えであろうと思っております。ですから、大聖人所弘の御法門をいわゆる法華本門とするならば、本門=法勝人劣 であろうと考えます。
「昔金珠女は金銭一文を木像の薄と為し、九十一劫金色の身と為りき。其の夫の金師は今の迦葉、未来の光明如来是なり。今乗明法師妙日並びに妻女は銅銭二千枚を法華経に供養す。彼は仏なり此は経なり。経は師なり仏は弟子なり。・・・夫劣れる仏を供養するに尚九十一劫に金色の身と為りぬ。勝れたる経を供養する施主、一生に仏の位に入らざらんや。」(乗明聖人御返事)
ここで劣れる仏とは何か明らかではありませんが、木像とだけはわかります。わたくしが曼荼羅正意を唱えるのは仏像を劣れる仏とするこの仰せに拠りますが、それはさておき、この御文の逆の仰せが存在するのかどうか・・・つまり、法華経を劣れる経とする御文があるのかどうか・・・といえばどうもなさそうです。
「夫法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。・・・されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給ふ。」(法蓮抄)
「夫法華経と申すは八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄なり。三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ、十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ。・・・さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。」(兄弟抄)
まさしく法勝人劣の仰せであります。大聖人は、大日・阿弥陀などの諸仏と対比する時には釈尊の勝を仰せでありますが、法華経の前では釈尊すら弟子に過ぎないと仰せであります。では、人法一箇はどうなるのか?
人法一箇は御書の表面には容易にあらわれていない、すなわち文の底にある、と拝します。
早坂先生は原始仏典に「法を見る者は我を見る、我を見る者は法を見る。」とあることを法佛一如の文証としていますが、そうしますとなおさら本門=人法一箇は成り立たないと思われます。(もちろんこの所論は河口氏に対する反論ですから不要の説明を省かれたとは思いますが、)ともかく、すでにして原始仏典にあるということは、そのエッセンスは爾前経にも反映されるでしょうし、法華経迹門にもあることになると思います。つまり、法華本門だけが人法一箇なのではなく、仏教思想全体の底流として、人法一箇(法佛一如)が説かれていることになりましょう。
何のことはない、人法一箇はあったりまえのことだから、大聖人はことさら強調されなかった。
ええ、もちろん、“文の底”というのは仏教思想全体の“底流”という意味になりますから、開目抄の「文の底」とも違いますし、種脱相対の説明でもなんでもありません。
短絡的には 本門=法勝人劣 だから 文底=人法一箇 と言いたいわけですが、そんなごまかしが通るわけないことは百も承知しております。
・・・次回は、なぜ大聖人は法勝人劣を強調されたのか? について考える予定です。(予定は未定にして確定にあらず云々)


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