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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
523
:
愚鈍凡夫
:2003/09/05(金) 12:42
ガンコさん。
仏といっても、法といっても、多種多様なわけでしょう。
その中で最高の組み合わせが「法華本門の教主釈尊」と「法華経」ということでしょう。
更に絞れば、「教主釈尊」と「一品二半」ということですね。
だから、早坂氏は仏と仏の説く法との関係を言ってるんだと思いますよ。
ただ、「人法一箇」の一点に絞って言えば、原始仏教の経典にも説かれているということじゃないですか。
天台・伝教・日蓮の流れから言うと、「法華経」は随自意で、諸経は随他意です。
このことを視野に入れて考察する必要があると思います。
それから、「人法一箇」と「本尊論」は別問題です。日寛師が言っているから、それが蓮祖の法門であるとの解釈は間違っています。
法華経を本尊とする件に関しては、ガンコさんがよく引用する「本尊問答抄(未決書)」に、次のように記述されていますよ。
「末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」(「本尊問答抄」 学会版P366)
大曼陀羅の中尊は法華経の肝心です。ガンコさんはこのことを忘れているのじゃありませんか。曼荼羅は諸尊が勧請されて、それぞれの座に着くことによって本尊に成りうると言うことでしょう。
「教主釈尊」と「大曼荼羅」の関係は、犀角独歩さん推薦の論文に詳しいので、そこから引用します。
「即ち日興上人の直弟間の本尊意識に於ては、本門本尊としての一尊四士と、大曼荼羅との間に何等の区別もなく、またその間に何等の軽重をも認めて居ない。いな寧ろその本尊意識を克実すれば、それは大曼荼羅所顕の久遠本仏、即ち一尊四士の形相に依て現されるところの本門の教主釈尊であったのである。然してこの本門の釈尊の因果の功徳体、即ち事三千の相を図顕したのが大曼荼羅であると解していたものゝようである。故に大曼荼羅は、本門の本尊たる本門の教主釈尊の仏心を図顕したものに外ならないのであったのである。」(初期の興門教学に於ける本尊意識の展開)
とあります。
以前、川蝉さんが小生に御教示下さったように「一尊四士」、「大曼荼羅」、ともに本尊として差し支えないのではないですか。
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