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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

527犀角独歩:2003/09/05(金) 20:49

ガンコさん:

横レス失礼。

> 迹門を法勝人劣にするのかその根拠がわかりません

この理由は至って簡単です。
わたしは上述のとおり、人法語彙反対論者なので、仏法でこれを説明します。
迹門では久遠実成を説いていません。ですから、この段階の仏は、まだ完全に権を払っていません。ですから、法華経を法とすれば、そこでもっとも言おうとしていることに至っていない段階の釈尊はまだ爾前づりの仏で「法勝/仏(権迹)劣」となります。しかし、本門では久遠実成が説かれ、法華経で説こうとするところは余すことなく説かれますので、これを説く仏と説かれる法は一致しています。仏法は一致しているわけです。これを早坂師などは「人法一箇」と言ったんじゃないでしょうか。もちろん、この人は仏、つまり久遠釈尊です。(人というのは、わたしは違うと思います。仏と言うべきでしょう。法華経を法とする考えにも反対ですが、まあ、その点は前述したとおりです)

> 一尊四士・大曼荼羅を本尊とするのではなく、法華経の経巻を本尊とするのではないのか?

これはやや混乱した疑問でしょうね。

法華経創作者は当然、経典とそれを安置する宝塔崇拝論者ですから、まったくガンコさんの言う如くです。しかし、智邈師(灌頂記)では羅什の漢訳・妙法蓮華経の五字に意義を論じるわけで、ここでは一経と五字の崇拝は兼ねる形になるのでしょう。

なお、智邈・灌頂・湛然三師の段階では、そもそも「本尊」「曼陀羅」という言葉自体、まったく使用されていないことは過去に論じたとおりです。

この言葉と思想の使用は、本尊は儒家その他の中華思想・曼陀羅は密教からと、わたしは類推しましたが、顕正居士さんは共に密教の影響であると仰ったと記憶しています。

この本尊・曼荼羅が天台宗に流入したあとに蓮師は台を学びます。
蓮師はそこで特に法華一巻というより、五字の意義に傾きます。また、智邈が意識もしなかった本尊・曼陀羅の意義を含めて仏法を考えたわけでしょう。
しかし、蓮師が現実的に生涯崇めた本尊は、随身仏、つまり釈迦一体立像であったことは紛れもない事実です。

けれども、本尊鈔その他の著述から拝すれば、蓮師は一尊四士も本尊と考えていたようであり、その仏と法を中心に据えた勧請を記した曼陀羅は、当然、本尊を含むものであるから、それらを同等に扱うことに痛痒なしとしたのが執行師の見解でしょう。

以上のような時間軸の変遷があるということではないでしょうか。

ああ、また書いてしまいました。お邪魔さま。


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