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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

450ガンコ:2003/08/27(水) 16:25

議論が錯綜しているようなので、発言を控えさせていただいておりましたが、もっとも基本的なところに戻って申し上げますと、わたくしなどは御相伝書を認める立場ではありますけれども、相手が認めないというのであれば使えないものだと観念しております。
今は底辺において、法華講対学会、あるいは法華講対顕正会、あるいは学会対顕正会の法論もどきが行なわれていますが、御書の使用範囲ということでは特に問題はないように思われます。ところが他山と法論をするとなると問題が起きてまいるわけです。まず、法論に先立っていろいろの取り決めが行なわれますが、その時に御書の使用範囲も決められます。そしてほぼ間違いなく、大石寺で当たり前に使っている御相伝書は使っちゃダメということになるようです。結局、その御書の正当性を証明できないのだから、どうしようもないわけです。

ただ、苦悩乱者さんのおっしゃりたいことはわかるような気がします。例えば、ちょっと前に紹介しましたが、わたくしの好きな御書に「信心強盛にして但余念無く南無妙法蓮華経と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり」というのがありまして、残念なことにこれは本因妙抄の御文なのです。では、もう使えないのかといえばそうではないような気がします。
わたくしのつたない言葉で申しますれば、たとえ本因妙抄が偽書であってもそこに説かれていることが「絶対的真理」であれば捨てるべきにあらず、という考えです。

本門と迹門の相違についてしばらく考えをめぐらせていたのは、だいたいにおいて、皆さん「一切衆生悉有仏性」ということをおっしゃるわけですが、確かにこれば現代的にわりと受容されやすい意味内容をもっているわけですが、あくまでこれはいまだ迹門の範疇に過ぎないと思うのです。そして大聖人の真理観はまさしく本門こそ絶対的真理であるとされているように思うのです(あるいはさらに文底があるとするか)。ところが、これが案外にわかりにくい、現代的には受容しづらい、気がするわけです。

おそらく単純には「悉有仏性」を迹門の理とするならば、「悉皆成仏」を本門の理(あるいは事というべきか)とするのでしょう。
ここで問題となるのは、本当にそれが絶対の真理なのか? ということであり、すでに日蓮信仰を卒業してしまった人が必ず突いてくる点であろうと思います。
そうなると「凡身即仏身」もまったく同じ俎上にのってくるわけであり、大聖人は本仏なのか上行なのか凡夫なのか、そんなことを論じている場合ではなくなってくるような気がします。問題は本当に成仏できるのか否か、このことが虚妄であったならば議論の意味はない、最終的にはこの点まで視野に入れて論ずるべきだと考えます。

なんだか、じぶんで書いていて、うわあ〜これは無理だあ〜、って思っちゃってます。


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