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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

477犀角独歩:2003/08/29(金) 13:14

昨日で投稿は終わらせようと思ったのですが、いくつかのレスをいただき、それぞれに気になるところもありますので、少しだけ失礼します。

まずはアネモネさん:

かつて「意見が衝突した」ことがありましたお相手に、自分のことをご説明いただき、こそばゆい思いです。
有り難うございました。

愚鈍凡夫さん:
ガンコさん:
苦悩乱者さん:

470のご投稿、仰るようだと思います。
以下、たぶん、愚鈍凡夫さんには特にご賛同いただける点ではないのかと思います。

どうも、所謂、下種教学が固定観念化してしまうと真跡本文が素直に読めなくなる障害が起きるものだと愚鈍凡夫さんも観察されておられるでしょうね。
いつも思うのですが、本当に皆、ちゃんと本文を読んでいるのだろうかと。
種脱観は、もっともその典型であると思うわけです。

蓮師が言う種というのは、一念三千です。権大乗では久遠実成が記されていないので、真の下種の意味が現れていない、それが蓮師の言う下種の意味ですね。それで、下種の正体は一念三千、下ろされたのは(地涌の菩薩)後に他の結縁衆であるとし、自分は法華経の行者か、日本国衆生の親であり得るかと自身を論じていくのが開目鈔の規模でしょう。

そこから、この下種は久遠実成の仏様が菩薩にされたものであるという点を重視されているわけです。ですから、

つまり、久遠に脱益した仏が一念三千を衆生に下種した。
脱とは仏、種一念三千、下した先は結縁衆。
故に本尊鈔に「彼(仏)脱・此(菩薩)種」という関係を述べているわけでしょう。

これはしかし、もちろん、相対論ではありません。脱(仏):種(一念三千)係です。この二つを相対したら(わたしは人法一箇論にはもちろん否定の立場ですが)人法一箇が崩れます。

そもそも開目鈔における展開が、本尊鈔の語句を待って完結するなどと言うのはなんともはや、よくぞ考えたこじつけであると思うわけです。この点はしかし、批判して言うのではなく、富士門で当然のように言われてきたこの常識を「当然のこととして刷り込まれている」のだと指摘したいわけです。しかし、実際の本文はそうはなっていません。

開目鈔では、一貫して法華経の一念三千という種と下ろされる菩薩衆生を説明するのであって、その意味でその種が、なんでひっくり返って仏などと言われるのか、本文をしっかり読めば読むほど、よくもまあ、こんなことが思いつくものだと呆れもします。

もちろん、その理由ははっきりとわかります。『秘密荘厳論』に

「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏なり」

からの連想でしょう。種は一念三千、その一念三千は自受用身で仏であるという連想ゲームです。ちなみに、出尊形仏を「示同凡夫」であるとする記述は、富要で見る限りでは、教師、我師、寛師の順番になっています。これまた、日蓮本仏論創作のあの時代の出来事でした。この頃に種は人法にわたる仏と相成って、今に至るのでしょう。蓮師の真跡にまったく現れない、中世教学と限りなく偽書と考えられる真偽未決書、相伝書で塗り固められ、わたしが捏造教学と呼ぶものです。

なお、相対などといいますが、この点もどうも短絡であると見えます。それは、蓮師は湛然師の言を挙げて儒について
「妙楽大師云く ̄仏教流化実頼於茲。礼楽前駆真道後啓〔仏教の流化、実に茲に頼る。礼楽前きに駆せて真道後に啓く〕
といい儒道を仏教宣布の道を整えるためのものであったととらえ、また外道についても、
「外道の所詮は内道に入る、即ち最要なり」
というも、およそ相(あい)対する概念とはなっていません。相対というより、むしろ灌頂記の如く相待というべきであると見えます。また、儒から数えれば、六重となるでしょうし、もし本当に種脱を入れるのであれば、七重とすべきでしょう。台学の装いから五重と整理したかったのが日蓮門下であったのかと想像しています。

さて、この記述をご理解いただくためには、富士門教学の常識を、いったん捨てて、読み物を読むように頭から虚心坦懐に開目鈔を読んでみることです。この書が書かれたときにはもちろんのこと、相伝書はありませんでした。なかった時点の読者に徹してみると、文意はストレートに心に飛び込んでくることでしょう。かつてわたしが心がけた仏教再考、蓮師教学再考のアプローチの有様です。


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