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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

525犀角独歩:2003/09/05(金) 19:58

この手のことを、今さら書くのもなんですが、ちょっとだけ。

「人法」、この用法には注意が必要です。わたしは人法ではなく、「仏法」というべきであると思っています。

真跡で見る限り、蓮師の「人法」の用法は「過人法(上人法)が一般で、『秀句十勝抄』でも使用が見られますが、これとて、今の用法とは異なっています。蓮師が「人法」というとき、人は必ず「人師」です。しかし「人法一箇」などの用法では人は仏の意義を持たせますが、このような用法は真偽未決にしか見られないものです。

わたしは蓮師は『秘密荘厳論』は見ていないであろうと思います。真跡から諮ってもその思想系譜は感じられません。しかし、『就註法華經口傳』寿量品廿七箇大事第廿一自我偈事ではもちろん使用されています。

「一念三千即自受用身 自受用身者出尊形仏矣」

出尊形仏は凡夫僧で解されることになるのでしょう。これが同じ経脈で論じられているか否かは一考を要しますが、常不軽菩薩品下三十ヶ大事第十三不値佛不聞法見僧事には

「末法佛凡夫也 凡夫僧也 法ト者題目也 僧と者我等行者也 佛共云ハレ 又ハ凡夫僧共云はるゝ也」

寛師はこれを「示同凡夫」とも言うわけですが、この語彙の使用は寛師より教師、我師が先行するものと思われます。要山と保田の影響と言うことでしょう。もちろん、日蓮本仏論と板漫荼羅濫觴の文明年間以降のことでしょう。蓮師から見れば200年もあとのことです。真跡から計るに、とてもこのような考え方が蓮師にあったとは思えません。

なお、真偽未決書に現れる『金剛ぺい(金ぺい論)』の

「阿鼻依正全處極聖之自心 毘盧身土不逾下凡之一念」

を恰も凡勝仏劣の如く扱うのは『諸法実相鈔』です。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶ(被)らせ奉るは凡夫なり」

しかし、斯様な逆罪を犯す如き思想が蓮師にあったとは到底思えません。
これら蓮師とは異なる思想系譜のなかで仏法はやがて人法と置換されていき、ついには人法一箇という石山教学に影響を与えるに至ったのでしょう。これしかし、石山のオリジナルではなく、恵心流のパクリであるというのが、由比師、早坂師が指摘した点でした。

なお、法華経が「人法一箇」であるという点には、実はわたしは反対です。
その理由は法華一経を虚心坦懐に読む限り、いま言われる法に該当するものは何一つ説かれていないからです。そこに説かれるのは、ただ「教菩薩法」のみで、仏が成就したというのは「阿耨多羅三藐三菩提」、すなわち菩提であるというに留まります。

しかし、法華経に諸法実相が説かれていると意訳を加えたのは羅什であり、そこから不可思議境三千を提示したのは智邈説・灌頂記であり、さらに一念三千と結語したの湛然述でした。蓮師は、この一念三千を殊の外珍重し、妙法蓮華経の五字の内にこの珠(一念三千)を包む故に本門題目と呼称し、それを持(たも)つ久遠釈尊を本門本尊と愛敬しました。しかし、果たして、この一念三千>題目と釈尊を同一視していたのでしょうか。本法所持という意味合いを越えないのではないのかとわたしには思えます。

諸法実相=一念三千>題目の関係は見られるものの、法=仏を示す脈絡を看取できません。但し、蓮師は『本尊鈔』に我実成仏を釈するに「所見三身無始古仏」としながら、我本行菩薩道では、身土に約するに決の

「當知身土一念三千 故成道時稱此本理 一身一念遍於法界」

を引いて「所化以同体」を言うものの、これらを人法一箇とする蛮勇は、わたしは俄に生じません。

十界論という基礎概念を頂く脈絡では、いずれにしても人が仏であるわけはなく、仏法を言うならばいざ知らず、人法とはまことに仏を人より貶める逆罪・凡夫本仏論の穿った語彙の用法であると思えるわけです。もっともこの使用は何も富士の専売ではなく、他派でも使用されていることは失笑を禁じ得ないところではあります。

以上、反論される方は多々あるでしょう。是非とも真跡からご批正を賜れれば幸甚です。


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