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素朴な疑問
1640
:
愚鈍凡夫
:2004/07/25(日) 12:44
正義感の強い人、純粋な人、優しすぎる人、真面目すぎる人をどんどん追い込んでいく組織のあり方は糾弾されるべきだと思います。
こういう人たちはあまりにも責任感が強く、自己に厳し過ぎる傾向があり、常に、過度なストレスに曝されているといえます。
精神的にとことん追い込んでしまい、自分で処理できる限界を簡単に突破してしまいます。
教団にとって、こういう人たちほど便利な存在はないでしょう。ほっといても自分の限界ぎりぎりまで頑張る人たちですから。大切にしなければならない人たちを便利使いし過ぎるように思われます。
体力も精神力も尽きているのに、それでも頑張る姿はあまりにも痛々しいです。
我が教団の信仰は万能薬であるかのように喧伝するわりに、10年、20年という長い闘病生活に入った人を平気で見殺しにする。この体質が変わらない限り、犠牲者は減ることはないでしょう。
宗教の存在意義とは何なのか、そこから問い直す必要があるように思います。
参考資料
エホバの証人とこころの病の問題
http://www.jca.apc.org/~resqjw/mi.htm
1641
:
シェスタ
:2004/07/25(日) 14:48
> この戊申、朔の日はこのソフトですと3月1日になり1日ずれています。前月
> が29日ですとこの日は3月2日になるのですが2月30日まで表示しております。
これは単純ミスですね。メールで作者に教えてあげたらどうでしょうか。
西暦628年の2月が30日まであるって。この年は閏年ですから29日まで
ですね。
あと、段落ごとに空行を入れた方が、読む方としては読みやすくなり、助かります。
1642
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/25(日) 18:04
>シェスタさん
やはりそのようですね。ここでも推古天皇36年の戊申の日は3月2日ですね。あと古天
文の研究資料と鎌倉時代の歴史書や日蓮大聖人の真書とされる書を比較しながらその史実
を探求して偽書と真書を推測して行ければとは思っています。ここに古天文の資料があり
ます。 ↓
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/ecl/eclipse.htm
>愚鈍凡夫さん
まあいろいろ考えると新宗教にはいい面もある反面恐ろしい面もありますね。とこ
とんまで精神的、肉体的に追いつめられても限界に挑戦している新宗教の人達には
同情を感じることもあります。あの正宗の寺院で拝んでは俯き考え込み、拝んでは
俯き考え込んでいた男子部の幹部のように見られた人もそのような極限値に追い込
まれていたのかもしれませんね。
さて愚鈍凡夫さんから紹介された月例暦のフリーソフトにはシェスタさんもご指摘
されているように、作成者の方にミスがあったようです。斉藤氏の古天文の日食月
食シュミレーションでも推古天皇36年戊申の日は3月2日となっています。探求
すれば探求するほどいろいろと疑問がわいてきて、またそれを解明できた時の喜び
は数学の難問を解いた時のような爽やかさを感じますね。
この掲示板は大変勉強になりますね。私は数学や理科を勉強しながら歴史を解明し
ていきたいと思っています。
1643
:
孤独な迷子
:2004/07/25(日) 20:57
愚鈍凡夫さん
はじめまして。(だと思いますが。)
>>1628
>信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。
これは切実な問題ですね、現に私がそうかもしれない。統合失調症ではないだろうけど。
独歩さん
いつもレスを頂きながら、返事ができなくてすみません。
>>1631
ある意味で、牧口さんや戸田さんはすごいなーと思っていました。時の権力に迎合せずに信心を貫き通
したのですから。このときに宗門では神札を祭ったりとかしていたんですよね。
でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
今までの見方が変わりました。
平和創価さん、はじめまして。
>>1636
とても参考になりました。
1644
:
愚鈍凡夫
:2004/07/25(日) 22:43
平和創価さん、レスどうも。
とにかく暑い。 ε-(´o`;A アチィ
「Calend Mate」の件ですが、これは旧暦の種類による計算方法の違いではありませんか。
飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://jbbs.shitaraba.com/study/364/
でも、天文の分野から御書の記述の真偽を追求していくというのも、面白いアプローチですね。
成果を期待しています。ご教示の程、宜しくお願いします。 m(_ _)m
孤独な迷子さん、始めまして(小生も初めてだと思います)。
心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので長い時間と多額の費用が掛かります。患者さんにとっては、それだけでも重い負担になります。だから、彼らに無責任な叱咤激励だけは謹んでもらいたいと思います。
そして、宗教指導者は、このことをしっかりと肝に銘じてほしいと思います。
1645
:
愚鈍凡夫
:2004/07/26(月) 01:11
すみません。暑さで呆けてました。 (* ̄○ ̄)ア(* ̄о ̄)ホ・・・・・・((((_ _|||))))ドヨーン
飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://www.town.bisei.okayama.jp/stardb/his/data/his0014.html
1646
:
孤独な迷子
:2004/07/26(月) 01:28
愚鈍凡夫さん
レス有り難うございます。
>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。
そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて
しまったことが間違いの始まりだったかも知れません。
1647
:
菱村正敏
:2004/07/26(月) 06:13
>> でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
>>今までの見方が変わりました。
牧口さんは、当時、爺さんでしたから投獄されていなくても戦場に
行くことはなかったかもしれませんね。
また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。
で、かりに戸田さんが甲種合格していても年齢の問題があった
かもしれません。戸田さんは1900年生まれのようです。日本が
中国に戦争しかけたのが1935年ころ。戸田さんも35歳。今なら
若いうちですが、当時でしたらそろそろ隠居まぢか。そして、太平洋
戦争は1941年、戸田さんは40歳をむかえ初老の仲間入りです。
高齢者で徴兵された方もいるとは思いますが、それは戦争経験があって
予備役として登録されていた人たちだけかもしれません。どちらかと
いうと戦争の長期化や激化にともない、徴兵は20歳未満の若い人まで
引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。
1648
:
菱村正敏
:2004/07/26(月) 06:19
>>>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。
>>そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて
わたしは、10年来の精神病患者ですが・・・。医者は信じられません。
良い医者も医療行為をつづけていくうちに、患者にとって普通の医者から
悪い医者になっていくように思います。いつまでも初心の気持ちを維持でき
ないのは、世間一般の対人関係と同じことです。
自分をたよりに。このはかない、精神を病んでも生き続けたいと願う
ご自分をたよりに、、、それがいちばんの良薬だと思います。医者との
関係は、悪い患者になって、クスリをもらう一存在だと。それ以上は
望まぬことです。
1649
:
シェスタ
:2004/07/26(月) 10:49
平和創価さんへ
暦に関しては、以下のページが一番詳しいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/index.html
当ページの主催者の suchowan さんは、暦に関していえば、恐らく、この人の
右に出る人はいないのではと推察しています。
何か分からない事があれば、掲示板に書き込めば、教えてもらえるかもしれません。
1650
:
愚鈍凡夫
:2004/07/27(火) 00:58
孤独な迷子さん、穏やかで、心静かなる日が一日も早く訪れることをお祈りします。
菱村正敏さん、薬の組み合わせとの相性もあって、難しいようですね。
良薬と、名医に巡り会えますようお祈り致します。
確か45歳まで兵役が延長されたと思いますが、徴兵の可能性は薄いですね。ただ、沖縄では40歳代で徴兵されていたようです。
1651
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/27(火) 02:28
>シェスタさん
貴重な資料の御提供有り難う御座います。私の書斎もsuchowanさんみたいですよ。
私は2階に書斎と居間兼寝室、1階に書庫があり4台のパソコンをインターネット
に繋いでいますよ。(笑)蔵書は5000冊はありましたがこの2月にかなり処分
しました。
>愚鈍凡夫さん
私は今2階の書斎で机に向かい超小型のノートパソコンを右に置いてメールを書き
込んでいます。
私は病気や死を極度に恐れる性格で、今夜も体の不調を感じました。犀角独歩さんに
も言ったのですが、私はこの5月に体調を崩し大学病院に通院するはめになりました。
初め歯の痛みから始まったのですがそれが舌の痛みと連動するようになり、5月の下
にかなり酷くなり、6月2日には私自身が駅のホームに通過電車に飛び込むような強
迫観念が起こり、飛び込み自殺寸前の状態になりました。私は別の2ちゃんねるで創
価の批判をした上に大御本尊に対する疑念を持ったためあのような事態になったもの
と思います。また私は創価でありながら公明党の政策に納得することができず、毎日
大酒を飲んでいたのです。こころの葛藤は凄まじく、自分は癌になるのではないかと
いう強迫観念に絶えず襲われ自殺寸前まで行ったのでした。翌週親に連れられて精神
科に行きました。医師は私の病名を「重度強迫神経症」と診断し、2種類の薬を処方
してくれました。私は「統合失調症」ではないということで安心し、快復に向かいま
した。しかし今日また口の病気の不安が起き、一時は絶望に陥りました。今は神経安
静ざいを飲んで落ち着いています。宗教の脅迫性は諸刃の剣だと私は思います。私は
6月2日に鉄道自殺していたかも知れないのですから。
1652
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(NOBri.DM)</font><b>
:2004/07/27(火) 11:35
>愚鈍凡夫さん
暦の計算ソフトでは1649でシェスタさんが紹介されたページが一番詳しいですよ。
推古天皇36年3月2日ははっきりとユリウス暦4月10日になりました。suchowanさん
のソフトを愚鈍凡夫さんの月齢暦ソフトの天保暦からの単純計算による過去に実際に使わ
れた暦とのズレを修正しながら研究を進めて行く方がいいようです。御書の記述と天文現
象との間にズレがあった場合には、真書とされていても疑って考察を加えて行くべきだと
思います。犀角独歩さんが示された愛染明王の端書きの建長六年一月一日の日食の記述は
虚偽であることが分かり、また重要文化財故に真書とされて来て必ずしも科学的な考察が
なされていたものではないということが分かってきましたから。
今まで一般には偽書と疑われて来ていた『種種御振舞御書』の記述がが天文シュミレーシ
ョンと一致し、光り物も科学的に稀に起こる球雷、球電現象である可能性が高いことを考
えますと、真書の可能性が高まってきたとも言えましょう。「連祖の、著作・曼陀羅の真
偽について」のスレまたお会いしましょう。
1653
:
藤川一郎
:2004/07/27(火) 13:49
> 徴兵は20歳未満の若い人まで
> 引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。
横レスです。
終戦間際には、特別法等で55歳まで引き上げられております。
ある軍事学者は「こんな年寄りまで引き出さねばならん戦争は負けて当然」
等と言っていましたが、年寄りは問答無用で最前線に引き出されましたが、未成年の方は特攻以外は「予備役」が多かったようです。
1654
:
菱村正敏
:2004/07/27(火) 15:42
特別法って何でしょうか。義勇兵の法律ですか?
年寄りが最前線・・・。終戦間際で最前線なんかに派兵できた
んでしょうかね。終戦間際は機雷や潜水艦で海上封鎖されてい
たので、国内の兵を最前線に送り込むなんてできなかったんじ
ゃないかなぁ。
1655
:
愚鈍凡夫
:2004/07/27(火) 17:06
**************************************************
だが,連隊区司令部では,金品と引換えに,原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正が行われた。招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。"名誉ある招集令状"は不名誉な手段によって悪用されたわけである(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻497頁)。また「東京,大阪等の大都市では連隊区司令部の一部職員が,地方人(民間人)より相当の金品贈与のもとに在郷軍人名簿のつづりから(召集対象者の)名簿の抽出破棄,あるいは召集延期者や疾病者としての指定記入等の方法で召集資格者を作った」など,実際に不正が横行していたことを裏付ける記録が残されている(「支那事変大東亜戦争間陸軍動員概史」)⇒替え歌
戦争の激化に伴い,徴兵検査を受けた人のうち現役兵として徴集された人の割合(徴集率)は,1937(昭和12)年に25%,1944(昭和19)年に77%,1945(昭和20)年は90%と,急上昇。そして,現役兵だけでまかなえない兵員需要を補うために,赤紙が乱発されたことはいうまでもなかった。
1943年の統計を見ると,現役徴集者約41万人に対し,赤紙による召集者は約105万人に及ぶ。
---
さらに,徴兵年令は戦局の悪化とともに引き下げられていった。すなわち,1943(昭和18)年12月24日勅令第939号徴兵適齢臨時特例に基づく,44(昭和19)年に於ける徴兵事務の特例に関する件(陸軍第69号)により,徴兵適齢が1才引き下げられ,満19才となり,翌1944(昭和19)年には兵役法施行規則を改正し(陸軍第49号),満17才以上の者とすると同時に,満17才未満の志願も可とした。いわゆる根こそぎ動員である。
「日本の徴兵制」より
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tyoheisei.html
*************************************************
戸田さんの場合は、これですかね?
「招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。」
戦前は日銭にして1日1万円(当時)の収入があったようですから。
1656
:
菱村正敏
:2004/07/27(火) 18:35
戸田さん。徴兵で不合格になった可能性も否定できないと思います。
わたしの父の兄貴は、べつに金持ちでも何でもありませんでしたが、
長男であり、洋服屋の跡取り?ということで、赤紙は来なかったよう
です。その代わり軍需工場で働いてました。
べつに、特権階級だけでなくても、それなりに抜け道はあったというか
手心が加えられていたのではないでしょうかね。
1657
:
三学無縁
:2004/07/27(火) 19:00
>>1647
> また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。
戸田さんが重症の痔疾患をもっていたことはご存知かと思います。これは酒の飲みすぎによるものかもしれません。
痔主は徴兵検査では不合格とされたようですね。
もっとも戦況が悪くなってからは痔主でも合格、徴兵されることになりました。
1658
:
藤川一郎
:2004/07/27(火) 21:03
菱村さん
義勇兵は
15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子(女子もあったんだね)です。
私の言ったのは下記です。
「徴兵年齢之特例ニ関スル法律」(昭和19年12月布告、施行は翌年一月一日から)
臣民ノ兵役年齢ニ関シ、今次戦線ノ終結マデ徴兵適齢臨時特例ニ関ハリナク上限ヲ55年トス。
1659
:
菱村正敏
:2004/07/27(火) 21:07
19年12月ですか。それなら前線には出られません。瀬戸内海を
航行することでさえ、注意しないとできない時代です。鈍重な輸送船を
最前線に送ることは死ににいくようなもの。
つまりは、最前線に高齢者が前線に送られるということはなかったと
思います。もし、具体的にそういう事例がありましたら、教えていただ
きたく存じます。
1660
:
愚鈍凡夫
:2004/07/27(火) 22:10
以下のHPは、戦時中の輸送船団の記録です。敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。
太平洋戦争と海上輸送
http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou02.htm
輸送船団の戦闘
http://www.iwojima.jp/data/convoy.html
戦史 橘丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-tachibana1.html
戦史 阿波丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-awamaru1.html
1661
:
ワラシナ
:2004/07/27(火) 22:53
0、精神疾患の特徴たる意欲障害、感情障害、行動障害を知っているはずの精神医だが、患者がまさにその症状故に「通院している病院に薬を取に行く事ができない」という病者の置かれている矛盾的現実があって、更に患者自身の苦痛がこの不合理制度?によって倍化させられている現実が、精神医に理解されているとは思えないのである。或医師の患者に対する言動を聞いてそう思った。「薬を貰いに行くことできない」患者の苦しみ、近親者の代理受け取りも叶わない患者の置かれている苦しみを訴える患者に「自分の健康の事なんだから何としてもここは自分で通院してきて診察受けて薬を取りに来てほしい」と言うばかりだったからである。
1、精神疾患、統合失調症であることの所以が「自分自身に対する働きかけが一切できない、何にもやる気がしない、風呂も歯磨きもテレビも読書も何もかもしたくない努力放擲、常時脳中妄想充満」症であること、だからその故に「通院もしたくない」とは、病者自身の道理にかなっているまともな言動なのであるし、ここらあたりの機構も医師が弁えている筈なのに、である。デイケア要員を使うとか、医師自身が往診するとか、(糖尿病患者の場合往診をやってる病院はある)医療機関が監督する委任状による第三者による薬の代理受け取りを可能にするとか、工夫がたらなすぎる。
2、被害妄想タイプ、生命執着型の統合失調症の患者さんの話は、治療とはいえまともに聞いていたら、健常者の頭の方がおかしくなる位のものだから医師にも同情はしておりますが。
3、とにかく、患者の話なんか、聞いてるより、いかに手短に薬の処方箋書きを済ませて、次々待っている患者を裁いていくか、と言うのが、医院の待合で感じた精神医療の現状なのであった。
1662
:
ひきこもり
:2004/08/03(火) 16:56
>>1661
ワラシナさん。初めまして。私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気に
しないことも私は気にする性格なのです。そのような性格を信仰によって変えようと
努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉し
ていますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。他宗では社
会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようです
が、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。私は17世紀のフランスの科学者、宗
教思想家、文学者のパスカルの『パンセ』の次の言葉が好きなのです。「人間のそれ
らの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つの事というのは部屋
のうちに休んでいることができないということを発見した」私は無理をして自分の性
格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。
生来の内向的で神経質な性格故にこうなってしまったものと思います。世の中の煩わ
しい人間関係を避けて、自分一人で信仰に励み、学問や芸術関係の仕事で生きていく
ことも認められていいのではないかと思うのですが、どう思われますか。私は敢えて
苦手な人間関係の仕事に手を染めたために、大変な精神的苦痛を感じてきたのです。
ワラシナさんが紹介された精神疾患を持つ人達の中には、その人なりの生き方を認め
られれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思い
ます。宗教が人を精神的窮地に追い込み、統合失調症や神経症を発病させ、終にはそ
の人の寿命を縮めることになってはどうかと思うことが私は度々あります。
1663
:
ひきこもり
:2004/08/03(火) 17:26
パスカルの『パンセ』には続いてこのように書かれています。
「しかし私はさらにふかく考えた、そうして我々のあらゆる不幸の原因を見つけたのち、
そんな原因がなぜあるのかその理由をさぐりたいとおもった、そうして大そう現実的な一
つの理由があること、その理由というのは我々の存在のもつ本来的な不幸において成り立
っていること、この我々の存在の仕方は、弱いものでありまた滅びゆくものであり、また
立ち入って考えをめぐらすならそのとき何ものも我々を慰めうるものはないほどにみじめ
なものであることを知った」(『パンセ』上巻 新潮文庫)
人は必ず死ななければならないものであるという厳しい現実を直視できないからこそ、我
々は慰戯を求めるのですが、直視してそれに絶望した人が統合失調症や神経症を発症する
ことが多いのではないかと私は思うのです。宗教は死後の生を約束するものであるが故に、
自分が信仰する宗教の教義や教えから外れたことをすることができず、精神障害を発症す
ることがあるのではないかと思うのです。特に教義に死後の生の在り方の定義がどぎつい
場合に精神障害の発症率が高くなるのではないかとも思います。
1664
:
鎌龍
:2004/08/04(水) 12:21
独歩さん。先日はご丁寧なご教示を賜りありがとうございました。一つ教えてください。 随分昔に戻ってしまって申し訳ないのですが、過去ログの「富士大石寺の歴史について」の43で、>この書き間違いによって当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれたのは・・・と言われていますが、これについて詳しくその経緯など教えて頂きたく存じます。よろしくお願い致します。
1665
:
菱村正敏
:2004/08/04(水) 15:54
>>敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。
資料拝見しましたが、これは物資輸送が中心のもので兵員輸送は
ほとんどなされていなかったと推察します。当時の最前線は兵隊さん
の補充よりも、食料や武器弾薬などが重要なものだった思います。
いくらバカな軍部でも、輸送船に載せるモノの優先順位くらいは分か
っていたでしょう。ただ、当時はガソリンはあるのにメンテがなされず
動かすことができない飛行機が並んでいたなどという皮肉な現象が
あったそうなので、内地から武器やその他道具などを修理できる技術系の
者は送り出されたかもしれません。ただ、一般的に何の役にも立ちそうに
もない40代以上の高齢者が最前線に行くのは、、、かえってゴクつぶし
としてのマイナス要因が大きく邪魔者になるだけではなかったかと思いま
す。
せいぜい、40代以上で狩り出されても、アメリカが上陸してくる
地点でタコツボ掘り、もしくは飛来する敵機を監視塔で見張っているか
まぁ、敵兵と対峙するという図式はほとんどなかったのであろうと
考えています。
1666
:
犀角独歩
:2004/08/04(水) 17:17
鎌龍さん:
ここ1年間の間にわたしは3回もコンピュータがトラブルとなり、データの大半を喪う手痛い事故に遭っています。そのために、いま、ここに確実な資料を示すことができません。ですから、詳しくは他の方に補完していただくしかありませんが、
> 当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれた
と書いたのは、記憶ばかりで書けば、石山57代正師は、漫荼羅書写では定番になっている讃文「二千二百‘三’十余年」と記すべきところを「成就本尊」下付に当たり、「二千二百‘二’十余年」と書したことによって、猊座を追われかねない大騒動になったことを伝えたものでした。
1667
:
鎌龍
:2004/08/05(木) 11:19
独歩さん。いつもありがとうございます。>トラブル・・そうですか。でも、なにかしらの資料に確かに残っているはずであると思ってよろしいのでしょうか?その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗は、弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めたのでしょうか?やはり三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえということなんでしょうか?お願い致します。
1668
:
犀角独歩
:2004/08/05(木) 13:37
鎌龍さん:
> …トラブル…なにかしらの資料に確かに残っている
『地涌』あたりでも、取り沙汰していたと記憶します。
あそこの資料の‘扱い方’には問題がありますが、そこで引用される資料自体が全部虚偽と言うことではありませんから、解説部分を避けて資料だけ読んでみればよいと思えます。
> 弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めた…三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえ
弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかったことでしょうね。それがまず前提です。
前もある学会員がここにやって来て、豪語していましたが、「奉書写之」とあることから、石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人が大半でしょう。また、それを基本にして略して書かれていると思っている人もあるでしょう。
けれど、実際は随所で違うわけです。この点は問答名人さんともずいぶんと議論した点でした。
いずれにしても、石山歴代住職が書写してきた漫荼羅は、しかし「二千二百三十余年」となっているわけです。その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述してくださいました。愚鈍凡夫さんも加わってお出ででした。
石山で「本尊書写」の資料文献といえば『本尊三度相伝』がまず挙げられるでしょう。そこに「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」とあるわけです。また『三師御伝土代』にもそうありますし、伝・順師文献でもそうです。
わたしは『三師御伝土代』の記述が本当であれば、弘安2年10月に漫荼羅上に「日興上人」「二千二百三十余年」と書かれた漫荼羅を興師は授与されていたと思います。そして、その漫荼羅がいちおうの書写の素本になっていたのではないかと思うわけです。けれど、この段階では、まだいまのような形式にはなっていなかったでしょう。それは例えば「日蓮在御判」とあとになったところが「日蓮聖人」などとなっている例が見られるからです。これらの点もれんさん・空き缶さんが挙げてくださっていました。
要するに、本尊書写化儀は「之(本門戒壇之大御本尊)を書写し奉る」といういまのアナウンスとは裏腹に他の漫荼羅を手本にし、さらに随時、変更されて今のような形式になったという矛盾があるわけです。
正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのかとわたしは想像しています。
1669
:
鎌龍
:2004/08/05(木) 14:59
独歩さん。いつもありがとうございます。>弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかった・・・>石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人・・・え!そうだったのですか。なるほど。今となっては富士宗学要集が逆に彼らを苦しめる要因になってしまったと言えるかもしれませんね。>その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述・・そうでいらっしゃいましたか。重複してしまったようで申し訳ありません。れんさん空き缶さんの論述はどちらでなさったのか教えて頂きたく存じます。>正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのか・・・なるほど。しかし、宗学要集がでる前でも、石山にとっての重要書に「三十余」、弥四郎マンダラには「二十余」、これを問題にした人が今までいなかったのでしょうか。それとも、知っていながら公言できずにいたのか・・。それとも、通称血脈相承において、この話はなされなかったのか・・・。いかがなものでしょうか。
1670
:
三学無縁
:2004/08/05(木) 21:08
横レス失礼します。
>1667
>その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗
この問題は、ことの発端から当時の法華講のかたたちが追及したと記憶しています。
開師は、途中、のらりくらりと言い逃れをし、次にはどちらでもよいと居直りました。
しかし、全国の講頭たちにも誤写の事実とその後の経緯が知られるに及び、ついに誤写したことを認めたわけです。
その間、開師を擁護する声は阿部派僧侶の中からも上がりませんでした。
また宗学要集は、100部ていどしか作られなかったので、宗内の僧侶でも持っているひとは少なかったでしょう。
おそらく作られたものの半数以上は法華講関係と日蓮宗のひとたちが求めたと思われます。
予約名簿などから判断して正宗僧侶で購入したのは20人から30人だったようです。
ひとつには、堀日亨師は宗内で煙たがれれていたこと。
ふたつめは、宗史に関心のある僧侶がほとんどいなかったこと。
みっつめは、宗学要集を買うだけの余裕のある僧侶があまりいなかったこと。
よっつめは、宗学を理解している僧侶が少なかったこと。
ごく一部の僧侶を除いて、他宗派との法論は、ほとんど在家の法華講がやっており、たいていの僧侶には教学じたい、あまりなかったと思われます。
>通称血脈相承において、この話はなされなかったのか
開師は知らなかったのでしょう。
なによりも、正師の相承は大阪蓮華寺の総代が預かり、それを柱師に伝えたものです。
また、亨師は柱師からの相承をそれほど重要視していませんでしたし、自分は中継であると公言していたくらいです。
開師が誤写したのは、本尊相伝がなされていなかったから、と考えるのが妥当でしょう。
おそらく、蓮師真筆漫荼羅をお手本にして書いたのではないでしょうか。
1671
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2004/08/06(金) 08:33
鎌龍さん:
> れんさん空き缶さんの論述はどちらで
『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』の392以降です。
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r392-
三学無縁さん:
補完、有り難うございました。どうも、わたしのこの記憶は曖昧なところが多かったようです。
1672
:
愚鈍凡夫
:2004/08/06(金) 12:48
横レス失礼します。
日正師と日柱師との血脈相承問題の参考資料です。
「日柱上人の辞職と選挙による管長選出 宗旨が如実に物語る本宗血脈の有り様」
http://nakanihon.net/nb/keimyou/hujihonnryuunomiti14.htm
「日開上人誹謗粉砕 日柱上人への相承」
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/nitikai.html
参考資料
「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�
1673
:
愚鈍凡夫
:2004/08/06(金) 12:52
「あれれ、文字化けしてる」 (;^_^A アセアセ…
「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�
1674
:
愚鈍凡夫
:2004/08/07(土) 14:20
管理人さん、お手数掛けますが、二重投稿になっていますので
>>1673
のレスを削除して下さい。
宜しくお願いします。 m(_ _)m
1675
:
犀角独歩
:2004/08/08(日) 01:23
あれ、開師を正師と書いていますね、わたし。失礼しました。
しかし、仮に相承があった。だからって、正しいことにならないし、それが700年、唯授一人であったとはならないでしょうにね。
もっとも、エレベータの相承、これまた、どうでもいい話ですが。
1676
:
平和創価
:2004/08/08(日) 08:22
愚鈍凡夫さん。ご無沙汰しています。ご紹介頂いたCalend Mate、と経度緯度算出ソフトはずいぶん重宝ですね。大変助かりました。
さて今朝愚鈍凡夫さんが紹介された「日柱上人の辞職と選挙による管長選出 宗旨が如実に物語る本宗血脈の有り様」を読んでいて、おや?と思ったことがありました。
日連正宗の過去帳には日正上人の忌日は大正12年8月18日となっています。私は日正上人が亡くなったあと、あの関東大震災が起きたのだなと思っていましたが、
今朝見た文章には大正13年8月18日になっていました。歴代上人の過去帳をお持ちでしょうから比較されてみて下さい。どちらかに間違いがある筈です。
あの推古天皇36年ユリウス暦628年4月10日は、やはり3月2日とするのが大勢のようです。1日が朔であるためCalend Mateの作成者は3月1日としたものと
思いますが、大勢の学者の説を採用した方がいいと思いました。日食の記録を『続日本紀』の記録を調べて気付いたのですが、「延暦八年(己巳)春正月(癸卯朔)甲
辰、日触ゆること有り。」との記載がありましたが、この日はユリウス暦789年1月31日に相当し、甲辰の日は朔の翌日の1月2日になります。しかし旧輯国史大
系所引の一本では「延暦八年春正月甲辰(朔)日有触之」とする説もあります。そうなると1月1日がCalend Mateの1月1日通りになります。1月1日に日食が起き
るという不吉な記載を避けたためかとも思われます。古代の暦の算出は学者の意見に相違があるために、かなり難しいようです。
愚鈍凡夫さんの勉強ぶりをいつも見させて頂いております。新しい研究成果を期待しております。
1677
:
愚鈍凡夫
:2004/08/08(日) 13:49
平和創価さん、こんにちは。
大石寺56世日正師の生没年について調べてみました。
在位期間:1908(明治41)年10月29日-1923(大正12)1923年8月12日
生 没:1861(文久1)年12月18日−1923(大正12)年8月18日
ウィキペディア 「総本山大石寺歴代上人一覧」より
「然るに其の当時より柱師の偉大なる御人格を嫉み諂う阿部師を擁立せんとする一派が正師の御病気の重せらるゝを見て早くも後継法主の擁立を画策し狂運動を成せし事実ははある書に明白なり正師の御病気益々重らせられ愈興津へ転地療養の後は柱師の御枕頭へ御近ずけ申さず彼の一派等は益々跋扈し或時は偽書を作り或時は暴力を以し或時は強言を以て大学頭職の辞職を強要す。」 (1930年4月3日付 宗門信徒の日開上人宛『上申書』)
「かくて八月十七日の夕刻に於て明朝遺言をするから皆んな呼んでおけとの仰せがあったので、周囲の者は慌てて、四方へ電報を打つやら電話を掛けるやらしたのである。其の夜半に於て弟子共への御遺言があり、それぞれ近親への御遺言もあり、而して夜はホノボノと明けゆく時、四方より主立った人が駆けつけて来たのであるが、五時頃になると、皆を此れに呼ベ、と仰せられて、一同は上人の枕辺に集まったのである。一同着坐し終るや上人はずっと見廻わされて、やがて侍僧に紙と筆とを持って来る様にと仰せられた。侍僧は静かに立って用意をした。そこで上人は徐ろに「大僧正の権は大学頭日柱に相承する」と御遺言を遊ばされ、侍僧の認めた料紙を手にとって御覧になり、更に署名と花押とを認める様に命じ給い、御手を差し伸べて指の先にて花押の御指図があった。此れが終るや再び一同を見廻してそれから目を閉じられたのである。」(1956年 日蓮正宗布教会刊・細井精道総監著「悪書板本尊偽作論を粉砕す」)
8月18日に病気療養先の静岡県興津(おきつ)で死去したのは事実のようです。
この頃はまた、戸田さんが最初の妻(つた)の実家(新潟)から米を運んできて儲けていた頃ですね。しかし、関東大震災直後に生まれた長女安代を半年後に、その明くる年に妻を肺結核で失っています。
戸田さんにとって、天国と地獄を同時に味わった時期だったようです。
1678
:
平和創価
:2004/08/08(日) 14:45
愚鈍凡夫さん
ご返事有り難うございます。57世日正上人の没年月日が過去帳通りであることが分かりました。
また12世日鎮上人は13歳、13世日院上人が9歳の稚児貫首であることも分かりました。
今迷宮入りになってるのは、5、6、7世の日行、日時、日阿上人と、10世、11世の日乗、日底上人の生年月日ですね。
この記録は慶応元年2月28日(1865年3月25日)の夜の大石寺の大火のために焼失した資料の中にあったのかも知れ
ませんね。このことを解明するのはもう不可能ですね。諦めました。
1679
:
愚鈍凡夫
:2004/08/08(日) 15:06
平和創価さんの探求心は凄いですね。拝読していて勉強になります。
> この記録は慶応元年2月28日(1865年3月25日)の夜の大石寺の大火のために焼失した資料の中にあったのかも知れませんね。
そうかも知れませんね。
また違う見方をすれば、その他の歴代の生没年の記録が残っているのですから、特殊な事情があって(理由は分かりません)残せなかった(最初から資料はなかった)とも考えられるのではないかと思います。
ところで、789年の日蝕は関東では午前11時半頃のことだったようですね。
789(延暦 8)年1月1日 日蝕あり。(続日本紀40)
天変地異年表古代
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen01.htm
関係ないですが、下記のHP面白かったですよ。
ハナキネの日蝕-日本史の起点-PART4
http://simasiba.hp.infoseek.co.jp/kasetu-hana04.htm
1680
:
愚鈍凡夫
:2004/08/08(日) 15:23
訂正
日正師は大石寺56世ではなく、大石寺57世でした。 m(_ _;)m ゴメン!!
日蓮大聖人血脈付法系譜(総本山大石寺 御歴代上人)
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/rekishi_rekidai.htm
1681
:
鎌龍
:2004/08/10(火) 11:11
独歩さん、愚鈍凡夫さん、ご教示ありがとうございます。ゆっくり拝見させて頂きます。
1682
:
鎌龍
:2004/08/10(火) 11:18
三学無縁さん、ご教示ありがとうございます。私は石山内部のことはよく知らないのですが、堀師が煙ったがられていた理由はどこにあったのでしょうか?
1683
:
問答迷人
:2004/08/11(水) 23:35
創価学会の曼荼羅は、どこで印刷しているのでしょうか?どなたか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください。よろしくお願いいたします。
1684
:
ワラシナ
:2004/08/15(日) 15:38
>>1662
【ひきこもりさんへ御返信(1)】
ひきこもりさん。御返信遅れましたが初めまして。
>私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気にしないことも私は気にする性格なのです。>
それは、他人と視線が掠っただけでも傷ついてしまうような、、、。またそれは身近な人との二言三言の会話にすら、異常な緊張を余儀なくされてしまう、、とかいう類のそれでしょうか。またそれは、終わってやれやれほっとするようなものではなく、心の中では次の精神的労働ー終了したばかり会話の再生ーのスイッチが自動的に入ってしまい、次々と湧き上がってくる思いというのが「さっきは本当はあー言えばよかった、こー言えばよかったのだ」とでもいうような後悔と自責感ばかりだったとしたら。、、もしこれだったら毎日が疲れて大変でしょう。
>そのような性格を信仰によって変えようと努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉していますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。>
御本人がそう感じた部分は否定できません。
>他宗では社会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようですが、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。>
御書みると登場人物で隠遁生活に入っている人が多い。地涌菩薩の描写をみても「常に静かなる処を楽い」「常に頭陀の事を行じて 静かなる処を志楽し 」(妙法蓮華経 従地涌出品第十五)とあり、「静かなる処」がお好きなようです。だから、他人はどうあれ自分専用の蛸壺空間を個人的に造る事は許されると思う。
>『パンセ』の次の言葉、、、部屋のうちに休んでいることができない」「私は無理をして自分の性格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。」>
だめな部分(=他人に太刀打ちできない負け必定)といけてる部分があって、いけてる部分を育てて武器にして生きていくのが理にかなっているのは分かりきった事、幸せな世渡りにはこれが得策と思われるのに、なぜ、好きでもない不得意な、か弱い部分を心の主軸に設定して、「試練を課す」「苦行」的不合理な生き方に燃え立ってしまったのか。当時はこの戦略こそ十全な生き方だと思ってしまっていたのだった(自分の場合)。
ここら辺の心理機構は自分でも答えが見つかっていません。多分心の中で正直さの基準にぶれ?が起きていたから思っています。
(御返信1 終わり)
1685
:
ワラシナ
:2004/08/15(日) 15:44
(御返信2)
>生来の内向的で神経質な性格故にこうなってしまったものと思います。世の中の煩わしい人間関係を避けて、自分一人で信仰に励み、学問や芸術関係の仕事で生きていくことも認められていいのではないかと思うのですが、どう思われますか。>
賛成です。次のはある精神科医が或る統合失調症患者に言った言葉だそうです。
「(病気で貴重な青春をだめにし、社会的脱落者になってしまったその患者に対して)君のような人も世の中には居ていいんだよ。」
「(性急な治癒結果を要求するその患者に対して)君イ、この病気は言ってみれば(或る)性格みたいなものだんだ。性格が治るかね。」
>私は敢えて苦手な人間関係の仕事に手を染めた為に、大変な精神的苦痛を感じてきたのです。>
他人からひどい扱われ方をされ大変な痛手を負ってしまわれたような事、そして振り返ってみれば遅れを取り戻せない程の遠回りしてしまった、青春の貴重な時間を代償として失ってしまったような事、その二つの辛さが滲み出たような一文と思いました。
>ワラシナさんが紹介された精神疾患を持つ人達の中には、その人なりの生き方を認められれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思います。>
素質という土台の上に、嫌いなものを無理してやり続ける負担が切っ掛けとなって発病にいたる、と一般論としていえるとは思っていますが、、、。
ただ統合失調症には思春期発病の「破瓜(はか)型」というのがあって、器質に病因を求めざるを得ない。このタイプを見ているとこの病気になるために生まれてきたと思えてしまうようなその人なりの自然さがある。幼児期に虐待を受けたわけでもなく結構大事に育てられていて、しかも嫌いなことを強制されていたわけでもなく本人も好きで何かに熱中していながら、しかも宗教入信以前に立派に発病するケースがあるからです。
この病の神秘的なのはこのタイプだといわれている。これから大人としての人生経験が始まる手前で突発的に発病するから。
突発的にある日頭の中の大事な成分が蒸発して真っ白けになったように「何も手がつかなくなる」、自分で自分の形がつかめなくなったような茫然自失状態に陥ったまま
になる。意思と努力では決して元には戻らなくなる。そもそも意思と努力が失われての発病だから。これに対して唯一、復元可能なのが向精神薬であるという事は、この病の病因が、物質的作用に依存している、事を示している、と考えます。
ここから、「その人なりの生き方を認める」方針の真実味は、発病に至る過程にブレーキをかける有効な予防策的考えというよりも発病後の治癒過程に対してこそ真実味が発揮されるように感ずる。
突発的に悪くなるまえより、病気になってから以降の、この病気を背負い込みながら暮らしていく治療生活の方が長く続いていくわけですから。
統合失調症と不安神経症を抱えた身近にいた或る患者の例を見ていると、統合失調症=原因、不安神経症=結果という形に見えました。
しかし、「その人なりの生き方を認める」方針の持つ予防策的真実味が確かにあると思う。それは、歪んだ信仰の障害の影響が(病因もしくは)契機になる実例があるからです。
比較的経度の統合失調症の或る人の例では、幼児期の頭部強打が原因と思われている、との事、しかも発病の切っ掛けがS会から受けた折伏だったというのですから「その人なりの生き方を認められれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思います。」の発言には注目させられました。
この方の場合には幸い不安神経症も軽度、薬の量も種類も少なく日々の暮らしの中に楽しみを見つけるだけの気持ちのゆとりがあり、楽しそうに暮らしています。
(御返信2 終わり)
1686
:
ワラシナ
:2004/08/15(日) 15:53
(御返信3)
>宗教が人を精神的窮地に追い込み、>
その宗教の布教態度に、推進する布教者に「強迫観念的的折伏恐怖症(しないと謗法地獄)」を植えつける傾向があった場合、上述のように「宗教が人を精神的窮地に追い込み」になる、と思う。
上の二人の実例から、私なりに考えるのは、統合失調症を構成している「様々な分裂(気持ちと行いとの分裂、自分の痛みしか感じられず他人の痛みは共有されない分裂)、、、」のそれぞれにふさわしい「不安感一つ一つ」が対応しているように思えます。だから病気の進行につれ不安の種類も質も増大していく。
不安神経症は統合失調症の派生現象とみえます。患者自身は自己の精神の健全性の喪失を心の中で発生した不安神経症の不安感から感じ取っているのではないかと思います。
>統合失調症や神経症を発病させ、終にはその人の寿命を縮めることになってはどうかと思うことが私は度々あります。>
この部分は同感。
>人は必ず死ななければならないものであるという厳しい現実を直視できないからこそ、我々は慰戯を求めるのですが、直視してそれに絶望した人が統合失調症や神経症を発症することが多いのではないかと私は思うのです。>
「直視したり絶望したり」は健全な証拠ともいえます。統合失調症にも色々なタイプがあるのでわかりませんが、統合失調症の人は「心の中の時計の針が過去の中だけで回っている様な感じ」です。或る時点で発病したその一瞬に現在が凍結してしまったような感じで、過去のその一点だけが生き生きしていた最後の時間だった、と感じられているようで、その直前の健康だった頃を思い出しては懐かしんだり、その直後襲われた得体の知れない恐怖の一瞬に震えたりしているそうです。
「直視したり絶望したり」は現在的、正面向きですが、統合失調症患者さんのそれは、過去的に妄想的(未来的)に「直視したり絶望したり」してるようで、周囲の現実に対しては「正面向き」でなく「斜め向き」のようです。
ですが、自分の疾患の有様だけは、正確に捉えようと「正面向き」の情熱をもっているように見えました。
>宗教は死後の生を約束するものであるが故に、自分が信仰する宗教の教義や教えから外れたことをすることができず、精神障害を発症することがあるのではないかと思うのです。>
過度に信仰に取り組んで生きてきた人ほど神経がボロボロになっているのではないか予想しています。
>特に教義に死後の生の在り方の定義がどぎつい場合に精神障害の発症率が高くなるのではないかとも思います。>
この点は暇を見つけて調べてみたいです。
ではまた。(引きこもりさんへ御返信1,2、3 終わり)
* 一週間も前に書き上げたのに送信の度に「掲示板属性がありません」が出てくるばかりで送信できない原因が分からなかった為遅れたのです。原因は本文が長すぎたからだった。
1687
:
犀角独歩
:2004/08/15(日) 19:06
1682 鎌龍さん、横レス失礼します。
日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の2、正宗・創価学会批判、(2)身延離山の論についてに
「堀老師はあれだけ古文書に精通して居られるから恐らく眞相は知つて居られることと思ふが何分にも石山に育つた方であり、それに今年(昭和30年)は満88歳の高齢であられるから終に石山伝統の中に終られることと思はれる。然しそれでも石山では老師と他門との交渉を喜ばず、昨年静養を乞ふのを口実として畑毛の雪山荘から大石寺境内に隠居所を作って老師を移し外部との交際を出来ぬやうにしてしまつたのは眞に残念である」(P29)
とありました。ご参考までに
1688
:
愚鈍凡夫
:2004/08/16(月) 00:23
忙しい盆がやっと終わりました。
話は変わりますが、統合失調症(精神分裂症)について、こんな資料がありました。
**************************************************
精神分裂病の3つの型
精神分裂病の症状は、陽性症状と陰性症状という2つの症状群がある。
陽性症状というのは、幻覚(精神分裂病では幻聴が多く、幻視は少ない)、妄想、思考奪取、思考伝播、させられ体験、興奮、暴力行為、自殺行動など、誰が見ても異常とすぐ分かる症状である。
これまでの研究では、陽性症状は脳の辺縁系が障害され、ドーパミンが過剰に分泌され、幻覚、妄想などを現わすと考えられるようになってきている。
これに対して、陰性症状というのは、無為自閉(何もしないで、自分の殻の中に閉じこもっている)、感情鈍麻(感情が麻痺してぼんやりと時を過ごす)が主な症状である。このような状態になると、患者はおとなしく、何もしないが他人に迷惑を掛けるようなことがないので、一見軽症のように見える。ところが、毎日、生ける屍のようにぶらぶらと時を過ごすこの状態がなかなか治せないし、良い薬も開発されていないのである。
陰性症状は、前頭葉の大脳皮質が障害され、何らかの形でセロトニンが関与していると想像されている。
①破瓜型(破瓜病)
破瓜というのは、思春期という意味である。思春期に発病し、緩やかに進行する。この型は陰性症状である感情鈍麻とやる気のなさ(能動性減退)が主症状で、緊張病症状群や幻覚・妄想はあまり見られない。
②緊張型(緊張病)
緊張病状群を主症状とするタイプである。発病は20歳前後で、急性または亜急性に、興奮または昏迷(能動性が消失し、行動が全く起こらなくなった症状)を以て始まる。無言症、拒絶症、カタレプシー(身体を折り曲げると、いつまでも蝋人形のような恰好でいる)、言葉のサラダ(サラダを掻き回したように、単語をただ並べるだけで、何をいっているのかさっぱり分からない)、常同言語(同じ言葉を繰り返す)、音誦症(お経を読むように、言葉に調子を付けて繰り返す)など、変な症状が次々と起こる。この型の予後は良好なことが多く、自然に治癒する例もある。希に、激しい興奮状態になり、数日のうちに死亡することがある。
③妄想型(妄想分裂病)
この型は幻覚(幻聴が多い)、妄想(関係妄想や被害妄想が多い)を主症状とし、人格障害が比較的に軽い型である。発病年齢は25歳頃が多く、慢性に経過する。
「心の病・その精神病理」より
**************************************************
参考資料
DSM-IVによる人格障害の理解
http://hikumano.umin.ac.jp/dsm4.html
1689
:
犀角独歩
:2004/08/16(月) 13:11
所謂「精神分裂病」と人格障害というのは別のものだと言いますね。
知己の精神科医がそんな話をしていました。
で、精神障害は薬物投与、その他の治療で症状を抑えたり、治したりすることは出来るけれど、人格障害は治らない。宗教病理は後者に属する場合、深刻であると話していました。これにまた、行為障害を別意分類するのでしょうか。
以下、前にもアップしたことがあったと思いますが、
クラスターB 人格障害の診断基準
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/jinkakushogai_sindan.jpg
Hareによる精神病室「サイコパス」チェックリスト
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/psychopath_checklist.jpg
行為障害
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/koishogai_sindan.jpg
1690
:
ひきこもり
:2004/08/18(水) 18:57
ワラシナさん
ご丁寧な御返事有難うございました。
私も信仰と自分の精神的健康をよく考えて参ります。
1691
:
仙台坂
:2004/08/18(水) 22:00
このサイトお勧め☆サファイアのミント・ゾーン
http://www.sapphire-ark.com/top.html
1692
:
通りすがりの学会員
:2004/09/05(日) 21:01
1631について
愚鈍凡夫様
論点のすり替えでしょう。(論点相違の虚偽)
>同世代の男性たちからすれば、「自分たちが死地を彷徨っていたとき、自分一人、温々と牢獄なんて天国にいやがって。」と思うのが自然な感情じゃないでしょうか。
そもそも、戸田先生が投獄されたのは何故でしょうか。
大石寺が軍部当局に妥協し謗法の神札を受けるよう勧められたのを、学会は受け取りを拒否した。そして謗法厳誡の精神を貫き折伏弘教に徹したがゆえに、牧口先生とともに「治安維持法違反」「不敬罪」の名目で逮捕され投獄されたのではないか。
問題は、謗法を容認するか否か(国家権力の暴力に対抗しても)ということ。
国家権力を恐れず、折伏弘教を貫き通したかどうか、ではないか。
それを、>温々と牢獄なんて天国〜
暖房もない三畳一間の独房が天国かどうかはさておき(少なくとも謗法容認の大石寺お歴歴の生活より温々ではなかろう)、謗法諾否の論点と関係のない生活環境の問題にあっさりスリ替えて平然としてらっしゃる。そういう貴殿に戸田先生を中傷する資格がどこにある。信仰以前に、人間として恥を知れ。
そういう精神構造だから、>脈絡はないのですが、
とおっしゃる脈絡無き論理体系、謗法容認の教学体系を組み立てておられるのか。
この問題は蓮祖時代と何ら変わらない構図ではないか。国家権力の脅しに屈せず、謗法を呵責し折伏弘教に徹したがゆえに、大聖人とその門下は数々の流罪、投獄等の大難を受けられた。当時も「我等はやはらかに法華経を弘むべし」と言って大聖人の元を去った人たちがいた。果たして、貴殿は、大石寺は、正宗門は「三障四魔紛然として競い起こる」ことが有ったと言えるのか。
また、同時に投獄された牧口初代会長は、
その>温々と牢獄なんて天国
とおっしゃるところで、看守をも折伏されまさに「日蓮が一門となりとをし」て、栄養失調のため獄死された。このことには、触れないのですね。ある出来事の一部を切り取って、論点をすり替え牽強付会し、都合の悪い部分を無視する常套手段。
このスレッドは、衒学の酒を酌み交わし、背信の傷を舐め合う卑怯者・裏切者の楽園か。
1693
:
愚鈍凡夫
:2004/09/05(日) 22:07
>>1692
:あらら、これは小生へのレスだよね。
昭和18年6月、
東京・中野の学会員が、子供を亡くして悲しみのどん底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる、という事件が起き、これを契機に学会弾圧が始まった。
ということですよね。学会弾圧の始まりは、神札不敬じゃない。理不尽な「罰論」の結果でしょう。
その証拠に昭和18年5月、
「牧口は、天照皇太神官の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた。」(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)
このときは逮捕されずに釈放されていますよ(牧口氏が逮捕されるのは7月6日)。
それからこれは、戸田さんが作った詩です。
「男だ 日本人だ 日蓮正宗の信者だ 栄光ある生活改善同盟の戦士だ 大君のかがやく御稜威 八紘一宇肇国の御理想 今 全く地球を包む」(昭和17年5月17日・創価教育学会第4回総会『大善生活実証録』・『フォーラム21』020315より)
石原莞爾が聞いたら小躍りしそうな詩です。反戦平和の欠片もありませんよ。
そして、牧口さんの獄中記にこうあります。
「当方無事。春になっても安心です。三度共に暖かいごはんに汁沢山。青年時代からあこがれて居た本が読めるので、却って幸ひである。国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。」(牧口会長「獄中書簡」昭和19年3月16日/『牧口常三郎全集』第10巻288頁)
「三度共に暖かいごはんに汁沢山」とは、家族に心配掛けたくないとの配慮だと思いますが、「国法にはどんなにでも服従すると言ふのだから、心配はいらない。」というのはどうでしょうかね。
「小説人間革命」に惑わされるのもいい加減にしなさい。小説は所詮事実ではないのですよ。
いいですか、通りすがりの学会員さん。
「天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威(ごりょうい)は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば、吾々は、神聖にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。」(大善生活実証録)
これが牧口さんの神道論ですよ。それから、
「天照大神のお札をお祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考へ奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖することが出来ると確信するのである。また、これが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である」(大善生活実証録)
これが神札問題に対する牧口さんの答えです。現人神がいるから神札は必要ないと言っているのです。
小生も大阪で創価学会相手に10年以上も闘ってますから、あなたのような人は沢山見てきました。批判者に対する創価学会の組織的な迫害は、卑怯なんて生やさしいものじゃないですよ。
1694
:
犀角独歩
:2004/09/06(月) 00:18
ここは『素朴な疑問』スレッドです。
わたしは当スレッドの意義を、組織・指導者から信じ込まされていたことは、本当だったのか。自分は何故、そのように信じてきたのか。また、言われてきたことは本当なのか、事実なのかを冷静に考えてみることととらえています。その線に則って、考えたいと思います。
わたしも創価学会在籍時代は創価学会のアナウンスを鵜呑みにして、1692に言われる如く信じてきました。しかし、
> 戸田先生…神札…受け取りを拒否
これは事実なのでしょうか。
創価教育学会が神札受取拒否を決定・発表した資料はあるのでしょうか。
わたしは、この証拠に当たることができないので、これを事実と言うことに躊躇があります。
> 牧口先生とともに「治安維持法違反」「不敬罪」の名目で逮捕
この決定を示す資料は何でしょうか。
これまた、その資料があるかどうか。なければ、直ちに事実と言うことに躊躇いを禁じ得ません。
要は、このような主張をするのであれば、その証拠を示すことによって正当性を証明できます。
是非とも資料を挙げればよろしい。
> 国家権力…謗法
この点ですが、現在、公明党は政権与党となり国家権力の一端を担っています。
この公明党が一翼を担う国家権力には、なんら(創価学会教学で言う)謗法要素はないのでしょうか。仮に国家権力に謗法要素がある場合、なぜ創価学会はその非を責めないのでしょうか。
たとえば、大臣は個人的に靖国参拝をしないまでも、その長である総理が参拝する(学会が言う)謗法行為をなぜ阻止しないのでしょうか。阻止しない公明党も、それを是認する創価学会も「我等はやはらかに法華経を弘むべし」としか映じませんが、この点は如何でしょうか。
> 学の酒を酌み交わし、背信の傷を舐め合う卑怯者・裏切者の楽園
馬鹿馬鹿しい。仮に創価学会が日蓮の教えから逸脱したものと判断できれば、それを捨てることは、むしろ当然のことであり、また、卑怯でもありません。信じるに当たらないことに背くことはむしろ正義です。さらに言うことが嘘八百であったと思えば、それを捨てることは裏切り行為でも何でもありません。これまた、個人の善意に基づく選択です。まして、ここは創価学会の集いではないので、こんな下らない批判を受ける筋合いはありません。言葉に注意して、投稿するべきでしょう。
1695
:
itou
:2004/09/16(木) 21:59
すみません、どなたか教えてください。
今、宗門で問題になっている、花野充道師も書いている、「道心」という同人誌、購読するにはどうすればよいのでしようか。
1696
:
犀角独歩
:2004/09/16(木) 22:38
> 1695
もう既に回収され、花野さんは謝罪して幕引き、通常ルートでは手に入らないようです。
1697
:
某
:2004/09/16(木) 23:23
皆様 通りすがりのものです
「道心」誌の件ですが、例の29号は入手不可ですが、
創刊号から17号くらいまでは、神田の神保町の仏教書専門店
東洋堂さんの店頭在庫の存在を先週末確認してまいりました。
ご参考までに
失礼いたしました
1698
:
itou
:2004/09/17(金) 06:24
犀角独歩 さん
残念です。定期申し込みしたいのですが、方法をご存知でしょうか。
某さん
有難うございます。早速確認してみます。
1699
:
犀角独歩
:2004/09/17(金) 08:46
itouさん
> 定期申し込み…方法
残念ながら知りません。
いずれにても廃刊に追い込まれるんじゃないでしょうか。
今回の件から継続できるとは思えません。
続いても換骨奪胎して、顕師好みに、ではないでしょうか。
1700
:
itou
:2004/09/17(金) 13:00
廃刊ですか。それは残念です。ご丁寧なご回答、有難うございました。
それにしても、何か、花野師は、確信犯みたいですね、宗務院が黙っていない事を承知の上でゲイカ批判を書き、恫喝されたら、さっと引く。今の宗門では、こういうやり方しか出来ないのでしょうね。
とは言っても、宗務院も舐められたものだと思います。宗門現役住職による、公然たるゲイカ批判が文字になって一旦は発信された訳ですから。それだけ、ゲイカの力が落ちてきていると言うことだと思いました。
1701
:
犀角独歩
:2004/09/17(金) 13:21
itouトさん、なるほど。確信犯ですか。そうですね。いったん、出して回収したところで、内容はネットその他で漏洩するわけですから。
舐められた顕師もさることながら、やめない花野さんも呆れ果てた醜態であるとわたしは思います。
なお、『道心』廃刊か否かはわたしの予測ですが。
1702
:
平和創価
:2004/10/04(月) 18:07
愚鈍凡夫さん。
蓮祖が物心が付いてから御入滅までに起きた日食のうち、鎌倉で見て80%以上の食分が
あったものは7回ありました。和暦は旧暦、%は最大食分、時間は最大食分時です。
1237年嘉禎3年12月1日 88% 14時10分 記録あり 雨のため見えず
1243年寛元1年3月1日 80% 11時23分 記録なし
1245年寛元3年7月1日 86% 17時32分 記録あり
1249年建長1年4月1日 99% 11時42分 記録なし
1252年建長4年2月1日 91% 7時1分 記録あり
1275年建治1年6月1日 94% 12時3分 資料なし
1277年建治3年10月1日 96% 15時9分 資料なし
これはすべて鎌倉を基準にしています。蓮祖がおられた場所と多少のずれはあるとしても
それほど大きな差はないと思います。
私も愚鈍凡夫さんが仰るように、1275年建治1年の日食は『撰時抄』執筆の切っ掛け
であったかと思います。また1252年建長4年の日食は立宗宣言の切っ掛けではなかっ
たかとも思っています。
なおB.C.3000年から現代に至るまでの全日食の帯がパソコンで出せるようになれ
ば、世界史の勉強もより興味深いものになると思いました。
1703
:
通りすがり
:2004/10/04(月) 18:23
横レスですが、別に花野御尊師の文章は御当代批判というほどのものではありませんでしたよ。
単なる一般的な意見であり、それこそ創刊から現在まで何度もあった程度のものです。
それを、御当代批判文章だと宗内の某講頭が大騒ぎして、宗門もそれを鎮撫する意味で、形だけ問題にしたようです。
それが証拠に、道心は今のところ廃刊予定は無いそうです。
元々不定期刊でしたから、多少は時間を置いて発刊されるでしょう。
元々道心は、観妙院日慈上人の肝いりで出来た物でして、花野御尊師が創刊したものではありませんから、日達上人御遺弟(御当代の御弟子より多数)の方々がシンパですからね。
1704
:
愚鈍凡夫
:2004/10/04(月) 19:44
平和創価さん、これは小生が調べたものです。暇なときに確認してみてください(くれぐれも勉強に支障を来さない範囲で)。
蓮祖と日蝕
ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1223(貞応2)年09月26日----10月03日--------09月01日----02
1227(嘉禄3)年07月15日----07月22日--------06月01日----06
1233(天福1)年10月05日----10月12日--------09月01日----12
1237(嘉禎3)年12月19日----12月26日--------12月01日----16
1243(寛元1)年03月22日----03月29日--------03月01日----22
1245(寛元3)年07月25日----08月01日--------07月01日----24
1249(建長1)年05月14日----05月21日--------04月01日----28
1252(建長4)年03月11日----03月18日--------01月30日----31
1260(正元2)年04月12日----04月19日--------03月01日----39
1265(文永2)年01月19日----01月26日--------01月01日----44
1268(文永5)年11月06日----11月13日--------10月01日----47
1271(文永8)年09月06日----09月13日--------08月01日----50
1272(文永9)年08月25日----09月01日--------08月01日----51
1275(建治1)年06月25日----07月02日--------06月01日----54
1277(建治3)年10月28日----11月04日--------10月01日----56
1282(弘安5)年08月05日----08月12日--------07月01日----61
1705
:
平和創価
:2004/10/05(火) 17:09
>>1704
愚鈍凡夫さん。資料提供有難うございます。
私は興味があることに取り組むと、とことんのめり込んでいく性分で、疑問に思う
ことはいつまでも忘れないでいます。一昨日の夜は徹夜、今日は四時間睡眠という
ような勢いです。
さて私が「勤行について」の131で一字三礼さんにカキコした件については、どう
思われますか?何故御本尊の南無妙法蓮華経の七文字は髭のように跳ねているのでし
ょうか?私は御本尊の構成の基となった菩薩等の複数の腕と関係がありそうな気がす
るのですけれども。
1706
:
犀角独歩
:2004/10/05(火) 20:31
『素朴な疑問』スレッドに移動というご提案なので、そうしました。
> 蓮祖…南無妙法蓮華経の七文字……京都妙顕寺の日像…題目は跳ね文字
これは跳ね文字とは言わず、門下一般では光明点と謂われるところですね。墨の黒ですが、光り輝いている様を文字において図示したということです。ただ、像師は帝都弘教に先駆け、海中でその修行に励んだとき、波上に題目を感得したところを図示したので、あのようになっているというのが朗門の伝承ではありませんでしたか。たしか「波題目」とか言いましたか。
1707
:
平和創価
:2004/10/05(火) 21:01
犀角独歩さん。ご返事有り難うございます。
他のスレッドで私が申し上げましたが、北山本門寺の日興上人の御本尊の題目は
「波題目」ではなく、普通の文字でした。そうなると興師は蓮師の教えを繋いで
いないというような見解まで出てきますね。
独歩さんから紹介された蓮祖の御本尊と伝えられた御本尊を拝見させて頂きました。
ほとんどの御本尊は題目の字が流れています。何故に蓮祖はそのような形態を曼陀
羅にしたか問題に残りますね。蓮祖の曼陀羅と興師の曼陀羅の波題目の有無は蓮祖
と興師が直結ではないということの確証になるでしょうか。
ますます難しい(私にとって)問題になってきました。この問題は心に引っかかって
いて創価学会員の私としては、誰にも質問できないことでした。
1708
:
犀角独歩
:2004/10/05(火) 21:40
像師の場合は波題目でいいと思うのですが、日蓮大聖人門下一般では「髭題目」と言いますね。すね。
興師が漫荼羅書寫に関する特別の秘儀を伝受されたのかという点ですが、この点はれんさん、空き缶さんをはじめ、皆さんが非常に優れたご投稿してくださっています。
ですから、わたしが述べるのは僭越ですが、結論的に言って、そのようなことはないように思えます。
1709
:
平和創価
:2004/10/05(火) 23:12
では勇士が競って来てください!
私の教学に勝てる人はいるか!
ということですね。
1710
:
犀角独歩
:2004/10/06(水) 00:32
平和創価さん、はて?? という感じです。
勝ち負けにこだわるのは学会だけでしょう。
どうでもいいことです。
1711
:
大勇者
:2004/10/06(水) 21:58
平和創価さんのご紹介の菩薩のサイト拝見しました。
なるほど。という感想でした。
題目のビジョン化、イメージ化に意味があるかどうか判りませんが、
私はどちらかと言うと、
http://nichirenscoffeehouse.net/stupa.html
ストゥーパーのイメージです。
跳ねてるのは、「輪」を表してるのかなと思い描いていました(笑
飛曼荼羅(仏眼寺でしたか?)
の画像見てみたいのですが、どなたか知っていますでしょうか?
1712
:
平和創価
:2004/10/08(金) 04:30
大勇者さん。
今紹介された一番上の宝塔を中心にして、周囲に菩薩等が配置されているのを見ると、
宝塔が南無妙法蓮華経の題目の七文字で、宝塔の庇が題目の跳ねのように見えますね。
周囲の菩薩等は題目の周りに書かれてある、大日天王をはじめとする十界の生命にも
見えますね。
研究を深めていけば、驚くべき新事実が発見されるかもしれませんね。
私は御本尊の題目の跳ねは、菩薩の衆生を救おうとする慈悲の腕と手を表しているの
ではないかと思いました。いずれにしても題目の跳ねには深い意味があると私は思っ
ています。
1713
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 10:08
自分の固定観念から何でも当て嵌めてみると、思わぬ落とし穴に落ちます。
「生命」という語のように
1714
:
さかなこ
:2004/10/08(金) 10:20
>私は御本尊の題目の跳ねは、菩薩の衆生を救おうとする慈悲の腕と手を表しているの
ではないかと思いました。いずれにしても題目の跳ねには深い意味があると私は思っ
ています。
ええ??そうなんですか??私はあれはただのクセ字だと思ってたんですが…。
日蓮さんの字っていかにもクセのある男性の字って感じだから。
って平和創価さん初めましてですね。とりあえず学会員の子持ち主婦です。
脱会しないだけの名前だけ学会員ですが…。
1715
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 10:49
さかなこさん、蓮師の筆法は単なるくせ字ではないでしょうね。
七文字のうち、「法」の一字はそうなっていません。ですから、実に意図的に記されたものであると思えます。
「点を長く引き給ふ事如何、師の曰はく一閻浮提の内に妙法を流布せんとの慈悲深き流通精進の心なり、水の流れ絶へざるは日蓮の慈悲広大の義なり」などという相伝が生じるのも故無きもあらずと思えます。
1716
:
さかなこ
:2004/10/08(金) 11:00
独歩さん>>
へー。そうなんですか。意図的なんですか。個人的にあれはクセ字かデザイン的に
そうしたか…と思ってましたw。
日蓮さんはあの曼荼羅にはやっぱり特別な思い入れがあったのでしょうか…。
面白いですねc⌒っ*゚ー゚)っφ メモメモ...
1717
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 11:24
さかなこさん、そのようですね。
お茶のみ話程度にお読みいただきたいのですが、蓮師の花押は大日如来を表す種字、悉雲文字(梵字)を象ったものであるという説があり、となると、左右に愛染明王がやはり梵字で書かれていますから、法華漫荼羅のうえに、ご自身を大日如来に見立て・不動愛染を脇士にするもう一つの本尊図が隠されていることになるという説もあるわけですね。(…飽くまで資料手放しです。細かい突っ込みはロムの方も含めてご容赦ください)
1718
:
大勇者
:2004/10/08(金) 11:31
犀角独歩さん ありがとうございます。
>>1713
肝に銘じておきます。
ところでもうひとつ教えていただきたいのですが、
愛染と不動だけ何故あのような筆になるのでしょうか?あれは梵字なのですか?
基本的な部分ご教示ください。
1719
:
大勇者
:2004/10/08(金) 11:38
犀角独歩さん
あ〜すいません。
>>1717
を読む前に書き込んでしまいました。
1720
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 11:48
大勇者さん、そうでしたか。
まあ、以下、打ちましたので。
> 愛染と不動だけ何故あのような筆になるのでしょうか?
これは蓮師に係る大問題ですね。正確に答えられる人は古今、誰一人としていなかったでしょうね。もちろん、わたしもわかりません。
ただ、『御本尊七箇相承』には「梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり」とありますね。
まあ、簡単に言えば、梵字は印度から三蔵法師が中国に持ち込み、漢訳され、さらに和字として読まれた。今度は蓮師の仏法も漢訳され、さらに梵字に翻訳される先兆なのだと…。しかし、これは何故不動愛染のみ梵字であるのかの答えにはなっていませんね。
> あれは梵字なのですか?
これもまた、大問題ですね。梵字(悉雲文字)真四角とか真円に納まる形で記されることが一般的です。しかし、蓮師は縦に長く記していますね。まあ、梵字であると言われれば、そう見えますし、先に挙げたとおり、花押もそう見えます。でも、そんな蓮師の真跡遺文が残るわけでもなく、上古諸師の確実な資料があるわけでもありません。わたしは半信半疑で、やや梵字かな?寄りというところです。
1721
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 12:25
昨晩、ある方と話していたら、「自衛隊には創価学会員が多い」とマスコミ、また防衛庁関係者が語っているというのです。わたしは創価学会には35年間いましたが、周りに自衛隊員は一人もいませんでした。ですから、「そんなことはないでしょう」と応えたんです。でも、言い張られるわけでです。また「学会員である自衛隊員が国家機密を創価学会、公明党に漏洩することが問題になっていた」とも言うわけでです。
この辺の実否は如何なものでしょうか。どなたかレクチャーいただけませんでしょうか。
1722
:
大勇者
:2004/10/08(金) 14:08
犀角独歩さん ありがとうございます。
私は「弓」(愛染)と「刀」(不動)を勝手に連想(妄想)していました。
平和創価さん
「光明点」「髭題目」の件に関連つけしても
>>1717
の大日如来の説は興味が沸きますね。(大日如来は手は2本みたいですが、)マハーヴァイロチャナが「光り輝く」と考えると「瞬間の光」のような事を表現しているのかも。
参考までに
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/008.html
以下エキサイト翻訳での変換です。
日蓮が彼のhonzonに置くロータスの聖典の話に外部の図の最も著しい例は、Mahavairocanaです....上記の曼荼羅?ヘ含んでいます、含んでいる、2、他の、siddham、とは別に、それら、Arcala(Fudo)およびRagaraja(Aizen)アイコンの上部の部分で引かれた、ロータス経典のタイトルの側で。これらの2つの書記素を識別することは全く困難です。というのは、それらは標準の形式で引かれないからです。私は、曼荼羅の左側のsiddhamが不正確に書かれて、右側に記入されたsiddhamがtaizokaiのMahavairocanaの種子文字のうちの1つかもしれない間に、kongokai(amh)のMahavairocanaを表わすために使用される種子文字(shuji)であると思います。
1723
:
愚鈍凡夫
:2004/10/08(金) 14:26
>>1721
: 犀角独歩さん
「自衛隊にオウム信者が!!」といった話の亜流じゃありませんか。
最近では、「自衛隊に顕正会員が!!」っていうのをネットで見ましたよ。
数からいって、自衛隊に創価学会員がいたっておかしくないですが。
そのうち、「自衛隊で創価・顕正の代理戦争!!」なんて記事が「週刊新潮」あたりに載ったりして。
「自衛隊」幹部に浸透する信徒100万「顕正会」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/149.html
こういうのも、ありましたっけ。
極秘入手!! 池田大作氏と創価学会・公明党に関する公安 秘 調査報告書の戦慄
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/148.html
1724
:
犀角独歩
:2004/10/08(金) 16:36
愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
そうですよね、「オウム信者…話の亜流」「自衛隊に顕正会員」というのは仄聞しますが、学会員の自衛隊というのはどうもピンとこないわけです。
その人が語ったところによると、戸田時代から自衛隊である学会員が国家機密を漏洩してきたというのですよ。それが国会でも問題になったとまで言うのですが、どうもわたしには記憶がありません。まるで創価学会を庇い立てする気はありませんが、万が一、学会が自衛隊機密を自衛隊員を諜報として入手し、その前提で池田さんが特に中国や、民間外交をやっているとすれば、これは由々しき大問題ですね。まあ、しかし、こんなことが実際にあるかどうか。
そんな情報があれば、細大に拘わらず、他の方々も情報をお寄せいただければと思います。
1725
:
一会員
:2004/10/10(日) 14:30
はじめまして、このHPは最近知り、ほんの時々ですが見させていただいています。
私は学会員で、自衛隊のOBでもあります。
自衛隊の中に学会員はいますが、その割合は世間の学会世帯の割合より少ない程度ではないでしょうか。
自衛隊員といえど一人間です。自衛隊員以外の人と同じように喜怒哀楽・四苦八苦もあり、幸せや不幸に対する感覚・思いも同じです。
たまたま仕事が自衛官であるというだけです。
それから国家機密に関してですが、自衛官がその任務の部署で知る機密(最高の秘密)や秘、取扱い注意等は、例えば暗号とか、武器や武装艦艇の性能とかであり、これは極端に言うなら、ものによってですが、別の部署の自衛官にさえ開示することはしません。
それを守らなければ当然懲戒処分になります。懲戒覚悟で秘密を口外するほどのものって一体どんなものがあるのでしょうか?
通信機器の性能?潜水艦の潜水や能力や速度?人事?暗号?ミサイルの射程?防衛予算の使用明細?個人情報?
そんなものを公明党や学会にもっていったって、ただのゴミ情報でしょう(笑)
第一、今公明党は与党です。内閣の一員に大臣がいるし、副大臣もいるし、政務官もいる。防衛庁の秘密事項を知ることが立場にいるのです。
閣僚さえ知ることが出来ないもので、しかも自衛官なら簡単に手に入るという、創価学会がのどから手が出るほど欲しがる防衛上の国家機密って一体何?
具体的にそういうことを考えますと、件の話は、単なる井戸端会議の暇つぶし談でしかないということでしょう。
ちなみに、防衛大学生には学会員も顕正会員もいます。もし、そんな危険があるのなら、そういう人は入学させないでしょう。
そうそう、私が自衛隊の学校にいたとき、教官が学会員でしたよ。ハハハハ・・。
横から失礼いたしました。
1726
:
犀角独歩
:2004/10/10(日) 17:13
一会員さん、はじめまして。
至極尤もなご意見ですね。
たまたま、とある人と話しているときに、こんな話になったのです。わたしが創価学会の弁明をするのはロムの方すれば、奇異なことかもしれませんが、わたしは「そんなことはないでしょう」とその話を否定しました。
島田師『創価学会』(新潮新書)でも日本人の7人に1人は学会員(?)と記されていて、わたしは驚いたのですが、本当にそんな会員数かどうかは別として、この統計数を信じれば、自衛隊員の7人に1人が学会員であれば、平均数、それ以下であれば、自衛隊員になる学会員、会員数に比して少ないと考えるのが統計処理的な姿勢であろうと思った次第です。
貴重なご投稿を有り難うございました。
1727
:
愚鈍凡夫
:2004/10/11(月) 21:29
保田妙本寺の「万年救護本尊」についてですが、
総帰命の形を取りながら、四天王が省略されているのは何故なのか。といった謎もありますが、讃文について、聖滅後の他筆の可能性も含めて、漫荼羅図顕の時期と、讃文記入の時期が違うと考えられないでしょうか。もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。
「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」
この漫荼羅だけが「大曼荼羅」ではなく、「大本尊」とあるのは何故なのでしょう。これはこの漫荼羅の相貌に関係するのでしょうか。
以前にもこの話題で盛り上がっていた気もするのですが・・・・・。
1728
:
愚鈍凡夫
:2004/10/11(月) 21:37
誤→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1275(文永12)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。
正→もちろん、讃文が蓮祖真筆の場合は1274(文永11)年12月〜1279(弘安2)年12月の間と言うことになるのでしょうが。
です。 m(_ _;)m ゴメン!!
1729
:
中村
:2004/10/12(火) 02:00
創価学会は神社にお参り行っては行けないと言っていますが日蓮大聖人様も神社にお参りに行ってはいけないと言っていたのですか?御書で神道について批判をしていますか? 教えてください!
1730
:
犀角独歩
:2004/10/12(火) 10:04
1727 愚鈍凡夫さん:
大本尊讃文他筆説ですか、大胆ですね。
でも、わたしも全面的には否定できません。
文永11年、この時期、讃文の挿入はほとんど確定しておりません。先に挙がった第11号はたぶん他筆、大本尊の半年前の7月25日第13号には「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未曾有 大曼陀羅也得意之人察之」の讃文が見られます。この曼陀羅も実に特異ですね。おかしな例ですが、『立正安国論』の先魁に『守護国家論』があるように、第16号大本尊の先魁にある如くです。
第13号と第16号の讃文は「大覚世尊…二千二百二十余年…雖…」と言った言い回しが似通っています。
わたしは大本尊の讃文が図示の段階で添加されたものであったとしても「大本尊」が直ちに図示を指すのかということで、疑義を呈したことがあります。
つまり、「大覚世尊…大本尊…我慈父…隠留之…上行菩薩出現…始弘宣之」という文脈は、「大本尊」語は大覚世尊を指していると読むことはできます。また、これを余に始めて始弘するのが上行菩薩であるというのは『本尊抄』の寿量仏像を地涌千界が出現させるという考えとも一致します。ただ、第13号讃文と対比すれば、やはり、「大曼陀羅」と「大本尊」は用語の違いと見ることもできます。悩ましいですね。
いずれにしても、この時期で遺る第13号、第16号は他と抜きん出ていることは間違いなく、いっそ、この2舗は他筆ではないのかというあまりにも大胆な暴論を立てたい衝動に駆られそうになります。しかし、このようなことを言い出したら、空き缶さんのご叱責を被ることになるでしょう(笑)
1731
:
愚鈍凡夫
:2004/10/12(火) 11:38
犀角独歩さん、どうも。
「万年救護本尊」のあの讃文は、漫荼羅全体のバランスからいっても、隙間を埋めるように記されていることからいっても、漫荼羅図顕の後に書き加えられたことは間違いないと思います。
また、あの「漫荼羅」の副書に「本門寺建立之時、懸本御影堂 可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあり、本門寺本堂ではなく本門寺御影堂に懸けよとことわっているのは何故でしょうか。このことは、生御影の背後に漫荼羅を安置する奉安型式を連想させます。
この副書について疑問に思うのは、年記が「建治元(1275)年太才乙亥六月十七日」であることです。漫荼羅図顕が文永11(1274)年12月とのことですから、半年後に副書が書かれたことになります。この半年の間にどんな心境の変化が起こったのでしょうか(皆既日食を見た所為か?)。
それと、この御影堂に安置する「生御影」は誰なのでしょう?
蓮祖は、本門寺建立の時に蓮祖生御影を造立し、本門寺御影堂に「万年救護本尊」とともに奉安せよと遺命されたと言うことなのでしょうか。
もし、この讃文が蓮祖の手によって書かれたとしたら、その時点で、蓮祖は漫荼羅正意であったことの証拠になるのではないでしょうか。
「小生の仮説が根底から崩壊しそう」 ( ̄Д ̄;;。
1732
:
犀角独歩
:2004/10/12(火) 12:10
愚鈍凡夫さん、「蓮祖は漫荼羅正意」ならぬ、「大本尊正意」となりましょうか?
いま手元に資料がないのですが、この副書も蓮師の筆(ということになっていた)でしょうか。蓮師がご自分の御影像の造立を促したというわけですか?
漫荼羅正意、御影信仰、さらに本門寺、事檀思想が定着したあとの、後人の加筆と見なすのが学的判断となるでしょうか。
仮説は崩壊しませんでしょうね。
1733
:
犀角独歩
:2004/10/12(火) 12:19
そうそう、それから御影堂のことなんですが、たとえば三堂といった場合、本堂・御影堂・垂迹堂となるわけですね。門下一般では本堂は釈迦堂で一体仏安置ですね。けれど、石山では、どうなるのでしょうか。やはり、漫荼羅でしょうか。堂宇は、れんさんも引用してくださったとおり、それぞれの尊体を奉安するものですね。興師が建立した(とされる)三堂の本門寺根元が本堂かどうかはわたしは決し得ないところはありますが、それは置くとして、当時の御影堂に漫荼羅の奉懸はされていたのでしょうか。木像であれば、まあ、その可能性はなきにしもあらずですが、盗難事件に触れて、愚鈍凡夫さんが秀でた指摘をされた如く「御影一舗」でした。つまり、これは絵で、たぶん、掛軸ですよね。そうなると、御影掛軸の後ろに漫荼羅の掛軸を懸けたら見えなくなってしまいます。そうなれば、左右に並べ懸けることになるのでしょうか。しかし、これは考えづらいですね。これに準じて考えれば、仮にその後、木像に発展したところで、当初は御影像の後ろには漫荼羅奉懸はしなかったと見るのが自然のように観じます。つまり、御影堂はあくまで御影のみ、本堂は興門では漫荼羅、他門では釈迦像のみという奉安ではなかったでしょうか。
その類推からすれば、たしかに副書の文面は如何にも歴史性から逸脱していると思えます。
1734
:
愚鈍凡夫
:2004/10/12(火) 12:47
「建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」とあるのですから、意図するところは、蓮祖が何時何処で書いたかを示したものだと思いますが、小生も、この副書は偽作でなければ辻褄が合わないと思います。
「空き缶さんの呪いの藁人形が怖い・・・・・」(by 独り言) (O.O;)(o。o;)
興味深いのは、この「漫荼羅」に特別な意味を持たせたのは日道師か、日郷師か、それともそれぞれに連なる誰かか・・・・・。ということになるでしょうか。
1735
:
平和創価
:2004/10/12(火) 18:07
>>1729
中村さん。初めまして。
蓮祖の御書に一節をご紹介します。「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人
は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」『立正安国論』御書17頁。「此
の国は謗法の国土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多
くの人を導く」『新池御書』御書1440〜1441頁。天照大神は法華の守護神であり、謗法の国に
は住まないのです。天照大神や諸天善神はこの国にはおらず、神社には神はいないのです。しかし日本
が広宣流布したならば、天照大神や諸天善神がお帰りになってきて神社に神が戻られるのです。
創価学会が神社にお参りに行ってはいけないと言うのはそういう理由からなのです。天照大神に罪があ
るわけではないのです。広宣流布して天照大神や諸天善神がお帰りなされる時を待ちましょう。
1736
:
平和創価
:2004/10/12(火) 18:12
失礼。訂正します。
>蓮祖の御書に一節を→蓮祖の御書の一節を
です。
1737
:
犀角独歩
:2004/10/12(火) 22:35
平和創価さん:
『新池御書』は偽書ではないでしょうか。
それと、天照大神、八幡大菩薩という神が駄目ならば、何故、漫荼羅にはその二神の名称が書かれてあるのでしょうか。
また、興師が北山に三堂を建立し、垂迹堂(天照大神)、そして八幡社を建立したことは石山文献にも載るところではないでしょうか。
さて、これらの点は如何でしょうか。
1738
:
愚鈍凡夫
:2004/10/12(火) 22:55
横レス失礼します。
№16の保田妙本寺蔵漫荼羅をなんとなく眺めていて思ったのですが、この漫荼羅は元々№15の馬渕妙経寺蔵の漫荼羅と同じスタイルだったのではないでしょうか(紙の大きさは違いますが)。その曼陀羅に、蓮祖ではない誰かが讃文を書き込んだ。
何となく、そういうことじゃないだろうか。ふと、そう思いました。
1739
:
問答迷人
:2004/10/12(火) 23:18
愚鈍凡夫さん
確か、万年救護本尊は、目師が最後の天奏のとき、携行し、郷師が垂井より持ち帰ったのではなかったですか。もし、そうだったら、賛文を書き込む立場の人は、興師しか考えられませんが、内容的に興師と思われる部分は、本門寺の御影堂云々、に限定されるのではないでしょうか。大覚世尊云々の部分まで興師が書き込んだとは思いにくいです。他に例があれば別ですが。少なくとも、目師が天奏に携行したのが事実であれば、この万年救護の賛文はその時、既に認められていたと思うのです。そして、この本尊は特別扱いされていたと。
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