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素朴な疑問

1668犀角独歩:2004/08/05(木) 13:37

鎌龍さん:

> …トラブル…なにかしらの資料に確かに残っている

『地涌』あたりでも、取り沙汰していたと記憶します。
あそこの資料の‘扱い方’には問題がありますが、そこで引用される資料自体が全部虚偽と言うことではありませんから、解説部分を避けて資料だけ読んでみればよいと思えます。

> 弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めた…三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえ

弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかったことでしょうね。それがまず前提です。

前もある学会員がここにやって来て、豪語していましたが、「奉書写之」とあることから、石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人が大半でしょう。また、それを基本にして略して書かれていると思っている人もあるでしょう。
けれど、実際は随所で違うわけです。この点は問答名人さんともずいぶんと議論した点でした。

いずれにしても、石山歴代住職が書写してきた漫荼羅は、しかし「二千二百三十余年」となっているわけです。その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述してくださいました。愚鈍凡夫さんも加わってお出ででした。

石山で「本尊書写」の資料文献といえば『本尊三度相伝』がまず挙げられるでしょう。そこに「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」とあるわけです。また『三師御伝土代』にもそうありますし、伝・順師文献でもそうです。

わたしは『三師御伝土代』の記述が本当であれば、弘安2年10月に漫荼羅上に「日興上人」「二千二百三十余年」と書かれた漫荼羅を興師は授与されていたと思います。そして、その漫荼羅がいちおうの書写の素本になっていたのではないかと思うわけです。けれど、この段階では、まだいまのような形式にはなっていなかったでしょう。それは例えば「日蓮在御判」とあとになったところが「日蓮聖人」などとなっている例が見られるからです。これらの点もれんさん・空き缶さんが挙げてくださっていました。

要するに、本尊書写化儀は「之(本門戒壇之大御本尊)を書写し奉る」といういまのアナウンスとは裏腹に他の漫荼羅を手本にし、さらに随時、変更されて今のような形式になったという矛盾があるわけです。

正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのかとわたしは想像しています。


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