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素朴な疑問

1684ワラシナ:2004/08/15(日) 15:38
>>1662 【ひきこもりさんへ御返信(1)】
ひきこもりさん。御返信遅れましたが初めまして。

>私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気にしないことも私は気にする性格なのです。>

それは、他人と視線が掠っただけでも傷ついてしまうような、、、。またそれは身近な人との二言三言の会話にすら、異常な緊張を余儀なくされてしまう、、とかいう類のそれでしょうか。またそれは、終わってやれやれほっとするようなものではなく、心の中では次の精神的労働ー終了したばかり会話の再生ーのスイッチが自動的に入ってしまい、次々と湧き上がってくる思いというのが「さっきは本当はあー言えばよかった、こー言えばよかったのだ」とでもいうような後悔と自責感ばかりだったとしたら。、、もしこれだったら毎日が疲れて大変でしょう。

>そのような性格を信仰によって変えようと努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉していますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。>

御本人がそう感じた部分は否定できません。

>他宗では社会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようですが、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。>

御書みると登場人物で隠遁生活に入っている人が多い。地涌菩薩の描写をみても「常に静かなる処を楽い」「常に頭陀の事を行じて 静かなる処を志楽し 」(妙法蓮華経 従地涌出品第十五)とあり、「静かなる処」がお好きなようです。だから、他人はどうあれ自分専用の蛸壺空間を個人的に造る事は許されると思う。


>『パンセ』の次の言葉、、、部屋のうちに休んでいることができない」「私は無理をして自分の性格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。」>

だめな部分(=他人に太刀打ちできない負け必定)といけてる部分があって、いけてる部分を育てて武器にして生きていくのが理にかなっているのは分かりきった事、幸せな世渡りにはこれが得策と思われるのに、なぜ、好きでもない不得意な、か弱い部分を心の主軸に設定して、「試練を課す」「苦行」的不合理な生き方に燃え立ってしまったのか。当時はこの戦略こそ十全な生き方だと思ってしまっていたのだった(自分の場合)。
ここら辺の心理機構は自分でも答えが見つかっていません。多分心の中で正直さの基準にぶれ?が起きていたから思っています。

(御返信1 終わり)


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