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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1574愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:45

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その2

1228(安貞 2)年
  4月 7日 地震あり。(吾妻鏡27)
  5月15日 地震あり。(吾妻鏡27)
  9月 8日 地震あり。(吾妻鏡27)
  12月 6日 地震あり。(吾妻鏡27)

1229(寛喜 1)年
  2月 5日 申刻地震。17日戊刻大地震。(吾妻鏡27)
  3月 5日 天災飢饉により改元。(一代要記85)
  3月 8日 寅刻地震。28日酉刻地震。(吾妻鏡27)
  6月14日 未刻地震。26日未刻地震あり。(吾妻鏡27)
  8月12日 酉刻地震あり。(明月記)
  9月20日 地震あり。(吾妻鏡27)
  10月25日 未刻地震あり。(吾妻鏡27)
  11月30日 子刻地震あり。(吾妻鏡27)
  12月19日 亥刻地震。21日、26日祈祷。(吾妻鏡27)

1230(寛喜 2)年
 閏1月13日 地震、19日暁地震。22日にも地震あり、大慈寺の後山崩れる。(明月記)(吾妻鏡27)
  2月20日 丑刻地震あり。(吾妻鏡27)
  7月29日 早旦小地震あり。(明月記)
  11月 8日 大進僧都観基、御所に参内して云う。去月16日夜半陸奥国芝田郡に石が雨のように振る。
       内ひとつは、将軍家に進呈する。大きさ柚子の如く、細長い。(吾妻鏡27)(当代記※)

1231(寛喜 3)年
  4月15日 未刻地震。27日申刻にも地震あり。(吾妻鏡28)
  5月 7日 地震あり。(吾妻鏡28)
  7月15日 日出頃地震あり。室宿の火神動くという。(明月記)
  8月 8日 冬の如く寒し。(本朝年代記22)
  11月 6日 地震あり。(立川寺年代記)

1232(貞永 1)年
  1月 2日 大地震。(立川寺年代記)
  9月18日 地震あり。(吾妻鏡28)
 閏9月 8日 彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
  10月 4日 後堀河天皇、彗星の変により四条天皇に譲位。(百錬抄13)

1233(天福 1)年
       この年、地震により改元。(古事類苑)
  2月 8日 小地震。(明月記)
  9月27日 夜半に地震あり。(明月記)

1234(文暦 1)年
  2月 8日 大地震。(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
  9月16日 暁月前大地震。(明月記)
  11月 5日 天変地震により文暦に改元。(一代要記86)
  12月28日 霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。(震災予防調査会報告86)

1575愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:46

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その3

1235(嘉禎 1)年
  3月 1日 京で地震。星宿龍神動くという。14日にも地震。(明月記)
  3月13日 小地震の後、16日大地震あり。(吾妻鏡30)
  4月13日 地震、28日、29日、30日にも地震あり。(吾妻鏡30)
  5月 1日 地震、3日から5日にかけてと7日にも地震あり。(吾妻鏡30)
  5月 8日 天変地妖のため祈祷・徳政を行う。(吾妻鏡30)
 閏6月22日 地震あり。(吾妻鏡30)
  9月 1日 大地震。文治以後最大という。(帝王編年記24)
  9月19日 改元。地震頻発のためか。(一代要記86)
  9月29日 地震あり。(吾妻鏡30)
  10月20日 地震あり。(明月記)(歴代皇紀 4)

1236(嘉禎 2)年
  2月28日 地震あり。(吾妻鏡31)
  4月 1日 地震あり。(吾妻鏡31)
  6月11日 地震。22日と27日にも地震あり。(吾妻鏡31)

1237(嘉禎 3)年
  2月 1日 大地震。(皇年代私記)
  3月11日 大地震。(歴代皇紀 4)
  4月 7日 酉刻地震あり。(吾妻鏡31)
  6月 1日 卯刻大地震。元暦以後最大という。(百錬抄14)
  8月 4日 辰刻大地震あり。(吾妻鏡31)
  9月11日 地震。23日から24日にかけても地震あり。(吾妻鏡31)

1238(暦仁 1)年
 11月23日 天変により改元。(百錬抄14)
 11月29日 地震あり。(吾妻鏡32)
 12月 9日 地震あり。(吾妻鏡32)
 12月26日 阿蘇山噴火。黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)

1239(延応 1)年
  1月 2日 戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
  1月 4日 彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
       芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
  1月 8日 天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
  1月15日 評定始、彗星について論じる。17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
       祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
  1月18日 彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
  1月26日 戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
  2月 6日 夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
  2月 7日 天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
  4月16日 大地震。(吾妻鏡33)
  8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)
 11月12日 大地震。(吾妻鏡33)

1576愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:48

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その4

1240(仁治 1)年
  1月13日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  2月22日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  4月18日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
  8月21日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
     この年、阿蘇山噴火。池水45丈逆上する。(震災予防調査会報告86)

1241(仁治 2)年
  1月14日 戊刻地震あり。(吾妻鏡34)
  2月 7日 巳刻大地震。建暦年中の地震の如き。和田義盛謀反の前兆といわれるようになる。余震続く。(吾妻鏡34)
  3月 6日 辰刻地震あり。15日にも地震あり。(吾妻鏡34)
  4月 3日 鎌倉で地震。大津波で由比浜大鳥居内拝殿が流出。船十余艘が破損。(吾妻鏡34)
  7月 4日 地震。(吾妻鏡34)
 10月13日 亥刻地震。(吾妻鏡34)

1242(仁治 3)年
  2月   地震あり。(皇年代略記)
  6月 8日 寒気冬の如し。(平戸記 9)

1243(寛元 1)年
  5月23日 大地震。(吾妻鏡35)

1244(寛元 2)年
  1月 5日 大地震。(如是院年代記)
  7月 2日 地震あり。(百錬抄15)(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
  9月11日 地震あり。(吾妻鏡36)

1245(寛元 3)年
  1月18日 地震。20日にも地震あり。(吾妻鏡36)
  2月 1日 地震あり。(平戸記14)
  3月 1日 申・子両刻に地震。9日にも地震。(吾妻鏡36)(百錬抄15)
  3月 1日 寅刻彗星室壁の間に現れる。長さ2尺。京からも使者が来て同様の事を伝える。
       11日と16日に祈祷。天地災変祭を行う。19日にも祈祷。七座泰山府君祭を行う。(吾妻鏡36)
  5月   この月地震多発。(百錬抄15)(平戸記16)
  6月 8日 地震あり。(平戸記16)
  7月19日 雹が降る。(平戸記17)
  7月26日 丑刻大地震。家屋多く破損。27日記録もあり。(百錬抄15)(平戸記16)(興福寺略年代記)
  8月11日 地震あり。(百錬抄15)
11月   大地震。(立川寺年代記)
12月13日 地震。20日、21日にも地震。(吾妻鏡36)(立川寺年代記)

1246(寛元 4)年
  1月 2日 地震あり。(立川寺年代記)
  1月 5日 地震あり。(葉黄記)
  1月 6日 大地震。(百錬抄15)
  4月 2日 地震3回あり。(百錬抄15)
  4月 7日 霜、霰が降る。(百錬抄15)(葉黄記)
  4月12日 気象異変により、二社に奉幣する。(百錬抄15)(葉黄記)
  5月 7日 地震。24日にも地震あり。(吾妻鏡37)
  7月 2日 地震。5日にも地震あり。(吾妻鏡37)
11月   地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)
12月   地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)

1577愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:48

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その5

1247(宝治 1)年
 3月13日 地震あり。(百錬抄16)
 6月 5日 鎌倉と常陸に雪が降る(あるいは翌年か)。(本朝年代記26)
 6月 9日 地震あり。(編年記25)
 6月10日 地震、19日にも地震あり。(百錬抄16)
 10月28日 大地震。(吾妻鏡38)
 11月26日 大地震。(吾妻鏡38)

1250(建長 2)年
  5月   涼気のため、人多く綿を着る。(岡屋関白記 3)
  7月18日 大地震あり。余震数十回。(吾妻鏡40)

1251(建長 3)年
  1月19日 2回地震あり。(百錬抄16)
  6月26日 氷雨が降り、冷気冬の如し。(吾妻鏡41)
  7月18日 鎌倉に雪が降る。26日、翌8月3日にも雪。(本朝年代記)
  9月17日 地震あり。(岡屋関白記 2)
  10月23日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡41)

1252(建長 4)年
  5月 7日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡42)
  7月23日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡42)

1253(建長 5)年
  2月25日 午刻地震あり。(吾妻鏡43)
  4月 3日 申刻雷雨、地震あり。(吾妻鏡43)
  6月 3日 大地震あり。10日にも大地震があり、余震2回。(武家年代記下)(吾妻鏡43)
  9月16日 地震あり。17日とも言う。(百錬抄16)

1254(建長 6)年
  2月19日 地震あり。(百錬抄17)
 閏5月11日 地震。19日にも地震あり。(歴代皇紀 4)
  12月12日 地震あり。(歴代皇紀 4)

1255(建長 7)年
  12月12日 地震あり。6年とも言われる。(皇年代略記)

1257(正嘉 1)年
  2月23日 大地震あり。社、舎、堂倒壊。火災により焼死者あり。地割れで涌水あり。(和漢合運指掌図)(本朝年代記 2)
  5月18日 子刻大地震あり。(吾妻鏡47)
  8月23日 戌刻大地震あり。神社仏閣破損多数。山崩れ、家屋倒壊、地割れ涌水あり。
       中下馬橋辺の地面が割れ青い炎が上がる。祈祷を行う。(吾妻鏡47)(本朝地震記)(24日説:如是院年代記)
  9月 4日 地震あり。先月の地震の余震か。(吾妻鏡47)
  11月 8日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡47)

1578愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:49

日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その6

1258(正嘉 2)年
  4月22日 地震あり。(吾妻鏡48)
  6月24日 寒気、冬の如し。(吾妻鏡48)(暦仁以来年代記)
  12月16日 地震あり。(吾妻鏡48)

1259(正元 1)年
  3月12日 地震あり。(一代要記88)

1260(文応 1)年
  3月25日 地震あり。(吾妻鏡49)
  8月 5日 地震あり。(吾妻鏡49)

1263(弘長 3)年
  6月16日 冷気秋天の如し。諸人綿衣を纏う。(吾妻鏡51)

1265(文永 2)年
  1月15日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
  3月 9日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
  10月15日 阿蘇山噴火する。(阿蘇郡誌)
  12月14日 今暁彗星東方に見ゆ。国継、晴平、晴成彗星勘文を献ず。16日将軍変異を問う。
       18日彗星2尺余。27日夕彗星西方室宿に見ゆ。2尺色白。(吾妻鏡52)

1266(文永 3)年
  1月 1日 西方に彗星見ゆ。(吾妻鏡52)
  2月 1日 泥、雨のように降る。(本朝年代記 1)
  6月24日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)

1268(文永 5)年
  5月 4日 翌日にかけて地震。(吉続記)(本朝年代記 2)(編年記26)

1269(文永 6)年
  7月   阿蘇山御池煙を発す。(阿蘇郡誌)
  11月16日 吉二宮3回振動する。(一代要記89)

1270(文永 7)年
  11月15日 阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)

1272(文永 9)年
  3月10日 阿蘇山噴火。砂礫四方に散り、池水湧出す。(阿蘇郡誌)
  11月 1日 阿蘇山噴火し、火石降下する。(震災予防調査会報告86)

1273(文永10)年
  7月   下旬、阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
     この年、夏より地震数回。(増鏡10)

1274(文永11)年
    この年、阿蘇山噴火し、寶池が涸れ、田野が荒廃する。(阿蘇郡誌)

1281(弘安 4)年
  7月30日 九州地方北部で暴風雨。日本遠征中のモンゴル軍は、被害を出して退却。
 閏7月   阿蘇山噴火し、寶池鳴動。火石が降る。(阿蘇郡誌)

1579愚鈍凡夫:2004/07/20(火) 19:53

クソ長いレスになりましたが、ご参考までに。 m(_ _)m
資料は下記のHPから抜粋しました。

天変地異年表中世
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm

1580平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 17:07
>>1579 愚鈍凡夫さん
貴重な御資料の紹介有難う御座います。さて私は『立正安国論』の「日月薄蝕の難」
に注目しまして、先日シェスタさんから紹介された天文ソフトから日食の日時を調べ
ましたところ、立宗宣言の1253年までのたった10年間に関東地方に4回も食8
0%を越える日食があったことが分かりました。特に1249年5月14日、11時
43分の日食は現在の東京の位置でで98%欠けていますから皆既日食であったと言
ってもいいでしょう。また立宗宣言の前年の1252年3月12日、7時1分の日食
も92%欠けていますからこれも皆既日食と言っていいと思います。なお20世紀に
は関東地方で見られる80%を越える日食は1918年6月9日、1943年2月5
日の日食の2回しかありません。奇しくも1963年の今日7月21日の皆既日食は
根室でしか見られず、東京では最大87%まで欠けた午前4時9分にはまだ太陽も月
も昇っては来ていませんでした。太陽は4時41分、月は4時42分に昇り、もう日
食は終わりにさしかかっていました。13世紀には関東地方では80%を越える日食
は10回もありました。また日蓮大聖人が立宗宣言をされる前15年間には1237
年12月19日14時10分、88%食の日食を合わせると5回も日食が起きていま
す。大聖人はこのような現象を末法の事実と受けとめられ、立宗宣言をされたのかと
思います。この15年間の関東地方の日食の回数は極めて多かったようです。愚鈍凡
夫さんが紹介された『天変地異年表中世』とシェスタさんが紹介された「金井式天文
シュミレーション」を対比されて日蓮大聖人の思考の推移を科学的に考察されてはど
うかと思います。私がぶつかったのはその日の安房小湊の気象です。気象庁には19
81年からの東京の天候の記録はあるとのことですが、それ以前まして鎌倉時代のこ
とは古文書で調べるしか方法がないとのことでした。でも例え曇りの日であっても、
80%以上太陽が欠けたならばその異変には人は気付く筈だと思います。相当濃い雲
が掛かっていたとか、雷雨であったとか、そのような時には気付かないこともありま
しょうが、1237年12月19日、1243年3月22日、1245年7月25日、
1249年5月14日、1252年3月12日という日を考えますと、1245年と
1249年以外は雷雨であった可能性は極めて低いと思います。大聖人の末法の法華
経の行者としての確信はこのような自然現象との関係から強められたのではないかと
思います。

1581犀角独歩:2004/07/21(水) 17:16

> 1580

横レス失礼します。
ご指摘の点、実に興味深く拝読しました。
これが事実であれば、仰るとおり、蓮師は「日月薄蝕の難」を実際のことと、危機感を持ってご覧になったことは想像に難くありません。
実に重要なご指摘であろうかと存じます。

1582平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 17:48
1252年3月12日(ユリウス暦)は建長4年2月1日に当たります。日蓮大聖人
の御生誕の日は承久4年2月16日、ユリウス暦1222年3月30日、グレゴリオ
暦4月6日です。大聖人はこの建長4年2月1日の丁度30年前に誕生されています。
大聖人はこの日の朝の日食を御覧になったのではないかと思います。自分が産まれた
丁度30年後の2月の1日に日食が起こったことが、立宗宣言の引き金になったのか
と思います。皆さんどう思われますか?あくまで科学的に冷静に日蓮大聖人と私達の
宗教を考えていきたいと思います。

1583平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 18:18
>>1581 犀角独歩さん
御返事有難う御座います。シェスタさんから紹介されなければこのようなことは、
全く分からないままであったのですが、建長4年2月1日1252年3月12日
(ユリウス暦)、の日食の最大食の時間は午前7時1分でした。日蓮大聖人はそ
の翌年の建長5年4月28日、1253年5月26日(ユリウス暦)の朝に太陽
に向かって南無妙法連華経と唱えらたそうです。それが事実ならば前年の朝の日
食を想定されて世の中を不幸から救わなければいけないと思われていたのかも知
れません。大聖人が何故朝に太陽に向かって南無妙法連華経と唱えられたかとい
う素朴な疑問も科学的に解明されていく時代が来るのではないかと思います。

1584平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 18:30
>>1581 犀角独歩さん
ここから私はダウンロードしました。
       ↓
http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se049708.html

1585犀角独歩:2004/07/21(水) 18:42

平和創価さん:

1582、3もまた実に目を惹かれたご指摘でした。
一つ質問させてください。

蓮師は、建長6年6月25日に保田妙本寺に遺る不動・愛染感見記を認めています。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/124.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/125.html

***
生身愛染明王拝見
正月一日日蝕之時 {梵字にて記入あり}

{画}

大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏

{下段}
生身不動明王拝見
十五日より十七日に至る {梵字にて記入あり}

{画}

大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏
***

ここに「正月一日日蝕之時」とあるのですが、文脈からすれば、建長6年(1254)の正月1日だと思うのですが、このときに日食はあったのでしょうか。

1586愚鈍凡夫:2004/07/21(水) 21:16

平和創価さん、レス有り難うございます。
平和創価さんのレスの中の日付を旧暦に直すと下記のようになるかと思うのですが、

ユリウス暦------旧 暦
1237年12月19日→嘉禎3年12月1日
1243年3月22日→寛元元年(仁治4)3月1日
1245年7月25日→寛元3年7月1日
1249年5月14日→建長元年4月1日
1252年3月12日→建長4年2月1日

なかなか暗示的で面白いですね(日食は新月の日に起きるわけですから当然ですが)。
京の貴族なんかは日記を記すのを生業にしていた者たちもいたわけですから(天文学者としての陰陽師もいたわけです)、何らかの形で記録に残っていると思うのですが、鎌倉時代の日食に関する資料が乏しいのはどういうわけでしょうか。不吉であるから、権力によって削除されたのでしょうか。

日本で一番古い日食の記録は247年3月24日(西暦)の日食ですよね(魏志倭人伝)。シュミレーションでは九州地方では完璧な皆既日食だったとか(邪馬台国九州説の傍証)。これが俗に言う、天照大神の天石戸伝説になるわけですよね。
歴史に残らなかったのは何故だと思いますか。

1587平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 21:43
>>1585 犀角独歩さん
御返事有難う御座います。天文シュミレーションのいかなる方法をもっても日食は
出ませんでした。そうなると文献は虚偽となりますか。難しい問題になりましたね。

1588犀角独歩:2004/07/21(水) 21:54

1587 平和創価さん:

やはりそうですか。わたしなりにも皆さんがご教示くださったソフトを使って調べてみたのですが、どうもこの日蝕の記事は証憑性がないと思いました。

1589平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/21(水) 21:56
>>1586 愚鈍凡夫さん
これは部分日食でしたよ。皆既に至る前に日没していますよ。247年3月24日
をシュミレーションしましたが。私は「ディスタントサンズ2」と「星空博士」
で見ましたが。ステラナビゲータV6ではできすか?私は「バーナード星」を体験
版で検索したのですが出てきませんでした。まあお互いに切磋琢磨していきましょう。

1590愚鈍凡夫:2004/07/21(水) 23:55

平和創価さん、247年3月24日(3月1日)の日食は中国で観察された記録を輸入したものですよね(「魏志倭人伝」中国での日食観測は夕方ではなく昼間であった)。面白いことに明くる年(248年)9月にも日食があったんですよね。これは記録に残っています。247年は実際には日没時、248年は夜明け頃(中国では日食が終わったあとに夜明けとなったため、中国側には日食の記録がない)。面白い対比ですね。卑弥呼はこの日食が原因で殺害されたのではないかという説があるそうです。

> 九州地方では完璧な皆既日食だったとか

済みません。
「すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、くにの内常闇にして、昼夜の相代も知らず。」
このことと、邪馬台国九州説が頭にあったものですから。

西暦247年3月24日と248年9月5日に皆既日食があったことが今日では産能大学教授安本美典氏らによって天文学的に証明されているそうです(完璧な皆既日食ではないようですが)。

ところで、鎌倉時代の日食の記録が見つかりませんね。 ( ̄〜 ̄;) ウーン

1591空き缶:2004/07/22(木) 01:15

 横レスです。
 話題からそれますが、「不動愛染感見記」は以前、某掲示板にて日蓮宗の御僧侶が疑義を表明されていました。
 その御僧侶曰く、「日蓮」と名乗り始めて間もない頃の著作であるにもかかわらず、晩年近くの筆跡と照合し真筆判定されていることを理由とされていました。

 あわせまして、曼荼羅本尊の場合と同じく、年月日の「年」と「月日」の間に「干支」が入っていない事は、大きな疑問でもあります。

1592犀角独歩:2004/07/22(木) 01:33

空き缶さん、ちょっと、お久しぶりです。
どなたの説か知りませんが、なかなか説得性がありますね。
わたしはこの書で、いちばん疑問に思うのは「日蓮授新仏」の5文字です。
ここで言う「新仏」とは相承を受けた新しい弟子を言うのだと思います。故に日蓮が大日如来より23代目の相承を受けたものと解されてきました。
しかし、「日蓮授新仏」とは単純に漢文の訓読すれば「日蓮は新仏を授けた」とまったく逆の意味にしかなっていないません。つまり、この書は日蓮が誰がしかに新仏を授けた証であっても‘授けられた’証にはなっていません。
こんなはじめの一歩で躓いているように思えます。

1593シェスタ:2004/07/22(木) 08:33
平和創価さんへ

仏法でいうところの三災七難に、通常の日蝕・月蝕が入っているのかどうかは
知りませんが、それよりも、蝕でない日に起こる蝕を、仏法では重要視してい
るのではと推察しています。以下は、その文証です。

●唱法華題目抄
「此の時日月度を失ひ、時節もたがひて、夏はさむく冬はあたたかに、秋は悪風吹き
 赤き日月出で、望朔にあらずして日月蝕し、或は二つ三つ等の日出来せん。大火大風
 彗星等をこり、飢饉疫病等あらんと見えたり。」

●安国論愚記
薄蝕恒無く文。
『従義に云く「体現じて光なきを薄と為し、正虧けて体を損ずるを蝕と為す」と云云。
 晦朔の日蝕、望日の月蝕はこれ恒なり。臨時の食あり、これ恒なきなり。』

とあるように、新月や満月の日に日蝕・月蝕が起こるのは常の事だが、望朔以外の日に、
蝕が起こっている不思議をあげられ、これらは三災七難の「薄蝕恒無く」に該当すると
言われています。

1594愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 10:04

鎌倉時代の日蝕の記録(「吾妻鏡」より)

建久9年(1198)1月1日 日蝕(明月記)
建保2年(1214)9月1日 壬成 晴 巳午兩時日蝕正見五分
貞應2年(1223)9月1日 庚子 今曉甚雨及日中翎 天未二尅日蝕正現三分蝕
寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず
建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す

平和創価さん、下記は「吾妻鏡」の記録です。

嘉禎3年(1237)12月1日 戊寅 雨降る 日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。

寛元元年(1243)3月2日(1日の記録なし) 戊寅 天晴 亥の刻若君の御祈り。御所に於いて七座の泰山府君祭を行わる。定昌・泰貞・晴賢・宣賢等の朝臣、国継・廣資・以平これを奉仕す。秋田城の介・甲斐の前司・能登の守・周防の前司等これを沙汰す。今日京都の使者到着す。改元の詔書を持参す。去る月二十六日仁治四年を改め寛元元年と為す。

寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず

建長元年(1249)4月1日 記録なし

建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す

「吾妻鏡」の記録を信用すれば、蓮祖が日蝕を見た可能性は寛元3年(1245)7月1日と建長4年(1252)2月1日ではないでしょうか。小生は、『天文シュミレーション」系のソフトは持っていませんので、「ステラナビゲーター」の精度は分かりませんが、天文ファンの間では定番ソフトのようです。また、複数のソフトでシュミレーションする方が多いようですね。
それは、実際の月が楕円軌道で、29.3〜29.8ぐらいの誤差があり、1日が厳密には新月でなかったり、15日が必ずしも満月でなかったりするからだと思います。

犀角独歩さん、
建長6年(1254)1月1日、鎌倉は朝から雪で、午前10時頃に晴れてきたようですね。
「一日、乙亥(いつがい)。今日[土宛]邗(相州御沙汰)。土御門宰相中将上御簾。」とあり、例年通りのセレモニーが恙なく行われたみたいですから、日蝕はなかったようですよ。

参考資料

吾妻鏡目次
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html

1595犀角独歩:2004/07/22(木) 10:12

空き缶さん、先の不動・愛染感見記のことなのですが、わたしは、この書の筆跡で言えば、「日蓮」の二文字に注目します。「日」字もそうですが、特に「蓮」の之繞の書き方は後期の蓮師の筆とはまったく違っています。その意味で、この書を晩年の蓮師の筆で筆跡鑑定したというのは少し頷けません。

また、干支が記されていないことからの疑義を挙げられていましたが、建長5年(1253)12月9日『富木殿御返事』から、正元元年(1259)7月17日『武蔵殿御消息』では日付ばかりで年すら記されていません。建長6年の段階で干支が記されないことは鑑定の基準にならない気がしますが、この点はどうでしょうか。

この書の全体的な印象はしかし、消息文、勘文というより、何か証文のような体裁に見えるわけです。先にも記しましたが、「日蓮授新仏」(日蓮は新仏を授ける)という最後の件からしても、そのように思えます。わたしは、これら相承・伝授証文の原本を見たことがありませんので断定的に申し上げるわけではないのですが、高座説法から1年余を経た年月の入る同書は、たとえば、蓮師が弟子に与えた允可文などの類であった可能性はないのでしょうか。もちろん、この書が真筆であればの話ですが。どうでしょうか。

1596犀角独歩:2004/07/22(木) 10:30

愚鈍凡夫さん:

> 建長6年(1254)1月1日…日蝕はなかった

有り難うございます。
こうなると愛染感見記が真筆であれば、記される日蝕は「薄蝕恒無」こととなるのでしょうか(笑)
まあ、この可能性も低いでしょうね。

『富士年表』では

建長 6 甲寅 後深草 北条時頼 御歳 33歳
1.1-1.15 生身の愛染・不動を感見模写

と模写としています。ここで石山が「模写」というのは愛染・不動を絵に描いたことをいうのでしょうね。文面からすれば、「日形」(日蝕)に愛染を感見、「月形」に不動を感見となるわけですか。後者は「十五日より十七日に至る」とありますが、これは特に月蝕である必要はないのでしょうか。シンメトリーが悪い気がします。

この書の真偽、日蝕の有無はさておいて、いずれにしても愛染感見に日蝕が必要な条件であったというバックグラウンドはあったのであろうと想像できます。まあ、この辺当たりまでしか真実には近づけないでしょうか。

1597空き缶:2004/07/22(木) 11:30

犀角独歩さん、こんにちは。

 蓮祖後年の著作と比較して云々は、以下よりの転載です。

******************************************
「日蓮宗的学説攷究」未定稿 大川善男
 【不動・愛染感見記】

 『真蹟集成』によると、この遺文は次の如く、 (図絵・略)
と二紙から成っている。
 しかるに、『定本遺文』(第一巻十六頁)外部欄外には、愛染明王拝見記を「七行」、不動明王拝見記を「八行」と注記している。だが、右の通り(図絵)原本は愛染は十行、不動は十一行に記されている。また『定本遺文』は「日虫虫」を「日蝕」と活字化している。そして『定本遺文』を証本として、「二つの感見記のうち、愛染明王のそれには、日蝕中の太陽のなかに感見した愛染明王の姿の図絵が、不動明王のそれには、満月中に感見した明王の姿の図絵が、それぞれ描かれている。」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)と説いている。しかし「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味の正しい漢字であって、「日虫虫」とは「日が明るい」という意味であって「昼日中」のことである。従って「日虫虫」を「日蝕」と理解して「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と説いた論考は正しくない。
 いわゆる、この感見記の年記は建長六年であるが、この年(1254)日蝕ではない。建長年中に日蝕があったのは、同元年五月十四日(旧暦六月六日)同七年三月一日(旧暦四月八日)の二回である。ならば日蓮が誕生した貞応元年(1222)から建長六年(1254)の間の日蝕を調べると、貞応二年(1223)九月二十六日、延応元年(1239)十二月十九日、寛元元年(1243)三月二十二日、同三年(1245)七月二十五日、建長元年(1249)五月十四日の五回の日蝕(※国立三鷹天文台調べ)があったが、正月一日に日蝕があったことは無く、「日蓮が正月一日の日蝕時に愛染明王を感見した」というのは単なる虚妄に過ぎない。また、「この感見記は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてもよいものである」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)という説もある。だが、若き頃の筆跡を後年の筆跡と比べて真偽を判定するのは正しい方法だろうか。要は、この御書にはいろいろな疑問があっても、これが重要文化財に指定されているために、現在では何ら疑われることなく日蓮の御書として扱われている。しかし、重要文化財に指定されているといえども、重要文化財に指定されたものの中にも実際には偽書はある。故に、重要文化財に指定されているからといっても完全なものばかりではない。
 例えば、重要文化財に指定されていた「永仁の壺」が、現在陶芸家で先頃亡くなった加藤唐九郎氏の作品であった如くものもある。いわゆる、指定品の中にはそうしたものが実際にあり、それは文化財が完全に科学的検査を経て真物と解って指定されたものばかりではなく、真偽委員の眼力のみで真物と判定・答申された指定品もある。そういう指定品の中に偽物があり、文化財に指定された日蓮聖人の御書は、凡そ一部の権威による眼力で真蹟と判定されたもので、科学的に鑑定されたものは一点も無い。
 従って、いくら重要文化財に指定されていると雖も、該『不動・愛染感見記』も完全に日蓮聖人の真蹟と断定できるものでなく、偽書の疑いが全く無いわけではない。
******************************************

尚、日蝕に関してもほぼ皆様と同様の疑問をもたれていたようです。

―転載開始―
「不動・愛染感見記」について。
開宗後に、大日如来よりの相承云々とあるのは、どうも腑に落ちませんね。
講習時の配付資料を見ると、たしかに「日虫虫」のようです。
「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味であるなら、大川義男博士の指摘のように「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいですね。

国立三鷹天文台調べでは、建長六年正月一日は日蝕でなとの事からも「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいと云う事になりますね。

「不動・愛染感見記」はどうもすっきりしないですね。
―転載終り―

1598愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 11:51

日蝕の中に「愛染明王」を感見し、満月の中に「不動明王」を感見したということですよね。
絵の中に「カラス」と「ウサギ」がそれぞれ描かれているのが、何となく、わざとらしい感じがするのですが、まぁ・・・・・知識による刷り込みと、神秘体験の合作なんでしょうか・・・・・。
日蓮という人物のイマジネーションの豊かさの成せる技なんでしょうか・・・・・ね。

要伝寺HP_日蓮画廊
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents35.html

1599犀角独歩:2004/07/22(木) 11:54

空き缶さん、資料のご呈示有り難うございました。
記されているところ、納得がいきました。筆者の真摯な姿勢と文章に感銘を受けました。それを引用された空き缶さんにも敬意を表します。
たいへんに参考になりました。深く御礼申し上げます。

日[虫*虫] は、日「あきらか」であれば、煌々とした日輪のなかに愛染を見、また煌々とした満月に不動を見たということですか。
なるほど。納得できました。1596の「日蝕・バックグラウンド」発言は撤回させていただくものです。

1600愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 12:18

空き缶さん引用の下記の表記は総てユリウス暦ではないでしょうか(かっこ内は旧暦)。

貞応二年(1223)九月二十六日(9月1日)
延応元年(1239)十二月十九日(11月23日)?
寛元元年(1243)三月二十二日(3月1日)
同三年(1245)七月二十五日(7月1日)
建長元年(1249)五月十四日(4月1日)

「あ〜、ややこし」 (-。-;)

1601犀角独歩:2004/07/22(木) 12:57

愚鈍凡夫さん:

> 吾妻鏡…蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立

というのは、日蝕の時分に愛染に係る仏像を造立したという意味でしょうか。
そうなると、日蝕と愛染は関係があることになりますか?

1602空き缶:2004/07/22(木) 13:21

愚鈍凡夫さんこんにちは。

>ユリウス暦・・・けっこうはまってしまいましたね。

1603愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 13:58

犀角独歩さん、
何故、愛染金剛如法佛(五指量:二寸五分)のミニチュア(白檀製守本尊)を造立したのでしょうね(この日は日蝕はなかった)。
これは想像ですが、「金剛薩た=大日如來=金剛愛染菩薩」ですから、火炎の日輪で日蝕の邪気を払うという意味合いではないでしょうか。

1604犀角独歩:2004/07/22(木) 14:31

愚鈍凡夫さん、度々済みません。

> この日は日蝕はなかった

「雨降る 日蝕正現せず」というのは、、晴れていれば日蝕が見られたのに雨が降ったので見られなかったというのが『吾妻鏡』の記述ですよね。
それとは別に愚鈍凡夫さんは、天文シミュレーションソフトなどから、この日は日蝕が見られた日ではないと、こう仰っているのでしょうか。となると、「蝕時」というのは、何を意味するのでしょうか。

> 火炎の日輪で日蝕の邪気を払う

と来ますか。これはまるでわたしは逆に読みました、日蝕という神秘的な時分を選んで造立したと。

ぜんぜん違っているかも知れませんが、要するに日蝕を選んで仏像を造立(法要?)をしようと思ったけれど、雨が降ってそれが見られなかった。けど、法要はした程の意味かと思いました。
それで、その前提に日蝕=愛染というバックグラウンドがあるのではないのか。けれど、『愛染感見記』では日[虫*虫]=日があきらかで、日蝕ではなく煌々と輝く日輪に愛染が映じたというまるで逆のバックグラウンドがあるのであろうかと、愚鈍凡夫さんと空き缶さんのご投稿を交互に拝読しながら思っていたという次第です。

暦のことも併せて、ほんとになんだかややこしくなってきました。

1605愚鈍凡夫:2004/07/22(木) 15:39

「ああ〜、ややこしなってきた」 イヤイヤ"o(><o)(o><)o"イヤイヤ

平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったそうですね。
この時代の天文学者もこの日に日蝕が起こると予想したのではありませんか。従って、「蝕時分に」とは、「日蝕が起こると予想された時間」にという意味ではないですか。

12月2日 己卯 昨日蝕御祈り勤行の僧三人、今日御所に召され、各々銀劔一腰を賜う。伊勢の守定員これを奉行す。

12月10日 丁亥 日月蝕及び天変重疉の御祈りの為、御所に於いて属星御祭を行わるべし。将軍家祭庭に出御有るべきに依って、今日晴賢これを奉仕せんが為参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服の人々参入すべからざるの由仰せらると。

と、「吾妻鏡」にありますから、日蝕月蝕は凶相のようですね。

なお、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったかどうかの資料は「吾妻鏡」以外に見つかりませんでした。

1606犀角独歩:2004/07/22(木) 15:54

愚鈍凡夫さん、有り難うございました。

> 日蝕月蝕は凶相

なるほど。これはポイントになりますね。
暦から日蝕月食が予想できたとしても、それを凶相(天変)と見、その時に悪いことが起きるので祈祷を、というのがまあ思惑の流れだったのでしょうね。

平和創価さん、

> 平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕

と愚鈍凡夫さんは仰っているのですが、これは何に基づくものでしたか。
慣れない日付が飛び交い、混乱しています。既に記されていると思いますが再掲いただければ有り難く存じます。もし、この日に日蝕を『吾妻鏡』の記述者が予測していたとすれば、この暦を当時は使用していたことになるでしょうか。

1607空き缶:2004/07/22(木) 16:49

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、お疲れ様です。皆様の卓越した、広範な知識には敬服致します。

 私は数字はめっぽう苦手なので、早々おいとまさせていただきます。(逃げ!)

1608平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/22(木) 18:47
>>1606 犀角独歩さん
嘉禎3年12月1日(宣明暦、862年〜1684年使用)はユリウス暦では1237年
12月19日に当たります。私はユリウス暦を基にした天文ソフトの「ディスタントサン
ズ2」と現在の「ステラナビゲータV6」の原型である「星空博士」という2つのソフト
を使って嘉禎3年12月1日、1237年12月19日(ユリウス暦)で調べたところ両
方のソフトで日食を再現することがでかました。天津小湊は東経140度10分、北緯3
5度10分辺りに位置しています。この位置に合わせてシュミレーションして日食が再現
され、かつシェスタさんから紹介されたサイトから「金井式いろいろ天文シュミレーショ
ン」をダウンロードして日食を調べたところ、天津小湊で同日の14時11分に89%の
大きい日食を確認することができました。これらのソフトは極めて正確なソフトであり、
推古天皇36年3月2日、628年4月10日の皆既日食(近畿地方が中心)を正確に再
現しています。推古天皇36年3月2日の日食という記述は『日本書紀』に記載されてい
ます。これをユリウス暦になおすと628年4月10日になります。また平凡社の百科事
典の「日食」の所にも同様のことが記載されています。愚鈍凡夫さんが引用された『吾妻
鏡』の日食の記載は真実を記録したものと思います。

1609平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/22(木) 19:03
>犀角独歩さん
『日本書紀』を引用します。「日本古典文学大系68『日本書紀下』」岩波書店。212頁。
日本書紀巻第二十二、推古天皇の章「三十六年の春二月の戊寅の朔甲辰に、天皇、臥病したま
ふ。三月の丁未の朔、戊申(二日)に日、蝕え盡尽きたること有り。壬子に、天皇、痛みたま
ふこと甚しくて、諱むべからず(死を避けることができない)。」これは「日、蝕え盡尽きた
ること有り」という表現から皆既日食であったと思います。またこの時代から既に日食は不吉
なことが起きる前兆と考えられていたことが推察されます。

1610犀角独歩:2004/07/22(木) 19:07

平和創価さん、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。

1611信濃町探検団:2004/07/22(木) 21:32
御秘符について、詳しく教えてください
日顕上人のときもやっていたのですか?

1612シェスタ:2004/07/23(金) 08:58
平和創価さんが使用されているソフトは以下です。一応 URL を貼っておきます。

tenmon
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/edu/se049708.html

ザ 暦 イン 日本書紀 (こちらも紹介しておきます)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/personal/se049621.html?g

1613シェスタ:2004/07/23(金) 09:25
日食・月食検索の件ですが、オンラインでもかまわないのなら、先に紹介した
暦のページでもできます

暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/

左側のフレームにある、日食シュミレート・月食シュミレートで行ないます。
観測位置も入力可能です。ただ、ちょっとコツがいります。

推古天皇36年3月2日(628年4月10日)の皆既日食を例にとります。

まず、西暦に628を入力します。次に前年ボタンを押します。そして、再度、
次年ボタンを押して、元にもどしてください。こうしないと、年度を認識しな
いようです。

次に、候補にあがっている4月10日のボタンを押します。すると、シミュレ
ーションが始まります。

1614犀角独歩:2004/07/23(金) 10:11

信濃町探検団さん、はじめまして。
わたし自身、興味を懐いてきたテーマなので、知る限りでお答えします。他の方の補完をお願いしておきます。

たぶん、御秘符というのは、蓮師以前から秘儀であろうと思いますが、中世では、蓮師の真筆文字を切り取り、それを呑むことが行われたとのことです。これも御秘符の変形であったろうと思えます。また、近年では「戒壇之大御本尊」への年一度の法要・御煤払で拭いた紙を御秘符にすると言われてきました。(煤払法要は湿らせた紙で彫刻漫荼羅の表面を拭き清める法要です)しかし、実際、石山が下ろす御秘符は樹脂に塗られた粉を水で溶き、服用するもので、これは朱色で煤とは思えません。それが何であるかは、もちろん、公開されていません。

なお、昭和50年前後のことであったと思いますが、創価学会では、この御秘符とは別に「御符」というものを本部・会館から下ろされたことがありました。たぶん知る人は少ないでしょう。この御符は学会本部安置「慈折広宣流布大願成就」の‘板本尊’の煤払で使った和紙を小さく切ったものであったと記憶しています。これは石山秘儀を模倣、侵害するものとして当時、秘密裏に中断されたものでした。記録にも、歴史にも残らないので、証拠を挙げろと言われてもいまは不可能ですが、当時、わたしの知り合いの学会本部職員が、小さく切り分ける前の大きな和紙をわたしに示し、「具合が悪いのならば、御符を上げるよ」と言われたことがあり、その存在を知ったものでした。

以上、中世から近代の変形した御秘符の有様です。

興門における、その起こりは以下の朗師が興師に送った消息にその原型を見ることが出来ようかと思います。

『伯耆公御房消息』
「御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。
 兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰(とらうたつ)の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。
  二月廿五日                   日朗花押
 謹上 はわき公御房」(弘安5年(1282)2月25日)

この秘儀は文面から見る限り、蓮師からの相伝と考えられます。
蓮師自体、御母堂・妙蓮尼を祈り寿命を延べたことを記されています。

『可延定業御書』
「日蓮悲母(はは)をいの(祈)りて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をの(延)べたり」(文永12年(1275)2月7日54歳)


薬王品は「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の経文を存する故に特に以上のような秘儀を生んでいったのであろうと考えられます。

しかし、法華全編の読誦を禁止した石山にあって、薬王品を取り沙汰して秘儀とすることは出来ない事情が中世以降の変形を生じさせた理由であろうと思えます。また、「本門戒壇之大御本尊」造立後は、その権威昂揚から、先に記した如き煤払の清拭紙を充てる方法も考案されたのでしょう。しかし、近年に至っては衛生上の都合から、たとえ法要の清拭紙とはいえ、その使用は憚られ、現形式に変更されたのではないのかと想像します。

なお、現在、顕師が御秘符を下しているかどうか、それはしているでしょう。しかし、その在り方はまた変更されているかも知れません。
藤川さんその他の方々に補完しいていただければと思います。

1615犀角独歩:2004/07/23(金) 10:34

1614補足

ここで記した石山「御秘符」は、わたしが中学2年の時、骨折した折、学会を通じて、石山末寺から下付された経験談を元に記しました。いまから、35年も前、達師時代のことですから、いまは変わっているかも知れません。

1616犀角独歩:2004/07/23(金) 11:04

1614訂正

誤)「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」
正)「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」

1617愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 12:21
丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

1618愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 12:23

済みません、投稿ミスです。 (;^_^A アセアセ…
横レス失礼します。

秘符の正体は、案外「鏡面朱砂(きょうめんしゅしゃ)」ではないでしょうか。
これは、水銀の話題の時に出てきた「辰砂(HgS)」と同じものです。漢方薬でも使われているものですから、少量なら問題ないのではないですか。護符の赤い文字の正体は鏡面朱砂のようですよ。なお、真言宗の飲む秘符は、和紙に食用油で溶いた鏡面朱砂で書くようです。

漢方相談専門の方術堂漢薬局です
http://members.jcom.home.ne.jp/houjutu/ht_zukan/shinsya.html

丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

1620犀角独歩:2004/07/23(金) 12:45

打ち間違えました。
管理人さん、ご面倒ですが、1619の削除をお願い申し上げます。

> 1618

面白い。さすが愚鈍凡夫さん。
説得性があるご指摘ですね。
以下のような類推は可ですか?
丹生に関わった空海が水銀採取で利用したものを、さらに秘符として使用し、それが真言宗で定着。のちに天台宗が密教化でこれを採用。
しかし蓮師は秘符とはしていないようです。
となれば、石山の御秘符は蓮師が行った薬王品灰服用ではなく、ずばり空海真言のそれが原型ということになりますか。これはなかなかのご指摘と思えました。

虚空蔵求聞持法で用いられたのも水銀と言うより、こちらのほうなのでしょうか。しかし朱色が意味するところは、こんなところであったとは、改めて感嘆しました。

1621愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 13:07

犀角独歩さん、どうもです。

「辰砂」が不老長寿の薬(仙薬)として古い文献に出ていますから、空海は中国でそれを見て、魅了されたのではないでしょうか。
ただ、他宗では公然と中身を公表していることを、我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂はいただけないですね。ばれてることを秘密にするな!! (`(エ)´)ノ彡☆ プンプン!!。

なお、護符を焼いてその灰を飲むという秘符もかなり古くからあったようですよ。

1622犀角独歩:2004/07/23(金) 13:36

愚鈍凡夫さん:

> 護符を焼いて…古くからあった

そうですか。蓮師もそれに拠ったわけですね。
愚鈍凡夫さんへのレスから少しずれてしまいますが、『伯耆公御房消息』、石山御書では「日朗代筆」となっているのですが、「聖人の御乳母」とあり、この聖人は日蓮聖人、つまり、朗師が弟子の立場から尊号で記しているわけですから、この書を代筆とするのには異議を唱えたくなります。この修法は、この書を朗師が興師に以て教えたものと拝するべきだと思えます。
もちろん、その朗師は蓮師から伝えられたのであろうと思います。
では、蓮師は、となると、愚鈍凡夫さんのご指摘からして、台家からそれを倣い、修していたことになるのでしょうか。

> 我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂

まったくですね。同感です。

しかし、愚鈍凡夫さんは博学ですね。興味の幅広さにはいつも舌を巻いています。

また雖念さん、創価平和さん、シェスタさん、空き缶さんをはじめ、最近ではあまり登場なさらないれんさん、顕正居士さん、その他、諸々の方々の博学振りには頭が下がります。この歳になって、日々「目から鱗が落ちる」投稿の数々に、それこそ、脳を活性化させていただいております。
あ、そうそう。みかんさんも、あまり資料呈示はなさらないのですが、隠れた博学者。突っ込みばかりではなく、資料その他のご教示を期待致しております。

…愚鈍凡夫さんへのレスのつもりが脱線しました。耄碌したと思われるでしょうか(笑)

1623愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 19:53

犀角独歩さん、からかわないで下さい。 (¨;)

「明日寅卯辰の刻にしやうじがわ(精進河)の水とりよせさせ給い候て、このきやうもん(経文)をはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候」(伯耆公御房消息)

燃やした護符の灰を飲むと、除霊・病気平癒の効果があるとされていますから、このことに習ったんでしょうね。昔から護符・秘符というのは宗派に関係なく行われていたんでしょうか。
それにしても「藥王品」というのが、いかにも蓮祖らしいですね。

1624愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 20:53

「我滅度後。後五百歳中。廣宣流布。於閻浮提。無令斷絶。惡魔魔民。諸天龍夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝當以神通之力。守護是經。處以者何。此經則爲。閻浮提人。病之良藥。若人有病。得聞是經。病即消滅。不老不死。(我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。所以は何ん、此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病あらんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん)」(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三)

この文證なんかものすごく効きそうですよね。

1625犀角独歩:2004/07/23(金) 21:43

愚鈍凡夫さん:

『伯耆公御房消息』「此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文」というのが1624ご引用の内、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の28字ということなのでしょうね。

1626愚鈍凡夫:2004/07/23(金) 22:40

犀角独歩さん、
あっ、気づかなかった。 (^^ゞ

ところで、なんですね。創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符を(お前ら!手、洗ったんだろうな!!)、有り難く飲んでいる学会員を想像すると・・・・・。切ないモノがありますね。 (..;)

1627犀角独歩:2004/07/23(金) 22:54

愚鈍凡夫さん:

> 創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符

「御秘符」と「御符」と言い分けていた当たり、ふっと寒い風が吹きますね。たしか、このあとには塔婆供養の代用で『慧光照無量』と書かれた紙に先祖の名前を書かせた学会版先祖供養とかいろいろ始めたわけです。たしか森田さんか誰かが、石山塔婆板が薄っぺらいとケチをつけていたと思いますが、学会版のほうは紙っぺら。こちらのほうがもっと薄かったわけです。
以下の色紙はその頃のものでした。(これも代筆でしたっけ?)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ekoshomuryo.gif

高尾墓園の合同慰霊祭で、坊さんを呼ばず、池田さんが‘導師’をやってしまったのもこの頃。池田本仏をまことしやかに口コミで広げながら、板漫荼羅の彫刻を始め、着々と典礼準備をしていた一環に御符もあったということなのでしょうね。

その時代をリアルタイムで生きたわたしは、旧奉安殿供養はしなかったものの、そのあと、正本堂に至る石山建造物・多造塔寺堅固に付き合わされた挙げ句、さらに会館乱立まで目が覚めませんでした。しかし、直感的に御符だけはやめておいたものでしたよ(笑)

1628愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 00:05

話題がそれますが、
最近、下記のHPの記述を読んで、信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。それに、これは「転重軽受」じゃないだろうと憤りを感じました。

**************************************************
【考察】
 祈祷性精神障害は一般に熱烈に信仰する宗派に多発する精神疾患の一つである。熱烈に信仰し、そして急性精神病状態を起こし、医療保護入院になる者、不安障害レベルに留まっている者、多数の患者が存在する。彼らは決してこのために信仰を捨てるという行為は行わない。彼らは病気が信仰を熱烈に行った故であることを理解している。そして殉教的精神で祈祷性精神障害を起こしたことを誇りに思っている。その信仰の一途さは熱烈である。病棟内でその信仰を他患に熱心に勧める、またお祈りも他患から苦情が出るほど熱心に行うことが多い。彼らとの対話と筆者自身の文献検索から彼らの殉教的姿勢を理解しようと努め、以下に文献と考察を記す。

(中略)

 通院の祈祷性精神障害患者の中には様々な宗派の患者が存在する。精神病患者というお人好しの集団の中でも彼らは更にお人好しである。その心の純粋さは“神"に例えられるほどの者も存在する。また高潔な人格の患者が多い。

 しかし逆に、中には、自らを“神"と称し、横暴極まりない患者も存在する。彼らは病識は少なく、服薬のコンプライアンスは不良であり、通院は途絶えがちである。

 少なくとも外来の祈祷性精神障害の患者は高い知能を保っていることが多い。高学歴の者も多い。真面目である故、妥協せず、極めて熱心に信仰し、そして祈祷性精神障害に罹患したと考えられる患者が多い。

 ある患者は次のように述解する。

『「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」ーーこのように今世で正法を信じ実践したために私はこのような病気になったのかもしれません。いえ、そのためになったのだと思います。しかし私は(現世に軽く受くる)ことができているのです。

「善男子、過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに是の諸々の罪報・或いは軽易せられ」のように(現世の軽報を受けて地獄に堕ちず)今世で過去世の罪を軽く受けることができています。これを私は喜びとしています。

(中略)

「横(よこしま)に死横(しおう)に罹(かか)り呵責(かしゃく)・罵辱(めにく)・鞭杖(べんじょう)・閉繋(へいけい)・飢餓・困苦(こんく)・是くの如き等(とう)の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」【涅槃経】1)

「この信仰を真面目に実践しても、今世に於いて、横死すること、罵られ辱められたりすること、杖や鞭で打たれること、牢獄に入れられること、飢餓・貧乏の苦しみを受けることなどがある。しかしこれは現世に於いて、過去世また現世の罪を軽く受けているのであり、これにより死後、地獄に堕ちることを免れることができるのである。」 

 死横つまり横死とは交通事故死や建設現場での事故死などを指します。死横つまり横死により過去世の罪障が消滅してゆくのです。

「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」

 この御文のように(護法の功徳力に由り)信仰を始めて過去世の罪障が湧き出てくる人がよく存在します。私もその一人でしょう。罪障が湧き出て信仰を辞めて行く人はよく存在します。彼らはこの御文を受け入れない人たちです。』

 この患者は入院30年を越す。S会が日本全国に爆発的に発展していた頃に統合失調症に罹患した患者である。疎通性は良く、人格崩壊も全く存在しない。S会の新聞を購読しており、それを他患に読ませたりしている。病棟内で最も信頼が厚く、誰からも慕われている。

「宗教と精神医学」より
**************************************************

「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」
この一節が、あまりにも悲しく響きます。

宗教と精神医学
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/29705.html

1629犀角独歩:2004/07/24(土) 07:06

> 1628

本当に、実に悲しすぎる話です。

1630シェスタ:2004/07/24(土) 08:40
そういえば去年、国立天文台の谷川清隆氏らが再計算して、「日本書紀」の
皆既日食の記述の正確性をつきとめた記事を思いだしました。 従来の計算で
は92%しか欠けないとされていた日食が、実は、皆既日食だった事が証明さ
れたのです。

日本書紀の皆既日食記述は正確
http://ch.kitaguni.tv/u/600/0000003252.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku216.htm

ほかには、立正安国論に「二三四五の日出で」とあるのは、幻日の事ですね。
これは、太陽が物理的に複数出現するわけではなく、光の屈折作用から、
太陽が複数出現したように見えるというものです。

Googleで「幻日」で検索すると、たくさんの写真を見ることが出来ます。
http://www.google.co.jp/search?num=50&amp;hl=ja&amp;lr=lang_ja&amp;ie=sjis&amp;oe=sjis&amp;q=����

1631愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 08:43

犀角独歩さん、どうも。

この話を読んだとき、脈絡はないのですが、第2代会長の戸田さんのことを考えてしまいました。
日本軍が敗色濃厚となったとき、戸田さんは投獄されました。
創価学会員は「小説 人間革命」の影響もあって、熱原の三烈士にも劣らぬ殉教精神溢れる行為であると思っています。しかし、果たしてそうでしょうか。今の時代なら100歩譲って、それに近い行為かもしれません。でも、あの時代、戸田さんと同じ年代の日本人男性はどうしていたでしょうか。
 ほとんどの人が戦場という生き地獄を彷徨していました。明日をも知れぬ運命に恐れおののいていました。しかるに戸田さんは、当時としては最も安全な場所にいたのではないでしょうか。
少なくとも、ニューギニアやフィリピンの日本軍兵士たちのように、生きんがために人肉喰までしなければならない環境にはいませんでした。
あの時代を考えたとき、とても殉教的精神と呼べるモノではないでしょう。
同世代の男性たちからすれば、「自分たちが死地を彷徨っていたとき、自分一人、温々と牢獄なんて天国にいやがって。」と思うのが自然な感情じゃないでしょうか。

歴史上の人物は、その置かれる時代背景を考えて評価しなければ判断を誤る典型的な例だと思います。

1632犀角独歩:2004/07/24(土) 10:02

愚鈍凡夫さん、ご紹介のところを読み、悲しいと思ったのは自分史を想起したからです、わたしは所謂昭和52年度路線前後、「池田先生と創価学会のために命を捨てる」と10年間考え続けたあと、極度の神経障害を煩いました。その時の心象風景があまりにも、記述されていた内容と酷似していたからでした。

何度も引用してきた高橋師『宗教病理と犯罪』のなかで
「わが国の戦後史で、政治と宗教の関連は創価学会を抜きには語れません。小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました」
と紹介する事例とも強く関係性を示していると思えます。

1633藤川一郎 </b><font color=#FF0000>(/RnWNeIY)</font><b>:2004/07/24(土) 11:10
> 1631
戦中の戸田氏の事について、ある代々檀家さんの投稿がありましたので、御本人のご許可の元に転載させていただきます。
戸田氏は代々の檀家の元にも折伏の矢を放ち、板の御本尊や御影様を取り上げて、御形木御本尊に替えさせる行為を断行してました(なんでやねん・笑)。
そんな中の、話です。以下転載。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
(前省略)
我が家にも戸田さんが自らやってきて、常住様や報償御本尊数幅と御影様を取り上げよう
と、色々と脅しをかけてきましたが、私の親父は軍隊上がりでしたね。
「貴様が逮捕にかこつけて牢獄で、ぬるま湯に浸かっていたとき、俺は御守様と御題目だ
けが頼りで、南方戦線で戦っていたんだ。死んだ英霊達のためにも貴様に様な非国民に引
くわけにはいかん」と言い放ち、それに対して、学会男子部は殴って、殺してやる等と脅
してきたそうですが、
「面白い。どうせ南方で一度は死を覚悟した身だ。貴様ら1人でも多く差し違えてやる。
誰から行くか。」と逆に脅したら、最後には戸田氏らは謝罪して帰ったそうです。
このように戸田氏という方は、相手が弱いと見ると攻め込むが、強いと見るとへこんでし
まう、修羅界丸出しの方だったそうです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
以上、戸田氏の性格の一端が垣間見れましょうか。彼の本性は「弱い○○ほど良く吠える」だったのでしょう。

1634愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 13:00

祈祷性精神障害、戸田さんや池田さんは絶対に罹らないでしょうね。

宗教の副作用に苦しむ人は沢山いらっしゃるんですけど、宗教指導者には副作用なんか無縁なんでしょうね。それとも慢性化していて、本人に自覚症状がないのかな。

木の葉をお札に変える錬金術師と、その継承者。「唯受一人血脈相承」とはこのことだろうか・・・・・。

「んなワケねえだろう!!」(by 大きなお寺の住職)

参考資料

第9回社長会
http://gappo.cool.ne.jp/shinjithu-2/syatyoukai/43nen/09/9.HTM

1635愚鈍凡夫:2004/07/24(土) 19:05

>>1633:
藤川一郎さん、体験談の紹介有り難うございました。

一つの教団が巨大化していく陰で、無名の庶民が犠牲になっていくことに憤りを感じます。
創価大学も「親方日の丸」なんだから、一日も早く立派な大学病院を建設して、こういった犠牲者を優先的に治療してもらいたいと思います。

1636平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 06:17
祈祷性精神障害について私が思うことを述べさせて頂きます。これは宗教が精神障害
を引き起こすしたというよりも、宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていたため
と考えた方が妥当だと私は思います。精神障害「統合失調症」「重度神経症」などの
精神障害に罹患しているために職を失ったり、離婚したり、果ては自殺を試みたり等
の不幸が起き、宗教に救いを求めたというケースが殆どであると私は思います。しか
し宗教に脅迫性があるということは否めません。この脅迫性が御本尊を破って狂乱状
態に陥った女性を生み出したのではないかと私は思います。御本尊を破ると大罰が当
たる。無間地獄に堕ちる。死んだら蠅や蚊に生まれ変わる。不治の病に罹り悶え苦し
んで死ぬ等の脅迫めいたことを宗教の指導者が信者に言った場合、それを本当のこと
と受け止める信者は純真な人です。悲しいことにそういう人が精神障害に罹りやすい
ということです。宗教は人を幸福にするためにあるはずのものが、人によっては精神
障害を引き起こし、狂乱状態に陥らせてしまうことがあるのです。私は高校生の時、
良く日蓮正宗の寺院に行き唱題しましたが、板曼陀羅の前で体を左右に揺さぶりなが
ら狂ったように拝む若い女性を見たことがあります。また寺院に入ってきたとたんに
立ったまま拝み始め、頭を揺さぶりながら拝んでいた30代半ばくらいの女性を見た
ことがあります。これは30歳くらいのインテリ的な男性ですが、拝んでは俯いて、
拝んでは俯いていました。私は宗教が人を精神障害にするとは言いませんが、人によ
っては害になる場合があるということは否めないと思います。こうした場合宗教団体
の指導者は注意すべき信者には慎重な指導をすべきであると考えます。場合に依って
は精神科への通院を勧めるべきだと思います。私が実際に見た人がいますから。また
これは宗教信者かどうかは分かりませんが。私が乗った地下鉄の電車に飛び込み自殺
した39歳の男性がいました。その人は「鬱病」とされましたが、私はそうではない
と思います。早急な精神科受診がその人の命を救ったものと思います。我が国の精神
医療に対する偏見はまだかなり多く、改善せねばならない点があると思います。NH
Kをはじめとするマスコミによる国民啓発を求めるばかりであります。

1637犀角独歩:2004/07/25(日) 07:10

平和創価さん:

1636に投稿されたところ、概ね賛成なのですが

> 祈祷性精神障害…
> …宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていた

もちろん、このようなことは当然あるわけですし、また罹患していなかったとしても、資質的にその要素をもった人が発症するとも言えようかと思えます。
ただ、宗教病理学は、その原因となった宗教事情を視野に入れて研究するものであって、では、なぜ宗教が引き金になったのか、あるいは引き金であったのかを研究するものだと考えます。

例にならないかも知れませんが、戦争にかり出されて、敵を射殺した人がいたとして、その人が殺人を犯したのは国家が徴兵したからではなく、その人が殺人を犯しただけとは言えないと思います。もし、その人が戦争にかり出されなければ、その人は殺人は犯すことはなかったでしょう。軍隊という閉鎖的、階層的、かつ強制的な心理装置があったればこそです。罪悪感なく大量殺人を「任務」として遂行させる心理装置として用意された点は考慮されるべきです。

発症資質のある人に宗教の、どのような要素が原因になり得るかを考えることは社会の中における宗教の安全性を考えるうえで重要です。
『きつねつきの科学』(講談社)の著者・高橋師は「狐憑きは、狐憑きを信じる者だけがかかる」と研究の結論から述べていました。
同様に祈祷性精神病は、祈祷に、宗教的証憑を強く置く者だけが罹るわけですから、発症者の資質と併せて、その宗教の在り方を研究することは必要であろうか思えます。

> 我が国の精神医療に対する偏見はまだかなり多く、改善せねばならない点がある

このご意見にまったく賛同します。

1638雖念:2004/07/25(日) 10:09
>1635 平和創価さん:

> 宗教を求めた人が既に精神障害にかかっていたためと考えた方が妥当だと私は思います。

「精神障害を発症すべき、遺伝的資質を有した人が宗教を求めた。」と書き直すと、ほぼ正確かと思います。
 「遺伝子には時限装置が備わっていて、特定の資質はそれにふさわしいときが来るまで発現しない」、といわれていますので、宗教が原因やきっかけになったのか、宗教との接触なしにも精神障害が発現したのかは、厳密には判定は困難で、たとえば一卵性双生児などで(宗教に入った人とそうでない人が出現した場合のような)偶然観察できる機会を利用するしかないと思います。
 しかし、特定の宗派・団体が精神障害を治療する機構を内在させることなしに発展し、あまつさえ強化する方向にあることは事実だと思います。
 これ以外にも、「宗教を求めた人」の家族が、家族内でのバランスの崩壊や、新たなる葛藤の出現で精神障害に至る可能性は高いと思います。
 私の親しかった知人も、S 会での強精な信心を貫いた結果精神障害を発症しています。上述したように、厳密には因果関係は不明です。本来的な遺伝的な素因があった可能性も否定できませんが、私はプロテクションもせずに、危険な状態にいたっても信心を強要し、発症後に救済の手を差し伸べようとしなかった人たちを、断じて許せないと思っています。

1639平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 12:01
シェスタさん。やはり最近の天文ソフトは精巧ですね。『日本書紀』の推古天皇36
年3月2日の「三月の丁未の朔(新月の日)戊申(二日)に、日、触え盡きたること
有り。」は誇張ではなく本当のことだったようですね。あとシェスタさんが紹介され
た「ステラナビゲータV6」を体験版で調べましたところ、星の位置に謝りがありま
した。オリオン座のκ星のサイフの位置に誤りがありました。サポート会社に電話を
してそのことを訊いたところ、今は訂正しましたとのことですが、「ディスタントサ
ンズ2」は遙か以前に正確にサイフを指定しております。また微小な星を容易に指定
することができ、星までの距離まで詳細に説明してくれます。月食を表示させること
ができないという欠点はありますが、推古天皇36年3月2日の日食を皆既日食とシ
ュミレーシュンしており、やまり天文ソフトとしては最高のソフトであると思います。
このソフトは米国のソフトであり、現在は絶版になっているようなので残念です。
さて愚鈍凡夫さんが紹介して下さった、月齢暦のフリーソフトはたいへん重宝なので
助かります。推古天皇36年3月2日朔の暦換算について気付いたことを申し上げま
すが、この戊申、朔の日はこのソフトですと3月1日になり1日ずれています。前月
が29日ですとこの日は3月2日になるのですが2月30日まで表示しております。
『日本書紀』の記載を3月2日とした注釈者の判断の誤りか、月齢暦ソフト開発者の
誤りのいずれかと思います。
愚鈍凡夫さんの祈祷性精神障害に対する犀角独歩さん、雖念さんのご意見。藤川一郎
さんの戸田城聖氏の性格の一面、興味深く読ませて頂きました。
さて独歩さんがおっしゃったことと関係がありそうな事実を紹介します。原爆記念日が
近付いて来ていますね。あの広島、長崎に原爆を落とした原爆投下隊員の中には大量殺
戮を自分が犯したことに罪の気持ちに苛まれ発狂した人がいました。また聖職者となり
罪の償いに人生の後半を送った人もいました。しかし平然として生きていった人達もい
ました。人を何人殺しても何とも思わない性格の人間がいる一方、人を一人でも殺した
ら慚愧の念に苛まれて苦悶する人間がいるということです。『死刑執行人の苦悩』大塚
公子著、角川書店を読むと、元刑務官で死刑執行人を務めた人が苦悶して病気になった
例が書かれています。宗教を求める人は後者の部類に属する人が多いと思います。精神
的に図太い人間は宗教を求めることはあまりしません。精神的に繊細で気にし易い人が
宗教を求めるのです。であるからこそ、雖念さんがおっしゃった精神的障害者が発生し
ないように、また発生した場合に対するフォローが宗教団体には必要であると思います。
平これは私が学生部の時に会合で聞いた話ですが、統合失調症(精神分裂病)に罹患し
た祖父を持つ学生部員がいまして、彼がその問題に悩んでいたところ学生部員たちがそ
の家に行って大勢で唱題したところ彼の祖父が亡くなったということでした。この老人
は唱題の声に精神が苛まれて精神障害に陥り、大勢の唱題の声の為にパニック障害のよ
うな発作を起こして心臓発作を起こして亡くなったのではないかと推測されます。
御本尊を破って精神錯乱を起こした女性は、重度の脅迫神経症であったのではないかと
思います。御本尊を破ると大罰が当たるという言葉を聞いて、破ったら大変だと思うが
故に破ってしまったのではないかと思います。宗教の持つ脅迫性と逆の麻酔性は宗教を
持つ私たちにとって今後検討しなければならない重大課題であると私は思います。

1640愚鈍凡夫:2004/07/25(日) 12:44

正義感の強い人、純粋な人、優しすぎる人、真面目すぎる人をどんどん追い込んでいく組織のあり方は糾弾されるべきだと思います。
こういう人たちはあまりにも責任感が強く、自己に厳し過ぎる傾向があり、常に、過度なストレスに曝されているといえます。
精神的にとことん追い込んでしまい、自分で処理できる限界を簡単に突破してしまいます。
教団にとって、こういう人たちほど便利な存在はないでしょう。ほっといても自分の限界ぎりぎりまで頑張る人たちですから。大切にしなければならない人たちを便利使いし過ぎるように思われます。
体力も精神力も尽きているのに、それでも頑張る姿はあまりにも痛々しいです。
我が教団の信仰は万能薬であるかのように喧伝するわりに、10年、20年という長い闘病生活に入った人を平気で見殺しにする。この体質が変わらない限り、犠牲者は減ることはないでしょう。
宗教の存在意義とは何なのか、そこから問い直す必要があるように思います。

参考資料

エホバの証人とこころの病の問題
http://www.jca.apc.org/~resqjw/mi.htm

1641シェスタ:2004/07/25(日) 14:48

> この戊申、朔の日はこのソフトですと3月1日になり1日ずれています。前月
> が29日ですとこの日は3月2日になるのですが2月30日まで表示しております。

これは単純ミスですね。メールで作者に教えてあげたらどうでしょうか。
西暦628年の2月が30日まであるって。この年は閏年ですから29日まで
ですね。

あと、段落ごとに空行を入れた方が、読む方としては読みやすくなり、助かります。

1642平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/25(日) 18:04
>シェスタさん

やはりそのようですね。ここでも推古天皇36年の戊申の日は3月2日ですね。あと古天
文の研究資料と鎌倉時代の歴史書や日蓮大聖人の真書とされる書を比較しながらその史実
を探求して偽書と真書を推測して行ければとは思っています。ここに古天文の資料があり
ます。           ↓     
http://www2c.biglobe.ne.jp/~takesako/ecl/eclipse.htm

>愚鈍凡夫さん

まあいろいろ考えると新宗教にはいい面もある反面恐ろしい面もありますね。とこ
とんまで精神的、肉体的に追いつめられても限界に挑戦している新宗教の人達には
同情を感じることもあります。あの正宗の寺院で拝んでは俯き考え込み、拝んでは
俯き考え込んでいた男子部の幹部のように見られた人もそのような極限値に追い込
まれていたのかもしれませんね。

さて愚鈍凡夫さんから紹介された月例暦のフリーソフトにはシェスタさんもご指摘
されているように、作成者の方にミスがあったようです。斉藤氏の古天文の日食月
食シュミレーションでも推古天皇36年戊申の日は3月2日となっています。探求
すれば探求するほどいろいろと疑問がわいてきて、またそれを解明できた時の喜び
は数学の難問を解いた時のような爽やかさを感じますね。

この掲示板は大変勉強になりますね。私は数学や理科を勉強しながら歴史を解明し
ていきたいと思っています。

1643孤独な迷子:2004/07/25(日) 20:57
愚鈍凡夫さん

はじめまして。(だと思いますが。)

>>1628

>信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。

これは切実な問題ですね、現に私がそうかもしれない。統合失調症ではないだろうけど。


独歩さん

いつもレスを頂きながら、返事ができなくてすみません。

>>1631

ある意味で、牧口さんや戸田さんはすごいなーと思っていました。時の権力に迎合せずに信心を貫き通

したのですから。このときに宗門では神札を祭ったりとかしていたんですよね。
 でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
今までの見方が変わりました。


平和創価さん、はじめまして。

>>1636

とても参考になりました。

1644愚鈍凡夫:2004/07/25(日) 22:43

平和創価さん、レスどうも。
とにかく暑い。 ε-(´o`;A アチィ

「Calend Mate」の件ですが、これは旧暦の種類による計算方法の違いではありませんか。

飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://jbbs.shitaraba.com/study/364/

でも、天文の分野から御書の記述の真偽を追求していくというのも、面白いアプローチですね。
成果を期待しています。ご教示の程、宜しくお願いします。 m(_ _)m

孤独な迷子さん、始めまして(小生も初めてだと思います)。
心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので長い時間と多額の費用が掛かります。患者さんにとっては、それだけでも重い負担になります。だから、彼らに無責任な叱咤激励だけは謹んでもらいたいと思います。
そして、宗教指導者は、このことをしっかりと肝に銘じてほしいと思います。

1645愚鈍凡夫:2004/07/26(月) 01:11

すみません。暑さで呆けてました。 (* ̄○ ̄)ア(* ̄о ̄)ホ・・・・・・((((_ _|||))))ドヨーン

飛鳥時代から江戸時代以前の天文記録
http://www.town.bisei.okayama.jp/stardb/his/data/his0014.html

1646孤独な迷子:2004/07/26(月) 01:28
愚鈍凡夫さん

レス有り難うございます。

>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。

そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて

しまったことが間違いの始まりだったかも知れません。

1647菱村正敏:2004/07/26(月) 06:13
>> でも投獄されていたから戦場に行かなくて済んだというのは、その通りですね。
>>今までの見方が変わりました。

牧口さんは、当時、爺さんでしたから投獄されていなくても戦場に
行くことはなかったかもしれませんね。

 また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。

 で、かりに戸田さんが甲種合格していても年齢の問題があった
かもしれません。戸田さんは1900年生まれのようです。日本が
中国に戦争しかけたのが1935年ころ。戸田さんも35歳。今なら
若いうちですが、当時でしたらそろそろ隠居まぢか。そして、太平洋
戦争は1941年、戸田さんは40歳をむかえ初老の仲間入りです。
高齢者で徴兵された方もいるとは思いますが、それは戦争経験があって
予備役として登録されていた人たちだけかもしれません。どちらかと
いうと戦争の長期化や激化にともない、徴兵は20歳未満の若い人まで
引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。

1648菱村正敏:2004/07/26(月) 06:19
>>>心の病は、投薬治療と医者との信頼関係以外に治療法がないみたいなので・・・。

>>そのようですね。何か信頼関係を結べる支えが必要なのだと思います。私の場合はそれを信心に求めて

 わたしは、10年来の精神病患者ですが・・・。医者は信じられません。
良い医者も医療行為をつづけていくうちに、患者にとって普通の医者から
悪い医者になっていくように思います。いつまでも初心の気持ちを維持でき
ないのは、世間一般の対人関係と同じことです。

 自分をたよりに。このはかない、精神を病んでも生き続けたいと願う
ご自分をたよりに、、、それがいちばんの良薬だと思います。医者との
関係は、悪い患者になって、クスリをもらう一存在だと。それ以上は
望まぬことです。

1649シェスタ:2004/07/26(月) 10:49
平和創価さんへ

暦に関しては、以下のページが一番詳しいと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/index.html

当ページの主催者の suchowan さんは、暦に関していえば、恐らく、この人の
右に出る人はいないのではと推察しています。

何か分からない事があれば、掲示板に書き込めば、教えてもらえるかもしれません。

1650愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 00:58

孤独な迷子さん、穏やかで、心静かなる日が一日も早く訪れることをお祈りします。

菱村正敏さん、薬の組み合わせとの相性もあって、難しいようですね。
良薬と、名医に巡り会えますようお祈り致します。

確か45歳まで兵役が延長されたと思いますが、徴兵の可能性は薄いですね。ただ、沖縄では40歳代で徴兵されていたようです。

1651平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/07/27(火) 02:28
>シェスタさん
貴重な資料の御提供有り難う御座います。私の書斎もsuchowanさんみたいですよ。
私は2階に書斎と居間兼寝室、1階に書庫があり4台のパソコンをインターネット
に繋いでいますよ。(笑)蔵書は5000冊はありましたがこの2月にかなり処分
しました。
>愚鈍凡夫さん
私は今2階の書斎で机に向かい超小型のノートパソコンを右に置いてメールを書き
込んでいます。
私は病気や死を極度に恐れる性格で、今夜も体の不調を感じました。犀角独歩さんに
も言ったのですが、私はこの5月に体調を崩し大学病院に通院するはめになりました。
初め歯の痛みから始まったのですがそれが舌の痛みと連動するようになり、5月の下
にかなり酷くなり、6月2日には私自身が駅のホームに通過電車に飛び込むような強
迫観念が起こり、飛び込み自殺寸前の状態になりました。私は別の2ちゃんねるで創
価の批判をした上に大御本尊に対する疑念を持ったためあのような事態になったもの
と思います。また私は創価でありながら公明党の政策に納得することができず、毎日
大酒を飲んでいたのです。こころの葛藤は凄まじく、自分は癌になるのではないかと
いう強迫観念に絶えず襲われ自殺寸前まで行ったのでした。翌週親に連れられて精神
科に行きました。医師は私の病名を「重度強迫神経症」と診断し、2種類の薬を処方
してくれました。私は「統合失調症」ではないということで安心し、快復に向かいま
した。しかし今日また口の病気の不安が起き、一時は絶望に陥りました。今は神経安
静ざいを飲んで落ち着いています。宗教の脅迫性は諸刃の剣だと私は思います。私は
6月2日に鉄道自殺していたかも知れないのですから。

1652平和創価 </b><font color=#FF0000>(NOBri.DM)</font><b>:2004/07/27(火) 11:35
>愚鈍凡夫さん
暦の計算ソフトでは1649でシェスタさんが紹介されたページが一番詳しいですよ。
推古天皇36年3月2日ははっきりとユリウス暦4月10日になりました。suchowanさん
のソフトを愚鈍凡夫さんの月齢暦ソフトの天保暦からの単純計算による過去に実際に使わ
れた暦とのズレを修正しながら研究を進めて行く方がいいようです。御書の記述と天文現
象との間にズレがあった場合には、真書とされていても疑って考察を加えて行くべきだと
思います。犀角独歩さんが示された愛染明王の端書きの建長六年一月一日の日食の記述は
虚偽であることが分かり、また重要文化財故に真書とされて来て必ずしも科学的な考察が
なされていたものではないということが分かってきましたから。
今まで一般には偽書と疑われて来ていた『種種御振舞御書』の記述がが天文シュミレーシ
ョンと一致し、光り物も科学的に稀に起こる球雷、球電現象である可能性が高いことを考
えますと、真書の可能性が高まってきたとも言えましょう。「連祖の、著作・曼陀羅の真
偽について」のスレまたお会いしましょう。

1653藤川一郎:2004/07/27(火) 13:49
> 徴兵は20歳未満の若い人まで
> 引き下げられ徴兵される方向に向かっていますが、年寄りはどうだった
んでしょうね。

横レスです。
終戦間際には、特別法等で55歳まで引き上げられております。
ある軍事学者は「こんな年寄りまで引き出さねばならん戦争は負けて当然」
等と言っていましたが、年寄りは問答無用で最前線に引き出されましたが、未成年の方は特攻以外は「予備役」が多かったようです。

1654菱村正敏:2004/07/27(火) 15:42
特別法って何でしょうか。義勇兵の法律ですか?
年寄りが最前線・・・。終戦間際で最前線なんかに派兵できた
んでしょうかね。終戦間際は機雷や潜水艦で海上封鎖されてい
たので、国内の兵を最前線に送り込むなんてできなかったんじ
ゃないかなぁ。

1655愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 17:06

**************************************************
だが,連隊区司令部では,金品と引換えに,原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正が行われた。招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。"名誉ある招集令状"は不名誉な手段によって悪用されたわけである(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻497頁)。また「東京,大阪等の大都市では連隊区司令部の一部職員が,地方人(民間人)より相当の金品贈与のもとに在郷軍人名簿のつづりから(召集対象者の)名簿の抽出破棄,あるいは召集延期者や疾病者としての指定記入等の方法で召集資格者を作った」など,実際に不正が横行していたことを裏付ける記録が残されている(「支那事変大東亜戦争間陸軍動員概史」)⇒替え歌

戦争の激化に伴い,徴兵検査を受けた人のうち現役兵として徴集された人の割合(徴集率)は,1937(昭和12)年に25%,1944(昭和19)年に77%,1945(昭和20)年は90%と,急上昇。そして,現役兵だけでまかなえない兵員需要を補うために,赤紙が乱発されたことはいうまでもなかった。

 1943年の統計を見ると,現役徴集者約41万人に対し,赤紙による召集者は約105万人に及ぶ。

---

さらに,徴兵年令は戦局の悪化とともに引き下げられていった。すなわち,1943(昭和18)年12月24日勅令第939号徴兵適齢臨時特例に基づく,44(昭和19)年に於ける徴兵事務の特例に関する件(陸軍第69号)により,徴兵適齢が1才引き下げられ,満19才となり,翌1944(昭和19)年には兵役法施行規則を改正し(陸軍第49号),満17才以上の者とすると同時に,満17才未満の志願も可とした。いわゆる根こそぎ動員である。

「日本の徴兵制」より
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tyoheisei.html
*************************************************

戸田さんの場合は、これですかね?

「招集を逃れた者の職業をみると,軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く,その他配給業務に携わる幹部,料理屋の主人,群を抜く地名人であった。まさに「地獄の沙汰も金次第」とはこのことである。」

戦前は日銭にして1日1万円(当時)の収入があったようですから。

1656菱村正敏:2004/07/27(火) 18:35
 戸田さん。徴兵で不合格になった可能性も否定できないと思います。
わたしの父の兄貴は、べつに金持ちでも何でもありませんでしたが、
長男であり、洋服屋の跡取り?ということで、赤紙は来なかったよう
です。その代わり軍需工場で働いてました。

 べつに、特権階級だけでなくても、それなりに抜け道はあったというか
手心が加えられていたのではないでしょうかね。

1657三学無縁:2004/07/27(火) 19:00
>>1647
> また、戸田さん、そもそも彼は徴兵検査受けたんでしょうかね?
検査で不合格になった可能性もあります。記憶では彼の日紀を読んでも
徴兵検査のばめんは出てきません。彼の論調なら「おれは甲種合格、
やがては・・・」などと気宇壮大の一文を書いたような気もします。
国家の通過儀礼であり、甲種合格は文句なしと国から太鼓判をもらっ
たようなものでしたから。

戸田さんが重症の痔疾患をもっていたことはご存知かと思います。これは酒の飲みすぎによるものかもしれません。
痔主は徴兵検査では不合格とされたようですね。
もっとも戦況が悪くなってからは痔主でも合格、徴兵されることになりました。

1658藤川一郎:2004/07/27(火) 21:03
菱村さん
義勇兵は
15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子(女子もあったんだね)です。

私の言ったのは下記です。
「徴兵年齢之特例ニ関スル法律」(昭和19年12月布告、施行は翌年一月一日から)
臣民ノ兵役年齢ニ関シ、今次戦線ノ終結マデ徴兵適齢臨時特例ニ関ハリナク上限ヲ55年トス。

1659菱村正敏:2004/07/27(火) 21:07
 19年12月ですか。それなら前線には出られません。瀬戸内海を
航行することでさえ、注意しないとできない時代です。鈍重な輸送船を
最前線に送ることは死ににいくようなもの。

 つまりは、最前線に高齢者が前線に送られるということはなかったと
思います。もし、具体的にそういう事例がありましたら、教えていただ
きたく存じます。

1660愚鈍凡夫:2004/07/27(火) 22:10

以下のHPは、戦時中の輸送船団の記録です。敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。

太平洋戦争と海上輸送
http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou02.htm

輸送船団の戦闘
http://www.iwojima.jp/data/convoy.html

戦史 橘丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-tachibana1.html

戦史 阿波丸事件1
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-awamaru1.html

1661ワラシナ:2004/07/27(火) 22:53
0、精神疾患の特徴たる意欲障害、感情障害、行動障害を知っているはずの精神医だが、患者がまさにその症状故に「通院している病院に薬を取に行く事ができない」という病者の置かれている矛盾的現実があって、更に患者自身の苦痛がこの不合理制度?によって倍化させられている現実が、精神医に理解されているとは思えないのである。或医師の患者に対する言動を聞いてそう思った。「薬を貰いに行くことできない」患者の苦しみ、近親者の代理受け取りも叶わない患者の置かれている苦しみを訴える患者に「自分の健康の事なんだから何としてもここは自分で通院してきて診察受けて薬を取りに来てほしい」と言うばかりだったからである。
1、精神疾患、統合失調症であることの所以が「自分自身に対する働きかけが一切できない、何にもやる気がしない、風呂も歯磨きもテレビも読書も何もかもしたくない努力放擲、常時脳中妄想充満」症であること、だからその故に「通院もしたくない」とは、病者自身の道理にかなっているまともな言動なのであるし、ここらあたりの機構も医師が弁えている筈なのに、である。デイケア要員を使うとか、医師自身が往診するとか、(糖尿病患者の場合往診をやってる病院はある)医療機関が監督する委任状による第三者による薬の代理受け取りを可能にするとか、工夫がたらなすぎる。
2、被害妄想タイプ、生命執着型の統合失調症の患者さんの話は、治療とはいえまともに聞いていたら、健常者の頭の方がおかしくなる位のものだから医師にも同情はしておりますが。
3、とにかく、患者の話なんか、聞いてるより、いかに手短に薬の処方箋書きを済ませて、次々待っている患者を裁いていくか、と言うのが、医院の待合で感じた精神医療の現状なのであった。

1662ひきこもり:2004/08/03(火) 16:56
>>1661
ワラシナさん。初めまして。私は極度の人間嫌いでありまして、普通の人は殆ど気に
しないことも私は気にする性格なのです。そのような性格を信仰によって変えようと
努力はしてきたのですが、一向に変わりません。日蓮宗系統の宗教は法華経を信奉し
ていますので、私のような性格には向かないのかと思うことがあります。他宗では社
会の煩わしい人間関係を避けて吉田兼好のように隠遁生活入ることもできるようです
が、富士門流の信徒では無理なのでしょうか。私は17世紀のフランスの科学者、宗
教思想家、文学者のパスカルの『パンセ』の次の言葉が好きなのです。「人間のそれ
らの不幸はいずれもたった一つの事から由来すること、その一つの事というのは部屋
のうちに休んでいることができないということを発見した」私は無理をして自分の性
格を変えようとして人間関係が激しい仕事をしていましたが、自滅してしまいました。
生来の内向的で神経質な性格故にこうなってしまったものと思います。世の中の煩わ
しい人間関係を避けて、自分一人で信仰に励み、学問や芸術関係の仕事で生きていく
ことも認められていいのではないかと思うのですが、どう思われますか。私は敢えて
苦手な人間関係の仕事に手を染めたために、大変な精神的苦痛を感じてきたのです。
ワラシナさんが紹介された精神疾患を持つ人達の中には、その人なりの生き方を認め
られれば、統合失調症や神経症を発症せずに済んだ人も多いのではないかと私は思い
ます。宗教が人を精神的窮地に追い込み、統合失調症や神経症を発病させ、終にはそ
の人の寿命を縮めることになってはどうかと思うことが私は度々あります。

1663ひきこもり:2004/08/03(火) 17:26
パスカルの『パンセ』には続いてこのように書かれています。

「しかし私はさらにふかく考えた、そうして我々のあらゆる不幸の原因を見つけたのち、
そんな原因がなぜあるのかその理由をさぐりたいとおもった、そうして大そう現実的な一
つの理由があること、その理由というのは我々の存在のもつ本来的な不幸において成り立
っていること、この我々の存在の仕方は、弱いものでありまた滅びゆくものであり、また
立ち入って考えをめぐらすならそのとき何ものも我々を慰めうるものはないほどにみじめ
なものであることを知った」(『パンセ』上巻 新潮文庫)

人は必ず死ななければならないものであるという厳しい現実を直視できないからこそ、我
々は慰戯を求めるのですが、直視してそれに絶望した人が統合失調症や神経症を発症する
ことが多いのではないかと私は思うのです。宗教は死後の生を約束するものであるが故に、
自分が信仰する宗教の教義や教えから外れたことをすることができず、精神障害を発症す
ることがあるのではないかと思うのです。特に教義に死後の生の在り方の定義がどぎつい
場合に精神障害の発症率が高くなるのではないかとも思います。

1664鎌龍:2004/08/04(水) 12:21
独歩さん。先日はご丁寧なご教示を賜りありがとうございました。一つ教えてください。 随分昔に戻ってしまって申し訳ないのですが、過去ログの「富士大石寺の歴史について」の43で、>この書き間違いによって当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれたのは・・・と言われていますが、これについて詳しくその経緯など教えて頂きたく存じます。よろしくお願い致します。

1665菱村正敏:2004/08/04(水) 15:54
>>敗色濃厚の昭和19〜20年頃にも輸送船団は活躍していたようです。

資料拝見しましたが、これは物資輸送が中心のもので兵員輸送は
ほとんどなされていなかったと推察します。当時の最前線は兵隊さん
の補充よりも、食料や武器弾薬などが重要なものだった思います。
いくらバカな軍部でも、輸送船に載せるモノの優先順位くらいは分か
っていたでしょう。ただ、当時はガソリンはあるのにメンテがなされず
動かすことができない飛行機が並んでいたなどという皮肉な現象が
あったそうなので、内地から武器やその他道具などを修理できる技術系の
者は送り出されたかもしれません。ただ、一般的に何の役にも立ちそうに
もない40代以上の高齢者が最前線に行くのは、、、かえってゴクつぶし
としてのマイナス要因が大きく邪魔者になるだけではなかったかと思いま
す。
 
 せいぜい、40代以上で狩り出されても、アメリカが上陸してくる
地点でタコツボ掘り、もしくは飛来する敵機を監視塔で見張っているか
まぁ、敵兵と対峙するという図式はほとんどなかったのであろうと
考えています。

1666犀角独歩:2004/08/04(水) 17:17

鎌龍さん:

ここ1年間の間にわたしは3回もコンピュータがトラブルとなり、データの大半を喪う手痛い事故に遭っています。そのために、いま、ここに確実な資料を示すことができません。ですから、詳しくは他の方に補完していただくしかありませんが、

> 当代顕師の父上は大変な窮地に追い込まれた

と書いたのは、記憶ばかりで書けば、石山57代正師は、漫荼羅書写では定番になっている讃文「二千二百‘三’十余年」と記すべきところを「成就本尊」下付に当たり、「二千二百‘二’十余年」と書したことによって、猊座を追われかねない大騒動になったことを伝えたものでした。

1667鎌龍:2004/08/05(木) 11:19
独歩さん。いつもありがとうございます。>トラブル・・そうですか。でも、なにかしらの資料に確かに残っているはずであると思ってよろしいのでしょうか?その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗は、弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めたのでしょうか?やはり三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえということなんでしょうか?お願い致します。

1668犀角独歩:2004/08/05(木) 13:37

鎌龍さん:

> …トラブル…なにかしらの資料に確かに残っている

『地涌』あたりでも、取り沙汰していたと記憶します。
あそこの資料の‘扱い方’には問題がありますが、そこで引用される資料自体が全部虚偽と言うことではありませんから、解説部分を避けて資料だけ読んでみればよいと思えます。

> 弥四郎マンダラ戒壇本尊の通りに二十余年と書いたことを、なにを理由に責めた…三師御伝土代などの「三十余年」と反するゆえ

弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかったことでしょうね。それがまず前提です。

前もある学会員がここにやって来て、豪語していましたが、「奉書写之」とあることから、石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人が大半でしょう。また、それを基本にして略して書かれていると思っている人もあるでしょう。
けれど、実際は随所で違うわけです。この点は問答名人さんともずいぶんと議論した点でした。

いずれにしても、石山歴代住職が書写してきた漫荼羅は、しかし「二千二百三十余年」となっているわけです。その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述してくださいました。愚鈍凡夫さんも加わってお出ででした。

石山で「本尊書写」の資料文献といえば『本尊三度相伝』がまず挙げられるでしょう。そこに「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり」とあるわけです。また『三師御伝土代』にもそうありますし、伝・順師文献でもそうです。

わたしは『三師御伝土代』の記述が本当であれば、弘安2年10月に漫荼羅上に「日興上人」「二千二百三十余年」と書かれた漫荼羅を興師は授与されていたと思います。そして、その漫荼羅がいちおうの書写の素本になっていたのではないかと思うわけです。けれど、この段階では、まだいまのような形式にはなっていなかったでしょう。それは例えば「日蓮在御判」とあとになったところが「日蓮聖人」などとなっている例が見られるからです。これらの点もれんさん・空き缶さんが挙げてくださっていました。

要するに、本尊書写化儀は「之(本門戒壇之大御本尊)を書写し奉る」といういまのアナウンスとは裏腹に他の漫荼羅を手本にし、さらに随時、変更されて今のような形式になったという矛盾があるわけです。

正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのかとわたしは想像しています。

1669鎌龍:2004/08/05(木) 14:59
独歩さん。いつもありがとうございます。>弥四郎漫荼羅が「二千二百二十余年」となっていることは、それこそ『富士宗学要集』が発刊されるまでは一部の人をのぞいては誰も知らなかった・・・>石山漫荼羅は、弥四郎漫荼羅を正確に書写したと思い込んでいる人・・・え!そうだったのですか。なるほど。今となっては富士宗学要集が逆に彼らを苦しめる要因になってしまったと言えるかもしれませんね。>その理由を相伝であるというのですが、これが後天的なことであることをれんさん、空き缶さんが明証を挙げて論述・・そうでいらっしゃいましたか。重複してしまったようで申し訳ありません。れんさん空き缶さんの論述はどちらでなさったのか教えて頂きたく存じます。>正師の過ち、それを騒いだ人は弥四郎漫荼羅が「二千二百‘二’十余年」であることを知っていたと言うより、それまでの書写の化儀「二千二百‘三’十年」と違って「二千二百‘二’十余年」となっていたことを問題にしたのではないのか・・・なるほど。しかし、宗学要集がでる前でも、石山にとっての重要書に「三十余」、弥四郎マンダラには「二十余」、これを問題にした人が今までいなかったのでしょうか。それとも、知っていながら公言できずにいたのか・・。それとも、通称血脈相承において、この話はなされなかったのか・・・。いかがなものでしょうか。

1670三学無縁:2004/08/05(木) 21:08
横レス失礼します。

>1667
>その時正師を窮地に追い込んだ側の石山僧俗

この問題は、ことの発端から当時の法華講のかたたちが追及したと記憶しています。
開師は、途中、のらりくらりと言い逃れをし、次にはどちらでもよいと居直りました。
しかし、全国の講頭たちにも誤写の事実とその後の経緯が知られるに及び、ついに誤写したことを認めたわけです。
その間、開師を擁護する声は阿部派僧侶の中からも上がりませんでした。

また宗学要集は、100部ていどしか作られなかったので、宗内の僧侶でも持っているひとは少なかったでしょう。
おそらく作られたものの半数以上は法華講関係と日蓮宗のひとたちが求めたと思われます。
予約名簿などから判断して正宗僧侶で購入したのは20人から30人だったようです。
ひとつには、堀日亨師は宗内で煙たがれれていたこと。
ふたつめは、宗史に関心のある僧侶がほとんどいなかったこと。
みっつめは、宗学要集を買うだけの余裕のある僧侶があまりいなかったこと。
よっつめは、宗学を理解している僧侶が少なかったこと。
ごく一部の僧侶を除いて、他宗派との法論は、ほとんど在家の法華講がやっており、たいていの僧侶には教学じたい、あまりなかったと思われます。

>通称血脈相承において、この話はなされなかったのか

開師は知らなかったのでしょう。
なによりも、正師の相承は大阪蓮華寺の総代が預かり、それを柱師に伝えたものです。
また、亨師は柱師からの相承をそれほど重要視していませんでしたし、自分は中継であると公言していたくらいです。
開師が誤写したのは、本尊相伝がなされていなかったから、と考えるのが妥当でしょう。
おそらく、蓮師真筆漫荼羅をお手本にして書いたのではないでしょうか。

1671犀角独歩[TRACKBACK]:2004/08/06(金) 08:33

鎌龍さん:

> れんさん空き缶さんの論述はどちらで

『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』の392以降です。
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r392-


三学無縁さん:

補完、有り難うございました。どうも、わたしのこの記憶は曖昧なところが多かったようです。

1672愚鈍凡夫:2004/08/06(金) 12:48

横レス失礼します。
日正師と日柱師との血脈相承問題の参考資料です。

「日柱上人の辞職と選挙による管長選出 宗旨が如実に物語る本宗血脈の有り様」
http://nakanihon.net/nb/keimyou/hujihonnryuunomiti14.htm

「日開上人誹謗粉砕 日柱上人への相承」
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/nitikai.html


参考資料

「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�

1673愚鈍凡夫:2004/08/06(金) 12:52
「あれれ、文字化けしてる」 (;^_^A アセアセ…

「総本山大石寺歴代上人一覧 - Wikipedia」
http://ja.wikipedia.org/wiki/膩���㋚臼紊х�喝嚙罩岩撮筝�篋坂��荀�


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