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鷹目遊里史板

739新今里X:2011/08/23(火) 14:33:22
ア、ナルほど
ネットの記事をウロ覚えで書いてたものを修整していただきありがとうございます。

造園業増田組が東成郡大今里にあったということでしょうか?

もしそうなら地元発祥でちょっとうれしいですね。

740新今里X:2011/08/25(木) 01:22:30
西成ちゃうで東成やで
飛田遊廓は東成郡にできた遊廓…、といってもぼくは西成区から西成郡を連想してしまいます。

今さらという感じですが、日本橋に用事があったついでに、帰りのルートを南寄りに変えて見てきました。

飛田遊廓ができた頃の東成郡と西成郡の境界は単純に現在の飛田本通商店街(動物園前一番街)でした。

もちろん飛田側が東成郡、今池側が西成郡です。

その後、飛田遊廓の地域は1925年に大阪市住吉区になり、1943年に住吉区から西成区に編入されたそうです。

まぁなんというか、いつものごとく商店街をぶらついてきただけですが、東成郡と西成郡の境界だと思えば新鮮な感じで……やっぱしいつもといっしょか。

741膳所裏:2011/09/01(木) 19:01:05
串茶屋はいかにして廻しを取る様になったか その一
小松の串茶屋の遊女保存会が手作りで綴った“遊女を偲ぶ6”に、いかにして串茶屋がまわしを取るようになったかの経緯について書かれた興味深い文章があったので紹介させて頂きます。

小松のある石川県は金沢を中心に芸妓と娼妓の区別が曖昧であるという独特の廓文化を持った土地柄で、全国遊郭案内はこの辺りの雰囲気を主計町(かずえまち)を引き合いに出して次のような説明を試みています。

「(主計町は)貸座敷の許可地では無いが、さればとて検番制度でも無い。金沢百万石という偉大なる力が斯うした芸妓とも娼妓とも付かない一種変態的な物を生んだものと思われる。但し女は芸妓の鑑札を所持して居る。中には二枚(鑑札)の女も居る」・・・が、多少尋ねあぐんでいる様です。

他県の個々の遊郭に関しては、まわしの有る無しはお客にとって重大な関心であるはずなので、案内書としても出来るだけ触れているのですが、こと石川県の項では小木町に通し花制(=廻しをとらない)と有るのみで、大きく情報が欠如しています。

以上の独自性を理解して頂いた上、私なりに足したり引いたりして書いていきます・・・

742膳所裏:2011/09/02(金) 14:42:24
その2
まずは串茶屋の歴史から・・・北陸街道沿いの一寒村に過ぎなかった串茶屋に人が集まる様になったのは小松城主、前田利常が那谷寺の復興工事を命じたからで、その促進の為職人達の慰安所として串茶屋に「郭」の営業を許可したのが寛永17年(1640)頃といいます。

ただ、1678年刊「色道大鏡」中の日本遊郭惣目の25遊所で敦賀六軒町、三国松下、今庄新町が載るのに串茶屋が省かれているのは、北前船が寄港し物流の通り道だった敦賀、三国そして近畿と北陸を結ぶ今庄と違い、外様の加賀に向かう宿場町では地元の客が殆どで全国区の知名度は得られなかったのでしょう。

しかし文化文政には、お隣の大聖寺藩の若侍の利用も盛んで、水茶屋時代からの木屋、府中屋を始め中屋、駒屋、山屋を御三家とし、松屋、高瀬、新屋(あたらしや)、大新、小新等20数件が軒を並べ、昼夜弦歌の絶えない街道一の色里となり、遊女の数も100を超えました。

743膳所裏:2011/09/03(土) 18:09:38
その3
当初、遊女がブタコと陰口を叩かれたぐらい低級な遊郭だった串が江戸後期に北陸街道一の遊所と成り得たのは、徳川十一代将軍家斉が江戸文化の頂点を作りあげた頃、串ではその気運にのり木屋甚三郎という楼主が廓改革にのりだし、木屋を春雲楼と銘打ち、什器は輪島塗、九谷焼のみならず諸国の名器を集め、お職と言われた花魁には琴、三味線、笛、胡弓、舞踊の遊芸を習わせ、さらに茶の湯、生け花、和歌まで学ばせたので花魁の中には詩歌はもとより書画にまで達するものがおり、他の茶屋もこれを見習ったので廓は栄え、富田景州等の文人、墨客が集い、串茶屋はちょっとした文化サロンの様相を呈しました。

また、島原のなます言葉、吉原のありんす言葉の向こうを張り(!そう言えば向こうを張るも廓言葉からきたんでしょうか?)大聖寺の町人言葉を参考に、居ないーおんならん、行ったーいきなった、など“串のおんなる言葉”と言えそうな独自の言葉を編み出し遊女に使わせました。

串の都に対する思い入れはいじらしい程で、実際祇園祭りを勧請し八幡社に合祀し毎年7月15日には祇園祭りを催した事でも痛いほど伝わってきます。

吉原に太夫がいたのは遠い昔のことで、この頃の江戸の花魁は遊芸とは真逆の存在で、舞や演奏は廓芸者に任せきりでしたし、島原も既に享保年間(1800頃)には馬琴に“島原の廓、今は大いにおとろえへ、太夫の顔色万事祇園におとれり”とありますので、遊女に古式豊に遊芸をさせ、それを楽しむ等という文化は吉原では笑い話にすら成らなく、長崎の丸山や串のように中央から離れた一部の所の方に僅かに残ったのかもしれません。

744膳所裏:2011/09/04(日) 15:06:34
その4 まわしアルアル待つのが大事
さて、この串茶屋でちょっとした事件が起きたのが宝永の始めといいますから1705年頃、串に郭の認可がおりてほぼ半世紀が過ぎたあたりで、場所は茶屋街の中央辺り、かのう屋とよしだ屋の間にあった間口三間、奥行き八間、石屋根、紅格子、中二階造りの“よごの屋”でした。

*この話が収録されていたのは遊女の墓保存会が編んだ串茶屋遊女を偲ぶ(6)で筆者には池田、小柴両氏の名前があります。

この時代まで串ではまわしを取ることはご法度で、もし事が発覚すれば死罪になってもおかしくない程の重大犯罪でした。もし仮に一人の遊女に二人の馴染み客がかち合えば、遊女はより馴染みの方を選ぶ事ができ、あぶれた方は楼主を通して他の店に泊まらせるようになっていました。

その際、他の店に行く客に“お引き花”と称する屋号染めの手拭を渡す風習があり、これにより客どうしの女を取った取られたの遺恨は残らないと考えられていました。

この実話(と思われる)物語の登場人物は、よごやの女主人で先代の一人娘のおふで、今庄の荒物屋の使い走りをしていた時代によごや先代の助次に見込まれて婿養子になった弥六、よごやには、すて(28才)、よね(36)、まん(19)、おこん(27)、みつ(42)のひさぎ女と言われた遊女がいて、この話の基になる日記を残した21才のりんは三番格付けで、前部屋三帖床の間付きの六帖間で15才の飯盛り女おさいと寝起きしていました。

そしてよごやの一番格女郎すての常客で藩が設けた十飛飛脚の、25,6才の松任在住の新七という日に焼けた金払いもいい色男の新一、金沢の鷹匠町の水内左近の下回りで、季節毎、大聖寺の支藩に丁銀を届けて帰る斉木三佐という四十がらみの士分格の男、そしてみつの客でその夜居合わせた、年の項なら六十齢のご隠居で、「この無粋新参!なにをほざく」とわれがねの叱声で間一髪修羅場を収めた加賀藩横山家の従士頭、上坂何某という白髪の老人。

このよごのやの出来事の後、串に「士分の登楼のときは刀槍のたぐい下足帳場おあづけのこと、放歌高吟慎みのこと」そして「きざみ花以后お構いなきこと」つまり廻しをとっても罪にならないというお定めが支藩からのお触れで出ました。

果たして串茶屋の運命を変えたその事件とは!・・・オフ会の時プリントでお渡ししますね。(´Д`)

745:2011/09/10(土) 01:59:22
ご無沙汰しております
たいへんご無沙汰しております。

最近、必要があって、2つほどレポートをまとめました。

「鳩の街 旧赤線カフェー建築の現状」
(その1:はじめに)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080000/
(その2:建物編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080001/
(その3:建物編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080002/
(その4:資料編1)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080003/
(その5:資料編2)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108080004/

「欲望は電車に乗って ― 都電と赤線 ―」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160001/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160002/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201108160003/

いずれも未熟なものですが、ご覧いただけたら幸いに思います。

746夕凪:2011/09/25(日) 23:39:20
売春摘発第一号 (飛田の巻)
始発電車がそろそろ出るという午前4時近く、新地周辺のあちこちの家から、
首をすくめるようにして男たちが出てくる。一見して“朝帰り”とわかるその男たちを、
待ってましたとばかり、物陰から飛出してつかまえるのは、
前日から徹夜の張込みをつづけていた刑事だ。

朝帰りの客から「前夜泊まった場所」「あっせん者の人相」「相手の女の子の様子」
「支払額」などの情報をとるのだが、なかなか口を割らない男たちに対して、
強制力のない職務質問では詳しい答えを得るのことは困難で
折角の職務質問も徒労に終わることが少なくなかった。

廃業届以後は、新地の業者たちも自分の店で女に客をとらせるような
厚かましいことはさすがにしなくなった。

すべて出張売春。

この事実をつきとめるための張込みは一層困難だった。

女の出てくるのを待って、夜どおし土砂降りの雨の中を
コウモリガサに顔を隠して立ちつづけた事も再三。

こうしてキャッチ出来たのは、新地業者で相当数のものが今年になってから
阿倍野界隈の旅館を買取り、そこを根城に偽装売春を続けているという事実だ。

阿倍野付近は西成署の管轄ではない。
所轄がちがえば捜査がスムースにいかないのは当局の通弊、
これをねらったのが業者たちの作戦だが、
藤原係長ら6人の捜査本部員は2班に分かれて
新地→旅館の偽装ルートの確証をにぎった。

そして4月4日午前9時 ―― 。

阿倍野区阿倍野筋1の9●旅館「美空荘」から、しどけない格好で出てくる
2人の女を藤原係長は、連日の張込みで赤くはれた目にみとめた。
サンダルばきの2人の女は刑事に尾行されているとは知らず、小走りに道を急いだ。
行先は、果して、飛田新地内の旧特飲店「美空」だった。

2月28日で一斉に模様替えをした。
大部分の店が灯を消した中で執拗な何軒かの業者は、特飲店の看板を待合に塗り替えて
なお営業を続けた「美空」もその執拗な業者の一人だった。

「美空」の経営者は、新地の業者と一緒に廃業届は出したものの、
これまでの売春のウマイ汁が忘れられず、転業直前の2月中ころ、
阿倍野筋1丁目の旅館を買取り「美空荘」として娘に営業させていた。

ポン引が、「美空荘」に客を連れてくると、経営者の娘は「美空」に電話をかける。
「美空」から「美空荘」までは目と鼻の距離。
電話一本で、女が「美空荘」にやってくるまでは10分とかからない。


夜の大阪にはびこる偽装売春の手口は、しだいに巧妙化してゆくようだ。



                  1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より

747夕凪:2011/09/26(月) 01:03:48
「まわし」 にみる 植民地的合理性
上方にまずあった公娼を、元和元年(1615年)江戸で吉原として起こすと、
各藩の城下町にもこれをまねるものが増えてきた。

そして五街道の宿場には原則として飯盛りと呼ばれる下女兼用の公娼が許可された。
関八州とよばれた関東各地も、城下町と宿場にはこうして遊女が公認されたのである。

ことに参勤交替が行なわれ、物資流通がさかんになると、
遊女の需要が増し、一方農民の零細化と貧窮が進むとその供給を増した。
ついに私娼もこれに加わって、だるま、ざるそば、草もち、牛人坊などと
関東地方で呼ばれた。江戸にまねて、けころ、よたかと呼んだ場合もある。

この伝統があったので、明治後の公娼数(大正末年調べ)も東京は5,778人に対し、
神奈川2,638人、埼玉109人、千葉259人、茨城231人、栃木773人と多数を抱え、
関東の習慣である「まわし」制により遊女の接客数は関西の2.7倍に達した。

関西の売春風俗は一応古い伝統にもとづいて仮結婚式の形を一部に取り入れているのに、
関東は全く徹底した性の商品化が行なわれ、まわし制などを行なったのは注目に値する。

これは、江戸での植民地的合理性の表れの広がったものであるが、
この習慣は関東にひろくひろがって、
三河の国を境に、東西性風俗の区別とさえなった。


                       1969年発行の新書より

748夕凪:2011/09/27(火) 01:08:11
売春摘発第一号 (尼崎の巻)
ここには 難波(ナニワ)新地、新天地、パーク、浮世小路、杭瀬新地など
市内数か所に赤線地帯があった。

これらはいずれも終戦時のドサクサまぎれに場所を構わず
自然発生的にできたものだが、

付近住民のゴウゴウたる非難が市や警察当局を動かし、
業者もついにたまりかねて、
数年前同市内初島、神崎の2か所に集結移転した。

しかし一部の横着な業者や、移転資金のないものがいぜん元の場所にとどまり、
青線、白線的営業を続けていた。

だから売春防止法発効の4月1日午前零時に行なわれた尼崎署の取締りは、
転業の意志を明らかにしている初島、神崎両赤線地帯の監視よりも、
むしろもぐりの多い、移転前の5新地に主力が向けられたのだが、
同夜はついに1件の違反も発見できずに終わった。


が、その日以後も当局は監視の手をゆるめなかった。
しかし県下の他都市では1件また1件と検挙の実績があがるのに、

尼崎市内だけはどういうものか1件も引っかからなかった。


ところがある日、難波新地からつい目と鼻の場所にある派出所へ、
同新地内のS子という女が「私を逃がしてほしい」と駆け込んできた。

これをきっかけとして、暴力による“ 管理売春 ”の事実が明らかになったので、
7日未明を期して正服警官を含む十数名の署員が踏み込み、経営者を逮捕、
同家に換金同様の身の上で残されていたM子ら3人の女性が助け出された。

こうして第1号の逮捕者が出たため、同市の業者に与えられた心理効果は大きく、
これで本気に転業を考えるものが増えるだろうと当局ではみている。


                1958年5月発行の新聞社系の週刊誌より

749夕凪:2011/09/30(金) 22:04:51
業者の絞る知恵 (飛田編)
大阪の赤線飛田の業者はすでに周辺の阿倍野区松崎町で旅館買収、
総工費1,600万円でSホテルを建設、他に15軒ばかりが飛田資本で運営、
白線地帯がでかきあがるのではないかと見られている。

???????????????????? 1957年発行の別の新聞社系の週刊誌より

750新今里X:2011/10/01(土) 23:37:12
Sホテル?
ホテルSNWの前でおばちゃんが客を引いて女の子(もちろん熟女)が顔見世するシステムやったのは飛田の流派やったからかな。

751夕凪:2011/10/20(木) 09:40:08
ホテル三菱東京UFJ ?
記事の載ってた週刊誌にもイニシャルで「Sホテル」て書かれてます。

手許にある1963年の住宅地図で「Sホテル」を 探したんですが、
「S」と「ホテル」を信用するんやったら、場所柄からいっても
「 ホテル 鴻池・山口・三十四 」が「 Sホテル 」である
可能性が一番高いですよね。
( 記事が原因(?)で挙げられたとか無かったとして !? )

新今里さんの頃も顔見せしてたとは知らんかったです。

※住宅地図では「ホテル」が前に付いてました。
※余談 :「鴻池・山口・三十四」の合併で○○○!


阿倍野筋1丁目の「美空荘」も探したんですが
当然ながら見つかりませんでした。


また松崎町や阿倍野体育館付近で「唄子」も探したけど
こちらも残念ながら見つかりませんでした ・・・・・

752T-レッド:2011/10/22(土) 00:38:30
水中エアステーション♪
『美空』はありますが、『美空荘』が見当たりませんなぁ。

松崎町のSに関しては、ホテル『3〇』の他に、ホテル『シ〇〇』というのがアベノプールの近くにありました。
この辺りは、ホテル・旅館がかなり多かったようですね。

ちなみに、『3〇』跡の角には、(毎日ではないけど)今でも不審者が立ってますよ。

753夕凪:2011/10/03(月) 23:42:52
ポン引団と戦う青年会
赤線の灯も消えようというご時世に、
白昼堂々ポン引きが横行している街がある。

大阪市西成区飛田本通商店街界隈がそれ。

所轄西成警察署では特別巡ら隊15名と私服警官を何人か出すほか、
昨年8月からは大阪府警察本部から機動他30名の応援を得て
毎日午後2時から午前2時まで取締りに当ってきた。

ところがポン引きの方は一層組織化し、
取締りの眼をくぐって朝7時ごろから姿を現わし、
出勤者や学生まで引っぱるという悪質ぶりを発揮している。


このままでは通る人もなくなると、

たまりかねた商店連合会では、
この7月青年会を決成して街の浄化に乗り出し

「被害を受けそうなときは最寄の店へお入り下さい。お助けします。」

と通行人に呼びかける一方、
その暴行ぶりをカメラにおさめて警察へ届けるなど、
街をあげて暴力ポン引き一層に努力を続けている。


??????????????????????1957年12月発行の新聞社系グラフ紙より


●掲載写真の解説より

1.ポン引き団の手先はすべて婦女子だ
  売春を勧誘すれば市条例違反、
  つきまとえば軽犯罪法違反、

  腕力で写真のように引っぱれば強要罪になる。
  さらにこうした女を雇使し また売春させるボスは
  売春防止法でまず懲役2年になる。

2.通行人が抵抗すれば見張りの用心棒がかけつけて
?? 通行人をどこかへ連れ去り金品を強奪するという。

3.私服刑事を見張るため自転車に乗った男がウロウロし
  刑事を発見すると伝令に早変わりするそうだ。

4.売春防止法が発効すれば、ポン引き団のこれら手先は
  同法第5条違反で6ヶ月以下の懲役になる。

5.西成署では管内を6つの警戒区に分け、
  取締りにつとめた結果、この春約300人いたポン引きも
  半減したが、まだまだ安全といえない。

※.大阪飛田遊廓付近の安宿はポン引き団の巣だ。
  張込みの刑事は毎夜4、5人のポン引きの女を捕らえて
  いるがあとを絶たない。
  女たちは捕まりそうになると例外なく全力で逃げるので
  女と刑事の追っかけっこが毎夜のように夜の街で展開
  されている。 ※他ページの写真解説より


        

754新今里X:2011/10/05(水) 01:38:52
ウラ取り
昭和33年 阿倍野筋1丁目9xに「旅館美空荘」ありました。
昭和35年「旅館美空荘」のまま。
昭和37年「旅館美空荘」ではなくなり社員寮になってる。

自分の記録としては平成元年に「旅館美空荘」の北隣の近代建築らしき住宅と向かいの廃業したラブホは撮影してました。
まいどまいどのウロおぼえですが「旅館美空荘」敷地は立ち退きで建物が無かったような気がします。
「ホテル春日野」「南山荘」や「阿部野橋温泉」「錦飲食店街」「旭横丁」などは後まで残ってました。
2005年10月23日の「チャイナドレスを堪能したい!」オフ会のときに散策した一帯は、再開発の名の下に全部Q's MALLの餌食になってしまいました。

昭和33年の松崎町のSホテルですが「新大阪ホテル」というのもあったようで、のちに「新大鉄ホテル」に変わって、その後モータープールになってました。
レッドさんが指摘してくれてた「ホテル シ〇〇」は昭和40年頃から営業のようでした。
2軒のSホテル候補も含めて密集している宿泊施設の名前は「栄竹」「福久寿」「銀泉」「美山」「朝日」「三喜荘」「今一」「桃源荘」「すずらん」などなど。
話の分かる旅館(飛田直営)はどれなのかとても気になります。

ぼくが学生時代、天予備の向かいあたり遠目にオ×コみたいな楕円のネオンサインの旅館があったけどアソコはいったい…(笑)

755T-レッド:2011/10/12(水) 02:57:00
女工哀史
最近、何度か洞泉寺・K本邸にお邪魔する機会があったので、大和郡山の小話をひとつ。


やはり、この辺りの産業と遊所とは密接な関係があったようです。

大和郡山は金魚の養殖で有名ですが、他に紡績産業も盛んでした。

戦後、JR郡山駅前には大○○紡績工場があり、九州から大量の女工が働きに来ていました。

しかしその実情は、紡績工場の賃金では郷里に仕送りもできず、やむなく洞泉寺、あるいは東岡町で働く・・・
という女工も少なくなかったそうです。

洞泉寺・東岡町の両遊廓が現役の頃、婦女子は、夜の外出時には特に気を付けたとのこと。
二つの遊廓が至近距離にある大和郡山の町は、一部そんな雰囲気でした。

郡山の町も、紡績工場の存在により、発展・衰退という経緯があったようです。

また、箕山新地には検番がありましたが、新地内だけでなく
、少し離れた所にある料亭『O川』にも芸妓を派遣することが多かったそうです。

新地内では、(小)料理屋に呼ばれ、二階でドンチャン騒ぎ・・・
という遊び方でした。


※以上の話は、箕山新地(大和郡山市○○町)出身の方からお伺いしました。

756夕凪:2011/10/17(月) 02:18:02
尼崎のアオセン地帯
尼崎〜出屋敷ヤミ市地帯を構成する社会的要素として無視できないのは
アオセン*地帯(非公認の売春業者・地帯)であろう。

『尼崎の戦後史』によると、敗戦後市内に多数出没した接客婦(「パンパン」)について、
約150の業者がおり、1954年10月には中央警察署管内220業者、接客婦約1,000人とも
言われるほどに膨れ上がったという(348頁)。

Mさんによると、阪神尼崎駅から出屋敷駅にかけての地域では、
中央商店街より南、線路に沿った一画に、2階建てのこうした業者が集まっていたという。

市内のこうした業者は、昭和20年代末から、
売春防止法が制定・施行される30年代前半頃までに移転し、
新地で営業を再開するようであるが、

ヤミ市時代、こうしたアオセン地帯がこの周辺にどのような要素として存在していたのか、
客層や業者の性格などの事実を追いながら検討する必要があろう。

*ここでは当時の一般的な呼称であった「アオセン」を使用したが、
 尼崎のこの周辺をアオセンと呼ぶことはあまりなかったようである。
 Mさんによると、線路をはさんだ南側が寺町にあたるため
 「テラマチへ行く」などと表現することはあったという。


                    1996年発行の地域史研究雑誌より

757夕凪:2011/10/17(月) 02:40:36
「 特飲街 」 と 竹谷派出所
戦後竹谷派出所のその北側とその東の周辺は、
パーク座などを中心とした「特飲街」と呼ばれた所で、
夜には売春婦が袖引きをしていた。

初島の遊郭を戸ノ内(神崎新地)に移した時(ママ)、
竹谷や杭瀬などの特飲街もいっしょに移した。
その時K○子議員が中心だった。

ここの派出所は「昭和29年、大洲橋派出所から分かれて開設。
特飲街の密集地。喧嘩・暴行・傷害・酔っ払いなど多い。
夜は売春婦が良民の袖を引き、うかうか夜道を歩けないといわれていた。
・・・・・ また付近には工場寮があって、給料日には、街がにぎわう」とある。


    1997年発行の尼崎の戦後苦しかった時代の生活の記録集より

758新今里X:2011/11/18(金) 21:24:59
竹谷派出所の北側とその東の周辺 昭和30年代の地図より
北側というのは派出所の北の公園になってるあたりにひとつの歓楽街があったようです。
かほる・びわこ・一声・喜多八・白雪・江戸っ子・みや・千代鶴・風・二見帝・ツルカメ・琴の浦・天龍・みき
など。

その東の周辺というのはパーク飲食店街・現在のかんなみ街だと思います。
当時の屋号は、みさ家・とんねる・初の家・ピンク・朝日・小舟・水月・敷島・寿・富美家・すみれ・清美・ゆき・松の家・千代の家・しぐれ・大八・千成・衆楽など。
とんねるは現在の通称トンネルとはちがって前に果物など売っていた方の角がとんねるでした。
兵庫県警察史に掲載されている売春防止法施行当時のかんなみ街と思われる写真がありますが現在とさほど変わってないような…

あと出屋敷駅の駅前にもスタンド街があるのですが、現在は駅前の広場になっています。

759新今里X:2011/12/04(日) 23:55:19
かんなみ街の聞き書き
かんなみ街に組合があるのか疑問に思って10年ほど前に思い切って中で何度か聞いてみたことがあります。
結果としては組合というものはないということでした。
やはりあれだけの店の数で営業しているということは何らかの寄合はあると思うのですが、その辺はどこの誰だか分からないような人間に言うべきことではないのかも知れません。

以前に掲示板に書いていたこともあるかと思いますが下記が2003年頃までの聞き書きを整理したものです。

昭和25年、芝居小屋パーク座の施設としてパーク飲食店街が開業、建築されたのは昭和23年という人もいました。
開業当初から特殊飲食店であり、赤線だったそうです。(最初は許可されての開業だったのではないかと想像しています)
当時は出屋敷駅からかんなみ街付近までの間にも同様な営業をしている店が多数あっとのこと。
昭和33年の売春防止法施行以降も飲食店の建前で営業を続け、パーク座が廃業の折り土地建物を各々の店子が買い取ったそうです。
現在まで営業が継続できた一因に各店鋪の家主が違っていることもあるのではないかという話でした。

もうひとつ、●●小学校の東側、東●●町に新天地があったそうです。
ここは現在はとっくに廃業しており、普通の住宅街となっています。

760夕凪:2011/12/11(日) 15:33:04
2007年5月の活動 ― そして 12.13 (予習編?) 
●5月「まちづくりひろば」のご案内 Date:2007-04-30 (Mon)

 不思議の空間・飛田新地って、ほんとは何? なぜあそこにあるの?
 釜ケ崎一帯とはどういう関係?釜ケ崎訪問者にどう説明したらいいの?
         〜釜ケ崎の歴史見直しシリーズ続編〜

 発表者:加藤政洋さん(立命館大学 文学部助教授)


 5月は釜ケ崎地域に隣接する、いわゆる旧飛田遊郭を引き継ぐ
 飛田新地の街についてもっときっちり基本的な視点を得るために、
 これをテーマとします。

 これは興味本位のものとか、勉強のための勉強とかではありません。
 自分たちの地域を案内するときに
 飛田地域についてはどう説明すればいいのか、
 視点が定まっていないからです。

 そういう実践上のニーズにこたえて、この機会をもうけました。
 きちんと聞いてくれる方なら、どなたでも歓迎。


 ■加藤政洋さんのコメント
 **************************
 飛田新地誌ことはじめ
 大正5(1916)年に開廓して以来、遊廓、特殊飲食店街(赤線)、
 そして料亭街(?)と変遷してきた飛田新地。
 この土地の歴史にはさまざまな出来事が織り込まれていますが、
 90年という時間のなかで、あるいは現在の特異な風景に目を奪われて、
 とかく忘れられがち、あるいは見落とされがちになっております。
 今回は、飛田の来し方をたどり、基本的な事実関係を掘り起こしつつ、
 地域のなかの位置づけについても考えてみたいと思います。
 **************************


        釜ケ崎のまち再生フォーラムのHPより(一部略)

761新今里X:2011/12/19(月) 18:42:52
2011年12月13日 釜ヶ崎のまち再生フォーラム 報告
当日都合よく参加できましたので、ほんまに簡単ですみませんが報告しておきます。

釜ヶ崎のまち再生フォーラム
定例「まちづくりひろば」
飛田の語り方を考える・その(2)
〜話題の新刊『さいごの色街 飛田』の著者をお招きして〜
ゲストスピーカー:井上理津子さん(フリー・ライター)

まったく混み具合がわからなかったので少し早めに到着。
開始直前には30〜40名で部屋がいっぱいでした。
参加者の自己紹介などあったようですが20分ほど抜けていたのでぼくの方ではどんな方々がいたのか不明。

以前に立命館大学の加藤政洋教授がゲストのとき、釜ヶ崎と飛田新地はセットに思われているが実際は別のものという話がありましたと前置き。
それから『さいごの色街 飛田』著者の井上理津子さんの紹介。
続いて井上理津子さんが語る出版されるまでの経緯・裏話。

興味を持つきっかけ
取材の糸口と試行錯誤
プロセス・ジャーナリズム
飛田新地での出会い
取材内容の虚実
書ける事と書けない事
新地組合への取材
警察への取材
某自由業の方への取材
ある経営者の思い
取材の終わりと出版
新地組合への報告…などなど

参加者からの質問や意見交換

新地の女の子の表情
相撲協会
新地に勤める事情…などなど

著書へのサイン会、並行して部屋の片付け。
散会後、三丁目百番で二次会 (都合により不参加)

忘れてる事もあるかと思いますが大体こういった流れでした。

762遊楽:2011/12/20(火) 12:47:23
東遊郭(×)⇒東新地(〇)
北浜に…とお尋ねしたのは、性格同様あまりにも雑把ですみません。

場所が場所だけに岡場所と推測するには失礼だし、高麗橋辺りの旦那衆が
「新町」まで歩いて行くとすると直線距離でも十丁以上はあると思います。
「酔うて、そこまで行くのしんどいなぁ」なんて感じで、こじんまりとした
花街もしくは遊興街として存在したんじゃないのかな?と勝手に推察して
いるのですがσ(^^;)、淡路町「御霊神社」付近という事で情報の方どうぞ、
よろしくお願いいたしますm(_ _)m

※今里Xさん、その節はありがとうございます。カメラはやはりあの方向で
 購入を決めました(^_^)v

763新今里X:2011/12/20(火) 13:23:01
(無題)
南地から分裂したとこでもないですか?

764遊楽:2011/12/20(火) 13:57:16
南地六花街(!?)
飛び地にしてはちょっと遠いですものね…どこかの文献でもなく、
ネットで探してもやはり東新町といえば名古屋…○| ̄|_

昔、老松町界隈の古老にお聞きした話をノートに控えてあった
覚書程度のものなので、やっぱり私の聴き損じでしょうかねぇ(^^;)
お騒がせして申し訳ありません。もし、なんらかの関連情報が
ございましたら…ということで結構ですのでまたご教授よろしく
お願いいたします。

765新今里X:2011/12/31(土) 03:11:25
(無題)
南地から独立してその地域で営業してたらしいということは知ってますが何も調べてませんのでぼくの方では詳細は不明です。
あの辺りには古い店も何軒かありますので、一度聞いてみたらどうでしょうか?
並行して図書館で調査するなど、掲示板で聞くより楽しみが多いかと思いますよ。

766新今里X:2011/12/31(土) 03:18:44
○○○人もビックリ
最近××機能が危機的状況に陥ってる新今里Xです。
それはさておき、以前より調査中の松島新地の老舗料亭について報告させてください。

お年寄りから若い人までこの名前を聞けば松島新地が頭に浮かぶという料亭「■■▼ー▼」
はじめて足を踏み入れた●十年前にはもう印象的な名前の看板があったように思います。
しかし遠い記憶なので定かではありません。
それが気になって調べてみると昭和20年代には「■■▼ー▼1」と「■■▼ー▼2」が松島新地で営業していたようで「2」の方は喫茶店だったそうです。
古い地図などから推定すると現店舗は50年以上前からあの路地の角地で営業していたようです。
同新地では他にも数軒は同じ場所で50年以上続いてる老舗料亭があり、中には移転しながら続いてる店もあります。

特に料亭「■■▼ー▼」を調べていたのは昭和20年代にしたらちょっと先取りしたようなかっこいい店名だったからです。
なんだか南欧の響きがする名前なので料亭ではなくイタリア料理の店でもいけるかも…と思います(笑)。
特に語学が苦手だった自分としてはインターネットの翻訳をヤリマクルしか能がないので、いろんな言語を当てはめてみました。
イタリア・スペイン・ポルトガル語などは意外としっくりくる翻訳がありませんでした。
ロシア語では「コームナタ(部屋)」という単語もありましたがやはり店名としたら違和感があります。

もちろんスッキリするために以前から×ろ×ろと調査を進めてもいました。
その結果分かってきたことは、言い伝えによればインドの言葉で「癒しの家」「憩いの場所」などと言う意味を持つこと。
戦後の松島新地復興当時から営業していたのではないかということ。
某風俗BBSの書き込みに「宮殿」や「城」という訳を書いてる方がいるようですが、あれは違うはずですと証言もありました。

ウラ取りということで、ときどき立ち寄るインド料理の店の店員さんに「■■▼ー▼」という言葉がインドに無いか聞いてみたところまったく「???」という感じでした。
しかしまぁインドで使われてる多数の言語の中にうずもれているのかも知れません…
戦後南方より復員された方も多いのでインドはインドでもインドネシア語という可能性もあるかもと思ったりもします。
残×感のある報告ですみませんが、何か分かることがあればご意見いただければありがたいです。

肝心の店名が伏字なのはご迷惑がかからないようにとの配慮ですのでお察しください。(もちろん読めますよね)

767夕凪:2011/12/31(土) 12:38:44
カフエ指定街の誕生:長野新地
●カフエを集めて長野新地

 南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
 新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
 予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。

 場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
 地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。

 町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工

 こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。

 現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
 これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。


                1933年4月の大阪※日新聞より

768夕凪:2012/01/10(火) 06:37:22
長野温泉郷の誕生:長野新地
●河内長野に? 温泉郷 ?

??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
 府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
 付近一体の温泉開発を計画していたが、
 このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。

 近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
 来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。

 この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
 明治の末から大正にかけ、
 同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。

 その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
 地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
 府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)

 将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
 同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。


                  1961年3月の※日新聞より

769夕凪:2012/01/10(火) 07:21:43
料理旅館業についての御願い:長野新地
●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)

(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
 最近  旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。

 両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。

 かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
 之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
 一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
 その営業内容が証明されるのであります。

 特に最近においては町名も公園通りと変更し
 その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。


                      (申請年月不明)



 ※今年末年始にかけての河内長野に関する一連の書込は
  某郷土史研究会の資料からの引用です。
  (=新聞記事等は孫引きになります。)

770夕凪:2012/01/20(金) 01:46:50
長野温泉と長野新地
●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
 山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
 俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。

 温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
 長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、

 南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
 とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。


●長野新地の生まれたのはS・8年都市計画法ににもとづくもので、
 用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
 カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。

 当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
 花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。

 その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、

 長野温泉として脚光を浴びたのは
 S・38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
 当時は観光ブームもあって隆盛っをきわめた。


               1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋

771夕凪:2012/01/22(日) 21:34:50
明石遊廓
美人と景色を以て天下に名高き明石遊廓は
明石駅を下車し一直線に三丁錦江橋を渡り
中崎遊園地の西端にあり

三方を海に面し寝ながらにして
白砂青松の中崎遊園地を眺め

出船入船の和歌を聞き
淡路舞子は手に取る如くに見ゆ
遠望近景悉く捨て難きものヽみ

美人に於いては天下の名勝地たると共に
遊覧地に相応しき美人揃ひである

眞に明石の情緒を知らんとする者は
必らず一度此地を見舞はねばならん。


  ねんねんしてみよ淡路の島が

        浮つ沈みつ夢心地


 いろは楼、一力楼、西榮楼、千歳楼、尾西楼、
 可祝楼、花月楼、山本楼、榮楼、金波楼、
 錦松楼、三洲楼、第一末廣楼、第二末廣楼
              (いろは順)


             1934年発行の明石の観光ガイドより


 ※「三洲楼」は1937年発行の他資料では「三州楼」とありました。
  貸座敷数は同じく10件で名称もおなじでした。

772夕凪:2012/02/07(火) 00:32:45
みす・大阪の風貌
かふぇというものを、所謂いろまちといっていゝものか何うか知らないが、
伝統をの持った遊びに就いての約束を強ひない、自由主義的な魅力は、
あらゆる花街を脅かすに足る、情痴の雰囲気を持っているからであろうか、
新興かふえはぐんぐん花街を蚕食していった。

昭和5年飛田大喜楼が、始めて酒場式に改装し、
30分50銭の歓楽券を発行して、

ノンセンスな洋装の娼妓たちに、
寝室への遊興を直接交渉させる様式化した時は
遊客は街路に列を作って、その新しい歓楽を悦んだものであるが、


今日飛田、新町、松島などのチャブ屋化の先駆者として
逝く10月25日禁止されて終わったけれど、
大阪花街を述べる上に、絶対に漏すことのできない事柄である。


                   書きかけ・・・・です。

773新今里X:2012/03/15(木) 01:04:22
あべの伝説
「YOUごはんまだ?」のICHIGOちゃんを録画したVHSがないかと押入れを探していたら80年代のエロ本を発掘しました!(笑)
懐かしくなりつい手に取って読んでると興味深い記事が…

ルポライター独多宇一氏取材の「ヤッタネ!アベノ・スキャンダルの歴史!」という記事です。
昭和59年に書かれたもので独多宇一氏のことを「この店とは他のだれよりもゆ着しており、内情をすべて知りつくしている…」と紹介されています。
それだけにかなり信頼度の高い記事ではないかと思い、以下に要約を紹介させてもらいます。

ノーパン・トップレス喫茶期
オーナーA氏は電話をかけてもタダになる「マジックホン」を開発するが警察の圧力で製造中止、その秘密工場を改装して昭和55年12月にオープン。
京都下賀茂神社近くにあった「ジャニー」というパンチラ程度の店などに着想を得てノーパン喫茶を始める。
オープン一週間後には全国に先駆けてウェートレスをトップレスにしてノーパン・トップレスのスタイルを確立。
昭和56年に入るとスカート・パンストを取り払いバタフライ姿に、さらに陰毛を剃り落として局部をテープを貼って隠すスジ貼りにエスカレートするも警察の圧力で中止に。

ショー喫茶?期
露出が限界となりショー喫茶に路線変更、野球拳/ボディ・ペインティング/パンティ・オークション/なめクジ・ショーなど客が参加して楽しむショーを始める。
昭和56年5月またまた警察の圧力、ショーに客の参加するのは風俗店では○、飲食店では×ということで警告される。
当時、全国に多数営業していたノーパン喫茶はスキャンダルと同様にショータイムを規制されたことによりブームが終息に向かっていったとのこと。

ショー喫茶?期
客の参加がダメということで、ウェートレス同士・ウェートレスと従業員という形にショーを路線変更。
トップレス・ボクシング/レズビアン・ショー/ドテ相撲や、ウェートレスと客が一時的に雇われた形の従業員のマンツーマン・ダンス/アップダウン・ショーなど。
昭和56年12月、読売テレビの「イレブン大賞」受賞。
昭和58年、バナナ・ショー/オッパイ・プリンの試食会、同8月には第一回アマチュアヌード・コンテスト開催。
ノーパン喫茶ブームが衰退していくなか孤軍奮闘。

もちろん記事はもっと詳細に書かれていますし、モノクロページですが多数の写真が入っていて、ウェートレスも従業員もすごく楽しそうに写っています。
独多宇一氏が記事の最後に紹介してる参考文献は「ダ・カーポ」「月刊せんば」「おとこの読本」でした。

774新今里X:2012/03/15(木) 02:54:00
ミニスカ流行の終焉からパンチラ喫茶までの橋渡し
ノーパン喫茶ブームへつながる原型となった京都下賀茂神社近くのジャニーという喫茶店を検索してみると1978年(昭和53年)10月15日オープンと書かれてることが多いですね。
店名もジャーニーとされていたり1976年オープンという説もあるようですが、どちらもぼくの方では出典や詳細不明です。
ただ当時のジャニーはノーパンではなくパンチラ喫茶としてちょっとしたお色気がウリの店だったようです。

小学生の頃の記憶ですが超ミニスカートの制服を着たウェイトレスさんが給仕してくれるレストランをおぼえています。
子供ながら「流行過ぎたのにまだミニスカートなんや」と思って見ていたので1975年あたりから数年の間だと思います。
叔父さんがぼくに「晩ご飯食べに行こ」とよくその店に連れていってくれました。
子供を連れてエロ目的じゃないよとアピールしたかったのでしょうか?
その店の大半はお座敷だったので目の高さ辺りをウェイトレスさんの生足やパンストのフトモモが横切り、他のテーブルに置いたり下げたりするときに少しかがむとパンチラです。
自分の注文より他のお客さんの注文の方が気になり、見えやすいテーブルのお客さんが「もっと注文してくれへんかなぁ」と思ってしまいます。
ウェイトレスさんはいろんな人がいるので、かなり豊満なオバちゃんもいますがもちろん同じ制服です。
かがんでもパンパンに張ったミニスカートとムチムチの両フトモモしか見えず、パンティは肉に挟まれてしまってパンチラはビデオ判定のレベルです。
今では余裕をもってアリですが、子供の頃のぼくはあれはナイな…と思ってしまいました。

そのような経験をしたので、ミニスカートブームが去ってパンチラ喫茶ジャニーがオープンするまでの間にも、表立ってウリにはしないけど男性の目を楽しませて集客アップをしていた店がある程度は存在していたのではないかと想像します。

775夕凪:2012/03/18(日) 22:56:33
NOパン革命! (関西編)
●あっという間に全国に広がったノーパン喫茶ブーム

 大阪・京都・東京の人気ノーパン喫茶50軒を紹介したガイドブック
 これ1冊でノーパン喫茶のすべてが分かる!

01.ジャニー(京都・西鴨車庫)ここがノーパンの神聖なる発祥の地だ!
02.セクシー・ユー地下エミルマ(地下鉄野江内代前/南海天下茶屋駅前)
  エミルマカナノトーカスってこれ店名?
03.プレイガールABS(寝屋川市初町)水そうの中をバストのあるお魚がスイスイ
04.アベノ・スキャンダル(阿倍野区阿倍野筋)ナメクジパーティーにお客はメロメロ!
05.ジャクリーヌ(大阪駅前)ハイ・ファッションのナウいギャルズ!
06.トップレス・シャッター(北区曽根崎)今はやりのポラロイドで撮影OKのお店
07.ファンシー・ハウス(?)日活のロケーションにも使われたお店!
08.アマゾネス(松原町)ブラジル美人ダンサーがショータイム!
09.エキサイティング(宗右衛門町)トップレスのバニーガールがフィーバー
10.パピヨン(戎橋)たぶんこの店の女の子がどこよりも若い
11.ナイトプラザ・ナンバ(?)ノーパンはこういった店で持続するかも
12.喫茶「S」(京都一号線沿い赤池)ポルノ映画館とビニ本とそしてノーパン
13.ウワサのスキャンダル(阪急東通商店街ちょいハズレ)
  白の店内に黒人のバタフライとはスゴイ
14.PART?(上新庄)ノーパン喫茶をヤル喜びが店内に充満!
15.喜間暮(上新庄)下からのぞかなくてもヒップが丸出し!
16.ひまわり(曽根崎)ピチピチギャルがバタフライと網タイツ
17.赤い電話(千日前)鋭角バタフライが目の前を舞い踊る!
18.孫悟空(阪急東通商店街)はちきれそうな超ボインがユッサユサ!
19.セクシーユー(近鉄長瀬駅)モノホンのプロモデルがバイトで出勤中
20.クリスタル(炭屋町)ノーパンというよりもヌードそのもの!
21.ヤングレディ(天神橋四)パンティオークションにお客はムラムラ
22.紅花(千日前)1日1回10日で10回、ビニ本いただき!
23.ムーランジュール(千日前)シットリした大人のムードのギャル揃い
24.スキャンダル(ミナミ)店内の階段がなんともウレシハズカシ!
25.ピンク・パンサー(白梅町嵐電車庫スグ)農協の団体さんが時間を指定してドッと
26.モンロー・ウォーク(北区衣笠総門町)常連さんとノーパンを超えておつきあい
27.レッドハウス(玉屋町)虎の皮の超ミニでトップレスの大迫力!
28.ファンタジー(東三国)この先どこまでエスカレートするのかナ
29.モンロ(十三)マル秘ハッスルゴーゴーショーが売り物
30.ニュー初芝(梅田)お色気百パーセントで元気回復だもんね
31.ニュースカイラブ(東三国)ボディーペインティングOKでウハウハ
32.女神(難波)素人っぽい新人ギャルが妖しいお色気で
33.KOOL(阪急庄内)夜は外人ダンサーショーで興奮!
34.エクボちゃん(千日前)キュッと思わずヒップに力がこもります
35.セクシーUP(京都四条)ノーパン喫茶のキワメツキを目指す店!
36.セクシーUP/PART?(京都河原町)超鋭角バタフライってくい込むのです


                 1981年のノーパン喫茶ガイドより


●この本に掲載されてる『ジャニー』のオーナー(?)の土■さんへのインタビュー記事の
 中出、1978年の7月に『ジャニー』をノーパン喫茶としてやってたて掻いてマス。

776新今里X:2012/03/19(月) 23:07:03
こんなとこまで
検索してみたらジャニーの開業が1978年10月15日としてるのがけっこう多いですよね。
なにかの本にでも書かれてるのがモトかな?
真相を探るべく「ノーパンの神聖なる発祥の地」を訪ねてみたいです(笑)

近所の猪飼野橋にもノーパン喫茶ができましたが残念ながら高校生だったので潜入できませんでした。
今里新地から少し離れた住宅と工場ばかりの場所だったので怪しすぎて誰も近寄らなかったのか数ヶ月で閉店してしまい、大人になったら入ってみようという高校生の夢ははかなく消えてしまいました。

777掛川のすずもと:2012/04/15(日) 08:20:50
藤枝新地残照
旧東海道沿いからほんの少し外れた場所で藤枝の市役所の裏の小川にそった辺りが藤枝新地があったとこです。今でも置屋さんだった建物が薬局として残っています。 やはり掛川の十九首遊郭跡のように狭く入りくんだ路地や古い旅館やそのあとがありその当時遊郭があった雰囲気が今でも感じとれます。

778新今里X:2012/08/20(月) 17:16:39
善通寺 砂古裏遊廓
善通寺の砂古裏遊廓に久しぶりに行ってみたところ十年以上前わずかに残っていた妓楼もなくなり普通の住宅街となっていました。
花街の方はまだ料理屋などがあり、スナックや飲食店がならんでいて雰囲気は残っていました。
廃娼運動や第11師団が作られたり乃木将軍の赴任などが理由で、たしか明治31年に遊廓が町外れに移転して街中に残った花街と分離したと思います。

779新今里X:2012/08/25(土) 22:34:45
敦賀 東遊廓
ぶらっと敦賀に行ってみました。
町の中心が戦災にあっているので古い町並みはほとんどなく遊廓のあった地域もなんの変哲もない住宅街となっていました。
代わりに気比神社横にスナックビルだらけの意外と大きい歓楽街が営業中です。

780新今里X:2012/09/09(日) 00:16:07
尾山飲食店街
1991年の金沢旅行で近代建築の神門がある尾山神社を参詣したときに知ったのですが後回しになってしまい先日やっとこさ再訪しました。
歓楽街のひとつとして書いておきます。

戦後に引揚者を優先的に入居させたところ飲食店街を形成。
娯楽の少ない時代だったためかなり賑わったそうで、昔はそれぞれの入り口にアーチがあったという話です。
現在は公園化が計画されていて石川県が管理する北側より金沢市が管理する南側の方の立退きが進んでいます。
いちばん南の入り口の建物は元美容院で午後4時頃には飲食街のホステスでいっぱいだったそうです。

781新今里X:2012/09/09(日) 00:24:42
丸岡町 富田遊廓
丸岡駅から徒歩小1時間、田んぼの中の一本道を歩くことになります。
駅からの地図をよく見てなかったので30分も歩けば…と思ってたら見えてるのになかなか辿り着きませんでした。
現地は広い範囲にパラパラと最近の飲食店があるくらいです。

782新今里X:2012/09/09(日) 01:29:14
加古川 関根新地
2年前に墓参りの途中で時間が無く下見だけでほったらかしにしてた加古川に行ってきました。
下見のときに何があるというわけでもないのに気になる地域があったので今回はその付近で聞き込みをしてみました。

戦後、それなりの営業をするものが街中に点在していたので、国の主導で業者を一箇所に集め3年の期限で営業を許可することとなり、田んぼの中に数軒の家しかない町外れに新地を作って袋小路の一本道の両側に13〜15軒の店が開業。
営業当時は行列ができる盛況で、ここで働く女の子は身売りで連れてこられた訳ではなく自分で稼ぎにきた人だっので朗らかな子が多かったそうです。
また、新地を作って営業許可を出した手前、街中での密売淫の取り締まりはかなり厳しかったそうです。
売春防止法施行とともに廃業、現在は宅地化しているので袋小路の道の他に痕跡はありません。
地元では単に新地と呼ばれ、関根は新地が作られた場所の比較的広い範囲の古い地名だそうです。

参考:以前の夕凪さんの書き込みです→ http://6402.teacup.com/takanome/bbs/874

加古川の花街の方は戦前の古地図や現在の状況からも分かりやすく、今でも検番の建物も残っています。

783新今里X:2012/09/10(月) 13:07:52
美川 南町遊廓
真新しい料理旅館が一軒あるだけ。
他も一見古そうに見えるけど良く見ると新しい建物ばかりで雰囲気も残ってない感じです。

784新今里X:2012/09/10(月) 13:26:58
松任 辰巳町遊廓
辰巳町と書かれた新しいアーチが2ヶ所の入口にあり、いたって普通の飲食店街になっています。
スナックの入ったビルと居酒屋・小料理屋などで中にはちょっと高級な店もあったりします。
当時の建物も散見されますが住宅として前が改装されてるため横から見ないとわかりません。

785新今里X:2012/09/10(月) 13:43:47
福井 栄新地
青春18きっぷで何度か北陸方面に日帰りで行ったついでに福井市内の栄新地がどうなってるのか見てきました。
2003年に訪れたときに残っていた新地の建物のほとんどがなくなっていました。
翌年の福井豪雨の影響があったのかもしれませんし、単に建物の耐用年数で建替えだったのかもしれません。
何軒か営業していたスナックも全部看板を下ろしたり建物自体がなくなってたりで歓楽街としては消滅していました。

786夕凪:2012/09/13(木) 01:05:11
羽二重屋の跋扈する福井花柳界
福井芸妓総数は263名で免許地は公園地に橋南、
花代は1時間(2本)76銭、舞子1時間(2本)60銭。
祝儀又はポチは婚礼の外は無いというわけ。

土地柄だけに実業家の花柳界に受ける事は甚だしく
殊に機業地として羽二重商人の仲間達が
殆ど市花柳界の覇権を握っている云うも不可なし。

福井市の免許地は公園地と橋南の2ヶ所に分かれて居るが
概して公園地は宴会芸妓として扱はれ橋南は低級扱を受けている、

数の上で分類すれば公園地が166名、橋南は97名
是は福井芸妓組合が統括して纏めて居る、
料理屋は、組合組織で組合?所有者が70名、無株者が62名、

そして芸妓は芸妓組合と料理屋組合の契約に依って
有株料理屋にのみ出入を許され
無料理屋は有株料理屋の名義に依って芸妓を客席に侍らせている。
料理屋は芸妓屋の花代の中その2割5分を手数料として収得している。


                   1919年の雑誌より

787夕凪:2012/09/15(土) 11:38:39
大阪市パノラマ地図
●ご存知かと思いますが『大阪市パノラマ地図』と言う
 大阪市域第二次拡張(1925年)直前の大阪市の姿を描いた、
 1924年発行に発行されたスゴイ地図があります。
 もちろん松島遊廓もバッチリです!

  ttp://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2431.html

 実はこの地図には大阪市域第二次拡張後の1929年に発行された増訂版が存在します。

(参考)大阪市域の変遷 ttp://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000010265.html

 先日、大きな期待を持って中之島図書館に行き新旧の地図を確認してきたました。
 詳しく比較する時間はなかったのですが、
 相違点は下記の3点だけのようでした・・・・

  ?第2次市域拡張により新しく大阪市となった地域の区名を元版に追記
  ?市電の延伸された路線を元版に追記
  ?地図の右上角の序文(?)に「増訂にあたって」を追記

 増訂版 ttp://mozubooks.com/?pid=47863062

●しかし先日、某オークションに『大阪市パノラマ地図』が出品されており
 その参考画像を見ると増訂版はおろか元版の右上角にあるはずの序文(?)が
 見当たりません?

  ttp://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r91719720

はたしてこの地図に異版が何種類あったのでしょうか?

 P.S.落札者はボクではありません。


●なお、この地図には復刻版が作成されており、大阪くらしの今昔館や
 大阪歴史博物館等で簡単に入手する事ができます。

  ttp://www.digitalmaps.jp/order.html

788新今里X:2012/09/16(日) 00:14:53
Re:大阪市パノラマ地図
現物がどうなってるか見ないといまいち分かりませんけど、多色刷りなので何かのメリットがあって序文ナシの地図を刷っておいてあとで序文を刷り込むこともできますし、その後、増訂版の追記もノセ(オーバープリント)なら在庫の地図に印刷もできないことはないです。

やはりバリエーションが存在したのでは? あと、まさかの刷り忘れ(笑)

復刻版にも序文が入ってるんでしょうか?

789夕凪:2012/09/17(月) 07:52:10
大阪市パノラマ地図 ?
はい、復刻版は元版を底本にしているようで序文があります。

●なお復刻版には元版の版元である「ワラヂヤ出版(2002.10.8破産宣告)」版と
 「デジタルマップス」版(2004.8.5販売開始)があります。
 両社の版が同一のものかどうかを、機会があれば、
 新今里さんのお知り合いの古本屋さんにお聞きしてみたいと思います。
 ※ぶよお堂さんで販売しているものはデジタルマップス発行のものです。

●昔の地図は袋(畳紙)に入っている事が多いのですが
 『大阪市パノラマ地図』の袋のタイトルには複数パターンがあります。
 確認できた袋のタイトルを以下にまとめてみました。
 ※元版の袋のデザインは同一のようです。

 1.元 版:(1)大大阪パノラマ地図
??????????????(2)最新大阪パノラマ地図
??????????????(3)活きた大阪パノラマ地図
 2.増訂版:大阪市パノラマ大地図
 3.ヤフオク版:不明

 なお増訂版には附図として「大阪市パノラマ地図包容区域図」が付いてるようです。

それにしても、全ての袋のタイトルが、地図のタイトルと異なっているのが不思議です !?
いずれにしろかなり売れたからいろんな版があるのではないでしょうか?

790君人太夫:2012/12/15(土) 19:55:35
島原松本楼の焼失
京都島原・松本楼が焼失した年について、輪違屋の主人の本に
伝聞ながら昭和20年とありますが、昭和7年より10年の間に
全焼したという記事や聞いたことがある人がありましたら
教えてください

791夕凪:2013/01/04(金) 02:13:54
島原廓 松本楼
君人太夫 様

手許の資料で松本楼の火事について調べてみましたが分かりませんでした。

また手許にある松本楼の資料としては、松本楼発行の絵葉書(5枚組)がありました。

(内訳)?松本楼表の図、?同太夫古式かし図、?同庭園遊興の図、
    ?同茶の間の図、?同太夫正装の図(発行年不明)

    なお『京都遊廓見聞録』(田中泰彦編、1993年)には、
    昭和7年(1932年)の松本楼の写真が掲載されてますよね。

792彷徨人:2013/01/05(土) 20:47:36
「百萬☆名古屋」について
 以前,夕凪さんから何度も問い合わせがありましたが,今日,名古屋の「文化のみち」を歩いていたら,「二葉館」に現物が置いてありましたので,びっくりしました。本の後ろを見ると,2012.11.3に発行されたことが分かりました。島洋之助編著,1800円でした。樹林舎(052−801−3144)で発行されているようです。夕凪さんのことですので,すでに手元にあるかもしれませんが。 

793夕凪:2013/01/05(土) 22:33:37
幻の都市案内本「百萬・名古屋」
彷徨人さんどうもありがとうございます。

ご推察の通り●部購入しました。

この復刻版は500部限定だそうで、
基本的には本屋さんでは販売しないとの事でした。
文化のみち二葉館とかで、こっそり販売されていたんですね!

また500部限定と言うのは、決して出し惜しみではなく、
復刻実行委員会の方々が頑張って販促しても
捌けるのは500部が現実的な数字だとの判断で決められたそうです。

ぼくが「百萬・名古屋」復刻の具体的スケジュールを知った時、
名古屋方面のメルアドの分かる方に御連絡をさして頂いたのですが
彷徨人さんのメルアドが分からず御連絡させて頂けませんでした。
申し訳ございません。

ところで巻末に発行予告のある
松村白子楼・島洋之助共著『名古屋艶笑史』って
発行されたんでしょうかね?


こんなんありました。ttp://sekomichi.net/urouro2011/2012/10/post-14.html

794彷徨人:2013/01/06(日) 21:11:02
百萬・名古屋
 夕凪さん,いろいろと情報をどうもありがとうございます。
その場で少し読んでみたのですが,文章がやや軽いタッチで
読みやすそうでしたね。

795君人太夫:2013/01/26(土) 22:47:05
Re:島原廓 松本楼
夕凪さま、情報ありがとうございました。

松本楼の松本由之助氏は昭和十年一一月の全国貸座敷聯合会に
京都島原遊廊取締として参加しながら1935年12月7日大阪毎日新聞に
載った税務疑獄の記事では起訴された者の一覧に出ており、由之助氏が
刑務所に入る前に大火災が発生していたという話もあるなど、昭和10年以前
に全焼していたような気がしているもので。

「京都遊廓見聞録」全く知りませんでした。取り寄せて読んでみます。

796彷徨人:2013/06/09(日) 20:35:04
田丸と二見浦
 膳所裏さんの報告(2011年)を頼りに,まず気になっていた田丸に行ってきました。山一
と思われる建物と銀花(後で述べる地図には,「遊廓錦花」となっていました。)は健在でした。とてもかつて賑わっていたであろうという面影は全くなかったです。銀花は大きな建物ですが,西の端に蔵があったのがすこし不思議でした。
 私も図書館へ行ってきましたが,膳所裏さんがご覧になったであろうという全四巻の町史
はなく,新しく上下巻となっていました。そこには,膳所裏さんが言われるよりももう少し詳しく書かれていました。昭和初期の勝田町の賑わっている写真も掲載されていました。「夜の街は青年の心を揺さぶり,廓通いや入り浸りする若者,恋のもつれに傷害を起こす場
にもなって,近隣町村からは風紀の上から警戒された。……」などと現在としては結構具体的に書かれていました。そして,最後には当時(大正末から昭和初期)の勝田町の町並みの地図まで載っていました。
 さて,二見浦ですが,実は2年前,当時(戦後)の住所を頼りに一度歩いてみたのですが,収穫なしでしたので,今回改めて行ってみました。今回は,JR参宮線の二見浦から入りました。旅館街を歩いて,あるおみやげ屋さんのおばあさんに聞くと,海花楼も松前家も
あったということは確認できました。しかし,場所となるとはっきりしません。裏道でおじさんをつかまえて聞くも,場所については分かりません。あきらめなくちゃいけないかなと思いましたが,もう1軒旅館街のほぼ真ん中辺りのお土産やさんに入って聞きました。そして,やっと分かりました。
 松前家はなんとそのお土産やさんの真ん前だったのです。現在は駐車場になっていました。さらに,その向こうの砂利がひかれてあるところにヌードスタジオがあり,さらに,あの真珠家さんが海花楼,そして,もう1軒ちどりという家もあった………などといろいろ教えていただきました。話をしていただいたご主人は,3代目だそうです。「いい時代に店やってましたわ。店(赤線)の女の子たちは,うちへお菓子をよく買いにきてくれて,私もようかわいがってもらいました。」と話してくれました。
 話を聞くうちに,実は私自身小学6年生の修学旅行で泊まったのがこの二見浦の旅館街でしたので,当時の出来事が少しずつよみがえってきました。確かにヌードスタジオがあり,その辺りがお土産を買ってもいいという端になっていましたが,「ヌード」という文字に惹かれて私たち少年数人は境を越えてしまい,呼び込みのおじさんに叱られた覚えがあります。
 何はともあれ,田丸も二見浦もいろいろ分かってすっきりしました。そんな中で二見浦の土産やのおじさんの言葉が頭に残っています。「旅行は遊ぶために行く。景色みたり,見学したり,そんなもんはおまけ。遊ぶことが目的だ。お伊勢さん参りだって,あんなのは二の次。女の人と遊ぶために行って,おまけに参っただけ。」

797夕凪:2013/06/15(土) 02:00:09
島原 松本楼の焼失
1935年4月に発行された観光案内の“島原”の項に
下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。

● 島 原

 我国に唯一しかないあの古典的な太夫の居る事で知られた古い廓であるが、
 其二、三の青楼を除くと娼妓本位の三流廓である。

 然し三百年來焼けた事のない廓建築の国宝角屋も昔のまゝに現存し、
 さびれたが輪違屋もあり、
 松本楼は惜しくも2月に焼失して太夫2人焼死の惨があった、
 此等の廓は一現をせず、祗甲の別荘の感がある。

 然し他の140軒の青楼何れも一現客をするので簡単に行ける。


上記にあるように、松本楼は1935年2月に焼失したようです。

ちなみにこの資料の著作者は田中緑紅さんです。

798君人太夫:2013/06/26(水) 19:23:04
Re:島原 松本楼の焼失
夕凪様ありがとうございます。やっと消失した年がわかり
胸の痞えがとれました。
今度、京都に行って昭和10年2月の記事を漁ってきます。

799萩間:2014/03/24(月) 06:49:13
GOLDEN WEEK
奈良の木辻遊郭跡にある静観荘に宿泊予定です。
もと遊郭の建物をそのまま旅館にしたそうです。
名古屋の中村遊郭にもその手の建物がありますね。大阪市近辺にもありませんかね。 どなたか知っている方いませんか。

800鷹目:2014/04/06(日) 20:55:27
旅館
>萩間さん

 大阪市近辺で一部怪しいのはありますがほぼ転業旅館というのはないと思います。飲食店に転業が多いですね。

 泊まれるところは、京都に多いですね。

801君人太夫:2014/05/03(土) 19:38:46
松本楼焼失確認
以前教えていただいた松本楼の火災ですが、京都日出新聞昭和10年2月9日にバッチリ載ってました。ありがとうございます。(京都府立図書館で確認したのですが、ここ「女性トイレにいるな」とか「無許可で写真を撮るな」とかの張紙が多くあり、いつ犯罪が起こってもおかしくない感じです♪)

802萩間:2014/06/22(日) 01:58:09
(無題)
鷹目さまはじめまして。 >>>1413
についてですが、転業旅館じゃありませんが、河内長野の新地跡には少しですが、雰囲気は残ってますね。もと遊郭建築が老人ホームになっていたりその後ろに隠れるようにカフェ調の建物の廃墟が残っていたりしてますよ。 現役の旅館八重もかつてその手の女給さんたちがいたし。
一番の見所はやはりスナック古都の廃墟だと思います。
ちょっと高い所にあるため駐車場の場所がないため住宅地として買い手がつかないためそのままの状態がつづいていると聞きました。 あとどのくらい残っていてくれることか…

803鷹目:2014/06/22(日) 21:46:28
河内長野
>萩間さん

 長野新地は数年前からそんなに変わっていない感じですね。私は近くは通っていたのですが、いつでもいけるからと未見です。以前散策した方の話からそんなに変っている感じは受けません。
 都市部から離れているのが幸いしているのでしょうか?

 昨今酷いのは、京阪沿線の京都遊里跡でしょうか?中書島はじめ有名どころの建物が取り壊されたり、売りに出されたりしていますね。

 それは関西だけの話ではなく、関東もだんだん跡の建物が消えていく傾向にあります。寂しいかぎりです。

804夕凪:2014/11/20(木) 00:34:03
渡辺 寛
『全国女性街ガイド』の著者である渡辺寛(1913年生)氏は、ご存知の通り、
その著作『詫びる』(1935年5月)が第1回芥川賞予選の候補作になると言うプロレタリア作家としての
顔を持っています。

(参考)ttp://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/pkogun/pkogun1WH.htm

そこで、渡辺寛氏には他に作品がないのか、先のHPにある、渡辺寛氏が同人であったと言う
“ 日本浪曼派 ” をキーワードして調べてみたところ、
新田満夫編 『 日本浪曼派とはなにか 』(1972年、雄松堂書店)に
渡辺寛氏に関する記述がありましたので御紹介させて頂きます。

●渡辺寛氏は同書の中で既に物故者として扱われている。 ※詳細不明

 即ち、渡辺寛氏は1913年生まれであり、死亡は1972年以前と言う事にな
 りますので、氏は60歳より前にお亡くなりになった事になります。


●同誌に掲載されている雑誌『日本浪曼派』の目次によると、
 渡辺寛氏の著作が下記の通り掲載されていました。

  1.1935年6月号 第04号 郷臭 (小説)
  2.1935年8月号 第06号 退潮期の一挿話 (小説)
  3.1936年4月号 第13号 大島紀行 (小説)
  4.1936年9月号 第16号 水晶 (小説)
  5.1937年3月号 第21号 弁慶橋 (小説)

●プロレタリア文学と日本浪曼派の関係については相容れないようなメイージがあるのですが、
 同資料に緑川貢氏による下記の記述がありました。

  尚、ここで一筆しておきたいことは、少なくとも郡山弘史、渡辺寛、緑川貢の3人は、
 情勢におされて後退はしながらも、終始左翼の立場を捨てなかったことだ。


はたして渡辺寛氏は、その後どのような経歴を経て、『全国女性街ガイド』を執筆するようになったのでしょうか?

805夕凪:2015/01/07(水) 01:40:35
泊まれない旅館の謎?
以前『 原色寫眞版 京都島原太夫道中 島原 金?樓 』と言う袋に入った
6枚の絵葉書を購入しました。でも絵葉書の宛名・通信面のデザインが違っていたり。
角屋の紋章の入った行燈の前で写っているいる太夫の写真があったりと、
到底袋と中身が一致しているとは思えないものでした。

そこで考えました「これを金清楼がカフェとして生まれ変わった
“ 泊まれない旅館 きんせ旅館 ”に持って行き、
店の方に見てもらえば何か分かるのではないか?」と・・・・

早速きんせ旅館の方に見てもらったのですが、
残念ながら何も分かりませんでした。

そして言われたのです。「うちは以前“金清”で“金清楼”と
言う名前ではなかったですよ。」と ???????

インターネットで検索したら、きんせ旅館は昔金清楼と言っていたと
大勢の方が書き込まれています。果たしてその真実や如何に!?

806夕凪:2015/01/11(日) 01:22:01
『全国女性街ガイド』 の広告
●好評発売中『全国女性街ガイド』
 20年以上二千人以上の体験記録です

 渡辺寛著・全篇実地調査による空前の便利さ | 130円 送16円
 | 芸者 女給 | 娼婦 街娼 | やとな パンマ | ヨルバイト 変り種 まで
 此1冊で全国の女の相場と生態が判る

       1956年1月16日 読売新聞 朝刊(一面下段)より

807鷹目:2015/01/12(月) 19:12:35
RE:泊まれない旅館の謎?
 1 廓内の見世、お茶屋料亭だからという理由で外部のものが勝手に「楼」をつけた呼んでいた?

 2 見世の尊称として「楼」をつけて呼ばれていた?

 3 気まぐれ?

 さて・・・。

808夕凪:2015/01/27(火) 00:41:18
(仮)渡辺寛著作リスト
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
 原点(=『全国女性街ガイド』)に戻って季節風書店の出版した
 『100万人のよる』を当たったら予想以上に寄稿していました。
 大宅壮一文庫等で季節風書店関係の雑誌を閲覧できると
 もっと出てくるのではないでしょうか。
 ※出版順で記載しました。

№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
18.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
19.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
20.『温泉・女・風土記』1956.11.15
21.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
22.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
23.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
24.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
25.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
26.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
27.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集

●やはり「№15 千人の職業女性に接した私の結論」(100万人のよる、1956.04.01)が気になります!?

809鷹目:2015/07/16(木) 15:07:01
再訪-堺
 久々に堺の龍神栄橋を歩いた。

 初見は2003年。

 そのときはまだ4.5軒味のある建物が残いた。

 それから数年後、六芒星窓の建物が取り壊されたときき、跡地の確認に訪れた。

 そこからの荒廃ぶりがすさまじい。

 通りにあった商人旅館もマンションに変わり、建物再利用のラーメン屋もすでになし。

(ラーメン屋はファサード大改装されているだけかも、昔の写真で確認しなければ)

昔、見落としていたであろう微妙な建物が里の端に一軒あるだけ。

 もう昔の面影がまったく残っていない。

 かつての名残を探すなら、神明神社の玉垣と川べりに設けられたと鳥瞰図の写しに載っている名前のみ・・・。

810萩間:2015/07/17(金) 14:44:28

龍神新地ですか…。
かつて、明治維新の頃堺事件の舞台になった所だったと思いますが、案外龍神新地や栄新地と関係があったのかも…。

龍神新地も栄新地も元々新地の名残が僅かだったのになぁ。

811彷徨人:2015/10/01(木) 20:56:33
洞川温泉
 5連休に1泊2日で奥吉野の洞川温泉に行ってきました。あるHPで「門前に遊廓あり」
という内容があり,それがずっとひっかかっていたからです。ここは女人禁制の大峯山にの
ぼった男たちが,山を下りた後,「精進落とし」と称してこの旅館街で遊んだ,ということです。実際,旅館の主人などの話によると,その通りだったようで,そういう色町的な雰囲気は赤線後もだいぶ長く残っていたようです。20〜30年ぐらい前かな,と話されましたが,はっきりはしませんでした。その後,海外からの女の人たち(フィリピン人など)がスナックなどにいた,という時代もあったようです。もちろん,今は健全な温泉街になっていますが,そのような話を聞けただけでもよかったと思います。もし,もっと詳しいお話をご
存知の方は教えてくださるとありがたいです。

812夕凪:2015/10/02(金) 10:46:31
従是女人結界
彷徨人さんお久しぶりです。

手許にあった『奈良・大峰山「女人禁制」の解禁をめぐって』(2002年)と言う
冊子に下記の記述がありましたのでご紹介させて頂きます。

●資料5.「 大峰信仰を支えた『遊郭』」

 大峰山と洞川の近代史は、大きな時代のうねりの中にあった、
 それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
 それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」があったことである。
「遊郭」の存在についても『ある聞き書き』で聞いたAさんやBさん、
 さらにCさんの主張とは違う意味で、その歴史的事実を明らかにして
 記録として残しておきたいと思う。

「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
 大峰山にかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが目的であったという人も多くいたという。
 彼らの中では「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった符牒で語られ、
 堂々と行われていたのである。先の戦争までは、大峰山よりも、
 洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。


また『 洞川全景 』(発行年不明)という刷り物には、
龍泉寺門前の川に架かっている橋を渡った、大峰山に向かう道沿いに
12軒の旅館が記されています。
その中には現在も営業されている旅館と、同じ屋号の店も見うけられます。
やはり料理旅館方式で、名目は“ 仲居 ”だったのではないでしょうか?

もちろん“ 女人禁制 ”は男性の修験者が女性性に惑わされること無く
修行するためのものであったのですが、そこはそれで“ 精進 ”した後には ・・・・

(参考)ttp://6402.teacup.com/takanome/bbs/979

813彷徨人:2015/10/02(金) 21:14:34
洞川温泉
 夕凪さん,さっそくのご返信ありがとうございました。
 温泉はまだ20年ぐらいしかたっていないそうです。
 旅館街だけみると,やはりなかなかいい雰囲気なのです。
「縁側が開かれている」というのが,特徴のようですが,
提灯が道の上に並んでいたり,見方によっては,色町の
雰囲気のある建物がいくつかありました。

814萩間:2015/11/04(水) 16:02:43
一枚の古文書
お久しぶりです。
しばらく前ですが、ヤフオクで酌婦契約願い(警察への届け&雇人届け)の古文書を落札しました。
まあ昔に書かれた物で何が書いてあるか気にせずほっといたんですが、この前思い出して解読を試みたんですが、明治の四十年代のものだったんですけど名古屋出身の方でした。
その当時の社会背景の例によって今なら高校生くらいの方でした。お勤めになられた所が、いまの三重県??阿下喜 なのでそうでネットなどでそれらしきとこ探してみたのですがいまいちよくわかりませんでしたよ。

まあ三重と言えば伊勢神宮のお詣りなどの途中ですし遊廓などはっきりしたとこでなくてもちょっとした温泉や旅館なんかにも酌婦としてお勤めされていたのかもしれません。
鷹目さん三重なんかの遊廓や赤線などで先ほどの場所もしくはその近辺で明治期に栄えた遊廓や酌婦など置いていた旅館なんかお心当たりありませんか?

815彷徨人:2015/11/04(水) 23:13:26
阿下喜について
 勝手に横入りしてすみません。阿下喜は,平成23年9月に訪れました。夕凪さんからいただいた資料では,赤線が1軒だけ載っていました。以下,当日の記録を簡単に書きます。
 まず,図書館で郷土資料を探しました。手がかりは全くありませんでした。ただ,明治の
22年頃「料理クラブ」なるものができ,芸者をあげて飲んだり食ったりしていたという記述はありました。
 本町,西町,栄町と歩きますが,面影は感じられません。そんな中,「新角屋」というまんじゅう屋へ入って話を聞きました。そのおばちゃんの話によると,明治から大正の時代には,歓楽街は西町の方にあった。その後,赤線の時代には「川原屋」という店が,まんじゅう屋のすぐ北隣にあったという。その「川原屋」があったという場所には,それほど古くはない八百屋をやっていたであろう家が建っていました。
 もう1軒,本屋さんにも入って聞きました。ここのおばちゃんは,昭和14年生まれで,昭和30年頃は高校生だったと言う。川原屋について聞こうとしますが,「そんな名前だったかな?」と忘れているようです。でも,「飲み屋だったから……」と話すのを聞き,やはり,ここに元赤線の「川原屋」は確かにあったのだ,ということが分かりました。
 ちなみにまんじゅう屋のおばちゃんと本屋のおばちゃんとは,知り合いであり,二人とも阿下喜にお嫁に来たということでした。以上です。

816夕凪:2015/11/05(木) 12:55:06
港楽園の阿下喜支部
さすが彷徨人さん、現地報告興味深く拝読させて頂きました。

ところで、あの資料で阿下喜は、
四日市の港楽園の“ 阿下喜支部 ”となっています。

でも阿下喜は、明治末より西桑名からの軽便鉄道が開通しており、
桑名との結びつきが強かったそうです。

そこで桑名の桑陽園の支部ではないかと考え、
資料を見直したのですが、やはり四日市の港楽園の
支部としか読めませんでした。

もちろん町としては四日市の方が、桑名より大きいのですが、
不思議な気がしました。

(参考)阿下喜はこんな町だそうです。

    ttp://www.kyoshu-komichi.com/ageki.html

817夕凪:2015/11/05(木) 13:32:16
三重県の特殊カフェー (再掲)
01.水郷園(長島村)       02.桑陽園(桑名市)      03.朝明待合組合(富田町)
04.菰野東町待合組合(菰野町)  05.湯ノ山支部(湯ノ山)    06.神戸六郷園(十日市町)
07.江島組合(江島町)      08.亀山待合組合(亀山町)   09.藤枝待合組合(津市)
10.久居支部(久居町)      11.上野支部(上野市)     12.名張支部(名張町)
13.松坂貸席組合(松坂市)    14.山田支部(宇治山田市)   15.神社三業組合(宇治山田市)
16.田丸支部(田丸町)      17.尾鷲支部(尾鷲町)     18.紀伊長島組合(長島町)
19.鳥羽待合組合(鳥羽町)    20.二見浦待合組合(二見浦)   21.浜島待合組合(浜島町)
22.渡鹿野待合組合(的矢村)   23.木ノ本支部(有井村)    24.引本待合組合(引本町)
25.阿下喜支部(阿下喜町)    26.港楽園(四日市市)     27.一身田支部(一身田町)

                           1950年の資料より

818萩間:2015/11/05(木) 16:30:31
(無題)
彷徨人さま 夕凪さま
詳細なデータありがとうございます。

前掲の古文書は二枚ありまして、一枚は酌婦の勤務許可の警察署への届け出 もう一枚は雇人の身元の証明かつ雇いれの確認書
に相当するものです。
雇人の確認書には 雇用主の住所氏名がありそこから見ますと、料理旅館とありやはり旅館経営にその当時携わっていた方のようです。
当然ながら料理組合には加入されていたと思います。
ただ個人情報の関係もありあまり詳しいことは申し上げあげれませんが、明治期から住所も変わっていないとすれば、ご先祖が料理旅館に携わっていたかたも今は業種も変わってご健在のようです。
あえて私なりに推測しますと、やはり名古屋あたりに斡旋業者のかたに三重県の料理組合に斡旋してもらい地元の警察署に届け出をだして四日市の組合を通じて阿下喜の料理旅館に斡旋してもらったみたいですね。

それにしても明治の四十年代といえば交通も不便でまだ高校生くらいのこが一人で酌婦として旅館勤めをするなんて…。

819夕凪:2016/09/02(金) 07:46:22
(仮)渡辺寛著作リスト(更新版)
●現時点で確認できた渡辺寛氏の著作リストを作成してみました。
 ※出版順で記載しました。

№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
15.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
16.旅の女 京の桜週刊サンケイ読物1956.04.08
17.★ 遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
18.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
19.『鄙びた湯・古い湯治場』1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
20.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
21.『温泉・女・風土記』1956.11.15
22.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
23.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
24.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
25.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
26.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
27.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
28.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集

820鷹目:2016/12/30(金) 22:46:43
2016年総括
 総括といっても主に和歌山方面の話です。

 下津 料理屋、転業旅館有り。ただし旅館は旧屋号で建物建替え済み。

 箕島 古い商店街沿い、裏道にあり。派手な意匠の店は少ない。

 御坊 北新地 転業旅館、料理屋あり。

 御坊 南新地 北新地ほど残っておらず、見所はしいて言えば旧置屋。

 串本 一二軒程度。

 勝浦 旧遊廓、当時物かなという建物が2軒ぐらい。

 勝浦 新地、旧検番、旅館有り。広範囲にぽつりぽつり。

 田辺 火事により、アーチとその周辺の店消失。奥に現役の料亭、旧料亭が片手ほど。

821萩間:2017/07/23(日) 10:08:20
河内長野新地の歴史
最近 河内長野新地についてわかったこと。

戦前 河内長野には
陸軍関連の施設  陸軍病院 陸軍幼年学校etc・・・
その関係で兵隊さんたちや接待用の施設の
需要があったみたいですね。

昭和8年に新地ができてから終戦まで
新地が衰退 復興を繰り返したとあるのは

今の信太山みたいな感じだったのでしょうか?

戦後進駐軍もいたという(八重別館のご主人談話)
話も聞きましたがどうなんでしょうか(関西まちBBS河内長野市part112)

822夕凪:2017/07/28(金) 11:04:26
長野新地 (河内長野市)
●昔、投稿したものですが御参考までに(1)

楠公遺跡に近く景勝の地であった為、観光料理屋が繁昌したのであるが、
戦後派料理屋、飲食店は政令のため寂れたこともあった。

業者は昔の夢を忘れられ得ず、
季節的の行楽客の多い時の収入によって
辛うじて経営を維持してきているようであるが
一方仲居は大阪、堺などで食い詰つめた三流どころが多く、
収入も少ないので自然に売春を行うようになっていった。

昭和31年初めから、料理屋営業のみに切替を警察の指導によって行われた、
泊り客は減少してきたので、同年11月より青線地帯のリストより除外されたが、
売春法の実施により大阪その他売春婦らが同新地に移行してくることも予想され、
監視は続けられていたようであった。

長野市内には料理店が25軒あって、そのうち「14軒」が点々とあるが、
このうち4軒では従来より売春は行われていないようであったので
売春は14軒中の10軒で、売春婦として働いていた者も約50人位であった。

売防法施行後、長野新地の業者は行楽客等を対象としてきた料理屋として
営業を継続して来たものであったが、
同地方は大阪市内を離れた閑静な地域である関係もあってか、
遊客を相手に売春は密かに行われていたようで、

所轄河内長野警察署では、
昭和31年にかっての売春(青線)地域から除外されている関係もあって、
同地域を売春のない明るい地域にせんと
極力業者並びに従業員を指導して来たようであった。

            1961年発行の公機関の資料より(再掲)

823夕凪:2017/07/28(金) 11:06:41
カフエ指定街の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(2)

●カフエを集めて長野新地

 南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
 新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
 予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。

 場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
 地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。

 町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工

 こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。

 現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
 これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。


                1933年4月の大阪※日新聞より

824夕凪:2017/07/28(金) 11:11:51
長野温泉と長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(3)

●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
 山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
 俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。

 温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
 長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、

 南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
 とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。


●長野新地の生まれたのはS8年都市計画法ににもとづくもので、
 用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
 カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。

 当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
 花見時や松茸狩時の非常時体制300〜400人であった。

 その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、

 長野温泉として脚光を浴びたのは
 S38〜40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
 当時は観光ブームもあって隆盛をきわめた。


               1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋

825夕凪:2017/07/28(金) 11:14:35
河内長野の季節仲居
昔、投稿したものですが御参考までに(4)

●ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。

バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。

どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。

河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。

この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。

「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・

                      1972年の成人雑誌より


※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。

826夕凪:2017/07/28(金) 11:26:20
長野温泉郷の誕生:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(5)

●河内長野に? 温泉郷 ?

??河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
 府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
 付近一体の温泉開発を計画していたが、
 このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。

 近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
 来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。

 この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
 明治の末から大正にかけ、
 同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。

 その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
 地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
 府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)

 将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
 同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。


                  1961年3月の※日新聞より

827夕凪:2017/07/28(金) 11:27:38
料理旅館業についての御願い:長野新地
昔、投稿したものですが御参考までに(6)

●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)

(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
 最近、旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。

 両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。

 かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
 之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
 一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
 その営業内容が証明されるのであります。

 特に最近においては町名も公園通りと変更し
 その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。


                      (申請年月不明)

828夕凪:2017/12/10(日) 01:08:22
渡辺寛著作リスト(更新版)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
 ※出版順で記載しました。

№タイトル掲載誌発行年備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説)文学評論1935.05.01新人推薦号
02.郷臭 (小説)日本浪曼派1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説)日本浪曼派1935.08.XX
04.大島紀行 (小説)日本浪曼派1936.04.XX
05.水晶 (小説)日本浪曼派1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説)日本浪曼派1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書東京案内1954.01.30
08.赤線漫談東京案内1954.05.01
09.赤線凉談東京案内1954.07.01新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集1955.08.20
14★旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
15.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
16★旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
17.千人の職業女性に接した私の結論100万人のよる1956.04.01
18.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
19★旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
20.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
21.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
22.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
23.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉100万人のよる1956.10.01
24.『温泉・女・風土記』1956.11.15
25.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.01.01大鰐・道後温泉
26.『酒と女』1957.01.25 ※著者氏名なし
27.東西温泉千夜一夜100万人のよる1957.02.01沼尻・玉造温泉
28.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻100万人のよる1957.04.01
29.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻100万人のよる1957.05.01
30.私は知りたい100万人のよる1957.06.01随筆家
---------------------------------------------------------------------------
31.女のいる全国避暑地ガイド100万人のよる1963.08.01新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集

829夕凪:2018/07/18(水) 23:32:46
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
大正楼 京口新地 篠山 etc. をキーワードにしてネット検索すると
必ず角店でその四角い角を切り取ったあの建物の画像が出てきます。

でも、どうして画像のあの店が“ 大正樓 ”であると特定したのか、
その理由を述べた書込みを見た事はありません。
自明のように“ 大正樓 ”として扱われています。
googleマップでも、あの建物の場所を“ 大正樓跡 ”としています。

私の知る限り“ 大正樓 ”の建物を推定しようとする試みは
木村聡さんが『 実話ナックルズ 』(2010年7月号)に書かれた
「幻ではなかった 阿部定がいた遊郭」と言う記事のみです。
(または木村聡さんの記事を拠り所とした書込みばかりです。)

その木村さんの記事も、「(木村さんの訪問時に残存した)
この3軒のうちどれかがそうだとしたら、答えを出すのは簡単だ。」
と、慎重に前提を置いて書かれておられ、

丸山友岐子さんと言う作家が自著執筆の為に
タクシーの運転手に京口新地へ案内してもらい、
元「大正楼」の御主人にインタビューをされ、
著書の中で、大正楼の造りについて

 四角い家の一角を切って多角形にし、
 どの道から来る客もキャッチしようという娼家の知恵。
 飛田だけでなく、松島も、篠山も
 角店は殆んど例外なく、四角の角を切って玄関にしていた。

と、簡単に描写されているのを、その根拠とされています。
※丸山友岐子著『 はじめての愛−阿部定さんの真実を追って・・・ 』
(かのう書房、1987年2月25日発行)

でも『 はじめての愛 』の中には
「百年を経た床板はみがき込まれて黒光りしていた。」とか
明らかに誤った記述(誇張or省略?)も見られます。
∵同書発行(1987年)時、京口新地(申請時は池上村貸座敷)は
明治41年(1908年)開業から79年しか経っていません。

はたして、真実の “ 大正樓 ” は 何処に !?

 (以下、続く)

830夕凪:2018/07/20(金) 11:36:02
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
徒然なるままにインターネットで遊んでいると、
たまに驚くような情報に出会います。

今回がまさにそれでした。なんと
“ 大正楼の宿屋兼特殊飲食店の営業許可証 ”に
巡り会ってしまったのです(赤い糸?)。

 ttps://aucview.aucfan.com/yahoo/b158731794/

この許可証には 大正楼の住所が“ ▲77−4 ”と記載されています。

この住所をgoogleマップで検索すると、乃木ビンゴ!
京口新地の一角に赤い「ピン」が立ちました。
でも残念ながら、その場所は大正楼跡とされる地点ではありません。
大正楼跡とされる場所の対面(トイメン)の一画を指し示しました。
※大正楼跡とされる場所の住所は“ ▲79−26 ”でした。

篠山市役所にお聞きしたところ以下の事が分かりました。

?現在も篠山市には住居表示の制度がなく“ 地番 ”のみを使用している。
?1930年に旧篠山町が八上村等と合併し新篠山町となった時も、
 旧住所以下の番地は、そのまま旧来の番地を引き継いだ。

以上の事より、現在、大正楼跡とされる場所にあるアノ建物は、
1946年大正楼に特殊飲食店としての営業許可が下りた
“ 大正楼 ”の建物では無い事になります。

(参考)
※京口新地の指定区域は“ ▲76〜▲79 ”です。
※ちなみに阿部定さんは1931年頃6か月間ほど大正楼にいたそうです。

はたして真実の“大正樓”は何処にあったのでしょうか?
また現在のアノ大正楼とされる建物は一体何なのでしょうか?
※正直、アノ大正楼とされる建物が何かについては分かりませんでした。
 もっとも、ネット上では大正楼分店との情報があります。

中途半端な書き込みで不完全燃焼の思いをされた方もいらっしゃるかと
思いますが御容赦ください・・・・

831夕凪:2018/08/09(木) 03:01:09
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
●備忘録ノ−ト(1)

1.『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って…』の著者である
   丸山友岐子さんにお聞きしたかった ・・・・

   丸山友岐子(1934〜1995)
   ttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/40246.html


2.なんで「港公民館」なの? 「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」

  ttps://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei24n.html


3.旧細見楼と旧大正楼分店(FBより)

  投稿者は『秋田県の遊廓跡を歩く』を執筆された方です。
  現地で、裏手の川を挟んで向かいにお住まいの方からお聞きしたそうです。

  (1)旧細見楼 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484323678309427&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater

  (2)旧大正楼分店 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484324858309309&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater




  

832夕凪:2018/08/09(木) 03:45:10
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
● 備忘録ノ−ト(2) 妓楼数の変遷


明治41年07月(1908年:開設時)1軒

 ?篠山楼(娼妓数 7名)


明治41年12月(1908年)12軒 娼妓数 79名

 ?吉野楼(14名)?小川楼(06名)?彦根楼(12名)?田中楼(08名)
 ?一力楼(08名)?常盤楼(05名)?金松楼(02名)?高森楼(02名)
 ?鬼楽楼(04名)?都 楼(07名)?藤田楼(05名)?戎 楼(06名)


昭和33年01月(1958年)10軒??※廃業:昭和33年03月30日(1958年)

 ? 旭 、?松月、?細見、?都一、?都二
 ?千草、?大正、?萬可、?昭和、?一楽


●赤線 八上新地 (篠山町)

 明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、
 翌41年許可されたもの。

 昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。

   飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、
   公務員・・・1、郵便局員・・・1に転廃業した。

 その後の動静は全く健全である。
                      兵庫県発行の1959年の資料より



●その他の京口新地に在った妓楼(年代不詳)

 金瓶楼 ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/120.html

 美屋古楼(大正6年:1917年頃)ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/122.html

833夕凪:2018/10/05(金) 01:10:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
入手した画像データより


●池上村貸座敷区域図面

明治41年1月15日貸座敷営業免許地に指定、仝上7月開業


この図面に記されてる中で最も早く(明治41年10月28日:1911)に
開業したのは高盛楼と言う妓楼でした。
※篠山楼の名前はありませんでした。

また大正楼は、当初、田中楼として明治44年11月8日(1911年)に開業し、
大正2年3月30日(1913年)に営業者が変わり、
名称も、新元号に因んだのか“ 大正楼 ”となったようです。
更に大正4年9月26日(1915年)に営業者がY氏に変更されたとあります。

この大正楼の場所は、現在、大正楼とされる現存する妓楼の対面の一角
かって2戸1のような建物(の内、向かって右側)の
あった場所のように思われます。

また現在“ 大正楼(分店?) ”とされる場所には
建物はなにも書かれていませんでした。


現在、“ 大正楼 ”とされる、現存するあの建物は
一体何なのでしょうか?

834鷹目:2018/12/30(日) 18:05:07
2018年総括
長野県
松本花街
松本城近く松本館を中心に6軒前後。
事前に書籍に乗っていた松本芸妓組合の電話番号を検索したがヒットせず。

長野鶴賀新地跡
神社に新地跡碑、まだ存在せり。

おまけ-2017年総括
白浜新地
10軒程度雰囲気のある建物存在。
一応白浜新地と明記するが、統一組織がなく、検番が複数存在状態だったそう。
まだ5名ほど芸妓さん健在。

新宮大王地
10件ほど建物現存。
建替えも屋号同じ店もあり

三本杉、浮島ともに痕跡なし。

835夕凪:2019/04/08(月) 21:08:32
【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ?
YAHOO! ニュースの配信で“ 大正楼取り壊へ ”との記事を
目にした方も多いと思います。

そこで、何故、地元新聞はあの建物を“ 大正楼 ”として報道したのか?
まさか地元紙がネット情報を鵜呑みに?

何か根拠があるはずだと思い確認してみました。
やはり同紙はキチンと裏付けをとろうとしたようでした。
その方法とそれから分かった事をご報告させて頂きます。


1.地元の古老の方に取材を行い、3名から下記の証言を得た。
2.90歳位の方の証言:大正楼である ・・・・
????87歳の方の証言:大正楼の分店である。
????85歳の方の証言:大正楼の分店である。
3.上記から分店か否かは不明であったが、記事では「大正楼」と表現した。
4.本店が別にあるとしても、阿部定がどちらに居たのか、
????あるいは状況に応じて、本店・支店両方に出てたのかは不明

以上より、ネット上で大正楼とされる“ あの建物 ”は“ 大正楼分店 ”だったものとボクは考えます。


●(参考) 丹波新聞より
2019年03月04日:阿部定いた元遊郭、行政代執行開始 状況確認、本格的に取り壊しへ
ttps://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/">https://tanba.jp/2019/03/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E3%80%81%E8%A1%8C%E6%94%BF%E4%BB%A3%E5%9F%B7%E8%A1%8C%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%81/

2019年02月26日:阿部定がいた元遊郭取り壊しへ 「大正楼」倒壊の危険性高く
ttps://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/">https://tanba.jp/2019/02/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%85%83%E9%81%8A%E9%83%AD%E5%8F%96%E3%82%8A%E5%A3%8A%E3%81%97%E3%81%B8%E3%80%80%E3%80%8C%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%A5%BC%E3%80%8D%E5%80%92%E5%A3%8A/

836鷹目:2019/07/02(火) 20:53:54
2019年前半
福原
神社の玉垣健在。

浜松鴨江
旅館も1社3軒のみ営業。
裏路地に古い家屋があるものの往年の面影なし。
一番奥の駐車場に石碑があるらしい。(ネット情報)

浜松花街
建て替え割烹料亭あり。

静岡花街
老舗料亭浮月楼が有名。

川辺
風俗店一軒あり。唯一の名残か。

三島遊廓
電柱のプレートに「新地支」

三島新開地
風俗店一軒あり。風俗店一軒あり。唯一の名残か。

三島本町
割烹料亭がちらほら。そんな中、一軒のピンサロ異彩を放つ。

御坊北新地
去年の台風の影響か、2軒ほど傷みが目立つ。
転業旅館料理屋も営業している風ではない。


御坊南新地
16年に訪れた時とさほど変わらず。

837鷹目:2019/12/28(土) 22:02:37
2019年後半
岩屋敏馬神社
閼伽井に料亭貸席であろうと思われる銘が入った石碑あり。
年号は明治39年。ただし敏馬花街・敏馬検との関係不明。

神戸花隈花街
町内の神社と地蔵尊の玉垣に昭和40年代に存在した料亭の屋号銘あり。

静岡二丁町
お稲荷さんに石碑「双街の碑」と解説あり。

838夕凪:2020/02/06(木) 20:14:34
渡辺寛著作リスト(更新版?)
●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
 ※出版順で記載しました。

№ タイトル 掲載誌 発行年 備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説) 文学評論 1935.05.01 新人推薦号
02★最近の新劇運動批判 脚本を中心に 文学評論 1935.07.01★
03.郷臭 (小説) 日本浪曼派 1935.06.XX
04.退潮期の一挿話 (小説) 日本浪曼派 1935.08.XX
05.大島紀行 (小説) 日本浪曼派 1936.04.XX
06.水晶 (小説) 日本浪曼派 1936.09.XX
07.弁慶橋 (小説) 日本浪曼派 1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
08.赤線区域の経済白書 東京案内 1954.01.30
09.赤線漫談 東京案内 1954.05.01
10.赤線凉談 東京案内 1954.07.01 新東京通信編集長 渡辺寛
11.あのまち・このはな花街めぐり 東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版 1955.04.20
12.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集 1955.05.20
13.『全国女性街ガイド』 1955.08.20
14.よるの女性街・全国案内版  旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集 1955.08.20
15.旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
16.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
17.旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
18.千人の職業女性に接した私の結論 100万人のよる 1956.04.01
19.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
20.旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
21.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
22.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01??新東京通信編集局長 渡辺寛
23.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
24.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉 100万人のよる 1956.10.01
25.『温泉・女・風土記』 1956.11.15
26.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.01.01 大鰐・道後温泉
27.『酒と女』 1957.01.25 ※著者氏名なし
28.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.02.01 沼尻・玉造温泉
29.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻 100万人のよる 1957.04.01
30.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻 100万人のよる 1957.05.01
31.私は知りたい 100万人のよる 1957.06.01 随筆家
---------------------------------------------------------------------------
32.女のいる全国避暑地ガイド 100万人のよる 1963.08.01 新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集


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