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鷹目遊里史板

639新今里X:2011/02/05(土) 01:34:47
ウホッ!アレの最中
アレの最中は奈良か篠山では?

枚方・橋本・中書島のときの微妙な内容のDVDはレッドさんの手土産だったと…

640鷹目:2011/02/05(土) 01:38:58
アレ?
 DVD?

641T-レッド:2011/02/05(土) 01:41:27
何のDVD?
確か、"●屋を探せツアー"というサブタイトルが付いた散策だったと思います。

参加者は当初5人で、夕凪さんやtadaさんが参加されてたと思います。

仕事の都合で私は先に帰りましたが、その後、皆さんは『王〇』に行かれたとか?

まだ旅館『玉光』が残っていた時でした。

廃業された『〇湯』、どうなったんでしょうか・・・

642新今里X:2011/02/05(土) 02:02:50
わんわん?
昨日お風呂屋さんの建物はありましたよ。
あの日ぼくが合流したのはやをりきの前やったと思います。

643鷹目:2011/02/05(土) 02:26:37
回り回って
姐さんとこ行ったやつですな。

644新今里X:2011/02/07(月) 15:14:59
枚方櫻新地協同組合
大和屋・政乃屋・竹乃屋・玉屋・玉光・鶴の屋・第二竹の屋・玉房・淀川・津の國屋・玉よし・上田屋・奥村屋・大梅・大芳・新大和屋・若松・第三玉房・奥野・住吉屋・?野・山下・大喜久・玉?・松和・春の家・馬野・松月・蔦屋・第二玉房・?屋 計31名 昭和28年12月

つたない記憶で間違いもあるかもしれませんが、以前にネット上のどこかで読んだ記憶では、蔦屋さんは枚方公園菊人形の造園の報奨金をもとに櫻新地で貸座敷を始められたそうで、もともとは現在の東大阪で造園業をされてたという話でした。
枚方の宿場の流れをくむ組合員さんが多いなか比較的新参だったために後ろの方の掲載なのかなぁなどと想像しています。
それにしても、造園・貸座敷・レンタルビデオと娯楽に関してすごく商才のあるお家柄のようですね。

645膳所裏:2011/02/08(火) 16:09:13
岐阜 手力園と国際園
 先日、加藤政洋さんの“敗戦と赤線”に書かれている岐阜の手力園を訪れました。
 名鉄の手力(てじから)で下車、踏み切りを渡って10分ほどで定規で線を引いたような区画(手力14〜36番地)に出会いました。本書によれば大戦中、柳ヶ瀬を当局に渡す形で、金津園の業者が移った為、時局をにらんで一般住宅への転用も見込んだため所謂妓楼建築はしなかったという経緯があるようです。
 成程、遊廓跡と思える意匠は何もなく、それでも近所のひとに長屋と表現して教えて頂いた当時の建物が7〜8棟ありました。

 手力園は娼妓さんだけの街で芸者さんはいなかったようです。

 その後矢張り、同書に詳しい説明がある、同じような経緯で短い花をさかせた駅前の国際園を探したのですがまったく場所が分りませんでした。

 現在の高砂町とのことで1丁目から4丁目までくまなく探し、地元の人にも尋ねたのですが全く分りませんでした。

 ご存知の方いらっしゃったら情報お願いします。



 

646:2011/02/08(火) 21:19:01
国際園について
 膳所裏さんへ。国際園は,JR岐阜駅のすぐ北側(岐阜シティタワー43から北西)の西問屋町,花園町,日ノ本町の辺りだと思います。以前,歩いていてそのような雰囲気を感じました。

647夕凪:2011/02/08(火) 21:48:04
疎開移転した「手力」を訪ねる
ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも参考になるかと思います。

 ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-entry-5.html

648膳所裏:2011/02/09(水) 17:44:44
園、荘、連
 彷徨人さん、夕凪さん、早速情報頂き感謝しています。
 近々岐阜は情報を元に再訪しようと思っています。
 手力園には見るべき物は無かったのですが、園内の理容店に、赤線跡を巡るにも載っていた三国の貸し座敷の玄関のチューリップと良く似た彫りがあり郷愁をそそります。

 それにしても東海地区の園、荘、連は面白いですね。

 田原の共楽園にも二階の出窓一面に月や梅や雲やら一面の彫り物の中にチューリップが有る当時の建物がありますし、津島の新天地にも細かいタイルの円柱を含むタイルだらけ“昭和”の字を掲げた、素人さんのお宅では考えられない建物があったりしますし・・・色々興味はつきません。

649新今里X:2011/02/10(木) 15:21:08
京都にも
五條楽園とか寛■園とかありますね。(■は木偏に遊)
ちょっと違うか…(笑)

650ぼわぞー:2011/02/10(木) 16:29:09
岐阜駅
>膳所裏さま
岐阜駅北側エリアは繊維問屋街もあっておもしろいですね。
ハルピン会館などの名称が、岐阜の戦後の歴史を思わせます。
昭和40年〜50年頃は岐阜は日本一の繊維街であったそうですから、
歓楽街もたいそう賑わったことでしょう。

私もかつて出張帰りに駅近くの第一浴場で汗を流したことを思い出しました。

651膳所裏:2011/02/10(木) 19:04:17
ハルピン会館
 ぼわぞーさま、

 確か戦後に大陸からの引き上げ者が金神社辺りで通称ハルピン街という闇市に青線を形成したのですが、時局も落ちつき、何時までも不当占拠と云うわけにもいかず、業者が市長を抱きこんで名鉄車庫跡に土地をもとめたのが国際園だったいうのが“敗戦と赤線”での説明だったと思います。

 それにしてもハルピン会館てちょっとすごく無いですか?

 実は、岐阜で手力園、国際園の次に訪れたのが柳ヶ瀬近くの高岩町で、昨年18年ぶりに舞妓さんが店出しをされたと何かの記事を読んだからです。

 ビルの一室ながら岐阜検番の看板も上がり、年季の入ったお茶屋風の建物もあり、それなりに花街の雰囲気を醸し出しているのですが、驚いたのは現役のお茶屋さんと思われるお店に、鍾馗と先客万来の注連縄が有ったことです。

 鍾馗さんは今まで祇園や嶋原中心の京都市、橋本、今里、住吉新地、元院林と三重の旭遊廓で確認したのですが岐阜では始めてです。

 千客万来と笑門の注連縄を年中掲げる風習は祇園と三重県だけだと聞いていたのですがまさか岐阜でお目にかかるとは思いもしませんでした。

652新今里X:2011/02/10(木) 19:16:46
線香代の貼り紙のある
有楽荘も年中注連縄したような…

653ぼわぞー:2011/02/10(木) 19:49:59
ハルピンと橋本
>膳所裏さま
確かにハルピン会館の看板を見たときは「なんで岐阜でハルピン?」と思いました。
岐阜検番も興味深いですね。
次回は岐阜遠征でいかがでしょうか。>鷹目さん

すみません、ちと話はそれますが、遊里史関連情報をご紹介しておきます。

***

京阪電車を利用される方にはおなじみの、
水津俊和さんの作品展が今年も開催されます。
駅貼りポスターでは橋本遊廓の絵が大きく扱われており興味津々。

「京阪沿線の建築物50選 水津俊和展」
場所:朝日新聞大阪本社アサコムホール
入場無料
日時:2月21日〜3月4日 10時〜18時(最終日は15時まで)
休館:土・日曜
http://www.okeihan.net/nakanoshima/(サイトの右下に紹介文あり)
この方、京阪の社員さんやったんですね。初めて知りました。

橋本の風情は画家の絵ごころを誘うのか、
若手の日本画家の作品展でも歌舞練場や妓楼を
描いたものを見たことがあります。私も久々に訪れたくなりました。

654楽天地:2011/02/10(木) 23:57:50
(無題)
膳所裏さんへ
・・・加藤さんの本を読んでいないので、重複している部分もあるかもしれませんが
現在わかっている範囲で・・・

国際園はもともと別の場所にあったものが、昭和31年に移転され、移転後は実質1年
くらいしか営業をしていないそうです。その後、敷地内に従業婦がポッポ横丁という
おでん屋街をつくったものの、これもうまくいかなかったようです。

昭和32年時点で、赤線として金津園、青線として国際園、共栄街、ハルピン街、手力園
の4か所があったみたいです。

655膳所裏:2011/02/11(金) 16:03:49
年中注連縄
新今里Xさま

 え〜有楽荘ですか・・・今まで祇園以外では古市、新古市、二見、関宿、つまり伊勢街道か東海道でしか見たこと無く、私なりにかつて尾張宗春公が名古屋に伊勢古市、祇園、大阪新町の大楼を集めた時、三重と祇園が有機的に結びついたと妄想していたのですが・・・都をどりのルーツも古市の亀の子おどりに有りますしね・・・岐阜までは中山道を通ってと勝手に辻褄をあわせたのですが豊橋だと説明つきません。

 見なかった事にして頂けませんでしょうか?


ぼわぞーさま

 橋本の歌舞錬場は廓の規模の割りに立派なのは驚かせられます。芸本位の町をめざした涙ぐましい努力の結晶だと思います。

 以前近所の人に聞いた時も、京の花街にもひけを取らない建築と大変誇りに思っていらしゃいました。

 中には医療施設もあったらしく、又当然舞台もあるはずで是非中を拝見したいと思いました。

 現在は大阪の建設業者の資材置き場になっているとの事、

 向のお店の人に尋ねたら、「中を見てもいいでしょう」と勝手に許可を出されたのですがやっぱり遠慮しました。


楽天地さま

 ひょっとすると高砂町は候補にあがっただけで金神社からハルピン会館のあたりに移転したのかもしれませんね。
 国際園は色んな国からの引き上げ者が集まったのが名前の由来だそうです。

 いずれにせよ岐阜は面白い町ですね。昔岐阜の近鉄百貨店を訪れた時、各階段の踊り場に痰壺の様なポットがあり、一体何を捨てるのかと驚いた記憶があります。

656新今里X:2011/02/11(金) 18:01:49
逆方向
有楽荘はシンプルな一本の注連縄で大きさや全体の造りが1軒1軒微妙に違ってたりします。
何度も見かけてますので年中飾ってるようです。
これはこの地域だけの風習かも知れません。
豊橋の遊里は吉田宿が発祥ですが東海道とはいえ逆方向ですから。

ところで、千客万来や笑門の注連縄って京都で売ってるんでしょうか?

657楽天地:2011/02/12(土) 00:02:51
岐阜
>膳所裏さま
当時の資料をみると、移転場所は福住公園の敷地内とされていますが線路からも近く
やはり加藤さんの本の記述通り元々は名鉄電車の車庫だったのかもしれません。
公園内は露天商が占拠しており、それで移転が遅れたようです。

国際園の由来はそういうことだったのですね。
さっそく加藤さんの本注文してみます。ありがとうございました。

658膳所裏:2011/02/12(土) 19:15:01
夏でも注連縄
新今里X様

 旧街道と遊里の関係も面白いですね。先日、御油〜赤坂間(五十三次で一番短い、徒歩15分ぐらい)を歩いたのですが、御油宿に飯盛女の墓が4基(これに纏わる涙、涙の話がありました。)、赤坂宿にも大橋屋さん(当時は鯉屋)という江戸時代から続く飯盛旅籠があり、現在もほぼ当時の姿のまま宿として営業されています。
 僅かの見学料で2階(当時は飯盛女の部屋?)も見せてもらいました。

 庄野、石薬寺間(2番目に短い、徒歩40分程)も広重の浮世絵に思いを馳せ歩きましたが、たまたま石薬寺で伺ったお宅が、榮楼と名乗った昔5軒あった妓楼うちの1軒で、ご主人によれば当時の建物は雨漏りが激しく昭和の後半に立て替えられたとの事でした。
 また、石薬寺の業者自体もいつしか鈴鹿の神戸(かんべ)の遊廓に移ったそうです。

 たぶん笑門は京都で売って居ないと思います。神具屋の多い伏見ならあるかもしれませんね。

楽天地さま

 売防法が成立したのが31年の5月、施行まで2年あるとしても随分短い命ですね。
高度成長前夜、移転のごたごたを含め人々の記憶から薄れていったのでしょうか。

659新今里X:2011/02/13(日) 16:48:47

膳所裏さんの注連縄の話を聞かせてもらって、ぼくがふと思ったのはお伊勢講のことです。
遊里は共同体意識と義理堅さで、伊勢講・高野講・金毘羅講など比較的最近まで、あるいは今でも続いてるんやないかなぁと。
千客万来・笑門などの注連縄もお伊勢参りのおりに買ってくるのではないでしょうか。
それはそれとして年中飾るという伊勢の風習は宗春公名古屋サミット(笑)のときに伝わったのかも知れませんね。

660膳所裏:2011/02/13(日) 18:49:58
年賀
 おっしゃる通りだと思います。

 渡会恵介さんの“京の花街”に先斗町には伊勢講である丸寿組と高野山に詣でる鴨川組の記述があり、実際二見ヶ浦(夫婦石の少し手前)に先斗町が送った実に立派な一対の灯篭が、そして高野山にも苔むした納骨堂があります。。

 30年前に書かれた本なので、いまさら講でもないだろうと思いつつも先斗町の歌舞錬場に恐る恐る聞いたことが有るのですが、何と今でも続いているそうです。

 その昔、先斗町の芸妓さんや舞妓さんの後ろで、男衆さんが背中に大きな笑門を背負って歩く姿が目に浮かびます。

 猶、高野山の奥の院には南地に大和屋帝国を築き上げた阪口祐三郎(すけさぶろう)の立派な像も有りますが、足を止める人は少ないようでした。


 さて、宗春失脚の後、名古屋サミットは解散して長い暗闇の時代を迎えたわけですが、それが後年、鬱憤をはらす形で旭廓が誕生したのではないのでしょうか。

 

661鷹目:2011/02/13(日) 22:10:03
ハルピン街
 あんまり遊里には関係ない話ですが、岐阜関係の本があったので補足がてら。

 ハルピン街は、闇市が発送ですが、そこで統制品と知りつつも洋服や洋反物を店先に出すものが現れました。

 そのうちミシン等で反物を加工し既製服をつくり、北海道などで現金売りするものも出始めたそうです。

 そこで警察が取り締まろうとするのですが、一部行政有力者からヤミで流すことは悪い事だが、既製服を売ると言うことはアメリカ式で面白いと言う事、復興途上であり、商業行政の行く方へ協力してほしいと懇請し、警察のほうも黙認してくれました。

 これにより岐阜の既製服が有名となり、ハルピン街にいた既製服業者は今日の問屋町へと
移転し、岐阜が繊維王国と呼ばれる所以となったそうです。

 ちなみにハルピン街は当時駅前にありましたが、のちに駅西の広場に第二ハルピン街というのも出来たそうです。こっちはどんな職種が中心だったのか不明です。



 そういえば注連縄って神社によって形や作り方違ったんじゃなかったでしたっけ??

662膳所裏:2011/02/14(月) 19:06:54
注連縄博士
 しめなわ百科という本が注連縄研究所(あると思った!)から出ているようですが、私が調べた限りでは国学院大学の図書館に1冊あるのみです。

 この幻の本さえ手にいれれば注連縄博士を名乗っていいですよね。

 遊女を宗教と絡ませると、その昔、高級遊女が仏門に帰依したとか、あるいは新町、島之内、島原、祇園などの“ねりもの”、さらには室津、鳥羽、八王子、小松の串茶屋など数え切れないほどの神事、祭と遊女の関係があるようです。

 また、周知の様に遊郭、花街に神社はつきものです。
 妓楼、御茶屋の経営者や比較的恵まれていた芸妓が神に手を合わすのは分かるのですが、女郎さんは、普段から牛馬の扱いを受け、年季前に死ねば恩知らずと投げ込み寺に薦に巻かれ捨てられ、この世に神も仏も在るものかと思っていたとしても不思議ではありません。

 遊郭跡をたずねると、時に神社やお寺に混じってある宗教の教会に出会うことがあります。
 この土に関係のある宗教がその隙間を埋め、彼女たちの心のよりどころになった・・・という様な内容をどこかで読んだことがあり気になっていたのですが、それが何の本だったのか、残念ながら思い出せません。

663:2011/02/16(水) 22:46:13
五条楽園のこと
鷹目様、お久し振りです。

五条楽園の解散、まさかと思いました。
昨年10月、京都新聞の朝刊であるお茶屋さんが売春防止法違反で検挙された事件の記事を読んで驚きました。

五条楽園を知りましたのは渡会恵介氏著の『京の花街』という本です。娼妓本位だった七条新地が芸妓本位の花街に転換された内容を読んで信じられない気分を抱きました。

それからこの町を歩き嶋原や五番町では失った遊廓の建築物が多く残され、旅館に転業されている建物も見て嬉しさも混じって感動しました。

一昨年はひと・まち交流館主催の街づくり調査の報告会の会場として使われた五条楽園歌舞練場の中を初めて入りました。ご存知でしょうが他の花街の歌舞練場に比べて古い形態を残しているのが貴重です。

この五条の花街と町並みが保存、修復、再生していくことを願います。

664膳所裏:2011/02/19(土) 17:39:22
横断歩道
 昨秋始めてオフ会に参加させて頂き、楽しく過ごさせて頂いた帰りの電車でご一緒させて頂いた五条楽園の方(うかつにもお名前をお伺いしておりませんでした)に一本の横断歩道のお話をお伺いしました。

 かつて木屋町通りと楽園を結ぶ1本の横断歩道が五条通りに有った事、そしてこの横断歩道を取り外すことにより木屋町から下がる人は河原町通りに流れ、五条楽園は陸の孤島になった事。

 つまり五条楽園が最近まで存続し得たのは一本の横断歩道の有無かもしれないと云うお話です。

 “旦那はん おいでやす ええとこどすえ 芸者ワルツで ステップか

  五条楽園 花えくぼ 柳並木と ぼんぼりが ほのかに浮かぶ 恋の道”

 かつて秀吉が灯したかもれないぼんぼりの火が、恋の道を照らすことももう無いでしょう。

665T-レッド:2011/02/20(日) 20:41:21
『〇和会』 〜ワンワン吠えられる〜
近いのに、なかなか行けてない所ってありますよね。

大阪・天王寺区で、唯一(?)かもしれない芸妓置屋『〇和会』さんを訪ねてみました。

谷町筋から少し入った所にあり、一般人ならおそらく誰もその存在に気付かないと思われます。
(ワンワン吠えられました!)

近くには、南地『大和屋』の分家であり、普茶料理で有名な料亭『阪口楼』がありますが、なんでこんな所に芸妓置屋が必要なんでしょうか?
(やはり阪口楼専属…?)

谷町筋沿いは、古くから遊所として有名ですが、この辺り一画も、ホテル街に混じって連格子の和風建築があったり、石畳が残ってたり、フリーランスの立ちんぼが立ってたりで・・・脈々と受け継がれている歓楽色を感じます。


※私は特に、宴会係ではないのですが・・・
阪口楼は、オフ会々場候補の一つだと思っております。

実は小学生の頃、茶臼山古墳の河底池で、よく釣りをしてまして、「何や、あの建物は?」と、子供ながらに思ったものですワン。
阪口楼には、茶臼山を臨む席もあるらしく、個人的には非常に興味がありますワン。

それより、貝塚『深川』のほうが先ですかね!

666:2011/02/20(日) 23:04:54
続 五条楽園のこと
今日、ひと・まち交流館の帰りに五条楽園を通りましたら、唯一残っていた三階建てのお茶屋『A』の建物が解体されて更地になっていました! ついでにあのステンドグラスの建物も運命をともに・・・・・
その有様を見て悲しみました。ほかの建物は丁寧に修復されているになぜ、そうなったのでしょう。所有者が建物の維持が出来ずにそうしたのは致し方ございませんがこれはもったいない事です。これで歴史の生き証人が消えました。

いつか、花街、遊廓の建築物が復元(復原)、活用する機会が訪れることを願います。そうするべきです。悲哀に満ちた遊女たちの歴史が封印され、葬り去られ、滅ぼされる前に!

趣旨からそれてしまい申し訳ありません。この状況を見て感情を抑えられずにはいられませんので投稿いたします。

667掛川のすずもと:2011/02/24(木) 19:36:33
掛川の遊廓
一年前旧遊廓の旅館すずもとが解体された民間の住宅ができるそうで向かいにある元旅館萩の家のみが十九首遊廓の面影を残しています 旧遊廓の後地だけあっていまでも細い路地裏路や狭い曲がりくねった路地が当時を偲ばせます隣の菊川市の初咲新地にも古い遊廓の建物が残っているみたいそれとその当時まだ遊廓が現役だった頃の旅館すずもとにあった絵がきれいに修復され掛川市二の丸美術館に寄贈されその当時遊廓が華やかだった昔を偲ばせますもし掛川市にくる機会があったら一度御覧になられる事をおすすめします

668膳所裏:2011/02/27(日) 18:58:51
片山津検番
 少し前ですが、片山津温泉で大正九年に建てられた検番にお邪魔しました。
 紅柄格子の建物の中にあったのは大正ロマン香るホール、芸妓の名が入った稲荷提灯、温泉マークを形どったガラス障子、中でも目を見張ったのが芸妓札で、赤表、黒裏の名札をひっくり返して各芸妓のお座敷状況を確かめるという板組で、見盤が検番の語源では無いかと思える程合理的な物でした。
 その後、かつての置屋さんも訪れ、かつて鴨と呼ばれた温泉芸者の話を聞くこともできました。

 現役の鴨はもういないのですが、ご当地グルメの片山津バーガーの具に鴨肉を使ったものが有るそうです。

 が、どうしても食べる気にはなりませんでした。
 

669膳所裏:2011/02/27(日) 19:41:38
温泉こんにゃく芸者
 この片山津を舞台にして昭和四十五年に封切られたのが「温泉こんにゃく芸者」です。
 女屋実和子が役する球枝が、勤めていたコンドーム工場が倒産したので片山津温泉でひょんな所から芸者となるが、瞬く間に超売れっ子になったのであれよあれよという間に関東、関西のスカウトマンによる引き抜き合戦。
 優しい球枝はこんにゃく風呂を作るのに一生を捧げる養父の殿山泰司!!に親孝行をするため小松方正演ずるヌカ六(抜かずに六発撃てるという化け物)とセックス三番勝負!というすさまじい物語りです。

 この設定を小気味良いテンポで展開する中島貞夫監督の職人技が冴えに冴えます。

 さらに脇役陣がすごい。大泉晃、上田吉二郎、常田冨士男、小池朝雄、荒木一郎そして
片山由美子!

 プレイガールに出ていた片山由美子、若い人は知らんでしょうな〜

670T-レッド:2011/02/28(月) 15:08:36
コンニャク男
飛田に、"コンニャク男"というのが徘徊してましたよね?

今でも目撃情報はあるんでしょうか・・・

671鷹目:2011/03/02(水) 22:11:33
鍋の材料
>膳所裏さん
 先日、その一本の横断歩道を見てきました。

 駅や線路の変更、道の変更などで客の流れが変わったと言うのは聞きますが、あの一本横断歩道が明暗を分けたかもしれないとは本当に寂しい限りです。

 片山津で「温泉こんにゃく芸者」と言うのも凄いですね。小池朝雄や常田冨士男、味のあるいい役者さんですね。

 『全国花街めぐり』では片山津の芸者についてはこう書かれています。

 「鴨」というは元湯女の異名で、宿屋の仲居が客の酒の相手もし枕席にも侍ったのだが、 最近それが芸者に変りつつあるあるのである。

 さてこんにゃくは芸妓や娼妓の異名で使われていたかというと実際、根室で私娼の異名で使われていたそうです。

 ちなみに呉でも引っ張りの別名で鴨という異名が使われていました。



>今紫さん
 件のA、個人宅かマンションなのか分かりませんが、更地に基礎の墨だしがありました。

 ただ歌舞練場はしばらく大丈夫のようで怪談会や創作舞踊のイベントが催されるようです。

 機会があれば何度でも足を運んであげてください。

>掛川のすずもとさん

 はじめまして。貴重な静岡情報ありがとうございます。

 2011年3月27日まで静岡にガンダムがいるようなので都合がつくようなら(現時点では厳しい状況ですが)、十九首遊廓、初咲新地、掛川市二の丸美術館共に見に行きたいと思います。

>T-レッドさん

 5、6年うわさ聞かないですね。ゴム人間と同じく都市伝説??

672膳所裏:2011/03/05(土) 17:22:00
大阪六遊廓
 秀吉の肝いりで、五条〜七条間の遊廓の歴史が始まったと五条楽園の廓内では密かに伝え続けられてきたそうです。

 これを裏付けるものは何もないのですが、あの辺りは新日吉神社(いまひえじんじゃ)の氏子ですのでひょっとするとひょっとすればひょっとするかもしれません。

 秀吉の幼名の日吉丸は後年創作されたものらしいのですが何か裏が有りそうです。

 この新日吉神社より豊国廟にいたる参道に明治三十一年、大阪の六遊廓が寄贈した一対の大灯篭があり、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部の名が台座に彫られています、南甲部は南地五花街として、乙部は明治末の焼失を受け、すったもんだのあげく飛田に移った難波新地のことなのでしょうか?
 調べたのですが分りませんでした。

 新町のフォーラムでパネリストの人見佐知子先生もこの事に触れられましたが、どうしても豊国廟と六遊廓を結びつけることが出来ないとの事でした。

 実はここには秀吉=朝鮮出兵の先駆者=大陸進出を目論む軍部が豊国神社を再建=それに乗っかり海外での遊廓権益を目指すむ大阪の業者という図式がありました。

 人見先生に是非このことをお伝えしたかったのですが、生憎その後ずーと立ち代りお爺さん連中が先生をブロックしていたので、とうとうその機会を逸しました。

 私の人生で佐和子先生とお近ずきになれた、たった一つのチャンスだったはずなので、今思い起こしてもあのお爺さんたちがうらめしい・・・

 ところで、温泉芸者シリーズには、温泉スッポン芸者、温泉みみず芸者、温泉ポン引き女中(白浜舞台)などがありましたが私は見ておりません。

 

673夕凪:2011/03/07(月) 01:02:52
南五花街遊廓組合
1932年の南五花街遊廓組合規約に下記の条項がありました。

 本組合ハ組合員ヲ左ノ通リニ分チ事務ヲ処理スルモノトス

  第一部 特殊料理屋、芸妓扱席(検番)、芸妓置屋、芸妓
  第二部 呼揚貸座敷、娼妓扱所貸座敷、娼妓小方貸座敷

一つの組合を、芸妓関係の組合と、娼妓関係の組合に分けてたそうです。

膳所裏さんの書かれている、南甲部、南乙部と言う名称について、
直接触れた資料は見当たりませんでしたが
おそらくは、芸妓と娼妓関係の業者が各々寄贈したのではないでしょうか。



(参考)ttp://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/8meijigeigikaihou/meijigeigikaihou.html

674膳所裏:2011/03/08(火) 16:27:41
羊羹色の羽織男は要注意
さすが夕凪さん。昨日気になって調べなおしたら日本遊里史(465ページ)にこの件に関する記述がありました。

 私の推測とはうらはらに難波新地乙部遊廓は南甲乙部とは別に存在していました。

 ご推察の様に南地甲部は芸妓中心で乙部は娼妓と見てよいのですが、厳密に云うと、甲は送り込み、乙は居稼店(てらしみせ)として当局が区別をつけた事です。

 つまり南地甲部にも送り込みの娼妓がいたことになります。

 さて、大阪の六遊廓が灯篭を贈ったころから娼妓が自由廃業を求めた訴訟沙汰が盛んになったので、これに対する大阪の遊廓側の防御策も載っていました。

 “先づ、南地甲部遊廓では事務所と置屋との内意を受けて娼妓は、

第一 客人の人相を見極むる事、
第二 言葉づかいに注意すること、
第三 羊羹色の羽織と古洋服を着し口ひげを蓄へたる者には最も注意すること、
第四 客人が寝所に入りたる時は娼妓との談話を立ち聞きすること、
第五 以上は一々事務所に届出ること を命じた、

 同乙部遊廓(居稼店)では到底外面的の手段では不可能と諦め専ら自己反省を求むるために時々僧侶を聘して因果応報の道理を言ひ含めることゝし、又松島遊廓なる某楼では廃業の意思のあるものを密告したものには甲一円、乙五十銭、丙二十五銭賞与を出し・・・”

 これではとても根本的な解決にはならなかったでしょうね。

 ところで次の日曜に私も愛知の蒲郡を徘徊しようと思っています。

 勿論、古着に羊羹色のジャケットを羽織り、無精ひげで・・・

 

675鷹目:2011/03/21(月) 20:32:27
生駒にて
 さて前日、遊楽さんからお聞きした情報を元にオフの段取りで生駒新地の旅館へお話に行ってきました。

 まずは生駒新地関連のお話。

 ・宝山寺の旅館街は、船場の旦那衆が聖天さんにお参りに来た時の宿としてが始まり。
 ・新地の芸妓は最盛期は200人ほどのいた。
 ・温習会も行っていたが、お稽古や着物代にお金がかかるので辞めた。
 ・いまはコンパニオン芸妓というべき感じ。
 ・自分ところで料理を作っている店は2軒ぐらい(うろおぼえです)。大体は仕出し。
 ・宴会からの予約花、泊まりもOK。
 ・旅館組合ではずれたこと(派手な営業活動のこと?)をしないよう申し合わせているとか。

 で、次はオフの内容。

 ・開催日は日曜。時間は夕方5時ごろから3時間程度。
 ・料理は特製すき焼き(鍋+おつくり一品+漬物+ごはん)。飲み代入れて会費6000〜7000円程度。ただし、人数によって先方と相談いたします。
 ・遠隔地からの方には、そこで宿泊も可能です。朝食つきお一人様7000円。

 今からの段取りだと5月開催が余裕ももててベターかと思います。

 後は皆さんからの意見(メール、MIXI、伝言板などから)を考慮してまとめたいと思います。

 平日の夕方からで急に冷え込んだ日だったからかもしれないが、むちゃくちゃ繁盛している印象はなかったです。

676夕凪:2011/03/26(土) 21:16:14
新千日歓楽街 (鶴橋)
大正9年(1920年)の天王寺、玉造間市電開通と、城東線桃谷駅の発展につれて、
郷土鶴橋の大阪市に接する地区を有望視する実業家があらわれ、
東大阪にこれといって歓楽街が無い点に着目、

市電細工谷停留所より鶴橋町の中央部に入る道路以前の沼地を埋め、
先ず土地の発展を期する為に大正11年ごろ(1922年)
アメリカ某サーカス団を呼び興行を行いました。

又今の野球場に当る一帯に納涼博覧会を2ヶ月にわたって開催し、
衛生、犯罪等の参考館や八幡のやぶしらず(化物屋敷、仕掛によって幽霊を出す)等
涼味をさそう催し物を行って好評を博しました。

又北部一帯は新千日と名づけ、劇場、温泉劇場を
新世界のラジウム温泉に対抗して建設に取りかゝり、常設映画館2ヶ所等も計画し
先ず東大阪隋一を誇る鶴橋劇場を完成しました。

     (中略)

これと同時に、飲食店、呉服屋、月賦販売百貨店、カフェー等が立ちならび、
中でもカフェー富士軒、鰻まむし出雲屋支店等一流商人の進出を見たので、
東大阪隋一の歓楽街はこゝに完成するかに見られました。

しかし大正末期の産業界の不振により不景気の訪れるとことなり、
資金の行きづまりがあったものか、温泉劇場の建設は基礎工事を行ったのみで、
工事中止の止むなきに至ってしまいました。


??????????????????????????????????????????????   1956年の資料より

677夕凪:2011/03/27(日) 21:01:51
新千日歓楽街の計画と鶴橋公園
温泉市場が開設せられて、
その後此の方面の盛況は持ちこたえるかとも思われましたが、
次第に衰微しはじめ太平洋戦争の開始と進展につれて、
疎開地帯に指定されたので
ついにあとかたも無くなってしまいました。

空き地は、当時戦争による食料不足から、
近隣の人々が自家農園に利用するところとなりましたが、

戦後は市の公園設置計画により
昭和23年(1948年)地元有志の努力によって、
公園及野球場の完成を見るに至り、
さらに北側には大阪府立聾学校が建設され、
道をへだたてゝ日本理容専門学校が設立せられるに至りました。

678新今里X:2011/03/29(火) 00:16:15
奈良新風土記 生駒
1982年の新聞に生駒を取材した記事があり、花街に関する部分を資料として少し転載させてもらいます。

『この町には、花街の風習がいまも根強く生きている。例えば「花代」。線香一本で時間を計っていた時代の名残か、いまも三十分きざみが守られている。三十分は一本と呼ばれ、夕方六時から十一時まで、一人の芸者さんを五時間拘束すると十本となる。
ところが、単純計算できない約束ごとがある。その一つが「入り花」。最初の一時間に限って二本を三本と計算する。さらに、六時から九時までの三時間に、他の客から指名がかかり、居残ろうとすると「もらい」「かえし」といって、六本が十二本にはね上がる。』

679膳所裏:2011/03/30(水) 14:50:40
生駒ぞめき
 生駒市誌によりますと、生駒新地の誕生は大正三年、大軌鉄道(現近鉄)が生駒鉄道を設けたことが発端で、花街の歴史も大正四年に大阪南地の巴席がここに置屋をおいたことから始まりました。

 この巴席の芸妓は「不破」や「呂之助」など、赤穂浪士にちなんで芸名をつけたそうです。

 当初は大阪出身の業者大阪党と生駒出身の料理屋側の生駒党で何事も対立していましたが、松川生駒分署長のもとで、置屋側と料理屋側が共同出資して「生駒芸妓株式会社」が生まれました。

 大正十年には旧新町演舞場の建物をそのままこの地に移転し、生駒座として新な生を受け、温習会もここで行われました。(現在は跡形もありません。)

 昭和に入ると、洋式の舞踏場の建設が大阪府で許可されなかったこともあり、牧山と云う人が洋館のスマートなダンスホール「生駒舞踏場」を作ると、最盛期にはダンサーも百人を数え、大阪の会社の重役連中が連日押しかけたそうです。

 戦後は生活環境の変化に加え、涼しい生駒もキャッチフレーズも冷房装置の普及でその意味を失いだんだん勢いを失いました。それでも昭和四十八年に芸妓はまだ百五十人もいたそうです。

 現在の生駒で私がお勧めするのが元旅館を改装され雑貨屋&カフェとして若きご主人が営むナイヤビンギさんです。

 2階の客室を利用した個室空間の窓際でコーヒーを啜りながら、浪花の恋の寅次郎の中で寅さんが松阪慶子扮する大阪芸者ふみと仲睦まじく歩いた宝山寺に続く参道を片肘ついて眺めれば、

     “生駒新地は気楽なところ
        三味や太鼓で日を暮らす”

 野口雨情が作詞した「生駒新地流し」で歌われたかつての賑わいに思いを馳せるのも、そう難しくは無いようです。

680夕凪:2011/04/03(日) 22:24:59
和歌山の娯楽
●花柳界

 和歌山市:東廓、番廓、新和歌検、不老園(芸妓224)、
      カフェー街(元寺町、築地、その他を合せ女給593)
      酌婦検番、天王新地、阪和新地、手平新地(その他を合せ397)

 新 宮 市:大王地検番芸妓105、浮島遊廓娼妓95ほかに酌婦40、女給100

 海 南 市:旭検番、寶検番、日の出検番(芸妓44、酌婦157)
      歓楽街 黒江新地、名草新地、東新地

                       1936年の資料より


●ひょっとして、上記の手平新地が、例の“ 新天地 ”では ・・・・ !?

(参考)ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VdW08hzvbgoJ:www.nwn.jp/screen/waga1/text1/2.html+%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1+%E3%80%80+%E6%96%B0%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%89%8B%E5%B9%B3&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp

681夕凪:2011/04/04(月) 00:00:58
尼崎の娯楽
●花柳界

 尼崎検番(芸妓40)

 西本町北通、神田新地はカフェー街として有名である。


               1936年の資料より


 

682膳所裏:2011/04/04(月) 16:50:51
どうにもとまらない
 又聞きの又聞きですが、岡山の西大寺に裸祭りの日にだけ遊廓になった建物が一軒現存しているとの噂を手がかりに、日本三大奇祭の一つが行なわれる瀬戸内の門前町を訪れました。

 阪口祐三郎伝の全国花街所在地にも載る三業地の方は、色々お話を聞くことができた西大寺文化史料館の裏の新町通りにあり、今でもかすかにその色香を感じることができました。

 遊廓の方はそこから3キロほど離れた大井川の河口の九蟠(くばん)にあったとの事なので行ってみました。

 かつて新田開発の為、この辺りを一蟠から十蟠まで区画し互いに競わせることよりお上が開発を進めたらしいのですが、現在はこの九蟠と三蟠のみが地名として残っています。

 実際建物の有った場所は地元のタクシーの無線ネットワークでも分からず、漸くお話し頂いたの九蟠の古老に記憶の隅をさぐって頂き、遊廓は土手下の住居地でなく、最上稲荷神社の辺りの川に入り込んだかつての舟付き場にあったという情報を得ましたが、当時の建物はどこにも見当たりませんでした。

 どうも、西大寺にかつて遊廓があった。裸祭りの日にも男どもが押しかけた。

 “遊廓で弁天様を拝めるのでわざわざ祭りにいかなくてもここで充分御利益いただける”

 という様な話が何でも自分に都合よく聴いてしまう私の耳には今でも遊廓の建物が残っているというように響いたようです。

 九蟠を後にするタクシーの中で、昔何気なく聞いたあの人の歌が頭の中に聞こえてきました。

        うわさを信じちゃいけないよ

        私のこころはうぶなのさ

        いつでもでも楽しい夢をみて

        生きていくのが好きなのさ

683新今里X:2011/04/04(月) 22:23:07
昭和42年のイコマ
昭和42年の雑誌記事より転載(伏字にて自主規制アリ)させてもらいます。

『聖天様を祭っている生駒は知る人ぞ知る大阪の××××の聖地である。これがまたいい。近鉄奈良線の生駒駅下車、ケーブルであがると紅燈の段々道に出るね。ここにいるのが生駒の芸者衆である。料理旅館の門をたたき、女将に依頼すればいいのである。
芸者の花代とか線香代とかは、いくら聞いてもさっぱり見当がつかないものだ。こういう時には食べて飲んでイクラ、と大ざっぱなとろを、総額でまとめてたのんでしまうほうがいい。
(中略)
芸者さんを午前零時以降に呼ぶようにアレンジしてもらえば料理ともで一万円ですむ。早くから来させるとやはりチト高いのが難といえば難。
やってきたのがポチャポチャとした芸者であった。いくら×××芸者とはいえ、一応はスソを引いてコンバンワー。差しつ差されつ、コタツのなかで指を握ったり、×の×に×を入れたり、はては×を××て××××××× (以下略)』

684新今里X:2011/04/05(火) 17:00:45
九蟠ストリートビュー
九蟠にもgoogleの魔の手がおよび昨年あたりにストリートビューが公開されてしまいました。(笑)
土手(防潮堤かな?)から撮影したらしき俯瞰気味の古写真と照らし合わせて見ると当時の建物は現存していない状態でした。
古写真をストリートビューで確認しただけなので自信はなかったのですが、膳所裏さんが書き込みしていただいた場所と合っているので確信できました。
常夜燈や稲荷神社の玉垣などには何か書かれてましたでしょうか?

西大寺の方は地名だけなら西大寺新地が気になるところです。(笑)
昭和37年に廃線になったそうで町並みから昭和のニオイが…というか時間が止まった感じですね。
ぼくの場合はロケ地めぐりをしてました。

685新今里X:2011/04/05(火) 21:15:20
廃娼県は新地だらけ!
昭和9年の市街地図で新天地となってるところは手平なので夕凪さんが書いてくれた昭和11年の手平新地と同一の可能性はありそうですね。
地図上では新天地の地名と都市計画道路の点線が隣接してて、現在では新天地の文字のところにちょうど国体道路があります。
都市計画は戦争をはさんでも受け継がれてますから、もし新天地が手平新地なら国体道路完成よりもかなり早い時期に立ち退きで姿を消したのでないかと思います。

名草新地は初耳ですが名草山からすれば紀三井寺あたりかな?
昭和15年に和歌山市に編入されたそうなので、昭和11年なら海南市に含めて書かれててもおかしくないです。
それとも、海南の歓楽街は大正初期まで市内に散在してたそうなので、その一箇所が名草郡から名草新地を名乗って残ってたとしてもおかしくないです。
後に海南検番組合になる「旭検番、寶検番、日の出検番」で、旭検番は黒江新地、日の出検番は東新地というのは分かってますが、そういえば寶検番はどこか、黒江新地だったような気もするけど、ちょっと記憶にないです。
検番の次に歓楽街として「黒江新地、名草新地、東新地」と書かれてるので書き順から寶検番が名草新地かな…と想像してしまいました。

686新今里X:2011/04/05(火) 22:07:50
尼崎は兵庫県ではないと思う
>夕凪さん
尼崎検番(芸妓40)が西本町北通ということですか?
神田新地は西本町北通ではないですよね。

だいぶ前に古地図を頼りに尼崎の検番か芸妓組合だったかを見に行ったのは大物の方でした。
そこから西本町北通に移転したのか、別にもあったのか…
西本町北通あたりも何もなかったような。

687膳所裏:2011/04/06(水) 20:00:06
はらたいらに1000点
>新今里Xさん

 まさに常夜燈の辺りが遊廓だったのですが、常夜燈には何も刻まれてはいませんでした。
 玉垣には寄贈した青楼や芸妓の名が彫られていることが有るので私も注意して見る方なのですが、何も無かったと思います。

 ただ、最上稲荷神社の記念碑に

 “この地は元禄五年岡山藩主池田綱政が時の郡代津田永忠に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以って当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている
 九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行なわれ繁栄を極めた”

 とあり、この地が港型と開発造成型を併せ持った複合型遊廓であったことが窺い知れます。

 ところで、日本遊里史の遊廓一覧に九蟠も載っているのですが、貸座敷二軒に対し娼妓数も二人になっています。

 これは何を物語っているのでしょうか?

 ここで三択です。

 ? 一つの貸座敷に一人ずつ鬼の様に客をとる伝説の二人の娼妓がいた。

 ? 鑑札を持つ娼妓は二人だが、何人もの芸妓がいて娼妓の仕事の分野にも入り込んでいた

 ? 昭和の始めには、大井川を高瀬舟で物資を輸送する時代は過ぎ、賑わいは失われ、遊廓渡世は風前の灯であった。

    う〜ん ?を選んだ竹下景子に1000点!

688新今里X:2011/04/07(木) 22:58:07
どんな二人だったか気になる…
三択なら三蟠wですね。
ただ繁栄を「極めた!」ことがあったのかどうかは疑問です。
番付などに名前が出たことないのでは…?

689新今里X:2011/04/07(木) 23:41:09
尼崎の遊廓設置出願
明治29年9月、尼崎町内別所村字小役人町
 大阪や西宮の遊廓に対抗するためと町中の私娼を撲滅するために出願
明治32年6月、尼崎町字築地町
 尼崎町字築地町に限定するは不可なるにつき他の地域を撰定すべし
明治32年7月、大物村字田町

結局遊廓設置の出願は全部却下されたようですが、大物には昭和10年ごろの地図に尼崎芸妓共同組合や立花楼など料理屋らしい建物がありました。
先日、夕凪さんが書いてくれてた尼崎検番とは同じ年代なので、別の花街になるのかもしれません。

余談ですが駅前のジャンボって元トルコですよね。(笑)

690膳所裏:2011/04/10(日) 17:58:04
九蟠の番付
 日本遊里史の遊郭一覧を基に廓番付を作ってみました。

 まずこの遊郭一覧を見て思うのは娼妓側からのみ廓をみていることで、東京でも名古屋でも芸者のみの三業地は一切載っていません。

 ところが関西には祇園甲部にもそこそこの娼妓が在籍しており、有名処の花街は殆ど名前を見ることができ、西と東の廓の仕組みの違いがわかります。

 また、上七軒の貸座敷33軒に対し娼妓2人を見ればこの表にいわゆる芸妓のみの本茶屋が含まれているのは明らかです。

 ですから順位のつけ方は一覧に載っていない芸者数を推測する為に、貸座敷数を娼妓数で割ったその指数が高いものから花街度が高いとしました。

 もちろん無茶苦茶な論理なので突っ込まないでくださいね。

 では、昭和の初めごろ、娼妓が在籍した花街の番付です()内指数。

東大関、上七軒(16.5) 西大関、金沢北廓(9,7) 東関脇、堺乳守(6) 西関脇、堺竜神(5.9)
東小結、先斗町(5.1) 西小結、祇園甲部(4.7) 東前頭一、金沢東廓(4.7) 西前頭一、四日市南町(2.2) 東前頭二、堀江(2.1) 西前頭二、金沢西(2)

 なんとなくそれらしい名前が並ぶのが不気味です。

 ちなみに飛田は0.1で洲崎は0.09でした。

 尚、貸座敷数プラス娼妓数の合計が10を切った箇所は異常値が出る為対象外にしたので残念ながら番付に九蟠は載りませんでした。

691鷹目:2011/04/11(月) 16:14:45
オフ会の日時アンケートです。
 春オフの日時アンケートです。

 日時はスケジュール調整サービス伝助(下記URL)よりお願いします。伝言板からでもOKです。

 オフの概略は以下の通りです。

 ・開催時間 未定 (候補日 2011年5月8日(日)、22日(日)、29日(日)
       午後5時より3時間程度
 ・会場 生駒宝山寺 某旅館
 ・料理 特製すき焼きセット
 ・会費 約7000円

 お願いします。

http://densuke.biz/list?cd=TErzu6e9Tz3gzscn

692鷹目:2011/04/20(水) 17:23:51
遊里史研究会、2011年恒例春のオフ会案内
春オフ会の案内です。

・開催場所:奈良県生駒市門前町宝山寺新地内 料理旅館古賀
・アクセス:近鉄生駒駅から生駒ケーブルに乗り換え宝山寺駅下車。徒歩約5分
・開催日時:2011年5月22日(日) 午後5時より3時間程度
・料理:特製すき焼きセット
・会費 約7000円

備考:宿泊される方は宿泊料(朝食つき)7000円

 いつものメンバーには近日中にメールしますが、連絡先が変っていない方は下記出欠等幹事長の出欠登録のみ、この日記へのコメントだけでも結構です。
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=duz501blo1ffgpyv

初めての方は、必ず下記よりお申し込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=172867

皆様のご参加をお待ちしております。

693夕凪:2011/04/24(日) 10:44:03
行こうか灘町帰ろうか茶町こゝは思案の道笑町
●米子花街

 と云はれるだけあって、米子市灘町は米子市におけるたった一つの色街だ。
 と云へば恐らく人間に性欲に自覚あるものは、
 遊廓か、それとも芸妓が居る一角だと思うだろう。
 いや御想像の通り灘町は公許された私娼窟だ。


○灘町遊廓

 世間で一般には遊廓と呼んでいる。しかし形式的は私娼窟たるを失はない。
 何故なら灘町30有余の遊廓に働く女性は娼妓としての鑑札でなくて
 酌婦として許されているだけだ。だから公娼でなくて私娼だ。

 しかし、灘町に遊ばれる人々達よ、私娼だとて軽蔑したり、危険がる必要は更にない。
 安心して通ひつめるなり、一夜の享楽に耽るも御随意だ、
 決してそのために警察の御厄介になる必要はない。
 名称は私娼であっても実質は公娼の設備になって居り許されているのだ。


                         1936年の資料より

694膳所裏:2011/04/24(日) 19:49:52
米子
 二年前に花園町遊廓(旧灘町遊廓)を訪れました。
 町外れにかなり広めの胴筋をもつほぼ長方形の区画・・・典型的な新地様式です。
 蝙蝠をかたどった壁がある印象的な料亭?をふくめ数件の当時の建物が寂しげに佇んでいました。
 福の神の役瓦を持つ別の棟もありました。
 そういえば福知山の猪崎でも同じ役瓦を見たことがあります。

 明日は三重の田丸遊廓に行ってきます。

 鬼が出るか蛇がでるか、 ちょっとワクワクしています。

695夕凪:2011/04/25(月) 07:33:53
神社三業組合の料理・特殊カフェー
・神社三業組合(宇治山田市神社湊):引本屋、真砂屋、丸万、小田屋、美咲家、愛国楼

・田丸支部(渡会郡田丸町):いろは

・尾鷲支部(北牟婁郡尾鷲町):嘯月、光月


                    1950年の資料より

696膳所裏:2011/04/26(火) 16:29:57
田丸
田丸は有りや無しやと問われれば・・・有りでした。
ネットで何も掛かってこないのであんまり期待はしていなかったのですが、実際行って見ると・・・これが大有りでした。

手がかりは全国遊廓案内の田丸駅西南二丁だけでしたが、下車後五分程ですんなりと勝田町にかつての色里を認めることが出来ました。

土地の人に現存する いろは、山一、小林、ナルセの各妓楼やかつての芸者置屋の位置を教えていただき、ここは値段の高い古市からあぶれた遊客がお値ごろ感で利用された事なども教えて頂きました。


その足で図書館に行き玉城町史に遊廓の1ページを見つけました。町史によれば、もともと新田町(シンデマチ)に文政二年、町奉行が客屋(茶屋ではありません)を許したことから遊廓の歴史がはじまり、幕末には常磐屋、川崎屋、大西屋、堺屋、瓦屋(新玉屋)、駒屋の妓楼と中井屋、二葉屋の揚屋があり、この辺りでは古市、松阪に次ぐ規模を誇ったそうです。勝田町の記述は町史全四巻の内“明治七年に、勝田町に姿を変え、貸し座敷として再開された。”のみ・・・遊廓の存在を隠そうとする意図がヒシヒシと伝わります。

その後、町史に詳しい人がいることを図書館の人に教えて頂き、連絡まで取って頂き公民館まで出向きました。迎えてくれた、皆が先生と呼ぶお爺さんがが膨大な史料から探すこと小一時間、とうとう大正から昭和初期の勝田町の全てのお店が書かれた地図を頂くことが出来たので再び現地に戻り地図を右手に再確認。

現存しないのが、遊廓…美よし楼、銀波、金波、丸一 旅館…登喜和楼、川合屋、山本旅館
        置屋…お福屋、鈴の屋、丸屋、かじや、山田屋

ほぼそのまま残るのが妙見側から入ると

        遊廓いろは(妙見の向かい、屋根下壁の紅がらと緑が印象的)
        遊廓山一(クランクを曲がり右側路地手前Pの手前)
        遊廓銀花(その路地かど、近所の人がナルセと呼んでいた店、見ごたえ有り)
        旅館小林亭(銀花の斜め前、今は民家、二階の窓の前に松、笹、梅?の彫り)

そして外城田川にかかる大橋(現在架け替え)に至ります。

帰路伊勢市の神具店で火打ち石を買いました。家に帰りカチカチすれば、成程閃光が飛び銭形平次気分が味わえます。

ところが厄除けの切り火としては有りですが、発火装置としてはこっちの方は無しですね。

697膳所裏:2011/04/28(木) 16:15:17
お知らせ
“京都 舞妓芸妓の奥座敷”などでお馴染みの相原恭子さんが5月3日に京都駅ポルタプラザに於いてお話会を催します。

タイトル:「京都花街」格子戸うらのおはなし会

時間: 第一部 13:00〜13:40

    第二部 15:00〜15:40

内容  舞の披露、おはなし会、記念撮影会

698鷹目:2011/05/02(月) 18:41:54
お知らせ 2
 試験的にですが、心ある学生グループが中心になって大和郡山洞泉遊廓旧川本邸が一般に無料公開されます。

日時:2011年5月5日(木) 10:00〜16:00

 ただ試験的な実施なので突然中止になる場合、今後どうなるかわかりませんが、お時間のある方は是非行ってみてください。


詳しくは下記ブログにてご確認ください。

*ttp://kmachi.narasaku.jp/

699膳所裏:2011/05/05(木) 16:26:50
町名変更
以前、福井市の足羽公園の近くに有ったといわれる遊廓跡を探し回ったことがあります。

渡辺寛によれば榮新地は(旧、畑方西・東と長居町)
全国遊廓案内では石場畑方(旧桃園)
上村行彰は玉井町(旧伊勢町、大将軍町)を挙げています。

この玉井町も今は無く、現在は、つくも2丁目、足羽3丁目、桃園1丁目、有楽町、左内町と毛矢3丁目に当ります。

情報は錯綜、私自身は福井市史も読んでいないので、上の遊廓が同じ場所なのか、移転したのか今でも分りません。

ただ、明治以降この地で複数以上の町名変更があったのは確かで、これが混乱の元であるのは間違いの無い所です。

結局、その日、寡黙で親切なお蕎麦屋のご主人に教えて頂き、更に車で送っていただき、現在の有楽町に丸窓で紅がらの貸し座敷とパッチワークの様なトタンで覆われた当時の建物を確認することが出来ました。

町名は歴史であり、そこに住む人の誇りです。ビルが乱立する都会ならまだしも、地方都市までそれに倣うのは文化の自殺行為と言えます。

ある市が町名変更の理由をホームページに載せています。

?もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
?郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
?来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
?役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある


??は理由にすら成りません。慣れ親しんだ町名のほうが分かり易いのに決まってます。
?は手数かけて調べさせて、その為の郵便番号でしょうが。

そして一番最後に本当の理由をもってくるのが小賢しいというかズルイというか・・・

そんなに仕事を減らしたいのなら、いっそ町名を全て廃止して記号と数字にしたらどうか?

それは出来ない?

いや、あなた達がやってきたのはそれと同じことなのですよ。

何故こんなに怒っているかというと・・・洞泉寺に今日行けなかったからなのです。

700膳所裏:2011/05/06(金) 16:56:00
待合 津の国屋
>夕凪さん 有難うございます。まさか榮新地の絵葉書が存在するとは・・・数日前に新吉原の仮宅の内部の絵葉書がヤフーのオークションにあったのですが、入札が五千円なので迷っている内に終了したようです。 旧川本邸の動画も拝見しました。おかげさまで今日からゆっくり寝れそうです。

実は鳥羽の遊廓、津の国屋の内部を見せて頂いた事があります。商工会議所が管理されているのですが、内部の保存状態は大変悪く、自己責任ということで何とか二階に上がりましたがいつ床がぬけるかヒヤヒヤしながら、それでも荒れ放題の庭も含め一応拝見しました。
印象的だったのは二階上がり口の手すりに掘られていたJ、Q、Kとクラブ、ハート、スペードの彫りで、ダイヤだけが有りません。これはお金をもって登楼する客がダイヤという洒落ですかねー。

角屋に似せた外観は整備され状態は良く、楓をあしらった玄関はここでしか見たことがありません。

津の国屋の正面に建つ鳥羽みなとまち文化館は船上遊女“志摩のはしりかね”の筆者で知られる風俗研究家の岩田準一の家で、彼が師匠でもある竹久夢二のタッチで描いたハシリガネが津の国屋の二階で船を待つ様子を描いた屏風もあります。

その他、渡鹿野島がモデルといわれるパノラマ島奇譚を書いた江戸川乱歩の展示もあり結構楽しめます。私も始めて知ったのですが、岸本水府もこの辺りの人だった様です。

鳥羽の遊廓跡にはその他、立派な三層楼で現在スナックである旧白子屋やかつて海が三階から望めたという旧料亭、太平楽などの建物も有りました。

鳥羽の商工会議所としても、かつての遊廓の建物を街中の地図で示したり、津の国屋の内部修理の見積もりを考えたりされていた様なのですが、どうも“負の遺産として”という修飾句が付きまとい今ひとつ踏み込めないようでした。

しかし鳥羽はまだまだ理解がある方で

「これでは家族の為身を売って死んでいった遊女達も浮かばれぬわ!」

私が海原雄山なら目をかっと見開き、箸を置きその場を立ち去りたくなるような時もありました。

701新今里X:2011/05/06(金) 21:58:28
あまり参考にはなりませんが
8年ほど前になりますが有楽町に行きました。
昭和初期の地図で遊廓は現在の足羽2丁目付近だったので、有楽町から南の方も少し歩いてみたのですが、何かあったおぼえはないです。

702膳所裏:2011/05/07(土) 15:33:02
有楽町
私が訪れたのは2年前でした。JR福井から見ると花月橋を渡ってすぐ右手の区画なのですが、連れていってもらえなければ分りませんでした。
丸窓のお宅は建物が大きい割りには塀も無く玄関前に小さな庭が有るだけなので、料亭でも、旅館でもなく、そのものだったと思います。
紅がらは時代を経ており、周りから浮き出た一種異様な佇まいでした。

703新今里X:2011/05/07(土) 21:54:55
栄新地と有楽町
栄新地や有楽町で検索してみたらホームページやブログの記事が少ないですね。

ぼくも訪れた当時に資料がなくてこの掲示板にも書けず、そのまま忘れてホッタラカシになってました。

荷風歓楽のロザーナさんのリストはこの掲示板のログも取り入れて整理されてるはずですが、さきほど見てきましたがやはり掲載がなかったです。

偶然ながら駅から歩いてすんなりと有楽町に入ったもので、すぐ分かる場所だから最近ブログなどやってる人が多数取り上げてるやろうと思い込んでました。

現地での印象は栄新地と有楽町は戦災や都市計画などで少しだけ移動してるように思えました。

取り急ぎ近場の図書館で基本的な史料を集めて調べてみます。

704新今里X:2011/05/08(日) 00:00:12
『廓の子』
加藤てい子さんの『廓の子』、未読の方にはかなりオススメです。

地名や遊廓の名称を変えたりしてますが、おそらく栄新地を舞台にしてるのではないかと思われます。

遊廓の娘として育てられたヒロイン鳥見亜納の子供の頃の出来事から、成長して妓楼を廃業するまでの物語です。

廓内での事件や出生の秘密など通俗小説的なところもあって楽しめますし、初期のコバルト文庫のようなジュブナイルっぽい感じもあります。

NHKの連続テレビ小説でドラマ化してほしいくらいです。

705膳所裏:2011/05/08(日) 11:55:08
道を聞くなら蕎麦屋に限る
チャカ チャンリン チャンリン チャンリン デンデーン

「場所がわからねーとき、おめーならどーする」

「そりゃーおまわりさんにきくだろう」

「おまわりさんは頼りにならねー だいたい他の土地の巡査が地図をひろげてうーんと唸るか、第一 派出所はいつ行ったって空じゃねーか」

「なら、駅員か?」

「やつらぁ ボンクラさー こねえだも田丸で東西逆を教えやがって ひでー目にあったばかりよ」

「観光案内所なら間違えあるめー」

「ところがどっこい やつら知ってる事は知ってるが 知らねー事は何も知らねー」

「そりゃーそーだろ じゃあ おめーさんならどーする」

「蕎麦屋に聞くさ」

「えっ 蕎麦屋? おかしーだろ なんで蕎麦屋なんでィ」

「そりゃ 藪で迷ったら 蕎麦屋しかあるめー」


>新今里Xさん Googleでは分かりにくいのですが Yahoo地図で見ると有楽町に不自然なロータリーが有ります。
 当時の遺構かも?


 

706ぼわぞー:2011/05/08(日) 15:12:54
奈良の舞妓さん
最近いろんなイベント続きでとても楽しいですね。
先日の川本邸見学の後は、久々に木辻を歩いてきました。
ビックナラのアーチ横の格子の家が建て替わっていてショック。
遠からず、静観荘だけが町の名残になってしまいそうです。

元林院を歩いていたら、ちょうど芸妓さんのお稽古の時間。風情がありますね〜。
で、こんなチラシも見つけました。春(初夏?)と秋の、年に2回やってはるそうです。

ならまちナイトカルチャー
奈良の舞妓と奈良の唄
ttp://www1.kcn.ne.jp/~narazai/nightspring.html
・日時/5月17日(火)・24日(火)20〜21時
・料金/500円
・定員/先着100名(予約可能)
・会場/ならまちセンター(猿沢池の近くです)

センターの方に聞いたら、まだ席は余裕があるとのこと。
でも、毎回、舞妓ちゃんの会は人気があるから、
前日までには予約してくださいね〜と、のどかなお返事でした。

17日に行ってみようかな〜と思います。

707新今里X:2011/05/08(日) 20:20:15
いろいろと
>>膳所裏さん
あのロータリー風の道路って真ん中に植え込みか噴水でもあったんでしょうか?
たしか善通寺の遊廓入口の広場も池があったとか、ここもそういう趣向を凝らしてたのかな?
ぼくが訪れた時は赤い旅館に看板があり「旅館 ●●● 泊750円」と書かれていました。
転業した時分の宿泊料だと想像するのですがいかがなもんでしょう?
気になるのが建物の減り方が早いようで、平成16年の福井豪雨で被害があったのかも知れません。

ぼくはなるべく地元で場所を聞かないようにしています。
地域によっては蔑まれてる場合もありますし遊廓や赤線だったところを調べたりするのに後ろめたさもあってちょっと聞きづらいです。
地元の方に話を聞く場合は、ある程度場所を把握してからにしてます。
同行者がいてて迷惑がかかりそうな時や、一日中歩き回って手がかりもないときなんかは仕方なく道を尋ねることありますけどね。
現役のところはタクシーで聞けば即ご案内ですけど、それも旅費をケチってタクシー乗る機会が少ないもので…(笑)

デジカメとブログが普及した頃からいろんな方の遊廓赤線跡巡りを読ませてもらってると観光案内所などに問い合わせをする方がけっこういるのに驚いてます。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥の諺もあるし効率の良さを考えてのことはよく分かりますが結果は同じでもスタンスの違いを感じてしまいます。
逆に後ろめたさを感じる自分の方が気にしすぎなのかなぁと思ったりもします。

>>ぼわぞーさん
ならまち情報おおきにです。
秋だけかと思ったら5月もやってるんですね。
500円は安すぎかも…
24日にしたら濃厚なスケジュールになりそうで。

-参考-
ありがたいことに去年の秋の分アップされてる方がいますよ。
ttp://www.youtube.com/watch?v=KgnC6DQckBw
ttp://www.youtube.com/watch?v=PdhxBRj_sjE
ttp://www.youtube.com/watch?v=CQbLUdTeEyM

708鷹目:2011/05/08(日) 23:49:12
軽薄短小の傾向
 何もかもすっとばして結果だけ見ているという傾向のところが圧倒的の多いですよね。一部には文献当たったり、地図見たりとして、最終的に案内で聞いたりのところもありますが。

 探すという楽しみ、もう一度見直してほしいです。

 まあ、何も考えずに無茶やってあちこちに迷惑掛けている人には理解できないでしょうけどww。ホンマやりすぎ多すぎ。

709新今里X:2011/05/09(月) 00:31:23
和歌山市の遊里の変遷
『和歌山史要 増補4版』和歌山市役所1952年に和歌山市の遊里の変遷が6ページにわたって解説されてましたので、とりあえず下記に遊里名を古い順に書いておきます。

北新博労町(1624年頃)
中之島遊所
元市場信心講
新内日参講
萩原遊廓
安原遊廓
(明治維新)
新内
番丁遊廓
新和歌浦検番
和歌浦不老園
東廓
番廓
(戦災焼失)
東廓組合
和歌山市芸妓組合
新和歌浦社交婦倶楽部

阪和新地・天王新地・葦原区などに各社交婦組合(なぜか設立時期など記述がありません)

詳細は前後の増補版も調べて後日書こうと思います。

追記:新天地劇場(戦災焼失)

710新今里X:2011/05/09(月) 11:01:27
自分への反省も含めて
>>鷹目さん

判断のつきにくい一軒家の画像を指して「ここはそうかな」とか「ちょっとにおう」とかの曖昧なキャプションや掲示板での議論はいろいろと迷惑がかかるので表現に気をつけないといけないですね。

711膳所裏:2011/05/09(月) 11:18:40
廓の男
私の場合、旧廓の人とお仕事をしたりお話しをする機会が多く大分と感覚が麻痺している部分が有ると思います。結構訪れたさきで名紙交換したり、後から連絡を頂いたりすることが有ります。
ただ、この感覚が当然会の趣旨に合わないことも充分理解できまので、もしそうであれば影で応援する側に回りたいと思います。
>新今里Xさん 訪れた時はロータリの存在自体に気付きませんでした。後、昭和22年の福井大地震。お隣の丸岡の富田町はこの時に消滅したそうです。

712鷹目:2011/05/09(月) 16:00:02
(無題)
>膳所裏さん

なかなか名刺交換して後から連絡を貰うなんてなかなか出来ない行動だと思いますので是非続けてください。
 それが記録に残す手段になるとます。

 やはり一番問題なのが新今里Xさんの書いている方々ですね。

 デリケートな問題だけに現状当会でも色々と議論や異論はでたり、話し合ったりします。いまだ答えのでないところであり、模索している部分もあります。

 でも現役のところの屋号写ったままの写真アップしたりと、思慮のなさを感じるブログ等が多すぎます
 問題提起以前の問題ですわ。
 。

 

713膳所裏:2011/05/09(月) 20:03:18
観亀神社大祭
 なんとも急な情報なのですが、ご案内頂いたのが今日で、私自身知ったのが今日です。

  *ttp://gion-east.jp/top.html

 万一いける方がいらっしゃれれば得がたい体験となるのは私が保障します。是非会社休む
 か、なんなら離職して行ってください。
 氏子総代は祇園東の取締りが努められます。

 観亀神社はかんきじんじゃです。どなたかのブログでかんかめと書いてありました。
 きっとバチがあたるとおもいます。

714鷹目:2011/05/09(月) 20:13:24
イベント
>膳所裏さん

 情報ありがとうございます。何も仕事が入らなければ行ってみようと思います。

 奈良の舞妓さんのほうは、夜予定がすでに入っているので行けません(泣)。

 しかし、今年の五月は面白い催し物いっぱいですね〜。こんな年も珍しいなぁ。

715:2011/05/12(木) 16:37:57
清娯園
先月愛知県の半田、亀崎を訪れ亀崎の名旅館、望洲楼さんのご主人とお話することが出来ました。

この望洲楼は伊藤博文も宿泊した創業安政年間、東海屈指の名旅館で、今でも松川二郎が絶賛した八勝館さんや十州楼さんと親交があるようです。

後日私の知る限りの情報(といっても阪口祐三郎伝にある半田の花街に関する数行の記載)をお送りしたところ隔月発行の「はんだ郷土史だより」を送っていただきました。

記事の中で半田、亀崎の「女の夜ばい」「色どころ」について情報や感想を求めています。

遊里史板の趣旨から離れる部分もありますがもし望洲楼さんに関する記述を含み何か資料等ございましたら教えてください。

“半田、亀崎女の夜ばい”の俗謡がいつごろから流布し、またどうして全国区になったのか? 郷土史だよりでは?この地は船乗りが多く、女房が留守中忍んでいった。?半島独特の住宅構造で若者は親と別に寝起きしたのが交際を容易にした。?この地は見合いを“呼び合い"と言うが、それが揶揄され“夜這い”となった、等の説を紹介しています。

√伊勢じゃ松阪 尾張じゃ名古屋ョ 半田亀崎や 色どころエ 一度は行ってこい!
 ソリャおもしろい

もう一つは平成の今でも大島町で歌われる“色どころ”に関してです。

半田町案内によれば昭和三年、半田では六千人の人口で芸妓60名、亀崎にはそれ以上の芸妓がいたそうです。(望洲楼にお抱え芸妓がいたのは大正までだそうです)

清娯園に関しては半田、亀崎ともご存知の方はいらっしゃいませんでしたが興味は示しておられました。

気長に待ちますのでもし何かの折でも見かけましたらこの“色どころ”についても教えてください。

名古屋ですから“呼び合い”が“よびゃ〜い”ときこえるのですかね?






 

716夕凪:2011/05/16(月) 01:07:04
清娯園の有名舗
今里、香取、大安、千歳、春、お染、玉壽司、三日月、歌仙、美喜家、

福壽、お舟、宮壽家、ダリヤ、菊屋、喜美福、五月、明月、新広光


                     1950年の資料より


※半田市字南大股ってなんかヤラシイ !?

717夕凪:2011/05/16(月) 02:28:45
幻の 『全國花街めぐり』 後篇 
ご存知『全國花街めぐり』(1929年)の巻末で著者である松川二郎氏は
具体的に花街名をあげて後篇の編述中であると述べています。

その中で同氏は、花街めぐりの興味は寧ろ後篇の方に在り、
前篇では三都を始めとして大物は殆ど網羅しているが、
後篇には、地方や外地の花街を収めるつもりであると述べてます。
しかし残念な事に未刊に終わってしまったようです。


ところが先日1930年に創刊された雑誌で下記の記事を発見しました。

●後篇 全國花街めぐり 松川二郎

 これは昨年7月誠文堂から出した「全國花街めぐり」の続篇である。
 いずれ本年11月頃には単行本として発行される筈なのであるが、
 読者から頻りに其の出版を督促してくるので、
 取敢ず本誌上に掲載することにした、
 花街案内もまた旅行案内の一部だからである。

そして同誌には10頁にわたって伊勢松阪、伏見中書島、岩代郡山の
三花街が紹介されてました。

尚、この雑誌の編輯者・発行者・印刷者はすべて松川二郎となっています。

でもネットで調べた限りでは第2号以後はヒットしませんでした・・・・

718膳所裏:2011/05/16(月) 17:40:51
濡れ衣
>夕凪さん

さっそく有難うございます。ある程度資料まとまったら、先方にお送りしようと思います。

今、四日市のネットカフェで高速バスの時間待ちしています。

先ほど、鈴鹿神戸(かんべ)の旧十日市町と旧常盤町にてそれぞれ転業旅館一軒ずつ、
そして白子(しろこ)でも転業旅館三軒と妓楼名をそのまま冠したアパート(マンション)二軒を見てきました。
お昼を頂いた白子の旧廓内のおすし屋さんはもと玉突場だったそうです。

白子の隣の千代崎にも遊廓があったので行ってきました。土地の古老によれば漁港のそばに「ちょうかろう」
という建物があったらしいのですが明治、大正の話のようです。

千代崎のおばあちゃんに「そんなもんとっくの昔に無くなったわ!今頃きてもおそいわ!」と決めつけられました。

「ちがう、ちがう、遊びにきたんじゃ無いって。」

あきれた痴れ物と映ったようです。

719膳所裏:2011/05/26(木) 13:40:10
お知らせ
角屋さんでご主人が文化講座されています。

*ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/

720夕凪:2011/06/05(日) 17:44:53
幻の 『全國花街めぐり』 後篇 その後 
5月16日に書き込んだ雑誌について、もう少し調べてみましたが
やはり続刊の有無は確認できませんでした。

ただ第2号となる8月号の予告チラシを確認する事ができました。

残念ながら、そのチラシには 「 後篇 全國花街めぐり 」 の文字はありませんでした。

また松川二郎氏自身も様々な事業を興したりした為、
発行予告はしたものの、実際に8月号が刊行されたかどうか謎のままでした。

※このチラシの裏面全面は旅行時代社主宰による
 2泊3日の『八丈島遊覧』ツアーの参加者募集広告となっています。
 尚、このツアーのリーダーは松崎天民・松川二郎の両氏でした。


(参考)http://www.wako.ac.jp/souken/touzai05/tz0514.pdf

721膳所裏:2011/06/08(水) 15:16:58
鞆の浦
再訪しなくちゃ

*ttp://imawosetuniikiru.at.webry.info/201103/article_7.html

*ttp://ameblo.jp/arisorou/image-10810156958-11068495760.html

722膳所裏:2011/06/10(金) 15:05:56
八丈島のキョン
松川二郎が「全国花街めぐり」を出版した昭和4年に上村行彰の「日本遊里史」も出ました。さらに宮武外骨もこの年「売春婦異名集」「アリンス国辞彙」を上梓しました。

翌5年には「全国遊廓案内」が出版され、向島でダンス芸者がお披露目されたのもこの年の12月で、大阪でも大和屋の阪口祐三郎が芸妓の質を憂えて「芸妓読本」を出しました。

おりしもカフェーの最盛期、全国での芸妓と女給の総数が拮抗してましたので、大都市では女給が芸妓をかなり上まっていたことでしょう。

京都では先斗町の舞妓のレビュー団が東京の公会堂で開演してますし、この年京都だけでヤトナ倶楽部が43軒ありました。

祇園にも振袖花魁がいたり、太夫までいたり・・・

これに娼妓や私娼まで加えると・・・日本全国半ばこれ妓院

松川二郎でなくても、たまには本土を逃げ出し、八丈島でキョンと戯れたくなったことでしょう。

723膳所裏:2011/07/04(月) 12:51:29
和歌山 海南
昨日海南の旧二新地を歩きましたが両新地とも芸者のみの花街だった様です。
市の中心部にある西新地は現役のスナック街で30〜40の看板の中、由緒ありげな料亭、割烹、旅館などがあり、今は民家のお宅の玄関奥にタイル張りの丸窓(元芸者置屋さん?)なんかも有りました。

駅近く、矢張り川向こうの東新地は完全に退役されているのですが、民家の中でとてもいい味を醸し出しておられました。つた屋(廃屋)、末廣(民家)などの屋号がのこり、カフェ調のカラオケ、料亭、旅館などもありました。

近所の方にお聞きすると、芸者町としては両新地とも昭和40年頃まで賑わっていた様で、
東新地の芦原温泉(現役銭湯)は夕刻ともなると芸者衆でいっぱいだったそうです。

海南の名物ずぼら焼きという回転焼きの店がありましたが、なんとなく和歌山らしいと思いました。

724膳所裏:2011/07/08(金) 15:47:20
美濃太田
美濃太田駅の線路沿いに延びる大楽通りが赤線であったと複数の方がネット書いておられますが、私の伺ったところに拠りますと、旅館のある辺りは花街だった様で、遊廓の建物は一番奥の点滅信号のすこし先で現在ブラジル人経営の自動車屋のスペースに1軒だけありました。

地元に詳しい方を紹介いただきお聞きしたところ、そこからほど近い太田宿のほうにも遊廓があったとの事なので訪れてみました。

中仙道の宿場であり、木曽川の太田の渡しが江戸中期まであり、醸造地であり、花街が育つ条件は充分揃ってます。

江戸時代旅籠を営み現在公開されている小松屋さんも明治期を通じ遊廓の建物でした。さらに薬局の向かいのパーキングにもかつて建物があったそうです。

近所の方によれば、太田本町1の信号から音羽湯、上町の枡形あたりが芸、娼妓の町だったようです。

江戸期には太田宿辺りが栄え、鉄道が敷かれると大楽通りにも繁華街が出来たという推測はたやすいのですが、市史もなにも読んでいないので詳しい事は分りません。

また、両者の距離も近すぎますし、免許の件も有るでしょうし・・・

もう一度調べたい所でした。

725新今里X:2011/07/10(日) 20:45:44
鹿が散歩する元林院
夕方から奈良町に行って来ました。

まずは南に歩いて木辻の現状を見てきました。
旅館の静観荘と住宅で使われてる数軒のみ、錦市場の奈良劇場の部分も無くなっていました。
泉亭の名前が残っていた●●家住宅が取り壊されて雰囲気が変わってしまったように思います。

それから南市へ行くとスターミュージックの跡地にオシャレな感じのカフェが建ってました。
風俗店はコスチュームサロントップレディー・ホテルヘルス奈良町ロマン倶楽部・奈良で唯一の回春性感マッサージ夢咲姫が歓楽街の灯を守り続けています。

元林院に入ると稽古をしてるのか三味線の音色が聞こえてました。
そして4〜5匹の鹿とすれ違い、まんぎょくの前に来るとちょうど営業時間になったようで店の明かりが点灯しました。

残念だったのは数年前にまで残っていた奈良町では珍しい木造3階建ての笹乃屋旅館が無くなってました。
笹乃屋はもとは大正時代に建てられた2階建てのお茶屋で、昭和初期に3階建てに増築されたそうです。

<<参考>>
ttp://www.top-lady.net/
ttp://naramachi.gone.jp/
ttp://yumesakihime.net/

726膳所裏:2011/07/12(火) 14:07:31
元林院の鍾馗様
京都が発祥と言われ、家の軒先で睨みをきかす鍾馗さんですが、京、大坂、滋賀を中心に東海でも、特に花街や花街跡を中心に見かけます。
鍾馗さんが向かい合わせになると喧嘩をするので、向かいの家はしゃれでお多福を置き気をそらす場合が有るのですが、実際アパ祇園ホテルの裏にそんなお多福さんが有ります。

形は色々あり、今里と橋本に子鬼を足蹴にしている鍾馗さんがいます。

不思議なことに元林院のみ軒上でなく、どの家も屋根の上に鍾馗さんがいましたので何か曰くがあるのでしょう。

・・・お知らせ・・・

そろそろ祇園祭りですが甲部舞妓さんや芸妓さんに500円で「おおきに」といってもらいエビスの生ビールがジョッキで飲める大変たのしいイベントが7月15日(宵々山)、八坂神社前の四条通りで19:00から催されます。

今年でたしか4回目なのですが、告知も何もしないのでそんなに人も群がることもなく写真撮り放題ですよ。

727膳所裏:2011/07/27(水) 17:37:55
浜島
少し前になりますが、三重の浜島を訪れました。京都から高速バスで伊勢市まで行き、路線バスに乗れば片道3690円で充分日帰りができます。

実は勝手に寂れた漁村をイメージしていたのですが、古い建物を保存しつつも新築は伝統にのっとり建てられていますので、町全体に統一感が有り、人通りも盛んでした。

町の中央に町並活性塾があり、館内にある足湯につかっていたおばあちゃん達は九鬼氏の末裔が如く張りも活気もあるのですが、いかんせん方言が容赦なく、私には半分も理解できませんでした。

妓楼といえば、表通りの家の多くが木制の細工をもち、皆貸座敷に見えるのですが、実際は9軒あった妓楼の内、田端楼、一萬楼、三光楼、常磐楼、光月楼は既に替えられていました。それでも海辺に佇み、氷屋から水産業に転じた大成楼は現在人は住んでおられませんが貸座敷の姿を留めております。(大成楼は煉瓦の棟を持つ独特な構造なのですが、転業の際改築したと思われます)

芝居小屋の浜島座は現在浜島診療所で、その隣が足湯ですので、活性塾はかつて検番のような機能を持っていたのかもしれません。

お昼に殻付きの海老やら、出し巻きやら色んな具が入るうどんを頂いた喫茶店はかつてカフェだったそうで、その並びにある、かつての姿をとどめた吾妻楼と吉川楼を教えて頂きました。

かつてこの吾妻楼と吉川楼の間に半弓という名の射的場があったそうです。

この浜島に鼻欠けえびすがあります。漁師さんがハナを取る(一番を取る)為にゲン担ぎでエビス像の鼻を削るらしいのですが、このエビスさん、実は浜島の遊所で遊びすぎて鼻が欠けたのに違いありません。

728膳所裏:2011/08/02(火) 16:21:45
天竜二俣
日曜日に静岡の二俣の吾妻町に有った遊里跡を訪れました。天竜本町で降りると、メインストリートのクローバー通りの入り口より少し先がその場所で、廃業した銭湯も有り、そこそこ雰囲気もあるのですが、当時の遺構は無く、妓楼名を冠した転業旅館が1軒佇むのみです。

つい最近まで、通称三軒屋?と呼ばれた建物も有ったのですが、現在空き地です。こちらを教えて頂いた年配の方が、三軒屋には小部屋が沢山有ったと仰ったので「いよう大将、隅におけないね、この色男!」と言おうかと思いましたがやめました。

かつて二俣は芸者衆100人を数えた大花街でこの辺りでは浜松と勢いを二分していたそうです。

文献では見ないのですが、クローバー通りの先、横山町にも公許遊廓の一画があったとの情報があり訪れましたが、多分ここにも当時の建物は無い様でした。

ただ、途中の陣屋と呼ばれる立派な木造三層の旅館は見もので、今をときめく数寄屋橋二郎が昔ここで修行されたそうです。又、本田宗一郎もこの辺りの人だったそうです。

さて、十八切符を利用して日帰りのため往復10時間は電車の中です。
おかげさまでこの間“サンディ、リック、ユッカ、ブラース”と共に魔界をさまようもう一人の“ぜぜうら”もこの間バッタバッタとモンスターを倒し、レベルも30から32に上がりました。

“ぜぜうら”は私と同じ、失われた楽園を探す星の守り人で真の勇者なのです。

729鷹目:2011/08/05(金) 03:04:21
泉州楼
 南海電鉄沿線の遊里といえば、堺と貝塚が有名ですが、その間、岸和田にも遊里がありました。花街として繁栄し、昭和の後半には消滅いたしました。
 中心となった地区にはその痕跡が全く見えず、外周部にぽつりと小料理屋が残るのみです。花街があったということを知らなければ、なぜこんな場所にといぶかしむだけです。

 さて中心になった地区には痕跡は残っておりませんが、かなりはなれたところの小さな神社の玉垣に僅かに痕跡がありました。
 当時岸和田花街随一と呼ばれた料亭泉州楼。その銘が刻まれた玉垣が存在します。

 たまたま偶然見つけ、神社前の年配のご婦人に聞いてもなぜ神社にの玉垣があるのか経緯は判りませんでした。

 岸和田花街に関しては、岸和田在住の内田幸彦氏の著書での記述が比較的まとまったもので、あとは名称のみ本の少しの記事が『坂口祐三郎伝』等に見出せるのみです。

 こうして忘れられていった、忘れられそうになっている遊里、日本にはまだまだあるのでしょうね・・・。

730新今里X:2011/08/05(金) 13:58:14
西中島・東中島
西中島・東中島での遊廓(娼妓貸座敷営業)許可された日が資料によっていくつかあるというのを以前に書いたような記憶がありますが一応下記が確実なところです。(西中島が明治12年2月2日となっているのは誤植だと思います)

●岡山県になってからの動き
芸娼妓渡世出願者情実取糺ノ為必本人ヲ出頭セシム…明治9年4月11日
売淫罰則ヲ定ム…明治9年4月13日
娼妓並貸座敷規則…明治9年4月22日
西中島許可…明治10年2月2日
東中島許可…明治10年10月8日

もちろん許可以前にそれなりの営業をしているのは間違いないところです。
現在は都市計画で公園にする予定になっています。
そのせいか、1995年、2001年、2002年と訪れましたが建て替わることなく空き地が増えていたように思います。

もともとの岡山港が中島の南辺りの西岸にあり、戦後まで瀬戸内海からの旅客船など汽船も旭川を上ってここに着いてたそうです。
昔の船着場と京橋の間には大阪の歓楽街に因んで名付けられた千日前という商店街があって、最近は寂れていますが雰囲気は大阪の千日前と通じるものがあります。
児島湾の入口にある九蟠の遊廓があまり栄えた風でないのは吉井川方面の積み降ろし以外は素通りだったのではないかと想像しています。
西中島に遊廓が許可された翌日の明治10年2月3日に芝居興行も西中島に許可され旭座という芝居小屋ができ、この旭座が後の木下サーカスの発祥となるそうです。

-花街の唄本より-
備前岡山小唄 渡る京橋中橋小橋 なぜに足りない戀の橋
岡山おどり あさひ川には白魚のぼる もゆる思いのかがり船 君に逢うとてきのうもきょうも 通う京橋中橋小橋

731膳所裏:2011/08/06(土) 18:31:59
(´Д`)
岡山県史で岡山市の遊廓史を補足させて頂くと、

明治12年  岡山区西中島町女紅場に金七拾四円を岡山区役所より下賜される。

同年    中島町娼妓の梅毒検査が月4回から8回になる。

明治17年  山陽新報の記事で客は芸者の芸を買わず、芸者も三味線を碌に弾けず、不器用な籐八拳を      一生涯の宝とする・・・などの記載あり。芸者は鯰猫と揶揄される。


明治33年  第六高等学校が岡山に設立されることになり、中島の移転問題もちあがれど実現せず。

明治40年  陸軍第17師団が岡山に設置され、中島遊廓も繁盛。

大正5年   岡山券番内で娼妓のみならず、芸妓にも検黴が行なわれるという噂が立つと、真っ先に??????????  婆さん株がこれに反対、中古芸者や豆芸者まで「そんな阿保らしいことがおまへうか」      「人権蹂躙だわ」「姐さんどうしましょう」「ほんとうに情け無いわ」と雷同する。

同年    岡山券番南券が芸妓検黴反対の檄文を中券、神林券にもとばす。


同年    中島の移転問題が再発、中島は旭川の水路の要枢なので運送業や倉庫業に譲るべきという
      のが趣旨

大正6年  芸妓検黴問題で芸妓叉々騒ぐ。

大正15年  娼妓外出許可に対し、これに反対した楼主側が陳述すれど警察側は自由外出許可の方針を固める。

昭和9年  室戸台風の被害で旭川大改修時にまたも中島遊廓の移転検討されるが移転せず。


以上二日前届いた“おかやま街歩きノオト、第6号”も参照・・・あ、ばれた、まさか本当に最後の一冊と

は・・・ごめんなさ(´Д`)うわ〜なぐらんでくれ、なぐらんでくれ〜 (´Д`)

732新今里X:2011/08/11(木) 19:57:06
築地小唄
築地絵の街 唄の町
生きた人形の 花の町
磯の香りに 風吹き寄せりゃ
岸の夜桜 花吹雪

色もほんのり 湯上り化粧
そぞろあるきの 仇姿
詣る弁天 築地の守り
奉納相撲に 人の波

船の焚火 赤々燃えて
和霊祭の 舟わたり
涼む夕辺の 屋形のすだれ
風がそろりと 覗き岩

積る想いを 鬼ヶ城
主に見せたや 今朝の雪
うつす鏡の 樺崎みなと
にくや別れの 舟が出る

膳所裏さん好みのネタだと思うんですが、写真板に書き込みしただけで過去ログに入ってないはずなので書いておきます。

最近某MK先生らしきブログで紹介されてるのとは違う歌詞もあり、お店が宴会用に用意してる小さい唄本に載ってました。

733膳所裏:2011/08/12(金) 18:38:11
花街 見るguy 人畜無害
小唄、端唄も好きですが、都々逸や川柳の方が好きです。

“三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい”という秀逸な都々逸がありますが、
“三千世界の鴉を締めて、主と朝寝がしてみたい”
京の花街では無粋な殺すを使いません。ちょっとした違いですが、こういった積み重ねが洗練された環境をつくりあげたのだと思います。

都々逸より好きなのが旧遊廓巡りです。

私の場合、観光案内所でダサめの自転車を借り、首から大きいカメラをぶら下げ、目的地で道端に自転車を停め、やはり案内書で頂いた地図をひろげ途方に暮れたりします。
こうすれば、地元のかたが「何処をお探しかな?」と声をかけて下さいます。

“この街の 女郎屋探し 面目ねえ”

とでも言った心境ですが、女衒じゃあるまいし・・・さすがに私でももうちょっと気の利いた聞き方をします。

いわゆる現役にはなるべく近づかないようにしているのですが、やっぱり気になる所は気になりますので、上記のスタイルで訪れます

“この人は 迷って来たのさ それだけさ”

無邪気で人畜無害な旅人を装うにはもってこいの方法だと思っています。

734新今里X:2011/08/22(月) 12:57:08
ちょっとお尋ね
>膳所裏さん

下記の岡山市の遊里史年表のことですが、どれが県史に記載されていたものでしょうか?

735膳所裏:2011/08/22(月) 14:41:36
まわし
遊女が泊まりの客に対して、複数の客を取ることを廻しといいますが、この風習は花魁と遊客との間に悲喜こもごもの物語を生み、江戸の吉原の性格に大きな影響を与え、落語の題材をも提供したのはご存知の通りです。

この廻しは関東以東の風習で、一般に東京式といわれ、廻しをとらない関西は大阪式と呼ばれました。それではこの東京式と大阪式の境界線が何処にあるのかを全国遊廓案内で調べてみました。

それによると昭和初期、関東58ヶ所の遊里で廻しをとらなかったのが平塚と大磯のみ、東北でとらなかったのが塩釜と一戸町北館の2箇所、北海道は全て廻しをとっていました。

中部地方を見ると豊橋を含め東方面は東京式で、お隣の岡崎以西が大阪式で廻しをとりませんでしたので境界はこの2都市の間に有ったようです。長野がすべて廻しをとってた一方、岐阜は全く廻しをとりませんでした。新潟は基本とらなかったのですが、新発田は馴染み客が登楼ればとり、中条は内緒でとっていたと有りましたので境界線上のグレーゾーンでした。

岡崎以西で唯一廻しをとっていたのが三重県なのですが、これは古市に遊客が多く、大阪式ではさばけなかったからなのでしょうか?いずれにしても愛知以外は基本県単位でとるか、とらぬかでしたので条例のような物があったのでしょうか?

そもそもなぜ関東は廻しをとり、関西は廻しをとらなかったのか?当然廻しをとれば楼主はうるおい、遊女の年季も早く明けれるのでしょうが、遊女側にも肉体的のみならず、精神的にも大変な苦痛を強いるわけですし、叉お客側も廻し制度は、多少料金は安いのですがあまりメリットが有る制度とも思えません。

この廻しについて情報あれば教えてください。

新今里Xさん>家のパソコンつながらないので明日までお待ちください。

736膳所裏:2011/08/23(火) 12:16:37
岡山県史
新今里Xさん>
下の年表、上から?〜?とすれば、???以外が岡山県史からの引用です。
かなり省略していますので、オフ会の時頂いた名刺宛にコピーお送りしておきます。

737新今里X:2011/08/23(火) 13:50:10
おおきにです。
お手間取らせてすみません、30巻でしたらコピーは結構です。
お気遣いおおきにありがとうございます。
お礼がてら既読かもしれませんが下記に九蟠の古写真や笠岡など遊里の記事がありましたよ。
『岡山県性信仰集成』岡山民俗学会 ほとんどは凸凹の集成ですけど…(笑)
5〜6年前に写真板に笠岡の報告をしたときの元ネタです。

738櫻新地:2011/08/23(火) 13:55:54
違います
東大阪ではなく“つたや”は東成の大今里です。


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