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鷹目遊里史板
539
:
タケちゃん
:2010/03/24(水) 08:46:24
清水一行氏、ご逝去。
作家の清水一行氏が逝去されました。まだ、79歳と若い方です。
あまり知られていないのですが、清水氏の親はカフェーを経営されてみえ、戦後の玉ノ井で生活をしてみえたのです。当然、親のカフェーには出入りしていたので、赤線での生活体験はあり、その時の経験から清水氏は「赤線物語」など、女給の生態について短編小説を書かれていました。時々古本屋でも入手できます。
数年前にご自宅にお伺いした時、当時の出来事をお聞きすることもできました。客あしらいのよい奥さまでしたが、奥さまの実家は玉ノ井の近くに喫茶店だったんだそうで、コーヒーを出される手際も良かったのです。
ご冥福を祈ります。
540
:
あき
:2010/03/26(金) 01:11:34
映画 廓育ち
こんにちは。
この映画は、昭和32年秋の島原を描いています。
おやまを新妍芸者にして、客と惚れあって寝たということにしたら法律の適用はない・・というセリフがあります。
歌舞練場や輪違屋や、裏門のロケがあります。
http://www.youtube.com/watch?v=jxMKAMlBaLA&feature=related
541
:
k_taii
:2010/04/04(日) 21:16:59
こんばんは
先日、日光にあった赤線跡を探しに行ってきました。友人からその存在は
教えてもらっていましたが、場所は教えてもらえずあてもなく電車に乗りましたが、
駅の案内所であっさりその場所を教えてもらえました。
場所は駅前で、遊所が存在するパターンに従っていました。現状は建物、その他
の痕跡はなにもなく、商店のご老人から隣の空き地はかつて遊郭がありあたりは
花街と呼ばれていたということを確認できただけでした。その規模、沿革は聞け
ませんでした。
542
:
夕凪
:2010/04/11(日) 23:13:33
赤線地区の設定計画 Yokosuka City 1951
横須賀市は、夜の女対策として赤線地区を、
その地域にモグリハウスや売春婦を順次囲い込む腹で業者、
団体との協議に入ったと、11月3日の読売新聞は、報道している。
市は、柏木田、安浦、皆ヶ作の既設施設のほか、
もう一ヶ所の地域を予定しているらしく、この地域を公表せず、
取締り面から暗黙のうちに業者にわからせ、
女たちや、モグリハウスを追い込んで行く腹のようであると報道していた。
赤線地区をつくると言っても、そう簡単ではなさそうであった。
また11月7日の朝日新聞は、「取締り今後もゆるめず、横須賀の女860名検挙」と
報道し、指定地域の女達もそろそろ日の出町、三春町方面に移動し始めたが、
彼女達を客としていた一般商人にも、たちまち影響し予期していた
業者の反撃する機運もそろそろ見え始めていると報道しており、
夜の女対策はなかなか難しく、市当局の苦悩の姿が浮き彫りになってきた。
1999年の資料の要約
543
:
夕凪
:2010/04/15(木) 22:42:11
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
考えて見れば、この20年間に1,000人以上の女の人と、
その場、その場ではかなりまじめに、
暮しを語り、その女のこしかたについて
ふむふむとうなずいてきたものです。
書いていると次々にいろいろのことが想いだされ、
盗癖の直らないあの女の子供はどうしたろうか、
70万円貯めたら小店を持つといったあの女は店を持てただろうか、
と極めて個人的感慨が湧き出してきて困りました。
それでなくとも、これを書くことは、
ふだんから友の間で“昭和の世之介”といわれている
放蕩者の正札を貼りつけるようなもので、
こういう自分の青春の遍歴をむき出しにするような
書き方は好まなかったのですが、棚橋さんにすすめられ、
全国350余ヶ所にわたり、1,000人以上の女と交渉におよんだ
私の経験を北から南へまとめてみる気になりました。
私の、この経験が幾分なりとも参考になるとすれば、
それに越したことはありません。
そういう意味で、本文では、私という主観は絶対に伏せることにし、
このデータを基にして、
いろいろ想像していただくように書きました。
544
:
夕凪
:2010/04/15(木) 22:55:52
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
これをほぼ書きあげた6月3日に、
4年と7ヶ月かわいがった八五郎という犬が死にました。
人間には、心に起伏やかげひなたがあり、
心もとなくおもうことがありますが、
犬は十年一日にように、むき出しの愛情を営々として注ぎます。
私の、この20年間は、雑種犬のようなもので、
旅から旅へ、女から女へ、歩み続けてきたものです。
そのためには友を失くし、或る時は旅廻りの一座について都落ちし、
或る時は化粧品の包みを背負って、
紅殻格子のならぶ石割道を歩いてきました。
旅をしたいばかりに、大新聞をやめ、
交通を専門にした業界新聞の記者を八年間続けました。
「売春禁止法」が必要であるという否定的な立場に立てば、
なるほど、全国津々浦々に散らばっている50万余の夜の女たちは、
病気と犯罪を媒介する悪の華であることにちがいありません。
しかし、実際には、その女たちを相手として、
夜毎日毎、たくさんの男達が、
細君や兄弟にもいえないことを平気で洩らし、
汚職や不正について憤り、
自分の理想について頬をほてらせ、
意地の悪い課長の悪口さえ聞いて貰い……
その揚句に、おのれの情欲を充たして帰って行くのです。
545
:
夕凪
:2010/04/15(木) 23:07:26
全国女性街ガイド はしがき ? by 渡辺 寛
あからさまに、これを評価すれば、
男たちは、責任を持たないですむ、
そうした関係において、女たちの青春を貪りくらって、
花も嵐も踏み越えられる勇気の糧をとっているわけです。
どうか、夜の女たちの人格を尊重してやって下さい。
そうすれば、たとえ一夜の契りでも、
必ずやあなたの滋養分となることは間違いありません。
私は、こうして、その女たちの、秘密も、身を落としてきた経歴も、
どういう暮しをしているかという家計簿的なことも、ささやかな望みも、
そこまでは売ることの出来ない心の蕊も、肉体的なよろこびも、
無知からくる古くさい苦しみも、心の崩れも……
じっと、みつめてきました。
そのことは、これから一つ一つ書いて行くつもりです。
ここにまとめたデータそのものも、じっくり書くとすると、
たいへん分厚なものになってしまうので、
資料的にしぼったため意に充たないものが出来あがりました。
私の経験は20年余におよんだとしましても、
この資料は、ここ2、3年の現況とおもっていただければよい。
この資料をつくるために、
えんぴつをなめなめ近況を書き送ってくれた女の人たちに、
ここを借りて厚くお礼を申します。
昭和30年 夏 渡 辺 寛
546
:
夕凪
:2010/04/18(日) 02:54:08
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
―― 桑折鉱泉のことなど ――
この原稿をすっかり書きあげてしまってからも
私はあとがきを書くこともはしがきを添えることも
心のなかで渋っていた。
これはあまりにも個人的なことなので、
読んでいただくのはやめようと
なんどか自分にいいきかせた。
私はかれこれ26年間ほど、いで湯の旅をつづけている。
その間にはたのしいことも嫌なこともいろいろと経験した。
温泉そのものにしても、人間と同じ浮き沈みがあり、
伊豆土肥の湯は私の知っている間に、
栄えていたのが枯渇すてさびれ、
最近また湯が出るようになって持ち直してきた。
上越線後閑から入る紅葉の美しい猿が京も
あと2年ほどの短命で
赤谷川ダムの湖底に沈んでしまう。
鮎のおいしい伊豆矢熊温泉も泉温が低下し、
いまは休んでいる。
バスで通り越ぎると烟のあがらない湯宿が
船原川と狩野川の出合のところに
さびしくとり残されて建っているのが見える。
石楠花の美しい那須飯盛の湯も
いまは雨戸を閉じている。
この20数年間に繁栄した湯の町も多いが、
その反面消えて行った温泉も多い。
それがきまって鄙びた、
人情味の溢れた湯ばかりなのである。
そひとつの鉱泉を加えるか、やめるかで
原稿を書いている間じゅう、
私は悩んだ末に、
どうしても書かずにはいられなくなり、
おもい切ってここにしたためさせていただくことにした。
547
:
夕凪
:2010/04/18(日) 16:53:25
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
いまから23年も前の昭和8年のことである。
私は古い老舗の佃煮家●半の御寮さんと道ならぬ恋におちた。
お縫というその女は、浅草の西検から芸者に出ていて、
私の知人の佃煮問屋の若主人に落籍された。
女にしてみれば、小さいころから水商売で苦労してきたのだから
清潔な女房になりたかった。
それを夫の●次郎は厚化粧を好み、
三日にあげず丸髷を結い直させ
三味線を弾け、唄をうたえと強いるのだった。
……そういう事情で、私の方が同情し、
いつの間にか離れられない仲になってしまった。
結局はふたりとも義理や世間態にせばまれるようになり、
年下の私の方から心中しようと誘うところまで行ってしまった。
もちろん女も承諾をし、死場所はどこがよいだろうと話し合った末、
女の生まれ故郷の近くにある福島県桑折鉱泉へ行くことになった。
548
:
今紫
:2010/04/24(土) 00:46:52
お久しぶりです
鷹目様、皆様
拝啓、春暖の候、お久しぶりです。そちらへ来るのは5年振りになります。内のPCが故障してしまい、何も予告もせずにホームページを閉じてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。
さて、先々月嶋原を訪れカフェの改装された「きんせ旅館」(旧・金清楼)に入りお茶にいたしました。ご存知でしょうか、長年開店休業していた旅館が現当主様の手により、(完璧ではありませんが)見事に蘇らせました。この建物は以前訪れたとき、通ったことがございますが昨年、初めて中へ入りました。実はそこでジャズセッションが行われると聞いて足を飛ばしたのです。聞くところによりますと、200年以上前に建てられ内装のサロンは大正期に作られたそうです。ステンドグラスも美しく妓楼時代の面影を伝えてくれます。嶋原には申し訳ありませんが娼妓屋さん(妓楼、貸座敷)の雰囲気を強く醸し出されています。今の方が心のある方でよかったのです。それ以外はみな、ただの(建物も、町並みも)住宅街(おまち)にされてしまいました。先日、YouTubeの動画で拝見しました昭和30年代当時の嶋原(東映映画『廓育ち』)とは180度違います!個人的意見になりますが嶋原全域を史跡に指定してもらい長崎出島のように建物、町並みを伝統建築による復元(復原)、改修、新築にすればよいのです。(ただし、住民との話し合いが必要ですが梅小路に水族館を造るよりはるかに価値が高いのです)
話を飛ばしましたがもうひとつ、嶋原のことで触れさせてもらいます。昨年、『角屋』さんで行われた文化講座に参加し「角屋といわゆる遊廓(公娼制度)の店との違いについて」の話を館内見学の傍ら耳を澄まして聞きました。その一部を参考にして触れます。
角屋は唯一残る「揚屋」建築で重要文化財であるのはご存知のとおり。その「揚屋」は今でいう料理屋、料亭にあたり、置屋(屋形)から太夫、芸妓を招き歌舞音曲から和歌、俳句に至るまで芸術に花を咲かせ、お客をもてなした場所だそうです。一般に知られる「遊廓」とは違うことを説明されていました。最近の案内標識も「公許花街」と改められています。もちろん、負の歴史に目を反らしてはいけませんし、伝えていかなければなりません。話を戻して花街と遊廓との比較も聞きました。花街と遊廓の業種、店名、営業形態、内容、技芸の習得にいたるまでプリントに掲載されていました。でも、加藤雅洋氏の著書によりますと、狭義としての「花街」にも娼妓は存在していましたし、また、遊廓にも芸妓が少数存在していたのも事実にございます。嶋原は吉原や他の遊廓とは違い、一般の女性や子供の出入りが許されていました。遊女もまた手続きさえすれば外出もしていたようです。もし、残酷な歴史がありましたらそれは明治期以後であり、揚屋そのものも今日に残ることができないでしょう。それで『角屋』さんとNHKさん(原因は大河ドラマで吉野太夫の描写がおかしかったのです)が揉め事を起こし、『角屋』さんは一切の(興味本位での)取材は断っているのです。いつになったら終わるのでしょう。(雄山閣発行の『日本花街史』もそのことで訴えられました)
つまらない内容になりました。「きんせ旅館」のホームページ、およびブログのアドレスを掲載いたします。
http://www.kinse-kyoto.com/
http://www.kinse-kyoto.com/blog/
他にも沢山書くことがありますがこの辺りにいたします。それでは、また・・・・
敬具
549
:
あき
:2010/04/27(火) 18:49:23
映画 廓育ち つづき
こちらは最後の場面です。
歌舞練場から輪違屋にむけての太夫道中。
裏門。
国鉄島原口駅(当時は七条通に面していた)。
性病科高橋医院の看板。
http://www.youtube.com/watch?v=oaLMiXBjU58&feature=related
550
:
夕凪
:2010/04/30(金) 01:16:55
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
それは丁度、もうしばらくで浅草の三社祭のくる5月のはじめだった。
追われるように上野を発った汽車の中でのことなども書きたいが、これは端折り、
その夜は電燈の暗いわびしい鉱泉宿でふたりともまんじりともしなかった。
あくる朝早く窓を明けると、宿の裏は一面の桜桃畠で、
うすべに色の花がこぼれるように咲いていた。
その向こうに霊山がガレを白く陽にあててたたずまっていた。
女が人知れず両親の墓へ別れに行きたいというので、
朝食のあと私たちは線路を横切り桑折道を湯野まで歩いて行った。
女の両親は、女が11のとき相次いで死に、
たったひとりの伯母を頼って上京したきり
もう13年も郷里へ帰っていなかった。
551
:
夕凪
:2010/05/21(金) 08:08:48
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
町をはずれるとそこはもう平坦な畑地が続き、
野の末は、半円形の窪みを見せた半田山と
武骨い万歳楽山に終わっていた。
成田・松原の部落あたりは萌え匂うような花の畑で、
うす桃色の桃の花も咲いていれば、
白い五弁に紅暈をつけたリンゴの花も咲いていた。
白い花をたくさんつけたすももの花は散りかけていたが、
うすべに色のあんずの花は匂うようだった。
春が一度にきたような果樹畑を抜け、
湯野に入る手前の大きな柳の木の下に、その墓があった。
そこで伊達道とぶつかって一本になり
5分も歩けば飯塚温泉の十網橋に出る。
東京では黙って家を出てきた女を探しはじめたろうし、
ふたりとも飯塚へ行く勇気はなく、
また花の中を桑折まで帰ってきた。
その野道で、翌日は鉱泉宿から一里ほどの半田山の中腹にある
半田沼で死ぬことに話が決まった。
552
:
夕凪
:2010/05/21(金) 08:33:09
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
いつか野の末も夕霧の中に沈んでゆき、
うぐいすが曇りはじめた空で啼いていた。
帰り道に寄った万正寺には古びた五輪の塔が建っていて、
文政4年辛巳10月造立と刻まれていたのが
いまもうろ覚えに心に残っている。
その裏の墳墓が伊達家の祖、中村常陸介朝宗の墓である。
うす暗がりに宿へ帰りつくと、
鉱泉宿の前には高張が立ち、人の出入りが激しかった。
ふたりとも裏口から逃げるように部屋へ入り
それから湯にも入らず、じいっと差し向かっていた。
夜食の膳がとどいたところで、
ふたりとも箸をつける気にはならなかったろうが、
その夜食さえ忘れ去られたようだった。
そのうち廊下でぼそぼそいう人の声がした。
どきんとしてふたりとも顔を見合わせるうち障子があき
「お晩方でして」
と紐付袴の老人が廊下に平身低頭した。
わかりにくい訛りの話を継ぎ合わせてみると、
今夜はこの近くの地主のところへ嫁の来る日で、
宿の広間で披露の宴を張るのだそうだ。
泊り逢わせたのもなにかの縁だから、
夫婦お揃いで宴に列席してくれという。
「さあサご両人さま、たまには田舎の婚礼もいいべした」
と老人は強いるのだが、こちらは辞退する一方だった。
そのうち、どやどやと人が降りてきて無理やりに
お縫と私は赤と白のまん幕の張られた広間へ案内された。
553
:
夕凪
:2010/05/03(月) 11:36:29
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
浅黒いくび筋にこってり厚化粧した花嫁と
ポマードの光った花婿の近くに私たちは坐らされた。
老人は地方の方言で「ごしはんさま」という仲人役で、
そのごしはんさまのいうには、
自分は頭の古くなった不調法者だから、
晴れがましい今夜の先達<あいさつ、いうなれば代表スピーチ>は
最高学府に学ばれたご夫婦にして貰いたいというのである。
もちろん、宿帳に学歴を書いたわけもなし、
私たちにもそんな心のゆとりはなかったが、
そう老人が口火を切ると、
激しい拍手の波で私と女は起つしかなかった。
こうして私は無理に祝詞を述べさせられ、
次々と杯を持ってこられ、
女は「きいのくにはおとなしがわのみなかみに
たたせたもうはせんぎよくざん」・・・・・・と歌をうたわせられた。
この地方の婚礼の風習で、
その夜はごしはんさまに付き添われ
第一夜を花嫁の家で送る里帰りだそうで、
花嫁たちが行ってしまうと、
今度は私たち夫婦のやり直し婚礼だと、
みなが離さなかった。
少しもわざとらしい言葉のやりとりでなく、
しん底から私たちを祝うようだった。
554
:
夕凪
:2010/05/03(月) 12:11:36
鄙びた湯・古い湯治場 はしがき ? by 渡辺 寛
とうとう私は酔いつぶれ、
気がついてみると女が枕もとにきちんと坐っていた。
その夜明けに見た桜桃の花の色を、生涯私は忘れられない。
「 仄桃色 (ホノモチイロ) 」という言葉があれば、
それがいちばん似合った色だ。
私たちはふたりとも話し合わないのに
死ぬことを考えなおしていた。
そのことについてお互に話を避けたわけではなかった。
生きろことの尊さがわかったようで、
女と別れるときも、ふたりともお互いのしやわせを
いわず語らずのうちに折り合った。
結局は邪恋だということをあの婚礼が反省させてくれたのだと
いまでもしみじみそう思う。
女はその後、空襲で死んだ。
私はなくなった桑折鉱泉を想うとき、
桜桃の花と婚礼の席を想い起こす。
いで湯・いで湯はどの人にとっても、
これに似たおもい出を残していることだろう。
まして無くなった温泉は………。
昭和31年6月1日発行の著作より
555
:
夕凪
:2010/05/03(月) 12:28:46
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
内外タイムスへ今年の1月中毎日書いた
「湯女さまざま」と
サンケイ読物へ半歳ほどつづけた「旅の女」、
それに面白倶楽部や自由国民の旅行の手帖に
のせたもののほかに、
日本特有の味を持っている
「湯女」という呼び名のある
温泉場の女たちを新しく書き加えました。
わたしは、こうやって
生涯旅をつづけているだろうとおもいますが、
ここに集めたものはその或る部分です。
556
:
夕凪
:2010/05/03(月) 20:50:00
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
売春防止法が成立したので、
1年半後の昭和33年には
全国の特飲街が
消えて行くことになっています。
地方のまじめな小さな特飲街は
早くも本気で転業をはじめています。
甲府市の穴切町周辺のように
青線と赤線がわからなくなり、
青と赤が溶け合ったのだから
「紫水晶」という粋な名で
通人に呼ばれるところも出始めました。
そういうわけで2年後の、女たちの分布は
ある程度かわってしまうでしょう。
この本は、かわることを予想して、
かわらない女たちのことを書いてみました。
557
:
夕凪
:2010/05/03(月) 20:52:28
温泉・女・風土記 はしがき ? by 渡辺 寛
女は、ほんとうは同じ程度の男でないと
安心して愛そうとしないものです。
自分と同じくらいの脳味噌だとおもうと、
女は、行きずりの旅の人であろうと、
たとえ一夜であろうと、
真剣な愛情を示してくれるものです。
その上、女ほどその土地の匂いを
沁みこませているものはありません。
おいしい高野豆腐のようなものです。
この本のなかから、
あなたのふるさとの匂いが感じられたら、
わたしはもう、それでうれしいのです。
昭和31年秋
渡辺 寛
558
:
夕凪
:2010/05/03(月) 21:37:05
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛?
日本ほど多くの温泉をもっている国は少ないだろう。
楽しい自然のなかに、
休むまもなくこんこんとして湧き続ける湯は、
まったく私たちのオアシスである。
温泉のきらいな人はまずいないだろう。
会社の慰安会にしても、
悪友打連れての校楽にも、
そして人生で一番愉しい新婚の旅にしても、
必ずといっていいくら温泉を選ぶ、
温泉こそ私たちの心を休め、
明日への活力を養ってくれる故郷なのである。
こうした多くの温泉にもおのずから特徴がある。
脂粉の香の濃い遊楽郷、
素朴な民謡にききほれるローカル色豊かな山間の湯、
また美酒に酔い、珍肴に舌鼓打つ秘境の湯と、
それぞれ独自の良さを自慢しあっている。
559
:
夕凪
:2010/05/03(月) 22:00:45
酒と女 全国温泉めぐり はしがき ? by 渡辺 寛?
そこで本書では、百数十ヵ所の温船をピックアップし、
第1部 酒と肴の出湯めぐり
第2部 湯どころの女めぐり
第3部 民謡をきく出湯めぐり
の3部に大別し、ここだけはという
その道の代表的な温泉を紹介してみた。
紙数の関係上、語りつくせぬ点も多いが、
これからの出で湯の旅に、
少しでもお役にたてば、
また仕事の合間のつれづれを慰めるに役立つならば、
編者としてこの上ないしあわせである。
昭和31年11月
著 者
560
:
夕凪
:2010/05/05(水) 22:52:33
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
1.かの木村聡さんは『赤線跡を歩く』(1998年発行)の中で下記の通り紹介されている。
同じ著者(=渡辺寛氏)の単行本としては共著の『酒と女 全国温泉めぐり』がある。
2.また同氏は『赤線跡を歩く【完結編】』(2007年発行)の中では、
訂正のうえ下記の通り紹介されている。
「酒と女 全国温泉めぐり」は、『全国女性街ガイド』と並ぶ渡辺寛氏の主著。
?? ??なぜか著者名がなく、
?? 『赤線跡を歩く』で紹介したときには共書としてしまったが、
読み直してみると、全編にわたって『全国女性街ガイド』の著者でなければ
知り得ない記述が多く、文体や雰囲気から判断して著書とした。
温泉、紅燈街、日本酒、民謡の知識を生かした新書版の旅行書で、
文字数に制限があった『全国女性街ガイド』とはまた違い、
文章家でもあった氏の本領が存分に発揮されている。
3.『酒と女−全国温泉めぐり』の奥付には下記の記載があるが、
渡辺寛氏の名前はありません。
印 刷 : 昭和32年1月20日
発 行 : 昭和32年1月25日
編著兼発行者 : 田中 博之
発 行 所 : ?田中書店
561
:
夕凪
:2010/05/06(木) 06:54:14
『 酒と女 全国温泉めぐり 』 は 誰の作 ? ?
●そこで下記の疑問が湧いてきました。
そもそも、当初、木村聡さんは、
奥付に「編著兼発行者 田中博之」とあるが、
渡辺寛氏の名前の無い本を
どのようか根拠に基づいて、
渡辺寛氏の“共著”と判断されたんでしょうか?
また、その後、「編著兼発行者 田中博之」と書かれているのを、
あえて無視して、
渡辺寛氏の“単著”と判断されたんでしょうか?
もし「文体や雰囲気から判断して著書」とされたのであれば、
共著であっても良いのではないでしょうか?
さらに言えば、私が、先に書きこんだように、
??著者“渡辺寛”と明記されている、
他の3冊の“はしがき”では
自己の“体験”や“思い入れ”を、書き込んでいるのに、
??『酒と女 全国温泉めぐり』のそれは、
非常に淡白なものに思えてなりません。
はたして『酒と女 全国温泉めぐり』の作者は
誰なんでしょうか ……
562
:
k_taii
:2010/05/27(木) 05:16:25
大連 逢坂町遊郭
に行ってきました。ここ何回か上海で慰安所の写真を撮っていましたが、万博で
ホテル代があがっていたので、代わりに203高地にでも行こうかと大連の旅行
会社のHPを見ていたら、旧逢坂町遊郭の建物が残っているという情報があった
ので、その旅行会社でガイドさんをお願いして訪問してみました。
終戦のとき200軒の貸座席があったそうですが、メインの場所は現在 青空
市場になっていて、そこで働いている人むけに通路の片側分、7−8軒が残って
いました。日本風の建物はなく(木造では気候に合わないためと思われ)4−5階
建てのアパート風の建物で、かつての遊郭の雰囲気はまったく残っていませんでした。
ただ丸窓のある建物や、色付きのタイルのある建物などかすかにそのての建物かと
おもわれました。
ほかに中国人向けの遊郭跡にも行きましたが、特定は出来ませんでした。
563
:
k_taii
:2010/05/27(木) 22:07:06
大連 逢坂町遊郭 その2
旅行会社の方とメールをやりとりしているなかで、大連の隣の旅順と
中朝国境の町 丹東にも遊郭の建物が残っているとのことでした。
ガイドを頼めば連れて行ってくれるとのことでした。
私は来年訪問してみるつもりです。
564
:
夕凪
:2010/05/27(木) 23:39:13
満洲の女性街
下記は、1930年に発行された、支那及び南洋、印度における
売娼婦の生活の実相を、紹介したという本の“ 満洲 ”の目次です。
でも、なんで、ここに大連や旅順が、無いんでしょうか?
その理由が判りません。もし御存知でしたらお教え頂けませんでしょうか。
よろしくお願い致します。
齊々哈爾 ・・・・ 妓樓の四等級−悲惨なる白奴に陥ちて−浮浪の支那人
満洲里 ・・・・・・ 九州の果てから−債権の担保としての拉致−カツフヱの女給−主人に汚された下女
哈爾濱 ・・・・・・ 細かく分けた遊興費−支那売笑婦の洪水−内職を稼ぐ縫窮婦−四百名のロシア私娼
長春 ・・・・・・・・ 金髪美人跡を絶つ−領家の絶対権
吉林 ・・・・・・・・ 花代と泊り代−稀に女優の成れの果て−雨天は倍額頂戴
奉天 ・・・・・・・・ 変態な売春制度−春を売る支那俳優−外人相手のロシア女
遼陽 ・・・・・・・・ 鉄道附属内外の売春街
間島 ・・・・・・・・ 芸一本の『清爪』、肉を売る妓女−取締困難な鮮人私娼
鐵嶺 ・・・・・・・・ 淺ましい自負心−故郷も知らず親知らず
安東 ・・・・・・・・ 支那街の『暗娼』
※まったく外地に不案内なもんで、トンチンカンな質問でしたらすみません。
565
:
k_taii
:2010/05/28(金) 05:12:38
夕凪さん おはようございます
考えられる理由としては、大連、旅順あたりの土地は 関東州 と言って
日露戦争の結果、日本の租借地となっており(たしか1997年までの期間)
満州の行政範囲からはなれていたからではないでしょうか。
間違っていたら、すいません。
中国は今のうちなら、まだ遊郭の建物が残っているかもしれません。穴場(?)
かもしれません。
566
:
夕凪
:2010/05/28(金) 08:10:32
上海の女性街
k_taiiさん、おはようございます。
なるほど、租借地と言うことで、内地扱いされているのかもしれませんね。
たしかに、この本には、租借地でなく租界であった
“ 上海 ”については、記載されています。
※実用性の観点からは、チョット不便ですね !?
もう少し調べてみたいと思います。御教示どうもありがとうございました。
●上海(中部支那)
共同租界の廃娼−東洋のピカデリー−密室に拠る魔の女−
七種の売春婦−『長三』の共同生活−留宿の尊厳−
『公二』の客に選択権なし−路上に活躍する『野鶏』−
どん底の『烟女』その他−『鹹水妹』と『暗娼』−
ナンバア・ハウス−目覚しい私娼の発展
567
:
夕凪
:2010/06/13(日) 12:55:39
幻の今里新地 − 丸窓の長屋 −
東成区のHPに、こんなんありました。
「 大今里南1〜3丁目は戦前から街づくりが行われ、
住宅地として歳月を重ねてきましたが、
当初はここに、「花街」を建設する構想がありました。
今、街なかで風情のある長屋を見かけるのは、その構想の名残です。」
※今、近鉄の北側に、残ってる建物は、芸妓居住地に指定されるのを見越して、
先物買いで、それ用の建物を作ったが、指定をめぐる汚職が発覚した。
その為、結局、指定されず、計画は幻に終わってしまったそうです。
ttp://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu640/matikadotua-/machikado-meisyomeibutsu/machikado/tatemono-musium/page1/page3.html
568
:
夕凪
:2010/07/10(土) 21:59:56
'68 伊丹新地は盛況中
伊丹新地には“料理店”が33軒ある。
女性の数は100人足らず。
1店平均3名もいるかいないかだが、
7〜8名の女がたむろしている店も数軒ある。
ともかく伊丹新地の実状はなかなかの“盛況”である。
同新地は「サロン」とか「料理屋」とか銘打っていて、
飲みにきた客にはアルコールを売る。
女たちに“強制的”にカラダを“奪われる”ようなことは少ない。
ただ「2階へ上がろうか」と誘えば、それこそ打てば響くで
「上がってくれる?どうもありがとう」とくる。
だから酒だけ飲んで坐っているのは、客のうちに入らないようなもんだ。
2階の部屋は、コタツの上ぶとんだけが
タタミの上にクシャクシャになって広がっている。
タバコの火でできた穴から、
水をこぼしたようなシミがあるうすっぺらなやつだ。
枕のかわりに座ぶとんを丸めて使用する。
四畳半の部屋には、あと小さな机が置いてあるだけ・・・・・・
その行為の方も、味も素っ気もない。
ショート(15分)1,500円は初島と同じ料金だ。
伊丹署でも新地の特殊な“サービス”には目を光らせているようだが、
盛況であるところを見ると、取り締まりが完全ではないようだ。
「水商売経験者がほとんどですが、キャバレーなどで働いてても
金を稼ぐためには、ある程度カラダを張らなきゃいかんし、
同じことなら、神経を使わなくてすむところでやったほうがラクだし、
金にもなるという気持ちだろう。だから、かりに初島あたりのコが、
また水商売に戻っても、つづかんねえ。
こちらばかりでなく大阪市内の飛田や松島へも流れてるんじゃないですか」
(伊丹署保安課の話)
※【背景】赤線 初島女性500人の密かなる大移動
当時、初島は、警察の波状攻撃で、壊滅寸前に追い詰められていた。
?? 仕事場を追われた女性たちの転出先は、
?? 隣接する伊丹市や大阪市内であった ・・・・・
????????????????????????????????????????1968年の週刊誌より
569
:
夕凪
:2010/08/12(木) 00:31:12
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
● むき出しのエロティシズム
新世界は歓楽街と言ふよりも盛り場である。
洗練された趣味の代りに、
あくどい欲望と、好奇心がむき出しになっている。
欲望だけを端的に投げ出す大衆が集まるのだ。
新世界には伝統がない。植民地的な場末的な荒々しさが、
すべて特徴づける。
エロティシズムにしても、ここではむき出しになってゐる。
だからすべてのものが強烈な色彩と、あくどい匂いをもつ。
これを最も率直に表現した。最も新世界的なものは、
石見町小路 ― 俗に「軍艦横丁」の小料理屋であろう。
570
:
夕凪
:2010/08/12(木) 00:48:11
横丁シリーズ 『 石見町小路 』 (1935年) ?
●「軍艦横丁」のエロ風景
??「軍艦横丁」は、通天閣南側の劇場街を抜けて、
噴泉浴場の裏から「公園南口」停留所へ出るせまい、
おでん鍋の匂ひに満ち、女の笑声と乱調子にかき鳴らす
三味線の音に溢れた、騒がしい小路である。
ここにおでん屋めいた奇妙な小料理屋がある。
通行人に喧しく呼びかける女の高い声と、
三味線の音の洩れて来るのは、この店だ。
紅色ののれんを排して入ると、忽ち6・7人の酌婦にとりかこまれる。
二坪ばかりの店に、鍋を囲んだ椅子にかけると
??「旦那、何か聞かせて頂戴ね。」と、口を揃へて言ふのを合図に、
座の中央の椅子程の高さ台の上で三味線を抱えて座ってゐた女は、
突如と調子の狂った三味線をかき鳴らす。
客が歌はねば女が歌ふ、別の女は新たに客を呼び入れるため、
ちらちらする通行人に呼びかける。
この強烈な雰囲気には気の弱いサラリーマンなどは
逃げ出さずにはゐられない。
かうした存在の許されるのも、新世界なればこそ。
1936年発行の大阪案内より
571
:
夕凪
:2010/08/12(木) 02:45:51
1924年の電話番号簿より
● 下市郵便局
叶家席 下市町大字下市字今在家 芸妓置屋
見返り席 下市町大字下市字今在家 芸妓置屋
M本淺次郎 大淀村大字下淵 芸妓置屋兼料理業
都席 下市町大字下市字柳町 芸妓置屋兼料理業
※上市郵便局管内に、“芸妓置屋”は載って無かった・・・・
572
:
夕凪
:2010/08/07(土) 08:53:39
完全冷房 A級伊丹
● 山は富士ヌードは伊丹日本一
関西ヌードの本場
連日満員御礼 爆発的人気 !!
阪急伊丹駅下車5分 毎日11AM開演・10PM終演
連続入替なし 毎週豪華12本立
伊丹市桜崎町34 TEL 伊丹 82−××××
1969年の全国で唯一のヌード界情報誌より
http://
573
:
夕凪
:2010/08/15(日) 22:30:50
長島遊廓 (三重県)
1.藩政時代の文久元年(1861年)に端を発する。
2.明治以降になっても、木曽川改修工事(1861年)、関西線の敷設、
木曽川三川の鉄橋架設工事を始め、長島輪中(わじゅう)の排水機設置工事、
近鉄の鉄道工事(1937年)等、相次ぐ大工事のため大いに繁盛した。
3.大正期には置屋12軒、揚屋2軒を数える盛大さを誇った。
4.長島遊廓の特色は、ほとんどの遊女が娼妓と芸妓を兼ねていた。
5.大正中期に長島貸座敷組合を設立した。
6.組合の活動として遊廓発展策のために、1928年および1941年には
長島駅〜長島遊廓〜国道1号線に、自動車、乗合自動車を運行した。
また、駅または国道1号線から遊廓までの道路を整備し、
?? 照明灯の設置も行った。
7.桑名遊廓が戦争で焼け(1945年)てからは、桑名遊廓の娼妓も、
長島遊廓が引受けて、娼妓数125名となった。
8.売春防止法の施行により,1958年を以って全部転廃業し、
約100年に亘る歴史に幕を閉じた。
※遊廓に関する記録は、伊勢湾台風(1959年)の高潮洪水により、
流失または逸散してしまい、統計的な資料は全く欠いてしまった。
よって、上記の内容は、乏しい資料と旧店主の談話による。
1978年発行の町誌による
574
:
夕凪
:2010/08/16(月) 06:45:59
温故知新シリーズ ― 愛知、岐阜、三重の 旧遊廓地帯を訪ねて…
● こんなんありました。
??ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/blog-date-201004.html
??No.00.ごあいさつ
??No.01.錦三丁目の知られざる歴史
No.02.大須観音から中村・大門へ
No.03.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 前編 幕末〜明治、開業まで
No.04.岐阜の旧遊廓地帯を訪ねて… 後編 開業〜大正〜昭和まで
No.05.岡崎の知られざる歴史、東海道に栄えた大宿場町
No.06.豊橋の知られざる歴史、軍都に咲いた大遊廓
No.07.風流な花柳界の栄枯盛衰…一宮の知られざる歴史
No.08.旅情をそそる歴史街道…桑名の知られざる歴史
?? ― 三重県一の規模を誇った宿場町 ―
No.09.多治見編 -東濃一の心意気で設立-
No.10.熱田編 東海道の名所に隠された遊女の歴史を紐解く…
No.11.名古屋・中川・八幡園編 歴史の流れに消えた名古屋の色街
No.12.知られざる名古屋の風俗裏話、歴史に埋もれたおもしろ小話
No.13.旧遊廓地帯を訪ねて… 名古屋・港区・稲永遊廓
?? ― 歴史の流れに消えた名古屋を代表する遊廓 ―
No.14.大垣「旭遊廓」編 8人の嘆願によって幕末期に誕生した遊廓
No.15 ?.旧赤線地帯…前編 名古屋・大曽根「城東園」
No.15 ?.旧赤線地帯…後編 岐阜・墨俣「夜城園」
????to be continued ・・・(?)
マンゾクネット名古屋裏風俗研究所【出張版】より
ttp://tokaimanzoku.blog28.fc2.com/
(参考)
愛知県の特殊カフェー
01.花岡園(一宮市) 02.曳馬園(小牧町) 03.桜楽園(犬山町)
04.新天池(津島市) 05.陶華園(瀬戸市) 06.道風園(春日井市)
07.清娯園(半田市) 08.海楽園(内海町) 09.常楽園(常滑町)
10.昭和園(岡崎市) 11.衣浦荘(新川町) 12.千鳥園(矢作町)
13.陽貴園(安城市) 14.鶴城園(西尾町) 15.睦荘(一色町)
16.観月境(挙母町) 17.有楽荘(豊橋市) 18.円福荘(豊川市)
19.新栄連(新城市) 20.三谷観楽荘(三谷町) ??21.蒲郡歓楽荘(蒲郡町)
22.共楽園(田原町) 23.五楽園(福江町) 24.名楽園(名古屋市)
25.八幡園(名古屋市) 26.城東園(名古屋市) 27.港陽園(名古屋市)
岐阜県の特殊カフェー
????01.金津組合(岐阜市) 02.旭日園(大垣市) 03.西ヶ原組合(多治見市)
????04.夜城園(墨俣町) 05.花岡組合(高山市) 06.船津花岡組合(船津町)
三重県の特殊カフェー
????01.水郷園(長島村) ???? 02.桑陽園(桑名市) ?? 03.朝明待合組合(富田町)
????04.菰野東町待合組合(菰野町) 05.湯ノ山支部(湯ノ山) ?? 06.神戸六郷園(十日市町)
????07.江島組合(江島町) 08.亀山待合組合(亀山町)?? 09.藤枝待合組合(津市)
????10.久居支部(久居町) 11.上野支部(上野市) ?? 12.名張支部(名張町)
????13.松坂貸席組合(松坂市) 14.山田支部(宇治山田市) ?? 15.神社三業組合(宇治山田市)
????16.田丸支部(田丸町) ?? ?? 17.尾鷲支部(尾鷲町) ?? 18.紀伊長島組合(長島町)
????19.鳥羽待合組合(鳥羽町) ??20.二見浦待合組合(二見浦)?? 21.浜島待合組合(浜島町)
????22.渡鹿野待合組合(的矢村) 23.木ノ本支部(有井村) ?? 24.引本待合組合(引本町)
????25.阿下喜支部(阿下喜町) 26.港楽園(四日市市) ?? 27.一身田支部(一身田町)
???????? 1950年の資料より
575
:
夕凪
:2010/08/30(月) 23:59:54
ひら方節
01.好きな淀川艪櫂はいらぬ 浮いた同士の中じゃもの
02.むかし泥町今花が咲く 桜新地の宵燈す
03.桜さくらと新地へ来れば ものいふ桜の花ばかり
04.花のあけぼの紅葉の夕邊 遊ぶ枚方菊おどり
05.こゝは枚方 桜の新地 中の蕾を見にござれ
06.松のとなりへ桜を植りや めでたゝゝゝの花が咲く
07.松が様なら桜はわたし おぼろ月夜の一ッ夜着
08.ひとつお唄ひ枚方節を わたしや三筋で舵を取る
09.重たい話に三十石も 登りかねたる梅雨上り
10.しばしとゞめて置きたい人も 舟は柳の吹流し
11.様は舟かや月夜は明い 柳がくれに艪がひゞく
12.舟と水とはあなたとわたし どんな艪櫂も立つものか
13.こゝは枚方八幡のもどり 誰れに白羽のお矢が立つ
14.八幡みやげで枚方通りや 鯉とこひとがからみ合ふ
15.傘をわすれた枚方茶屋で ぬれたむかしを思ひ出す
16.一度ですまぬとつい二度三度 さくら新地へ淀の舟
17.ござれ枚方きのふで三度 こんど逢ふたらよどの川
18.翌日は土曜日菊見にござれ その又あしたも其まゝで
※各節の後に合いの手が入ります↓
上りは曳けゝゝ下りはぐうゝゝ
寝耳に水音チャーブチャブ
576
:
夕凪
:2010/08/31(火) 21:08:36
むかしや三十石 今京阪電車
● 橋本音頭
1.再興五十年 橋本くるわ
祝ひましようよ 祝ひましようよ
はれやかに ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
2.むかしや三十石 今京阪電車
通う御客の 通う御客の
氣はひとつ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
3.一度おこしよ 橋本くるわ
白い御手てが 白い御手てが
ちよいとまねく ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
4.男だてなら あの淀川の
水の流れを 水の流れを
止めて見よ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
5.水の流れは 止めよで止まる
止めて止まらぬ 止めて止まらぬ
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
6.橋本見るよな 眼鏡があれば
かわいお方に かわいお方に
もたせたい ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
7.空に神風 地に双葉山
ともに人氣は ともに人氣は
はしもとへ ドオコイショー
キナヱ、アノヱー、ドンドン
※木曾節作り替
1937年の資料より(再掲)
577
:
鷹目
:2010/09/01(水) 21:22:36
無題
♪五条楽園高瀬の柳がフーラフーラ
お酒に酔ったか 女に酔ったか
それとも浮気でゆれるのか
も一度廻って 五条の楽園
578
:
タケちゃん
:2010/09/04(土) 22:26:08
玉の井
近い内にこんな本が出るみたいです。
http://www.jiyu.co.jp/support/announce.php
579
:
鷹目
:2010/09/23(木) 23:29:18
『玉の井』
>タケちゃんさん
耳寄りな情報、ありがとうございます。
アマゾンではもう予約可能みたいですね。
どこで予約するかは不明ですが、多分購入します。
580
:
鷹目
:2010/09/23(木) 23:33:24
ご案内 第7回秋のオフ会
遊里史研究会恒例、第7回秋の百番オフ会のご案内です。
・開催時間 2010年10月24日(日) 5時〜開始予定
・会場 飛田 鯛よし百番 由良の間予定
・料理 鍋とオードブルのコース
・会費 5000円
・募集期間 10月20日まで
申し込みに関してはいつものメンバーは、下記URL出欠党幹事長のほか、MIXI・伝言板・メール・直電で構いませんのでご連絡を。また各自連絡網の方もお願い致します。
こちらからもまだ連絡の来ていないいつものメンバーさんには、ニ三日中にご連絡致します。
ご新規で参加希望の方は、こちらに記載の上、メール、MIXIメッセージより、お名前、HN、当日の御連絡先を御連絡ください。先にメール・メッセージでも構いません。
出欠党幹事長は、携帯からは閲覧のみとなります。
携帯で見られている方は、メール・メッセージで頂いた方、こちらで登録いたします。
皆様のご参加お待ちしております。
↓出欠党幹事長↓
http://kanji.kodama.com/note.aspx?ac=qa1etq6kbmmq7beb
581
:
鷹目
:2010/09/30(木) 20:56:19
2010年前半戦
前半を振り返って、少々。
埼玉県川越市 旧赤線
赤本の通り、門前に転業旅館が点在。比較的大見世が多い印象。一軒転業喫茶店有り。泊まれるのなら泊まって、ここから川越祭りでも見に行きたいものですね。
徳島県鳴門市 旧花街
海岸近くに2軒のみ。それなりに趣のある建物。
同市 旧赤線
路地に5,6軒点在。ただしちらほら空き地や新築が目立つので将来的には消えてしまう可能性大。
同県徳島市
ご存知、秋田町!
現在も営業は健在なりも、人通りが極端に少なく、これでやっていけるのと思うほど。でもやっていけているみたい。
顔見世ありだが、ピンクのライトマジックではなく、白熱灯ライトマジック。街灯もほとんどないので暗くて顔がよく判らん(笑)。
全体的には繁華街からかなり遠く照明の暗い松島って感じですかね・・・。
尼崎 かんなみ街
火事の前に冷やかしに。
相も変わらず、人が多い。ここも観光化してる気が・・・。
582
:
鷹目
:2010/10/01(金) 19:49:40
2010年前半戦追加
洲本
転業かつ現役で営業している旅館も含め、6、7軒ほど。地元の人曰く、内2軒はほとんど手をくわえず当時の建物状態のまま営業しているとの事。
確かに外見もいい感じです。
是非、宿泊してみたいものです。
583
:
夕凪
:2010/10/08(金) 22:34:14
大峰信仰を支えた『遊郭』
大峰山と洞川の近現代史は、大きな時代のうねりの中にあった。
それとともに、実は、男たちの大峰信仰には、もう一つの姿があった。
それは、龍泉寺の近くに7、8軒の「遊郭」がたあったことである。
「遊郭」がにぎわっていた時代には、大峰山に登るのが目的ではなく、
大峰山参りにかこつけて洞川の「遊郭」で遊ぶのが
目的であったという人も多くいたという。
彼らの中では、「精進おとし」「筆おろし」「垢おとし」といった
符帳で語られ、堂々と行われていたのである。
先の戦争までは、大峰山よりも、
洞川の「遊郭」のほうが知られていたのである。
2002年発行の「女人禁制」をめぐる冊子より
584
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:17:35
台湾の遊郭跡
今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
ですが、いまは駐車場となっていました。
嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
遊郭の建物の可能性あり。
台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。
585
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:17:36
台湾の遊郭跡
今回、ある方のHPで台北の万華遊郭の跡地に遊郭の建物が残っているという情報を得て
温泉訪問と合わせ行ってきました。台湾の南から。
台南 日本人遊郭と台湾人遊郭。日本家屋は遊郭地区に1軒も残っていませんでした。
1年半前までは 真花園 という台湾人遊郭の建物(築100年)あったそう
ですが、いまは駐車場となっていました。
嘉義 旧遊郭地区には安宿が多く、日本時代の建物は2軒ぐらい?そのうちの1軒は
丸、菱形、長方形 の窓が美しく1階部分が改装されていてよくわかりませんが
遊郭の建物の可能性あり。
台中 旧遊郭地区に日本時代の建物は1軒もありませんでした。
台北 万華遊郭。まったく寂れた通りに洋風の建物が1軒ありました。HPの写真の
とおり。ボロボロだけど装飾が美しく、正面2階には8角窓。入り口2箇所。
すごくお金がかかっていそう。おそらく遊郭の建物。
名称不明遊郭。以前 順子 さんが報告されていた、台湾人遊郭跡。円環の
そば。通りの片側に4−5軒が残っていて、そのうちの 文萌楼はセックス
ワーカーの支援団体で管理され、なかを少し見せてもらえました。写真は不可。
基隆 田寮遊郭。間違った場所を地図をもってウロウロしていたら、住民の方が日本語
の出来る方をつれて来てくれ、場所と2−3軒遊郭の建物が残っているという
ことを教えてくれました。(感激)メインストリートと思われるところに
ボロボロの日本家屋。おそらくこの建物が元遊郭の建物。改装しまくりで
遊郭の特徴はまったく発見できず。ほかにもう1軒それらしい建物。
586
:
k_taii
:2010/10/09(土) 08:43:40
夏の遊郭訪問
今年は熱すぎて訪問地は少な目でした。
越中八尾 おそらく妓楼は2軒。花街と共存していたみたいで、料亭は解説書が
入り口にありましたが、妓楼には無し。解説書がないそれらしい建物
は妓楼。ある意味わかりやすい。1軒は大店。1軒は中型。
湯田中 清風荘、泊まってみました。客室に遊郭の面影無し。母屋には少し
あるみたい。遊郭時代の部屋をみせてもらいましたが、豪華な部屋。
三社遊郭は学童疎開を受け入れたとき閉鎖。(その前か?)戦後は
赤線近くに出来、戦後は旅館になったそう。次回はその赤線跡を探します。
富岡 富岡製糸場そば。飲食店で昼ごはんを2回食べ、場所を特定。1軒めは
教えてくれなかった。赤線跡は現在は飲み屋街。当時の建物は無し。
観光案内所でもらった地図に赤線跡の記述をあとで発見、案内所の人は
内容を理解していなかった。
587
:
T-レッド
:2010/10/09(土) 15:27:56
洞川温泉へ行ってみた♪
実は、夏に洞川温泉へ行ってみました。
観光客も多く、普通の旅館街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。
昼ご飯ということで、川沿いにある一軒の食堂に入ってみましたが、トイレは地下室に降りて行くような感じでした。
河原へ垂れ下がったような建て方が、この辺りの建物の特徴のようですね。
いつ頃まで"オトコの世界"だったんでしょうか…
588
:
夕凪
:2010/10/13(水) 11:12:38
遊廓変じた三社・湯田中温泉
一茶も「さみせんのばちではいたるあられかな」・・・・・・
と一句ものしているように、三社はむかしから嬌声の遊里であった。
終戦前までは岩戸屋、内山楼、長島屋など12軒の遊廓だったものを、
ほとんどそのまま旅館にしたというのだから、
いまでも登楼する気分がかわらない。
みがきのかかったちょんちょん格子や連楼(レンジ)窓や
土蔵づくりの湯のまちなんていうのは、全国でもめずらしいもので、
宿へ入ると張店部屋に花魁ならぬ番頭が坐っていたり、
居間も本部屋のまま次ぎの間つきで、
女中と差し向かいでいると、女中が「そうでありんす」と
いい出しそうな錯覚を起こす。
汚いはなしで失礼だがご不浄という名の便所も、洗浄ができるような広さで、
その近くには陽の当らない割部屋らしいのが残っていたりする。
信州浅間温泉と松本市の間の横田遊廓には、
いまでも土蔵を仕切った部屋が残っているが、
ここの温泉場には土蔵を改造した部屋も残っている。
陽の当らない、陰気な土蔵部屋には
山形県上ノ山温泉の滝沢屋という宿でも案内されたが、
こういった古いふんいきを持っている三社遊廓受継温泉旅館に入る芸者は、
平穏(ヒラオ)小唄・湯田中ぶし・安代小唄・渋音頭・上林小唄と
歌謡曲みたいな歌しか知らず、
「みのは田んぼの乙女のすがた、色と恋との絞り染め、
きたさの金時、妾の親父で、せがれのじいさん、
まさかりかついでたいした元気だ、オオサヨイヨイ」・・・・・・
という長唄に似た「親沢追分」だとか
「岩にこもりしぎじきでさえも顔を見たさに出てござる」・・・・・・の
「安曇ぶし」などはまるきり唄えない。
レディーメードな湯のまち芸者が多い。
1956年の渡辺寛氏の著作より
※ k_taiiさん、毎度レポートありがとうございます。
お泊りになられた“ 清風荘 ”が、
上記にも出てくる“ 内山楼 ”だそうですね。
羨ましいです。
なお女性街ガイド(1955)には、七尾が
「能登半島もここまでくると風情があり、赤線27軒に126名、
富山.石川の貧農出が多く客にだまされ安い。」と
紹介されていました。
589
:
夕凪
:2010/10/14(木) 00:29:33
住吉新地へ行ってみた ♪
実は、今日、住吉新地へ行ってみました。
普通の住宅街という感じで、"オトコの世界"という雰囲気は、すでに希薄でした。
しかたないんで、住吉新地について、ちょっと調べてみました。
住吉新地は、古くは紀州街道に面した住吉新家(今の住吉警察署付近)に
あった料亭・茶屋がその起因であるが、
明治18年(1885年)南海本線の開通によって住吉新家は漸次衰え、
住吉公園に移ったが、
大正11年(1922年)5月大阪府は公園内の歌舞音曲は面白くないとの理由から、
住吉公園南側の浜口町一帯を指定地としてこれに聚落するように命じた。
当時芸妓扱席15軒、貸席業者168、芸妓数800名、幇間12名を数えて、
住吉新地の最盛期を示した。
しかしこの浜口町も公園に隣接している結果、
公園風紀を害することがあり、
たまたま昭和2年(1927年)頃、日泉土地?が現在の住吉新地一帯の
低湿地に菖蒲を移植、遊園地として菖蒲園があったので、
昭和11年(1936年)新しく指定地となり、
約3ヵ年をもって移転を了することとなった。
昭和19年(1944年)芸妓全員が徴用され、
貸席業者の業態にも著しく変化を生じたが、
終戦後また漸次昔の姿に復し、
昭和28年(1953年)11月18日には演舞場(総面積238.5坪)が竣工した。
そして毎年夏には名物の住吉踊が踊られ市民の人気を呼んだ。
1974年の資料より
いつ頃まで " オトコの世界 " だったんでしょうか…
590
:
T-レッド
:2010/10/14(木) 09:03:58
龍神新地へ行ってみた♪
昨日、龍神・栄橋へ行ってみました。
かなり久しぶりで、前回訪れたのは8年近くも前のことでした。
(※実はこの日…龍神新地の次に、松島新地へ向かったのでした。
北上する途中ということで、住吉新地へも寄ろうかと思いましたが、嫌な予感がしたので止めました)
「建物は、かなり減った」とは聞いておりましたが、それでも約7軒ほど残ってました。
個人住宅・マンション・駐車場の他、特に飲食店が多く、韓国エステもあるのが、少しは"オトコの世界"でしょうか。
それよりも……
龍神・東側に隣接する『フェニックス横丁』のほうが気になりました。
案外、この掲示板を見ておられる方々は、横丁みたいな「狭い・暗い・クサい・汚い」場所も好きなんじゃないですか?
私だけ…??
591
:
鷹目
:2010/10/18(月) 21:55:59
無題
>k_taiiさん
この暑い夏の日差しの中、台湾、越中・湯田・高岡、散策レポ、ありがとうございます。この辺の有名どころは、桐木町、羽衣町、越中大門、伏木玉川、新湊、西和田ですが、もう一箇所あるらしいです。
こちらも名称だけ風聞で知っただけなのですが・・・。
>T-レッドさん
集まると何かと話題になる洞川調査ありがとうございます。
男の世界が希薄とは残念なことです。
龍神まだ7軒ほど残っていますか!ただ良い物件ほど先になくなりますね・・・。
>夕凪さん
毎度、フォローありがとうございます。
592
:
鷹目
:2010/10/18(月) 22:01:17
吉野方面
夏に吉野方面に行ってきました。
下市
花街に一軒転業旅館、かなり離れた場所に廃業料亭が一軒残るだけ。花街であったことを感じされる雰囲気は無し。
ただ川沿いの吉野建ては必見かな?
上市
昔の業種名が入った旅館が一軒存在。あとは遊里時代からある料理屋は改装されるも存在せり。
往年は数軒旅館が立ち並んでいたそうです。
上市、下市、共に林業盛んな頃はかなり賑わったそうです。今は若い人たちが町をでて寂しい状態になっています。
593
:
鷹目
:2010/10/18(月) 22:23:15
和歌山方面
先日の休みに他にも用事があったのでぶらっと和歌山を周ってきました。
阪和新地
往年の鑑札を残す建物1軒、新地時代の面影を建物1軒、いまだ健在なり。その他は今回確認せず。
東廓
昭和時代、中心的で建築方面でも有名だった料亭。数年前に借金で廃業に。現在は取り壊され100円パーキングに。
ただ周辺に割烹が存在するもアロチに隣接する地域だけにかつて和歌山を代表する花街だったと認識できる人は少ないのでは・・・?
天王新地
3時ごろにちょっと素見しましたが、5軒ほど営業していました。居られた方は大阪というかいかにも関西のおばちゃん風。
ネットでよく名が挙がるお店はそれらの方よりも若目の方がいらっしゃいました。でも10年程前に素見した時よりも少し若返ったと言う印象有り。
ただ以前は中之島ロータリーからの抜け道だった新地と平行に走っていた道。いまでは拡張され信その道から裏手が丸見えw。
新和歌浦
昔は有名だった和歌山の観光地。
昔は芸妓さんもいて、検番もありました。今の旅館街は廃旅館が目立ち、観光地としては終わっている感じです。 和風の廃業旅館もありましたが、そこが芸妓を呼んでいたのか不明。
海岸も遊歩道が設けらるなど整備されおり、時折みるモノクロの絵葉書面影が残っておりません。
昭和5年生まれの地元の老人の話だと昭和60年代には芸妓もおらず、ホテル・旅館の宴会はコンパニオンを呼んでいたとの事。
取り合えず、紀北方面の昭和以降も営業していた遊里は建物、位置は大体確認済み。ただ橋本だけは情報がはっきりせず不明です。田辺以南はいまだ未見です。そのうち行きたいなぁ・・・。
確認済み 天王新地、阪和新地、黒江、東新地、田辺、粉河、湯浅
位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎
594
:
夕凪
:2010/10/19(火) 09:38:37
和歌山方面へ行ってみたい ♪ 芦原新地篇
>> 位置確認のみ 番廓、東廓、不老園、新和歌浦、芦原、白崎
鷹目さん、ちょっと教えて頂きたいんですが、
“ 芦原 ”ってどこにあったんでしょうか?
和歌山市? 海南市? まさか浪速区 !?
●実は、1966年の夜のタウンガイド(新書)に下記の記述があり、
芦原新地が、どこにあったんか気になってました。
旧赤線:【和歌山市内】には「芦原新地」「旧天王新地」「旧阪和新地」の
3ヵ所があって、結構赤線の灯は消えていない。
すれていないウブな女性がいると粋人の間でも信じている者が多く、
はるばる大阪あたりからえんせいするものも多い。
※和歌山【県内】ではありません!
●「旧芦原(アシハラ)新地」和歌山市東和歌山
??雄松町、三沢町、汐見町といった皮革工場街を背景にもち、
??客ダネはそこの工員たちが主である。
なにしろ、同地は靴用表皮を主に生産、全国屈指の生産量を誇り、
天皇陛下も見学されたというところ。
ひところはたいした景気だったが、いまはまずまずといったところ。
したがって芦原新地は、その後のこらずスタンド、お好み焼き類の
飲食店に転業してしまった。
バラック風の住宅だが、交渉次第で比較的安く
つきあわせることができるといわれている。
ちょっと前、ある方がブログで、芦原新地のことを書かれており、
好奇心が、再度、ムクムクと頭を擡げてきました。
ぜひ「芦原新地」の場所を特定頂き、
ボクの悩みを解決して頂けませんでしょうか。
595
:
夕凪
:2010/10/19(火) 11:04:01
和歌山方面を調べてみた ♪ 芦原新地篇
そこで「芦原新地」の周辺情報を、ちょっと集めてみました。
●1954年の実話雑誌では、和歌山の赤線を下記のように紹介しています。
和歌山は仙台と2つだけ城下遊里御禁制の土地だったのですが
後世出現したところです。
天王・阪和・芦原の3新地がありまして全市で80軒です。
海南市は船尾新地があります。(以下、略)
※船尾新地=黒江新地=西の新地です。
詳しくは今里さんの2007年 7月13日の書込み参照
●1934年10月の内務省衛生局の業態者集団地域に関する調によると
和歌山県からは下記の4地区が報告されています。
NO.集団地名(所在地名)?? 戸数 − 業態者数
? 天王新地(和歌山市) ?? 57 − 95
? 東 新 地(海草郡日向町) 40 − 65
? 阪和新地(和歌山市)???? 13 − 27
? 岡????町(和歌山市)???? 12 − 32
和歌山市立芦原小学校のHPによると、同校の所在地が、
旧:岡町村(→芦原→現:雄松町)であったそうです。
ttp://www.wakayama-wky.ed.jp/ashihara/index1.html
この“ ? 岡町 ”と言うのが、芦原新地の事ではないかと推測しています。
●芦原新地をネットで検索してみると下記の書込み(2006年)がありました。
芦原新地ゎ、八光ミュージックがぁったとこから
ちょびっと東の芦原っていう地区に存在しちゃぁっとょ。
※八光ミュージック:和歌山市島崎町3−8 ttp://www.gekijou.net/hakko/
ttp://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA3-8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
●和歌山じゃんじゃん横丁:和歌山市島崎町3-27 ⇒ Rさんヨロピコ!
昭和30年代にはモダンな建物が立ち並ぶ歓楽街だった横丁に、
センスある店が次々にできた。
味の店を中心に、古い建物を利用しておしゃれな町筋をつくり出している。
ttp://www.mapple.net/spots/G03001008901.htm
ttp://co2lo.jp/janjan/
????????ttp://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&um=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%92%EF%BC%97&gl=jp&ei=VwS9TKD4BcXJcem0mfEN&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1&ved=0CBUQ8gEwAA
※ひょっとしてこのへんですか?
●(参考)和歌山県連合会 1957年の業界紙の年賀広告より
01.阪和新地組合、 02.天王新地組合、??03.海南新地組合、
04.下津料理組合、 05.箕島検番組合、 06.湯浅検番組合、
07.御坊南新地組合、08.御坊北新地組合、09.田辺検番組合、
10.新宮新地組合、 11.串本新地組合、 12.勝浦新地組合、
??13.白浜社交倶楽部、14.白浜浜木綿社交倶楽部
※地図は最大までズームしてみて下さい。
596
:
T-レッド
:2010/10/19(火) 14:58:15
芦・葦・葭・アシ・足・脚・・・ヨシ♪
関係があるかどうか、わかりませんが…
"芦原"の語源について、ちょっとだけ調べてみました。
『江戸幕府の命で、遊廓が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため、葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた』
…という記述もありますね。
芦(葭・葦)は、湿地帯に生息することが多いことから、一般的に、建物を建てるには適さないようです。
したがって、辺鄙な場所となる→町外れになる→遊所を設置しやすい、ということなんでしょうか……
ちなみに、芦原橋(浪●区)も皮革産業が有名ですね。
597
:
鷹目
:2010/10/19(火) 18:57:40
芦原新地
昔、今里さんと和歌山散策したとき、今里さん持参の昭和20年代か30年代の地図に芦原新地って名称がありました。
そのときは、赤線なのか、花街なのか、飲み屋街なのか、それともただの新興の埋め建て地なのか、資料がなくて解かりませんでした。
地図に書き込まれていた場所は、川を挟んでいましたが、確かに夕凪さんの書いた町名に隣接している場所でした。
で、現代(散策当時ですが)は大型店舗が建っています。
598
:
遊楽
:2010/10/20(水) 01:34:10
岡山へ行ってきました
こちらへの投稿ははじめてなので、ちょっとドキドキしてます。
いつもの如く、近代遺産散策がメインの旅でしたが、せっかくの
遠出ですので、倉敷市玉島柏島(旧天満町)界隈、川西町、岡山市の
西中島・東中島を近建巡りの合間に巡って参りました。
残念ながら私は「赤線跡を歩く」の2だけは持っていないので(涙)、
詳細もわからぬまま、ただ彷徨ってきただけですが、短い日程の中で
3箇所の町並みを拝見できたのはこちらのバックログを参照させて
頂いてから出かけたからだと、いつもながら感謝しています。
■玉島柏島(旧天満町)
玉島自体が置き忘れられたような(さすが「ALWAYS 三丁目の夕日」
のロケ地に選別されただけありますね。笑)街並みですし、3連休の
初日は雨でしたので、とりあえず玉島魚市場の裏から公会堂までの
範囲しか歩いていませんが、なんだか通りのお家がすべてそれ風に
目に映りました。
しかしながら地元の方にお訪ねしたところ、戦前だとはっきりと断言
できるのは、現在は天〇教の集会所となっている3階建てと、天満町
公会堂の近くの2階建て丸窓のある家ぐらいで、後は不明であるとの
事でした。いずれにしても先を急いでいましたので、この場所がいつ頃
までその様な目的で利用されていたのか、その後の転業の光芒などの
詳細をお聞きすることができなかったのは残念です。
■川西町
こちらもはっきりと資料がないまま、川西1丁目界隈を歩いただけ
ですので、帰ってから撮った写真を検証してみるとかなりピントを
外してるようでした(川の反対側をメインに歩いてたようです。涙)
確かなデータではありませんが、最盛期の妓楼数17、妓人数113・・・
となるとゆっくり回れば、当時の建築物の半分くらいは残って
いそうな雰囲気は充分残っておりました。
■東中島・西中島
町名からいうと非常に馴染みのある名前ですので(笑)以前から
どうしても行ってみたかった場所ですが、実際に行ってみると
街自体は思っていたほど特殊な雰囲気はありませんでした。
中に入ってしまうより対岸から眺める方が、それらしい街ですね。
中の島・・・という事で、周辺より少し下がった場所に孤立してある
ような場所を想像していましたが、新京橋の方から入ると、川を
挟んだだけのただの通りで、「京橋を渡る・・・」という言葉の持つ
厭世観というか閉塞感は今はありません。ただ、家自体は橋本などと
同じくお住まいの方が老齢化が進んでいるのか?それともただの廃屋
になってしまってるのか?夕方の人の出入りが激しい時間帯に行った
わりにはまったくひと気がなく寂しい街でした。
599
:
夕凪
:2010/10/20(水) 20:25:24
すしのこ本社@堺
●以前、タケちゃんさんに教えて頂いた『玉の井−色街の社会と暮らし』買いました。
パラパラとしか見てませんが、筆者の視点は、女給の生態や、売春禁止ではなく、
“ 玉の井 ”の歴史や、赤線(青線)の仕組や制度を解説する事にあります。
またカフェーの間取りや、洗浄器がどのように設置されていたか等も
イラストが添えられていて、わかりやすいものになっています。
なかなか面白そうな本です(こんな本が欲しかったです)。
タケちゃんさん、どうもありがとうございます。
ttp://www.jiyu.co.jp/shumiseikatsu/detail.php?eid=00964&series_id=s01
●T-レッドさん、鷹目さん、芦原新地の件、どうもありがとうございました。
600
:
夕凪
:2010/10/21(木) 16:58:32
幻の花町新地 (須磨)
●加藤政洋さんの『花街』(2005年)に、
幻の花街として、須磨にあったと言う《花町新地》の名が出てきます。
加藤さんは、同書の中で「花町新地」を、
須磨区役所が発行した本を引用して紹介した後に、
下記の通り述べています。
妙法寺川左岸に昭和10年(1935)に成立し、
しかも戦後はその姿を消してしまった《花街新地》。
「そこはまた別のファンがいて評判だった」というのだが、
存続した期間が短かったため、市民一般に(あるいは他地区の花街)
には知られていなかった可能性が高い。(中略)
????昭和10年以降に、市街地の片隅に「検番とは全く関係がない」と
いう語りは、「そこにはまた別のファンがいて・・・・・・・」とともに、
《花町新地》が私娼窟に近い状態であったことを暗にしめしている。
(以下、略)
加藤政洋さんが引用した本は、須磨区役所まちづくり推進課著の
??『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』(1998年)と言う本です。
加藤さんが引用した箇所は、『須磨の近代史−明治・大正・昭和−』も
その事を明記していますが、
須磨神戸市編入50周年記念誌『須磨』からの要約転載記事でした。
601
:
夕凪
:2010/10/21(木) 17:44:47
幻の花街新地 (須磨)
要約前の記述を『須磨』で確認してみました。
●須磨神戸市編入50周年記念誌編集委員著『須磨』(1970年)より
?? 戦前妙法寺川東の古川町あたりにあった「花街新地」というのは
所謂「やとなくらぶ」という組織のもので
???? 検番とは全く関係がないけれども、
???? そこには、別のファンがあって安いという評判だったが
?? 須磨検番も神戸市内ではいつも線香代がたとえ10銭でも安いと
?? いうようにしていた。(中略)
昭和戦前期で2円ぐらいで遊べたように聞いている。
現在の地形は当時と全く一変してどこに「花街新地」が
あったのかわからない。(中略)
幻の「花街新地」として胸に覚えのある方々のみの
思い出の地であろう。
とあります。「花街新地」は、少なくとも私娼窟ではなく、
組織的な雇仲居倶楽部であったと書かれています。
もっとも雇仲居倶楽部も私娼窟と言えば私娼窟なのかもしれませんが・・・・
602
:
夕凪
:2010/10/23(土) 22:33:06
港新地へ行ってみた ♪
港新地に残る、2軒の内、貴重な1軒である、
『都旅館』が、近々解体されるようです。
入り口のまえに、不動産屋さんの建て売りの広告が ・・・・・・
ttp://www.taiyo-jyutaku.co.jp/detail/index.php?act=detail&bn=1081#detaildata
603
:
鷹目
:2010/10/27(水) 23:02:12
訂正
天の声にて間違いを発見。
芦原新地の位置、大型店舗の処ではなく、雄松町付近。大型店舗の処は新天地。
昭和10年の地図に新天地の名称有るも、芦原新地の名称なし。
仮説-新天地→戦災→移転→芦原新地 かもとの事です。
スマソ。
またそのうち、自転車で確認に行って来ます。
604
:
夕凪
:2010/10/28(木) 08:13:41
地の声
人の声(鷹目さん)どうもありがとうございます。
近々『地の声』を聞きに行ってみたいと思います。
やっぱり芦原新地って、あそこだったんですかね!?
でも、新天地って ・・・・・
605
:
鷹目
:2010/11/01(月) 22:55:38
奈良町方面
昨日、所要で奈良に行きましたのでついでに元林院周辺を歩いてきました。
遷都記念祭の影響なのか、ぱらぱらっと新しい飲食店が増えていました。
そしてあのスターミュージックの跡地は、おしゃれなカフェに建て変わっていましたw。
旧検番、まんぎょくは、幸いなことに変わり無しでした。
606
:
夕凪
:2010/11/07(日) 22:51:12
島原貸席お茶屋業組合
●こんなんありました。
?読売新聞 ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20101107-OYO1T00147.htm?from=main3
?京都新聞 ttp://www.kyoto-np.jp/sightseeing/article/20101104000030
○記事の内容は、いずれも“ 島原貸席お茶屋業組合 ”が解散に当り、
その精算金を利用して、島原の6町内の道(全長約900m)を石畳風に舗装した。
と言うモノです。
しかし、記事の中で“ 島原貸席お茶屋業組合 ”の解散時期が異なっています。
具体的に言うと、?読売新聞では「近く解散する」となっていますが、
?京都新聞では「1994年に解散した」となっています。
○どっちが正しいのかと思い、角屋保存会の公式HPを見てみたら、
?角屋保存会 ttp://www16.ocn.ne.jp/~sumiyaho/page/literature.html#2
「平成8年(1996)同組合の解散に・・・・」とありました。
はたして、真実はいかに !?
607
:
鷹目
:2010/11/07(日) 23:25:02
歴史は作り変えられる
言っちゃあ何ですが、あそこの歴史は公的な歴史ではなく、悪い意味での私的な歴史ですからね〜w。
別のソース探した方が、正しい答えが見つかるのではないでしょうか?
608
:
遊楽
:2010/11/13(土) 01:29:21
京の花街「輪違屋」物語
高橋利樹(輪違屋十代目当主)・・・を読みましたが、
「最後のお茶屋」P68より
大正の調べでは、島原も一番多いときでお茶屋さんも百軒以上あった
といいます。それに遊女屋さん、女郎屋さんや料理屋さんがあって、
一軒も廓関係以外のお店はなかったのです。
ですからお客さんは島原に来て、食事をして一日中、翌日の朝まで
遊べたわけです。でも芸妓さんが一人もいなくなって、歌舞練場も
平成八年(一九九六)に「島原貸座敷お茶屋業組合」が解散すると
壊されて、百二十年ほどの歴史が閉じられました。
・・・という記述をみつけました。基本的に元は置屋でそこからお茶屋
に移行した輪違屋さんの当主。文章のあちこちに自分のところより
規模の大きい「角屋」さんへの遠慮や気遣いが見受けられる文章で
団長がおっしゃるように協調があるのかもしれませんが、この
くだりに関しては、新聞より「角屋」の年度の方に信憑性を感じますね。
609
:
夕凪
:2010/11/13(土) 21:30:16
芦原新地へ行ってみた ♪
● 本日の行動
午前中:○ニス(大阪市内) → 午後:MY自転車かついで和歌山へ
??→ じゃんじゃん横丁 → 喫茶店で聞く(ストリップ劇場はあったが飲み屋街らしい)
????→ 近所の八百屋さん(?)で聞くが、やっぱり違うらしい。
→ 近所の酒屋さんのおじいさんに聞く(芦原新地をご存知でした !! )
→ 教えて頂いた場所へ行く → そこのお好みやさんに聞く
→ “ この裏一帯がそうやで ”って証言get(置屋さんもあったそうです。)
??→ 一帯を散策 → 橋を渡って川向こうの大規模小売店舗へ
→ 昔、大規模小売店舗のとこは紡績工場やったって聞く(新天地は確認できず !? )
→ 芦原新地の道路を挟んだ反対側は屠畜場やったって教えて頂く(少し離れてます)。
“ 芦原新地は川より内側で、お城側の一番外れやからできたんちゃう。”
って言うてはった。
● ちなみに、芦原新地跡は、住宅や、お寺の駐車場とかになってました ・・・・・
?? すでに周囲は暗くなってて痕跡は確認してません。
お土産にみかんを千円分買うて来ました( 大阪で買う倍ありました !! )
610
:
夕凪
:2010/11/22(月) 00:00:05
S●NDAY NIK■EI 読書 より
● 赤線奇譚 木村 聡著
戦前の遊郭の名残である「赤線」が消えてから半世紀あまり。
その町並みや建物が今、次々と姿を消している。
本書は1990年代から各地の赤線地域を歩いた著者の初の写真集だ。
色タイルやステンドグラスに彩られた建物、
レトロなネオンサインの映画館、
木造長屋の飲み屋街 ――― 。
小説や映画に登場した地域もある。
歴史を刻んだ盛り場の記憶が一斉に失われるのは惜しい。
(ミリオン出版・3200円)
2010年11月21日掲載
611
:
遊楽
:2010/11/25(木) 00:10:14
年表
「近代岡山の女たち」の年表より、関連事項のみ抜粋してみました。
近代における女性解放史をメインにした本なので、本文における記述はほんの少し
ですが、ラストにもってこられてるところがちょっと心憎いですね・・・
明治 2(1869)年「人ヲ売買スルコトヲ禁スヘキ議」津田真道建議※一般
明治 4(1871)年 津山藩庁、追廻を集娼地と定める(03/12)
明治 5(1872)年 北条県、芸者の身売り売女に関する布達(09/04)
小田県布達、芸娼妓開放令(10/22)
人身売買禁止を布告、芸娼妓を開放(11/02)※一般
明治 9(1876)年 岡山県「娼妓並貸座敷規則」公布(04/--)
(13歳以上、営業は許可地に限る、月2回梅毒検査)
岡山西中島に女子手芸学校設立(06/06)
天瀬可真町に市立芸娼妓女紅場設立(07/06)
明治10(1877)年 岡山西中島町に貸座敷営業を許可(02/02)
駆梅院、岡山公立病院内に設置(04/--)
貸座敷・娼妓規則により営業免許地設定(10/08)
(備前14ヶ所、備中9ヶ所、美作4ヶ所)
明治19(1886)年 貸座敷並娼妓取締規則改定(03/12)
(娼妓営業貸座敷内に限る、15歳以上の者)
明治22(1889)年 大日本帝国憲法配布(02/11)※一般
群馬県会、廃娼案を可決(11/26・1991/09/12実施)※一般
明治23(1890)年 全国廃娼同盟会結成(05/24)※一般
岡山県会へ女子有志総代、中村静子ら廃娼建議(08/--)
明治27(1894)年 日清戦争勃発(08/01)※一般
明治33(1900)年 救世軍の廃娼運動起こる(09/05)※一般
内務省、娼妓取締規則公布(10/02)※一般
(娼妓の自由廃業認める、18歳未満の就業禁止など)
明治37(1904)年 日露戦争勃発(02/10)※一般
福田英子『妾の半生涯』(10/23)
明治39(1906)年 津山追廻遊郭内に錦水女紅場設立(09/05)
明治41(1911)年 廓清会結成(07/08)※一般
大正12(1923)年 関東大震災(09/01)※一般
西中島遊郭娼妓代表、県知事に待遇改善を要請(07/23)
全国公娼廃止期成同盟結成(11/03)※一般
昭和 3(1928)年 三・一五事件(03/15)※一般
昭和 6(1931)年 満州事変勃発(09/18)※一般
昭和11(1936)年 二・二六事件(02/26)※一般
昭和16(1941)年 太平洋戦争勃発(12/08)※一般
昭和20(1945)年 終戦(08/15)※一般
四 元遊郭楼主の証言から−遊女たち 「近代岡山の女たち」P268〜
津山遊郭
県北に位置する津山市は、森忠政の築城により十七世紀につくられた城下町である。
街並みは吉井川に沿って東西にひらけ、城の東側には天然の堀となる宮川が流れ、
吉井川にそそいでいる。この宮川にかかる宮川大橋を西へしばらくいくと、
菓子店「港屋」の古い看板が目につく。この店に沿った細い路地を十数歩いくと、
かつての津山遊郭の入口である思案橋のたもとに立つ。正面に本琳寺、そこから
鍵の手に廓はひらけ、その遺構は、アパートに、旅館に、料亭にと姿を変えながらも
当時のようすをしのばせている。
幕末から維新にかけてこのあたりでも、不作と重税に苦しむ農民の一揆が頻繁に
おきている。当時、津山藩の農民人口およそ六万人のうち、その八割が飢えに
苦しんでいたとも伝えらている。城下では職を失った士族、下級武士とその奉公人も
農民と同じように困窮していた。町筋に船着場に身を売る女たちの姿が多くみられた
のである。〜後略〜
※一般としてるのは全国的な事項。それ以外は岡山での出来事です。
612
:
鷹目
:2010/11/26(金) 00:31:06
『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』
伝言板で話題になっているのでご存知の方も多いかと思いますが、縁あって宣伝します。
---------------------------------------------------------------------------
『写真展 色里奇譚―夢のまちを訪ねて―』
「京都島原にある「きんせ旅館」さんをお借りして、写真展を開催することになりました。ささやか
な写真展ではありますが、異空間のような雰囲気の中で、宝石のように輝いた色里を感じていただけ
れば幸いです。」
・木村聡氏、青山均氏と遊廓研究班共催
・開催日時
2010年12月21日(火)〜27日(月)
12:00〜22:00 *最終日は18:00まで
・特別イベント
rimacona LIVE
2010年12月24日(金)18:30 OPEN、19:00 start ¥800(要1ドリンクオーダー)
柳本奈都子と原摩利彦によるユニット。2004年より京都を拠点に活動する。2010年10月に初のオリジナルフルアルバムとなる『黄昏とピアノ』(Parade)をリリースした。
HP:
http://www.rimacona-lab.com/
・開催場所
きんせ旅館
京都市下京区西新屋敷太夫町
HP:
http://www.kinse-kyoto.com/
・アクセス
JR丹波口より徒歩約五分
市バス「島原口」または「梅小路公園前」から徒歩約五分
*専用駐車場はございません。
みなさん是非お越しください。
613
:
ドーラク
:2010/11/27(土) 02:41:19
廓讀本
『廓讀本』くるわどくほん
昭和11(1936)年発刊。著者は熊本二本木遊廓の貸座敷業者。
松・竹・梅と三冊に分かれてる。当時の業者向き指導書。発禁本。
『松之巻 目次』
【1】廓
【2】貸座敷 ?家屋の構造設備 ?営業の統一
【3】貸座敷組合 ?娼妓慰安と共済 ?消費組合 ?共同炊事 ?診療所
?貯金奨励 ?功労表彰 ?娼妓の訓育
【4】席主 ?席主の勤 ?娼妓抱の手順 ?抱娼妓の選択 ?紹介業者
?雇傭人の選択 ?娼妓の待遇 ?雇傭人待遇 ?遊客の待遇
【5】對客の心得
?訪問客 取次の仕方、案内の仕方、見送の仕方
?對客の心得 客の応接、言葉の使い方、言葉の混用、談話の妙諦、人の長短、
人の秘密、他人の談話、謙遜と自慢、對話中の中座、火鉢の使方、
搾りタオル、茶菓の接待、喫煙と茶菓、お客の退出
【6】通信 ?信書の心得 ?電報の心得 ?航空郵便の心得 ?船舶の信書
?電話の心得 電話の掛け違い ?使者の心得
取り敢えず、現在『松の巻』読書中。
特筆すべき事項があれば、時々書き込んでいきます。
614
:
鷹目
:2010/12/07(火) 14:46:39
無題
>遊楽さん
岡山年表ご苦労様です。
たしかに最後に持ってくるとは心憎いというか意図的にやっているのでしょうね。少しの記述での記載されているというのは最近の傾向としては貴重かと思います。
>ドーラクさん
『廓読本』読破頑張ってください。何か面白い記述があればカキコお願い致します。
615
:
夕凪
:2010/12/07(火) 16:50:46
発禁本のヤマ場 : 娼妓の心得 『廓読本』
●<さて、この洗滌に行くということについて、もっとも注意すべきことがあります。
・・・・・ 洗滌にかこつけて、廊下などで他のお客と立ち話をしたり、
もっとも大切な肝心な時機にはずされて見れば、その不快はひととおりでなく、
お客によりては、焼け気味を起こすこともあり・・・・・
そこで、お客さまや家業が大事と思うならば、洗滌がすんだら、早く部屋に帰って、
「お待ち遠さま」と一礼して、静かにお客さまの左方、やや斜めに坐し、
手をつき微笑しながら、「お邪魔いたします」とか「やすましていただきます」とか
挨拶して、床にはいるのでありますが、なにごとにも一心がこもらないと、
そこには妙味がないのであります。
その勤めぶりにも、巧拙もありましょう。またお客さまのそぶりなどに
注意することもありましょう。たとえばぜひ用いねばならぬサック、
または予防薬を使用するにしても、お客さまの気持を悪くさせないように、
程よくもちかけるのであります。また眠たくても我慢する必要もありましょう。>
これが当局にマークされた箇所の一つである。ご期待に添えなくて残念でした。
??別冊太陽『発禁本』(1999年) より
○<ベッドに案内し、お床をのべます>、<腰部の清潔上、もっとも必要である>、
<サックその他、予備薬使用を忘れぬこと> 等の営業上の注意書きの文章まで、
赤鉛筆でチェックが入ってたそうです。
616
:
鷹目
:2010/12/09(木) 22:45:37
余談色々
まずは返信。
>夕凪さん
今ならそれぐらいで発禁になることはないのに時代ですかね。
余談その一
中之島天王町が由来だとは知りませんでした。どこのことか判りますよねw。
余談そのニ
遊里史研究会MIXI支部の人って、本家本元、本部がここって知らないのですかね。
木村さんの写真展のイベントトピより、閉鎖のトピが伸びるなんてなんか複雑。逆なら継続考えても良かったのですが・・・。
まあ、何年も支部の管理人等が見つからなかったし(オフ会出てる人はご存知ですよね)、申し訳ないですがスパッと閉鎖しますので宜しく。
その代わり、サボっていたこっちの更新に専念していきたいです。
ウィキの方はどういう書式で書いていくか検討中。
溜めている資料も読んで、提供を受けた分もきちんと整理していきます。
あと勉強会に関しては、どういう形がいいか自分でもまだまとまっていないのでご意見ご要望がればお願いします。
一応予定は未定ですけどね。
617
:
鷹目
:2010/12/09(木) 23:02:07
余談追補(愚痴と反省)
更新が滞っていた原因の一つは、馬鹿やって馬鹿みたいな仕事量をしていたから。
昼6、夜4、週10なんてやっていたら体重が50kgきってましたw。
それとこのサイトを取り巻く現状、与える影響、ブログ・HPを持っていて、ここをROMっている人に対する批判があったので維持をどうするかというのもありました。
それを踏まえて、他サイトの差別化、ステップアップを念頭にリアルでの活動模索をしていたのも事実です。
写真展もやりましたし、他体験企画なんかもその一環です。勉強会等もそうですが、こちらは継続してい仕掛けていきたいです。
本当は年に何回か日帰り散策会をやりたいのですが、良い所は大体一通り行ったのでそれなりのボリュームがあって日帰りできる所の選定が難しい・・・。
支部の方は私の無レスが停滞原因の一つですが、余り介入しなくても交流が活発になればと控えていたのも仇になった気がします。
停滞にかんしてはこの掲示板もそうでしたw。すみません。
で結局、どっちつかずになった結果です。
その点は大いに反省すべき点でもあります。
という事でとりあえずぼちぼちやって行きやす。
そのうちと言うかすでになってますが、MIXIは多分アプリのゲームやるだけの場となりますんで御用の方は【メール】【メッセージ】でお願いします。きちんと情報・内容の重要度を良く考えた上で媒体を考え、連絡ください。
618
:
鷹目
:2010/12/13(月) 13:25:17
貝塚
先日、所要で貝塚駅方面に行きました。
時間があったので旧貝塚遊廓へ。
商店街側にあった半ばは依拠に使い状態のある意味雰囲気のある建物が一軒取り壊されておりました。
帰宅して6年前に撮った写真と比較しても、それ以外は余り変わっていない感じです。
深川も健在です。ここを利用する機会、今後くるのかなぁ・・・。
619
:
鷹目
:2010/12/15(水) 16:30:41
貝塚追補
駅で周辺のガイドチラシを取ってきて、アジトでみていたら寺内町MAPに部分に「新地の町並み」の文字が!
それ以上の言及はマップには無かったですが、少しずつでも文化遺産としての認識があるということですかね?
620
:
T-レッド
:2010/12/19(日) 03:46:37
大和郡山では
ちなみに、駅に置いてた大和郡山のガイドマップでは、洞泉寺については「遊廓の面影が残る…」と、少し触れてましたが、東岡町には一切触れてませんでした。
箕山は問題外(?)です。
621
:
鷹目
:2010/12/19(日) 18:17:56
東京下町では
数年前、東京玉の井・鳩の街に行った時、一枚モノのガイドマップに『墨東奇綺譚』『原色の街』の舞台となった場所と言う風な書き方で紹介されていたような。
そういえば松島新地も大人の料亭街と言う風に紹介されてましたね。
他にも遊里跡だとは紹介されずにその他の事柄、趣のある町並みとして何気に紹介されている場所も多いはず。
和歌山にそういう事例がありました。
622
:
鷹目
:2011/01/07(金) 22:04:07
今年はどこへ行こうかな?
さて、今年は何処へ行こうか年頭から思案中。
再訪予定は、天王、神崎、初島、住吉。確認は芦原。
初見でちょっと遠出して関辺りか、夜行バスで熊谷あたりかな・・・。
623
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:29:43
花街めぐり ◎ 住吉
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(南海線住吉公園下車5分)
??この新地は閑静な雰囲気で都塵を避けて のんびり遊べるのが特色
約85軒の待合、200人あまりの芸妓がいるがいわゆる二枚鑑札である。
花代は800円から1,000円、泊まりは10時頃から3,000円
そこへ一杯となるとどうしてもサラリーマンではしんどい。
と言うワケで若い客が少ないせいか若い人が行けばもてるのは受合、
少々ムリしても出掛けるべしである。
待合は何れも甲乙付け難いがまず 杉の家、さかえ、友楽、本五色、
中京、笑家、堀江、夕立荘、永楽等が一流処として挙げられる。
< 掲載広告より >
お遊びは静かで優雅な 催し物は舞台完備した住吉演舞場を御利用下さい
住吉新地
624
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:42:56
花街めぐり ◎ 堀江
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、堀江筋下車3分西)
今を遡る450年前、長堀川の船着場に発着する船客を相手にひらけた花街で
その後幾多の変遷を経て茶屋に変わったという ―――
戦前は義太夫芸者の名で通り150軒のお茶屋 夜な夜なさんざめく盛況振りだったが
現在は待合数が35軒、芸者数が60人と 復興未だしの感が深い。
よその新地と変わっているのは茶屋、検番それに芸妓の三者が一体となって
堀江新地株式会社を組織していることだ。
有力な待合としては、みますや、とよはる、笹の家、丸玉、霞村等がある。
花代は450円ポッキリ、2時間で700円程度。
625
:
夕凪
:2011/01/26(水) 09:59:17
花街めぐり ◎ 今里
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(近鉄線今里駅下車 市電今里終点下車)
今里新地は他の花街に較べて その歴史も浅く 従っていわゆる 万人向のシステムを
とっている様で 花代も700円から1,000円と サラリーマンでも結構遊べる。
戦前には600軒の待合を数え その規模においては随一を誇っていたが 戦災で消失
現在は250軒 その内 社交喫茶が25軒、芸妓350人対しても女給も350人と
和洋とりまぜて あくまでも万人受けを狙っている。
が言うなれば 数でコナす?方で 必ずしも美人揃いではない様だ。
一流処の待合として、勝浦、春元、三日月、雲平、寿らが挙げられるが
花代も一流で 多少お高いのは止むを得ない その変りサービスの方も・・・・
と言うワケだが?
ここの盆踊りは浪華名物の一ツといってよく、
5日間にわたり綺麗どころが艶を競う。
626
:
T-レッド
:2011/01/27(木) 10:03:04
今も残る今里"本芸妓"
かねてから、その存在については知っていたものの、現状については全く把握しておりませんでした。
"昭和生まれの新興花街で、どんなお茶屋遊びが出来るんだろうか?"
というわけで…
今里新地のお茶屋にて、今では残り少なくなった本芸妓さんをお呼びして、お座敷遊びをしてきました。
現在、今里新地において、本芸妓を呼べるお茶屋さんは、一軒しか残っていないそうです。
宴会の内容は…
唄(替唄)・都々逸・踊り・ゲーム等、やはり今里新地ならではの特色がありました。
また、女将さんから昔の新地の様子等、大変興味深いお話も伺え、約三時間の宴会時間が短く感じられるほど、楽しい時間を過ごせました。
今里の本芸妓さんは後継者不足で、「若い子・きれいな子は居りまへん」とのこと。
しかし、「お座敷を楽しませることには自信がありますよ」と、まさに言葉通りの楽しい宴会でした。
難しいことではありますが、この今里独自のお座敷芸を、なんとか伝承していって欲しいものだと思います。
※ちなみに、本芸妓さんを呼べるお茶屋さんは、「一見さんお断り」です。
※料金・システム等、今里新地へのお問い合わせは、お控え願います。
627
:
鷹目
:2011/01/30(日) 22:52:37
関係者各位
お世話になります。鷹目です。
本日付で正式に某氏を管理人権限により遊里史研究会への出入り禁止処分に致し、本人にもその旨、メール致しました。
理由は、日頃より他人に不愉快を与える言動が多く、特にここ最近人間性を疑うような言動が続いておりました。
本人に自覚及び内省並びに改善の気配が全く感じられない為、これ以上関係を続けることは当会並びに当会会員の皆様に不快感を与え続け、不利益をもたらすのみと判断したためです。
今後、氏と当会は無関係です。私も交わることはございません。
なお、今まで不愉快な思いをされた方々、今回の件でとばっちり(二次被害)を受けた方々に心より深くお詫び申し上げます。
誠に申し訳ございませんでした。
628
:
夕凪
:2011/02/01(火) 19:47:03
花街めぐり ◎ 宗右衛門町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より
上方の宗右衛門町と言えば泣く子もダマる天下の花街である。
戦前は宗右衛門町の芸者は左ヅマ、なんば新地は右ヅマと
格式の差がはっきり別れていたと言うが戦後は一体となって
その数400名、客も当代第一線の名士以外は寄りつけない。
それにも関わらず現在我が世の春を謳歌しているところを見ると、
名士即鼻下長族と言うコトになる?
お出先の一流は先ず大和家、とにかく大和芸妓学校を持つドエライ所で
一軒で花街のあらゆる組織を網羅しており国内広告はオフリミット、
専ら外国向け宣伝すると言うからたいしたもんである。
そのほかまりや、つるい、暫、かすがが有名。
ここ2.3年中絶されているが「大阪おどり」は大阪名物の一つである。
629
:
夕凪
:2011/02/01(火) 20:23:38
花街めぐり ◎ 曽根崎
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電梅田新道、桜橋下車)
近松門左衛門ものするところの曽根崎心中でその名を残す曽根崎新地は
遠く宝永5年にひらかれたものであるが、明治末期よりすでに南地に
繁昌を奪われていたと言う。
現在250人の芸妓を抱えているがその数は戦前の約半分にも満たず
花で2千円から3千円と宗右衛門町並、加えて格式も戦前並ときているので
戦前からのオナジミさんと社用族以外は二の足を踏むと言うのが現状らしい。
一流の待合としては平鹿、伊東、泉谷、蓬莱等がある。
毎年5月にキレイ処を集めて行われる浪速おどりは大阪名ずつの一つとして有名
踊りの流儀は花柳流と西川流。
630
:
新今里X
:2011/02/01(火) 22:45:45
佐衛門小路
今から30年近く昔の話、K鉄I里あたりをウロついたときのこと、ガード下の市場を抜けたところが川で、ガードに沿って歩道橋ほどの橋がかかってました。
記憶ではその橋に店名の並んだ小さいアーチがかかっていて、渡った向こうはガード下に怪しげなスタンドやスナックが20軒ほど密集した飲食店街になっていました。
あとで佐衛門小路という名前を知りました。
先週、50代半ばの知人から興味深い話を聞きました。
K鉄I里の市場を抜けたあたりに、川沿いのホテルへ連れ出しできる店が30年ほど前にはあったとのこと。
飲み代以外に10000円で遊べたそうです。
それが佐衛門小路の中の店とは限らないけど、そういう店が紛れ込んでてもおかしくない場所だったなぁと…
またボチボチやっていきます。
631
:
鷹目
:2011/02/02(水) 16:08:47
五條楽園
非常に残念で哀しいお知らせです。
昨年秋以来休業中だった五條楽園。
先月末総会にて解散を決定したそうです。五條楽園関係者にとっては身を切るような苦渋の選択であったこと、その心中お察しいたします。
数年前、歌舞練場をお借りした関係で、お付き合いをさせて頂き、装いも新たに再出発の方法を模索奔走していたのを聞いていただけに非常に残念であります。
研究会主催者として、五條楽園を皆さんの心に、記憶と記録に残して頂ければ幸いかと思います。
632
:
夕凪
:2011/02/02(水) 22:59:21
花街めぐり ◎ 新町
●1955年発行の大阪人向けの観光案内より(市電、四ツ橋下車)
宝永年間、伏見の木村亦次郎と言う浪人が居て
諸所の遊女を集めて開いた大阪最古の花街である。
戦前は遊廓として全盛を誇ったが、戦後は純無たる一枚鑑札を
掲げており待合数は46軒、約80名の芸妓がいる。
市電湊町線の西側にあり「ミナミ」に近いとはいうものの
地理的には恵まれず事務所では「もうサッパリわやですワ」と
おっしゃる。
客筋は専ら社用族・・・・・古い花街だけに由緒ある待合が多く
歌舞伎で名高い夕霧太夫の茨木家と吉田家は
共に300年の歴史を持っている。
そのほか松春、しず家、あらせ、葉津家らが著名である。
633
:
Tーレッド
:2011/02/02(水) 23:19:41
ウホッ♪超リーズナブル!
たまには飲食ネタということで…
近鉄I里駅のガード脇に、気になるお寿司屋さんがあったので、新今里Xさんと二人で行ってみました。
『あ●●寿し』というお店なんですが、超リーズナブルな価格にウホッ♪
・寿司(四皿:一皿2〜3貫)
・瓶ビール(大瓶一本)
・熱燗(一合)
以上で\2,060 でした♪
やはり遊所近くの飲食店は雰囲気があり、興味深いです。
634
:
夕凪
:2011/02/02(水) 23:27:40
遊廓タイル貼りの嚆矢
● 国産タイル勃興の牽引力(大正初年〜大正12年)
この頃の最大のお得意先に、銭湯や温泉の浴槽・流し場があった。
それらは木造りが多かったが、衛生観念の発達による実利性と、
美しい装飾性が買われ、タイルが大いに使われた。
さらに、その後、思わぬタイルの大口需要が起こった。
大阪府議会が「遊廓の便所と消毒場をタイル張りにすべし」と
決議したのがきっかけで、東京・吉原、京都・島原、福岡・柳原の“新地三原”をはじめ、
名古屋・中村、大阪・飛田・松島、金沢・石坂、長崎・丸山など、
全国各地の遊廓へタイル販売外交員が殺到する。
そして、各地の遊廓の便所と消毒場は、たちまち五寸角白タイルで覆われる。
工事のついでに浴室、玄関口もと需要は急増した。
この遊廓との結びつきは、第2次大戦後、遊廓が廃止になるまで続く。
のちには、店の外観のすべてをタイルにする店も少なくなかった。
1976年のタイル関係の資料より
635
:
新今里X
:2011/02/03(木) 22:56:33
桜新地
10年ぶりに枚方の桜新地に行ってきました。
かなりの変貌は予想してたけど、想像以上に建て替わりが進んでました。
民家となってる2,3軒と検番の建物は残ってますが、記憶にある鏡面のタイルを使った店や転業旅館などは取り壊されて新築の住宅が並んでました。
平成22年で桜町100年とのこと、ということは明治43年?、明治42年や明治41年などいろいろあるようですね。
636
:
鷹目
:2011/02/05(土) 00:11:22
(無題)
>夕凪さん
いつもありがとうございます。
書かれた記事を見ると、今の大阪がかなり味気なくなったのが分かりますね。それこそ、今も残る花街には気を吐いてがんばってもらわないといけないですね。
>レッドさん
新規点開拓ですか?
またオフ会で利用できそうなお店があれば、教えてください。
>新今里Xさん
数年前、みんなで散策しましたね、桜町。
あれよりもひどくなったと言うことですか。100年と言っていると言うことは何かイベント開催するのでしょうか?
もっと遊里のタイル建築、評価されても良いと思うのですが。あんまりそんな動きはなさそうですね〜。
637
:
新今里X
:2011/02/05(土) 00:38:54
微妙な内容のアレ
えっ?枚方散策したの憶えてない、ちゅうのも橋本から合流したと思います、レッドさんと入れ替わりで。
そして微妙なアレを御土産でもらった記憶が…
638
:
鷹目
:2011/02/05(土) 01:00:49
最中
そうそう、枚方でレッドさんと別れて、橋本で今里さんと合流。その後、中書島でしたっけ。
あの時、風邪で腹がやばかったんですよね、私w。
で、あれは太夫の・・・でしたっけ?
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