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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

7211:2021/11/29(月) 12:15:36
広元の所存
小太郎さん
五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』でも、解釈が難しいところは適当にスルーしていて、苦笑するばかりです。
薫風両日の夢と紫雄三代の塵などは、一体、どこが「現代語訳」なんだ、ボーッと生きてんじゃねえよ、とチコちゃんなら怒りますね。

ザゲィムプレィアさん
検非違使は令外官なので、(左)衛門府の役と同時に任命され、明法博士は刑事を所管するので、文官であれば、三職同時の任官は理に叶っている、ということになりますか。とすると、本来なら辞任も三職同時がよいが、広元は文官なので、一歩譲って、左衛門大尉と検非違使を罷め、しかるのち、最後に明法博士を辞す、という順番が自然な気がするのです。はじめに明法博士だけ罷める、というのが腑に落ちないのです。
つまり、こんなバラバラな辞め方では頼朝が納得しないのは当たり前なのに、なぜ広元はそんなことをあえてしたのか、その理由がわからないのです。
付記
小太郎さんが、ひとつの解を示されています。
蛇足
三職というと、位に雲泥の差がありますが、信長の三職推任問題を思い出します。

7212:2021/11/30(火) 13:39:03
妄想
薫風両日之夢
紫雄三代之塵
薫風は初夏の風の意であるから、これは、去年の初夏、四月一日、文官としての明法博士と武官としての左衛門尉(検非違使)に任じられ、図らずも、両方の夢が叶えられた、ということではないか。
紫雄は、思うに、紫王の誤記で、牡丹の別称である。牡丹は、白楽天「花開花落二十日」のように二十日草とも言われ、絢爛ではあるが儚いことの喩えである。つまり、栄職は二年足らずで塵と化してしまった、と言いたいのではないか。三代は両日と対であるが、むろん、先祖代々の意もこめられている。
そんなふうに考えると、薫風と紫王、両日と三代、夢と塵、見事な対比を成していると思う。
法家の広元が、朝廷に対してのみならず鎌倉に対しても、柄にもなく文藝的な表現を試みたのだ、ということではないか。漢籍の素養がある頼朝は、広元の韜晦的な胸底が理解できるのである。

7213鈴木小太郎:2021/11/30(火) 16:10:13
大江広元と親広の父子関係(その7)
上杉著に戻って、「頼朝が急死したことが事態を一変させた」の続きです。(p97以下)

-------
 朝廷と幕府の緊張関係が持続する中、頼朝が亡くなった直後の二十二日前後に、後藤基清・中原政致・小野義成という三人の武士による通親襲撃事件(三人がいずれも左衛門尉であったことから「三左衛門の変」とよばれた)が起きる。事件の背景は不詳であるが、この頃公家政権内で通親と対立関係にあった一条家の思惑と幕府内にくすぶる反通親感情が引き起こした事件であることは疑いないだろう。だが、通親より事件の報を受けた幕府は、通親を支持する方針を明確にし、事件を起こした三人の武士は処断される。すでに触れたことだが、『愚管抄』には、事件後の幕府の方針決定は、広元が通親の「方人(味方)」であったことによると記されている。
 広元と通親の関係の親密さはかなりのものであったといえるだろう。広元が公家政権内の政治勢力分布を認識した上で、公家政権の実力者となった通親との融和をはかる現実的な対応を選択したという面もあるだろうが、かつて頼朝の意に反してなされた任官における通親の助力に対する恩義を、広元が長く心に留めておいたことの表われといえるかもしれない。
-------

ここで岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、1967)を見ると、建久七年(1196)十一月の九条兼実関白罷免、八年七月の大姫死去、同十月の一条能保死去、九年(1198)一月の土御門践祚、同九月の一条高能保死去などを記した後、

-------
 かかるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家して、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつつかと人思たりき。「今年必しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたりけり。万の事存の外に候」などぞ、九条殿へは申つかはしける。【中略】
 その比不か思議の風聞ありき。能保入道、高能卿などが跡のためにむげにあしかりければ、その郎等どもに基清・政経・義成など云三人の左衛門尉ありけり。頼家が世に成て、梶原が太郎左衛門尉にのぼりたりけるに、この源大将が事などをいかに云たりけるにか、それを又、「かくこれらが申候なり」と告たりけるほどに、ひしと院の御所に参り籠て、「只今まかり出てはころされ候なんず」とて、なのめならぬ事出きて、頼家がり又広元は方人にてありけるして、やうやうに云て、この三人を三右衛門とぞ人は申し、これらを院の御前わたして、三人の武士たまはりて流罪してけり。さて頼朝が拝賀のともしたりし公経・保家をひこめられにけり。能保ことにいとをしくして左馬頭になしたりしたかやすと云し者など流(さ)れにけり。二月十四日の事にやとぞ聞へし。又文学上人播磨玉はりて思ふままに高雄寺建立して、東寺いみじくつくりてありしも、使庁検非違使にてまもらせられなどする事にてありけり。三左衛門も通親公うせて後は、皆めし返されてめでたくて候き。
-------

とあります。(p283以下、カタカナをひらがなに変換)
本文だけだと何が何だか分かりませんが、「補注(巻第六)二七」を見ると、

-------
二七 【中略】梶原景季とこの騒ぎとの関係は愚管抄以外に所見しないので詳しいことは判明しないが、ことによると頼朝の死を報ずる幕府使節として西上したことがあったかもしれない。いずれにしても通親に基清らを告げ口をしたのは景季であったに相違ない。
 明月記によると、通親が右大将に任じられた正月二十日の二日後の二十二日から不安の事態が生じた。
  廿二日。巷説云、院中物忩、上辺有兵革之疑。御祈千万、被引神
  馬。新大将(通親)籠候御所不出里亭是有事故云々。
 広元の出生は諸説があって明確でない。【中略】
 広元が通親と親しかったことは、建久二年四月一日の除目で広元が通親の支持によって明法博士と左衛門大尉に任ぜられたことで知られる。
【中略】
 一条家の郎等三人は正治元年二月十四日に逮捕された。その事に当ったのは、新中納言頼家の雑色であり、三人を院御所に渡したあと、三月四日に関東に下向させたが、最後の処分は明確でない。
  二月十四日。武士等相具左衛門尉中原政経・藤原基清・小野義賢(義成)
  参院御所。是件三人可乱世間之由、有其聞之故也。各預賜武士(百錬抄)
  三月四日。天晴。三人金吾(政経・基清・義成)昨今下向関東云々。
  不同道各武士等預之相具。此輩七人(父子)解官云々。廿ニ日。天晴。
  被遣関東金吾三人、不請取自路追上、左右可随勅定由申之。或云、
  斬罪云々(明月記)
 公経・保家・隆保の閉門は二月十七日に発令された。また文覚を検非違使庁の監視下においたのはその前夜であった。
  十七日。今暁宰相中将(公経卿)・保家朝臣・隆保朝臣被止出仕云々。
  巷説。公卿七人可滅亡。不知誰人。文学上人(年来依前大将(頼朝)
  之帰依其威光充満天下諸人追従僧也)。夜前検非違使可守護之由被宣下
  云々。別当(通資)相倶官人参院、夜半許廷尉三人承之云々(明月記)。
 隆保の流罪はやや遅れて、五月二十一日に決定実行された。理由は後鳥羽上皇に対する謀反を計画したことにありとされ(皇帝紀抄)、四月二十三日には上皇の前で通親が隆保らを糺明した(明月記、二十六日)。
 基清らの処分で判明しているのは、基清が三月五日に讃岐国守護職を罷免されたこと(東鑑)、文覚が三月十九日に佐渡国に流されたこと(百錬抄)がおもであるが、基清は早くゆるされたらしく、東鑑、正治二年二月二十六日の将軍頼家鶴岡八幡宮社参随従の中にその名が見える。文覚には建仁二年十二月二十五日に召返の宣旨が発せられた(東寺長者補任)。隆保も建仁三年六月二十五日に本位に復した(百錬抄)。基清は同年十二月三十日の除目で左衛門尉に復任した(明月記)。
-------

ということで(p513)、武士のみならず、一時は「公卿七人可滅亡」の噂すら立つなど、朝廷内部で相当の混乱があった訳ですね。

>筆綾丸さん
広元の辞状だけでも論文が書けそうですね。

7214鈴木小太郎:2021/12/01(水) 11:53:19
大江広元と親広の父子関係(その8)
頼朝の死の直後に京都で起きた「三左衛門の変」は分かりにくいところがありますね。
この時期の分析として最も詳しいのは、今でもやはり橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)でしょうか。
同書は、

-------
はしがき
第一 村上の源氏
第二 朝廷出仕
第三 朝政参議
第四 源平争乱の渦
第五 天下草創の秋
第六 院近臣の歩み
第七 朝幕関係の新展開
第八 源博陸
第九 続発する都下騒擾
第十 栄光の晩年
むすび─通親以後
(附)久我源氏中院流家領と通親

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33549.html

と構成されていて、「第九 続発する都下騒擾」は、

-------
一 三左衛門の変
二 梶原景時の変
三 城長茂の変
-------

の三節から成っています。
第一節の冒頭から少し引用します。(p126以下)

-------
 ところで、頼朝没後の世上不穏のなかで、まず異変が起ったのは、鎌倉ではなく、京都であった。関白九条兼実の失脚を手を拱いて傍観していた頼朝も、大姫が死去して入内の夢も消え、さらに建久九年(一一九八)正月、頼朝の反対を押し切って後鳥羽天皇の譲位が強行されるに及び、ようやく対朝廷政策の建て直しの必要を自覚するに至った。頼朝は表面では幼帝の即位を不可とする建前を主張したものの、内実は朝幕関係を複雑にする院政の復活を阻止したかったのであろう。しかし譲位が強行された今となっては、みずから京都に乗り込み、譲位を推進した通親一派を抑え、兼実を朝廷に復帰させて、朝幕関係を再構築しようと考えたらしい。『玉葉』の記述によれば、上述のように、この譲位前後に急に兼実の許に頼朝の書状の到来するのが目立ち、その内容に兼実が満足している様子がみえるが、恐らく兼実は頼朝の上京を期待していたのであろう。『愚管抄』にも、「今年必〔心カ〕シヅカニノボリテ、世ノ事サタセント思ヒタリケリ、万〔よろず〕ノ事、存ノ外に候ナドゾ、九条殿ヘハ申ツカハシケル」と述べており、頼朝は並々ならぬ決意で上洛を期していたらしい。
 しかし翌建久十年(正治元)正月十三日、頼朝が急死して、上洛の計画が画餅に帰する一方、世上は一気に不穏な空気におおわれた。権大納言近衛家実も、「前右大将頼朝死去の後、天下閑〔しず〕かならず」と日記に書いている(『猪隈関白記』)。そこに突発したのが、いわゆる三左衛門の異変である。『明月記』の同年正月二十二日条に載せる「巷説」によれば、世上に兵乱の噂がたち、通親が院中にたて籠って、里亭に帰ろうとしないが、これには「事の故」があるということだと見える。これは『愚管抄』に、通親が後藤基清・中原政経・小野義成の三人の左衛門尉の襲撃を恐れ、「只今マカリ出テハコロサレ候ナンズ」といって、院の御所に参り籠ったという記述に相当する。その後の経過を『明月記』によって見ると、連日京中の騒動、衆口巷説の狂奔の状を述べ、「新大将〔通親〕なお世間を恐ると云々」との「巷説」を載せ、「院中の警固、軍陣の如し」と伝えるなかで、同月二十七日条には、幕府奉行人中原親能が近く上洛し、このたびの騒動を成敗すべしとの説を載せている。親能は早くから頼朝に近仕した京下りの官人の一人で、『尊卑分脈』では中原(大江)広元の兄弟としている。この騒動は一か月ほど続き、二月九日には、嘗て一条能保に近侍した左馬頭源隆保が武士を召集して何事か相談したというので、「天下また狂乱、衆口嗷々」という情況になった。同日条の『業資王記』にも、関東から上洛した多数の武士が辻々を固め、車馬の往反も困難になったと述べている。そして親能が実際に入洛したのは同月二十六日であるが、それに先立つ十二日、関東の飛脚が着京し、通親を支持する幕府の方針が伝えられたらしく、『明月記』には、「右大将光を放つ、損亡すべき人々等多しと云々」と述べている。『愚管抄』によれば、通親から京中騒擾の通報をうけた幕府では、迅速な鎮定を必要とし、通親の「方人〔かたうど〕」大江広元が中心となって通親支持の方針を決めたらしい。かくして二月十四日には、上記三人の左衛門尉が捕えられて院中へ連行された後、三人の武士に預けられた。ついで十七日、宰相中将西園寺公経をはじめ、右中将持明院保家・左馬頭源隆保が出仕を停められ、文覚上人が検非違使に預けられた。そして二十六日、親能が入京して最終的な処分が行われ、京中はようやく平静に帰した。
-------

通親襲撃といっても、実際に通親が「三左衛門」に襲われた訳ではなく、そうした噂が立っただけですね。
橋本義彦氏は、ここでは何故かその噂を通親に伝えたのが梶原景季だという『愚管抄』の記述に言及されていませんが、「二 梶原景時の変」において、「『愚管抄』によれば、前年の三左衛門の事件は、当時在京していた景時の一男景季が通親に密告したのに始まるというから、通親と景時との間には年来密接な連絡があったことも推測される」と書かれています。(p149)
源隆保は母が藤原季範女で、頼朝・坊門姫(一条能保室)の従兄弟ですね。

源隆保(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9A%86%E4%BF%9D

7215:2021/12/01(水) 13:44:07
閑話
小太郎さん
馬鹿話で恐縮ですが、三屋清左衛門を敢えて不自然に略せば、三左衛門になりますね。
https://www.jidaigeki.com/mitsuya5/

後世では、徳川譜代の名門酒井氏(庄内藩)も桜吹雪の遠山の金さんも(そして、たぶん土左衛門も)、みんな左衛門尉で、右衛門尉は閑古鳥が鳴いてさっぱりなのに、左衛門尉はなぜか人気が高く、引っ張り凧の売れっ子ですね。大江広元にしても、きっと、左衛門尉は目が眩んでよろめくほどの顕職であったにちがいありません。
しかし、サントリーのお茶は伊左衛門ではなく伊右衛門で、また、ドラえもんもドラ左衛門ではなくドラ右衛門の略であるらしく、現代では、なぜ右衛門のほうが売れ筋なのか、真相は藪の中です。
追記
鬼平・中村吉右衛門や女帝・中村歌右衛門(六代目)は右衛門派ですが、片岡仁左衛門は左衛門派です。

7216鈴木小太郎:2021/12/02(木) 11:39:45
大江広元と親広の父子関係(その9)
久しぶりに橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』を読んでみましたが、本当に隙がないというか、橋本氏が通った後はペンペン草も生えていないような感じすらしてきました。

橋本義彦(1924-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%BD%A6

ただ、橋本氏も歌壇は苦手のようで、「第十 栄光の晩年」の「二 後鳥羽歌壇の推進者」は、基本的には国文学者の研究を紹介するに止めておられます。
平成四年(1992)に橋本著が出た後、国文学界では後鳥羽歌壇の研究が相当進展しているので、そちらから攻めて行くと通親について何か新しい知見が得られるような感じもしますが、大江広元は和歌の世界とは全く縁がなかった人ですから、歌壇から広元と通親の関係を探って行くのは無理筋ですね。
さて、「大江広元と親広の父子関係」はいったいどうなったのだ、と言われそうな展開になってきましたが、もともと親広に関する情報は『吾妻鏡』と寒河江荘関係以外にはたいしたものがなく、後者は史実の究明にはあまり役立たないことは分かっていました。
そこで、私の一応の目論見としては、親広に「親」字を与えた源通親と大江広元の関係を探って行けば何か出てくるように感じていたのですが、今のところ従来の認識を大幅に更新するようは発見はできず、来年の課題になりそうです。
しかし、若干の副産物もあって、それは比企氏出身の「権威無双の女房」で、頼朝の斡旋で北条義時と結婚し、離縁後に京都で源具親という歌人と再婚した「姫の前」に関する問題です。

姫の前(?-1207)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E3%81%AE%E5%89%8D
源具親(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%B7%E8%A6%AA

従来、「姫の前」は建仁三年(1203)の比企氏の乱後に義時から離縁され、京都に行って源具親と再婚したと考えられていたのですが、これでは元久元年(1204)に二人の間に輔通が生まれていることとの整合性が取りにくく、私は義時との離縁は比企氏の乱の前だろうと考えています。

呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10977

そして、源具親は、歌人としては兄より遥かに才能に恵まれていた妹の「宮内卿」とともに源通親に庇護されていて、おそらく通親の推挙で和歌所寄人にもなれた人なので、「姫の前」が源具親と再婚できたのは比企氏が通親と結びついていた証左ではないか、また、比企氏と通親との間には広元が介在していたのではないか、などと想像していました。
広元は比企氏の乱に際して北条時政に殆ど殺されかけているので、なぜ広元がそうした立場に置かれたのか、広元と比企氏の関係はどうなっていたのか、あるいはそこに通親も絡むのか、といった点が気になっていた訳です。
ただ、よくよく考えてみれば、比企氏と通親に密接な関係があったとしても、別にそこに広元を介在させる必要もなく、通親の鎌倉ルートの一つが比企氏だったと考えれば済む話ですね。
実際、梶原景時なども京都、特に通親と強いコネクションを持っていたようですが(本郷和人説)、景時と広元は密接な関係があったものの、景時と比企氏との連携はなくて、景時は滅ぼされてしまいます。
ところで、私は「姫の前」が京都に行き、源具親と再婚したのは、義時との間の子である朝時(1193-1245)と重時(1198-1261)を生んだ後で、おそらく建久十年(正治元年、1199)の頼朝の急死がきっかけだったろうと想像していました。
頼朝は「姫の前」に義時との結婚を無理強いした人で、「姫の前」にとっては頼朝の存在が義時との結婚生活の桎梏であり、頼朝が死んでくれたから、別に自身は起請文など書いていない「姫の前」が、心晴れやかに義時に三行半を突き付けた、と考えてみた訳です。
しかし、これまたよくよく考えてみれば、「姫の前」と通親との接点は、もう少し前に遡らせることができるかもしれません。
そもそも建久七年(1196)、通親が政敵・九条兼実を失脚させることができたのは大姫入内問題を利用して頼朝に密着したからですが、結婚には男の世界とは別の準備も必要で、それこそ大姫がいじめられでもしないよう、頭の回転が速くて度胸もあり、何より頼朝が信頼できる女性が大姫の近くに必要だったはずです。
とすると、「権威無双の女房」だった「姫の前」ほどの適任者がいたのか、という感じもしてきます。
もちろん大姫入内計画は肝心の大姫が建久八年(1197)に死んでしまって中止を余儀なくされますが、その後も次女の三幡入内の可能性が探られます。
こうした頼朝の対朝廷工作に「姫の前」も一枚加わったのではないか、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、などと考えて行くと、さすがにこれは史料に残るような話ではなく、小説でしか書けないかなあ、などとも感じます。
しかし、歌壇の関係では何か出てくるかも、という微かな希望もあるので、もう少し調べてみようかなと思っています。
ま、これ来年の課題になりますが。

大姫 (1178-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%AB_(%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%A8%98)

>筆綾丸さん
>大江広元にしても、きっと、左衛門尉は目が眩んでよろめくほどの顕職であったにちがいありません。

生真面目にレスすると、これはちょっと変で、「左衛門尉」は一般御家人には魅力のある官職であっても、大江広元は北条一族とともに、その上の受領になっていますね。
左衛門尉に過ぎなかった和田義盛が、受領を強く望んだにも関わらず実現しなかったことが和田合戦の遠因となっていたりします。(呉座著、p251以下)

7217:2021/12/03(金) 13:50:06
左衛門が あふるるほどの 鯉幟
小太郎さん
『吾妻鏡』建暦三年(1213)五月小二日の和田合戦の記事に、
筑後左衛門尉朝重
三浦左衛門尉義村
和田左衛門尉義盛
和田左衛門尉常盛
和田左衛門尉義直
古郡左衛門尉保忠
土肥左衛門尉惟平
岡崎左衛門尉實忠
とあり、この日、もっとも多く参戦したのは左衛門尉で、まるでバナナの叩き売りのような感じです。

7218鈴木小太郎:2021/12/03(金) 13:53:17
「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」(by 呉座勇一氏)
呉座勇一氏の最新刊『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)について今まで何度か触れてきましたが、昔から学説の整理の手際よさには定評がある呉座氏だけに、同書では最新の学説の状況がバランス良く紹介されており、その中に呉座氏の鋭い指摘、卓見が随所に散りばめられていて、本当に優れた書物ですね。
ただ、私がどうしても引っかかるのは大江広元の位置づけです。
最終章の「第八章 承久の乱」は、

-------
1 公武関係の悪化
2 後鳥羽上皇の挙兵
3 鎌倉幕府軍の圧勝
4 乱後の公武関係と義時の死
-------

の四節で構成され、第四節の最後、同書全体の締めくくりとして、呉座氏は次のように書かれています。(p319以下)

-------
義時の達成
 北条義時は日本の歴史をどのように変えたのだろうか。一言で述べるならば、源頼朝がやり残した幕府の永続化という事業を完成させ、武家政治を中世社会に定着させた、ということになろう。
 創設期の鎌倉幕府は、現代人が思い浮かべるよりも、はるかに脆弱で不安定だった。源頼朝という個人のカリスマによって支えられていたからである。頼朝は源氏一門の粛清を繰り返し、頼朝死後は有力御家人たちが血で血を洗う内紛を繰り広げた。頼朝の急死によって幕府は瓦解の危機を何度もくぐり抜けることになった。北条義時は、頼朝後家である姉政子の協力を得て、数々の権力闘争を勝ち抜き、幕府の最高指導者の地位に立った。
 一方、治承・寿永の内乱で一時権威を失っていた朝廷は、後鳥羽院政の開始によって安定化した。鎌倉幕府三代将軍源実朝が後鳥羽に心酔したこともあって、朝幕関係は朝廷優位へと推移していった。もし実朝が長命であったならば、幕府は朝廷の下請けに成り下がったかもしれない。
 こうした中、幕府両属的な御家人が増加していく。一例を挙げれば、頼朝旗揚げ以来の功臣である加藤光員(70頁)は後鳥羽院の西面となり、幕府に無断で検非違使に任官したが、実朝はこれを許容している。自由任官(御家人が鎌倉殿の許可を得ずに任官すること)が厳しく規制された頼朝時代には考えられないことである。在京御家人は後鳥羽の命令でしばしば京都周辺の軍事・治安活動に従事したが、幕府はこれに関与していない。在京御家人を自らの手駒として動かせるという自信が、後鳥羽の挙兵の前提であった。
 承久の乱の原因は今なお明らかになっていないが、実朝暗殺事件によって公武協調路線が暗礁に乗り上げたことが背景にあると考えられる。後鳥羽は実朝を通じて幕府を操縦しようとしたが、実朝死後の幕府は後鳥羽に従順ではなかった。義時は王朝権威を軽視していたわけではないが、朝廷からの諸々の経済的要求に対して非協力的であり、御家人たちの権利を擁護する態度を示した。この点、義時の政治姿勢は頼朝・実朝とは大きく異なる。実朝の死を境に幕府の態度が"反抗的"なものに一変したことへの不満が、後鳥羽挙兵の最大の動機であろう。承久の乱は治天の権威を過信した後鳥羽の自滅とも解釈できるが、上洛軍を速やかに派遣した義時の決断も高く評価できる。
-------

いったん、ここで切ります。
大きな流れは呉座氏の言われる通りだと思いますが、「3 鎌倉幕府軍の圧勝」で呉座氏自身が記された上洛軍派遣の経緯を「義時の決断」で纏めるのは些か奇妙です。
呉座氏は「一連の戦略決定の過程で、義時の影は奇妙なほど薄い」と書かれていますが(p299)、では誰の影が一番濃かったかというと、これは大江広元ですね。
従って私は、承久の乱は究極的には「治天の権威を過信した後鳥羽」と、そんな「治天の権威」を一顧だにせず「上洛軍を速やかに派遣した」大江広元の戦いであって、広元の「決断」を最も高く評価すべきだと考えます。

後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10984
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10985

さて、呉座著に戻って、続きです。(p320以下)

-------
 幕府軍の圧勝によって公武関係は劇的に転換した。もはや朝廷は、幕府の軍事力に依拠しなければ、京中の治安維持すらままならない。幕府との関係強化が朝廷の至上命題となった。幕府が倒壊する可能性は百年にわたり想定すらされず、承久の乱以後の政変は幕府の存続を前提として勃発した。義時本人の意図はどうあれ、彼の活躍によって、武家が政治の中心を担う武家政治が中近世社会の基調となった。
 生まれながらに高い身分を備えた摂家将軍(のちに親王将軍)を擁立することで、源氏将軍三代の時代と異なり、幕府が王朝権威の庇護を得るために朝廷に譲歩する必要はなくなった。北条氏による執権職の世襲、そして「執権政治」は、北条氏の身分・家格ではなく、承久の乱の勝利をはじめとする北条氏の実績によって正当化された。義時の末裔たちが自らの始祖として重視したのは、時政よりもむしろ義時であった。
【中略】
 義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである。
-------

ということで、「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」が呉座氏の最終結論ですが、しかし、これには呉座氏自ら「義時本人の意図はどうあれ」という些か情けない留保が付けられています。
承久の乱の推移を見る限り、義時には「幕府軍の圧勝によって公武関係【を】劇的に転換」させようとする「意図」が感じられず、他方、大江広元には朝幕関係の長期的展望を見通す雄大な構想力があり、承久の乱の戦後処理の法的性格を分析する緻密な法的思考力があったように思われます。
従って、私は「【大江広元】の活躍によって、武家が政治の中心を担う武家政治が中近世社会の基調とな」り、「【大江広元】が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」と考えます。
「源頼朝がやり残した幕府の永続化という事業を完成させ、武家政治を中世社会に定着させた」のは大江広元ですね。

7219:2021/12/03(金) 17:01:06
婦系図
小太郎さん
承久の乱において、奇妙なほど影の薄い義時が、なぜ一世紀にも渡る鎌倉幕府の礎を築きえたのか、おかしいんじゃないの、と普通なら考えるはずですね。あるいは、『吾妻鏡』がわざと義時を韜晦的に記したのだとすれば、その理由は何なのか、と考えると思います。

姫の前は、娘の竹殿とともに、妙に惹かれる女性ですね。

7220鈴木小太郎:2021/12/04(土) 14:47:24
源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期
>筆綾丸さん
義時の軍事的才能は大したものなのでしょうね。
義時の挑発で始まった和田合戦など、呉座氏の説明によれば実際の戦闘の状況は『吾妻鏡』の記述と相当に異なるようであり、これで良く勝てたな、とすら思われます。
しかし、和田合戦だけならともかく、義時は頼朝没後の幕府内の殺伐とした抗争を全て勝ち抜いた訳ですから、戦術のみならず戦略(謀略?)の面でも抜群の才能があったのでしょうね。
承久の乱も、仮に短期決戦との展開にならずとも、結局は幕府側が勝てたのでしょうが、しかし、軍事的勝利を「一世紀にわたって存続」する永続的秩序に結びつけるためには、単なる軍事面の戦い以外に「法の戦い」があったのでは、というのが私見です。
その「法の戦い」に勝利したからこそ、「源頼朝がやり残した幕府の永続化という事業を完成させ、武家政治を中世社会に定着させ」ることができた訳で、軍事的才能では傑出していたとしても、雷を怖がっていた義時に「法の戦い」を勝ち抜く能力があったかというと、私は懐疑的です。

>姫の前は、娘の竹殿とともに、妙に惹かれる女性ですね。

義時と姫の前の間には二男一女がいて、朝時は建久四年(1193)、重時は同九年(1198)の生まれですが、竹殿は生年不明ですね。

竹殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF

朝時と重時の間を取って、仮に建久七年(1196)生まれとしてみると、当時の武家社会の結婚適齢期に入るのが十五歳として、広元の嫡子・源親広と結婚したのは承元四年(1210)以降くらいになりそうです。
親広も生没年不詳ですが、『吾妻鏡』に最初に登場するのが正治二年(1200)二月二十六日条で、この時「源右近大夫将監親広」ですから、さすがに竹殿よりはかなり年上と思われます。

大江広元と親広の父子関係(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10989

義時の娘と広元の息子ですから別に不思議ではない組み合わせですが、直接のきっかけは親広の従者「因幡守広盛」が竹殿の乳父であったことみたいですね。
時代はだいぶ後になりますが、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)によれば、

-------
 【宝治元年(1247)】五月から六月にかけて、前内大臣定通と北条義時娘との間の子、つまり重時の甥が関係した事件が二件起きた。ひとつは内裏最勝講結願日の五月二十二日、甥で山僧の顕雲阿闍梨が興福寺権別当覚遍僧正と陣中で闘乱し、翌日張本として顕雲方の因幡守広盛(義時娘の乳父で元は大江親広従者)が六波羅に召し出されたのである(『葉黄記』)。事件の発端は、おそらく公武の有力者と血縁関係を持つ顕雲・広盛側の驕慢から発したものとみられるが、彼らを庇う姿勢をみせず、すぐさま六波羅に召し出した重時の行為に、彼の為政者として私情に流されぬ優れた公平感覚が窺えるように思う。
-------

とのことで(p97)、竹殿が親広と離縁してから再嫁した土御門定通(1188-1247)との間に産んだ顕雲阿闍梨が引き起こした事件に「因幡守広盛(義時娘の乳父で元は大江親広従者)」が登場します。
親広の従者である広盛が乳父として竹殿を育てていて、親広が竹殿を見初めた、といった事情だったのかもしれません。
ただ、親広と竹殿の結婚期間はそれほど長くなく、おそらく数年で、竹殿は親広と離縁して源通親の息子である土御門定通と再婚することになります。
これはまるで義時と離縁して源通親の縁者である源具親と再婚した母「姫の前」のパターンの再現のようです。
しかも、私見では「姫の前」は比企氏の乱の前に、竹殿は承久の乱の前のそれぞれ前夫と離縁しており、背景事情すら瓜二つですね。
ちょっと不思議な感じがします。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10864

ちなみに森幸夫氏は、上記引用部分に続けて、

-------
もうひとつの事件とは権中納言顕親の突然の出家である。六月二日の夜、顕親は霊山の円聡法印房で出家をとげた(『葉黄記』)。二十六歳(『公卿補任』では二十八歳とする)の若さであった。『葉黄記』によれば、顕親は「年来、道心あり」とされ、本来仏門に深く帰依していたようであるが、「時を得るの人」の突然の出家に人々は驚愕した。定通は息子の出家にショックを受け、四日、泣きながら自己の大臣還任と大将兼帯を後嵯峨上皇に懇願したという(同)。このような精神的打撃も影響してか、九月二十八日、定通は六十歳で死去する。重時にとっても顕親の出家は、有力な公家関係者を失ったことを意味し、大きなダメージとなったであろう。
-------

と書かれています。
この書き方だと顕親はずいぶん抹香臭い人間のように思えますが、『弁内侍日記』によれば顕親は容姿端麗で人柄も良く、女性に人気が高かったようですね。

-------
六月一日、土御門中納言<顕親>の夜番なり。その日は院の御所のも夜番なりけるにや、いと疾く、昼程に参りて、「かく」と勾当内侍殿に聞えさすれば、「珍しくこそ」とてあひしらひ給ふを、切簾のもとにてのぞけば、直衣の色華やかに、ことに引きつくろひて匂ひ深く見ゆ。「今の世にはこれ程の人もありがたし」など人々も聞ゆ。「番にも懈怠なく参り、さらぬ奉公も怠るまじき由」など、こまやかに聞えて立ちぬる、名残も何となくとまる心地す。「滝の口より出でむを、広御所にてや見るべき」など言ふ程、殿上に久しくたたずみて、日給の御簡・着到など見て、主殿司に物いひ、着到つけてもなほ出でやらず。鳴板の程に立ちて、何にも目とまる気色なるを、「いかなる事にか。先々は院の御所に心のひまなき人にて、おぼろけには番にも参らぬに、あやしくこそ」など言ふ程に、次の日聞けば、「はやこの暁、霊山にて世にそむきぬ」と聞くも、昔物語を聞く心地して、あはれさ限りなくおぼえて、弁内侍、
  そむき得て心も風の涼しさの岩の懸路を思ひこそやれ

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9268

7221ザゲィムプレィア:2021/12/05(日) 15:44:28
因幡守広盛について
大江広元も因幡守の経歴があります(元暦元年(1184年)9月から文治元年(1185年)6月まで)。これが偶然の一致とは思えず調べてみました。
原慶三氏の「資料の声を聴く」というサイトの「鎌倉中期以降の因幡国司」から、注目する部分を引用します。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1019.html

----------
宝治元年(1247)五月二二日に因幡守現任が確認できる某広盛は知行国主久我通光のもとでの国守であろう。仁治三年一二月二五日に成功により右衛門尉に補任されている藤原広盛であろう。建長二年(1250)一〇月二四日には殿上人某長氏が因幡守であったが、知行国主は同年一一月一六日に現任している土御門顕定であった。
----------

義時娘の乳父で元は大江親広従者と記述されている広盛は久我通光により国司にされたようです。
想像を交えて広盛の経歴を描いてみます。
そもそもは六位程度で通親に仕えていた。通親の猶子になった親広に何時のころからかに仕えるようになった。
竹殿が親広と結婚して接点が出来た竹殿の乳母と結婚、乳夫となった(鎌倉でのことでしょうか)。承久の乱後の親広の京都脱出には同行せず、通光に仕えるようになった。
竹殿の乳夫であり続けた。仁治三年(1242)に成功に応じたのですから、それなりに富裕だったはずです。

ところで、建長二年(1250)には知行国主が土御門顕定(顕親の異母兄)に替わっています。これは通光が1248年に死んだあと嫡男の通忠が知行国を確保できなかったということでしょう。
通光は遺産を後妻の三条に遺したため通忠は家を維持するのに苦労したようですが、知行国を失ったのはさらなる痛手だったかもしれません。

7222鈴木小太郎:2021/12/06(月) 12:09:28
原慶三氏「1019 鎌倉中期以降の因幡国司」
>ザゲィムプレィアさん
興味深いサイトのご紹介、ありがとうございます。
私は原慶三氏のお名前も存じ上げませんでしたが、島根県の高校教員を長く勤められていて、尼子氏の研究などを中心に、中近世を非常に幅広く研究されている方のようですね。

『資料の声を聴く』
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/

ご紹介のブログ記事、「1019 鎌倉中期以降の因幡国司」には通親の息子の久我通光、孫の堀川具実(通具男)、同じく孫の土御門顕定(定通男)、土御門通持(通行男)、北畠雅家(中院通方男)など、通親の子孫がこれでもかと登場しますね。
また、

-------
因幡守に補任されたのは藤原輔平の子教信で、安貞元年正月七日には従五位下に除せられ、四月二〇日には右近衛権少将に補任されているが、天福元年(1233)には高野山で出家している。源大納言(源定通ヵ)の婿に吹挙されながら実現しなかったことが原因とされる。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1019.html

とありますが、土御門定通の関係者が「高野山で出家」となると、同記事にも登場する定通の息子・顕定(1215-83)が後嵯峨院の処遇に抗議して高野山で出家してしまったことが連想されます。

「巻六 おりゐる雲」(その6)─土御門顕定と三条公親
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9264
土御門顕定の出家
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9267

更に、

-------
同三年正月一三日には吉田経長の子資房が、一二月二九日には四条隆実の子隆資が因幡守に補任されている。資房は経長晩年の子で、因幡守補任時は二〇才であり、兄吉田定房が知行国主であった可能性がある。隆資は正中三年三月六日には周防守現任が確認出来る。隆資は父が早世したため祖父隆顕のもとで養育された。後醍醐天皇に登用され正中の変・元弘の変にも関わり、両朝分立後は南朝の公卿となるが、正平七年五月の男山の戦いで討死した。苦境に直面すると出家し、ほとぼりが冷めると還俗することを繰り返したため。四条河原の落書で批判された「還俗・自由出家」とは隆資のことだという。
---------

とあり、四条家と吉田家の関係は私も従来から注目していたところですが、経済的にも結びついていたようですね。
ただ、四条河原の落書が隆資を批判しているというのはちょっとどうなのか。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9155
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9156
四条隆顕の女子は吉田定房室
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9164
「四条隆顕室は吉田経長の従姉妹」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9166

その他、あまりに分量が多いので、ブログ記事のリストを見るだけで大変ですが、ご紹介の記事以外にも、「708 鎌倉時代前期の出雲国司」には、

-------
藤原長定
 この人物を知っている人はほとんどないだろうが、以下に述べるように、承久の乱以前の朝廷(後鳥羽)と幕府(実朝)の関係を象徴的に示す人物である。彼が『吾妻鏡』に初めて登場するのは、建保元年(1213)5月3日の和田義盛の乱に関する以下の記事である。
 「また出雲守定長折節祇候するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戦の忠を尽くす。これ刑部卿頼経朝臣の孫、左衛門佐経長が男なり。(中略5日)また出雲守長定同じく賞を蒙る。 」
長定は義盛の乱鎮圧に参加し勲功を得ている。そして彼の祖父が藤原刑部卿頼経で、父がその子経長であることが記されている。
 文治5年(1189)2月、源義経に与同したとして、出雲国知行国主藤原朝方、その子の出雲守朝経、出雲国目代兵衛尉政綱らが解任された。その中に、頼経とその子宗長の名もみえている。頼経は豊後国知行国主として九州における反平家方の中心的役割を果たした人物であり、その中で義経と結びついた。その姉妹(頼輔女子)が九条兼実との間に良平を産んでいる。そして経長の兄弟である宗長(難波氏)と弟雅経(飛鳥井氏)は関東に下向し蹴鞠を伝えて幕府に仕えている。
 このような長定が出雲守である一方で将軍実朝の家臣して活動し、恩賞を受けているのである。そしてその年に将軍が大江広元邸などを訪れた際には、「殿上人 出雲守長定」として随兵しているのである。このような事態は、長定の家と幕府の関係もあろうが、後鳥羽と実朝の緊密な関係なくしては考えられないのである。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/708.html

とあります。
藤原長定は父が経長で、難波宗長と飛鳥井雅経の甥だそうですが、そういう人が「義盛の乱鎮圧に参加し勲功を得ている」というのはちょっと吃驚です。
藤原広盛については私にも若干の意見があるので、また後ほど。

7223:2021/12/06(月) 17:13:15
二十六の瞳とHAL9000
小太郎さん
鎌倉の本屋には、『鎌倉殿の13人』の影響もあって、鎌倉時代の本がやたらと多いのですが、今日は、細川重夫氏『執権』が山積みになっていました。
大きなお世話ながら、百年に一度のお座敷がかかったのだから、もう少し売れそうなタイトルにすればいいのに、と思いました。この本の表紙にも三つ鱗の絵があるのですね。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000325892

ザゲィムプレィアさん
鎌倉時代の公武の人間関係はほとんど知らないので、別の話をします。喫茶店で、今日の読売新聞朝刊の特集記事を読んでいると、こんな記述がありました。
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「脳と意識を接続し、人間の意識を機械にアップロード(移植)することも20年以内に可能だ」と渡辺正峰・東京大准教授(脳神経科学)は予測する。その先にあるのは、「不老不死」の世界だ。肉体がなくなっても機械に宿る意識は残る。この意識を仮想空間につなげば、仮想空間で生き続けられる」
----------
これは、機械に意識はあるか、という古い問題の現代バージョンなのか、知りませんが、意識を機械にアップロードするなど、私には妄想としか思えません。筒井康隆『文学部唯野教授』に倣って言えば、理学部唯野准教授の囈言のような気がします(唯と准の字が似ているところがミソです)。
そもそも、この「意識」とは言語のことなのか、クオリアのことなのか、電位変化のことなのか、わかりません。さらに、この「機械」とは何なのか。クラウドのようなものなのか、理研の世界最速コンピュータ「富嶽」のようなものなのか、量子コンピュータのようなものなのか、わかりません。
むろん、人間には考える自由があるので、他人がとやかく言うべきではないのですが。
付記
仮に「意識」を「機械」にアップロードできたとしても、「機械」がサイバー攻撃を受けて「意識」が死ねば、ずいぶん短命な「不老不死」になります。
つまり、「意識」の保存も物理的制約を受けるのであり、現代のテクノロジーでは、それは電子でしかありえないはずで、「不老不死の意識」と言っても、所詮、電子至上主義にすぎないのではないか、という気がします。

7224鈴木小太郎:2021/12/07(火) 14:57:19
大江親広が幕府を裏切った格調の低い理由
政治史的な観点からは竹殿が親広と離縁し、土御門定通に再嫁した時期よりも、親広が承久の乱で幕府を裏切った理由の方が重要で、なかなか難しい議論がなされています。
例えば上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)では、

-------
 あくる承久三年(一二二一)五月十九日、京都守護伊賀光季の使者が鎌倉に着き、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の命令書を発して挙兵したとの報が幕府に伝えられる。【中略】
 後鳥羽上皇が期待をかけたのは、西面武士などの直属武力の他、在京・西国の御家人たちであった。京都守護であった伊賀光季・大江親広にも上皇の動員命令が下されたが、光季がこれを拒否して討ち取られたのとは対照的に、親広は上皇方の軍勢に加わることとなる。親広が後鳥羽方に加わった理由としては、後鳥羽方の軍勢の中で孤立したためやむなく動員令に従ったということがまず考えられよう。しかし、同じ状況にあった伊賀光季は幕府に殉じて後鳥羽上皇の命を拒んだのであるから、親広の行動には格別の要因があったといわなくてはならない。おそらく、有力貴族である源通親の猶子となっていた関係から、朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志が強かったものと思われる。やはり通親の猶子であった但馬国守護の安達親長も、承久の乱では後鳥羽方についている。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10871

とあって(p160以下)、「朝廷への忠誠を尽くそうとする親広の意志」説ですね。
また、長村祥知氏は『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)において、

-------
 義時追討命令に先んじて、鎌倉から派遣されていた二人の京都守護のうち、大江親広が後鳥羽の動員に応じ(『吾妻鏡』五月十九日条)、対して義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討された(『百練抄』五月十五日条)ことも、対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る。
 また後鳥羽の発した官宣旨は、幕府と鎌倉殿の存在を前提とする職たる守護・地頭に院庁への参候を命じており、鎌倉幕府─御家人制の否定という意図は読み取れない。院が公権力によって武士を動員するのは平安後期と同様に決して異常ではなく、後鳥羽の主要な武力たる在京武士の中でも、主力は西国に重心を置く在京御家人であり、むしろ幕府の守護制度・御家人制度は必須の要素であった。かつては承久の乱の際に在京御家人が後鳥羽の命に従ったことを異常視する理解が一般的だったが、後鳥羽の目的が義時追討であり、院による武士の動員が平安後期以来の正当なあり方である以上、なんら異とするには及ばないのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10271

と書かれていますが(p114)、「義時室の兄弟である伊賀光季が「依為縁者」り追討され」、「対立の基本軸が後鳥羽と北条義時との間に存したことを物語る」という長村説は、親広も義時娘の竹殿を通じて義時の「縁者」であることを考えると、ずいぶん奇妙な議論です。
ただ、長村氏は承久の乱に際して親広が「関寺辺で死去した」(p191)とされているように、親広に全然興味がないようなので、親広も義時の「縁者」であることを単純に失念されているものと思われます。
さて、親広がいかなる人物であったかを探る手がかりは基本的には『吾妻鏡』、そして『安中坊系図』のような寒河江関係の後世の史料しかありませんが、前者には行事参加等の単純な事実関係を超えたエピソードはなく、後者は信頼性に相当問題があります。
ウィキペディアには「母は多田仁綱の娘」などとありますが、上杉著によれば「多田仁綱」なる人物は『安中坊系図』にしか登場しないそうで、「この所伝は極めて疑わしいといわざるをえない」(p185)ものです。

大江親広
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E8%A6%AA%E5%BA%83

ところで、源通親の猶子として京都との関係が深かった親広は、幕府の公用で上洛することは多かったものの、基本的には鎌倉で暮らしていて、京都での長期滞在は京都守護となってからのようですね。
竹殿も、おそらくずっと鎌倉にいて、親広の京都守護就任とともに京都に移動したものと思われます。
私は親広と竹殿の離縁は承久の乱の前と考えますが、義時娘と既に離縁していた親広を義時が京都守護に送り込むというのは若干不自然な感じがするので、親広は建保七年(1219)二月、京都守護として竹殿とともに上京したところ、間もなく竹殿に逃げられてしまったのではないかと思います。
しかも竹殿の再婚相手は源通親の息子の土御門定通で、竹殿は通親の猶子・親広と離縁して実子の定通に再嫁したことになり、鎌倉から見ても京都から見ても、かなりカッコ悪い話ですね。
そんなことで親広が鬱屈した気分でいたところに承久の乱が勃発し、今さら義時に忠誠を誓うのも面白くない、ということで親広は後鳥羽側に寝返ったのではなかろうか、というのが私の仮説です。
大江親広・不貞腐れ説ですね。
まあ、あまり格調の高い理由ではありませんが、歴史の大きな流れはともかく、個々人の動向はプライベートな事情に左右されることは当然あったはずです。
三浦胤義にしても、妻が元は源頼家の愛妾だったという事情が裏切りの最大の理由ですからね。
なお、私は親広には源通親と自分との関係を定めた偉大過ぎる父・広元への反発もあったように想像するのですが、こちらは小説の世界でしか書けない話かもしれません。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

>筆綾丸さん
細かいことですが、細川重男氏ですね。

7225ザゲィムプレィア:2021/12/07(火) 21:09:21
Re:二十六の瞳とHAL9000
>筆綾丸さん
おもしろい記事を紹介していただき、有難うございます。
新聞を見ると、一面トップの見出しが『仮想空間 拡張する「私」』ですから、ちょっと驚きました。
考えてみれば、月曜朝刊ですから予定していた記事を埋めたということですね。

記事は渡辺准教授の研究について「脳と機械を接続し...」と述べているだけで、筆綾丸さんのような疑問を持つのは当然だと思います。
もっとも、記者は意識とは何かなど考えていないかもしれませんが。
しょうがないので、ググったところダイヤモンド社の「Harvard Business Review」で渡辺准教授の研究を紹介する記事を見つけました。

https://www.dhbr.net/articles/-/6268

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人の意識を機械にアップロードすることを目指しています。これは、ただ単に機械が人のように振る舞えばよいというものではありません。映画『マトリックス』の冒頭で、主人公の脳がコンピュータシステムにつながれながら、そのことに一切気づくことなく、仮想世界のなかで日常生活を送る姿が描かれます。私たちが目指す意識のアップロードとは、同様にして、機械のなかの意識が生前と見まがうような形で継続することを指します。...
保険非適用の外科手術代+サーバー代で、車1台くらいの値段で提供できるのではと企んでいます。
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脆弱な不老不死ではまずいですから、特定のサーバーにアップロードすることは考えていないはずです。
暗号通貨はブロックチェーン技術により、改竄や破壊が困難になっています。
映画「ターミネーター」の世界で、人類はスカイネットに苦戦します。サーバーを何台か或いはローカルな通信機器を破壊しても、スカイネットにはほとんどダメージにならないからです。
この強靭さが目標ですか。

7226:2021/12/07(火) 22:51:41
妄想ふたたび
ザゲィムプレィアさん
渡辺正峰氏の『脳の意識 機械の意識』(中公新書)をアマゾンに注文しました。
追記
ご引用のリンクを読んでみましたが、「意識」と「機械」の定義がなく、既知のものとして議論しているので、なにがなんだか、さっぱりわかりません。著書を待ちたいと思いますが、定義なく論じることができるのなら、たとえば、「無意識」のアップロードはどうするの、と思いました。

小太郎さん
広元の長子である親広は、諱からすると、初めは(中原)広○とかなんとか言い、通親の猶子になるときに改名したのではないか、という気もするのですが、史料がないのでわからないのでしょうね。猶子になった理由もまた。
建保四年(1216)六月一日、広元の中原から大江への改姓が裁可されたときに、親広も同時に源から大江への改姓が許されたらしいので、もしかすると、親広が竹殿に逃げられたのは建保四年六月一日より前ではあるまいか。竹殿が通親の実子・定通に再嫁したので、面目上、源姓ではおられず、実父とともに大江姓に遷った、というような裏事情があったのではあるまいか。・・・そんなことを考えてみました。
広元の改姓の請状に、
中原成林
梓材之學校惟多
大江楽水
詞浪之知淵清少
早復本姓
可繼絶氏
とありますが、最後の二行は、本人広元のみならず、実子親広への親心も秘められているのではないか、と考えると、なかなか味わい深いような気がします。
追記
細川重男氏には失礼しました。

7227鈴木小太郎:2021/12/08(水) 12:33:21
大江姓への改姓の理由
>筆綾丸さん
>初めは(中原)広○とかなんとか言い、通親の猶子になるときに改名

これはその通りでしょうね。
猶子とした理由は単純に広元の希望だと思います。
広元程度の下級貴族出身者が、村上源氏嫡流の通親と親しく交わることができるようになったのは本当に嬉しいことだったはずです。
広元と親広の改姓の理由については特に考えたことはありませんが、手がかりとしては何といっても上杉著が一番参考になるので、同書を見ると、「第八 連署の執権」の第二節で次のように論じられています。(p145以下)

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  二 広元の改姓と実朝任官問題

 建保四年(一二一六)四月七日の『吾妻鏡』の記事に、「広元朝臣、中原姓を改め大江氏となすべきの由、勅裁を申し請うべきの趣、日ごろ内々に都鄙と談合す。ついに今日、女房に属し許否を伺う」という記事が見える。広元が、長く名乗った中原姓を捨て、本来の出自の姓である大江に改姓することを朝廷に申請したというのであるが、「女房に属し許否を伺」った相手とは将軍実朝であろうか。四月十七日には「御左右〔そう〕」(御決定)があったと『吾妻鏡』に見えている(同日条)。
 その後、広元の改姓は政所執事二階堂行光を通じて朝廷に正式申請され、閏六月一日に認可された(なお、『尊卑分脈』が、広元の改姓を、陸奥守となった時点、すなわち建保四年正月二十七日のこととするのは誤り。)
 『吾妻鏡』閏六月十四日条には、広元が提出した六月十一日付の改姓申文が収められている。「正四位下行陸奥守中原朝臣広元誠惶誠恐謹言上〔たてまつ〕る 殊に天恩を蒙り、先例に因准し、中原姓を改め大江氏とならんと請うの状」という書き出しで始まる申状の中には、中国や日本における過去の改姓の事例が極めて多いこと、大江惟光と「父子の儀あるにより」改姓は「継嗣の理に叶う」こと、中原氏の発展に比して大江氏が劣勢であるから本姓に服して氏を継承する意志を持ったことなど、改姓申請の理由が列記されている。
-------

『吾妻鏡』を確認すると、建保四年(1216)四月に、

-------
【七日】廣元朝臣改中原姓。可爲大江氏之由。可申請 勅裁之趣。日來内々談合于都鄙。遂今日属女房。伺許否云々。

【十七日】廣元朝臣申 大江姓事。有御左右云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma22c-04.htm

とあります。
ついで閏六月に、

-------
【十四日】丙寅。廣元朝臣今月一日遷大江姓訖。 勅裁之趣。以行光申入之。即彼 綸旨等。被冩留御前云々。
 正四位下行陸奥守中原朝臣廣元誠惶誠恐謹言上
   請殊蒙 天恩因准先例。改中原姓爲大江氏状
 右。廣元謹檢案内。依有子細。令改氏姓者。漢家之彝範。本朝之恒規也。理氏改李。是則伯陽之先。姫姓遷蒋。又爲叔旦之後。田口齋名改紀姓。弓削以言爲大江。和唐之例不可勝計。散位從四位上大江朝臣維光。依有父子之儀。已叶繼嗣之理。從四位下行掃部頭中原朝臣廣秀。雖蒙養育之恩。欲改姓氏之籍。就中。頃年以來。中原成林。梓材之學校惟多。大江樂水。詞浪之知淵?少。早復本姓。可繼絶氏。望請 天恩因准先例。令改中原姓。可爲大江氏之旨。被下 宣旨者。弥仰皇澤之廣被。將知儒流之再興。廣元誠惶誠恐謹言。
  建保四年六月十一日          正四位下行陸奥守中原朝臣廣元
 正二位行中納言藤原朝臣隆衡宣。奉
 勅。依請者。
  同年後六月一日            大外記兼筑前守中原朝臣師重〔奉〕

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma22c-06b.htm

とあります。
ここで上杉著に戻ると、「父子の儀」についての若干の検討の後、

-------
 いささか唐突とも思える広元の改姓の背景には一体何があったのだろうか。諸史料にそれを明記したものはないが、朝廷政治に範を求め、家業の継承を重視する実朝の意志によるものであったという推測をしておく。
 広元は申状の中で、文人貴族としての大江氏が、中原氏に比して長く振るわぬ現状を憂い、大江氏に復して「絶氏を継ぐべし」と述べている。この指摘は朝廷社会の実情を述べたものだが、鎌倉に眼を転じても、幕府で活躍する文官官僚には、広元のほか親能・仲業など中原姓を名乗る者が多く、また問注所を管轄していたのは三善氏であった。一方、本来朝廷機構の中で中原氏・三善氏に優るとも劣らない実績を持つ文官の家である大江氏の存在は、鎌倉幕府機構の中では意外に目立っていない。この状況に対し、公家政権同様に鎌倉においても伝統的文官官僚の家が維持されることを望む実朝が、広元の政所別当復帰の機をとらえ、大江氏の家業の継承を鎌倉においても果たすべく、広元に改姓を求めたものではないだろうか。以上のように、広元の改姓の背景に、実朝の有していた強烈な「家」意識があったことを想定しておきたく思う。ちなみに、七月十六日の実朝政所下文(「萩藩閥閲録」五十八、鎌二二五二)では別当親広の姓も源から大江に改められている。
-------

とあります。
うーむ。
上杉氏は「朝廷政治に範を求め、家業の継承を重視する実朝の意志」を「推測」し、「公家政権同様に鎌倉においても伝統的文官官僚の家が維持されることを望む実朝」が「広元に改姓を求めた」、「広元の改姓の背景に、実朝の有していた強烈な「家」意識があった」と「想定」される訳ですが、ちょっと理解に苦しみます。
実朝が自分の家(源氏)について「強烈な「家」意識」を持っていたのは確かでしょうが、それが他人に「強烈な「家」意識」を持て、と命令する方向に進むものなのか。
そして、四十四歳も年下の実朝から「強烈な「家」意識」を持てと命令された広元が、唯々諾々とその指示に従う、などという事態があり得るのか。
まあ、それはいくら何でも無理筋で、改姓を希望したのはあくまで広元であり、広元が「都鄙」、即ち京都と鎌倉で事前の根回しを済ませた後、実朝の了解を求め、実朝としてはそんな他人事には何の興味もなかったけれど、「御左右」(いいよ)と言っただけの話なのではないか。
広元が改姓を希望した理由も申状に書いてある通りであって、別に「背景」を探る必要もないように思います。

>竹殿が通親の実子・定通に再嫁したので、面目上、源姓ではおられず、実父とともに大江姓に遷った

竹殿の生年は不明ですが、上限は名越朝時と同じ建久四年(1193)となりそうです。
男女双子説ですね。
そして十五歳くらいで親広と結婚し、何年か後に離縁して京都に行き、土御門定通と建保四年(1214)までに再婚したとすると、その時点で二十三歳。
まあ、数合わせとしては全く無理ともいえないでしょうが、何とも忙しい感じは否めないですね。

7228:2021/12/09(木) 12:15:19
大江楽水
小太郎さん
建久二年(1191)十月の辞状と建保四年(1216)閏六月の請状は、形式的なものとはいえ、広元のひととなりが瞥見できる貴重なものですね。月下推敲する男の後ろ姿が見えるようです。
請状中の「大江楽水」が、論語の「知者楽水」を踏まえたものだとすれば、大江(氏)=知者となるわけで、少々、自惚れがすぎやしまいか、という気がしないでもないですね。学者と知者は別物ですから。
大江姓に復したとはいえ、京都の鴨川を大江だとすれば鎌倉の滑川など小江ともいえぬほどケチな川だ、というのは広元へのあてつけのようで面白いですね。
もっとも、
?? 大海の磯もとどろに寄する波
?????????? われて砕けて裂けて散るかも
鎌倉には海がある。

7229鈴木小太郎:2021/12/09(木) 13:44:17
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)
竹殿については、上杉著の最終章「第十 鎌倉御家人広元の周辺」に、

-------
 親広に関しては、もう一つだけ指摘しておきたいことがある。『尊卑分脈』によれば北条義時の娘の一人で「竹殿」と号された女性が、親広の「妾〔しょう〕」となっている。他にこのことを裏付ける史料はないが、広元と義時との関係からすれば十分に想定しうる姻戚関係である。興味深いのは『尊卑分脈』がこの女性に対して「後に内大臣土御門定通の妾となった」という趣旨の注記をしていることである。定通は源通親の四男にあたる人物であり、推測になるが、この女性は承久の乱で謀叛人となった親広の許を去った後、広元と土御門家の縁故を辿って定通に再嫁したのではないだろうか。ちなみに、定通の兄で通親の次男にあたる通具(堀川流の祖)は一流の文化人として知られる人物であったが、広元は彼に「帰伏」(服従)していたという(『明月記』安貞元年九月二日条)。通親のみならず、彼に次ぐ世代の人物と広元の結びつきも極めて強いものであったことがうかがえよう。
-------

とありますが(p187)、「他にこのことを裏付ける史料」としては『公卿補任』がありますね。
そして、「承久の乱で謀叛人となった親広の許を去った後、広元と土御門家の縁故を辿って定通に再嫁した」のではなく、承久の乱の前に親広と離縁し、定通に再嫁したのは明らかだと私は思います。

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

ただ、一昨日の投稿では、

-------
親広は建保七年(1219)二月、京都守護として竹殿とともに上京したところ、間もなく竹殿に逃げられてしまったのではないかと思います。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11016

と書いてしまいましたが、実は親広の京都守護としての上京は建保七年が二度目だったようです。
一度目の時期ははっきりしないのですが、上杉著には建暦三年(建保元年、1213)五月の和田合戦に関連して次の記述があります。(p137)

-------
 なお、八日には、義盛蜂起の報を聞いて京都から駆けつけてきた親広が鎌倉に到着している。父広元が義盛の襲撃対象の一人とされたことを、おそらく親広は察していただろうが、反乱鎮圧を知って、親広はさぞかし安堵したにちがいない。この頃の親広は、建保二年のものと推定される年欠六月三十日大江親広請文(「諸尊道場観集紙背文書」、鎌補六四八。越前国守護大内惟義からの大番役勤仕に関する書状に対する請文)より、中原季時(親能の子)とともに京都守護の任について在京していたと推測される。また、建保二年九月二十六日の実朝将軍家政所下文(「金山寺文書」、鎌二一二八)にも政所別当親広の花押が欠けており、親広の在京を示唆している。
-------

広元の人生において、最初のピンチは建久二年(1191)から翌年にかけての無断任官問題ですが、これは頼朝に怒られただけで、別に生命の危機ということではありません。

大江広元と親広の父子関係(その2)〜(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10992
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10993
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10995

しかし、和田合戦では「憎むべき義時と連携し、自らの上総介任官を妨害した広元に対する怨念」(p133)を抱いていた和田義盛が広元邸を襲撃しており、こちらは本当に生命の危機ですね。
ま、それはともかく、改めて竹殿の生年を考えてみると、竹殿の母の「姫の前」は建久三年(1192)九月に義時と結婚し、翌四年に名越朝時を産んでいるので、竹殿の生年の上限が名越朝時と同じ建久四年(1193)だとして、下限は比企氏の乱が起きた建仁三年(1203)ですね。
とすると、親広が和田合戦の前に京都守護として上洛していたとして、建暦三年(建保元年、1213)時点で竹殿は十一歳から二十一歳の間ということになりますから、当時の上流武家社会の女性の結婚適齢期が十五歳くらいからであることを考えると、生年が早ければ、竹殿も親広とともに上洛していた可能性はありますね。
ただ、私としては、竹殿と離縁した親広を義時が再び京都守護に送り込むのは不自然のような感じがするので、やはり二度目の上洛以降に離縁したのではないかなと思います。
あまり若い時期に離縁・再婚というのも変ですからね。

>筆綾丸さん
>論語の「知者楽水」

群馬県甘楽町には織田信長の子孫が藩主であった小幡藩の庭園「楽山園」があり、荒廃して畑になっていたのを近年綺麗に復原して「織田宗家ゆかりの大名庭園」として公開しているのですが、この名前の由来が論語の「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」ですね。

「国指定名勝 楽山園」
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/bunkazai/map/20120330191558.html

改姓を求める広元の請状に対し、上卿として「いいよ」と言ったのは「正二位行中納言藤原朝臣隆衡」ですが、この人は『とはずがたり』に登場する後深草院二条の祖父・四条隆親の父で、こんなところでお目にかかるとは、と思いました。
隆衡の正室は後鳥羽院の縁者として権勢を振るった坊門信清の娘であり、北山准后・四条貞子(1196-1302)と隆親(1203-79)も正室の子ですね。
ま、だから何なのだ、と言われそうですが、系図マニアとしてはいろいろ気になります。

四条隆衡(1172-1255)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A1%A1

7230:2021/12/09(木) 16:01:53
正四位下行陸奥守蛇足広元
小太郎さん
広元と親広の同時改姓から竹殿の離婚時期を推量したにすぎないのですが、よく考えてみると、請状の「早復本姓 可繼絶氏」が理由であるならば、建保四年(1216)、すでに老い先の短い七十近くの広元が改姓せずとも、実子の親広だけ改姓すれば済む話であって、広元の改姓など、不要不急のあらずもがなの蛇足であり、枯れ木も山の賑わいのようなものだ、とも思えます。とするならば、広元まで何故あえて改姓したのか、という疑問がありえてもいいような気がします。

7231鈴木小太郎:2021/12/10(金) 10:42:23
「義時娘の乳父で元は大江親広従者」の「因幡守広盛」について
>ザゲィムプレィアさん
亀レスになってしまいましたが、因幡守広盛についての私の考え方を述べます。
ザゲィムプレィアさんは、

-------
想像を交えて広盛の経歴を描いてみます。
そもそもは六位程度で通親に仕えていた。通親の猶子になった親広に何時のころからかに仕えるようになった。
竹殿が親広と結婚して接点が出来た竹殿の乳母と結婚、乳夫となった(鎌倉でのことでしょうか)。承久の乱後の親広の京都脱出には同行せず、通光に仕えるようになった。
竹殿の乳夫であり続けた。仁治三年(1242)に成功に応じたのですから、それなりに富裕だったはずです。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11013

とされますが、気になるのは藤原広盛の「広」です。
これはやはり大江広元から「広」字をもらったのではないか、即ち藤原広盛はもともと大江広元の従者であったのではないか、と私は考えます。
そして、比企氏とも密接な交流があった広元が比企氏の乱後に竹殿を引き取り、藤原広盛に乳父となるように指示して竹殿を養育させたのではないか。
竹殿が大江親広と結婚し、親広とともに上洛した際に藤原広盛も同行し、二人に仕えていたので、京都の人からみれば藤原広盛は親広の従者のように見えたのではないか。
しかし、承久の乱の前に竹殿が親広と離縁したので、藤原広盛は竹殿の再婚相手である土御門定通に仕えるようになっていて、結果的に承久の乱でも大江親広に従うことなく、親広に連座しての処罰を免れたのではないか。
他方、土御門定通は承久の乱で後鳥羽方に加担し、公卿でありながら武装して若干の軍事活動を行なったので処罰を受ける可能性はありましたが、乱の前に義時娘の竹殿と再婚していたため、全く処罰されず、正二位権大納言の地位もそのままです。
この点、同母兄の久我通光は義時追討の官宣旨に上卿としてかかわったために、処刑こそ免れましたが、内大臣を辞し、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)しており、その後も散位の状態がずっと続いていて、定通と対照的ですね。

「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10280

後深草院二条は『とはずがたり』において祖父・通光が太政大臣であったことを頻りに強調・自慢しますが、これは寛元四年(1246)、四半世紀も散位が続いた後の極めて唐突な人事であって、本人の実力ではなく、定通が後嵯峨天皇の即位に貢献したおかげです。

久我通光(1187-1248)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%85%89

そして、藤原広盛は久我通光ではなく土御門定通に仕えていたので、経済的にもそれなりに豊かな生活を続け、

-------
【宝治元年(1247)】五月から六月にかけて、前内大臣定通と北条義時娘との間の子、つまり重時の甥が関係した事件が二件起きた。ひとつは内裏最勝講結願日の五月二十二日、甥で山僧の顕雲阿闍梨が興福寺権別当覚遍僧正と陣中で闘乱し、翌日張本として顕雲方の因幡守広盛(義時娘の乳父で元は大江親広従者)が六波羅に召し出されたのである(『葉黄記』)。事件の発端は、おそらく公武の有力者と血縁関係を持つ顕雲・広盛側の驕慢から発したものとみられるが、彼らを庇う姿勢をみせず、すぐさま六波羅に召し出した重時の行為に、彼の為政者として私情に流されぬ優れた公平感覚が窺えるように思う。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012

という事態になったのだと思います。

>筆綾丸さん
>広元まで何故あえて改姓したのか

筆綾丸さんの基本的な発想が分からないのですが、改姓に拘ったのは明らかに広元であって、親広の意見は史料上は不明です。
結果的に親広は父親の意向に従って改姓したようですが、長年「源」に親しんでいた親広としては、広元の唐突な改姓騒動が迷惑に感じられたのかもしれません。
親広にとって、承久の乱で後鳥羽方につくことは幕府への反抗とともに父への反抗を意味しましたが、あるいは改姓騒動は横暴な父に対する親広の反発を生んだきっかけだったのかもしれないですね。

7232:2021/12/10(金) 16:17:46
筋悪
小太郎さん
将棋でいうと、師匠から破門されてもおかしくないような筋の悪い手でしたね。

7233ザゲィムプレィア:2021/12/11(土) 00:11:55
Re:「義時娘の乳父で元は大江親広従者」の「因幡守広盛」について
小太郎さんの意見を読んで考えたことについて質問させて下さい。
なお考察が複雑になり過ぎないように、以下の条件を付けて考えました。
・姫前の義時との離婚と源具親との再婚は比企氏の乱の前
・竹殿は姫前の京都行に同行せず鎌倉に居住
・義時と竹殿の関係は不明だが、少なくも政略結婚の玉としてそれなりに処遇していた

?義時自身が(a)姫前が京都行を決めた時点で或いは(b)比企氏の乱の後で、竹殿の保護者にならなかったのは不自然だと思いますが、いかがでしょう。
 (a)について、姫前の母か姉妹が竹殿の養育を引き受けた可能性はあると思います

?定通と通光は兄弟とはいえ互いに独立していたと認識しています。因幡知行国主の通光が定通の家人を国司にしなかっただろうと思いますが、いかがでしょう。

7234鈴木小太郎:2021/12/11(土) 12:24:27
「因幡守広盛」補遺
今まで「姫の前」所生の朝時が建久四年(1193)生まれと書いてきましたが、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を見ると、「次兄は先に述べた同母兄の朝時。建久五年生まれで、四歳年上。相模次郎・陸奥次郎を称している。名越流の祖」(p3)とあります。
森氏の見解の根拠が何なのか気になるので後で確認したいと思いますが、朝時の生年の異同が今まで述べてきた私見に影響を与える訳でもありません。
義時と「姫の前」の結婚は建久三年(1192)九月二十五日なので、竹殿の出生の上限は建久四年(1193)ですね。

北条朝時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82

>ザゲィムプレィアさん
順番は前後しますが、若干のコメントを。

>義時と竹殿の関係は不明だが、少なくも政略結婚の玉としてそれなりに処遇していた

「姫の前」所生の朝時・重時の経歴を見ると、比企氏の乱が特に障害となったとも思えません。
朝時の場合、『吾妻鏡』建永元年(1206)十月二十四日条に元服記事があります。
また、朝時は時政の名越邸を受け継いでいますが、これも時政失脚の経緯を考えれば義時の了解なしにはありえない話で、ある意味、義時は朝時を北条氏の嫡流のような扱いにしているとも言えます。
重時の場合、何故か『吾妻鏡』には元服記事がありませんが、こちらは得宗家に反抗的だった朝時とは異なり、順調に出世して、幕府の重職に就いています。
竹殿も「政略結婚の玉」かどうかはともかく、大切に処遇されていたのでしょうね。

>竹殿は姫前の京都行に同行せず鎌倉に居住

離婚後、母親が子供を育てることが多いというのは現代日本社会の通例ではあっても、鎌倉の武家社会ではたぶん違うでしょうね。
そもそも上流公家・武家の場合、実の母親が育てること自体、一般的でもないように思います。

>義時自身が(a)姫前が京都行を決めた時点で或いは(b)比企氏の乱の後で、竹殿の保護者にならなかったのは不自然

竹殿の処遇は義時が決めたとは思いますが、義時くらい偉くなると、娘を自ら養育するのではなく、養育者を指示する立場だったように思います。
義時が広元に竹殿を頼むよと言って、広元が藤原広盛に、という関係では。

>姫前の母か姉妹が竹殿の養育を引き受けた可能性

比企氏の乱の前に「姫の前」が義時と離縁したと考える私は、別にその可能性は否定しません。
しかし、その場合であっても、比企氏の乱後の戦後処理はかなり厳しく、女性は殺されはしなくても経済的基盤は失ったでしょうから、竹殿の養育者が変更された可能性が高いように思います。

>定通と通光は兄弟とはいえ互いに独立していた
>因幡知行国主の通光が定通の家人を国司にしなかっただろう

通光の人生は承久の乱を境に一変しており、承久三年(1221)七月、三十五歳で内大臣を辞してから四半世紀も散位だったのが、寛元四年(1246)十二月、突如として太政大臣に任ぜられ、そして従一位に叙せられます。
通光はそれなりに荘園を確保していたので、直ちに経済的に窮乏したということはないでしょうが、そうかといって家政機関が人材豊富という訳でもなかったろうと思います。
そして、国司の任命とはいっても、実際にはきちんと知行国主としての得分を上納してくれればよいだけの話ですから、広盛が有能であれば、定通の家人程度の縁であっても、国司に任ずることは別におかしくはないと思います。

7235ザゲィムプレィア:2021/12/11(土) 23:05:57
Re:「因幡守広盛」補遺
小太郎さん
「条件」まで含めて、懇切に回答していただいてありがとうございました。

7236鈴木小太郎:2021/12/12(日) 09:54:04
佐藤雄基氏の論文の検討は止めて、暫く中世史を離れることにします。
年頭の「新年のご挨拶(その2)」で、

-------
『太平記』について書くべきことは一応見込みがついたな、と思った直後に出会ったのが佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)で、私にとってこの論文はゲームの終盤に意外なところから登場した最大最強の難敵、ラスボスのように思えました。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10513

などと書き、その後も折に触れて同論文、そして同じく佐藤氏の「鎌倉幕府政治史三段階論から鎌倉時代史二段階論へ:日本史探究・佐藤進一・公武関係」(『史苑』81巻2号、2021)に言及してきました。

赤橋種子と正親町公蔭(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10611
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10870
「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10877
「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」(by 本郷和人氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10878
承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10880

中世国家論をめぐる長い放浪の後、やっと佐藤氏の二つの論文を検討する準備が整ったのですが、都合により佐藤論文の検討は中止しようと思います。
私の場合、ひとつの大きな課題について、七割くらい先が見通せるときに進んで行くと、目的を一応達成できて、途中での副産物もそれなりに得られる、というパターンが多いのですが、今回はどうも気分が乗りません。
先が見通せないということではなく、全く逆に、佐藤氏の見解に対する自分の立場が既に固まってしまっていて、書く前から自分にとって新鮮味がない、という珍しいパターンです。
そこで、暫く中世史から離れて、別の話題を論じることにしようと思います。
来年になれば大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も始まり、それなりに中世史に関する話題も出てくるでしょうから、また新たな気持ちで中世史を論じることができそうです。

>ザゲィムプレィアさん
私見でも一応の説明がつきましたが、藤原広盛についての新しい史料が出てくれば全く別の話にもなりそうですね。

7237鈴木小太郎:2021/12/13(月) 11:29:59
私も「新しい資本主義」について考えてみた。
ということで、暫く中世史をお休みして、唐突に別の話題に移りたいと思います。
具体的には何かというと、「新しい資本主義」ですね。
わはは。
大きく出ましたが、経済の専門知識が全くない私にとって、これ以上無謀な課題はなさそうなので、やりがいはあります。
真面目で建設的な提案になるのか、壮大な冗談となるのか。
後者の可能性が高そうではありますが、ま、ボチボチと進めたいと思います。
さて、出発点はやはり岸田政権が設置した「新しい資本主義実現本部」内の「新しい資本主義実現会議」の資料とします。
一番基本的な資料は、令和3年10月26日に開催された「新しい資本主義実現会議(第1回)」の「資料3 新しい資本主義の実現に向けて(論点)(PDF/403KB)」というものですが、何故か「内閣官房」サイトにリンクを張るとteacup掲示板に投稿できません。
そこで、当該資料の冒頭部分をコピペしておきます。

-------
新しい資本主義実現に向けた論点

・これまでの政府の取組により、経済面での成果が生み出される一方、いまだ低い潜在成長率や、コロナ禍で顕在化したデジタル対応の遅れ、非正規・女性の困窮などの課題、さらには気候変動など経済社会の持続可能性の確保、テクノロジーを巡る国際競争の激化といった新たな構造的課題を踏まえ、我が国が目指していく新しい資本主義の姿は如何にあるべきか。

・成長と分配の好循環について、分配の原資を稼ぎ出す「成長」と次の成長につながる「分配」を同時に進めることが、新しい資本主義を実現するためのカギ。諸課題の解決に向けて、「政府」、「企業(経営者、働き手、取引先)」、「イノベーション基盤(大学等)」といった各主体が果たすべき役割、「国民・生活者」の参画の在り方、官民それぞれが役割を果たす中での協力の在り方とは何か。
-------

さすがに立派な文章ではありますが、前提条件に、ちょっと気になる点があります。
それは戦争の可能性への言及が全くないことです。
「気候変動など経済社会の持続可能性の確保」という表現はありますが、昨今の国際情勢に鑑みると、気候変動などよりも米中間の国際紛争や北朝鮮の暴発の可能性など、戦争の危険性の方がよほど「経済社会の持続可能性」に影響を与えそうです。
戦争の危険性が高まれば、この文書に並ぶ美辞麗句など全て吹き飛んで、新たな「総力戦」のために国家の資源を集中しなければなりません。
とすると、「新しい資本主義」実現のためには、戦争の回避のために我が国は何をなすべきか、という観点が不可欠のように思われます。


※「内閣官房」へのリンクを張ると、何故かteacup掲示板に投稿できなくなります。
投稿保存用のgooブログの方では普通にリンクできるので、こちらの方が見やすいはずです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/afa650289cf2a6a6e6377a31a4350d95

7238鈴木小太郎:2021/12/14(火) 11:48:56
櫻井彦氏『信濃国の南北朝内乱』について
私も中世史は掲示板でひと休みすることにしただけで、来年に備えてストレッチ程度の勉強は続けるつもりです。
そして、その手始めに先日購入した櫻井彦氏(宮内庁書陵部図書課主任研究官)の『信濃国の南北朝内乱 悪党と八〇年のカオス』(吉川弘文館、2021)を読み始めたところですが、この本はちょっと問題がありますね。

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一般に約60年続いたといわれる南北朝内乱だが、西国と東国の境界である信濃国は終息までさらに20年を費やした。自らの権益を主張するため幕府や領主へ武力行使し、地域社会のなかでも軋轢を生じさせた悪党たちが全国各地に展開した時代。しかし、信濃国では様相をやや異にしていた。当地の地域集団の行動に光をあて、内乱長期化の要因に迫る。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590523.html

「歴史文化ライブラリー」シリーズは何故かきちんとした章立てをしないので全体の構成を把握するのに不便ですが、最初にびっくりしたのは実質的な第二章「悪党たちの胎動」の実質的な第一節「鎌倉幕府の成長と北条氏」に出て来た次の文章です。(p58以下)

-------
乱後の変化
 承久の乱に勝利した幕府は、東国御家人の全国的な展開によって生じた諸問題など、新たに抱えることになった多くの課題に対応する必要があった。そのため京都の治安維持を名目として朝廷の動きを警戒するために設置した六波羅探題には、合わせて西国の訴訟も処理させた。また頼朝以来の慣習法や判例に則った成文法「御成敗式目(貞永式目)」を貞永元年(一二三二)に整備し、御家人に関係する裁判などの基準としている。
 一方で、朝廷がこのときの敗北で蒙ったもっとも大きな代償は、皇位継承に関して幕府の意向が働くようになったことであろう。幕府は挙兵前に即位していた仲恭天皇を廃し、比較的穏健な態度を示していた土御門上皇の皇子から、邦仁親王を皇位に即けた(後嵯峨天皇)。これ以後、皇位継承に幕府が関与していくことになり、のちに南北朝内乱がはじまる一因ともなったのである。
-------

うーむ。
承久の乱後に「挙兵前に即位していた仲恭天皇」に代わって幕府が皇位に就けたのは後堀河天皇ですね。

後堀河天皇(1212-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

「皇位継承に関して幕府の意向が働くようになった」のは承久三年(1221)の後堀河践祚が初例ですが、その二十一年後の仁治三年(1242)、後堀河を継いだ四条天皇(1231-42)が僅か十二歳で急死してしまいます。
この年の正月五日、四条天皇は近習や女房を転倒させて笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、そのまま寝込んで四日後の九日に死んでしまったとのことで、歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいですね。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9230

そして、誰が皇位を継ぐかが問題となり、九条道家らを中心とする朝廷側の大勢は順徳院皇子の忠成王を即位させるべく準備していたところ、幕府が強引に「比較的穏健な態度を示していた土御門上皇の皇子から、邦仁親王を皇位に即けた」訳です。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9231

まあ、この件は壮大なうっかりミスで済みますが、楠木正成の出自については洒落にならないですね。
実質的な第三章「建武政権の成立と崩壊」の実質的な第一節「討幕運動のなかの悪党たち」に次のような記述があります。(p95以下)

-------
楠木氏の活動
 そして河内国を拠点とする楠木氏の活動の痕跡が確認できる事件として、正成と後醍醐の出会いから四〇年近くさかのぼった永仁二年(一二九四)に、播磨国大部荘(兵庫県小野市)で発生した悪党事件がある。翌年荘内の百姓たちが提出した申状(上申書)によれば、荘園管理を請け負っていた垂水繁昌は、荘園領主東大寺との契約を違えて職務を解かれると、武装して数百人の悪党たちを引き連れて荘内に乱入したという。
【中略】
 正成の父は、猿楽能を確立したとされる観阿弥とも関係を有していたらしい。観阿弥は、伊賀国服部郷(三重県伊賀市)を本拠とする御家人服部氏の一族とされている。そして、その出自にかかわる伝承を比較的正確に反映させた系図とされる上嶋家本「観世系図」によれば、観阿弥の母は「河内国玉櫛庄橘入道正遠女」という。正遠は正成の父と伝えられ、正成の父は河内国玉櫛荘(東大阪市)を拠点として、伊賀国の人物とも交流していたことになる。摂関家領であった玉櫛荘は水陸交通の要衝とされており、そこを拠点とした正遠自身も、流通にかかわる人物として、垂水繁昌の「夫駄」挑発に協力した可能性があるだろう。
-------

うーむ。
現在では上島家の「伊賀観世系譜」は楠木氏の「出自にかかわる伝承を比較的正確に反映させた系図」ではなくて、偽系図であることがはっきりしていますね。
この偽系図は多くの小説家や評論家、著名な経済人(鹿島守之助)のみならず、あの平泉澄まで騙しているのですが、最近では梅原猛氏が引っかかって、『うつぼ舟? 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)という本を書いています。
この本は「梅原古代学」の駄目な部分を圧縮したような本ですが、従来の「伊賀観世系譜」肯定説のエッセンスを分かりやすく纏めていることは確かで、随想に止めていればそれほど問題はなかったはずです。
しかし、梅原氏は能楽研究の第一人者である表章(おもて・あきら)氏を無駄に挑発してしまって、表氏が『昭和の創作「伊賀観世系譜」 梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社、2010)という本で猛烈に反撃し、梅原説を完膚なきまでに叩き潰して、結局、梅原氏は一言も反論できないまま、この「論争」は終息しました。
まあ、「伊賀観世系譜」はあまりに出来過ぎだったので、国文学系の能楽研究者のみならず、多くの歴史研究者も疑いの目で見ていたのですが、表章氏が偽造の経緯や偽造者まで特定してしまった結果、既に学問的には決着のついた問題となっています。
私としては、まさか2021年になって「伊賀観世系譜」を信頼する歴史研究者に出会うとは思ってもいませんでした。
しかも、櫻井氏の書きぶりでは櫻井氏は梅原・表「論争」の存在すら御存知ないようで、何ともはや、という感じです。

「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10757
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10758
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10759
六月半ばのプチ整理(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10761

7239:2021/12/14(火) 14:51:26
人新世(アントロポセン)の宗教
小太郎さん
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
斎藤幸平氏のベストセラー『人新世の「資本論」』と岸田首相の「新しい資本主義」は、「新」と「資本」が共通しているので、同じ主張なのだろう、と誤解する人がいるかもしれませんね。

本郷和人氏『北条氏の時代』に、
----------
楠木正成の出自には様々な説があります。
(中略)
そんななか中世史研究者の筧雅博氏は、楠木家はそもそも駿河の御家人であり、得宗被官だったのではないか、との説を発表しました。楠木は駿河の地名であり、楠木氏は霜月騒動で畿内に所領をもらって、西に移住し河内で一定の勢力を築いたというのです。私は、この説は非常に有力だと考えています。(277頁〜)
----------
とあって、駿河の御家人で西に所領をもらって移住した者としては鮫島氏(鹿児島)などが有名なようですが、不勉強のため筧説は初めて知りました。

ザゲィムプレィアさん
渡辺正峰氏の『脳の意識 機械の意識』を拾い読みしてみましたが、「不老不死の意識」というのは、サイエンスではなくて、たんに死ぬのが怖いだけのことなんだろうな、と思いました。新興宗教の教祖になれるかもしれません。
死後の世界は存在する、と仮定すれば、意識を機械にアップロードして不老不死にする必要はないように思われますね。

7240ザゲィムプレィア:2021/12/14(火) 23:43:52
Re:人新世(アントロポセン)の宗教
筆綾丸さん

『脳の意識 機械の意識』を紹介して頂き、有難うございます。
タイトルは『脳の意識 機械の意識』だが、内容は「不老不死」の記述が多いということですか。

7241:2021/12/15(水) 09:38:05
パプリカ
ザゲィムプレィアさん
大半は「科学的」な話ですが、私にはサイエンスとは思えないのです。
筒井康隆のSF小説『パプリカ』(1993年)に、たしか、スキゾフレニア(分裂病)を正常な脳に「移植」する話があったように覚えていますが、あれと似た話かな、と思います。

7242鈴木小太郎:2021/12/15(水) 11:06:48
読んでもいない『人新世の「資本論」』の感想
>筆綾丸さん
>『人新世の「資本論」』

未読ですが、『クレア』という雑誌に出ている漫画家のヤマザキマリ氏との対談で一応のエッセンスは掴めそうですね。
この中で斎藤氏は、

-------
【前略】資源やエネルギーを大量消費する資本主義がこのまま続けば、近い将来、取り返しのつかない気候変動が確実にやってきます。2100年には地球の気温が平均4度近くも上がると予想され、干ばつで世界の食糧生産量が激減します。わずか30年後の2050年の予想でも、海洋面の上昇によって数千万人規模の難民が発生する可能性が指摘されています。
 そうなったときには食料自給率が3割台の日本は、致命的な影響を受けるでしょう。コロナ禍でマスク不足が問題になりましたが、家から出なければ済むマスクとは違い、食料枯渇は命に直結します。気候変動はコロナよりはるかに大きい影響を人類全体に引き起こすんです。
 自分たちの子どもや孫の世代に「なぜあの時、止めてくれなかったんだ」と嘆かれることにならないよう、私たちには資本主義に緊急ブレーキをかける倫理的責任がある。そのことを本書で伝えたかった。

https://crea.bunshun.jp/articles/-/30750

と言われていますが、2100年まで日本が平和に存続していることを前提としているようで、ずいぶんのんびり屋さんですね。
私には世界全体で「海洋面の上昇によって数千万人規模の難民が発生する可能性」よりも、その前に戦争が起きて大量に難民が発生する可能性の方がずっと大きいように思われます。
特に日本はアメリカと中国に挟まれているので、両国の関係がこのまま悪化を続ければ戦場になる危険性は極めて高いですね。
その場合、難民になれればまだマシで、かつてナチスドイツとソ連の間に位置したが故に粉々に摺りつぶされてしまった中東欧の諸民族と同様の運命が我々を待っている可能性も相当あります。
ただ、戦争は地球環境の面では良いことであって、戦争によって世界の人口が大量に減少すれば「2100年には地球の気温が平均4度近くも上がる」こともなく、「世界の食糧生産量」もそれほど大量に必要とはされず、「数千万人規模の難民が発生する可能性」もなくなるでしょうね。
「難民」になる前に既に死んでいることになりますから。
「気候変動はコロナよりはるかに大きい影響を人類全体に引き起こす」かもしれませんが、その前に戦争が起きてくれれば、「自分たちの子どもや孫の世代」の数自体が大幅に減少するか、あるいは消滅することになるので、「「なぜあの時、止めてくれなかったんだ」と嘆かれること」もなくなりそうです。
嘆く主体が存在しなくなる訳ですからね。
また、「私たちには資本主義に緊急ブレーキをかける倫理的責任がある」といっても、例えば中国は「緊急ブレーキ」をかけるはずもなく、他国が「緊急ブレーキ」をかけている間に着々と中国なりに変形させた「資本主義」のアクセルを踏み続けるでしょうから、その場合、仮に戦争が起きなくても、中国が世界の覇権を握り、日本は中国が許容してくれる範囲で細々と存在を認めてもらう立場になりそうです。
人権もへったくれもない素晴らしい中華世界の属国として、奴隷として生きるのも一つの選択肢ではありますね。
対談相手のヤマザキマリ氏は「リチウムの最大産出国であるチリ」で「最終的にはアンデス・フラミンゴの個体数が減ってしまった」ことや「ヨーロッパ南部の砂漠化」や「ヨルダンでは都市部に水を供給する水源が枯渇しつつある土地も少なくな」いことを心配された後、

-------
世界ではこれだけの問題が顕在化しているというのに日本ではニュース番組で取り上げられることもない。自分の国にしか関心が無く、世界で発生している問題を「対岸の火事」と考える人が多いのが心配です。
-------

と懸念されていますが、世界の人たちも、仮に米中間の対立で日本が戦場となったような場合、「対岸の火事」として傍観しないで日本を助けてくれるかと言うと、その保証もなさそうです。
そして、二人は日本には「真の民主主義」が存在しないという点で意気投合して、斎藤氏は、

-------
 本書の中でも引用した『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を書いたデヴィッド・グレーバーという文化人類学者は、「民主主義の起源はギリシャだと思われているが、それは西洋中心主義に基づく真っ赤な嘘だ」と述べています。ギリシャは中央集権的な奴隷制で、そんな場所で本物の民主主義が育つわけがないという主張です。
 むしろ海賊やアメリカ大陸の先住民といった国家の外部にこそ民主主義が見られる、とグレーバーは書いています。
-------

などと言われますが、デヴィッド・グレーバー理論はちょっと莫迦っぽくて、それに賛同する斎藤氏も莫迦っぽく、更に斎藤氏の説明に納得してしまうヤマザキマリ氏も莫迦っぽいですね。
さて、斎藤氏は、

-------
『人新世の「資本論」』では『資本論』で知られるカール・マルクスの再評価を行っているわけですが、マルクスの考える民主主義は、「コミュニズム」が基本です。コミュニズムとは「富」を「コモン」(公共財)として民主的に管理する社会を指します。具体的には水や土地、エネルギーのような環境資源、教育、医療制度など。
 資本主義社会で起きているさまざまな問題は、これら「コモン」を個人や私企業が営利目的で寡占し、必要な人々に行き渡らなくなっていることで起きているとマルクスは考えました。

マルクスのコミュニズムは、資本主義によって収奪されたコモンの領域を民衆の手に取り戻し、共同で管理することを目指す思想です。難しい概念のように思われますが、じつは単純で「各人はその能力に応じて与え、各人はその必要に応じて受け取る」という考え方なんです。
-------

などと言われる訳ですが、「各人はその能力に応じて与え、各人はその必要に応じて受け取る」社会を実現するためには強大な国家権力が必要と考えた人たちがいて、実際にそうした国家を作ろうと壮大な実験をしたはずです。
でも、その結果はどうだったのか。
斎藤氏の頭の中には、あるいは強大な国家権力を必要としないで「各人はその能力に応じて与え、各人はその必要に応じて受け取る」社会を実現する方策が浮かんでいるのかもしれませんが、単なる妄想の可能性が強そうですね。
ま、読みもしないで批判するのもどうかと思うので、一応目を通してみることにします。

7243:2021/12/15(水) 20:50:16
人間の終わりまで
小太郎さん
斎藤幸平氏の話は redundant で、私は半分ほど読んで挫折しました。ご指摘のとおり、戦争への言及は全くありませんね。

ザゲィムプレィアさん
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90275?page=4
欧米の理論物理学者には、意識を量子力学で説明しようとする人が多いような気がしますね。私はこちらのほうに惹かれます。

7244鈴木小太郎:2021/12/16(木) 09:23:25
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)
>筆綾丸さん
読まずに批判するのは私の主義に反するので、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020)をざっと読んでみました。

-------
【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!
【各界が絶賛!】
■佐藤優氏(作家)
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である。
■ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。
■白井聡氏(政治学者)
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/

新書版ながら全部で375頁という結構な厚さですが、小見出しを見れば内容を把握できる部分も多いですね。
それでも一時間ほどかけて全体を眺めてみて、まあ予想通りの本だな、という感じでした。
そもそも私はタイトルの「人新世」が読めず、「じんしんせい」かと思っていたら、これは「ひとしんせい」だそうですね。
「はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!」に、

-------
 人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世〔ひとしんせい〕(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
-------

とあります。
読みづらい「湯桶読み」を強いる斎藤氏の言語感覚には若干の疑問を感じないでもありません。
そして Anthropocene の発音がまた分かりませんが、「アントロポシーン」とか「アントロポセン」とか「アンソロポシーン」などと読まれているそうです。

人新世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96

ま、それはともかく、全体の構成は、

-------
はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第1章 気候変動と帝国的生活様式
第2章 気候ケインズ主義の限界
第3章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章 「人新世」のマルクス
第5章 加速主義という現実逃避
第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために
-------

となっていて、第6章までは資本主義への批判と「脱成長コミュニズム」の提唱、そして讃美が続きます。
ま、私にはあまり納得できない議論でしたが、百歩譲って「脱成長コミュニズム」への転換という理念は認めたとしても、それをどのように実現するのか、という問題があります。
この点、斎藤氏は「第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、

-------
▼脱成長コミュニズムの柱?─労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
 使用価値経済への転換によって、生産のダイナミクスは大きく変わる。金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らすからである。そして、社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を意識的に配分するようになっていく。
 例えば、マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタントや投資銀行も不要である。深夜のコンビニやファミレスをすべて開けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。
 必要のないものを作るのをやめれば、社会全体の総労働時間は大幅に削減できる。労働時間を短縮しても、意味のない仕事が減るだけなので、社会の実質的な繁栄は維持される。それどころか、労働時間を減らすことは、人々の生活にとっても、また自然環境にとっても好ましい影響をもたらす。マルクスも『資本論』のなかで、「使用価値」の経済に向けた転換のためには、労働時間の短縮が「根本条件である」と述べていた。
-------

などと書かれています。(p302以下)
しかし、そもそも「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と「社会の再生産にとって本当に必要な生産」を誰がどうやって選別するのか。
そして、その選別がなされたとして、「金儲けのためだけの、意味のない仕事」に従事する人々、具体的には「マーケティング、広告、パッケージング」業界や「コンサルタントや投資銀行」で働いている人々をどう処遇するのか。
斎藤氏は「国家」を全面的に否定する立場ではないそうなので、選別の過程に「市民」の参加があるにしても、結局は「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と「社会の再生産にとって本当に必要な生産」の選別は「民主的」に「国家」の法律によることになるはずです。
そして、そこで「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と認定された仕事に従事する人々は、「職業選択の自由」(憲法第22条)を奪われ、「社会の再生産にとって本当に必要な生産」への従事を要請されることになるのでしょうね。
そして、俺はそんなの嫌だ、という人は、「市民」の非難に曝され、結局のところ国家権力によって「金儲けのためだけの、意味のない仕事」から強制的に排除されることになろうかと思います。
それでもなお反抗する人は、収容所に入れられたり処刑されたりするのかは分かりませんが、まあ、あまり愉快ではない人生を送ることになるでしょうね。
とすると、収容所や処刑を伴うかどうかは別として、斎藤氏の描く「脱成長コミュニズム」の素晴らしい未来は、実際には自由のない、かなり悲惨な世界になりそうです。
そして、そうした世界において、例えば漫画家・文筆家のヤマザキマリ氏などは「金儲けのためだけの、意味のない仕事」に従事していると認定されない保証はあるのか。
まあ、いろいろ考えると、斎藤氏は結局は「環境スターリン」なのではないかな、という感じがします。

7245:2021/12/16(木) 13:55:51
ブルシット・ジョブ?
小太郎さん
斎藤氏は、僕の言うとおりにすれば社会(世界)はよくなる、としながら、具体的な処方箋はなにも提示していませんね。
グレーバーの「ブルシット・ジョブ」という語は初めて知りましたが、斎藤氏は、自分の職業や集英社から新書を出すことはブルシット・ジョブかもしれない、と考えたことなど微塵もないのだろうな、と思いました。

7246ザゲィムプレィア:2021/12/16(木) 21:29:06
Re:人間の終わりまで
「心と意識の謎は量子物理学で解き明かされるのか?」の御紹介されたページを一応読んでみました。

まず、タイトルの「量子物理学」という語を初めて見ました。ググってみたのですが期待する解説のページには当たらず、
Wikipedia日本語版の「物理学」の項目にある「量子力学を基礎とする応用理論一般を指して量子物理学と呼ぶことがある。」という記述が理解できました。
まだ物理学の世界で標準的な認識はなく個々の研究者が自分なりの定義で使っているようです。
なお、Wikipedia日本語版に「量子物理学」の項目はありません。

----------
この謎が謎になるのは、ひとつに確定した実在についてあなたが意識的に経験したことについて、あなたが何かを報告し、あなたの報告と量子力学の数学による予測とのあいだにミスマッチが生じるときだけだ。
----------
ここで謎と表現しているのは「意識は量子力学で語れるか」のことです。
まず、引っ掛かるのは「量子力学の数学による予測」です。これは、量子力学の方程式を用いて計算した結果のことでしょうか?
そもそも、日常生活の事象について量子力学で予測したことなど無いので、ミスマッチは生じません。そんなことをしている人がいるのでしょうか?

----------
そこで、量子力学のルールは、測定される電子にも、測定を行う装置を構成する粒子にも、その測定装置の表示を構成する粒子にも当てはまると考えよう。しかしあなたがその表示を見て、視覚情報が脳に流れ込むと、何かが変化する。標準的な量子の法則が当てはまらなくなるのだ。
----------
「視覚情報が脳に流れ込む」ですが、私は視覚とは一群の光子が目に受容されその信号が脳に伝わり処理されて発生源或いは反射元を認識する感覚のことと、理解しています。この表現は非常に違和感を感じます。
「何かが変化する」ですが、何が変化するのでしょうか?
「標準的な量子の法則が当てはまらなくなる」ですが、法則が当てはまるか否か判断する事象が適切に記述されていないと思います。
唐突に結論を提示されても受け入れられません。

こんな感じで、この記事を理解しようと試みることは非常に苦痛です。せっかく御紹介頂いたのですが、私にはこの記事は理解できません。

7247:2021/12/16(木) 22:32:29
原文と訳文
ザゲィムプレィアさん
引用した紹介記事は、引用しておいてなんですが、誰が書いたものかわからないので、ブライアン・グリーン本人の『時間の終わりまで』をお読みになれば、疑問は解消すると思います。
グリーンの最初の啓蒙書『The Elegant Universe』(1999)は、むかし、苦労しながら原文で読んだものですが、今はもう、そんな根性はないので、最新作『時間の終わりまで』は翻訳で読むつもりでいます。どこまで理解できるか、わかりませんが。

7248鈴木小太郎:2021/12/17(金) 12:07:55
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その2)
>筆綾丸さん
>グレーバーの「ブルシット・ジョブ」

岩波書店から『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』という上品なタイトルの翻訳が出ているそうですね。

-------
やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い――それはすべてブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のせいだった! 職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。

https://www.iwanami.co.jp/book/b515760.html

私は未読ですが、ウィキペディアにはグレーバーが五種類に分けたという「ブルシット・ジョブ」の具体例が出ていて、グレーバーの上品な分類名にもかかわらず、社会を円滑に動かすための重要な仕事が多いように感じます。

-------
取り巻き……受付係、管理アシスタント、ドアアテンダント
脅し屋……ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリスト
尻ぬぐい……粗雑なコードを修復するプログラマー、バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ
書類穴埋め人……調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライアンス担当者
タスクマスター……中間管理職

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96

特に「バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ」がいなかったら警察沙汰にも発展しそうで、これほど重要な仕事はなさそうです。
そもそも警察など犯罪者の「尻ぬぐい」が仕事の大半ですが、グレーバーはこれも「ブルシット・ジョブ」に分類しているのでしょうか。
グレーバーは去年、五十九歳で亡くなったそうですが、ウィキペディアの写真を見る限り、ネアンデルタール人に似た上品な顔立ちの人ですね。

デヴィッド・グレーバー(1961-2020)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

さて、斎藤氏はマーケティングや広告を「ブルシット・ジョブ」の代表に挙げていて、それらに対する憎悪は凄まじいですね。
「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」には、

-------
 現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。
 デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会になんの問題もないと感じているという。世の中には、無意味な「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れているのである。
-------

とあり(p314以下)、少し前の「第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」では、

-------
▼ブランド化と広告が生む相対的希少性
 さらに、生活の質や満足度を下げる希少性は、消費の次元にもある。人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の消費に駆り立てねばならない。
 無限の消費に駆り立てるひとつの方法が、ブランド化だ。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。
 その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化によって新規性が付け加えられていく。そして、ありふれた物が唯一無二の「魅力的な」商品に変貌する。これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。希少性と言う観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高いステータスを得ようとするのである。
 例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。
 ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。
 こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。
 しかも、この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケティング産業は、食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている。商品価格に占めるパッケージングの費用は一〇〜四〇パーセントといわれており、化粧品の場合、商品そのものよりも、三倍もの費用をかけている場合もあるという。そして、魅力的なパッケージ・デザインのために、大量のプラスチックが使い捨てられる。だが、商品そのものの「使用価値」は、結局、何も変わらないのである。
 果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。この悪循環は希少性のせいである。だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。それがマルクスの脱成長コミュニズムなのだ。
-------

といった具合です。(p255以下)
「マーケティング産業は、食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている」そうですが、市場調査みたいなものでそんな産業規模になっているはずはないので、これは具体的にはどのような業種を念頭に置いているのですかね。
また、「商品価格に占めるパッケージングの費用は一〇〜四〇パーセント」とありますが、化粧品のような特殊な例はともかく、例えば鉄鉱石のパッケージング(?)にそんな割合がかかるはずもないので、これもどのように算出しているのか。
ま、細かい話をすればキリがありませんが、要するに斎藤氏は「贅沢は敵だ」と言いたいのでしょうね。
斎藤幸平ならぬ斎藤憲兵は、人間の欲望を否定し、人類の全面的な人格改造を狙っているようですが、それも結局は地球環境のためなんでしょうね。

7249:2021/12/17(金) 16:49:33
此比浪速(大阪市大)ニハヤル物
小太郎さん
https://en.wikipedia.org/wiki/Bullshit_Jobs
原書の表紙は、はじめはクロスボウかなと思いましたが、磔刑のパロディなんでしょうね。
グレーバーの『Debt』(負債論)というタイトルを見て、甚だ失礼ながら、井原今朝男氏の朽ちかけた迷著『日本中世債務史の研究』を思い出しました。

翻訳者のひとり酒井隆史氏は、『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書 2021年12月15日)という本を押っ取り刀で出しましたが、これで一儲けしてやろうというような卑しい肚づもりは全くなく、世の中の不条理を嘆く清貧の研究者なんでしょうね。

7250鈴木小太郎:2021/12/17(金) 18:49:26
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その3)
>筆綾丸さん
『人新世の「資本論」』の「終わりに─歴史を終わらせないために」には、

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 マルクスで脱成長なんて正気か─。そういう批判の矢が四方八方から飛んでくることを覚悟のうえで、本書の執筆は始まった。
 左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないことになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに、「脱成長」という言葉への反感も、リベラルのあいだで非常に根強い。
 それでも、この本を書かずにはいられなかった。最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候変動と資本主義の関係を分析していくなかで、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが「人新世」の危機を乗り越えるための最善の道だと確信したからだ。
 本書を最後まで読んでくださった方なら、人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢が、「脱成長コミュニズム」だとうことに、納得してもらえたのではないか。
-------

とありますが(p359以下)、「本書を最後まで読ん」だ私は、「持続可能で公正な社会」を実現するためには「脱成長コミュニズム」だけは選択してはいけないな、と思いました。
斎藤氏は「ソ連は論外だ」(p129)などと自身の立場が旧来の共産主義とは違うのだと強調されますが、まあ、「脱成長コミュニズム」を現実化しようとすれば反対する人々を強権的に弾圧せざるをえず、結局のところ「ソ連の失敗を懲りずに繰り返す」ことになりそうですね。
エコ・マルクス主義みたいなのもずいぶん昔に流行っていて、それらとの違いも斎藤氏が強調するほど大きいものとは思えませんでした。
結局、私にとって『人新世の「資本論」』はさほど知的興味を惹く作品ではありませんでしたが、ただ、この種の本が40万部も売れるという現象には一応の検討が必要でしょうね。
この点、斎藤氏自身の分析はけっこう正確なのだろうなと思います。
『朝日新聞GLOBE』の2021年8月2日付記事によれば、

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斎藤さんは「コロナ禍で空気が変わった」とみる。経済が打撃を受けると、女性を中心とした多くの非正規労働者が真っ先に仕事を失った。一方、富裕層は株高の中で富を膨らませ、格差はさらに広がった。「今まであった社会的、経済的不平等が可視化され、過剰な生産と消費に基づいた資本主義社会がどれほど破壊的なものかを明らかにした」。斎藤さんのもとには「日頃感じていた疑問をえぐり出してくれた」といった感想が寄せられた。
もう一つの原動力は「ソ連を知らない」若者たちだ。「物心ついてから資本主義が自分の生活に恩恵をもたらしてくれたという経験が希薄で、社会主義的なものが悪いものだという体感もあまりない」世代と斎藤はいう。新自由主義の格差の問題をより自分事として実感する世代の少なからぬ人たちがマルクスの考えに共感している。

https://globe.asahi.com/article/14407032

とのことですが、特に後者は、まあ、そうだろうなと思います。
1987年生まれの斎藤氏も「ソ連を知らない」若者で、

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斎藤さん自身、旧ソ連の記憶はなく、むしろ人生で大きなインパクトがあったのは、リーマン・ショックであり気候変動問題であり、東日本大震災による原発事故だった。東京出身。私立の中高一貫校を卒業後、米国の大学に進学した。その学生時代、ハリケーン「カトリーナ」で甚大な被害を受けたニューオーリンズで炊き出しのボランティアに参加した。目にしたのは、スーパーの賞味期限切れの食料などを求めて集まる困窮した人々。いつも大学で接する裕福な白人の学生たちとのギャップに衝撃を受けた。「なぜこれほど豊かな社会なのに、これほど貧困が蔓延(まんえん)し、医療も受けられず日々の生活にも困るような人たちが大勢いるのか」。そんな資本主義に対する疑念がマルクス研究へと向かわせた。
-------

のだそうですが、アメリカに留学してマルクスにかぶれる、というのは本当に最近の現象ですね。
第一次世界大戦後の混乱で通貨が暴落したドイツに多くの留学生が集まり、その多くが共産主義にかぶれてしまった百年前と比較するのは古すぎるとしても、資本主義の権化であったアメリカの大学の多くは、ずいぶん極端な形で左傾化してしまったようです。
それにしても、「ブランド化」を蛇蝎のように嫌う斎藤氏が「私立の中高一貫校を卒業後、米国の大学に進学」というのは些か奇妙な感じがしますね。
現代社会において「希少性を人工的に生み出す方法」の最たるものは教育です。
ウィキペディアによれば斎藤氏が留学したのはウェズリアン大学だそうですが、知名度ではハーバード大学あたりに劣るとはいえ、通好みの超一流大学ですね。
「私立の中高一貫校」の同級生が行ったであろう東大や早稲田・慶應あたりが「スズキの軽自動車」だとしたら、ハーバードがベンツで、ウェズリアンは更にその上の「フェラーリ」でしょうか。
斎藤氏の学者としての実質的な「使用価値」(有用性)は『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の翻訳者である、

酒井隆史(1965年生。大阪府立大学教授。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了)
芳賀達彦(1987年生。大阪府立大学大学院博士後期課程)
森田和樹(1994年生。同志社大学大学院博士後期課程)

の諸氏あたりとさほど違いはないのかもしれませんが、ウェズリアン大学政治学部卒業、ベルリン自由大学哲学科修士課程修了、フンボルト大学哲学科博士課程修了という斎藤氏の学歴は「相対的希少性」の点では燦然と輝きますね。

斎藤幸平(1987生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%B9%B3

7251鈴木小太郎:2021/12/18(土) 11:44:41
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その4)
『人新世の「資本論」』の「はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!」には、

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 温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車をハイブリッドカーにした?
 はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。
 なぜだろうか。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう。
 では、国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくらなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。
 かつて、マルクスは、資本主義の辛〔つら〕い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。
-------

とありますが(p3以下)、宗教嫌いの点では、斎藤氏は旧来のマルクス主義の立場をきちんと踏襲されていますね。
ただ、数多くの「殉教者」を生んだマルクス主義がどこか宗教っぽい感じがするように、遥か昔、1883年に死んだマルクスを崇める斎藤氏の姿勢にも宗教の匂いが漂います。
それは特に「第四章 「人新世」のマルクス」に顕著ですね。
この章の冒頭には、

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▼マルクスの復権
 「人新世」の環境危機においては、資本主義を批判し、ポスト資本主義の未来を構想しなくてはならない。だが、そうはいっても、なぜいまさらマルクスなのか。
 世間一般でマルクス主義と言えば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。
 実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。
 ところが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっている。資本主義の矛盾が深まるにつれて、「資本主義以外の選択肢は存在しない」という「常識」にヒビが入り始めているのである。先述したように、アメリカの若者たちが、「社会主義」を資本主義よりも好ましい体制とみなすようになっているという世論調査のデータもある。
 ここから先は、マルクスならば「人新世」の環境危機をどのように分析するのかを明らかにし、そして、気候ケインズ主義とは異なる解決策へのヒントも提示していこう。
 もちろん、古びたマルクス解釈を繰り返すことはしない。新資料も用いることで、「人新世」の新しいマルクス像を提示するつもりである。
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という力強い宣言があります。(p140以下)
そして、この「新資料」についての説明が少し後に出てきます。(p147以下)

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▼新たな全集プロジェクトMEGA
 しかし、なぜ、二一世紀にもなって、マルクスの新しい解釈が可能なのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。古いものを新しい装いで繰り返しているだけではないか、と。実際、そんな本も多い。
 だが、実は、近年MEGA〔メガ〕と呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』(Marx-Engels-Gesamtausgabe)の刊行が進んでいるのだ。日本人の私も含め、世界各国の研究者たちが参加する、国際的全集プロジェクトである。規模も桁違いで、最終的には一〇〇巻を超えることになる。
 一方、現在日本語で手に入る『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)は、本当の意味の「全集」ではない。大月書店版に収録されなかった『資本論』の草稿やマルクスの書いた新聞記事、手紙などは膨大にある。大月書店版は、正しくは、「著作集」である。
 それに対して、はじめて公開されることになる新資料も含めて、マルクスとエンゲルスが書き残したものはどんなものでも網羅して、すべてを出版することを目指しているのがMEGAなのだ。
 なかでもとりわけ注目すべき新資料が、マルクスの「研究ノート」である。マルクスは研究に取り組む際、ノートに徹底した抜き書きをする習慣をもっていた。亡命生活でお金もなかったため、ロンドンの大英博物館で、毎日、本を借りては、閲覧室で抜き書きを作成したのである。
 その生涯で作成されたノートは膨大であり、なかには『資本論』には取り込まれなかったアイデアや葛藤も刻まれている。その意味で、貴重な一次資料なのである。
 ところが、こうしたノートは、これまで、単なる「抜き書き」として片づけられ、研究者たちによってさえ無視され、出版もされてこなかった。このノートが今、私を含めた世界中の研究者たちの努力によってMEGAの第四部門として全三二巻で、はじめて公にされるようになっているのである。
 そして、MEGAによって可能になるのが、一般のイメージとは全く異なる、新しい『資本論』の解釈である。悪筆のマルクスが遺した手書きのノートを丹念に読み解くことで、『資本論』に新しい光を当てることができるようになる。それが現代の気候危機に立ち向かうための新しい武器になるのだ。
-------

うーむ。
実に感動的な文章ですが、「MEGA〔メガ〕と呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』(Marx-Engels-Gesamtausgabe)」に向けられた「私を含めた世界中の研究者たちの努力」の様子は、別の書物を連想させます。
それはもちろん『聖書』ですね。
『聖書』の方が歴史が古いので、今までに編集・出版された版の数も多いのはもちろんですが、その研究に向けられた努力の質と量では、MEGA周辺の研究者たちも決して負けてはいない感じがします。
そして、1883年、今から138年前に亡くなったマルクスの「預言」は今なお斎藤氏を始めとする多くの研究者(信者?)を導き、「現代の気候危機に立ち向かうための新しい武器」さえ提供してくれる訳ですね。
現象面だけを見れば、これを「宗教」と言わずして何と呼ぶのか。
『人新世の「資本論」』を読んで、マルクス主義は「宗教」だなあ、と改めて思った私です。

Marx-Engels-Gesamtausgabe
https://ja.wikipedia.org/wiki/Marx-Engels-Gesamtausgabe

7252:2021/12/18(土) 12:18:31
お坊ちゃんとメガバイト
小太郎さん
甚だレベルの低い話で恐縮ですが。
斎藤氏の学歴の内、ウェズリアン大→ベルリン自由大→フンボルト大の約十年間、すべて奨学金で通過したのではないとすれば、生活費も含め、日本からの潤沢な仕送りが必要だったはずですが、その辺りの事情はどうなっているのでしょうね。
金持ちのお坊ちゃんは、ハリケーンの被害を見て、世の中にはこんな貧乏人もいるのか、と驚いたが(東日本大震災は留学中で見ていない)、革命家やテロリストやアサシンは怖くてなれないので、とりあえず(なんとなく)、マルクスの研究をしてみた、ということかもしれないですね。でも、『人新世の「資本論」』で儲けた印税は貧乏人にはあげないからね、と。

7253:2021/12/18(土) 13:21:16
moonlighting
https://www.bbc.com/news/world-59673952
はじめはイギリス人らしいジョークかと思いましたが、ソ連崩壊後、プーチンが副業(moonlighting)としてタクシードライバーをしていたのは本当なんですね。
三択の内、Doorman at a discotheque などは、斎藤氏なら、ブルシット・ジョブと侮蔑するのでしょうね。

7254鈴木小太郎:2021/12/19(日) 12:46:17
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その5)
『人新世の「資本論」』、全く役に立たないということはなくて、斎藤幸平氏がバッサバッサと斬り捨てる思想のうち、「加速主義」などは特に参考になりますね。
私は「加速主義」という言葉も知りませんでしたが、斎藤氏によれば次のような立場だそうです。
「第五章 加速主義という現実逃避」の冒頭から引用します。(p206以下)

-------
▼「人新世」の『資本論』に向けて
 ここまでの議論で明らかになったように、気候危機の時代に、必要なのはコミュニズムだ。
 拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私たち自身の手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わりを迎える。資本主義でない社会システムを求めることが、気候危機の時代には重要だ。コミュニズムこそが「人新世」の時代に選択すべき未来なのである。
 しかし、コミュニズムとひとくちにいっても、さまざまなものがある。本書は、晩年のマルクスの到達点と同じ立場を取って、脱成長型のコミュニズムを目指す。だがそれに対して、経済成長をますます加速させることによって、コミュニズムを実現しようという動きもある。それが、近年、欧米で支持を集めている「左派加速主義」(left accelerationism)だ。
 率直にいって、「加速主義」は晩期マルクスの到達点を知らずに突き進んだ異物にすぎない。「生産力至上主義こそがマルクス主義の真髄である」という一五〇年あまり続いた誤解の産物が「加速主義」なのだ。しかし、環境危機を憂う人々のあいだで、その可能性が真剣に議論されているのである。
 ここからは、この「加速主義」を反面教師として検討・批判していきたい。そうすることで、晩年のマルクス、そして本書の目指す脱成長コミュニズムの姿がよりイメージしやすくなるはずである。
 これが、この第五章の狙いである。
-------

「拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私たち自身の手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わりを迎える」というのは『人新世の「資本論」』の主旋律で、本当に何度も繰り返し登場しますが、まあ、要するに「終末論」なので、これもキリスト教に近いですね。
日本では大正期に流行った大本教を連想させます。

-------
「この現状世界が木っ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争(第一次大戦のこと)に引続いて起る日本対世界の戦争を機会として、いわゆる天災地変も同時に起り、世界の大洗濯が行はれるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。」
「日本対世界の戦争が何時から始まるかというと、それは今からわずか一、二ケ年経つか経たぬ間に端をひらきます。」
「時期は日に日に刻々と切迫して参りました。モウ抜差しならぬ処まで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねばなりませぬ。日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後の様な静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手してる時であります。」

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10009

中間整理(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10028

さて、斎藤著に戻って続きです。(p207以下)

-------
▼加速主義とはなにか
 加速主義は、持続可能な成長を追い求める。資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張するのだ。
 例えば、イギリスの若手ジャーナリスト、アーロン・バスターニはこの可能性を追求して、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」(fully automated luxury communism)を提起し、人気を博している。
 そんなバスターニも気候変動が人口増加と並んで、二一世紀における文明レベルでの危機的事態だと指摘する。とりわけ、途上国の人口増加と経済発展は、さまざまな資源消費量や、耕作しなくてはならない土地面積を増やし、地球に負荷をかける。これは、気候変動にとって取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。とはいえ、途上国の人々に対して、現在の暮らしで我慢しろと言うわけにもいかない。ここに、既存の環境運動の困難があるとバスターニは考える。
 ここまでは本書と共通する問題意識である。けれども、その先の見解は大きく異なる。近年著しい発展を見せている一連の新技術を利用すれば、こうした問題は一挙に解決できると、彼は考えているのだ。
 牛を育てるのには、膨大な面積の土地が必要となるが、どうするか? 工場で生産される人口肉で代替すればいい。では、人々を苦しめる病気はどうするか? 遺伝子工学によって解決可能である。オートメーション化は、人間を労働から解放してくれるが、ロボットを動かすための電力はどう確保するのか? 無限で、無償の太陽光エネルギーでまかなえばいい!
-------

ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。

>筆綾丸さん
>すべて奨学金で通過したのではないとすれば、生活費も含め、日本からの潤沢な仕送りが必要だったはずですが

「私立の中高一貫校」卒業までの教育費とアメリカ・ドイツの留学先での学費・生活費を通算したら、フェラーリの二・三台は買えそうですね。

7255鈴木小太郎:2021/12/19(日) 15:01:20
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その6)
続きです。(p208以下)

-------
 たしかに、リチウムやコバルトのようなレアメタルが地球上に存在している量は限られている。だが、バスターニによれば、それも心配無用だ。なぜなら、宇宙資源探索の技術が発達すれば、地球のまわりにある小惑星から資源が採掘可能になるからである。バスターニにとっては、自然的限界など存在しない。
 もちろん、これらの技術は現段階では汎用性はなく、商業化しても、採算は合わない。それでも、彼は楽観的である。「ムーアの法則」による指数関数的な技術開発のスピードによって、近いうちに、これらの技術が実用化されるようになると予測するのだ。
 そして、実用化が進んで、当該部門での生産力が上昇すると、最終的には、市場の価格メカニズムにとっても革命的な変化が生じるとバスターニは述べる。というのも、価格メカニズムは希少性が存在するところでしか作用しないからだ。例えば、空気は潤沢に存在しているので、空気には価格がつかない。空気と同様、太陽光や地熱も潤沢であり、化石燃料とは異なって、設備費の減価償却さえすめば、あとは無償のエネルギー源になる。
 指数関数的な生産力発展を推し進めていけば、あらゆるものの価格は下がり続け、最終的には、自然制約にも、貨幣にも束縛されることのない、「潤沢な経済」になる。それが、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」だと、バスターニは主張する。そこでは、人々は環境問題を気にすることなく、好きなだけ自由に、無償の財を利用することができるようになるだろう。
 バスターニにとっては、それこそが、「各人はその必要に応じて受け取る」というマルクスのコミュニズムの実現だというわけだ。
-------

うーむ。
面白いなとは思いますが、これが左翼だ、「コミュニズム」だと言われると、何だかよく分りません。
私は「加速主義」などという言葉すら知らなかったので、とりあえずウィキペディアを見てみると、斎藤氏の説明とはかなり異なる印象を受けます。

加速主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E9%80%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9

英語版には、

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The term "accelerationism" was first coined as a neologism by professor and author Benjamin Noys in his 2010 book The Persistence of the Negative to describe the trajectory of certain post-structuralists who embraced unorthodox Marxist and counter-Marxist overviews of capital, such as Gilles Deleuze and Félix Guattari in their 1972 book Anti-Oedipus, Jean-François Lyotard in his 1974 book Libidinal Economy and Jean Baudrillard in his 1976 book Symbolic Exchange and Death.

https://en.wikipedia.org/wiki/Accelerationism

とあるので、「加速主義」という言葉自体、2010年に造語されたばかりで、その用法もずいぶん混乱している感じですね。
そして、日本語版・英語版のいずれにもバスターニなる人物が登場しないので、この人が何者なのかを検索してみると、「シノドス」に次のような記事があります。

-------
テクノロジーの恩恵を万人に、すべての人々に贅沢を!――『ラグジュアリーコミュニズム』(堀之内出版)

橋本智弘(訳者)ポストコロニアル理論・文学

イギリスで注目の若手論客アーロン・バスターニとは何者か?

本書は、アーロン・バスターニの初の著書Fully Automated Luxury Communism (Verso, 2019)の全訳である。バスターニはイングランド南部の都市ボーンマスで生まれ育ち、現在はロンドンを拠点に活動するジャーナリストだ。2011年にオンラインニュースメディアのNovara Mediaを共同創設し、以来ウェブ上の記事やYouTubeチャンネルを通じてジャーナリズム活動を展開している。また、2015年には、博士論文「ストライキ! オキュパイ! リツイート!――緊縮イギリスにおける集団的アクションと接続的アクションの関係」により、ロンドン大学から博士号を取得している。

https://synodos.jp/library/27328/

この記事の中で斎藤氏のバスターニ評も出ているので、当該部分と『人新世の「資本論」』を合わせて読むと、バスターニの位置づけもかろうじて分かりますね。
橋本智弘氏の翻訳は来年出るそうですが、正直、何だか騒々しい感じの本なので、私としてはある程度評価が定まってから読もうと思います。
ところで、バスターニは珍しい姓ですが、父親はイラン人で、イラン革命を逃れてイギリスに渡った人だそうですね。

-------
Aaron Bastani was born as Aaron Peters in Bournemouth to a single mother. She was employed in cleaning, the service industry and social care, and voted for the Conservative Party. His Iranian father Mammad Bastani was made a British refugee during the Iranian Revolution. He took the name Bastani in 2014; his mother died in 2015.
At the Royal Holloway, University of London, Bastani completed a PhD titled Strike! Occupy! Retweet!: The Relationship Between Collective and Connective Action in Austerity Britain under the supervision of Andrew Chadwick.At weekends, he sold tomatoes while working on Novara Media projects. He held a significant role in the 2010 United Kingdom student protests against increased tuition fees as an activist and organiser.During protest attendances as research for his PhD, Bastani was arrested twice, leading to a six-month extension.After he used a bin to jam open an HSBC bank door at a 2011 protest, he was convicted of a public order offence and served a year's community service at Mind and as a leaf sweeper. He completed the PhD in 2015.

https://en.wikipedia.org/wiki/Aaron_Bastani

母親の職業からしておよそ裕福な家庭に育ったはずもなく、学生運動で二度逮捕されるなど、学者ではなく活動家として頭角を現した人のようですね。

7256鈴木小太郎:2021/12/20(月) 10:55:42
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その7)
アーロン・バスターニが1983年か84年生まれかはっきりしないのも謎ですが、『Fully Automated Luxury Communism (完全にオートメーション化された贅沢な共産主義) 』のような本が、仮にも「コミュニズム」の名で語られるのが一番の謎ですね。
同書の宣伝文句を翻訳すると、

-------
労働、希少性、資本主義を超えた新しい社会のための異なる種類の政治

21世紀には、新しい技術が私たちを労働から解放するだろう。イートメーションは完全雇用の上に築かれた経済を弱体化させるのではなく、むしろ全ての人にとって自由、贅沢、幸福の世界への道である。技術の進歩は、食料、医療、住宅といった商品の価値をゼロに近づけるだろう。
再生可能エネルギーの進歩は化石燃料を過去のものにするだろう。必須の鉱物は小惑星で採掘されるだろう。遺伝子工学と合成生物学は寿命を延ばし、病気を殆ど消滅させ、人工肉を提供する。新しい地平線が手招きしている。
『Fully Automated Luxury Communism (完全にオートメーション化された贅沢な共産主義) 』において、アーロン・バスターニは並外れた希望のビジョン、私たちがどのように豊饒なるエネルギーに移行し、90億人の世界に食料を与え、労働を克服し、生物学の限界を超え、すべての人に意味のある自由を確立するかを示している。このような社会は、最終目的地ではなく、歴史の始まりを告げるものにすぎない。

https://www.versobooks.com/books/3156-fully-automated-luxury-communism

といったことになるかと思いますが、まるで遥か半世紀前、石油危機以前に流行った「未来学」のような感じです。
これが社会運動とは無関係な理系の学者あたりの主張ならともかく、何ともエネルギッシュな風貌と鋭い舌鋒の持ち主である、まだ若い「左翼」活動家から出てくるところが驚きです。

Fully Automated Luxury Communism | Aaron Bastani
https://www.youtube.com/watch?v=1kxzplDg0CE&amp;t=59s

さて、アーロン・バスターニの主張に対する斎藤氏の見解はいかなるものか。(p210以下)

-------
▼開き直りのエコ近代主義
 しかし、バスターニのような楽観的予測こそ、晩期マルクスが決別した、あの生産力至上主義の典型である。これは、最近では「エコ近代主義」(ecomodernism)と呼ばれている。エコ近代主義は、原子力発電やNET(九一頁参照)などを徹底的に使って、地球を「管理運用」しようという思想である。自然の限界を認識して、自然との共存を目指すよりも、自然を人類のために管理することを目標とするのだ。第二章でも触れたブレイクスルー・インスティテュートを広めているのが、このエコ近代主義である。
 エコ近代主義の問題点は、その開き直りの態度にある。ここまで環境危機が深刻化してしまったのだから、いまさら後戻りはできない。だから、今以上の介入をして、自然を管理し、人間の生活を守ろうというわけだ。
 例えば、フランスの哲学者ブルノ・ラトゥールはこのことを「汝〔なんじ〕の怪物を愛せよ」と表現し、人類が作り出したテクノロジーという「怪物」を見捨てることは許されないと、エコ近代主義を擁護している。
 むろん、バスターニやラトゥールのエコ近代主義は、ロックストロームが「現実逃避の思考」と呼ぶものである。第二章で私たちは「緑の経済成長派」の欺瞞を見たが、デカップリングが困難である以上、コミュニズムになったとしても、環境の持続可能性と無限の経済成長の両立が可能になることはない。
 バスターニの加速主義的なコミュニズムにおいても、経済規模を二倍、三倍と拡大しようとするなら、結局は、より多くの資源採掘が必要となる。その結果として化石燃料から太陽光に切り替えたにもかかわらず、その差分が失われ、二酸化炭素が増大することになる。「ジェヴォンズのパラドックス」(七五頁参照)は、コミュニズムにおいても生じてしまう。
 加速主義は世界の貧困を救うためにさらなる成長を求め、そのために、化石燃料などをほかのエネルギー源で代替することを目指す。だが、皮肉にも、その結果、地球からの略奪を強化し、より深刻な生態学的帝国主義を招くことになってしまうのだ。
-------

うーむ。
確かにバスターニの主張はあまりに楽観的のように聞こえますが、かといって斎藤氏のあまりに悲観的な予測が正しいのか。
私は、そもそも斎藤氏に現代の科学技術の水準を正確に理解する能力があるのか、という点で若干の疑問を感じます。
1987年生まれの斎藤氏は、1883年に死んだマルクスの「訓詁学」、「マルクス考古学」には練達しているのでしょうが、そうした研究に没頭していた人が、いくらまだ三十代前半の若さとはいえ、果たして近年の科学技術の水準に追いつく余裕があったのか。
バスターニの予測が正しいのか、それともバスターニ等の「エコ近代主義」を批判する斎藤氏の予測が正しいのか、はたまた両者とも間違っているのかは、あと五十年もすればある程度の結果が出るでしょうが、まあ、私としては斎藤氏の予測は極端すぎるように感じられ、それは結局は斎藤氏の科学技術に対する理解不足に起因するように思われます。

さて、ここで一曲。

-------
ヒロシ&キーボー「3年目の浮気」

(男)馬鹿いってんじゃないよ お前と俺は
   ケンカもしたけどひとつ屋根の下 暮らして来たんだぜ
   馬鹿いってんじゃないよ お前のことだけは
   一日たりとも忘れたことなど なかった俺だぜ
【中略】
(男)3年目の浮気ぐらい大目にみろよ
(女)開き直るその態度が 気に入らないのよ

https://www.uta-net.com/movie/2181/

7257:2021/12/20(月) 13:07:14
斎藤出羽守幸平(ゆきひら)
小太郎さん
イタリア語で basta così といえば、もういい、うんざりだ、やめてくれ、という意味ですが、Bastani とはスタバの新作ドリンクで、中東産のハシシで味付けされています。
加速主義はスポーツカーの永遠のテーマで、スズキよりフェラーリのほうが加速に優れています。蛇足ながら、ニュートンの運動方程式は F=ma です(Fは力、mは質量、aは加速度)。そして、力(Macht)といえば、ナチの強制収容所のスローガンは Arbeit macht frei でした(この macht は動詞ですが)。
Luxury Communism は中国共産党の新しいテーゼで、習近平以下、幹部の面々は酒池肉林にならぬ程度のラグジュアリーな生活をしています。
日本には昔から、欧米ではこんな思想が流行っている、と猿真似する傾向がありますが、こういう人は、「では」をもじって出羽守と呼ばれるそうですね。

7258鈴木小太郎:2021/12/20(月) 20:57:45
マルクスの青い鳥
>筆綾丸さん
>出羽守

アメリカでマルクスにかぶれてアメリカ出羽守、というのはずいぶん変な話だなあと思っていたのですが、NHK出版サイトの「NHK出版新書を探せ!」という連載記事に斎藤幸平氏のインタビューが出ていて、裏事情がかなり率直に語られていますね。

「NHK出版新書を探せ!」第10回 日本人はなぜ気候変動問題に関心を持てないのか?――斎藤幸平さん(経済思想学者)の場合〔前編〕
https://nhkbook-hiraku.com/n/nd4ab4de3422b

朝日新聞グローブの記事に「東京出身。私立の中高一貫校を卒業」とあったので、開成か麻布かと思ったら、これは芝学園だそうですね。

芝中学校・高等学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

芝学園は増上寺が母体だそうですが、特に厳格な仏教教育をしている訳ではなく、斎藤氏も宗教嫌いの立派な無神論者に育ったようですね。
ウィキペディアには山田邦明氏(1957生。愛知大学教授)のお名前がありますが、山田氏は新潟県出身、十日町高校卒業のはずで、どうなっているのか。
ま、それはともかく、高校までマルクスも読んだことがなかった斎藤青年は、2005年に東大の理科?類とアメリカのウェズリアン大学に合格し、三か月だけ東大に在籍しますが、その間に廣松渉などを読んでマルクスにかぶれた訳ですね。

廣松渉(1933-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

そして、奨学金を得てウェズリアン大学に留学し、マルクスを本格的にやりたいと思ったものの、「アメリカにはマルクスを研究できる大学なんてほとんどない」ため学部卒業後はドイツに渡ります。
しかし、「じつはドイツに行ってもマルクスをやっている人ってあまり」おらず、「フンボルト大学の博士課程に上がるときに、MEGA(Marx-Engels-Gesamtausgabe)という、マルクスとエンゲルスの新しい全集を編集する日本人研究者チームのメンバーに入れてもら」って、ここから本格的なマルクス修業が始まった訳ですね。
ところが、エコ方面からマルクスを研究した斎藤青年にとって、実は日本の文献が大いに参考になったのだそうです。

-------
 この本〔『大洪水の前に』〕を読んで驚いたのが、日本の研究者の議論がかなり参照されていることです。それだけ日本のマルクス研究の質が高かったということでしょうか。

斎藤 僕は世界一だと思いますね。だからある意味、アメリカやドイツでマルクス研究をしたのは回り道だったとも言えるんです。私が強い影響を受けたのは、久留間鮫造や大谷禎之介ですが、彼らに限らず、日本の理論的な蓄積はものすごく分厚くあった。けれども、アメリカに留学していたせいで、学部生の頃は全然知らなかった。やっと修士2年目で読むような感じでしたから。
 ドイッチャー記念賞をもらえたのも、日本の研究の一番いいところを掬えたおかげでもあるんです。物質代謝論についても今まで蓄積があったけど、日本語文献がほとんどなので、英米圏には知られていませんでした。
 日本では90年代以降、その手の研究は次第に下火になっていったんですが、皮肉なことに、21世紀に入ると、アメリカで社会主義的なエコロジー研究がすごく盛り上がっていくんです。でも、日本からすると既視感があるから、上の世代のマルクス研究者は「椎名重明や宮本憲一がやってた話ね」みたいにスルーしてしまった。海外ではエコ社会主義がムーブメントになっているのに、日本の左翼のおじさんたちは、「俺らは昔からやってたよ」みたいな感じになっちゃってるわけですよ(笑)。
-------

私は共産主義そのものにはあまり興味がない代わりに共産主義的人間にはマニアックな興味があって、久留間鮫造は大原社会問題研究所の関係で少し調べたことがありますが、それにしても古い名前ですね。

久留間鮫造(1893-1982)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%95%99%E9%96%93%E9%AE%AB%E9%80%A0
大谷禎之介(1934-2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%A6%8E%E4%B9%8B%E4%BB%8B

斎藤青年が追い求めたマルクスの青い鳥は、アメリカにもドイツにもおらず、意外にも日本にいた訳ですね。
強引にまとめれば、斎藤青年はアメリカ出羽守・ドイツ出羽守かと思ったら、実は日本出羽守だった、と。

7259鈴木小太郎:2021/12/21(火) 10:11:17
マルクスの青い鳥(その2)
斎藤青年が自慢されている「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」、私はその存在すら知りませんでしたが、ウィキペディアによれば、

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歴史家アイザック・ドイッチャーとその妻タマラ・ドイッチャー (en:Tamara Deutscher) を記念して、毎年「マルクス主義の伝統における、またはついての最高で最も革新的な新しい書物を例証する」英語で発表された新たな本に対して授与される賞である。1969年から続いている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%B3%9E

というものだそうです。
ただ、公式サイトを見ても選考者の資格や選出方法、また受賞作品の選考の基準や手順、といった情報が皆無で、何だかよく分らない賞ですね。

About the Deutscher Memorial Prize
http://www.deutscherprize.org.uk/wp/

1969年に始まったとのことですが、思想界でマルクス主義の顕著な退潮が始まった時期と重なるので、あるいは数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞でしょうか。
過去の受賞者を見ても、狭い範囲の変わり者の集団みたいな感じで、世間的にそれなりに名の通った人といえば1989年のテリー・イーグルトンや1995年のエリック・ホブズボームくらいじゃないでしょうか。
ま、別に斎藤青年が受賞したことをけないしたい訳ではなく、日本人で初受賞、しかも最年少というのは、それなりにたいしたものだとは思いますが。
さて、斎藤青年の発言の中に、

-------
斎藤 アルチュセールや廣松渉は、『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』の間に、理論的な断絶があることを強調しました。けれども、それでは一面的です。一方、西欧マルクス主義者たちは、若い頃のマルクスの疎外論を高く評価し、ヒューマニズム的なマルクス像という連続性を見いだしました。けれども彼らは、『資本論』理解が中途半端です。日本の場合、『資本論』の理解は深いが、宇野派の影響が非常に強かった。最近、柄谷行人や熊野純彦の本を読み直して強く感じたことですが、私が自由な読み方ができたのは、宇野派からまったく影響を受けない環境でマルクスを自由に研究できたことが大きかったと思います。だから博士論文でも、アメリカ、ドイツ、日本の間のどこかに完全に属するわけではなく、それぞれのいいところをうまく融合できたのかなという気はしますね。

https://nhkbook-hiraku.com/n/nd4ab4de3422b

とあるように、マルクス主義の硬直化に対抗するため、一時期は「青年マルクス」の研究が流行した訳ですが、近時はエンゲルスが編集した『資本論』には現れていないマルクスの晩年の思想、いわば「老人マルクス」の研究が盛んで、斎藤青年もその流れに乗っている訳ですね。
そして斎藤青年は「老人マルクス」の思想の中に現代社会が直面するエコロジー問題の解決策を見出し、

-------
斎藤 そうそう。上の世代のポスト資本主義や脱成長論は、たいてい日本下り坂論と合体していて、元気がでないんですよ。バブルの恩恵に与った人たちが、年をとってから反省をして、日本も資本主義ももう成長しないでいいじゃないかと言っても、若い人には老害にしか感じられませんよね。
 でも、僕ぐらいの世代で脱成長をポジティブに語れば、さすがに「老害じじい」という批判はない(笑)。だからこそ、今年出した『人新世の「資本論」』で、脱成長は下り坂じゃなくて、むしろそっちのほうが豊かになるんだ、という切り口を示したかったんです。
-------

などと言われますが、果たして斎藤氏の主張を「元気の出ない脱成長論」から「元気の出る脱成長論」への転換を促す革新的な思想と捉える人がどれだけいるのか。
まあ、『人新世の「資本論」』を読んだ私の感想としては、まだ若くて可塑性のある時期を1883年に死去したマルクスの「訓詁学」、「マルクス考古学」に捧げた斎藤青年は、年齢的には若くとも、既に「老害じじい」となっている可能性も高いように思われます。
それはちょうど、まだ十代のグレタ・トゥーンベリが、頑固で偏屈な老女のような風貌になっていることに対応しているのかもしれません。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/greta-thunberg-un-speech_jp_5d8959e6e4b0938b5932fcb6

7260:2021/12/21(火) 12:42:09
Deutche(r)のナゾ
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A5
物理学者のドイッチュ(Deutsch)と同じく、ドイッチャー(Deutscher)も、ドイツ、ドイツと言いながら、ドイツ人ではないのですね。
昔、ドイッチュの量子計算に関する本を読んだとき、そんなことありえないだろう、と思ったものですが、世界はいまや、量子コンピュータが主流になりつつあります。

マルクス経済学は、絶滅危惧種というより、すでに滅びた学だと思っていたので、現在もマルクス経済学の講座が大学にあることが信じられません。

出羽国(上国)の国守に相当する位階は従五位下だと思いますが、幸平(ゆきひら)氏の場合、最年少のドイッチャー記念賞受賞者なので、二階級特進して、正式な肩書きは正五位下行出羽守くらいになりますか。
大阪という、商人と漫才と維新の町で、マルクス経済学に興味のある人がいるのか、他人事ながら心配です。

7261鈴木小太郎:2021/12/21(火) 13:36:27
斎藤幸平氏とテーラーシステム
『人新世の「資本論」』、いろいろ変なところがありますが、私が何とも古臭く感じたのは斎藤氏の労働に関する認識ですね。
「第五章 加速主義という現実逃避」は、小見出しを並べると、

▼「人新世」の資本論に向けて
▼加速主義とはなにか
▼開き直りのエコ近代主義
▼「素朴政治」なのはどちらだ?
▼政治主義の代償─選挙に行けば社会は変わる?
▼市民議会による民主主義の刷新
▼資本の「包摂」によって無力になる私たち

と続いて、賛成できるかどうかはともかく、ここまでは最近の議論が紹介されています。
しかし、その次から、どうにも古臭い変な話が登場します。(p221以下)

-------
▼資本による包摂から専制へ
 資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力を頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。
 アメリカのマルクス主義者ハリー・ブレイヴァマンの言葉を借りれば、社会全体が資本に包摂された結果、「構想」と「実行」の統一が解体されてしまったのである。どういうことか、簡単に説明しておこう。
 本来、人間の労働においては、「構想」と「実行」が統一されている。例えば、職人は頭のなかで椅子を作ろうと構想し、それをノミやカンナを使って実現する。ここには、労働過程における一連の統一的な流れが存在する。
 ところが資本にとって、これは不都合な事態である。生産が職人の技術や洞察力に依存するなら、彼らの作業ペースや労働時間に合わせざるを得ず、生産力を上げることもできない。無理をさせれば、プライドの高い職人たちは気分を害して、辞めてしまうかもしれない。
 そこで、資本は、職人たちの作業を注意深く観察する。そして、各工程をどんどん細分化していき、各作業時間を計測し、より効率的な仕方で作業場の分業を再構成していく。そうなると職人たちはお手上げだ。いまや、誰でもできる単純作業の集合体が、職人よりも速く、同じクオリティか、それ以上のものを作ってしまうからである。
 その結果、職人たちは没落する。一方、「構想」能力は、資本によって独占される。職人の代わりに雇われた労働者たちは、ただ資本の命令を「実行」するだけである。「構想」と「実行」は分離されたのだ。
-------

うーむ。
斎藤氏はこれが現代資本主義の最先端の「労働」だと思われているようですが、テーラーシステムの説明としか思えません。
どうなっておるのだ、と思って、ハリー・ブレイヴァマンの名前で検索してみると、1978年に岩波から『労働と独占資本 20世紀における労働の衰退』という本が出ていますね。

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独占資本のもとでの労働過程の特性を具体的に示しつつ,特定の技術の進展が労働の性質と労働者階級の構成にもたらした帰結を,アメリカ資本主義の展開のなかで解明する.労働の衰退に基づく人間の衰退の鋭い告発.

https://www.iwanami.co.jp/book/b262283.html

びみょーな内容だなと思って、更に検索すると、ウィキペディアには日本語版はありませんが、英語版には、

-------
Harry Braverman (1920-1976) was an American Marxist, worker, political economist and revolutionary. Born in New York City to a working-class family, Braverman worked in a variety of metal smithing industries before becoming an editor at Grove Press, and later Monthly Review Press, where he worked until his death at the age of 55 in Honesdale, Pennsylvania.Braverman is most widely known for his 1974 book Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century, "a text that literally christened the emerging field of labor process studies" and which in turn "reinvigorated intellectual sensibilities and revived the study of the work process in fields such as history, sociology, economics, political science, and human geography."

https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Braverman

などとあります。
ハリー・ブレイヴァマンは1920年にニューヨークで生まれ、金属加工の労働者として働き、大恐慌期に急進的な労働運動に参加。
米国初のトロツキスト政党である「社会主義労働者党(SWP)」のメンバーとなり、当然、赤狩りで弾圧されて、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの思想を公刊し称揚することを反逆罪とした悪名高きスミス法の最初の犠牲者」の一人となります。
1950年代にSWPを除名されたりした後、編集者に転じ、60年代にはマルコムXの自伝を出すなどしたそうです。
そして彼の名前を一躍有名にした著書『Labor and Monopoly Capital』において、彼はフレデリック・テーラーの「科学的管理法」を批判したとのことなので、やはり斎藤氏の説明はテーラー批判のようですね。
ただ、フレデリック・テーラーは1856年、日本はまだ江戸時代だった頃に生まれ、1915年に死去した人ですから、テーラーの主張した「科学的管理法」は相当古い考え方です。
さすがに現代の労働関係をテーラー考案の非常に素朴な「科学的管理法」で説明する勇気のある研究者は少ないと思いますが、斎藤氏は例外的な「勇者」なのかもしれません。

フレデリック・テイラー(1856-1915)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC

>筆綾丸さん
>大阪という、商人と漫才と維新の町で

大阪市立大学は昔から左翼の牙城として有名ですね。
今は「サヨク」とでもすべきなのかもしれませんが。

7262:2021/12/21(火) 16:39:13
外部収奪論
小太郎さん
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000355536
『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』に、ローザ・ルクセンブルクの理論(周辺からの収奪)に触れながら、以下のような対話がありますが、これを理解できる知識は私にはありません。
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佐藤??資本主義においては資本家が労働者から搾取するだけでなく、富裕層が貧困層から、というように常に社会の中枢に近い側が周縁からの収奪を行っています。(社青同)解放派はこのことを資本主義における最大の悪の一つと捉え、特にアジアに対する罪の意識を非常に強くもっていました。そして解放派のこの特徴は、他の新左翼党派にも大きな影響を与えました。
池上??大阪市立大学准教授の斎藤幸平さんが書いた二〇二〇年のベストセラー『人新世の「資本論」』(集英社新書)でも外部収奪論は特に強調されている点ですね。その意味で解放派の思想は現代に通じる部分もありそうですね。
佐藤??そのとおりでしょうね。ただ斎藤幸平さんがまさにそうなのですが、彼のようにヨーロッパでマルクス主義を学んでくると、基本的にレーニンは傍流でローザが主流なので自然とそこに注目するようにはなるんです。日本みたいに資本主義国でありながらスターリン主義系のマルクス主義が強い国は実はかなり珍しいのです。(202頁)
----------

7263:2021/12/22(水) 15:33:25
NHKさまさま
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/12/102678.html
https://www.townnews.co.jp/0602/2021/12/03/603114.html
鎌倉駅前には、『鎌倉殿の13人』の登場キャラクターをラッピングした派手なタクシーも現れましたが、鎌倉殿の13人、というより、よってたかって義時、といった感じです。

7264キラーカーン:2021/12/23(木) 01:57:21
駄レス
>>大阪という、商人と漫才と維新の町で

かつて、参議院選挙区で大阪が三人区だった頃
一位:芸人、二位:公明党、三位自民か共産(体感では三対一くらいで自民有利)
という感じでした。
今は、四人区となって、芸人枠の後を維新が襲い、公明枠が安泰で、
残りの二議席を維新と自民と共産で争うという感じでしょうか。


>>大阪市立大学は昔から左翼の牙城として有名ですね

しかし、大阪大学はマル経が華やかなりし頃からの近代経済学の牙城だったりします

7265鈴木小太郎:2021/12/23(木) 11:27:17
斎藤幸平氏とコロナ禍
『人新世の「資本論」』関係の投稿、気づいたらこれで十二個目ですが、さすがにそろそろ終わりにしたいと思います。
私自身は斎藤氏の資本主義に対する憎悪を共有することはできませんが、その一番の理由は、斎藤氏の科学技術に関する認識を信頼できないからですね。
例えば斎藤氏は「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、コロナ禍も資本主義が悪いのだ、という主張をされています。(p278以下)

-------
▼コロナ禍も「人新世」の産物
 本書は資本主義から離れ、脱成長コミュニズムに移行する必要性を擁護してきた。そして、ここから先は、脱成長コミュニズムをどう実現させるのか、脱成長コミュニズムがどのように気候危機を解決するのかを説明していきたい。
 ただ、その前に、「人新世」の危機の先行事例としてひとつ見ておきたいものがある。新型コロナウイルスのパンデミックだ。「一〇〇に一度」のパンデミックによって、多くの人命が失われたし、経済的・社会的な打撃も歴史に残る規模だった。しかし、そうであっても、気候変動がもたらす世界規模の被害は、コロナ禍とは比較にならないほど甚だしいものになる可能性がある。コロナ禍は一過性で、ささやかなものだったと、気候変動に苦しむ後世の人々は振り返ることになるかもしれない。
 そのように被害規模が違うといっても、コロナ禍を危機の先行事例として見ておく価値はある。気候変動もコロナ禍も、「人新世」の矛盾の顕在化という意味で、共通しているからだ。どちらも、資本主義の産物なのである。
 資本主義が気候変動を引き起こしているのは、これまで見てきたとおりだ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が、その原因なのである。
 感染症のパンデミックも構図は似ている。先進国において増え続ける需要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーの占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない。そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。
 しかも、パンデミックの危険性は専門家たちによって以前から警告されていた。気候変動の危機の到来を科学者たちが悲痛な声で警鐘を鳴らしているように。
-------

今回のコロナウイルスの発生源がアマゾンあたりならば、このような説明も一応可能かもしれませんが、さて、どうなのか。
ま、その点は置くとして、斎藤氏は「▼国家が犠牲にする民主主義」の小見出しでアメリカのトランプやブラジルのボルソナロ大統領の悪口を言った後、「▼商品化によって進む国家への依存」を深く憂慮した上で、「▼国家が機能不全に陥るとき」において、

-------
 また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。
-------

と書かれています。(p284)
ここに付された注2には、

-------
マイク・デイヴィス「疫病の年に」マニュエル・ヤン訳、「世界」二〇二〇年五月号、三八頁。
-------

とあり、私はこの記事は未読ですが、「精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化」というのは、おそらくファイザー社への批判かと思います。
しかし、ファイザー社は「抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していた」のか。
また、斎藤氏は、続く「▼「価値」と「使用価値」の優先順位」において、

-------
 コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。
-------

とされるので(p285)、斎藤氏にとってEDは「使用価値」が皆無の、資本主義の悪を象徴する商品のようですね。
そして、「▼「コミュニズムか、野蛮か」」において、斎藤氏は、

-------
 なぜコミュニズムなのか。極右の自警団やネオナチのような過激派、マフィアが支配する野蛮状態を避けようとするなら、コミュニティの自治と相互扶助が必要となるからである。生活に必要なものを、自分たちで確保し、配分する民主的方法を生み出さなくてはならない。だからこそ、来るべき危機に備えて、平時の段階から自治と相互扶助の能力を育てておく必要がある。実際、政府に頼ろうとしても助けてくれないということを、日本人はコロナ禍で学んだはずだ。
【中略】
 中途半端な解決策は、長期的にはもはや機能しない。実際、右派ポピュリズムの台頭に既存の自由民主主義勢力は対抗できていない。だから、普通のリベラル左派の議論には退場してもらおう。
 そして、こう言わねばならない。「コミュニズムか、野蛮か」、選択肢は二つで単純だ!
 もちろん、ここで選ぶべきは「コミュニズム」である。だからこそ、国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え、自治管理や相互扶助の道を模索すべきなのである。
-------

と主張されます。(p286以下)
まあ、ここまで「国家や専門家」の悪口を言われるのであれば、斎藤氏はおそらくファイザー社やモデルナ社のワクチンは接種されていないのだろうなと思います。
EDのような資本主義の権化ともいうべき商品を販売していたファイザー社はもちろん、モデルナ社だって資本主義の泥沼に咲いた悪の花でしょうから、まさか斎藤氏がそんな極悪非道の企業が開発したワクチンを接種するようなことはないに決まっています。
「政府に頼ろうとしても助けてくれないということを」「コロナ禍で学んだ」斎藤氏も命は惜しいでしょうから、「国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え」、資本主義下の企業に期待することなく、「コミュニティの自治と相互扶助」、「生活に必要なものを、自分たちで確保し、配分する民主的方法」が新コロナに有効な新薬を開発してくれる日を待っておられるのでしょうね。
果たしてその日まで、ワクチンを接種しない斎藤氏の命は持つのか。
「コミュニズムか、野蛮か」、選択肢は二つで単純ですね。

>筆綾丸さん
『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』は未読なので、レスはのちほど。

>キラーカーンさん
大阪市立大学にはゾンバルトの蔵書もあったりして、「左翼の牙城」と決めつけるのもまずいかもしれないですね。

「ゾンバルトが蔵書を売却した理由」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9616

7266鈴木小太郎:2021/12/24(金) 14:11:16
「その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります」(by 佐藤優氏)
>筆綾丸さん
池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみました。

-------
高揚する学生運動、泥沼化する内ゲバ、あさま山荘事件の衝撃。
左翼の掲げた理想はなぜ「過激化」するのか?
戦後左派の「失敗の本質」。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000355536

正直、それほど期待していなかった、というか、殆ど既知の内容なのではないかと予想していましたが、要所要所で昔の文献を簡潔に紹介するなどの工夫があって、なかなか良い本ですね。
池上氏も随所で鋭い考察を示しており、テレビで見るような単なる物知りおじさんではないですね。
さて、御指摘の部分、私も深入りできる能力はありませんが、「外部収奪論」といっても斎藤幸平氏の場合は自然からの収奪が中心ですから、「アジアに対する罪の意識」がどうしたこうした、という議論の延長線上にはあっても、かなりの飛躍が感じられます。
また、佐藤氏の「彼のようにヨーロッパでマルクス主義を学んでくると、基本的にレーニンは傍流でローザが主流なので自然とそこに注目するようにはなるんです」との見方は間違いですね。
『人新世の「資本論」』には、確かにローザ・ルクセンブルクへの言及はありますが(p56)、それもごく僅かで、そもそも斎藤氏は「ドイツ出羽守」ではありません。

「マルクスの青い鳥」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051

私にとって参考になったのは、「第三章 新左翼の理論家たち」の最後に出てくるやりとりです。(p209)

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佐藤 末端のほうは継承できるだけの知力がありませんから次第に殺しの話しかしなくなってしまったかもしれないけれど、それでもやっぱり運動を始めた人たちは非常に賢かった。ですからなおのこと、これほど多くの知的な人たちが運動を指導した半世紀後の日本がこうなっていることが不思議です。もはや社会で交わされる言葉に思想性なんて欠片もありませんから。
 だから左翼というのは始まりの時点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。そしてその仕組みは、リベラルではなく左翼の思想の中のどこかにあるはずなのです。
池上 前巻でも佐藤さんが言っていたように、リベラルと左翼は全く違うもので、リベラルはむしろ資本主義の思想ですからね。
佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
 そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。
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ここは実に、私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。

7267:2021/12/24(金) 21:20:31
思想を紡ぐ力
小太郎さん
佐藤優氏は、以下のように述べていますが、オウムの地下鉄サリン事件であれ、ダーエッシュの自爆テロであれ、「人間に思想を紡ぐ力がある以上」、これは普遍的な現象で、どうしようもない不治の病だろうな、という気がします。
斎藤氏も独りで騒いでいるうちは安全ですが、信奉者を集めて組織化したりするようになると、どうなるか、わからないですね。
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私たちがいま敢えて左翼史を若い人たちに学んでもらいたいと考え、こんな対談をしているのだって、その理由の一つは、影響を受けることで自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇うまいと人に決意させてしまうほどの力をもつ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。
そして人間に思想を紡ぐ力がある以上、それだけの力を持つ思想は今後も形を変えながら何度も現れるでしょう。
しかしそうした、人間を最終的には殺し合いに駆り立てる思想にしても、その始まりにおいては殺人とは無縁の、むしろこの世の中を良くしたいと真剣に考えた人たちが生み出したものではあるわけで、だからこそそれが、どういう回路を通ることで殺人を正当化する思想に変わってしまうのかを示したいのです。(180頁)
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付記
同書123頁に、山本義隆氏への言及がありますが、氏の『磁力と重力の発見1,2,3』は大変な名著で、昔、文字通り寝食を忘れて読み耽ったことがあります。ほとんど何も覚えていませんが、もう再読することはないと思います。

7268鈴木小太郎:2021/12/25(土) 11:09:31
「まず三・五%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である」(by 斎藤幸平氏)
>筆綾丸さん
>『磁力と重力の発見1,2,3』

山本著は筆綾丸さんのご紹介で知って私も読んでみましたが、確かに名著ですね。
『十六世紀文化革命』も面白かったです。

「ヨーロッパはヨーロッパで独自に発見」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5093
「軽々とめぐり歩く」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5115

>斎藤氏も独りで騒いでいるうちは安全ですが、

斎藤氏は選挙を通じての改革を明確に否定していますね。
「第五章 加速主義という現実逃避」には、次のように記されています。(p213以下)

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 しかしながら、バスターニが大きな社会変革を目指しているにしても、選挙を通じて共産主義革命を起こすというビジョンは、加速主義者たちが批判する「素朴政治」とは、別の意味であまりに素朴すぎる。そして、その素朴さのゆえ、危険でさえある。
 まず、資本主義の超克という生産関係の領域での変革を、政治的な改革によって、実現できると考えていることが、素朴である。これは、典型的な「政治主義」の発想にほかならない。

▼政治主義の代償─選挙に行けば社会は変わる?
 「政治主義」とは、議会民主制の枠内での投票によって良いリーダーを選出し、その後は政治家や専門家たちに制度や法律の変更を任せればいいという発想である。カリスマ的なリーダーを待ち望み、そうした候補者が現れたら、その人物に投票する。変革の鍵となるのは、投票行動の変化である。
【中略】
 実際、政治重視の社会改革は、スティグリッツのような経済学者のやり方である。ジジェクのスティグリッツ批判を思い出そう(一三〇頁参照)。議会政治だけでは民主主義の領域を拡張して、社会全体を改革することはできないのだ。選挙政治は資本の力に直面したときに必ずや限界に直面する。政治は経済に対して自立的ではなく、むしろ他律的なのである。
 国家だけでは、資本の力を超えるような法律を施行できない(そんなことができるならとっくにやっているはずだ)。だから、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要がある。
-------

「資本主義の超克という生産関係の領域での変革を、政治的な改革によって、実現できる」はずがない、というのが斎藤氏の確固たる信念のようですが、では具体的に何をしようとしているのか。
その具体策は、例えば「市民議会」なのだそうです。(p215以下)

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▼市民議会による民主主義の刷新
 その一例が、近年欧米で注目されている「気候市民議会」である。市民議会(citizens' assembly)が一躍有名になったのは、イギリスの環境運動「絶滅への反逆」とフランスの「黄色いベスト運動」の成果である。これらの運動は、その背景は異なるものの、どちらも道路や橋を閉鎖し、交通機関を止めるなどして、都市機能を麻痺させ、日常生活に大混乱をもたらしたのだった。
-------

フランスでは、この後、マクロンとの折衝があって、「気候市民議会」が開かれることになったそうですが、

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 市民議会の特徴は、なんといっても、その選出方法である。選挙ではなく、くじ引きでメンバーが選ばれるのだ。ここに選挙で選ばれる国会との決定的な違いがある。もちろん、くじ引きといっても完全にランダムではなく、年齢、性別、学歴、居住地などが、実際の国民に近くなるように調整される。
 そして、市民議会においては、専門家がレクチャーを行い、そのうえで参加者は議論を行い、最終的には、投票で全体の意思決定をする。
-------

のだそうで(p217)、私には何が素晴らしいのかさっぱり分かりません。
要は選挙による代表ではなく、国民の縮図を作って、そこで多数決を行うのだそうですが、専門知識がないただの素人が集まっても、そこできちんとした「議論」がなされるはずもなく、「レクチャー」をした特定の「専門家」による誘導・扇動・洗脳の結果が表明されるだけですね。
斎藤氏は、

-------
 市民議会の提案がここまでラディカルな内容になったのは、民主主義のあり方が抜本的に変容したという事実からけっして切り離せない。さらに、この変化をもたらしたのが、社会運動だったという点も強調しておこう。
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などと絶賛されていますが(p217以下)、「市民議会の提案がここまでラディカルな内容になったのは」選挙で勝てない特定の勢力が「レクチャー」する「専門家」の選定に集中したからでしょうね。
斎藤氏は「この変化をもたらした」「社会運動」が「道路や橋を閉鎖し、交通機関を止めるなどして、都市機能を麻痺させ、日常生活に大混乱をもたらした」ことをあまり「強調」されませんが、「民主主義のあり方」を「抜本的に変容」させるためには、多少の犠牲、「社会運動」で病院へ行けなくて死んだような人がいたとしても、それは仕方ないということなのでしょうね。
そして、こうした非民主的勢力の常として、「市民議会」で掠め取った「民意」を錦の御旗にして、以後は新たな「民意」の形成を排除することにしたのでしょうが、それはまさにボルシェビキのやり方です。
斎藤氏がレーニンの後継者であることは、『人新世の「資本論」』では別に隠されている訳ではありません。
マルクス主義の古典的理解によれば、革命の主体は労働者ですが、斎藤氏は「肝心なのは労働と生産の変革なのだ」(p291)などと言いつつ、実際には「脱成長コミュニズム」という革命の主体を労働者には求めておらず、それは気候変動危機に目覚めた「市民」の役割になっています。
「おわりに─歴史を終わらせないために」には、

-------
 もちろん、資本主義と、それを牛耳る一%の超富裕層に立ち向かうのだから、エコバッグやマイボトルを買うというような単純な話ではない。困難な「闘い」になるのは間違いない。そんなうまくいくかどうかもわからない計画のために、九九%の人たちを動かすなんて到底無理だ、としり込みしてしまうかもしれない。
 しかし、ここに「三・五%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
【中略】
 けれども、そろそろ、はっきりとしてNOを突きつけるときだ。冷笑主義を捨て、九九%の力を見せつけてやろう。そのためには、まず三・五%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。
-------

とありますが(p361以下)、これはレーニンの「前衛党」の発想と同じです。
もちろん、「「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると」となってはいますが、斎藤氏は「資本主義の超克という生産関係の領域での変革」を目指し、現在の憲法秩序、例えば「職業選択の自由」(憲法第23条)を否定することを目指しているので、「非暴力」で済むはずはないですね。

斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11036

7269:2021/12/25(土) 14:18:46
レーニンのゾンビ
小太郎さん
https://www.lefigaro.fr/international/la-russie-prise-dans-les-griffes-de-son-passe-communiste-et-imperial-20211221
ソ連崩壊後30年に関するフィガロの記事ですが、写真はレーニン没後97周年記念式典(本年1月)の模様で、執行者並びに列席者は3人だったようです。100周年記念となれば、もう少し増えるのかもしれません。
Mais son cadavre bouge encore et menace l'Ukraine.(しかし、URSSの骸はまだ蠢いていてウクライナを脅かす)とあり、アメリカ(NATO)との交渉が決裂すれば、ロシアはウクライナに侵攻するのでしょうね。

斎藤氏の主張は、内乱の予備(陰謀)とは言いませんが、荒唐無稽な囈言ですね。

7270鈴木小太郎:2021/12/26(日) 12:02:33
レーニンとスターリンの距離
>筆綾丸さん
>レーニン没後97周年記念式典(本年1月)

ロシアではレーニンの銅像は結構残っているようなので、ご紹介の記事、いくら何でもパレード(?)が地味すぎるように感じました。
少し検索してみたら、『朝日新聞GLOBE』の服部倫卓氏(一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長)の2020年4月20付記事に、

-------
ロシアからレーニン像がなくならない理由
生誕150周年を機に考える

4月22日は、ウラジーミル・レーニン生誕から150周年という記念の日でした。言うまでもなく、1917年の社会主義ロシア革命の立役者にして、それにより成立したソビエト・ロシアの最高指導者です。レーニンは1870年4月22日の生まれですので、そこからちょうど1世紀半の年月が経過しました。
【中略】
というわけで、ロシアでいまだにレーニンの名前やレーニン像が至る所にあるからといって、レーニンという人物がロシア国民の大ヒーローというわけではありません(増してやマルクス・レーニン主義は何の関係もありません)。その証拠に、新しく出来た施設にレーニンの名前が付けられたとか、新たにレーニン像が作られたといった話は、聞いたことがありません。あくまでも、以前からあったものを否定はしない、というだけなのです。

https://globe.asahi.com/article/13331211

とあります。
積極的にレーニンを讃美している訳ではないけれど、もはや古い伝統だからそれなりに大切にしよう、みたいな感じですかね。
プーチンも自分の祖父がレーニン、スターリンの料理人であった、というずいぶん前からの噂を認めましたが、それもレーニンに対する特別な感情とは結びついていないようですね。

プーチンの祖父は「レーニンの料理人」だった(『東洋経済オンライン』)
https://toyokeizai.net/articles/-/212266

ところで私の地味ブログ、最新の記事が一番読まれるのが通例なのですが、昨日は何故か四年前の、

レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4912e353610bdb7b1fc146dccf4d0ca4

という記事が一番でした。
レーニンというと、前にも一度書いたことがありますが、遥か昔の学生時代、私は渓内謙氏の「比較政治論」という講義を聴講したことがあります。

渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99

別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、それは些か乱暴すぎる纏めでしょうが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きく、レーニンとスターリンの関係は専門家でも正確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていて、レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの奇妙な「三角関係」など、おそらく極秘中の極秘だったのだろうと思います。
そして、新史料がソ連崩壊後に公開されるようになって、今ではスターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが明らかですね。
さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏は1987年生まれで、「ソ連を知らない」、「物心ついてから資本主義が自分の生活に恩恵をもたらしてくれたという経験が希薄で、社会主義的なものが悪いものだという体感もあまりない」ことを肯定的に、どこか自慢っぽく主張されています。

「人新世の『資本論』」なぜここまで売れるのか(『朝日新聞GLOBE』サイト内)
https://globe.asahi.com/article/14407032

そして『人新世の「資本論」』において、斎藤氏はスターリン批判めいた表現を繰り返しますが、レーニンを積極的には否定しない立場なので、実際にはスターリンへの道も近そうです。
「ソ連を知らない」純朴な若者たちは、斎藤氏のような人には近づかないのが賢明ですね。

7271鈴木小太郎:2021/12/27(月) 13:15:04
斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
12月23日の投稿「斎藤幸平氏とコロナ禍」において、斎藤著の、

-------
 また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

という記述(p284)は、斎藤氏が引用するマイク・デイヴィスなる人物がファイザー社批判として述べたのではないか、と推測しましたが、これは正確ではありませんでした。
『世界』932号(2020年5月)の「疫病の年に」を確認してみたところ、まずマイク・デイヴィス氏は、

-------
1946年、アメリカ・カリフォルニア生まれ。歴史家。邦訳書に『要塞都市LA』(青土社)、『感染爆発』(紀伊國屋書店)、『自動車爆弾の歴史』(河出書房新社)、『スラムの惑星』(明石書店)ほか。
-------

という人物で、「歴史家」というよりは「活動家」っぽい感じがします。
そして、この「論文」に付された酒井隆史氏(大阪府立大学教授)の「解説」によれば、

-------
 一九九〇年代以降、予見的で画期的な著書をいくつも公刊し、揺るぎない影響力をもつデイヴィスであるが、その知的キャリアは一直線のものではない。一九四六年にカリフォルニアに生まれたデイヴィスは、家庭の事情もあり大学進学もせず食肉工場で働きながら、一九六〇年代の激動に飛び込み、数年間の活動家としての生活を送る。一九七〇年代にはトラック運転手として働くかたわら、独学でマルクスやサルトルを学び、一念発起して大学でアイルランド史の研究に着手する。それからも『ニューレフト・レビュー』誌のフルタイム編集員などを勤めつつ論文や著作を公刊するのだが、一九九〇年が転機となる。みずからの故郷であるロサンゼルスについて、その反映【ママ】と華やかさの裏面で広がる貧困、暴力、レイシズムを、ポストモダン全盛時代に抗うかのように異色のハードな分析と文体でダークに描き、「ロス暴動」を予言したとされる『水晶の都市』(『要塞都市LA』村山敏勝・日比野啓訳、青土社、二〇〇一年)が、大ブレイクしたのである。それからデイヴィスのロサンゼルス論は、災害と資本主義との関係への注目から自然史と都市論の接点へと拡がり、その試みは二〇〇一年公刊の『レイト・ヴィクトリアン・ホロコースト』(Late Victorian Holocausts: El Niño Famines and the Making of the Third World, Verso, 2001)で世界史の領域へと大胆に発展する。【後略】
-------

とのことなので(p40)、やはり「歴史家」というよりは「活動家」の要素が強く、その業績には毀誉褒貶が伴うようですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Mike_Davis_(scholar)
https://en.wikipedia.org/wiki/Late_Victorian_Holocausts

ま、私自身はわざわざ著書を読んでみたいと思うような人ではありませんが、とりあえず「疫病の年に」の斎藤著に関連する部分だけを確認してみると、

-------
 しかし、国民皆保険とそれに関連する要求は、最初のステップにすぎない。巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄したことを、予備選挙の討論会でサンダースとウォーレンのいずれも強調しなかったのは残念だ。巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている。利益をもっとも多くもたらすのは心臓病の薬、依存性の高い精神安定剤、男性の性的不能治療薬であり、院内感染や新興の病気、昔からある熱帯病の予防ではない。インフルエンザに対する特効ワクチン(すなわち、ウイルスの表面タンパク質の変異しない部分を標的にするワクチン)の開発はもう何十年ものあいだ可能であったにもかかわらず、優先するだけの利益があるとはみなされなかった。
 抗生物質による医療革命が巻き返しを食らうとともに、古い病気が新しい感染と併行してあらわれ、病院は遺体安置所と化していくだろう。処方薬の法外な高値を日和見主義的に非難することはトランプでさえできるが、わたしたちに必要なのは、製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョンだ(これはかつて行われている─第二次世界大戦中に米軍はジョナス・サルクその他の研究者たちに初のインフルエンザ・ワクチンを開発するよう協力を求めた)。一五年前、自著『感染爆発─鳥インフルエンザの脅威』のなかで、わたしはこう書いている。

  ワクチンや抗生物質、抗ウイルス薬を含む、救命に必須の医療品へのアクセスは、万人
 に無償で保障される人権たるべきだ。そうした薬を安く生産しても採算がとれる市場が
 ないなら、政府や非営利団体がその製造・配布の責任を負うのが当然だろう。いついかな
 るときも、貧しい人々の命は巨大製薬会社の利益に優先されなければならない。

 現在のパンデミックは、真に国際的な公衆衛生の基盤が欠落するなかで、資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能だという議論をさらに広げている。だが、民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤は決して存在しえない。
 その実現には第二のニューディール政策を超えた人類生存のための独立した社会主義的計画が必須だ。オキュパイ運動後、進歩派は収入と富の不平等に対する闘争を最優先することに成功し、それはそれですばらしい成果だった。だが、社会主義者は医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する次のステップに今こそ踏み切らねばならない。
-------

といった具合です。(p38以下)
「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」、「巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている」とあるだけで、すぐ後に「男性の性的不能治療薬」への言及はあるものの、別にファイザー社を批判している訳ではなかったですね。
さて、マイク・デイヴィス氏は「製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョン」を持ち、「医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する」大胆不敵な「社会主義者」です。
そして、「脱成長コミュニズム」の提唱者である斎藤氏も、「資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能」であって、「民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤〔「真に国際的な公衆衛生の基盤」〕は決して存在しえない」というマイク・デイヴィス氏の立場に賛成なのだろうと思います。
しかし、仮に巨大製薬会社潰しを行っていたら、コロナ禍へのより素晴らしい対応ができたのか。
この点、次の投稿で、「疫病の年に」のちょうど一年後、『世界』944号(2021年5月)に掲載された山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」という記事を参考にしつつ、少し検討してみたいと思います。

7272:2021/12/27(月) 15:54:33
ギブ・ミー・チョコレート
小太郎さん
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000356343
COVID-19発生後、二年以上経過しましたが、ワクチンに関しては、この本(2021年8月)が最も優れた啓蒙書ですね。
カタリン・カリコ女史のmRNAワクチンは画期的な業績ですが、日本人がファイザーとモデルナのワクチンに群がる姿は、終戦直後のギブ・ミー・チョコレートのような既視感がありました。

『スターリン葬送狂騒曲』(2017)という映画は、有楽町の映画館で見ましたが、ソ連の歴史をよく知らないせいか、呆れるほど内容を覚えていません。

7273鈴木小太郎:2021/12/27(月) 16:49:46
斎藤幸平氏とコロナ禍(その3)
岩波書店の『世界』は、同社の宣伝文句では、

-------
『世界』は、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌です。創刊以来70年余、日本唯一のクオリティマガジンとして読者の圧倒的な信頼を確立しています。とりあげるテーマは、政治、経済、安全保障、社会、教育、文化など多様ですが、エネルギー、地域、労働・雇用、医療・福祉、農と食などの分野の記事も掲載しています。 もっとも良質で、もっとも迫力ある雑誌をめざします。

https://www.iwanami.co.jp/magazine/

という雑誌だそうですが、「日本唯一のクオリティマガジン」はいくら何でも厚かましいですね。
私は『世界』に「良質な情報と深い学識」があるとは思えず、もちろん購読していませんが、944号(2021年5月)は「人新世とグローバル・コモンズ」を特集しているので、図書館でバックナンバーを覗いてみたところ、当該特集自体はそれほど感心しませんでした。

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特集1 人新世とグローバル・コモンズ

 人類は地球を圧倒する存在となった。
 今後は、地球を管理していかなければならない。
 ――SF小説のストーリー設定ではない。直面する現実である。
 地球史の中では一瞬の閃光にすぎない近代以降の人類の活動が、気候をはじめとする地球環境や生態系に破壊的な変化をもたらしつつある。
 科学からのメッセージは明らかである。我々に残された時間は少ない。この状況を科学的に早急に把握し、人類は協調して対処する必要がある。
 もし、それができなければ? 人新世=人類の時代も長くは続かないだろう。
 地球というグローバル・コモンズとの向き合い方を特集する。

https://www.iwanami.co.jp/book/b577044.html

まあ、「科学」というよりは「宗教」っぽい情熱に溢れた「論文」が多いのですが、この特集とは関係のない山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」には、『世界』にこんな「良質で、もっとも迫力ある」記事が載るのかと、ちょっと驚きました。
冒頭から少し引用してみます。(p32以下)

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前代未聞の薬剤─驚異的な開発スピード

 パンデミックの出口は見えず、世界の人びとは恐れと倦怠の日々を送っている。ただ、この長いトンネルの向こうにもワクチンという光がさしてきた。
 世界が新型コロナウイルスに翻弄されるなか、ワクチンだけは驚くべき速さで開発された。出遅れた日本でも、医療者への接種が先行して始まり、四月半ばには高齢者への接種が開始される。昨春、コロナの第一波が来たころ、一年後のワクチン実用化を予見した感染症専門家はほとんどいなかった。過去に最も早く開発されたおたふく風邪ワクチンでさえ認可までは四年かかったのだから無理もないが、「数年を要する」はずが実際には一年足らずで承認された。間違いなく、医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーションが起きている。
 ゲームチェンジャーの一人は、ドナルド・トランプ前米国大統領だった。昨年五月一五日、トランプ氏が記者会見で「できるだけ早く(ワクチンを)開発、製造し、供給したい」と訴え、開発計画に「ワープ・スピード(ものすごい速さ)作戦」と名づけたときは秋の大統領選を睨んだ大言壮語のように聞こえた。「マンハッタン計画(第二次大戦中の原爆製造計画)以来の大規模な試みだ」と語るにいたっては被爆国の人間としては鼻白むばかりだった。
 ところが、である。トランプ氏が確保した開発予算一〇〇億ドル(約一兆七〇〇億円)は、米国立衛生研究所と軍、製薬会社に結束を促し、有望なワクチン候補を絞り込んで開発を加速させた。製薬大手ファイザー社とドイツのバイオ企業ビオンテック社のコンビが先陣争いを制する。史上初めて、タンパク質をつくるための設計図=メッセンジャーRNA(mRNA)による感染症予防ワクチンを完成させ、承認を勝ち取ったのである。
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トランプは「リベラル」なメディアからは毛嫌いされ、その政策がきちんと紹介されることはあまりなく、また、特に新型コロナに関してはマスクを拒否する姿勢が目立ったので、非科学的な政治家であるかのような印象を与えていましたが、ワクチン開発への貢献はすごいですね。
バイデンは、少なくとも新型コロナに関してはトランプの遺産で食っているような人です。
さて、ではワクチン開発の具体的様相はどのようなものだったのか。(p33以下)

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 開発スピード、有効性、安全性、さまざまな意味でmRNAワクチンは前代未聞の薬剤だ。その開発の立役者は、ビオンテックの最高経営責任者で、トルコ生まれの免疫学者、ウール・シャヒン氏である。二〇二〇年一月中旬、中国が新型コロナの遺伝子情報を発表するとシャヒン氏は直ちにmRNAワクチンの作成に取りかかった。二週間後には一〇〜二〇種類のワクチン候補薬をコンピュータ上で設計し、得意先のファイザーに共同開発を持ちかける。両者はバートナーシップを拡大し、三月半ばには最大で七億五〇〇〇万ドル(八二五億円)の仮契約を交わした。
-------

いったん、ここで切ります。

ウール・シャヒン(1965生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%92%E3%83%B3

>筆綾丸さん
宮坂著は未読なので、レスは後ほど。

7274鈴木小太郎:2021/12/28(火) 12:13:50
斎藤幸平氏とコロナ禍(その4)
トランプの新型コロナワクチンに対する姿勢はトランプ支持者からも理解されていないくらいなので、左翼活動家のマイク・デイヴィス氏やマルクス考古学者の斎藤幸平氏が理解しにくいのは当たり前ですね。

トランプ氏、ワクチンの追加接種を受けたと発言 ブーイング受ける
https://www.cnn.co.jp/usa/35181142.html

新型コロナワクチンの開発そのものについて検討するのは私の能力を超えますから、あくまで資本主義との関係だけを見て行きたいと思います。
テキストも山際淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」に限定して、山際氏の見解が一応正しいことを前提にしておきます。
『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、一応の水準は確保されているはずですね。
なお、山際氏は、

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1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。
「人と時代」を共通テーマに近現代史、政治・経済、建築、医療など分野を超えて旺盛に執筆。著書は『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)、『原発と権力』(ちくま新書)、『国民皆保険が危ない』(平凡社新書)、『あなたのマンションが廃墟になる日』(草思社)ほか多数。

https://www.kouenirai.com/profile/6487

という人物です。
さて、前回引用部分の続きです。(p34)

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 ファイザーとビオンテックが選んだ戦略は「同時並行」方式だった。通常の新薬は基礎研究から動物を使った非臨床試験、人を対象とした治験(第一相〜三相臨床試験)で安全性と有効性を確かめ、当局に薬事申請する。承認後、生産体制を整備して供給を始める。
 だが、米独コンビは、安全性を確認する予備的な動物実験を行なうと、一挙に四つのワクチン候補の治験にとりかかった。ウイルスを迎え撃つ抗体を十分に産生できない候補は捨て、最良のものに絞り込んでいく。並行して生産体制を整えた。承認前の工場建設はギャンブルに等しい。審査機関の米国食品医薬品局(FDA)は、いくら急いでいるといっても有効性、安全性のチェックで手抜きはしない。仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた。まるでジェット機を飛行させながら機体整備をするような開発を完遂し、mRNAワクチンは世に送り出されたのだった。
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ということで、これが「医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーション」の概要ですね。
しかし、この「破壊的イノベーション」がアメリカとドイツでなければ起きなかったかというと、どうもそうではないらしいのです。
続きです。(p34以下)

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凍結された日本のmRNAワクチン開発

 水際だった手法と潤沢な資金、思い切った決断のどれが欠けてもイノベーションは起きなかっただろう。では、翻って日本のワクチン開発はどうなっているのか。出遅れは隠しようがない。政府関係者でさえ、「日本はワクチン開発において三周半遅れぐらいになってしまっている」と新型コロナ対応・民間臨時調査会のヒアリングに答えている。
 だが、あまり知られていないが、mRNAワクチンに関しては、三年前、日本も十分な可能性を保持していた。そのまま開発を継続していたら事態は一変していたはずだ。
 二〇一六年から一八年にかけて、日本でも感染症のmRNAワクチンのプロトタイプが作成され、動物試験で免疫原性(抗原などの異物がヒトや他の動物の体内で免疫応答を引き起こす能力)が確認されていたのである。逃した魚はとてつもなく大きかった。その先駆的研究は、免疫学者で、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のワクチン・アジュバント研究センター長だった石井健氏(現・東京大学医科学研究所教授)が製薬会社の第一三共と共同で主導していた。
 当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はなかった。いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていたのだ。
 歴史に「if」は禁句だが、もしも三年早く新型コロナ感染症の大流行が起きていたら、石井氏らの研究は対象をコロナに絞って治験へと進み、日本は大量のワクチンを外国から買うのではなく、輸出する側に回っていたかもしれない。いまから思えば千載一遇のチャンスだった。が、そうはならなかった。治験の予算はカットされ、プロジェクトは「死の谷」に落ちてしまったのである。石井氏は次のように振り返る。
「二〇一五年に韓国でMERS(中東呼吸器症候群)のアウトブレイクが起き、日本でも対策が急がれていました。第一三共さんがmRNAのテクノロジープラットフォーム(基盤技術の総称)の開発を一緒にやりたいと言ってくださり、厚生労働省に『緊急感染症対策』としてMERSウイルスのmRNAワクチン開発を提案して受け入れられました。MERSワクチンをつくっておけば、本物の高病原性の感染症が日本に伝播しても抗原の塩基配列、アミノ酸配列さえあれば、すぐに最適のワクチンがつくれます。しかもRNAやDNAのワクチン製造には、大きなタンクは必要なく、小さな工場を全国にたくさん設けて対応できる。そういうストラテジーで臨みました」
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長くなったので、いったんここで切ります。

新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)
https://apinitiative.org/project/covid19/

東京大学医科学研究所 感染免疫分野 ワクチン科学分野 石井健研究室
https://vaccine-science.ims.u-tokyo.ac.jp/message/

なぜ日本はワクチン開発に出遅れたのか?
連載・東大のワクチン開発の現状を追う?mRNAワクチン開発と研究環境
https://www.todaishimbun.org/covid_19_vaccine_20210414/

7275:2021/12/28(火) 16:39:54
緒方春朔
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%98%A5%E6%9C%94
日本発になりえたかもしれないmRNAの話を聞くと、ジェンナーより6年早かった緒方春朔を思い出します。もし春朔の人痘法が世界的に普及していたら、ワクチンの名は、vacca(牛)に由来するvaccineではなく、homo-(anthro-、andro-)という接頭語が付いていたかもしれないですね。

7276鈴木小太郎:2021/12/29(水) 11:14:42
斎藤幸平氏とコロナ禍(その5)
僅か三年前、2018年「当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はな」く、「いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていた」にもかかわらず、何故に日本のmRNAワクチン研究は失速してしまったのか。
続きです。(p35以下)

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 従来の病原体を弱毒化したワクチンや、感染能力を完全に失わせたウイルス、細菌、その一部からつくる不活化ワクチンは、鶏卵や細胞でのウイルスの培養に時間がかかるうえ、数十トン規模の培養タンクも求められる。
 一方、mRNAワクチンはウイルスの遺伝子配列に応じて短期間に小さな設備で開発できる。ウイルスが変異してもゲノム情報があれば数週間以内に改良が可能だ。まさにモックアップ、後々の改良を見込んで最初に製作するプロトタイプといえるだろう。
 石井氏らの開発は順調に進み、一年もたたないうちにMERSのmRNAワクチンができあがり、サルの実験でも非常によい免疫原性が得られた。さらにジカ熱や新型インフルエンザのmRNAワクチンのプロトタイプもつくる。いずれも動物実験で免疫原性を確認し、論文もまとめて、いざ臨床試験へ、とプロジェクトメンバーの士気は高まる。が、しかし。厚労省は治験の予算を認めなかった。基礎研究と非臨床試験の段階で数千万円だった費用は、人間相手の治験となれば億単位に増える。それを政府は出し渋った。ありていに言えば、「ここから先は企業とやりなさい。研究者が自分でやる必要はないでしょう」と突き放したのである。公共的観点でサポートを続けようとはしなかった。
 企業側も新たな投資に及び腰だった。そもそもワクチンの市場規模は医薬品全体から見れば非常に小さく、感染症の流行が終息すれば製剤は在庫の山と化す。投資に見合う利益が望めない。日本初の感染症mRNAワクチンは官と民の「死の谷」に落ちてしまった。
「反省をこめて言えば、MERSのアウトブレイクは終わり、ジカ熱や新型インフルに活路を見出そうともしましたが、まだmRNAワクチンは新しい技術で、誰もが飛びつくものではありませんでした。準備しておこうという雰囲気はあったけれど、私も含めて本当にこれが必ず必要になるという危機感や、それを政府や企業に伝えて治験を働きかける気合が足りませんでした。そこが反省点ですね」と石井氏は語る。
 こうして二〇一八年、日本のmRNAワクチンの開発は凍結されたのであった。
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ということで、厚労省が僅か「億単位」の「治験の予算」を認めていれば、日本が「全世界にコロナワクチンを提供」する可能性もあった訳ですね。
日本が釣り損ねた魚はあまりに大きかったとはいえ、ドイツのビオンテックとアメリカのファイザーも簡単に現在の地位を獲得できた訳ではありません。(p36以下)

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 じつはこの年、ドイツのビオンテック社も研究開発が分岐点にさしかかっていた。免疫学者のウール・シャヒン氏と医師で腫瘍学者の妻オズレム・チュレジ氏が設立したビオンテックは、二〇〇〇年代後半から一貫して、がんの免疫療法にmRNAワクチンの技術を活かそうとしてきた。がんは遺伝子変異に起因している。多様な遺伝子の変異が、がん細胞を異常に増殖させる。そうした変異に速やかに対応するにはmRNAを使った免疫療法、いわゆる「がんワクチン」がふさわしいと夫妻は考え、研究を積み重ねていた。
 同年夏、そこにインフルエンザのmRNAワクチンの開発が加わる。提案したのは提携先のファイザーのウイルス感染症研究者だった。ファイザー側はビオンテックのmRNAの生産能力の高さに目をつけ、毎年流行するインフルエンザのワクチン開発に技術を活用できれば、より速く、柔軟に対応できると期待した。背景には熾烈な競争がある。
 世界のワクチン市場は四一七億ドル(四兆六〇〇〇億円:グローバルインフォメーション調査、二〇一九年)と推定されている。感染症の有病率の高さや、ワクチン開発への政府支援の増加で今後五年に五八四億ドルに達すると予想される。年平均成長率は七パーセント。それがコロナ禍で一挙に拡大した。現時点で世界市場の約九〇パーセントを四大製薬会社が占めている(グラクソスミスクライン社二四パーセント、メルク社二三・六パーセント、ファイザー社二一・七パーセント、サノフィ社二〇・八パーセント「World Preview 2018,Outlook to 2024」)。ファイザーはメガファーマらしい貪欲さで、常に新分野の開拓を狙っている。ビオンテックはファイザーと四億二五〇〇万ドル(四七五億円)の契約を結び、インフルエンザ用ワクチンの開発、治験に乗り出した。
 ここが日本と米独との運命の分かれ目だった。mRNAをテクノロジープラットフォームの中核に位置づけ、戦略的に資金を投じられるかどうかが、のちに新型コロナワクチンを七〇〇〇億円かけて欧米の製薬会社から買うか、世界各国に売るかの差となって現れた。
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私は医薬品業界の事情は全く不案内なので、以上の山岡氏の分析が正しいのかどうか、評価する能力はありません。
ただ、何といっても『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、これを前提として資本主義の意義、国家の役割について、「左翼」や「リベラル」の人びとと対話することは可能だと思います。
果たして、コロナ危機で鮮明になった資本主義の最先端の動向に照らして、マルクス考古学者の斎藤幸平氏が肯定的に引用するマイク・デイヴィスのように、資本主義を敵視し、巨大製薬会社を潰さねばならないとする立場が正しいのか。
ま、少なくともマイク・デイヴィスが書いているような、「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」という事実がないことは、思想的立場が異なる人たちとも共通の認識とできそうですね。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11064

>筆綾丸さん
ま、一回負けただけですからね。
次の機会は近いかもしれません。

7277:2021/12/30(木) 12:00:19
宗教的なるもの
小太郎さん
資本主義とは関係ありませんが、欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない、という根本的な問題がありますね。かりに、日本がmRNAを最初に開発できたとしても、治験の段階で、スズキがフェラーリに追い抜かれるように、アメリカにスッと追い越されたように思われます。コロナに関して、compassionate use という言葉も話題になりました。
また、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は関係ないと思いますが、アメリカの治験の異常なスピードにはプロテスタント的なものが根底にあって、ブディズム、あるいはトッド流に言えばゾンビ・ブディズムは、亀のようにとぼとぼ歩くしかないのかなあ、という気がしないでもありません。

7278鈴木小太郎:2021/12/30(木) 13:45:30
斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)
>筆綾丸さん
>欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない

前回投稿で引用した部分の続きに、

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 もっとも、石井氏と第一三共の関係はプロジェクトが凍結されてもつながっていた。石井氏が二〇一九年に東大医科学研に移り、ラボを立ち上げて研究者を集め、実験ができるようになったところで新型コロナのパンデミックが起きる。逃した魚がふたたび近づいてきた。石井氏と第一三共はコロナのmRNAワクチンの開発に照準を定めた。そして、第一三共は今年三月下旬、ついに健康な成人一五二人を対象に治験を開始。二〇二二年中の供給をめざしている。石井氏は「動物実験では完璧です。ファイザーや、モデルナのワクチンに引けをとらないものができたと思います。ただ、臨床試験をしなくては本当のところはわからない。一年遅れで彼らと同じスタート地点に立てました」と感慨深げに語った。
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とありますので(p35)、現時点でどのような状況なのかは知りませんが、日本でも治験が著しく遅れるということはなさそうですね。
日本でワクチン開発が遅れた理由については山際淳一郎氏も分析していて、第一は反ワクチン運動、第二は安全保障の観点の欠如ですね。(p35以下)

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ワクチン開発を拒む国の消極姿勢

 ひと口に日本は周回遅れといっても、その裏には技術の種子が撒かながら収穫にいたらなかったケースが無数に隠れている。国としての戦略が問い直されるのはいうまでもない。それにしても、かつてはワクチン開発国だった日本が、どうして海外のメーカーに依存するようになってしまったのか。ワクチンと時代の移り変わりから説き起こしてみよう。
 戦後、日本は伝染病(感染症)の撲滅を掲げて復興に踏み出した。長く死因の第一位だった結核は特効薬ストレプトマイシンの導入で抑えられたが、発疹チフスや天然痘、ジフテリア、赤痢の流行が断続的に続く。一九四八年に「予防接種法」が制定され、「罰則付きの接種」が義務化された。政府は社会防衛を最優先し、ワクチン開発に拍車をかける。感染症による死亡者が大幅に減っていく傍ら、予防接種による健康被害が続出した。一九七〇年には小樽保健所での集団種痘接種でゼロ歳児が脊髄炎を発症する。一九七三年、種痘やインフルエンザ、ジフテリア、百日咳、ポリオ(小児麻痺)などのワクチンで脳性麻痺やてんかん、知的障害といった重い後遺障害を抱えた患者と家族六二組が「東京予防接種禍訴訟」を起こす。提訴の波動は大阪、名古屋、九州と全国へ広がった。
 ワクチン接種には副反応がつきものだ。たとえ一〇〇万人に一人の健康被害でも、当事者にとっては確率論では済まない厳しい現実そのものである。一九七六年、国は予防接種を「罰則なしの義務」とし、「健康被害救済制度」を創設する。一九八九年、MMR(おたふく風邪・ハシカ・風疹の三種混合)ワクチンの接種で無菌性髄膜炎が多発して集団訴訟が提起された。ワクチンに使われたウイルスが十分に弱毒化されていなかったための発症で、予防接種への不信感が募った。予防接種禍訴訟の原告勝訴が確定すると、国は方針を大転換した。一九九四年、予防接種を「義務」ではなく、「努力義務」に改め、「集団」から「個別」へと接種形態を変える。個人の選択に委ねる方向に舵を切った。
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いったん、ここで切ります。
「東京予防接種禍訴訟」の経緯については、自由人権協会サイト内の下記記事が簡潔にまとめていますね。

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この訴訟は、予防接種被害について、接種医師の責任を直接に問うことをせず、予防接種を強制し、その違反に対して刑罰を科すことまでしている国のみを被告として、その責任を正面から追及するはじめての訴訟でした 。裁判は、医学上、法律上の困難な課題に取り組みつつ、第1審の判決まで11年、控訴審の判決まで19年、控訴審判決で請求が認められなかった1家族についての最高裁判決、その後の差戻控訴審での和解まで26年の長い年月の経過を要しました。しかし、判決の内容は、いずれも被害者の司法に対する期待を受けとめ、被害の法的救済を実現させる画期的なものであり、法にもとづく被害者の救済と予防接種制度の改革を実現させる大きなインパクトをもたらしたのです。
1994年には、予防接種法が改正され、予防接種は「予防接種を受けるよう努める」義務となりました。

http://jclu.org/issues/vaccination/

また、弁護団により上下二巻の大著が出ています。

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1973年に提訴された予防接種被害東京訴訟(被害者62家族)の26年間にわたる裁判記録。予防接種被害の救済を求め、被害者とその弁護士が権利の実現のためにいかに戦い、裁判所がその使命をどのように果たしたか。第1編訴訟の概要・経過では弁護団の雑談会がリアルに物語っている。第2編以降では訴状、答弁書、準備書面等、さらに意見陳述、証言、尋問調書等、原告の「生の声」をも収録した貴重なドキュメンタリー。全2巻、総1820頁に訴訟の全てを凝縮。

https://www.shinzansha.co.jp/book/b188833.html

その編者は著名な弁護士ですね。

中平健吉(元裁判官・弁護士、1925-2015)
http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/topics150319.pdf
大野正男(弁護士・最高裁判所判事、1927-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%AD%A3%E7%94%B7

こうした裁判の内容が世間に正確に理解されたかは相当問題で、反ワクチンそのものが社会正義として語られるような風潮も強くなった訳ですね。
そして、その風潮が製薬業界にどのような影響を与えたのか。

7279鈴木小太郎:2021/12/30(木) 17:56:18
斎藤幸平氏とコロナ禍(その7)
続きです。(p38)

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 国の消極策は製薬業界の意欲を殺いだ。世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止める。しだいにワクチン未接種者が増え、二〇〇〇年代にはハシカや風疹が集団発生した。二〇〇八年には北海道で開かれた「G8主要国首脳会議」(洞爺湖サミット)では、事務局ホームページに「日本からハシカを持ち帰らないように、ワクチンを接種したかを確認し、まだの人は打ってください」と掲載される始末だった。
 開発力の衰えを痛感した厚労省は、新型インフルエンザの流行(二〇〇九〜一〇年)を機に国産ワクチンの振興を図ろうとする。「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業」と銘打ち、細胞培養法の製造工場の完成を期して四社に交付金を付けた。北里第一三共(現・第一三共バイオテック)三〇〇億円、化学及血清療法研究所(現・KMバイオロジクス)と武田薬品工業、阪大微生物病研究会には各二四〇億円が助成される。
 しかし、阪大微研は採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退。北里第一三共は当初の期限までに必要な供給体制を整備できず、さらに五年粘って設備の改良に努めたが目標に届かなかった。二〇一九年に補助金の一部を返上したうえに遅延損害金を払って終止符を打つ。武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている。
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「採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退」したはずの「阪大微研」が最後の文章に再び登場するので、変だなと思って、厚労省サイトの「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業(細胞培養法:第2次事業)評価委員会」というページを見たら、やはり「阪大微研」は早期に撤退していますね。

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-kenkou_128643.html

従って、「武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」は「武田薬品と【KMバイオロジクス】はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」の誤りですね。
ただ、最終評価である令和元年5月17日付の「「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、

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令和年5月13日に開催した新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会において、第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果について評価が行われました。その結果を踏まえて、今般その評価が確定し、全国民分へのワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価されましたので、その結果をお知らせします。

【評価対象事業者】
(1)KMバイオロジクス株式会社
(2)武田薬品工業株式会社
(3)第一三共バイオテック株式会社(旧:北里第一三共ワクチン株式会社)

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04757.html

とあり、更に「別紙:「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、

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(1)事業者ごとの評価
  ? KMバイオロジクス株式会社 【中略】
   A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
  ? 武田薬品工業株式会社 【中略】
   A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
  ? 北里第一三共ワクチン株式会社 【中略】
   C評価。事業目標のワクチン数量(約 4,000 万人分)を半年以内に製造可能な体制の整備は
   未達成。(これを踏まえ、助成金の一部を返還させることとした。)
(2)事業全体の評価
  ○ 小児用ワクチンの接種用量は成人に比べて少ないことを考慮すると、全国民への
   ワクチン接種が可能となる。
  ○ これを踏まえ、新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会(別添)に
   おいて、全国民分のワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価され
   た。

https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000509992.pdf

とのことなので、山岡氏の酷評との整合性が取れていないように見えますが、これは業界事情を熟知した、分る人には分かる文章なのでしょうね。
文章自体には全然曖昧さはないので、いわゆる「霞が関文学」とは別の問題であろうと思われます。
ま、とにかく、山岡氏の見解が正しいのであれば、予防接種禍訴訟を契機に社会のワクチンへの風当たりが強まって、「国の消極策は製薬業界の意欲を殺」ぎ、「世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止め」、「開発力の衰えを痛感した厚労省」が新たに投入した国の資金も無駄に終わってしまったようですね。
マルクス考古学者の斎藤幸平氏は、

-------
 コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

などと言われていますが、さすがに日本でワクチン開発に製薬会社が及び腰になっていたのは、そこまで単純な理由からではないですね。
斎藤氏はもともと思考が単純なのか、それとも「資本主義においては」、書籍の内容が正確か「どうかよりも、儲かるかどうかが優先される」ので、無内容でも「どんどん売れる」本が「重要だというわけ」で、集英社が、その利潤を最大化するために、愚鈍な大衆にも分かりやすい勧善懲悪の単純明快な説明を斎藤氏に要請したのか分かりませんが、おそらく前者でしょうね。

7280鈴木小太郎:2021/12/31(金) 12:24:50
斎藤幸平氏とコロナ禍(その8)
予防接種禍訴訟の弁護団は、自分たちが正義の戦いをしているとの揺るぎない自信を持って国を相手に戦ったのでしょうが、結果的に反ワクチンの風潮を生み出したことを現時点でどのように評価すべきなのか。
具体的には、HPVワクチンの接種が激減して、ワクチンを接種していたならば死ななくて済んだ多数の犠牲者を出してしまったことをどう考えるのか。
ま、これは専門知識のない私には判断が難しい問題ですが、羹に懲りて膾を吹いてしまったのではないか、という疑いはぬぐえないですね。

『子宮頸がんとHPVワクチンに関する最新の知識と正しい理解のために』(公益社団法人 日本産科婦人科学会サイト内)
https://www.jsog.or.jp/modules/jsogpolicy/index.php?content_id=4
「積極的勧奨再開について」(同)
https://www.jsog.or.jp/modules/news_m/index.php?content_id=1104

さて、山際淳一郎氏が日本のワクチン開発の遅れの原因として挙げる二番目は国防・安全保障の観点の欠如です。(p38以下)
このような指摘が「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)である『世界』に登場するのは非常に珍しい感じがします。

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安全保障の一環としてのワクチン開発

 現在、コロナワクチンを製造しているのは米、英、独、中、ロ、印の六カ国だ。これらの国々と日本の間には開発動機に決定的な違いがある。それはワクチンを、国防や安全保障の一環ととらえるか否かだ。遺伝子研究の世界的権威で、がんプレシジョン医療研究センター所長の中村祐輔氏は、一一年間の滞米生活の実感をもとに、こう指摘する。
「アメリカは常にバイオテロにさらされるリスクを考えながら、ワクチン、治療薬を開発しています。新しい生物兵器で攻撃されたときにどれだけ早く対応できるかに国の命運がかかっています。コロナのパンデミックは一種の戦争状態ですから、国防の視点で軍産官学が団結してワクチン開発を進める。日本にはそういう意識がまったくありませんから、比較にならないくらい開発基盤が弱い。バックグラウンドが全然違います」
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中村祐輔氏は今年、文化功労者に選出されましたね。
その経歴はあまりに華麗で、

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 1952年大阪府生まれ、68歳。1977年大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部第2外科(神前五郎教授)および分子遺伝学教室(松原謙一教授)から、1984年米ユタ大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員(レイ・ホワイト教授)を経て、1987年ユタ大学人類遺伝学助教授に就任。1989年に帰国後、癌研究会癌研究所生化学部長として、ユタ大学留学中に発見した遺伝子の反復配列VNTRを遺伝子多型マーカーとして活用し、家族性大腸腺腫症(FAP)の原因遺伝子として、がん抑制遺伝子APC遺伝子の単離・同定に世界で初めて成功した。
【中略】
 2011年から内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション室長を務めた後、2012年からシカゴ大学医学部腫瘍内科教授、兼、個別化医療センター・副センター長を務め、がん個別化医療の実現に貢献し、2018年より現職(公益財団法人がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長)に就任。現在も、個々の患者のがんゲノム情報に基づいたがん免疫療法の実用化を目指した研究を牽引している。
 また、2018年より内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「AI(人工知能)ホスピタルによる高度診断・治療システム」のプログラムディレクターに就任している。
東京大学名誉教授、シカゴ大学名誉教授。1996年武田医学賞、2000年慶應医学賞、2003年紫綬褒章、2020年クライベイト引用栄誉賞などを受賞。

https://www.jfcr.or.jp/genome/news/8932.html

といった具合です。
ここには記されていませんが、中村氏は東証マザーズに上場している創薬ベンチャー、オンコセラピー・サイエンス株式会社の創業者の一人で、中村氏がノーベル生理学・医学賞を受賞するのではないか、という噂で株価が変動するような立場の人ですね。

「<JQ>OTSが急落 ノーベル賞の期待剥落で」(日本経済新聞2020年10月6日)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL06HBG_W0A001C2000000/
オンコセラピー・サイエンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9

ま、こういう経歴の人ですから、中村氏はアメリカのワクチン開発の背景を熟知されており、その証言は信頼できますね。
さて、続きです。(p39)

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 バイオテロの危険性は東西冷戦の終結後に高まった。旧ソビエト連邦の生物兵器製造組織の人や情報が流出したからだ。ソ連崩壊後に米国に亡命した、生物兵器開発のリーダーで医学者のケン・アリベックは、自著『バイオハザード』で赤裸々に告白している。
「一九九〇年一二月、われわれはエアロゾルにした新型の天然痘兵器の実験を、ベクター(現・ロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター)の爆発実験室のなかで行った。実験は成功した。コンツォヴォ(ベクター所在地)に新しく建てた第一五ビルの生産ラインで、一年に八〇トンから一〇〇トンの天然痘ウイルスを製造できることが、計算で明らかになったのだ。これと並行して、野心に燃えたベクターの若い科学者たちは、遺伝情報を改造した天然痘ウイルスを開発しており、われわれはその分野でもこの生産ラインを利用できないかと考えていた。
 WHOが種痘の普及で天然痘を根絶したと宣言したのは一九八〇年だった。その一〇年後に自然界にはない天然痘ウイルスの開発が行なわれ、兵器に転用されていたことに驚きを禁じ得ない。一九九〇年代半ばには北朝鮮、イラク、イスラエル、イラン、中国、ロシア、インドなど一七ヵ国が生物兵器を所有している、と米国議会技術評価局(OTA)は上院の聴聞会で発表した。その後、このリストにはさらに多くの国が加わっている。
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ケン・アリベックの『バイオハザード』は1999年にアメリカで出版され、邦訳もあるそうですが(山本光伸訳、二見書房、1999)、私は未読です。

ケン・アリベック(1950生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF

少し検索してみたところ、山内一也氏(1930生、東京大学名誉教授)が同書について検討されていますね。

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霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第79回)6/25/99

 本講座(第69回)でソ連の生物兵器計画の実質的責任者で、1992年に米国 に 亡命したケン・アリベックKen Alibekの話としてソ連における生物兵器開発の状況 や マールブルグウイルスの実験室感染による死亡事故などをご紹介しました。今回、 彼 の書いた本「バイオハザード」が出版されました。かなり派手に宣伝されているの で 、お読みになった方もいると思います。
 彼の周辺での権力闘争、それにまつわるエピソードなどが多く紹介されておりソ 連 の軍事研究の実態は驚かされます。しかし実際に生物兵器に関する技術的な部分は あ まり多くありません。生物兵器の実態に関するレポートという観点では贅肉が多す ぎ ます。そこで私なりにソ連の生物兵器の実態に関する部分を拾い出して、その要約 を 試みてみます。

https://www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf79.html

ソ連からの亡命者が書いた本であるため、若干の誇張はあるのでしょうが、旧ソ連が生物兵器開発に熱心だったことは間違いないですね。

7281鈴木小太郎:2021/12/31(金) 14:25:12
斎藤幸平氏とコロナ禍(その9)
続きです。(p39)

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 そして二〇〇一年、イスラム過激派が旅客機でニューヨークの世界貿易センタービルを攻撃した「9・11同時多発テロ」の一週間後、米国でバイオテロ事件が起きる。テレビ局や出版社、上院議員に炭疽菌が封入された手紙が送りつけられ、五人が死亡、一七人が負傷した。中村氏は「事件直後、DOE(米国エネルギー省)から検査会社に炭疽菌をできるだけ早く検出できる検査キットを開発しろ、と指令が出て、私の友人たちは一所懸命それをやっていました」と回想する。
 捜査は長期化し、FBIの捜査線上に浮かんだ容疑者は米陸軍基地フォート・デトリック内の陸軍感染症医学研究所の微生物学者、ブルース・インビスだった。キリスト教原理主義者のインビスは、封筒に炭疽菌とイスラム過激派を装った脅迫状を入れて犯行に及んだとみられる。証拠を固めたFBIの告発が迫った二〇〇八年八月、インビスは解熱鎮痛剤を大量服用し、自ら命を断った。米国では、この炭疽菌事件後、「公衆の健康安全保障ならびにバイオテロへの準備および対策法」(バイオテロ法)が制定され、米国向けの輸出食品に厳しい規制がかかる。国際社会はバイオテロを、いま、そこの危機として受けとめた。
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「ブルース・インビス」とありますが、「イビンス」の誤記でしょうね。
ただ、ウィキペディアの英語版を見ると、「アイヴィンズ」と発音するようです。
自殺は事件の七年後で、FBIは別の人物を容疑者として追っていて、その人物との訴訟において約600万ドルの和解金で示談としたこともあったそうですから、相当な難事件だった訳ですね。

Bruce Edwards Ivins(1946-2008)
https://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Edwards_Ivins

それと、「いま、そこの危機」は clear and present danger の訳でしょうが、これはトム・クランシーの小説のタイトルで、映画化もされたので、「今そこにある危機」でないと何となく間の抜けた感じがしますね。
ま、それはともかく、中村祐輔氏のお名前と「炭疽菌」で検索すると、例えばこんな記事が出てきて、子宮頸がんワクチンについての言及もあります。

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中村 もう一つ大きな海外との意識の差があり、それはテロ対策です。2001年の9・11の直後に、アメリカで炭疽菌テロが起きました。アメリカにとってはバイオテロっていうのが現実のものなのです。その対策として、ワクチンは大きな柱の一つだったわけです。技術はもうがんで培われていて、がんゲノムのシーケンスなんてすぐにできるわけです。
【中略】
中村 免疫っていうのは、日本ではネガティブな面ばかりが強調され、それが大きくなっています。例えばワクチンで副反応が出たら、「危ないからワクチンをしない」となる。子宮頸がんワクチンがその典型です。だから日本だけが、子宮頸がんの発症率が下がっていない。ほかの国では子宮頸がんにならない時代になってきているのに、日本は高止まりしている。
 結局、「公衆衛生」という概念が、あまり理解されていない。みんなの利益を考えた場合、一部の人に副反応が出ていても、それはやっぱり絶対多数の人たちのために必要なのです。もし、子宮頸がんワクチンで副反応が出た場合は、どうして副反応が出たか、どんな人に出やすいのか、原因を調べて減らしていけばいい。

https://diamond.jp/articles/-/279795

さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏には、もちろん国防・安全保障といった観点は存在しません。
『人新世の「資本論」』全体を通しても、そのような観点は皆無なので、一度も考えたことがないのでしょうね。

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 コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058

とされる斎藤氏の資本主義の理解はあまりに素朴で、「越後屋」が悪役として登場する一昔前のテレビ時代劇のような感じがします。
山岡淳一郎氏も、もちろん製薬企業に経済的利益という目的があることには言及されていますが、それは反ワクチン運動とバイオテロを紹介した後の話です。(p40)

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金持ちしか医療を受けられなくなる日

 生物兵器は国際条約で禁じられている。憲法で平和主義を謳う日本がそれに手を出すことは許されない。戦中、陸軍軍医・石井四郎率いる「七三一部隊」が中国で犯した人体実験の蛮行の記憶も残る。しかしながら、バイオテロやパンデミックから国民の命を守る「専守防衛」の観点からのワクチン開発の議論は高まってもいいのではないか。
 海外諸国のワクチン開発の、もう一つの大きな動機は経済的利益の追求である。日本が購入契約を交わした三つの海外メーカーのワクチンの値段を比べると、それぞれの姿勢が見えてくる。WHOのデータによれば、ファイザー社のワクチンは一回=二〇ドル。五月に承認されそうなモデルナ(米国)社のmRNAワクチンは一回=三三ドル。ファイザーは年間二〇億回分、モデルナは一〇億回分の生産を見込んでいるので、単純計算で四〇〇億ドル(四兆三二〇〇億円)、三三〇億ドル(三兆五六四〇億円)の売り上げが立つ。
 これに対し、英国のアストラゼネカ社とオックスフォード大学が開発したウイルスベクターワクチンは一回=三〜四ドル。モデルナの約一〇分の一の安さだ。
 アストラゼネカ社のワクチンは、人体に無害な改変ウイルスをベクター(運び屋)として使う。新型コロナウイルスの遺伝子をベクターでヒトの細胞に運んでタンパク質をつくらせ、免疫応答を得る。ファイザーやモデルナのワクチンは超低温で保管しなくてはならないが、こちらは二〜八度の冷蔵庫に入れられる。有効率は七九パーセント、心配された血栓との因果も関係ないと確認された。総合評価の高いワクチンがこれほど安く提供されるのは、なぜか。英国が「パブリック(公)」の重要さをそこに込めているからだ。医療は広く公衆を支え、公正に分配されなくてはならないという哲理が脈打っている。アストラゼネカ社は「パンデミック期間中においては、営利を目的とせずワクチンを供給する」、つまり「原価で売る」と宣言した。
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利益獲得という目的がなかったら、例えばファイザー社とビオンテック社は「仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた」(p34)といった行動はとらなかったでしょうから、ファイザー・モデルナ社の価格設定を非難するのも変ですね。
ただ、資本主義といっても、アメリカモデルが唯一の選択肢ではないことは確かです。
この点でも、斎藤幸平氏の資本主義の理解はあまりに単純ですね。

7282鈴木小太郎:2021/12/31(金) 20:13:27
大晦日のご挨拶
最後の最後に「資本主義は「宗教」なのか」というタイトルの投稿をしようと思っていたのですが、来年への持ち越しとします。
皆様、良いお年をお迎えください。

なお、掲示板投稿の保管用のブログ「学問空間」では、12月13日の「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」以降の記事のカテゴリーを「鈴木ズッキーニ師かく語りき」に変更しました。
「ズッキーニ」は私の洗礼名です。

7283:2022/01/01(土) 11:09:07
白梅
小太郎さん
年頭の話らしくなくて恐縮ですが。
『回顧2021』(日経12月25日)の俳句として、東日本大震災10周年に触れて、次の句が掲載されていました。しびれるような名句ですね。
しら梅の二度頷きて呑まれけりー照井翠『泥天使』

7284ザゲィムプレィア:2022/01/01(土) 12:00:16
『人新世の資本論』の普及
今年も、小太郎さんの成果を楽しませて頂くとともに、時々お邪魔させていただきます。宜しくお願いします。

事情があり拙宅には毎月『浄土宗新聞』(発行は浄土宗)という印刷物が届きます。
1月号の鐸声というコラムで斎藤幸平氏の『人新世の資本論』が取り上げられています。
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斎藤氏は、人新世の文明の基盤である資本主義は、飽くなき利潤追求が目的であり、有限な地球の中で、必然的に、環境破壊、格差社会等の問題を引き起こしてしまうとする。
斎藤氏が提唱するのは、私たちの社会全体が、永遠に続く経済成長という神話から脱却して「足ることを知る」ことによる潤沢な生き方へ転換することである。
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そもそも本を読んでおらず鐸声子の記述を批評する資格がないのですが、仏教者が共産主義の色彩が強い斎藤氏の思想を取り上げるのは如何かと思います。

ところで、『鎌倉殿の13人』が始まります。頼朝や義時が描かれるのを見ないわけにはいきませんが、『平清盛』に失望させられたのは覚えているので録画してから見ようと思っています。

7285鈴木小太郎:2022/01/01(土) 16:44:43
新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。


>筆綾丸さん
>照井翠『泥天使』

釜石高校の国語の先生なんですね。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/81632

>ザゲィムプレィアさん
>1月号の鐸声というコラム

『浄土宗新聞』、ネットでも読めますね。

https://press.jodo.or.jp/news/

少し検索してみたところ、光圓寺という文京区のお寺さんのサイトに、

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 昨年の『武器としての資本論』に続いて(というか)、『人新世の資本論』を読んでいます。この著者、斉藤さんというのですが、何と高校の後輩であるそうで、まぁ中庸な学校から俊英が出たものだと感服しております。

https://kouenji.site/2021/11/22/%e9%81%a3%e3%82%8b%e3%83%bb%e9%a6%b3%e3%81%9b%e3%82%8b/

などとありましたが、斎藤幸平氏は芝学園出身なので浄土宗とは縁のある人ですね。
四十万部を超えたという『人新世の「資本論」』の購入者の中でも私ほど熱心に読んでいる人は少ないと思いますが、私は何故かツイッターでは斎藤氏にブロックされています。
思想は異なるとはいえ、もう少し読者を大切にしてほしい、と思わないでもありません。

「マルクスの青い鳥」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051

7286鈴木小太郎:2022/01/01(土) 21:16:29
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。

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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。

https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000

といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)

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姫の前との出会い

 頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
 御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
 彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
 義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
 二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
 娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
 このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
-------

うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、

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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。

「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012

7287鈴木小太郎:2022/01/21(金) 03:30:48
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
山本著では比企氏の乱を論じた後、姫の前への再度の言及があります。(p125以下)

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義時の活躍と葛藤
 比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は複雑であったに違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと考えられる。
 乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁するほかなく、加えて妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされたのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない。苦渋の決断であったとは思うが、実父の命令に従うほかはなかったのである。
 義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことであろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していたから、頼朝との誓約を守れなかったという負い目があったのではないだろうか。
-------

「乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し」とありますが、再婚相手は村上源氏傍流の歌人・源具親です。
歌人としては妹の宮内卿の方が有名ですが、具親も後鳥羽院が設けた和歌所の寄人であって、それなりの才能の持ち主ですね。
さて、姫の前と源具親の再婚が比企氏の乱の前か後かについては、一昨年(2020年)三月、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を出発点として少し考えてみたことがあり、その後も折に触れて検討を重ねてきました。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10175
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10176

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10187
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188
比企尼と京都人脈
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10189
紅旗征戎は吾が事に非ざれど……
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10192

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10864
呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10977
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10981

大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008
源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11021
「因幡守広盛」補遺
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11026

ま、私としては「姫の前」と義時の離縁、そして源具親との再婚は比企氏の乱の前であることは間違いないと考えています。
姫の前が源具親との間の子、輔通を元久元年(1204)に生んだことは動かせないですから、彼女が妊娠したのは同年三月くらいまでの時期です。
とすると、建仁三年(1203)九月二日の比企氏の乱で一族が全滅した後、「姫の前」が鎌倉から京都に移動し、具親と再婚してせっせと子作りに励んだ、というのはずいぶん忙しい日程であり、「姫の前」はものすごく神経が太いというか、殆どサイコパスのような人間になってしまいますね。

7288鈴木小太郎:2022/01/21(金) 07:28:31
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その3)
それにしても「姫の前」は本当に興味深い存在で、彼女と義時の離縁が比企氏の乱の前か後かによって義時の人間像が全く逆転してしまいますね。
山本氏の文章を借りれば、

-------
 比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は【特に複雑ではなかった】に違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、【少なくとも重時が誕生する建久九年(1198)までの七年間は】連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、【建久十年の頼朝頓死を契機として、「姫の前」側からの申し出で離縁した可能性が高く】、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと【は考えにくい】。
 乱【前】、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も【乱の前か後かは不明だが】伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁【したが、そのため、幸いにも】妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされ【ることなく、むしろ妻に離縁された屈辱を晴らすために良い機会を得た】たのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない【のが普通であるが、義時は二年後、姉・政子とともに父時政を鎌倉から追放している】。苦渋の決断であったとは思【われず】、実父の命令に従うほかはなかった【訳でもない】のである。
 【義時側から離縁を要求したのではないので】義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことで【はなく、妻から離縁されてしまった情けない夫の立場に置かれたことで】あろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していた【が、妻の方から離縁されてしまったので、結果的に】頼朝との誓約を守れなかったという負い目【を感じる必要がなかったことは不幸中の幸いで】あったのではないだろうか。
-------

ということになり、まるでオセロのように全てがひっくり返ります。
義時は比企氏の乱で苦悩するどころか、むしろ「姫の前」に離縁された屈辱を晴らす絶好の機会が到来した、と喜んだのではないか、二人の離縁は比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因のひとつだったのではないか、だからこそ義時は率先して比企氏打倒に活躍したのではないか、という具合いに、義時の比企氏の乱での行動は非常にすっきりと説明できそうです。
そもそも「姫の前」は無教養で無骨な義時などには全く魅力を感じることなく、しつこいラブレターにうんざりしていた立場です。
「姫の前」が義時と結婚したのは頼朝が無理強いしたからであって、三人の子ではなく、頼朝が「姫の前」と義時の「かすがい」であり、桎梏であった訳ですが、その頼朝が建久十年(1199)に死んだので、別に起請文など書いていた訳ではない「姫の前」としては、あっさりと義時に三行半を突き付けたのだろうと私は想像します。
そして、富裕な実家からの援助で京都まで大名旅行をして、義時とは違って知性と教養に溢れた歌人であり、由緒ある小野宮邸を伝承していてそれなりに豊かでもあった源具親と結婚し、幸せに暮らしていたところ、建仁三年(1203)九月、鎌倉で比企氏一族が滅亡するという大事件が発生したものの、既に実家と離れていた「姫の前」まではさすがに陰険な北条一族も手を出さず、「姫の前」は翌元久元年(1204)、無事に輔通を生んだ、ということになります。
さて、私が最後まで分からなかったのは「姫の前」と源具親の接点です。
この点、森幸夫氏は、

-------
源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188

などと言われていますが、いくら何でも不自然であり、私は比企家の京都人脈ではなかろうかと考えていました。
ただ、「姫の前」と義時の間の三人の子のうち、ただ一人生年未詳の竹殿は、まるで母「姫の前」の人生を反復するかのように、大江広元の息子・親広と離縁した後、土御門定通と再婚しています。
この竹殿の動向から見ると、竹殿の生年は割と早く、朝時に近いと考えるのが自然です。
とすると、重時が生まれるまでの間に若干の空白期間が想定できます。
他方、源具親は九条兼実のライバル・源通親に近い存在であり、通親と頼朝の関係を考えると、大姫入内の問題に「姫の前」も絡んだのではないか、という微かな可能性が出てきます。
頼朝としては、大姫入内の準備工作に「姫の前」を参加させ、「姫の前」は頼朝の要請で京都に行き、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、というのが現時点での私の仮説です。

大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008

ま、最後の方は史料的な裏付けを取ることが難しい話になってしまいますが、人間の心理としては、けっこう自然ではないかと思います。
いずれにせよ、比企氏の乱の直後に「姫の前」が義時から離縁され、直ちに京都に行って源具親と再婚し、子供を産んだという従来説はあまりに乱暴です。
私としては、森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者に失望した後、女性研究者の山本氏にそれなりに期待したのですが、残念ながら山本氏は従来説に何の疑いも抱いておられないようです。
従って、私としては山本氏が「もっとも北条義時に肉薄していると評価」することはできず、むしろ山本氏は全く的外れな方向にタックルして頓珍漢な義時像を描き出しているのではなかろうか、と思っています。

7289ザゲィムプレィア:2022/01/03(月) 09:14:53
姫の前の離婚の政治面の考察
姫の前の離婚と再婚の時期を比企氏の乱前とした方が自然だという小太郎さんの意見に賛成です。

結婚と離婚の政治的な意味を考えてみました。
北条氏は政子が頼朝の妻であり、舅の時政が頼朝を旗揚げ以来支援してきて幕府で枢要な地位を占めるとともに家の勢力を伸ばしてきました。
比企氏は比企尼に対する頼朝の信頼が篤く、頼朝の勢力が拡がるにつれ一族の人間が重用されて、家の勢力を伸ばしてきました。
比企能員の娘の若狭局が頼家の妻になり、二人の間に一幡が生まれ、将来将軍になることが予想されます。
そうなれば政子がいるために北条氏が占めていた特別な地位が比企氏に移ることになります。
それを北条氏が喜ぶはずもなく、比企氏もそれを認識していたでしょう。この地位の交代を円滑に進めるためのキーパーソンは、家督継承者であり既に十三人の一人になっていて姫の前と結婚している義時です。
北条氏の家督となる義時を適切に処遇し続ける、両氏の間にトラブルが発生した場合、必要なら家督同士が直に話合い解決を図る。これを比企氏の基本方針とするべきでしょう。
姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、
比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
しかし、そのようなことが起きた形跡はありません。吾妻鏡は義時と姫の前の結婚を隠していないのですから、もし義時が別の比企氏の女性と再婚していればそれを隠さなかったでしょう。
離婚が乱前ということは、北条氏と比企氏の間の亀裂を隠せなくなった或いは隠す気が無くなったということを意味するのではないでしょうか。

史料の裏付けの無い考察ですが、コメントを頂ければ幸いです。

7290鈴木小太郎:2022/01/03(月) 10:29:16
大河ドラマ愛好家さんのコメントへの回答
元旦の投稿「山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)」に対して、当掲示板の投稿保管用のブログ「学問空間」で「大河ドラマ愛好家」さんから長文のコメントをいただきましたので、こちらで回答致します。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669

まず、

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『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
-------

との点ですが、そもそも葉室定嗣とはいかなる人物かを確認しておきます。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、葉室定嗣は、

-------
没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年:承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。
(本郷和人)

https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%AE%9A%E5%97%A3-1102018

という人で、土御門顕親が出家した宝治元年(1247)六月の時点では、前年の九条家没落を受け、「専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった」立場です。
仁治三年(1242)の後嵯峨即位に多大の貢献をした土御門定通は、寛元四年(1246)の後深草天皇への譲位以降も後嵯峨院政において権勢を誇っていたので、その息子が出家してしまったことは貴族社会の大事件であり、土御門定通と「後嵯峨上皇の第一の側近」である葉室定嗣との間には密接な連絡の必要が生じることになります。
従って、定嗣の日記『葉黄記』は顕親出家に関する信頼できる一次史料であることは間違いなく、この点は私にも異存はありません。
しかし、この顕親出家騒動において、顕親の年齢それ自体が重要なのか。
顕親の出家時の年齢が二十六歳か二十八歳かで、出家騒動の様相が変わってくるのか、そして葉室定嗣の出家騒動に関する認識が変わってくるのかというと、そんなことは全然ありません。
定嗣は別に顕親の親戚でも何でもなく、顕親の生年に特別な関心を抱くような立場ではなくて、たまたまこの出家騒動の経緯を日記に記録するに際して顕親の年齢もメモ程度に記しただけです。
従って、聞き違い、記憶違い等の可能性は否めません。
次に『公卿補任』の信頼性についてですが、

-------
次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!
-------

との御指摘を見て、豊臣秀吉まで広げても、この程度の誤記しか見つからないのか、と私は吃驚しました。
実は私も『公卿補任』の年齢の誤りについて別の例を調べたことがあります。
それは後深草院二条の父、中院雅忠についての記述です。
雅忠は文永九年(1272)に四十五歳で死んだと記されているので、逆算すると、安貞二年(1228)生まれのはずですが、『公卿補任』をずっと追ってみると非常に奇妙なねじれがあります。
即ち、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
『公卿補任』自体に矛盾があり、雅忠は嘉禄元年(1225)生まれの可能性もあるのですが、まあ、これはある時点で誤記に気づいたということだろうと思います。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10183

さて、土御門顕親の出家時の年齢について『葉黄記』と『公卿補任』のいずれが信頼できるか、という問題に戻ると、私はやはり「書き継ぎの記録」である『公卿補任』の方が信頼性が高いと思います。
既に紹介しているように、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付は、

-------
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240

という具合いに相当詳細であり、記録に連続性があります。
『公卿補任』の年齢の誤記は、貴兄が十二世紀から十六世期まで調べても僅か四例しか見つけることのできないとのことなので、もともと顕親の生年に特に関心のない葉室定嗣の単発の記録より『公卿補任』の方が信頼性が高い、と考えるのが常識的ではないかと思います。

7291:2022/01/04(火) 09:08:54
葉室
小太郎さん
https://localplace.jp/t000174614
昔、この掲示板で、後鳥羽院の側近・葉室光親を悼んで、次のような駄歌を詠んだ記憶があります。
灌仏会
「この甘茶がいいね」と君が言ったから 四月八日は葉室幼稚園

姫の前に関する小太郎さんの新解釈によって、従来の学説が綺麗に覆るような気がします。

7292鈴木小太郎:2022/01/04(火) 16:28:10
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
「大河ドラマ愛好家」さんと私の地味なバトルはブログのコメント欄で続いていて、『公卿補任』の記載に何か問題があるようですが、今のところは先方の出方待ちです。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f11fffa1cf848113140648d3ec4984

この地味バトルでは何となく土御門顕親の生年が論点になっていますが、私は別に顕親が承久四年(貞応元、1222)生まれであっても困る訳ではありません。
承久の乱の終結は承久三年六月十五日ですが、その後、竹殿が土御門定通に再嫁して翌年顕親を生んだとすると、竹殿が妊娠するまではどんなに長くても八か月程度です。
京都守護でありながら幕府を裏切った前夫(大江親広)が行方不明になった後、ただちに再婚すること自体が些か妙な感じがする上に、新しい夫・土御門定通も後鳥羽方で戦闘に参加していた人ですから、処刑・配流等の処罰を受ける可能性も相当あった立場です。
そんな状況下で、再婚して子作りに励みましょう、というお茶目な行動を取っていたら、夫婦そろって相当に能天気なのではないか、という感じがします。
そして、結果的に定通が全く処罰されなかったことをどう説明するのか、という重大な問題があります。
念のため確認しておくと、承久の乱に際して、定通がそれなりの軍事的活動をしていることは『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ています。

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に向かっていますね。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
そして官軍の敗北後、源有雅は甲斐で、藤原範茂は相模でそれぞれ誅殺され、坊門忠信はいったんは死罪と決まったものの、妹で実朝未亡人、西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながっています。
しかし、定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
この処遇の差はいったい何なのか。
ま、定通が承久の乱の前に既に竹殿の夫であったためだろうと私は考えます。

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10244

>ザゲィムプレィアさん
>姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。

率直に言って、私はザゲィムプレィアさんの見解に全く賛成できません。
「姫の前」が主体性のない女として、比企家当主の命令のままに動く存在であるかのように考えるのは誤りだろうと思います。
そうした人物像は「権威無双の女房」という『吾妻鏡』の描写にそぐわないですね。
私が考える「姫の前」は頭の回転が速く、自分の意見をはっきり言い、しかも存在するだけで周囲が明るくにぎやかになるような華やかな女性です。
幕府の創業期が終わって、二代目・三代目の世代になると、家格や女性の役割が固定化され、女性が活躍する余地も狭まったでしょうが、創業期はまだまだ緩くて、才能に恵まれた女性は個性的な生き方が可能だったように感じます。
何より北条政子や板額御前がいた時代ですからね。

>筆綾丸さん
>葉室幼稚園
葉室定嗣が中興の祖である浄住寺のすぐ隣なんですね。
何か関係があるのかは分かりませんが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E4%BD%8F%E5%AF%BA

7293鈴木小太郎:2022/01/05(水) 11:42:43
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
『史伝 北条義時』(小学館、2021)の「あとがき」には、

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 岡山に生まれ育った私は、歴史を学ぶなら京都に行こうという単純かつ明快な理由から京都の大学に進学した。ここから大学・大学院とあわせて、十年もの間を京都で過ごすことになる。京都では、上横手雅敬先生・野口実先生・元木泰雄先生・美川圭先生といった第一線の中世史研究者からご指導を賜った。
-------

とありますが(p298)、学部は京都女子大だそうですから野口実氏の影響が一番強そうですね。
また、

-------
 なお、小学館から刊行されている雑誌『サライ』のウェブサイトでは、政子や牧の方など義時を取り巻く女性たちについて綴った文章を連載しているので、本書と合わせて読んでいただきたい。義時周辺の人間模様が、より立体的に描けるようになるはずである。
-------

とのことなので、『サライ』サイトで読んでみたところ、「京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】」は特に面白いですね。
この記事には、

-------
1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。

https://serai.jp/hobby/1033821

という指摘があります。
また、「続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】」に登場する牧の方の三女について、

-------
三女は、武士の宇都宮頼綱(1172〜1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172〜1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。

https://serai.jp/hobby/1036729

とありますが、「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という指摘は重要ですね。
さて、山本氏はこのように義時周辺の「なかなかパワフルな女性」たちに注目されながら、「姫の前」については、その評価はずいぶん消極的です。
山本氏は「三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう」(p91)、「彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」(p126)などと言われますが、子供が多いことから「琴瑟相和す夫婦」と決めつけるのは現代的な「良妻賢母」的発想じゃないですかね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081

義時周辺の「なかなかパワフルな女性」を正確に認識できる山本氏が、「姫の前」に限っては森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者と同じような女性像を想定するのは、結局のところ義時が書いたという起請文の呪縛ではなかろうかと思います。
神仏に離縁しないと誓った以上、その結婚は永遠なのだ、それを破った義時は苦悩に打ちひしがれたに違いない、とマッチョな研究者たちは思い込んでいますが、起請文を書いたのは義時だけ、という一番単純な事実を忘れていますね。
ここは「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という、多くの研究者が同意できるであろう認識に戻って、起請文など書いていない「姫の前」には離縁の自由があったと素直に考えるべきです。
重時が生まれた建久九年(1198)までの七年間はともかく、義時と「姫の前」が「およそ十年連れ添」ったとの史料的裏付けはありません。
「姫の前」が「権威無双の女房」であり、鎌倉から京都に移動して貴族と再婚した「なかなかパワフルな女性」であることを考えれば、源頼朝という「かすがい」ないし桎梏が死去した建久十年(1199)以降、ある時期に「姫の前」から離縁の申し出があって、二人は離縁した、と考えるのが自然です。
そして、その時期が早ければ早いほど、義時の心理的負担は減少し、比企氏の乱で率先垂範して比企邸に殴り込みをかけることができたはずですね。

7294鈴木小太郎:2022/01/05(水) 13:33:49
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
山本氏は『サライ』サイトで、「姫の前」についても「出逢いと別れはどう描かれる? 義時の最初の正妻、絶世の美女・姫の前―北条義時を取り巻く女性たち5【鎌倉殿の13人 予習リポート】」という記事を書かれていますが、これは『史伝 北条義時』と同じ内容ですね。

-------
さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。

https://serai.jp/hobby/1041312

「親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない」というのはどうにも変で、義時と政子は二年後の「牧氏の変」で時政と牧の方を鎌倉から追放しますから、少なくとも義時と政子にとっては「親権が絶対」ということはないですね。
なお、山本氏が紹介されている、

【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】
https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k

を見たところ、次のような悲しいやり取りがありました。

-------
とにもかくにも、ヨシトキ君は一目ぼれの人と結婚できたからハッピーエンドってことだね!
「いやいやいや、そんなに幸せな時間は長くは続かなかったんだ。頼朝様が亡くなったあと、頼朝様の長男頼家様が鎌倉殿になるんだけど、その頼家様が病気になってしまい、またまた次の鎌倉殿を選ばないと、って話になったんだ。
それで北条氏は頼家様の弟の千幡様(11歳)を、姫の前の生家、比企氏一族は頼家様の息子一幡様(6歳)を推して対立してしまい戦うことに……。僕は武士たちを率いて比企氏一族を滅ぼしたんだ」
それって、ヨシトキ君と姫の前の関係はどうなるの?
「そう、僕が先頭を切り姫の前の生家である比企氏一族を滅ぼしたんだから………。やっぱりね。離れるしか道はなかったんだ」
結婚している相手の一族と戦うなんて残酷な出来事だな。
「うん、800年経っても忘れらないよ。あの戦いのことも、姫の前のことも。姫の前との間には二人の子供もいたしね」
その後の姫の前はどうしたんだろう。
「僕と離れてからの姫の前は京に引っ越し、しばらくして貴族と再婚したらしい。幸せだったらそれでいい、幸せを願うしか僕にはできないから」
そういえば、ソレちゃんは姫の前にそんなに似ているの?
ヤッダー!
「うん、髪の毛が長くて黒いところなんて、そっくりだよ!」
そこ!?
よし! 元気出せ! ヨシトキ君! 夕日に向かって走るよ!
「よく分らないけど、いくよ」
おー!!
-------

「姫の前との間には二人の子供もいたしね」は変で、実際には朝時・重時・竹殿の三人ですね。
監修者は山本氏ではなさそうです。

7295:2022/01/06(木) 12:40:34
女のgenealogy
初歩的な疑問で恐縮ですが。
?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。
?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。何か意味があるはずである。この竹の重複は何を暗喩するのか。

付記
竹はパンダの主食というような知識は鎌倉時代にはおそらくなく、また、爺臭い竹林七賢も関係ないだろう。比企氏の家紋には竹の葉の図柄があり、武蔵国比企郡及び鎌倉比企谷は筍で有名であった、というのは、ドコモダケならぬ孟宗(妄想)竹である。

7296鈴木小太郎:2022/01/06(木) 14:22:41
『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在
「姫の前」と義時の関係は、その結婚に至る経緯が「ヨシトキ君の恋バナ」として面白い上に、通説、というか私の超絶単独説以外の定説では最後に悲劇的結末が待っているので、これまた視聴者の涙を誘って大いに盛り上がりそうです。
従って、大河ドラマに「姫の前」が登場しないはずはないと思うのですが、不思議なことに、「鎌倉殿の13人」サイトを見ても、「姫の前」のいるべき場所は未だに空白です。

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/cast/01.html

私としては、ナレーターの長澤まさみが怪しいと思っていて、長澤まさみは「権威無双の女房」として最も適役のように思われるので、実は彼女が「姫の前」でした、という展開になるのではないかと疑っています。
当たれば自慢したいので、ここに記しておきます。
なお、ツイッターで相互フォローしているエミさんは、

-------
初恋の人・八重役の新垣結衣ちゃんが2役やるっていうのはどうでしょう?
初恋の人に似てるから好きになった説。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1478592840007831552

という説を提唱しておられます。

>筆綾丸さん
>?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。

前者は分かりませんが、朝時は『吾妻鏡』建永元年(1206)十月二十四日に「相州二男〔年十三〕於御所元服。号次郎朝時」とあるので、実朝の偏諱でしょうね。

「吾妻鏡入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma18d-10.htm

>?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。

これは私も前々から気になっているのですが、ちょっと分からないですね。

7297鈴木小太郎:2022/01/06(木) 14:32:56
資本主義は「宗教」なのか。
中世史の話題は大河ドラマの進展に合わせて随時取り上げることにして、そろそろ「新しい資本主義」の問題に戻ります。
正月三日、Eテレで夜十時から「100deパンデミック論」という番組をやっており、司会者の伊集院光以下、斎藤幸平(経済思想家w)・小川公代(英文学者)・栗原康(政治学者)・高橋源一郎(作家)といった、頭が悪いか性格が悪いか、もしくは両方を兼ね備えた人たちが「白熱トーク」をやっていました。

-------
古今東西の「名著」を、25分×4回=100分で読み解く「100分de名著」。スペシャル版として「100分deパンデミック論」を放送します!
今回は、「パンデミック」がテーマ。多角的なテーマから名著を読み解くことで、「パンデミックとの向き合い方」について考察します。
通常の4回シリーズではなく、100分間連続の放送でお届けします。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2022special/

私も最初の二十分ほど見て、予想通り陰気で知的水準の低い番組であることを確認してから「マツコの知らない世界大新年会SP」に変えましたが、斎藤幸平氏は、まあ、よくしゃべる人間ですね。
あれだけ無内容なことを連続的に話す能力は私にはなくて、その点は敬意を表したいと思いました。
さて、コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論なのですが、そうはいっても、旧来のコミュニズムは貧乏が正しいなどとは絶対に主張せず、生産力=富の増大と公平な分配を主張しつつも、実際にはそれがうまく機能せず、結果的に社会の全体的な窮乏化をもたらす宗教でありました。
この点、斎藤氏は貧乏それ自体が正義であることを確信しており、みんなで貧しくなろう、それもなるべく早く、という「加速主義」ですね。
斎藤理論は確かにある意味ではコミュニズムのコペルニクス的転回であり、すごいといえばすごいですね。
ところで、コミュニズムが何故「宗教」かというと、それはコミュニズムが「殉教者」を伴うからです。
マルクスの『資本論』等のコミュニズムの「根本聖典」自体に「殉教者」を要求する主張があるかというと、そこは若干の議論が必要でしょうが、少なくともレーニンは明らかに「殉教者」を求めていますね。
そして、理論ではなく現実の歴史を振り返れば、コミュニズムの歴史は夥しい「殉教者」に溢れています。
戦前の日本に限っても、『しんぶん赤旗』の記事によれば、

-------
1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html

とのことで、この全部がコミュニストという訳ではありませんが、「転向」を肯ぜず、思想に殉じたコミュニストの数は大変なものですね。
また、戦後は、いわゆる「新左翼」の「内ゲバ」で百人近い犠牲者が出ており、これも当該組織を離れれば殺されることはなかったのに、離脱せずに結果的に死に至った人々ですから「殉教者」に含めることができるはずです。
このように、コミュニズムは多数の「殉教者」を伴う「宗教」ですが、では資本主義は「宗教」なのか。
マックス・ウェーバーは資本主義とプロテスタンティズムの関連を追求しましたが、日本のように住民の多数がキリスト教を受けれなかった土地でも資本主義は根付いているので、資本主義とプロテスタンティズムの結びつきは必然的なものではないですね。
ただ、そうはいっても、資本主義に「殉教者」が伴うならば、プロテスタンティズムとの関係とは別の意味で、資本主義を「宗教」と呼ぶこともできそうです。
果たして資本主義の歴史の中で「殉教者」はいたのか。

7298:2022/01/07(金) 13:01:51
受信料
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/Q69QJ41RGW/
間違って、この番組を見てしまいました。
坂井孝一氏は平凡なことしか言わず、井上章一氏は食えない人で、中野信子氏は脳科学者(?)らしくトンチンカンなおしゃべりをしてました。受信料の無駄遣いとしか思えない内容でした。

7299鈴木小太郎:2022/01/07(金) 21:16:43
資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
資本主義に「殉教者」はいるのか、とか大仰なことを書きましたが、コミュニズムと違って資本主義は基本的に体制側の理念・思想なので、「殉教者」が必要になる状況自体が考えにくいですね。
ま、ロシア革命やキューバ革命などは「殉教者」が登場してもおかしくない事態でしたが、革命的争乱の中で、自分個人の財産権を守るために命を捧げた人は多くとも、資本主義という理念・思想を守るために命を懸けた人はあまりいなさそうです。
もう少し広く、「自由」を守るために命を懸ける、となるとそれなりに格調が高く、「殉教者」も多少はいそうですが、資本主義≒経済的自由に限定してしまうと、いささか格調が低くなり、「殉教者」は生まれにくいですね。
従って、「殉教者」がいないから資本主義は「宗教」ではないのだ、という結論になりそうですが、しかし、そもそも前提として「宗教」をどう定義するか、という問題があります。
先にコミュニズムについて検討した際に、「コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論」などと書きましたが、こうした悪意のある冗談ではなく、真面目にコミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います。
これは国際日本文化研究センター教授の磯前順一氏風に言うと、コミュニズムが「ビリーフ」っぽいからですね。
磯前氏の『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』はなかなか難解なので、石川明人氏の『キリスト教と日本人』(ちくま新書、2019)から、そのエッセンスを紹介すると、

-------
 磯前順一は『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』のなかで、日本語で「宗教」に統一される前の religion の訳語には、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)を中心としたものと、「ビリーフ」(概念化された信念体系)を中心とするものとの二つの系統が存在していたと述べている。前者には「宗旨」「宗門」など、後者には「教法」「聖道」「宗教」などが例としてあげられている。
 そして彼によれば、一九世紀後半に religion の概念をもたらしたと同時に日本へのキリスト教宣教の主流となったプロテスタントは、儀礼的要素を廃するビリーフ中心のものであり、プラクティスを中心とした近世日本的な「宗旨」の概念とは嚙み合わなかったため、religion の訳語としてはビリーフ系統の「宗教」が選ばれることになったのではないか、という(三六〜三七頁)。
 一九世紀後半は、「宗教」という日本語も、「キリスト教」という日本語も、ともにまだ出来たばかりのものであった。それらがいったい何なのか、どう理解すべきかについては、当事者たちのあいだでさえしばらくは不安定なものだったのである。
-------

といった具合です。(p217以下)
この磯前理論を前提とすると、「殉教者」のいない資本主義は「ビリーフ」(概念化された信念体系)的な宗教ではないとしても、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)的な宗教の可能性は残ります。
またまた悪意のある、しかも更に出来の悪い冗談を言い始めたな、と思われる方がいるかもしれませんが、苛烈な競争を伴う資本主義が利潤追求のために膨大な数の死者を生み出してきたことを考えると、これらの死者は資本主義の神に捧げた「生贄」ではなかろうか、という見方も、まんざら冗談でもない響きを帯びてくると思います。
営利企業のあくなき利潤追求の過程で生じた労働災害による死者、競争社会の精神的重圧に追い詰められた自殺者、更に斎藤幸平氏が問題にするような環境破壊による死者等々、資本主義はその成立期から現在に至るまで、膨大な数の労働者・市民に死を要求してきたことは紛れもない事実です。

-------
磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』(岩波書店、2003)

日本において,「宗教」概念はどのように誕生したのか.「宗教」という視座によって,従来の心性構造はいかに変貌し,いかなる言説の空間が開かれたのか.「宗教」概念が導入された幕末,「政教分離」の成立した明治20年代,そして「宗教学」が構築された明治30年代に焦点をあて,近代日本における「宗教」の命運をたどる.

https://www.iwanami.co.jp/book/b264880.html

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石川明人『キリスト教と日本人─宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書、2019)

日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072344/

>筆綾丸さん
『英雄たちの選択』は磯田道史氏が苦手なので見ていませんが、「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」は井上章一氏が出たのですか。
正直、専門的知識のない井上氏が何のために出てくるのか、よく分らないですね。
国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏による井上所長への忖度、おべんちゃらでしょうか。

7300キラーカーン:2022/01/08(土) 00:09:42
そういえば
>>コミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います

多分『ソビエト帝国の崩壊』だと思いますが、小室直樹は、宗教をマックスヴェーバー流に

『ある個人に一定の行動様式を形成させる一定の心理的なもの』(うろ覚えですが)

と定義すれば、共産主義のような「イデオロギー」も十分「宗教」として語るに足るものとなると述べていました。
(小室は、儒教もその意味での「宗教」であるとしています。何故なら、孔子は「怪力乱神を語らず」と多くの宗教が有する超常現象や死後の世界などの分野については何も語っておらず、儒教は祭祀の体系であり、その点において「イデオロギー」に近いとしています。さらに言えば、俗にいう「現世宗教」もその類かもしれません)

7301:2022/01/08(土) 12:35:36
宗教的動機
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613410
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佐藤??大平(正芳)さんはたしかに半端ではない読書家でした。
池上??あと吉田茂がいますね。(中略)
佐藤??もう一人のインテリ総理と言えば、石橋湛山ですね。(中略)そして、大平と石橋の二人に共通しているのは、強力な宗教的動機があることです。
池上??たしかにそうです。
佐藤??大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派で、石橋は日蓮宗で得度した僧侶です。二人は政治をやる背景のところに、つまりエトスのところで宗教的動機があって、それが本を読むことにつながっていたんじゃないか。超越的な使命を持っていたという意味では、二人はちょっと珍しいタイプかもしれません。(196頁)
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池上・佐藤両氏が、枝野幸男、志位和夫、不破哲三各氏に言及しているところなどは、まるで漫談のようで笑えます。

7302鈴木小太郎:2022/01/08(土) 21:05:01
磯前順一氏と京極純一氏、そして大平正芳元首相について
私は一時期、磯前順一氏を大変な知識人だと思ってけっこう尊敬していたのですが、東日本大震災以後、磯前氏の著書に何だか違和感を感じるようになり、単著では『死者たちのざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社、2015)は納得できず、更に磯前氏が非科学的な反原発活動家である島薗進と共著を出すようになったのを見て、今は全く遠ざかっています。

磯前順一(1961生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E5%89%8D%E9%A0%86%E4%B8%80

ただ、磯前氏の2000年代初めの頃の著書・論文は学問的に極めて洗練されており、明治維新前後の訪日外国人の記録を検討する際には『近代日本の宗教言説とその系譜』は本当に参考になりました。
この掲示板でも2019年に「国家神道」を論ずる際に磯前著を参照しましたが、その際には「宗教」の定義に関して、

-------
訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10073

てなことを論じていました。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)も「宗教学」とは何かを考える上で本当に参考になりました。

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9996
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10012

私もかれこれ三十年近く人文系の研究者の世界を外部から観察していますが、四〇歳前後で学問的にピークを迎える人が多いなと漠然と思っていて、磯前氏もその一人ですね。

>キラーカーンさん
私は小室直樹は全然読んだことがありません。
前にも書きましたが、私の場合は京極純一氏の講義でコミュニズムとキリスト教の類似性の話を初めて聞きました。
非常に醒めた言い方だったので、私はずっと京極氏を無神論者と思い込んでいたのですが、その京極氏が東京女子大の学長になったと聞いたときはちょっと驚きました。

京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8208

>筆綾丸さん
>大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派

少し検索してみたら、リンク先ブログに「聖公会の信徒として、葬儀は立教学院諸聖徒礼拝堂で行われました」とありますね。

http://people.tenjounoao.com/christian/oohiramasayosi.html

また、住家正芳氏「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」(『立命館産業社会論集』2019年12月)という論文を読んでみたら、大平正芳が十八歳のときに参加した佐藤定吉の「イエスの僕〔しもべ〕会」というのは、救世軍などに近い運動形態の、当時としても相当に急進的な団体だったようですね。
佐藤定吉は若くして東北帝国大学教授となった化学者で、科学とキリスト教の関係の究明を終生の課題としていたようですが、だんだん国粋主義的方向に進み、現在のキリスト教史では位置づけが非常に難しい存在になってしまったようですね。
晩年には、

-------
 佐藤は,先に挙げた大平の回顧の前年,1937(昭和12)年の年末に『皇国の世界指導原理』と題する共著を出版して「神が,皇国を世界歴史第二の発足点として選んでゐ給ふ事は歴然たる事実」(佐藤・原1937:12-13)であるとしており,「愛国的皇室中心主義」への傾斜をさらに強めていた。昭和10年(1935年)以降の佐藤は『信仰殉国』『国体と宗教』『皇国日本の信仰』『皇国信仰読本』『皇国信仰概説』『皇国神学の基礎原理』『皇国信仰鉄壁の布陣』などのタイトルの著作を矢継ぎ早に出版し(佐藤定吉著書目録:277-278),1941(昭和16)年には「イエスの僕会」を「皇国基督会」と改名するに至る。これは息子である佐藤信の目にも,「確かに戦時中,父は時流に乗って日本精神を強調し,栄光の日本を夢見ていた」ように映ったが,「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していた」ようでもあり,「日本精神の完成こそキリスト教の十字架であると信じていた」という(佐藤1970:560)。

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313

といった境地に達していたそうです。
ま、大平正芳はそこまで変化する前に離脱したようですが。
少し興味が湧いてきたので、後で大平正芳の回想録を見て、思想的・宗教的変遷を確認してみたいと思います。

7303:2022/01/09(日) 14:39:40
伝カルヴァン墓
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE-%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%9C%B0-%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%91%97%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1/46016586
十年程前、ジュネーブ郊外のCERNを訪ねた折、掃苔と称してプランパレ墓地の中をぶらぶらし、大平元総理は訪ねたことがあるのかどうか、知りませんが、伝カルヴァンの墓を見たことがあります。カルヴァンについてはほとんど知識がなく、ふーん、こんなものか、と思っただけで、むしろ、ボルヘスの墓を見たとき、こんなところにあるのか、と驚きました。
ホテルへの帰路、レマン湖の畔で、湖面に戯れる二羽の白鳥に話しかけたのですが、白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

7304鈴木小太郎:2022/01/09(日) 18:33:14
「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」
図書館で『大平正芳回想録』(鹿島出版会、1983)を借りたら、「回想録」というタイトルに反して638頁の詳細な伝記で、今はちょっと全部は読めないですね。
住家正芳氏の「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」に、

-------
 佐藤の講演に感化され,浅間山麓での修養会や青山での講演会に参加した1928(昭和3)年から10年を経た1938(昭和13)年,大蔵省に入省して仙台税務監督局間税部長となっていた大平は,ともに「イエスの僕会」で活動した友人を追悼して次のように回顧している。

 昭和三年から五,六年頃にかけて母校に在学せし諸君は「イエスの僕会」なる団体の
 果敢な活動を記憶されていることと思う。それは当時全国の大学高専を遊説されて多
 数の共鳴者を獲ち得た工学博士佐藤定吉氏の自然科学的宗教観に魅せられた一群の学
 生の結社で,既成の YMCAの萎靡沈滞に対する反動も手伝って或は校庭に或は街頭に
 この群独特の活潑な動きを展開していた。成程初期に於ては運動の焦点の見定めがつ
 かず綱領自体に清算さるべきものもあったので何かしら地につかない突飛な相貌を呈
 していたかも知れない。或は当時の学生層に喰入っていた一般的不安をこう言った側
 面から発散させようとする一つのもがきとして一般に受取られていたかも知れない。
 しかしともかくこの群は一つの異様なセンセーションを校の内外に捲き起し相当優秀
 な学生の多くを自己の陣営に迎えていた。そして彼等は抑え難い内面的闘争と清算の
 過程を辿って或者は基督教の正統に導かれ或者はこれを捨てて行った。
(大平[1938]2010:338)

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313

とありますが、これと同じ文章が『大平正芳回想録』にも載っていて、その後に編者が、

-------
 大平自身は"正統に導かれたもの"か、あるいは"これを捨てたもの"か、この文章ではどちらとも明らかにされていない。しかし、その後を見るとき、彼は、聖書に親しんだ形跡は窺われるにせよ、キリスト者としての自らを強調したこともなく、ましてや伝道の挙に出たこともなかった。そういう点からするなら、おそらく右の一文は"イエスの僕会"に熱中した若き日の自分への別れの言葉であったのであろう。
-------

という見解を述べていますね。(p44)
高松高等商業を卒業した大平は、佐藤定吉のパトロンとなっていた実業家が経営する桃谷順天館という化粧品会社に就職した後、二十三歳のときに東京商大(現・一橋大学)に入学しますが、

-------
 大学へ入学して以後も、正芳のキリスト教への関心は継続し、もっぱら聖書を通じて、信仰を深めようとした。『私の履歴書』によれば、大阪時代から矢内原忠雄の著作には傾倒しており、自由ヶ丘の矢内原邸を訪ねて「聖書研究会」に参加した(ただし、矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない)。
 また、世田谷区東松原の自宅で聖書の講義をしていた香川豊彦の門をたたいたこともあった。【後略】
-------

とのことで(p51)、「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」のだから、行ったとしても数回で、目立たない存在だったのでしょうね。
ま、矢内原忠雄の聖書研究会も独特の排他的な雰囲気があったらしく、なじめない人がいたとしても無理はありません。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8971
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8977

パラパラ眺めただけですが、結局、この後はキリスト教関係の話は出て来なくて、「エピローグ 永遠の今」に、

-------
 大平首相の遺体は、病理解剖に付されたあと、しばらく地下一階の霊安室に安置された。【中略】遺体の前で顔を合わせる遺族たちの悲嘆を慰めるように、東京聖チモテ教会の沢邦介牧師が"主ありて世を去りし信徒の霊魂安らかにいこわんことを"と祈りを捧げた。
-------

とあり(p614)、聖チモテ教会は聖公会ですから、密葬は聖公会の儀礼で行われたのでしょうね。
ただ、その場所は何故か書いてなくて、「立教学院諸聖徒礼拝堂」だったかは分かりません。
正式な葬儀は「国葬」ではなく、「内閣・自由民主党合同葬儀」として日本武道館で行われたそうですね。(p615)
若い頃を除くと、意外にキリスト教の色彩の稀薄な人生だったようですね。

>筆綾丸さん
>白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

私も東北にいたときに白鳥をやたら観察する機会が多かったので、何だか白鳥は食傷気味です。
確かに悪そうな顔をしていますね。

7305:2022/01/10(月) 14:34:40
娼婦ソーニャ
小太郎さん
大平正芳の『田園都市国家構想』を継承する岸田首相が、愛読書として、ドストエフスキーの『罪と罰』を挙げていたときは、えっ、とまず驚き、ついで、かりにそうだとしても、還暦過ぎの爺さんなら、そんなこと、恥ずかしくて言えないんじゃないの、と二度驚きましたが、あの小説の登場人物のなかでは、娼婦のソーニャだけがキリスト教的で、もし岸田首相がソーニャのファンだとすれば、岸田は大平のキリスト教的な精神の正統な継承者だ、と言えるのかもしれませんね。

昨日、『鎌倉殿の13人』を見て、つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか、というような、いやーな予感がしました。
追記
こういう真面目な見解もありますが。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91246?imp=0

7306ザゲィムプレィア:2022/01/10(月) 20:36:15
呉座勇一氏のレビューについて
筆綾丸さん
呉座氏は工藤祐経にふれていないですね。定説では祐経は祐親により京に送られ貴人に仕え雅な人間に仕上がり、頼朝に気に入られ側近になっています。
ドラマでは浮浪者のようなキャラクターで現れて頼朝に仕えるようになり、千鶴丸が殺されて頼朝に祐親の殺害を指示されました。
曽我兄弟の仇討について、頼朝もターゲットだったという説があります。三谷氏はそのようにストーリー展開するするつもりで伏線を張ったのかもしれません。

7307鈴木小太郎:2022/01/11(火) 11:20:31
斎藤幸平『人新世の「資本論」』についてのまとめ
そろそろ資本主義は「宗教」なのか、というコンニャク問答は終わりにしたいと思いますが、仮に資本主義が「宗教」であるとしたら、その神はヤヌスのように、少なくとも二つの顔を持っていますね。
ひとつは豊穣を約束する顔であり、もうひとつは生贄を求める残酷な顔です。
ただ、生贄を求めるのはコミュニズムも同じであり、資本主義が求めた生贄の人数とコミュニズムが求めた生贄の人数を比べたら、まあ、スターリンの大粛清や毛沢東の文化大革命、更にポルポト率いるクメール・ルージュの大虐殺等々の輝かしい歴史を誇るコミュニズムの方が優勢でしょうね。
さて、去年、というか先月の13日に「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」という投稿をして以降、主として自称・経済思想家、客観的にはマルクス考古学者の斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』を検討してきました。

-------
【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/

ただ、これはもちろん同書が素晴らしい著作だからではありません。

斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)〜(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11036
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11040
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11042
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11043
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11047
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11048
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11049

斉藤氏がアメリカ出羽守でもドイツ出羽守でもなく、実は日本出羽守であったというのは私にとっても意外な発見でした。
斎藤氏は「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」を受賞したのが自慢のようですが、別にノーベル賞のように賞金がもらえる訳でもなさそうで、数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞のようです。
要は「マルクス互助会」の宣伝戦略ですね。

マルクスの青い鳥(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11052

さて、そんな斉藤氏がマルクスの正統的な後継者かというと、私は疑問を感じます。
1818年にプロイセンで生まれたマルクスは、1883年にロンドンで客死するまで、自然科学を含め、諸学問の最新の動向に関心を持ち、自身の理論を、その時代において最新の水準に保とうと終生努力した人ですが、斎藤氏にそのような姿勢があるのか。
マルクスが死んでから104年後、1987年に生まれた斎藤氏は、「環境危機」の「解決策」が「晩期マルクスの思想の中に眠っていた」ことを「発掘」したのだそうで、マルクス考古学者としての斎藤氏の努力に対して、私も「ご苦労様」程度の言葉をかけるのにやぶさかではありません。
しかし、二十代という学者として本当に大切な時期を単調な「発掘」作業に従事していた斉藤氏は、その間、様々な学問分野の動向を学ぶ時間はなかったようで、「資本主義の際限なき利潤追求を止め」ると息巻きながら、およそ現代資本主義を理解しているとはいえず、その労働関係についての理解は未だにテーラーシステム段階に留まっているようです。

斎藤幸平氏とテーラーシステム
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11054

また、斎藤氏は東大理?に合格する程度の理系の素養はあったものの、「発掘」作業に従事している間にすっかり時代から取り残され、コロナ禍への製薬業界の対応に窺われる現代資本主義の最先端の動向についてもあまりに鈍感なようです。

斎藤幸平氏とコロナ禍(その1)〜(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11064
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11066
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11067
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11069
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11071
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11072
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11073
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11074

投稿の順番は前後しますが、私は筆綾丸さんに紹介された池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみて、佐藤氏の、

-------
佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
 そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11059

という見解には感心しました。
核心部分云々は、まさに私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。

7308:2022/01/11(火) 12:11:25
虚実皮膜と青い卵
ザゲィムプレィアさん
最近、小田原は村上春樹『騎士団長殺し』の舞台で有名になりましたが、しばらく前、曽我の梅林に行き、曽我兄弟所縁の宗我神社と越前寺を訪ねたことがあります。中世であれば、あのくらいの仇討ちはむしろ普通の事件で、歌舞伎の影響があるとは言え、なぜかくも人気があるのか、実はよくわからないのです。わからないと言えば、なぜ兄が十郎で弟が五郎なのか、というのもわかりません。
梅と言えば、藤原定家に、
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
という名歌があって、考えようによっては、仇討ちの幻のようにも読めます。その場合、袖とは虎御前のものになりますね。
呉座氏のレビューに、頼朝の肖像画が掲載されていますが、現在では、あれを足利直義とする説が有力で、なぜ堂々と頼朝像としているのか、これもよくわかりません。せめて、伝源頼朝くらいがいいのでは、と思います。
初回放送では、女装の頼朝が馬に乗って逃げるシーンがありましたが、頼朝は、相模川の橋供養の帰路、落馬して、それが原因で死んだとされているので、逃げるとき、いちど落馬させて、あれえ、とかなんとか、女言葉で言わせておけば、面白い伏線になったはずで、かえすがえすも残念です。
次回以降では、平清盛(松平健)がマツケンサンバのステップで福原に遷都するとか、歌唱力のある西田敏行(後白河院)が朗々と今様を唸るとか、そんなシーンがあれば、重厚な喜劇になるのではないか、と思っています。

小太郎さん
マルクスの青い鳥と言えば、昨日の王将戦で、挑戦者が昼食に青い卵(アローカナの卵)のオムライスを食べて話題になっていましたね。

7309鈴木小太郎:2022/01/11(火) 13:30:57
岸田首相とキリスト教の無関係
>筆綾丸さん
>つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか

『真田丸』も最初はあまり評判が良くなかったそうですから、もう少し展開を見たいと思っています。
ところで、週刊ポストの記事で、正確性には保証はありませんが、

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 実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。

https://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html?DETAIL

とのことで、確かに比率は高いですね。
ただ、大平正芳氏の例のように、宗教に対する姿勢を個別に検討してみたら相当に濃淡のバリエーションがありそうです。
また、岸田首相がキリスト教と何か関係があるのかと思って検索してみたら、『日刊キリスト新聞』の2020年9月9日付「【自民党総裁選】菅氏、岸田氏、石破氏3人のキリスト教との関わり」という記事が出てきました。
それによると、

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岸田氏は広島1区選出の、祖父から続く世襲議員。本籍地は広島だが、生まれは東京だ。血液型はAB型。
広島には、毛利氏家臣で三入高松城(広島市)城主だった熊谷元直(くまがい・もとなお)が1687年、黒田官兵衛の勧めで洗礼を受け、洗礼名メルキオルと名乗り、近年、福者となった。安芸広島藩主の福島正則もキリシタンを優遇したが、後に禁令が厳しくなると、キリシタンは衰滅していく。
岸田氏自身とキリスト教との関わりは特に認められないが、7歳下の裕子夫人が広島女学院高校の出身。2016年に創立130周年を迎えた、中国地方では最も歴史の長いミッションスクールだ。創立者は砂本貞吉(すなもと・ていきち)牧師。米国でキリスト教に触れ、1886年、米国南メソヂスト監督教会の宣教師W・R・ランバス(関西学院の創立者)らの協力を得て女学校を創立した。学院聖句は「我らは神と共に働く者なり」(1コリント3:9、文語訳)。

https://christianpress.jp/suga-yoshihide-kishida-fumio-ishiba-shigeru/

とのことで、夫人がキリスト教徒ならともかく、単にミッションスクールを卒業しただけでは、結局のところ何の関係もないという結論になりそうですね。
日本の「ミッションスクール」は、信者の拡大という「ミッション」は全然果たしておらず、せいぜい死亡する信者と同程度の信者を新たに供給するミニマム・ミッション機関ですからね。
ちなみに、記事の時点では既に総裁候補を降りていた菅義偉氏の場合、

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出身地は、宮城県や山形県の県境に近い秋田県南部の湯沢市で、イチゴ農家の長男として生まれた。最寄り駅は奥羽本線の院内駅だが、線路の反対側の西に、「東洋一の大銀山」とうたわれた院内銀山がある。江戸時代初期には多くのキリシタンが各地から逃れて鉱夫として働き、宣教師たちも伝道のために訪れたところだ。その後、迫害が強まり、殉教者が多数出た。
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とありますが、これまた菅氏の信仰・宗教観とは全く関係なくて、よくまあここまでこじつけたものだと感心します。

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5歳下の真理子夫人との間に3人の息子がおり、長男は明治学院大学を卒業している。米国長老教会のヘボン宣教師が1863年に創設した日本最古のキリスト教主義学校だ。教育理念は「Do for Others(他者への貢献)」。新約聖書マタイによる福音書にあるイエスの言葉「Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい)」(7:12)から引用されたもので、ヘボンの信念をよく表す言葉とされている。
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これも「明治学院大学を卒業」という経歴がキリスト教信仰と特に関係ないのが日本の「ミッションスクール」の実態ですからね。
また、総裁選には結局立候補しなかった石破茂氏の場合、

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母方の曾祖父が、新島襄の愛弟子である金森通倫(かなもり・みちとも)。熊本バンドの一人として熊本洋学校から同志社へと進み、卒業後は日本組合基督教会・岡山教会の牧師を務めた。金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人。二人の間にできた長男、太郎が石破氏の祖父で、その長女の和子が石破氏の母親となる。
石破氏は、母親が通っていた日本基督教団・鳥取教会(現在は橋原正彦牧師)において18歳で洗礼を受けた(現在も現住陪餐会員)。同教会の宣教師によって始められた愛真幼稚園に通い、鳥取大学教育学部付属中学を卒業後、慶應義塾高等学校に進学。日本キリスト教会・世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に出席し、教会学校の教師も務めた。近年は国家晩餐祈祷会(日本CBMC主催)、キリスト教関係の講演会でゲストとしてスピーチに立つことも多い。
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ということで、こちらは本物の信者ですが、ただ、金森通倫(1857-1945)は極めて特異な宗教遍歴を経た人です。
同志社を出た後、自由キリスト教運動の影響を受けて「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」、更に1898年には棄教を宣言しますが、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
ま、変わり者という点では石破氏は金森通倫の直系といえそうです。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8864
金森通倫の「不穏な精神」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8873
三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8879
鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10129

7310鈴木小太郎:2022/01/12(水) 10:12:48
岸田首相とキリスト教の無関係(補遺)
日本の「ミッションスクール」は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、というのは客観的な事実ですが、ちょっと書き方がシニカルでしたかね。
ただ、この事実は法的観点からは決して悪いことではなくて、こうした実態があるからこそ、憲法89条の明文にもかかわらず、キリスト教系の私立大学に巨額の公的資金を提供することが可能になっていますね。
同条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」というものですが、一般に私学助成は憲法89条後段の「公の支配」の問題とされていて、「公の支配」と呼ぶにはどうにも弱い関与・監督であっても、まあ「公の支配」でいいのでは、ということになっています。
しかし、ウィキペディアにも紹介されている「1971年(昭和46年)3月3日、参議院予算委員会における内閣法制局長官答弁」にも、

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憲法八十九条の問題は、確かに率直に言って実は弱る規定であります。・・・日本のような国において慈善、博愛、教育の問題について、国費が公の支配に属していないものには出せない。逆に言えば、公の支配に属させることによって国費が出せるというふうにも解される憲法の規定が、規定の真の精神がそこにあるかどうかはわかりませんけれども、実際の日本の国情に合わすようなことをするにはやはりそういう解釈もやむを得ないのではないかというようなふうに考えまして、いまの私立学校法あるいは学校教育法その他の規定には、そういう補助と監督の相関関係を規定したものがございます。まあ、そういうことで始末をしておるわけでありますけれども、国会でもそういう法律を御制定になっていただいておりますから、そういう解釈がいまや公定的に是認されていると思いますけれども、正直に憲法の規定に立ち返ってみますと、その辺はやや問題があるように思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E5%8A%A9%E6%88%90

とあるように、相当苦しい解釈ですね。
そして、宗教系の私立大学の場合には、憲法89条後段を突破できたとしても、同条前段も大きなハードルとなります。
同条前段では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」に支出してはならないと明確に定めているのですから、公金支出を合憲とするためには、例えば、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」ではないのだ、といった論理が必要になります。
しかし、これは自己の存在を全面的に否定することになるので、宗教系大学からはなかなか主張しにくい話ですね。
別の論理としては、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」であるけれども、助成される公金は当該組織・団体の「使用、便益若しくは維持のため」ではなく、個々の学生の教育活動を支援するためのものだからよいのだ、みたいな論理も考えられますが、奨学金ならともかく、大学に支出する公金にこうした論理が説得的といえるのか。
まあ、宗教系大学は他の私学と並んで憲法89条の後段を突破するのは可能であっても、同条前段の突破は至難の業のように思われますが、現実には宗教系大学にも巨額の私学助成が行なわれています。
ただ、キリスト教系の大学の場合、形式的・名目的には「宗教上の組織若しくは団体」のようではあっても、その実態は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、宗教的には無色透明の「組織若しくは団体」だ、ということであれば、公金を提供してもいいかな、という話につながりそうです。
逆に、特定のキリスト教系の大学に素晴らしい宗教指導者が登場して、入って来る学生が軒並み信者になる、というような事態となれば、さすがにそういう大学への公的資金の提供はまずかろう、という話になると思います。
まあ、憲法89条は「アメリカ的発想に基づくが、目的趣旨が必ずしもはっきりしないまま成立」(佐藤幸治)した条文で、憲法改正による立法的解決が一番なのですが、当分は無理でしょうね。

「靖国神社大学」(仮称)と憲法89条
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8387
裁判官可部恒雄の反対意見
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8392




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