レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
Japanese Medieval History and Literature
-
「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」(by 呉座勇一氏)
呉座勇一氏の最新刊『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)について今まで何度か触れてきましたが、昔から学説の整理の手際よさには定評がある呉座氏だけに、同書では最新の学説の状況がバランス良く紹介されており、その中に呉座氏の鋭い指摘、卓見が随所に散りばめられていて、本当に優れた書物ですね。
ただ、私がどうしても引っかかるのは大江広元の位置づけです。
最終章の「第八章 承久の乱」は、
-------
1 公武関係の悪化
2 後鳥羽上皇の挙兵
3 鎌倉幕府軍の圧勝
4 乱後の公武関係と義時の死
-------
の四節で構成され、第四節の最後、同書全体の締めくくりとして、呉座氏は次のように書かれています。(p319以下)
-------
義時の達成
北条義時は日本の歴史をどのように変えたのだろうか。一言で述べるならば、源頼朝がやり残した幕府の永続化という事業を完成させ、武家政治を中世社会に定着させた、ということになろう。
創設期の鎌倉幕府は、現代人が思い浮かべるよりも、はるかに脆弱で不安定だった。源頼朝という個人のカリスマによって支えられていたからである。頼朝は源氏一門の粛清を繰り返し、頼朝死後は有力御家人たちが血で血を洗う内紛を繰り広げた。頼朝の急死によって幕府は瓦解の危機を何度もくぐり抜けることになった。北条義時は、頼朝後家である姉政子の協力を得て、数々の権力闘争を勝ち抜き、幕府の最高指導者の地位に立った。
一方、治承・寿永の内乱で一時権威を失っていた朝廷は、後鳥羽院政の開始によって安定化した。鎌倉幕府三代将軍源実朝が後鳥羽に心酔したこともあって、朝幕関係は朝廷優位へと推移していった。もし実朝が長命であったならば、幕府は朝廷の下請けに成り下がったかもしれない。
こうした中、幕府両属的な御家人が増加していく。一例を挙げれば、頼朝旗揚げ以来の功臣である加藤光員(70頁)は後鳥羽院の西面となり、幕府に無断で検非違使に任官したが、実朝はこれを許容している。自由任官(御家人が鎌倉殿の許可を得ずに任官すること)が厳しく規制された頼朝時代には考えられないことである。在京御家人は後鳥羽の命令でしばしば京都周辺の軍事・治安活動に従事したが、幕府はこれに関与していない。在京御家人を自らの手駒として動かせるという自信が、後鳥羽の挙兵の前提であった。
承久の乱の原因は今なお明らかになっていないが、実朝暗殺事件によって公武協調路線が暗礁に乗り上げたことが背景にあると考えられる。後鳥羽は実朝を通じて幕府を操縦しようとしたが、実朝死後の幕府は後鳥羽に従順ではなかった。義時は王朝権威を軽視していたわけではないが、朝廷からの諸々の経済的要求に対して非協力的であり、御家人たちの権利を擁護する態度を示した。この点、義時の政治姿勢は頼朝・実朝とは大きく異なる。実朝の死を境に幕府の態度が"反抗的"なものに一変したことへの不満が、後鳥羽挙兵の最大の動機であろう。承久の乱は治天の権威を過信した後鳥羽の自滅とも解釈できるが、上洛軍を速やかに派遣した義時の決断も高く評価できる。
-------
いったん、ここで切ります。
大きな流れは呉座氏の言われる通りだと思いますが、「3 鎌倉幕府軍の圧勝」で呉座氏自身が記された上洛軍派遣の経緯を「義時の決断」で纏めるのは些か奇妙です。
呉座氏は「一連の戦略決定の過程で、義時の影は奇妙なほど薄い」と書かれていますが(p299)、では誰の影が一番濃かったかというと、これは大江広元ですね。
従って私は、承久の乱は究極的には「治天の権威を過信した後鳥羽」と、そんな「治天の権威」を一顧だにせず「上洛軍を速やかに派遣した」大江広元の戦いであって、広元の「決断」を最も高く評価すべきだと考えます。
後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10984
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10985
さて、呉座著に戻って、続きです。(p320以下)
-------
幕府軍の圧勝によって公武関係は劇的に転換した。もはや朝廷は、幕府の軍事力に依拠しなければ、京中の治安維持すらままならない。幕府との関係強化が朝廷の至上命題となった。幕府が倒壊する可能性は百年にわたり想定すらされず、承久の乱以後の政変は幕府の存続を前提として勃発した。義時本人の意図はどうあれ、彼の活躍によって、武家が政治の中心を担う武家政治が中近世社会の基調となった。
生まれながらに高い身分を備えた摂家将軍(のちに親王将軍)を擁立することで、源氏将軍三代の時代と異なり、幕府が王朝権威の庇護を得るために朝廷に譲歩する必要はなくなった。北条氏による執権職の世襲、そして「執権政治」は、北条氏の身分・家格ではなく、承久の乱の勝利をはじめとする北条氏の実績によって正当化された。義時の末裔たちが自らの始祖として重視したのは、時政よりもむしろ義時であった。
【中略】
義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである。
-------
ということで、「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」が呉座氏の最終結論ですが、しかし、これには呉座氏自ら「義時本人の意図はどうあれ」という些か情けない留保が付けられています。
承久の乱の推移を見る限り、義時には「幕府軍の圧勝によって公武関係【を】劇的に転換」させようとする「意図」が感じられず、他方、大江広元には朝幕関係の長期的展望を見通す雄大な構想力があり、承久の乱の戦後処理の法的性格を分析する緻密な法的思考力があったように思われます。
従って、私は「【大江広元】の活躍によって、武家が政治の中心を担う武家政治が中近世社会の基調とな」り、「【大江広元】が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである」と考えます。
「源頼朝がやり残した幕府の永続化という事業を完成させ、武家政治を中世社会に定着させた」のは大江広元ですね。
|
|
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板