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Japanese Medieval History and Literature

7287鈴木小太郎:2022/01/21(金) 03:30:48
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
山本著では比企氏の乱を論じた後、姫の前への再度の言及があります。(p125以下)

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義時の活躍と葛藤
 比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は複雑であったに違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと考えられる。
 乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁するほかなく、加えて妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされたのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない。苦渋の決断であったとは思うが、実父の命令に従うほかはなかったのである。
 義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことであろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していたから、頼朝との誓約を守れなかったという負い目があったのではないだろうか。
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「乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し」とありますが、再婚相手は村上源氏傍流の歌人・源具親です。
歌人としては妹の宮内卿の方が有名ですが、具親も後鳥羽院が設けた和歌所の寄人であって、それなりの才能の持ち主ですね。
さて、姫の前と源具親の再婚が比企氏の乱の前か後かについては、一昨年(2020年)三月、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を出発点として少し考えてみたことがあり、その後も折に触れて検討を重ねてきました。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10175
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10176

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10187
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188
比企尼と京都人脈
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10189
紅旗征戎は吾が事に非ざれど……
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10192

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10864
呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10977
本郷和人氏『北条氏の時代』について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10981

大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008
源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11021
「因幡守広盛」補遺
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11026

ま、私としては「姫の前」と義時の離縁、そして源具親との再婚は比企氏の乱の前であることは間違いないと考えています。
姫の前が源具親との間の子、輔通を元久元年(1204)に生んだことは動かせないですから、彼女が妊娠したのは同年三月くらいまでの時期です。
とすると、建仁三年(1203)九月二日の比企氏の乱で一族が全滅した後、「姫の前」が鎌倉から京都に移動し、具親と再婚してせっせと子作りに励んだ、というのはずいぶん忙しい日程であり、「姫の前」はものすごく神経が太いというか、殆どサイコパスのような人間になってしまいますね。




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