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Japanese Medieval History and Literature
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磯前順一氏と京極純一氏、そして大平正芳元首相について
私は一時期、磯前順一氏を大変な知識人だと思ってけっこう尊敬していたのですが、東日本大震災以後、磯前氏の著書に何だか違和感を感じるようになり、単著では『死者たちのざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社、2015)は納得できず、更に磯前氏が非科学的な反原発活動家である島薗進と共著を出すようになったのを見て、今は全く遠ざかっています。
磯前順一(1961生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E5%89%8D%E9%A0%86%E4%B8%80
ただ、磯前氏の2000年代初めの頃の著書・論文は学問的に極めて洗練されており、明治維新前後の訪日外国人の記録を検討する際には『近代日本の宗教言説とその系譜』は本当に参考になりました。
この掲示板でも2019年に「国家神道」を論ずる際に磯前著を参照しましたが、その際には「宗教」の定義に関して、
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訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10073
てなことを論じていました。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)も「宗教学」とは何かを考える上で本当に参考になりました。
『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9996
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10012
私もかれこれ三十年近く人文系の研究者の世界を外部から観察していますが、四〇歳前後で学問的にピークを迎える人が多いなと漠然と思っていて、磯前氏もその一人ですね。
>キラーカーンさん
私は小室直樹は全然読んだことがありません。
前にも書きましたが、私の場合は京極純一氏の講義でコミュニズムとキリスト教の類似性の話を初めて聞きました。
非常に醒めた言い方だったので、私はずっと京極氏を無神論者と思い込んでいたのですが、その京極氏が東京女子大の学長になったと聞いたときはちょっと驚きました。
京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8208
>筆綾丸さん
>大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派
少し検索してみたら、リンク先ブログに「聖公会の信徒として、葬儀は立教学院諸聖徒礼拝堂で行われました」とありますね。
http://people.tenjounoao.com/christian/oohiramasayosi.html
また、住家正芳氏「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」(『立命館産業社会論集』2019年12月)という論文を読んでみたら、大平正芳が十八歳のときに参加した佐藤定吉の「イエスの僕〔しもべ〕会」というのは、救世軍などに近い運動形態の、当時としても相当に急進的な団体だったようですね。
佐藤定吉は若くして東北帝国大学教授となった化学者で、科学とキリスト教の関係の究明を終生の課題としていたようですが、だんだん国粋主義的方向に進み、現在のキリスト教史では位置づけが非常に難しい存在になってしまったようですね。
晩年には、
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佐藤は,先に挙げた大平の回顧の前年,1937(昭和12)年の年末に『皇国の世界指導原理』と題する共著を出版して「神が,皇国を世界歴史第二の発足点として選んでゐ給ふ事は歴然たる事実」(佐藤・原1937:12-13)であるとしており,「愛国的皇室中心主義」への傾斜をさらに強めていた。昭和10年(1935年)以降の佐藤は『信仰殉国』『国体と宗教』『皇国日本の信仰』『皇国信仰読本』『皇国信仰概説』『皇国神学の基礎原理』『皇国信仰鉄壁の布陣』などのタイトルの著作を矢継ぎ早に出版し(佐藤定吉著書目録:277-278),1941(昭和16)年には「イエスの僕会」を「皇国基督会」と改名するに至る。これは息子である佐藤信の目にも,「確かに戦時中,父は時流に乗って日本精神を強調し,栄光の日本を夢見ていた」ように映ったが,「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していた」ようでもあり,「日本精神の完成こそキリスト教の十字架であると信じていた」という(佐藤1970:560)。
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313
といった境地に達していたそうです。
ま、大平正芳はそこまで変化する前に離脱したようですが。
少し興味が湧いてきたので、後で大平正芳の回想録を見て、思想的・宗教的変遷を確認してみたいと思います。
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