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Japanese Medieval History and Literature
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山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。
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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000
といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)
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姫の前との出会い
頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
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うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。
「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012
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