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Japanese Medieval History and Literature

7214鈴木小太郎:2021/12/01(水) 11:53:19
大江広元と親広の父子関係(その8)
頼朝の死の直後に京都で起きた「三左衛門の変」は分かりにくいところがありますね。
この時期の分析として最も詳しいのは、今でもやはり橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)でしょうか。
同書は、

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はしがき
第一 村上の源氏
第二 朝廷出仕
第三 朝政参議
第四 源平争乱の渦
第五 天下草創の秋
第六 院近臣の歩み
第七 朝幕関係の新展開
第八 源博陸
第九 続発する都下騒擾
第十 栄光の晩年
むすび─通親以後
(附)久我源氏中院流家領と通親

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33549.html

と構成されていて、「第九 続発する都下騒擾」は、

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一 三左衛門の変
二 梶原景時の変
三 城長茂の変
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の三節から成っています。
第一節の冒頭から少し引用します。(p126以下)

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 ところで、頼朝没後の世上不穏のなかで、まず異変が起ったのは、鎌倉ではなく、京都であった。関白九条兼実の失脚を手を拱いて傍観していた頼朝も、大姫が死去して入内の夢も消え、さらに建久九年(一一九八)正月、頼朝の反対を押し切って後鳥羽天皇の譲位が強行されるに及び、ようやく対朝廷政策の建て直しの必要を自覚するに至った。頼朝は表面では幼帝の即位を不可とする建前を主張したものの、内実は朝幕関係を複雑にする院政の復活を阻止したかったのであろう。しかし譲位が強行された今となっては、みずから京都に乗り込み、譲位を推進した通親一派を抑え、兼実を朝廷に復帰させて、朝幕関係を再構築しようと考えたらしい。『玉葉』の記述によれば、上述のように、この譲位前後に急に兼実の許に頼朝の書状の到来するのが目立ち、その内容に兼実が満足している様子がみえるが、恐らく兼実は頼朝の上京を期待していたのであろう。『愚管抄』にも、「今年必〔心カ〕シヅカニノボリテ、世ノ事サタセント思ヒタリケリ、万〔よろず〕ノ事、存ノ外に候ナドゾ、九条殿ヘハ申ツカハシケル」と述べており、頼朝は並々ならぬ決意で上洛を期していたらしい。
 しかし翌建久十年(正治元)正月十三日、頼朝が急死して、上洛の計画が画餅に帰する一方、世上は一気に不穏な空気におおわれた。権大納言近衛家実も、「前右大将頼朝死去の後、天下閑〔しず〕かならず」と日記に書いている(『猪隈関白記』)。そこに突発したのが、いわゆる三左衛門の異変である。『明月記』の同年正月二十二日条に載せる「巷説」によれば、世上に兵乱の噂がたち、通親が院中にたて籠って、里亭に帰ろうとしないが、これには「事の故」があるということだと見える。これは『愚管抄』に、通親が後藤基清・中原政経・小野義成の三人の左衛門尉の襲撃を恐れ、「只今マカリ出テハコロサレ候ナンズ」といって、院の御所に参り籠ったという記述に相当する。その後の経過を『明月記』によって見ると、連日京中の騒動、衆口巷説の狂奔の状を述べ、「新大将〔通親〕なお世間を恐ると云々」との「巷説」を載せ、「院中の警固、軍陣の如し」と伝えるなかで、同月二十七日条には、幕府奉行人中原親能が近く上洛し、このたびの騒動を成敗すべしとの説を載せている。親能は早くから頼朝に近仕した京下りの官人の一人で、『尊卑分脈』では中原(大江)広元の兄弟としている。この騒動は一か月ほど続き、二月九日には、嘗て一条能保に近侍した左馬頭源隆保が武士を召集して何事か相談したというので、「天下また狂乱、衆口嗷々」という情況になった。同日条の『業資王記』にも、関東から上洛した多数の武士が辻々を固め、車馬の往反も困難になったと述べている。そして親能が実際に入洛したのは同月二十六日であるが、それに先立つ十二日、関東の飛脚が着京し、通親を支持する幕府の方針が伝えられたらしく、『明月記』には、「右大将光を放つ、損亡すべき人々等多しと云々」と述べている。『愚管抄』によれば、通親から京中騒擾の通報をうけた幕府では、迅速な鎮定を必要とし、通親の「方人〔かたうど〕」大江広元が中心となって通親支持の方針を決めたらしい。かくして二月十四日には、上記三人の左衛門尉が捕えられて院中へ連行された後、三人の武士に預けられた。ついで十七日、宰相中将西園寺公経をはじめ、右中将持明院保家・左馬頭源隆保が出仕を停められ、文覚上人が検非違使に預けられた。そして二十六日、親能が入京して最終的な処分が行われ、京中はようやく平静に帰した。
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通親襲撃といっても、実際に通親が「三左衛門」に襲われた訳ではなく、そうした噂が立っただけですね。
橋本義彦氏は、ここでは何故かその噂を通親に伝えたのが梶原景季だという『愚管抄』の記述に言及されていませんが、「二 梶原景時の変」において、「『愚管抄』によれば、前年の三左衛門の事件は、当時在京していた景時の一男景季が通親に密告したのに始まるというから、通親と景時との間には年来密接な連絡があったことも推測される」と書かれています。(p149)
源隆保は母が藤原季範女で、頼朝・坊門姫(一条能保室)の従兄弟ですね。

源隆保(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9A%86%E4%BF%9D




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