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Japanese Medieval History and Literature

7304鈴木小太郎:2022/01/09(日) 18:33:14
「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」
図書館で『大平正芳回想録』(鹿島出版会、1983)を借りたら、「回想録」というタイトルに反して638頁の詳細な伝記で、今はちょっと全部は読めないですね。
住家正芳氏の「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」に、

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 佐藤の講演に感化され,浅間山麓での修養会や青山での講演会に参加した1928(昭和3)年から10年を経た1938(昭和13)年,大蔵省に入省して仙台税務監督局間税部長となっていた大平は,ともに「イエスの僕会」で活動した友人を追悼して次のように回顧している。

 昭和三年から五,六年頃にかけて母校に在学せし諸君は「イエスの僕会」なる団体の
 果敢な活動を記憶されていることと思う。それは当時全国の大学高専を遊説されて多
 数の共鳴者を獲ち得た工学博士佐藤定吉氏の自然科学的宗教観に魅せられた一群の学
 生の結社で,既成の YMCAの萎靡沈滞に対する反動も手伝って或は校庭に或は街頭に
 この群独特の活潑な動きを展開していた。成程初期に於ては運動の焦点の見定めがつ
 かず綱領自体に清算さるべきものもあったので何かしら地につかない突飛な相貌を呈
 していたかも知れない。或は当時の学生層に喰入っていた一般的不安をこう言った側
 面から発散させようとする一つのもがきとして一般に受取られていたかも知れない。
 しかしともかくこの群は一つの異様なセンセーションを校の内外に捲き起し相当優秀
 な学生の多くを自己の陣営に迎えていた。そして彼等は抑え難い内面的闘争と清算の
 過程を辿って或者は基督教の正統に導かれ或者はこれを捨てて行った。
(大平[1938]2010:338)

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313

とありますが、これと同じ文章が『大平正芳回想録』にも載っていて、その後に編者が、

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 大平自身は"正統に導かれたもの"か、あるいは"これを捨てたもの"か、この文章ではどちらとも明らかにされていない。しかし、その後を見るとき、彼は、聖書に親しんだ形跡は窺われるにせよ、キリスト者としての自らを強調したこともなく、ましてや伝道の挙に出たこともなかった。そういう点からするなら、おそらく右の一文は"イエスの僕会"に熱中した若き日の自分への別れの言葉であったのであろう。
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という見解を述べていますね。(p44)
高松高等商業を卒業した大平は、佐藤定吉のパトロンとなっていた実業家が経営する桃谷順天館という化粧品会社に就職した後、二十三歳のときに東京商大(現・一橋大学)に入学しますが、

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 大学へ入学して以後も、正芳のキリスト教への関心は継続し、もっぱら聖書を通じて、信仰を深めようとした。『私の履歴書』によれば、大阪時代から矢内原忠雄の著作には傾倒しており、自由ヶ丘の矢内原邸を訪ねて「聖書研究会」に参加した(ただし、矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない)。
 また、世田谷区東松原の自宅で聖書の講義をしていた香川豊彦の門をたたいたこともあった。【後略】
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とのことで(p51)、「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」のだから、行ったとしても数回で、目立たない存在だったのでしょうね。
ま、矢内原忠雄の聖書研究会も独特の排他的な雰囲気があったらしく、なじめない人がいたとしても無理はありません。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8971
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8977

パラパラ眺めただけですが、結局、この後はキリスト教関係の話は出て来なくて、「エピローグ 永遠の今」に、

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 大平首相の遺体は、病理解剖に付されたあと、しばらく地下一階の霊安室に安置された。【中略】遺体の前で顔を合わせる遺族たちの悲嘆を慰めるように、東京聖チモテ教会の沢邦介牧師が"主ありて世を去りし信徒の霊魂安らかにいこわんことを"と祈りを捧げた。
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とあり(p614)、聖チモテ教会は聖公会ですから、密葬は聖公会の儀礼で行われたのでしょうね。
ただ、その場所は何故か書いてなくて、「立教学院諸聖徒礼拝堂」だったかは分かりません。
正式な葬儀は「国葬」ではなく、「内閣・自由民主党合同葬儀」として日本武道館で行われたそうですね。(p615)
若い頃を除くと、意外にキリスト教の色彩の稀薄な人生だったようですね。

>筆綾丸さん
>白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。

私も東北にいたときに白鳥をやたら観察する機会が多かったので、何だか白鳥は食傷気味です。
確かに悪そうな顔をしていますね。




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