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Japanese Medieval History and Literature
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大江広元と親広の父子関係(その9)
久しぶりに橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』を読んでみましたが、本当に隙がないというか、橋本氏が通った後はペンペン草も生えていないような感じすらしてきました。
橋本義彦(1924-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%BD%A6
ただ、橋本氏も歌壇は苦手のようで、「第十 栄光の晩年」の「二 後鳥羽歌壇の推進者」は、基本的には国文学者の研究を紹介するに止めておられます。
平成四年(1992)に橋本著が出た後、国文学界では後鳥羽歌壇の研究が相当進展しているので、そちらから攻めて行くと通親について何か新しい知見が得られるような感じもしますが、大江広元は和歌の世界とは全く縁がなかった人ですから、歌壇から広元と通親の関係を探って行くのは無理筋ですね。
さて、「大江広元と親広の父子関係」はいったいどうなったのだ、と言われそうな展開になってきましたが、もともと親広に関する情報は『吾妻鏡』と寒河江荘関係以外にはたいしたものがなく、後者は史実の究明にはあまり役立たないことは分かっていました。
そこで、私の一応の目論見としては、親広に「親」字を与えた源通親と大江広元の関係を探って行けば何か出てくるように感じていたのですが、今のところ従来の認識を大幅に更新するようは発見はできず、来年の課題になりそうです。
しかし、若干の副産物もあって、それは比企氏出身の「権威無双の女房」で、頼朝の斡旋で北条義時と結婚し、離縁後に京都で源具親という歌人と再婚した「姫の前」に関する問題です。
姫の前(?-1207)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E3%81%AE%E5%89%8D
源具親(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%B7%E8%A6%AA
従来、「姫の前」は建仁三年(1203)の比企氏の乱後に義時から離縁され、京都に行って源具親と再婚したと考えられていたのですが、これでは元久元年(1204)に二人の間に輔通が生まれていることとの整合性が取りにくく、私は義時との離縁は比企氏の乱の前だろうと考えています。
呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10977
そして、源具親は、歌人としては兄より遥かに才能に恵まれていた妹の「宮内卿」とともに源通親に庇護されていて、おそらく通親の推挙で和歌所寄人にもなれた人なので、「姫の前」が源具親と再婚できたのは比企氏が通親と結びついていた証左ではないか、また、比企氏と通親との間には広元が介在していたのではないか、などと想像していました。
広元は比企氏の乱に際して北条時政に殆ど殺されかけているので、なぜ広元がそうした立場に置かれたのか、広元と比企氏の関係はどうなっていたのか、あるいはそこに通親も絡むのか、といった点が気になっていた訳です。
ただ、よくよく考えてみれば、比企氏と通親に密接な関係があったとしても、別にそこに広元を介在させる必要もなく、通親の鎌倉ルートの一つが比企氏だったと考えれば済む話ですね。
実際、梶原景時なども京都、特に通親と強いコネクションを持っていたようですが(本郷和人説)、景時と広元は密接な関係があったものの、景時と比企氏との連携はなくて、景時は滅ぼされてしまいます。
ところで、私は「姫の前」が京都に行き、源具親と再婚したのは、義時との間の子である朝時(1193-1245)と重時(1198-1261)を生んだ後で、おそらく建久十年(正治元年、1199)の頼朝の急死がきっかけだったろうと想像していました。
頼朝は「姫の前」に義時との結婚を無理強いした人で、「姫の前」にとっては頼朝の存在が義時との結婚生活の桎梏であり、頼朝が死んでくれたから、別に自身は起請文など書いていない「姫の前」が、心晴れやかに義時に三行半を突き付けた、と考えてみた訳です。
しかし、これまたよくよく考えてみれば、「姫の前」と通親との接点は、もう少し前に遡らせることができるかもしれません。
そもそも建久七年(1196)、通親が政敵・九条兼実を失脚させることができたのは大姫入内問題を利用して頼朝に密着したからですが、結婚には男の世界とは別の準備も必要で、それこそ大姫がいじめられでもしないよう、頭の回転が速くて度胸もあり、何より頼朝が信頼できる女性が大姫の近くに必要だったはずです。
とすると、「権威無双の女房」だった「姫の前」ほどの適任者がいたのか、という感じもしてきます。
もちろん大姫入内計画は肝心の大姫が建久八年(1197)に死んでしまって中止を余儀なくされますが、その後も次女の三幡入内の可能性が探られます。
こうした頼朝の対朝廷工作に「姫の前」も一枚加わったのではないか、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、などと考えて行くと、さすがにこれは史料に残るような話ではなく、小説でしか書けないかなあ、などとも感じます。
しかし、歌壇の関係では何か出てくるかも、という微かな希望もあるので、もう少し調べてみようかなと思っています。
ま、これ来年の課題になりますが。
大姫 (1178-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%AB_(%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%A8%98)
>筆綾丸さん
>大江広元にしても、きっと、左衛門尉は目が眩んでよろめくほどの顕職であったにちがいありません。
生真面目にレスすると、これはちょっと変で、「左衛門尉」は一般御家人には魅力のある官職であっても、大江広元は北条一族とともに、その上の受領になっていますね。
左衛門尉に過ぎなかった和田義盛が、受領を強く望んだにも関わらず実現しなかったことが和田合戦の遠因となっていたりします。(呉座著、p251以下)
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