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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

341やす:2008/04/17(木) 08:30:31
後藤松陰、黄葉夕陽村舎滞在の事
『菅茶山』読書ノート (閑人専用)

 下巻はさきにも申しました通り、ほぼ半分の分量が文化十一年(67才)の江戸于役と、文政元年(71才)の大和遊山の記述に費やされてゐます。旅日記など考証材料が豊富の故ですが、もとより道中のお話には「華」があり、その間出会った人々を列挙して、(茶山は、もはや知らぬ者のない著名人でしたから、)当時在世の、名のある詩人たちとは総て相見えたといふ感じに、たいへん豪華な様子に描かれてをります。中村真一郎氏の『頼山陽とその時代』が、詩人達を、主人公山陽との関係によって類別し、名鑑のごとき紹介方法で楽しませてくれたのに対し、この本では富士川氏は、茶山が生涯出会った順番に、人物を列挙して紹介の労をとってゐます。『江戸後期の詩人たち』といふ本で、江戸漢詩に対する最初の火付け役を果した富士川氏ですが、その後、中村氏の大冊『頼山陽とその時代』が読書会に与へた衝撃に、自信と使命感は強められたことでせう。この本を書き進むにあたっては、私淑する鴎外史伝の形式とともに、中村氏の本に対しても、後日比較されることを念頭に置いて、予め結構には意が払はれたことと思ひます。私も人物名が(生年―没年)と共に紹介されるたび、赤鉛筆を引いて喜んでゐました。この度の旅行中でも、江戸にあった川合春川、京都まで旧師を追ってきた山伏の體圓など、美濃人のことが記されてゐます。しかしながら一番嬉しかったのは、これは茶山在郷中のことですが、広島に里帰りする頼山陽に伴はれてやってきた門下の一番弟子、後藤松陰の名を見たときでした。茲に至ってやうやく「山陽軍団」の先鋒が登場といったところです。彼は菅茶山の『筆のすさび』序文のなかで、その滞塾中の様子を茶目ッ気たっぷりに披露してゐますが、けだし茶山の京都滞在中、「羅井の門人美濃大垣の人、菓子を恵む」と記されてゐるのも、当時弱冠の、無名の青年だった松陰であったと思しく、今回もそのまま山陽に随いて春水の三回忌に列しなかったのは、山陽の教育的配慮もあったかしれませんが、春風、春風の二大詩人と面晤するより、廿日余の間、黄葉夕陽村舎で翁の謦咳に接する方を優先したからだったやうであります。

 さて茶山は「この後、もはや長途の旅に出かけたことはなかった」訳ですが、寄る年波に加へ、今回帰宅した途端に、姪の娘である梅が疫痢にて病死、続いてその父親で、塾の跡継たる北條霞亭も、厠に「昼夜大凡百行余に及」ぶ状況に陥り、さすがに物見遊山に出かけたバチが当ったと感じたのではないでせうか。翁の子供たちへの眼差しは、江戸で夢みたといふ次の詩篇に見られるやうに、限りなく温かいものだったやうです。菅家を襲った度重なる子供たちの夭札には、詩になることはなかった生々しい慟哭が繰り返された事でありませう。

穉姪能來入夢魂    稚姪 よく来って夢魂に入る
分明見汝徑間奔    分明に汝が径間に走るを見る
汗珠滿面關何事    汗珠 満面 何事に関はる
應覓秋蛩藏草根    まさに秋蛩(コオロギ)の 草根に隠れしを求むるなるべし

 今回の読書ノートも最終コーナーに入りました。

342やす:2008/04/20(日) 17:36:57
読書の法
 さきに「昧爽」の巻頭言として「うひ山ふみ」の一節を挙げましたが、「日本古書通信」今号(945号)の連載「随讀随記(小出昌洋氏)」には、読書の悪癖に「鼠読」といふものが紹介されてゐました。並ぶ「ダニ読」といふについては、それを説いた露伴「その人の文によられたい」とあり、だれもテキストに起こしてゐないエッセイなので、一寸紹介してみます。


読書の法
                                     幸田露伴

 書を読むは極めて好きことなり。されど書を読むの法をゆるがせにして書を読むは極めて危きことなり。
 書巻を手にして[イ占]畢(てんひつ:字面のみ解すること)を事とすれぼ、読書の能事了れりと考ふる如きは、最も無意義の読書法なり。
 如何なる種顆の書たるか、如何なる人の著述せる書なるか、如何たる人の編纂せる書なるか、これらの点を都て顧みること無くして妄りに読むが如きは、必ずしも好き結果をのみ呈すべきならず。世には悪を勧むるといふ書も無けれど、たまたま矯激の説を載せたる書の其の弊害甚だ多きものもあるなり。また固陋謬迷の識見を抱ける人の著述にして、其の偏頗の後進を過誤に陥らしむべきものもあるなり。また粗雑孟浪の編纂にかかる書の空しく人を弊せしむるのみなるものもあるなり。以上の如き良からぬ書を読むは、読まざるにだに若かざる場合多し。
 偏僻の嗜好を有せざる老成の人の教へによりて我が読むべき書を知る事は、最も大切なる事なり。縦ひ学深しと云はるる人なりとも其の人偏僻の嗜好を有せる人ならば、其の人の言にのみ憑るべからず。須らく他の中正の趣味を有せる人の言をききて考ふべきなり。
 問ひ尋ぬべき先輩無き時は、書籍解題の類を購ひ得て、凡そ先づ我が読まんと欲する類の書に、如何なる名の書の有するか、如何なる体裁性質の書のあるかを知りて、さて其の後に審かなる判断により、読むべき書を撰び定むべし。解題を得ずんば目録をなりとも得て覧るべし。
 書を読むは猶ほ文を作るが如し。速なる人あり、遅き人あり。各々其の性の然らしむるといふべし。速きが必ずしも勝れたるにあらず、また遅きが必ずしも勝れたるにあらず。人或ひは、書を読むは叮嚀に、いと遅くすべしなどと説くものあれど、遅速は人々の習ひにある事なれば、強ひたりとも益あらんや否や覚束なし。また或ひは、書を読むは幾度も繰返し繰返し読むべし、と説くものあり。これも一概には定めて云ひがたし。速きもよし遅きもよし、要はただ散乱心をもつて書を読まず、熱心をもつて読むべきのみ。
 書を読むに二つの悪癖あり。一は多きを貪るの癖なり。此癖ある人は、鼠の物を噛むが如く、甲の書をも二三読み乙の書をも四五枚閲し丙の書をも一二枚窺ひ、畢竟書目をのみ知るに止まりて何等の要領をも得ること無く終るものなり。
 他の一の癖は、[虫滿]ダニといふ虫の一処に咬みつけるが如く、書中の一部に拘泥して空しく字句の詮義に過分の心を労し、句読訓詁を読書の目的の如くに考へ誤り、一日二日三日と月日を経て猶ほ一葉二葉を読み得ず、一処に滞りて終に一部の書の意は知る無くして止むの類なり。
 蚕の桑の葉を食ふが如く順序だてて漸々精密に咀嚼し行くを読書の一良法とす。
 また書を読むに当つて、多少解し難きところあるに関らず、先づ読過し、次でまた読過し、次でまたまた読過し、また次でまたまた読過し、是の如く数十回読過して、其の間おのづから円悟融解して後已む。これもまた読書の一良法なり。但し此の法は才高からざるものの為し難きところとす。
 書を読むものは、くれぐれも読書の法に就て熟慮せざるべからず。今ただ其の大概を挙説するのみ。猶ほ各人が自得の工夫に待つあるや論無きなり。

                            『露伴全集』第24巻418-420p


 さて老鋪の書誌雑誌「日本古書通信」、このごろ巻末の目録ページがさびしくなったのぢゃないか、と思ってゐたところ、突如(満を持して?)かの田村書店が参加。全集などでお茶を濁すことなく、超一級の稀覯モダニズム文献を惜しげもなく並べ、しかも店売りでのやうな「お買ひ読」価格が付せられてゐました。早速田中先生のマダムブランシュ時代の盟友だった西崎晋の遺稿詩集を注文のところ、このたび感激の到着。高額ゆゑ久しく見送り続けてゐた稀覯詩集でしたが、早速サーバーのなかへ関連文献とともに画像を「入れ込ん読」。流涎の思ひを同じうされてきた「気の読」の皆様には是非御覧頂けたらと思ひます。
 扶桑書房の古書目録とともに近代文学分野で一番頼りになる田村書店の書棚ですが、度々覗きにゆくことのできない遠方の愛書家に、これはうれしいハプニングでした。株式会社化した日本古書通信社への御祝儀でせうか、来月以降も目が離せません。

343やす:2008/05/06(火) 22:40:01
「郷土史家 伊藤信展」
 大垣市立図書館の三階でひっそり行はれてゐた「郷土史家 伊藤信展」を見に行きました。といふか、このたび読了した『菅茶山』のあと次に何を読まうか思案してゐた矢先にこの展示を知ったので、これはもはや『梁川星巖翁 : 附紅蘭女史』(大正14年 梁川星巌翁遺徳顯彰會)に挑戦すべき啓示と判断、願掛けではないですが、心のなかで報告かたがた遺墨遺品を拝して参りました。星巌の難解な詩も、同じく伊藤先生が解釈を施された全集に拠れば解決されるので、今回も『菅茶山』『伊澤蘭軒』同様の「閑人読書ノート」を作ることになるかどうかは未定です。
 館員の方には年譜のコピーなど便宜を図って頂きました(写真撮影等要許可)。ありがたうございました。

【伊藤信氏 略歴】 (年譜より抄)
明治20年(1887)4月、海津郡西江村稲山(現在の海津市海津町)に誕生。幼少時より祖母から素読を授かり、旧高須藩士の山内虎二、高須町の市川薫精に学んだ。濃尾震災により父死去。
明治35年(1902)高須高等小学校卒業。西江尋常小学校の准教員として子どもたちを教へる。
明治37年(1904)漢詩人高木竹軒に師事。一字を受け竹東と号す。
明治38年(1905)岐阜県師範学校入学。漢詩結社岐阜藍水(らんすい)同声吟社に入る。
明治42年(1909)師範学校卒業、今尾尋常高等小学校教諭となる。のち岐阜県女子師範学校、大垣中学校、海津中学校、大垣市立高等女学校を転勤。
大正14年(1925)『梁川星巖翁附紅蘭女史』刊行。引き続きライフワークとなる。
昭和 5年(1930)『大垣市史』全3巻を編纂。最後の大垣藩主だった戸田氏共(うじたか)より、書斎に「景星閣」の名を扁額ともに贈られた。
昭和 6年(1931)「美濃郷土研究会」創立。翌年、岐阜藍水同声吟社の盟主となる。
昭和 8年(1933)『濃飛偉人傳』刊行。
昭和10年(1935)大垣市立図書館館長に就任。
昭和12年(1937)『濃飛百家絶句』『濃飛文教史』刊行。
昭和18年(1943)『宝暦治水と薩摩藩士』刊行。
昭和20年(1945) 敗戦。図書館貴重資料の避難に尽カした。
昭和24年(1949)大垣市立図書館館長を退職。
昭和28年(1953)   『梁川星巖全集』編纂はじまる。『岐阜県治水史』『赤坂町史』編纂。
昭和31年(1956)『梁川星巖全集』1〜3巻(星巌詩集の部)を著す。
昭和32年(1957)12月19日、死去。70歳。
昭和33年(1958)   冨長蝶如らにより『梁川星巖全集』の残り2巻(紅蘭の部および雑纂)が刊行され、全5巻成る。
昭和44年(1969)遺稿『細香と紅蘭』刊行。

 清痩の姿にどことなく田中冬二を重ねて憬仰してゐます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000481.jpg

344やす:2008/05/08(木) 12:16:30
顔すでガンス。
 先日「黄巒書屋」と書かれた破損寸前のマクリを文字通りの破格で入手、これを表具屋さんに持ち込み、裏打ちをしてもらひ、新しい扁額に貼り付けていただきました。謂はば簡易の表装なんですが、ボロボロとは云へ、篠崎小竹最晩年(亡くなる半年前)の手蹟で、見応へがあります。為書きの主は、福島県岩代町の中島黄山といふ儒者。苗字も自分と同じなら、ここは「黄巒」=地元の金華山となぞらへて、後藤松陰の岳父でもある小竹翁よりこれを授かり、時と場所を隔てた二代目庵主となった気分を喜んでゐる始末。
 先主の中島黄山(文化12年〜明治3年)については『漢文学者総覧』に載せる情報のほか知るところが尠いです。名は淳、字は大初・君敬、通称を長蔵と称した二本松藩儒、師は天保9年に讒に遭ひ獄死した鈴木堯民といふひとの由(森銑三著作集8 475p)。ネット上では著作もヒットしない人ですが、幕末ケータイ小説の登場人物にはなってゐるらしい(笑)。なんでもいいや。吾が書斎にはじめて表札が掲げられました。感無量です。(拡大はLink集の写真をクリックして見て下さい。)

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345やす:2008/05/10(土) 22:29:39
『知道詩篇 初編』
 川崎の一儒者父子が企画したアンソロジー漢詩集を入手、小出公純ほか郡上藩の好学家老たちの作品が載せられてゐたので一寸紹介します。序の記された文政三年は公純らが藩の文学に杉岡暾桑を招聘した年。さかのぼって江村北海の序文を戴き『濃北風雅』を編輯した公純27歳の春、天明三年からは実に37年が経過してゐる計算です。翌くる文政四年、公純は『三野風雅』の刊行と時を同じくして亡くなるのですが、何か伝手でもあってこの私家版アンソロジーに参加することになったのでせうか。採録詩人の出身地をみると特定の地域に偏ってゐて、これが全国津々浦々に募集したものでないことが分かります。そして序文には

「唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観る」

 などと刊行趣旨がもっともらしく述べてあり、たしかに「聖霊派」の全盛時代、「工拙を議せず」は納得するにせよ、結城藩の藩主に至るまでの要路の人々が、掲載順序にさへ異を差し挟むことがなかったのかは気になるところです。奥付の無い私家版ですから採算は各詩人からの掲載料に頼ってゐた筈です。もちろん『濃北風雅』では小出公純が第一巻の巻頭に置かれてゐます。
 しかしアンデパンダンを標榜するところ、なんだか同じく川崎にあった「詩の家」みたいですね(笑)。自ら詩の第一人者を自称して地方の初学者をあつめ宗匠を気取るところも大正時代にデビューした口語詩人たちみたいです。著名詩人を収めた『文政〜慶応○○家絶句』のアンソロジーより却って面白さうなのも、昭和初期の無名詩人たちを集めたアンソロジーと同様、時を経てひとつの時代を映す資料として、裾野に位置する稀覯書となったからに他なりません。


『知道詩篇 初編』井田経綸編、井田赤城閲 文政三年序 建標楼発行 2,2,1,16,2丁 23.3×16.1cm

知道詩篇序 井田赤城  (略)

知道詩篇序
 老子曰く、大国を治めるは小鮮を烹るがごとし。詩道また然り、杓柄を言志永声の間に揚げ、塩梅を孝弟忠信の中に調へ、火度を興観群怨の域に徴し、和羹を烹[食壬]醇沢の滋きに存して、人日に三嚼、もって鹹酸を味ひ、庸言これ信じ、庸行これ謹み、事物の感じる所に因みてもって性情の発する所に賦せば、則ちその温厚和平にして思ひ邪ま無くもまた得べし。若し然らば則ち、士農工商その分を僭せずして身として脩まらざるはなく、家として斉(ととの)はざるはなく、所謂風雲を巻舒し、珠玉を呑吐するも是においてか存す。然らざれば詩三百を誦し、日に日に数千万章を賦するも疾妬誹毀、牆面失愚、それ之を何をか謂はん。吾が師、赤城先生、男経綸の撰ぶ所の知道詩篇を閲して乃ち弟子良[王民]に序を作らしむ。葢し先生の詩を論ずるや、唐宋の格調を擇ばず、章句の工拙を議せず、貴介公子より以て黎庶に[およ]ぶまで、いやしくも詩あるものは、取って以てその志思若何を観るのみ。友人、余を詰って曰く、格調工拙を議せずんば、則ち詩道なんぞ得ん。余、答へて曰く、道外に詩なく、詩外に道なし、若し夫れ夏宵に蓮を嗅ぎ、雪朝に爐を擁して、苟も道に由って以て其の感ずる所を賦すれば、譬ふれば牡丹薔薇の各自その以て芬芳する所を呈するがごとし。友人曰く、妙なるかな詩論、吾が儕の小人をして君子の林に入らしむ、幸ひ焉より大なるは莫し。先生の斯の篇を閲する杓柄、火度、塩梅、和羹、誰か玄味に飽かざる者あらんや。鶴の長脛、鳬の短足、亦ただ先生の詩鼎に投ぜよと云ふ。庚辰秋七月巧夕
       長総 秋葉愿良[王民](びん)拝撰

附言 従吾道人山如山  (略)

(参考)『知道詩篇 初編』掲載詩人一覧

赤城長雲卿 「家君。名某、姓井田氏、武州稲毛長尾邑の人。因って長尾某と自称す。」
有斐公子 「名乗顕、字微卿、姓源氏。」
貞[豕生]君 「名乗豪、字傑甫、姓源氏、号雪幹。」
拙齋  「名安親、字子孝、姓藤田氏、通称通栄、上毛矢田藩。」
関思問  「名思敬、号恭齋、俗称関口留五郎、東都の人。」
泰常  「字子久、号象洲、羽州本庄の人。」
子問  「羽州本庄の人、商家、俗称須藤善太郎。」
浅香元敬  「羽州本庄の人。」
今道召  「通称楽之進、羽州象潟大竹邑の人、業は医、八十六翁。」
今道也  「羽州象潟大竹邑の人、道召の孫、通称全常、業は医。」
藤淇水  「名信行、号翠陰、象潟大竹邑の人、通称佐藤春随、業は医。」
綱経  「字淑挙、羽州象潟大竹邑の人、通称佐々木宗琳、業は医。」
藤秀経  「号成蹊堂主人、字子恭、羽州由利畠邑の人。」
南木  「姓齋藤氏、名延秋、通称茂右衛門、羽州仁賀保の人。」
嶋鴻峯  「名公、字十八、号曰く影蘭、祖貫は東都の人、上総福俵に住す。通称嶋公齋、業は医。」
恊卿  「名克、号善庵、上総州青野の人。俗称秋葉恊二。」
木幾道  「名若水、号[扁]衆、上総州山口の人。俗称木村千代太郎。」
陸子孝  「名惟忠、号衡山、上総州清水の人。俗称陸平左衛門。」
宮恭篤  「名惟政、号孝陵、上総州清水の人。通称清宮伊左衛門。」
石保明  「名載止、上総大網の人。俗称石野六右衛門。」
深子直  「名惟康、号民陵、上総御蔵柴の人。通称深山勇右衛門。」
部子山  「名徂東、号雪顧、上総帆丘の人。俗称矢部五郎左衛門。」
秋愿  「字不、号知之、また蒼原と号す、上総青野の人。業は医、通称秋葉良[王民]。」
成象童  「姓小佐野氏、俗称豊吉、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源[山解]谷  「名光、号子龍、俗称竹屋靱負、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
源橘園  「姓羽田氏、名知則、字恕安、また菱花亭と号す。俗称主殿、甲州芙蓉山下、吉田の人。」
山桃溪  「名詮、字文言、一号逍遥亭主人、通称山崎宗倫、宇土侯侍医。」
山[山居][山來]  「名如山、字苞卿、一号従吾道人、山桃溪嫡男、江戸の人。」
東道策  「名徳義、号平原、美濃の人、京師錦街に住す。」
頌齋  「名静、字子正、姓伊庭氏、郡上藩亜大夫、俗称又五郎。」
西嶺  「名栄章、字伯煥、武州比企小川の人、俗称磯田長左衛門。書を善くす。」
村子顕  「名惟良、淡[齋」と号す、上総萱場の人。号をもって通称となす。」
釈玄英  「綽号俊山、駿州富士郡巌平の人。曹洞宗。」
石徳齋  「名篤敬、字子行、因州藩、業は医、通称石上周禎。」
新建城  「名峻、字廬卿、俗称新名表助、丸亀藩。」
芸卿  「名芸、号醒顛、上総堀上の人。通称中村養芸、業は医。」
帝出  「名震、姓伊庭氏、号柳湾、一号相牡丹、通称周齋、業は儒医、尤も周易に精し。柳橋の人。」
栄齋  「上総大網の人、業は医、通称齋藤又玄。」
田皎雪  「上総福俵の人、俗称北田栄佐。」
木静立  「名明之、号忘我、上総姫島の人、通称鈴木道安、業は医。」
富主一  「号惺齋、上総南飯塚の人、俗称冨塚戍松。」
飯子徳  「名驥、号後凋園、上総山口の人、俗称飯塚喜十郎。」
荻子徳  「名順祥、号荻城、上総本納の人、通称荻生順祥、業は医。」
根尾翼  「字垂天、号天梯、通称根尾平八郎、東都の人。」
釈柳芳  「長陽の人、東都青松寺寮頭。」
釈摂晃  「名泰忍、相州三浦横須賀邑波嶋山主、浄土真宗。」
雉玉鉉  「名鼎、上総の人、通称雉間玄雄、業は医。」
釈日冠  「名白円、江戸の人、上総州宮谷檀林僧侶。」
倉宗郁  「守静庵と号す。業は医、上総南横河の人、通称倉持宗郁。」
三上君  「名李富、字礼卿、自ら知来館主人と号す。」
新見君  「名正路、字義卿。」
松子方  「名廉、号崛奇、通称松浦凌、業は医、上総牛込の人。」
土無逸  「名惟馨、号孜堂、また牡丹培者と号す。業は医、通称土屋良順、上総富田の人。」
中務敏  「名遜、允懐と号す、上総青田の人、俗称中邑豊造。」
小謝海  「名公純、字君[か]、俗称小出弥左衛門、郡上侯大夫。」
[てき]川  「名潜、字孔昭、郡上侯大夫、俗称鈴木典礼。」
不換  「名恊、字至善、作州九湍邑の人、東都に住す。」
滄海  「名重僖、字孔和、郡上侯大夫、通称鈴木兵左衛門。」
西崕  「名宗定、字孔固、郡上侯侍医、通称中泉甫庵。」
順齋  「名正名、字子苟、濃州郡上藩士、俗称古沢太介。」
文齋  「名昭、明卿と号す、結城藩、俗称茂野喜内。」
韓城  「名包教、字子文、宇土藩、俗称小林貫之助。」
蘭秀  「名惟徳、字君輔、宇土藩、俗称原伝八郎、東都の人。」
平水  「名惟義、字彰伯、濃州郡上藩侍医、通称多和田自快。」
結城老侯  「名勝剛、字子柔、姓水野氏、菎嶽と号す、また淇園と号す。有斐園に住す。」
琅[王干]君  「名勝久、字子敬、仙籟齋と号す、俗称水野道之助。」
華陽君  「名勝安、字子遷、姓源氏、逸齋と号す、俗称水野三男之丞。」
酔月山人  「名勝敬、字子凰、通称大刀彦居閑谷齋。」
絹江  「名昌全、字子徳、結城藩、俗称松井柳吉。」
錦城  「通称赤堀春楼、江都の人、上総一宮に住す。」
明空上人  「名徳現、三州額田郡法蔵寺主、同州幡頭郡徳永邑の人。」
葦齋  「名元敦、字子叙、姓中岡氏、俗称弾之丞、郡上藩。」
弘齋  「名将房、字楽卿、姓直江氏、通称半平、郡上藩。」
文庵  「名忠義、字路卿、郡上藩、俗称氏井多四郎。」
寛齋  「名忠宗、字思孝、棚倉藩、俗称前川恕助。」
[王民]山  「名敬行、字子信、郡上藩、通称速水佐吉。」

跋 井田経綸  (略)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000483.jpg

346やす:2008/05/12(月) 11:58:56
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』
『鴻雪爪翁山雨樓詩文鈔』小林正盛編 昭和11年 信之日本社発行 非売品

これまた、岐阜の漢詩人ゆかりの詩集を手に入れました。今回は昭和の刊行で、しかも表題に「鴻雪爪」とあるのに、大垣の図書館にも岐阜や福井の県立図書館にも所蔵が一冊もみあたらないのは不思議です。稀覯本かとも思ひ早速アーカイヴをupしましたので興味のある方はご覧ください。

347やす:2008/05/17(土) 23:24:36
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 こんばんは、黄巒書屋の稲津康之介です(笑)。
 予告の通り、伊藤信先生の名著『梁川星巖翁 附紅蘭女史』(大正14年, [西濃印刷株式会社内]梁川星巖翁遺徳顕彰会刊行)の読耕を開始しようと思ひます。

 今日までに梁川星巌とその妻紅蘭を扱った伝記といふのは、これを嚆矢として何冊か存在してゐるやうです。郷土の口語詩人武藤和夫による『勤王詩人梁川星巌』(昭和17年)、青年期の星巌を扱った中谷孝雄の小説『梁川星巖』(昭和18年)、東京に移転した子孫の稲津家、孫曽氏による『先覚詩人梁川星巖』(昭和33年)は、資料の引用に誤謬が散見されるのが残念、大原富枝氏の『梁川星巌・紅蘭 : 放浪の鴛鴦』は星巌夫妻の旅程に沿った西日本紀行が描かれ、なかで伊藤信について「この種の研究家にありがちな惚れ込みよう…空疎な讃辞があまりにも多く」(84p)と苦言を呈してゐます。その他専門書に載せる解説をはじめ、最近はまた『梁川星巌・紅蘭「京への道」桑名・ひとときの休息』(伊藤宗隆氏)なる地方出版書もあらはれました。しかし要するに、詩人の事跡はもらさず伊藤氏の「フィールドワーク」によって集められ、最初にして最大であるこの伝記本の中に収められてゐるのであって、けだし『梁川星巌全集』の全詩篇解釈の偉業とともに、すべての後続書が、唯一最善の参考書の著者として伊藤氏を仰いだことは、氏自らの例言を一読すれば納得ゆくところでありませう。このホームページ風に謂ふならば、伊東静雄や蓮田善明の伝記を書いた小高根二郎さんのやうな方、まづはそんな感じであります。もとより大正年間に成った著作ですから、巻頭の賛序はじめ、古色蒼然たる建前を有してはゐますけれど、為に詩人が今日忘却される原因となった「皇国思想による贔屓の引き倒し」は、この本において戦争中のやうなヒステリックのものとは思はれず、私には、(少なくとも冒頭からしばらく読んだかぎりでは)、憶測を以て断定せず、異説があれば紹介する労を惜しまぬ態度に一層の敬服を感じました。むしろ勤王思想について云ふならば、江戸時代後期に在野にあった詩人たちの、在野たる自負が、そのひそかな「反骨」のよりどころに据えてゐた概念として理解すべきなのであって、これを鬱々たる志として理解してゐる点では、同じ「反骨」でも星巌をヒッピーに譬へる大原富枝氏より、むしろ江戸時代に近い、今は喪はれた忠義の倫理が活きてゐた戦前文化圏の叙述に、一度寄り添って読んでみるのもいい、さう考へてみるのでした。古めかしい叙述が却って目下の漢字修養に適する点など、僻字癖がある詩人自らの詩篇より、むしろ伊藤氏の教養に裨益を蒙ることが多いんぢゃないかな、そのやうに思ってゐます。

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348やす:2008/05/20(火) 07:52:36
『日本古書通信』946号
 昨日『日本古書通信』到着、注目の田村書店の目録は、またもやモダニズム稀覯詩書のオンパレードでした。ボン書店あり、椎の木社あり、いままであまりよその目録では見かけたことのないやうな『シュルレアリスムインターナショナル』や芝書店のパンフレット詩集たち、詩集も『ペロケ色の衣装』『偽経』『朝の椅子』等々、書名をキーボードで打ち込んでゐるだけで楽しくなってしまふやうな内容です。みな現状相場よりかなり安く、この期を逃すとなかなかお目にかかる機会も少ないんぢゃないでせうか。今回HP管理人の一押しオススメは、亀山巌画伯装幀、杉本駿彦詩集『暦と地図』\15,000『記憶と秩序』\1,8000かな。この目録ページをいち早く見るためだけに購読者も増へてるんでせうね(笑)。
 頭を休めるためには、巻頭の「大学図書館の現在と未来」(早稲田大学図書館 中元誠氏)でクールダウン。拙HPも「ネットワーク情報資源」の外野末席に坐りつつ、同時に原質の図書にふれる楽しさを語りたい、図書館司書といふ仕事とは、別のプライベートな側面から、世の中の文学情報に働きかけることができたら幸ひです。こちらはタダですし(笑)。

349やす:2008/05/25(日) 19:30:54
中島黄山
 仕事で新潟へ出張。帰還するも尽瘁未だ復せず終日茫々、ただし仕事の合間に新潟県立図書館へ調べものにゆき、我家の書斎扁額の持主だった中島黄山の事跡を『二本松藩史』(二本松藩史刊行會, 1926年)に就いて知ることができた。即ち、

 名は淳、字は大初、通称長蔵、黄山と号す。二本松の人なり。家世々蚕卵紙を鬻(ひさ)ぐを以て業とし、其の店を号して中屋といひ、又種屋とも言へり。少にして学を好み、鈴木堯民に従ひて学ぶ。酷だ詩を嗜み、才気敏捷、立(たちどこ)ろに数篇を賦す。勤王の志深く、笈を負ひて諸国を遍歴し、藤田東湖、齋藤拙堂、梁川星巌等と交る。明治戊辰の役、奥羽連衡将に成らんとするや、黄山内命を受けて仙台に赴き、同藩の実惰を内偵する所あり。時に仙台の儒者岡千仞、勤王の説を持し、大(おほい)に上下に斡旋す。黄山相共に謀り、百方苦辛、勤王帰順の貫徹に力めしが、大勢既に連衡に決し、又如何ともすること能はざりき。西軍本宮占領の報至るや、黄山急遽国に帰らんとす。道梗(ふさが)りて通ぜず、仙兵の怪む所となり、鎌先に匿る。居ること二旬憂慮措かず、危険を冒して庭坂に至り、国老に見え君公の安否を問ふ所あり。會々梅原親固、事を以て同地に来る。親固元より帰順の説を持す、黄山大に喜び、共に相謀る所あり。是に於て黄山福島を過ぎて二本松に帰らんとす、東兵に遮られて進むことを得ず、乃ち紿(あざむ)きて曰く、「二本松に到り同地の敵情を内偵せん」と。辛うじて帰ることを得たり。
 黄山郷に帰り、未だ席煖なるに遑あらず、三春に往いて事を謀らんとし、本宮に到り、其の人在らざるを聞き志を空しうして帰る。一日、安齋宇兵衛と密に事を談じ、相携へて大隣泉孝道和尚を訪ふ。和尚大に喜び、私(ひそか)に西軍参謀渡邊清左衛門に見(まみ)えて請ふ所あらしむ。黄山等清左衛門に謁して其の意中を察し、米澤に赴き事情を報告せんとす。乃ち迂回して飯野(伊達郡)の山路を経て福島に到り、仙台軍事局に告げて曰く、「二本松の西軍、倍々兵数を増し、且つ若松城は西軍の包囲を受けて落城旦夕に在り」と。仙兵之を聞きて恐れ兵を退く、黄山米澤に到り、国老日野和美、用達梅原親固、周旋方和田一等に見えて具さに事情を説く。藩公も亦三人に命じて二本松に赴き、謝罪降伏を西軍に請はしむ。三使二本松に到り、渡邊清左衛門に就きて謝罪歎願書を提出し、総督府の容る所となれり。黄山又此間に処して斡旋する所少からざりき。藩公の東京に召さるるや、黄山又私に糀屋吉助と駕を逐ひて上京し、諸方に周旋する所ありき、蓋し内命に依りてなり。黄山手記に日く、「今日(十一月十三日)に至るまで諸筋へ手を入れ、上の御様子伺ひ奉り候へども、一向に相分り不申、只々心配仕候、定めて奥羽諸侯不残御揃の上朝裁と相見え候」と。能く這間の事情を説明せるものといふべし。
 維新後、藩校の致授に挙げられ、尋いで新潟県大属となり、権少参事に進み、明治三年十一月病んで没す、享年五十有六。著す所『中庸解』、『月課私録』、『池南草堂録』等あり。黄山人と為り誠実質直、其の士流に在らざるを以て当時其の説多く用ひられずと雖も、其の功没すべからざるものあり。丹羽和左衛門の植林事業は黄山の建築に基づくと云ふ。

 弔林子平
此老胸中百萬兵   此れ老胸中には百万の兵
果然瀕海百鯨横   果然、海に瀕して百鯨横たはる
如今国體論開鎖   如今、国体、開・鎖を論ず
我感高人林子平   我、高人林子平を感ず

 晩春途上
烟暖茅檐燕影斜   烟暖たる茅檐、燕影斜めなり
依微春汚透中紗   依微たる春汚、透中紗
霎時飯馬半川水   霎時、馬に飯す、半川水
風弄棣棠無数花   風は弄ぶ、棣棠(山吹)の無数の花

 墨水有感
溶々墨水泛龍舟   溶々たる墨水、龍舟を泛ばす
何計翠華接白鴎   何ぞ計らん、翠華白鴎と接するを
不恠禽名冒都字   怪しまず、禽名「都」の字を冒すを   (白鴎=都鳥のつもり)
如今關左帝王洲   如今、関左(関東)は帝王(天皇)の洲

 述懐
天降喪亂百罹臻   天、喪乱を降し、百罹いたる
閲歴滄桑春又春   滄桑を閲歴すること、春また春
四海英雄半淪落   四海の英雄、半ばは淪落
十年正議空酸辛   十年の正議、空しく酸辛
文山志早期興復   文山(文天祥)の志、早期にまた興り
宋澤誓將攘虜塵   宋沢の誓ひ、将に虜塵を攘(はら)はんとす  (ともに宋の忠臣)
生也有涯愛曷止   生また涯あり、愛しきことなんぞ止まん
悲歌吟向眼中人   悲歌、吟して向かふは、眼中の人        (396-399p)

 梁川星巌とも面識のあった、在野の勤皇家であったことが判明。

350やす:2008/05/25(日) 19:32:38
巻菱湖記念館
 また新潟では御当地の書家、巻菱湖の記念館にも立ち寄り見学、お土産に文庫サイズの復刻本『篋中集』を求めた。日本古書通信で「随読随記」を草されてゐる小出昌洋氏が編集、旧臘上京時には購入を見合はせた本である。現在ネット上でも閲覧できるのであるが、豪宕狷介の巻菱湖が認めた数尠い詩人の一人として年少の梁川星巌が挙げられ、眷属である館柳湾について語る中では秦滄浪の名もみえる。(さうして秦滄浪の曰く「さきに人の君(柳湾)の詩を伝へる有り」といふ「人」とは赤田臥牛に相違あるまい。)
 入館料ともども少々高価なのは、私設記念館・小部数私刊本の宿命といったところか。小出氏が古書通信の今月号に「誤植」の不可避について殊更一筆してゐるのも、本書における瑕瑾を気に病まれてのことだらう。
 星巌と、筆札を授かった巻菱湖との関係は、新潟県立図書館の郷土コーナーでで閲覧した市島春城の『文人墨客を語る』(昭和10年)のなかにも載ってゐた。江戸で門戸を張るにあたっては師の家に五十日も居候した上、八丁堀の邸を斡旋してもらったこと。また書誌的なことでは『星巌集』の版下について、以下のやうに記されてゐる。

 星巖が生前出版した、『星巌集』と云ふ詩集は、菱湖の開係から、菱湖の高足であつた萩原秋巖が版下を書いた。秋巌が字の調べがよかつたので、ひどくその版下を喜んだと云ふに、何故か中途で不和が起り、後には同じ菱湖の門人である中澤雪城に版下を書かせたが、星巖の意に満たなかつたと云ふ。それは兎も角も、題簽だけは是非菱湖に書いて貰ひたいとの望みで、小野湖山が態々使者となつて、菱湖の揮毫を乞うたものが、今流布してゐる、『星巌集』に貼られてある題簽である。
 詩集の事の序に遺稿の事にも及ぶが、『星巌遺稿』の版下は、今日誰も気が付くまいが、巌谷一六の書いたものである。一六は中澤雪城の門人で、云はば菱湖の孫弟子に当る。当時の一六の書は雪城の書と弁別のつかぬほどよく似てゐる。要するに、星巌は菱湖と深い因縁があつて、其の遣著は、皆菱湖系の書家に依つて書かれた。      (198-199p)

 この本には他にも星巌について、件の吉原游蕩の際、登楼するのに朋輩の分まで奢ったことや、窮地を救った獄吏が「熊」といふ名であること、そして踏み倒した妓楼から酒一樽をもって詫が入ったなど、伊藤本にはない新説も色々書かれてある。今後「閑人読書ノート」の参考に資するべく、不取敢コピーをとってきた。(図書館の司書さんにはポスターの御土産まで頂きました。深謝申し上げます。)

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351やす:2008/05/25(日) 19:42:52
週末のいただきもの。
 池内規行様より「北方人」12号の御寄贈に与りました。
 太宰治の心中事件を中心に、実証的な考察を以て、心中のもう一方の当事者たる女性たちの「復権」につとめた在野の文学者、長篠康一郎氏の「太宰治研究に捧げた一生」について、池内様の思ひ出が綴られてゐます。私淑された山岸外史をはじめ、池内様の交游録といふのはロマン派的、反骨的、浪士的にして、かつ道義的な、まことに清廉の詩人たちとの縁しが語られる訳でありますが、今回の長篠康一郎といふ人も、詩は書かずとも奇特な詩人的気質の持主だったのでありませう。長篠氏と、彼が異論を挟んだ「正統派太宰論者」大家たちの「自分に分のない場合は沈黙を守る、歯牙にもかけぬふりをする。」といふ態度が、「まるで太宰治の「如我是聞」と、その中で非難された作家学者との関係をみているようである。」と書かれたのは、けだし長篠氏に捧げられた一番の供養の言葉となったのではなかったかと思ふものです(2007.2.16逝去)。
 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

352:2008/05/27(火) 00:29:42
拙稿のご紹介ありがとうございます
やす 様

 ご無沙汰をいたしております。
 このたびは「北方人」掲載の拙稿「太宰治研究に捧げた一生」について、お心のこもったご紹介を賜わりまして、誠にありがとうございました。
 なるほど、おっしゃられてみると、私の敬愛する詩人・文学者は、ロマンチストにして非正統派、アウトサイダーの人がほとんどだということに気付かされます。やはり自分の生き方、感受の在りようと関わっているのでしょうか。
 それはともかく、長篠康一郎さんについて書きながら、その真実追求の情熱、不屈の闘志、そして誠実さと優しさなどを想い起こし、何分の一かでも見習わなければならないと思ったものです。
 やす様に取り上げていただいたことで、一人でも二人でも長篠さんに思いを致してくださる方がいらっしゃれば、これまた何よりの供養と存じ、重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

353やす:2008/05/31(土) 22:16:31
「当世書家競」番付
 池内さま ご無沙汰をしております。お手紙にも書きましたが、このところ漢詩文の学習が楽しくて入れ込んでをりますが、記憶力の減退には溜息をつくばかりです。ぜひとも池内さまを措いては書けない「浪曼派惑星」の列伝を完成して頂きたく、引き続いての御健筆をお祈り申し上げます。

 さて新潟県立図書館でみかけた図録『江戸の魅力 貫名菘翁を中心として』が到着しました。巻末に載せる「当世書家競」番付は、巻菱湖記念館の玄関にもパネル(下掲図)が掛けられてゐましたが、幕末の三筆をはじめ、一齋、山陽、星巌、淡窓(なぜか茶山翁は小さい 笑)以下、名だたる儒者文人の名が列挙され(後藤松陰や牧百峰の名も「頭取」に見えます)、興味は津々、本冊の過半を占める鵬齋・菱湖・米庵・柳湾の遺墨集とともに、たのしく見入ってをります。
そしてこの本も勿論さうなのですが、一緒に送られてきた数々の地方出版物の執筆を一手に引き受けてをられる、越後の文人研究家にして書家岡村浩先生の、矜式すべき御文章に敬服してゐます。芸術として書を研鑽される大学教員は、当今幾らも居りませうけれど、近世・近代の郷里にあった文人について、当時の精神文化圏ごと顕彰すべく、現地探査にも勤しまれる研究者が、一体全国各地の大学に如何ほど「先生」として籍を置き教鞭を執られてゐるものか、私はまったく知らないものですから感動を覚えました。倉卒に認めた御手紙には失言多きことと、反省してをります。

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354やす:2008/06/05(木) 22:38:04
『竹軒百律』
 『竹軒百律』(明治44年刊行 私家版)を入手。著者は旧高須藩士の高木竹軒、伊藤信先生の師である。本名を貞一と云ひ、嗣子の名を貞幹と聞けば、なんとなくあの『解析概論』の著者高木貞治の関係とも思はれ、県図書館で伝記や、雑誌「岐阜県教育」大正9年7月号「高木竹軒先生を憶ふ」といふ伊藤先生の回顧記事を繰ってみたが、さういふことはどこにも書いてなかった。
 旧紀州儒官の奥村葛陽が序を、貞幹(号耐軒)が跋を撰し、大沼枕山の圏点頭評に係る一冊。本文19丁。著名詩人との詩酒徴逐はみえない。

  藍川夜漁図

争先烏鬼勢如鷹  先を争ふ烏鬼(うき:鵜)、勢ひ、鷹の如し。
宛転拏来十二縄  宛転、拏(ひ)き来たる十二縄。
糸竹売声催妓舫  糸竹(絃楽)、(もの)売り声、妓舫を催す。
楼台移影倚漁燈  楼台、影移りて、漁燈(篝火)倚る。
酒酣藍水風初定  酒は酣、藍水、風初めて定まる。
詩就華山月未升  詩は華山(金華山)に就(な)るも、月いまだ升(のぼ)らず。
白石[リンリン]潜不得  白石[リンリン:透き通ってよくみえる]たるも、潜りて得ず。
魚梭織浪乱成綾  魚梭(鮎たち)、浪を織りて、乱れて綾を成す。

【枕山評】余、頃者、此題の七律を評して曰く、「星巌、松陰は本地の人為り。然れども烏鬼の一律なし。果たして何ぞや。抑も亦た後の才子を待たんか」と。又曰く、「通首、星巌を圧せんと欲す。豈に松陰を説かんや」と。

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355やす:2008/06/14(土) 22:18:30
寄贈御礼ほか
 山川京子様より「桃」5月号(お礼が遅れて申し訳ありません)、山口省三さまより「あ・ほうかい」10号(あと2号で終刊)、舟山逸子さまより「季」89号(杉山平一先生の新作あり)、それぞれ御寄贈を忝くしてをります。この場にても厚く御礼を申上げます。ありがたうございました。

 さて週末、職場の図書館に入ったベストセラーの新書『大人の見識』(阿川弘之2007)をぱらぱら繰ってをりました。
 同じ新潮新書の大ベストセラー『国家の品格』(藤原正彦2005)では、武士道が説かれてゐましたが、あの本を読んで思ったのは、著述に品格を添へてゐる著者の「ユーモア」が、所謂「武士道」から紡ぎだされることはない、といふパラドックスでした。イギリスと海軍びいきの著者によるこの本では、日本人に欠けてゐるものはユーモアなんだと、さうして昔の武士には「ユーモア」はなかったが、また「軽躁」でもなかったと、誰にも分るやうに日本人の守るべき美徳が書いてある。かつて『論語知らずの論語読み』なんて本も書かれた著者ですが、皇室に対する敬語、対象をやりこめるのではない書き方も好ましい。今将に去りゆかんとする世代の良識からの傾聴すべき遺言。
 「フドーイ。」これどっかで使ったろかしらん(笑)。

 さらに先日ネット上でみつけた、これは阿川氏よりはもうひとつ前の前の前位の世代の遺言。
 こんな逸話に手放しの感動を覚えるやうになりました…。

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356やす:2008/06/18(水) 17:59:50
日本古書通信6月号
 日本古書通信6月号到着。今月の目録ページ、田村書店はお休み。新村堂書店からは、先日拙「Book Review」でもふれました人気の柏木如亭の撰になる、『海内才子詩』3冊\136,000、『詩本草』再版\57,750が出てゐました。なかなかのお値段です。
 また今年の七夕市に、立原道造や中原中也の詩集とともに、「杉浦明平の立原道造宛書簡・葉書及び手作り少年歌集」が一括文献として出品されることも記事で知りました。在京の方は手にとってじっくり本物を堪能してみて下さい。

357やす:2008/06/22(日) 16:27:27
佐渡行
 19日より佐渡に出張に行って来ました。仕事専念はよかったのですが、立ち寄ったのは真野御陵のみ。佐渡の文事について「予習」も至らず(御陵には嘉永五年に馮弔を果たした吉田松陰と宮部鼎蔵の碑が建ってゐました※)、レンタカーの返却時に両津市内の地図をみてゐたら、何と「北一輝の生家」と表示があるのにもびっくり。アイランドレンタカーの御親切で、飛行場まで送迎の途中、生家と、それから一般には知られてゐない、丘の辺にひっそり建つ故郷の墓碑にも立ち寄って下さいました(ありがたうございました)。尊王と反骨が綯交ぜになった遺恨の御霊の数々が、今は美しい自然によって鎮められ、世俗から護られてゐる島、といった第一印象。また報告できるといいですね(笑)。

 さて新幹線で新潟から帰るさ、東京にて途中下車泊。翌る土曜日は神保町に立ち寄ることができました。田村書店は次回あたり、また「日本古書通信」で大物を並べた目録を打つ予定の由。あの品揃へを「日本古書通信」の目録ページでやってしまふといふ所がすごいです。また「稀覯本の世界」管理人様とは久闊を叙し、渡邊修三書翰(昭和16年5月11日消印加藤泰三宛)、『足穂拾遺物語』郡淳一郎篇(2008年刊)、大町桂月『蔦温泉帖』の和綴豆本(1929年刊)など、御土産に頂きました。ありがたうございました。

 帰ってきたらば「新村堂書店古書目録」No.94が到着してゐて、これまた梁川星巌ほかの詩集を注文。佐藤惣之助はこれで田村書店でみつけた『深紅の人』と合せて、大正期の第2詩集〜第7詩集が集まりさうです。梁川星巌については、別にネット上の目録から注文した詩人の処女詩集『西征詩』(上下二冊文政12年刊)が、留守中に到着。稍し虫が入ってゐるものの、貴重かと。早速公開準備中です。お待ち下さい。

(付記:旭伸航空の佐渡便は、新潟−佐渡を25分で飛行、運賃も1時間かかるジェットフォイルと\1000しか違はないのに今秋廃止が決定したさうです。10人乗り超小型旅客機の機影が、国産トキに続いて佐渡から消えることになります。残念。)


※ 「凜烈万古存」石碑(真野御陵入口)

異端邪説誣斯民。非復洪水猛獣倫。苟非名教維持力。人心将滅義與仁。
憶昔姦賊秉國均。至尊蒙塵幸海浜。六十六州悉豺虎。敵愾勤皇無一人。
六百年後壬子春。古陵来拝遠方臣。猶喜人心竟不滅。口碑於今伝事新。
                    吉田松陰撰

陪臣執命奈無羞。天日喪光沈北陬。遺恨千年又何極。一刀不断賊人頭
                    宮部鼎蔵撰

異端邪説、斯民(人民)を誣ふるは、復た洪水猛獣の倫(たぐ)ひにあらず。
苟くも(皇室の)名をして維持、力めしむにあらずんば、人心、将に義と仁とを滅せんとす。
憶ふ昔、姦賊が国均(鈞)を秉(と)りて、至尊、塵を蒙り海浜に(行)幸するを。
六十六州、悉く豺虎。敵愾して勤王するは一人として無し。
六百年後、壬子(嘉永五年)の春。古陵に来拝す、遠方の臣(私たち)。
猶ほ喜ぶ、人心の竟に滅せざるを。口碑、今に事を伝へて新なり。
                    吉田松陰撰す

陪臣にして命(命令)を執る、羞づる無きをいかんせん。天日は光を喪ひ、北陬に沈めり。
遺恨千年、又何ぞ極まらん。一刀をして賊人の頭を断たず。
                    宮部鼎蔵撰す

(過去ログで矚目の写真を追加します。)

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358やす:2008/06/28(土) 22:13:43
梁川星巌の詩集
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 詩に一徹、他に何の著書も遺さなかった星巌の詩集は、計画段階に於いてすでに甲・乙・丙…の順序が構想されてゐたものと見え、詩壇を意識した戦略的配慮といふべきか、最初に刊行されたのは『甲集』ではなく、『星巌乙集 西征集』 (文政12年 吉田屋治兵衛ほか刊)、そして『星巌丙集 星巌絶句刪』 (天保6年 玉池吟社刊)でありました。これらが先ず出て、詩人の真価を世に問うたのであります。

 巷間よく見かけるの梁川星巌の詩集は、『星巌集』と称する、『甲集』から『戊集』までが9冊に集成され、加ふるに門人アンソロジー『玉池吟社詩』2冊と妻紅蘭の『紅蘭小集』1冊を以てした全12冊のセット本でせう。別集としては『黄葉夕陽村舎詩』『山陽詩鈔』とともに、当時最も知られたベストセラー詩集となりましたが、大部であるにも拘らず数種の後刷りの存在が確認されてをり、異同が夥しいのです。実のところ伊藤氏も詩集の書誌については持て余してゐたらしく、この『梁川星巖翁 附紅蘭女史』に収められた年譜には、なんと『西征集』『星巌絶句刪』の刊行年さへ記されてゐません。残念なことにこの年譜が伊藤氏没後に出た星巌全集第5巻所載の年譜にそのまま引き写されてしまひ、伊藤氏がその後知り得たに違ひない事実を、全集の年譜に書き加へることなく仆れた無念を、思はないではゐられません。著名の先生方による解説が、皆これを元としてゐますから、私もここで梁川星巌の処女詩集、第二詩集の刊行が、文政12年5月、天保6年2月であることをあらためて記しておきたいと思ひます。

 さてそれなら『星巌集』はどうなのかといふことですが(口ごもる 笑)、元来初版の『星巌集 ○集』といふのは、先ず、天保戊戌季夏[9年6月]に、『丙集』の増補改訂版を3冊ものとして新鐫刊行し、次に、天保辛丑仲春[12年2月]に、長らく封印してきた最初期の『甲集』1冊を、『乙集』の改訂版2冊と一緒に出し、続く季春[3月]には、『丁集』と、現況の最新状況を集めた補遺と云ふべき『閏集』を合せて2冊とし、さらに『閏集』付録と銘打った『紅蘭小集』を別冊にして刊行されたもののやうであります。(但し『乙集』奥付刊記は天保10年だし、『紅蘭小集』奥付刊記は天保12年1月較刊とあり、謎です。付録扱ひだった『紅蘭小集』は先に全ての工程を終へてスタンバイしてゐたのでせうか。)
 要するにこの時点では『星巌集』は全9冊だったのであり、その後の『戊集』1冊と玉池吟社詩人たちのアンソロジー2冊を併せて『玉池吟社詩』の名で刊行されたのは、安政3年正月のことであるらしい。つまり現在世に出回ってゐる12冊セットといふのは、総てそれ以降の一括印刷に係る後刷り「星巌集決定版」であるといふ訳であります。

 『星巌集』は、ですから一見端本とも思はれる9冊揃ひの方が古いといふことになります。もっと云へば、見返しと奥付があって刷り状態の良い『丙集』、『甲集+乙集』、『丁・閏集+紅蘭小集』があれば、それぞれ一番古い可能性があるのです。版元の異同が夥しいのは、板木の権利が売買されたからですが、安政6年に起きた大獄に際して、詩人の評価が一時的に封印されたことも関係してゐるのかもしれません。とまれ、初刷りであるなしに拘らず、各集の見返しには同じ干支が刷り込まれてゐるので、これが奥付の印刷年不記と相俟って書誌舛錯の原因となってゐる訳です。判断できる限りの情報をあつめ、考証したら面白いと思ひます。
 見返しに記名された代表版元として、江戸千鐘房(須原屋茂兵衛)版のほか、京都竹苞書楼版、東京青木嵩山堂版(明治刷)が存在するやうです。管理人の所蔵本は、見返しを甲集のみに留め、各集の扉紙も省かれた千鐘房13冊セットの後刷りですが、奥付版元に江戸とあるので明治刷りではないやうです。

 また『戊集』に続く、江戸玉池吟社を閉じて京都に活動拠点を移した後の作品については、『星巌先生遺稿』(文久3年 老龍庵蔵板)8冊の方に集成されましたが、これまた元治元年版といふものがあり、明治になっても増刷が続けられました。管理人の所蔵本は文久版明治刷りの一組。魁星印のある袋が付いてなかなか綺麗です。

 今後、岐阜県図書館の蔵書と合せ、書影や目次を順次公開してゆければと思ひます。お楽しみに。以上読書ノート「寄り道編」でした。

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359やす:2008/06/29(日) 09:20:31
「初版本」第3号
「初版本」第3号落手。今回は詩集をメインテーマにした話題が少なく、ちょっと残念でした。いちばん反応したのは「福永武彦の世界」(三坂剛氏)の、あとがきかも(笑)。サロン諸氏の御文章ゆるゆる拝読致します。

「贅言
 晩年の中村眞一郎氏の仕事をお手伝いし、書庫に出入りする機会のあった私にとって、例えば国文学研究資料館に納められた江戸の漢詩集を中心とした和本数千巻をはじめ(依頼されて、私は納める際に全ての和本を写真に撮った)、スチール製移動書棚何本にも万載されていた古今東西の洋古書・研究書に加えて、昭和初期からの小説本・詩集の数々、そして毎月一〇〇冊以上続々と送られてくる新刊で溢れる中村氏の書庫は、正に知の宝庫そのものであった。(後略)」(35p)

 「中村眞一郎江戸漢詩文コレクション」といふのは、以前に国文学研究資料館で紹介展示がなされ、目録も出たやうですが、和本数千巻の書影は貴重なデータですね。また毎月新刊が100冊以上送られてくるとあっては、自宅に無名詩人の詩集など寄贈しても読んでは頂けなかった訳です(笑)。さうして、福永氏に於いても、四季派文化圏で育った雰囲気や、麦書房が作った普及版の「枡型詩集」、星座をあしらったあの清楚な装釘は好きなのだけれど、小説を読まない私は、よい読者ではなかった。謂はば「無意識に点が甘くなってゐる」詩集愛蔵者にすぎなかったやうにも思ひます。
 そんな事情を、実は「初版本」の2号に書かせてもらったのですが、3号が発行されましたので拙稿をupしたいと思ひます。編集画面のままで御覧下さい。全頁カラー刷りの雑誌の氛囲気も分かるかと思ひます。

360やす:2008/06/30(月) 21:33:54
『星巌丙集 星巌絶句刪』
 週末に、県図書館へノートパソコンを持ってゆき、『星巌丙集 星巌絶句刪』全頁と『星巌集』の見返し・扉・奥付をスキャナー取り込んできました。最近、熱暴走(?)で突然シャットダウンするやうになった我がパソコン、家ではアイスノンで冷やしながら作業してゐるので、ファンのフル回転の音を聞きながら、いつ止まるかとまさにヒヤヒヤの思ひでありました。
 さて、その『星巌絶句刪』を公開します。本書が乙集のあとに、ふたたび甲集を差し置いて出された星巌の第二刊行詩集『丙集』であり、天保6年2月の刊行元は「玉池吟社」、つまり自費出版されました。経済的な理由で一冊になったけれど作品はこの何倍もあるんだよ、と、いった趣きが「甲ではなく丙」「数ある作品から刪省」といった名付けから窺はれます。お玉が池の詩塾はこれに先立つ3ヶ月前に旗揚げしたばかりでした。正に若年の汚名を雪ぎ、江戸の詩壇に星巌ありと宣言する、正念場の一冊だったと思はれます。すでに京都に頼山陽はなく、先輩大窪詩仏の詩聖堂の趾を襲った玉池吟社の名声が、この後一気に、日本一に揚がったのは周知の通りです。そしてたった5年後の天保11年には、『新鐫 星巌丙集』として、この本は面目を改め、全三冊の全容が明かにされることになります。そればかりか翌年には、満を持しての甲集と、その後の丁集が日の目を見、本邦初の女漢詩人の詩集を付録に加へた『星巌集』9冊セットが完成します。名実ともに漢詩はもはやお堅い儒者の専売余技ではなくなったといふこと。そして浩瀚な漢詩集の商業出版に大書店を踏み切らせた背景にあったもの。2種類の丙集は、一介の在野詩人の名声が開花するあとさきを物語るとともに、漢詩を支へる読者層の広がりを、物的にも証明する象徴的な刊行物でもあるやうに思はれます。

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361やす:2008/07/03(木) 17:30:39
残念・・・。
『中村真一郎江戸漢詩文コレクション』(2007 国文学研究資料館)目録は、発行所に問い合はせたものの、頒けては頂けませんでした。何部刷られたのか、大学図書館や公共図書館にもあまり寄贈されてゐない模様です。残念です。

たうとうノートパソコンのファンが停止。よって電源投入後およそ10分でシャットダウン。再インストール後CDRが焼けなくなり、キーボードも誤変換するやうになった上にこの仕打ち・・・刀折れ、箭尽きたり矣。残念です。

362やす:2008/07/06(日) 16:10:26
寄贈御礼 『菱』162号 / 『桃』七月号
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』162号の御寄贈に与りました。早速連載「モダニズム詩人荘原照子聞書」を拝読。フィールドワークがこのたびは実証的な文献探査・考証となり、そこに飄々とした聞き書きの肉声が効果的に織り交ざり、今回も読ませます。副題は「『花神』の祖父 そして詩人の系譜」。江戸時代の漢詩が好きな私にとっては、予告された次回の「漢詩人の父 そして詩歌への目覚め」とともに興味津々です。今まで自分の中で分裂して存在してゐた漢詩と近代詩が、以前に紹介した日塔貞子と云ひ、このたびの荘原照子と云ひ、かうして文字通りの血縁を語る文章に出会ふたびに、両者の接点が模索されます。本来の時間軸ではその間に存在すべき「明治新体詩」が、すっ飛ばされてゐる隔世遺伝ぽいところも、漢詩人達の遺恨が孫世代に憑いてるやうで面白いですね。さうして荘原家の場合、養子の祖父が引っぱってきた「隠れキリシタン」といふ血筋がさらに、詩人誕生にあたっての大きな触媒になってゐる気がします。これは次回語られる父の生涯とも合せてみてゆきたいと思ひますが、伝統を拒絶する前衛詩人が家系を誇りとしてゐた不思議は、まことにそこで解けるのであって、祖母が極秘事項として語った祖父の体験譚も、異界に迷ひ込んだ御伽噺の主人公さながらです。

荘原「それがね、明治になってから祖母が極秘事項として教えたんです。夜中にご開門、ご開門と戸を叩く。仲間がドーレと言って仲間小屋の窓を開けたら、駕籠が来とって、先生のご来診をいただきたいと。由緒あるお方のご命令ですって言うからね。祖父は医者ですから断われんから、道具持って行ったんですって。そしたら山の中、川のそば、グルグルグルグル、分けのわからん迷路のような所に(駕籠を)入れて、そしてそこは御殿みたいな大きな屋敷。りっぱな緞子みたいな蒲団の上に、姫君みたいな人が寝てるんですって。ただ今ご出産で難産だから、先生のご助力願いますって言うから、祖父はお産[婆]じゃないから困って、わしはそれは……とにかくお願いしますと言うから、まあ力んで力んでやって、とうとう安産したんですって、そうしたらみんなが出て来て、おなつかしゅうございますって、泣くんですって、祖父に。私たちはキリシタンで、あっちに逃れ、こっちに逃れして、あなたのご子孫[先祖]も左様と知って……これギクッとして、また俥に乗せられたら今度は目かくしして、グルグル……街中ひっぱり回して、ありがとうございました。そしてまあ普通の治療費か、置いていったらしいですね。これは誰にも言うなよと言って、明治まで黙っていた。」

 漢詩は明治以降、衰頽の一途をたどってゆく訳ですが、同様に彫落してゆく旧家の末裔に生まれ、祖先から文才を享けた一少女が、何の因果か漢詩を追ひやった詩壇で新たな断絶の詩史を啓き、花火のやうに燃え尽きていった生涯といふのは、果敢なく夭折するでない、老女の貧窮死といふ壮絶な閉じ方にあっても、何かしら数奇にロマンチックな、「隠れキリシタン」同様の、哀しい伝説の余韻を感じてなりません。


 またこのたびは山川京子様主宰『桃』七月号(Vol.55(4),No.631)の御寄贈にも与りました。
 石田圭介氏の後記は、個に偏した作為を排する作歌指導のもと、「桃」ならではの面目を昭らかにした一文。しばしば話題となる短歌における形式論議は、文藝における個性とは何なのかといふ、謂はば日本文学の根幹に嬰れる問題に行き着くもののやうに思ひますが、小野十三郎の「奴隷の韻律」は、桑原武雄の「第二藝術論」同様、耳障りが良く、マクドナルドのハンバーガーのやうに子供に選ばせたら必ずそれを選ぶやうな論旨に過ぎません。「新しい」といふ真の意味が、形式ではなく、個人の日々の再確認のなかにのみ存するといふこと。それが月並みに堕してゐるのか、自恃に値する嗜みなのか、といった問題は、もはや字面ではなく、作家の実生活を俟って判断すべきものだと、私は思ってゐます。幕末志士の漢詩や『大東亜戦争遺詠集』なんかはその極地でせうが、それが愛国的で気に入らない「自分が自分が」といった人物は、歌壇と俳壇を腐すのぢゃなく、去って自由詩か散文で一家を建てたらいいんです。

 二誌に対しましては、この場にても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

363やす:2008/07/11(金) 12:04:14
山本文庫
扶桑書房さんから嬉しい四季派ゆかりの買ひ物、中原中也の『ランボオ詩抄(山本文庫)』が到着。たった10銭の文庫本ですが、立原道造の処女出版書『林檎みのる頃(シュトルム)』とともに、詩人の在世時に刊行された数尠い本として、人気を二分するタイトルです。さてこの山本文庫といふ翻訳叢書、とにかく初版が珍しい。或は「最初から第何版の名で刷って、売れ筋にみせかけてるんぢゃないか疑惑」のあるシリーズでありまして(笑)、加へて酸性紙に刷られ、表紙も薄っぺらいので、初版のみならず残存数自体がそんなに多くはないやうです。田中先生も『ヒアシンスと花薔薇(ノヴァーリス)』といふのを出してゐますが、ともに全ページupしましたので、お暇の方は「詩集目録index」から御覧下さい。


(大庭様@横浜市より見やすい画像ビューア版を送って頂きました。ありがとうございました。2008.7.12)

364やす:2008/07/20(日) 20:25:24
丁艱
 クモ膜下出血で倒れ、永らく入院してゐた父が逝きました。73歳でした。手術後の経過が思はしくなく、七年近くも病院に臥床してゐたので、家族はその間に覚悟も出来、窶れ果てた父の死を冷静に受け止めることができました。それでも元気な頃の遺影を床の間の仮祭壇に掲げ、愛犬をあやす姿をビデオでみれば、やにはに昔の記憶が甦り、父を喪ったといふ心の整理を再び7年さかのぼって家族各々が行ひはじめた次第です。煩瑣な社会上の手続きも一段落、思ひを新たにする習俗上の付合ひもはじまりました。あっと言ふ間の一週間でした。

 久しぶりの職場に「日本古書通信」が届いてゐました。田村書店の目録は北園克衛の稀覯詩集が勢揃ひ。それから知らない間に、村瀬藤城鑑定の 魚々屋茶碗のオークションが終ってゐました。銘「引船」。ものすごい値段ですね。

365やす:2008/08/06(水) 17:27:12
「近代文学 資料と試論」第8号
 碓井雄一様より「近代文学 資料と試論」第8号の御寄贈にあづかりました。
 連載「林富士馬・資料と考察」も残すところはあと2回、今回は『林富士馬評論文学全集』の集成にもれた「序跋」の類をあつめた拾遺集ともいふべき趣きです。文筆業を本業としない(できない)と決めた(諦めた)詩人にとって、それが道楽でも趣味でもない証しをたてる際には、ビッグネームをことさら正面から語るよりか、身近なマイナーポエットを側面から親密に語る際にこそ語り甲斐もあったかと思はれ、また断りきれない義理を果す際に現れる人情の機微といふのも、実に山岸外史と同様、日本浪曼派ならではの詩人ぶり、つまり依頼者に対する優しさを歴々とみる思ひがします。けだし「序跋」といふのも、片々たるものだからこそ、人との縁を大切にする詩人の特性を最もよく表すジャンルのひとつと思ったことです。
 むかし、富士正晴との共著となった、師伊東静雄について論じた『苛烈な夢』といふ文庫本を読んだとき、富士氏のやうに食ひ込んだ、或はもっと身近な見聞を織り込んだ読み物にしてほしかった、と不満に思ったものでしたが、語るべき対象に向かって構へたり力んだりすると、空回りする嫌ひがあるのかもしれません。伊東静雄について直接語ったものでない、序跋のやうなところでフッと回顧される師の俤の方が、よほど詩人論として示唆に富んでゐるんだがな、とあらためて思ったことですが、あの『苛烈な夢』の本にしても、本人生きてゐたら、富士正晴の文章ではなくきっと林富士馬の文章を採られたに違ひない、そんなところもふくめて碓井様謂ふところの「他者に示し続けた優しさ」なんだと思ひます。最後に掲げられた「ときじく」に寄せられた一文など、まさに優しさが文章全部を支へてゐますけれど、これを手紙として寄せられた碓井様の幸せ、思ふべきでありませう。

 ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

366やす:2008/08/19(火) 11:41:11
流金鑠石
 残暑のさなか、買ひ替へたパソコンの、VistaやOffice2007のインタフェースに振り回され精神を消耗しきってゐます。雑事も重なり、気ばかり急いて本もしばらく読んでゐません。パソコンのみかけを旧に戻すべくネット上を捜索。対応策紹介に付せられたコメントには、
「未だにダイヤル回すタイプのテレビを「ワシにはコレがいいんじゃよ、コレが」とか言いながら使い続ける感じ?」とか「ビデオ録画のできないじぃちゃんの仲間入り」とか(笑)。
 しかし「漢文・日本語のできないじぃちゃんの仲間入り」になるよりはましであります。

【寄贈御礼】:山口省三さまより「あ・ほうかい」11号(あと1号で終刊と思ひきや第2ステージの予告も)。「日本古書通信見本誌」「扶桑書房古書目録」ほか皆様ありがたうございました。

367:2008/08/24(日) 22:33:43
田中克己先生のこと
はじめまして。
旧姓、服部美那子と申します。言語学者であった服部正己の長女です。
中島栄次郎さまの検索をし、そして田中克己先生の検索をしているうちに、亡き父、服部正己の名前が目に入り、今日は、一日中読みふけっておりました。小高根太郎さま、次郎さま、保田さま、また父の洋行にあたって、肥下さまからお金を借りていたこと等など、
母からよく聞かされていました。

昭和37年の春、「ゲルマン古韻史の研究」−特にゲルマン語の母音推移についてーを書き上げ、愛妻(サノ子)と喜びを共にしていた写真が母亡き後、着古した彼女の着物の袖の中から見つかりました。父を52歳で亡くした(白血病)母は47歳でした。それから
30年、亡き父を愛し続け、娘の私としては、何とか、今こうしてインターネットという
テクノロジーを利用して、一人でもいいから、ちょっと覗いてやってくださる方はいないか、かすかな望みを託して、投稿させていただきました。どうかよろしくお願いいたします。彼女は、喜んでいることでしょう。

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368やす:2008/08/25(月) 23:36:15
はじめまして。
 はじめまして。埜中さま、管理人の中嶋と申します。
 服部正己様の御長女の由、検索とリンクをたどられ、拙サイト「コギトの思ひ出」文中からお越し頂いたものかと存じます。まれにコギト関係者の御親族からメールを頂くことがございますが、このたびの写真を付してのコメント寔にありがたうございました。澆末文化の温床たるインターネットの世界とは申せ、斯様な出会ひもまた戦前文藝最後の青春を飾った共同の営為「コギト」に繋がります大切な御縁かと存じます。現在原本画像を公開してをります田中服部両先生の共著『ヒアシンスと花薔薇』につきましては、茲にあらためて掲載許可をお願ひ申し上げますとともに、拙いホームページではございますが今後とも何卒よろしくお見守り頂けましたら、幸せに存じます。ありがたうございました。
 こちらより掲げさせて頂いた写真は、昭和6年卒業間近の大阪高校3年文乙(第2外国語=独語)クラスの集合写真。田中克己、中島栄次郎、保田與重郎、肥下恒夫、松下武雄、丸三郎とまでは分かるのですが、埜中様先君はどこにみえますでせうか。皆さん肝の座った面構へをしてゐますが、碩学の御写真と見比べてあれこれ推測してをります。

 さて昨日、わが先考も四十九日法要を無事終へて、人心地ついたところです。やうやく涼しくもなってきましたから、生活も旧に復し和本読耕に当たりたく思ひます。

 本日は四季派学会東京事務局より紀要論集の14集が到着。前集から時を置いて三年間の活動記録が凝縮された内容ですので、拙稿はともかく他の皆様の文章が楽しみです。東順子様國中治様はじめ、編集局の皆様お疲れ様でございました。そして拙文をこのやうな冊子にまとめて頂きまして本当にありがたうございました。ここにても御礼を申し上げます。

四季派学会論集 第14集

2005年度 夏季大会四季派学会・中原中也の会 合同企画『特集・中原中也と立原道造』
講演 中原中也と立原道造 ―相照らすふたつの詩精神― 宇佐美斉 (3)
   シンポジウム 抒情の変容と可能性 ―四季派をめぐつて― (15)
     パネレスト 勝原晴希・坪井秀人
     司会 佐々木幹郎
     発言 安藤元雄・北川透・宇佐美斉

   田中克己について ―戦争詩の周辺― 中嶋康博 (37)

《研究論文》

堀辰雄『菜穂子』論 ―「国境」を視座として― 澤木一敏 (45)
丸山薫『鶴の葬式』の詩世界 ―メタモルフォーゼの詩学― 権田浩美(53)
堀辰雄と野村英夫  河野仁昭 (67)
活動報告・関西事務局便り・編集後記 (84)

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369:2008/08/26(火) 14:37:45
感謝
中嶋様
お父様が亡くなられたとのこと、ご冥福をお祈りいたします。
そんな中、早速ご返事を頂き恐縮しております。この品格あるHPにたどり着き、厚かましく両親の写真を送ってしまったことに少し後悔しておりました。でも心が晴れました。
父の若かりし頃の写真は一枚も持っていませんので、この大阪高校時代の写真をみて懐かしさで一杯です。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている人物、身体の貧弱さと大きな顔ですぐ父ではないかと。
また、改めて個人的なことにつきましては、中嶋様のメールアドレスに直接、送信させていただきたく思っています。
中嶋様、これからのお仕事のご発展を祈り、心より応援させていただきます。
ほんとうにありがとうございました。

370:2008/08/26(火) 14:49:09
申し訳ありません
付け加えます。この写真の前から二列目、椅子に腰掛けている左端の人物です。
不慣れなパソコン操縦のため、申し訳ありません。

371やす:2008/08/27(水) 18:13:16
御教示ありがたうございます。
 御教示ありがたうございます。大昔にコピーした拡大写真では丁度切れてゐるところですね。ホームページではテキスト・画像アーカイブを通じて引き続きコギト詩人たちの顕彰を続けてゆきたいと考へてをります。コンピューターの性能がどんどんよくなってゐますので、写真資料などは更新して面目をあらためる必要も出てまいりました。原画を再びスキャンする機会に恵まれましたら 「文学アルバム」のなかに掲げさせて頂きたいと存じます。充実に努めてまいりますので気長にお待ち下さいますやう、お見守り下さいませ。ありがたうございました。

 もう一枚ございました。こちらは 『保田與重郎アルバム』に所載の写真のコピーです。

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372:2008/08/29(金) 10:34:13
保田輿重郎アルバムの中に
まだアルバムが残っているのですね。
ここに写っている父は、二列目右から二番目だと思います。普段眼鏡をかけていたそうですが、ここでは掛けていません。なんと言っていいか、懐かしい気持ちでいっぱいです。
ご厚意、感謝いたします。

373やす:2008/09/01(月) 22:21:15
写真もう一枚ありました。
若い日の肖像をご指摘頂いたので、田中先生のアルバムコピーを調べましたところ、もう一葉みつけました。さきの御教示より察しますところ、左端が服部先生(となりが田中先生です)ではないでせうか。昭和3年5月11日の日付がある写真です。
(委細はまたメールにて。)

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374:2008/09/03(水) 11:58:47
昭和3年5月のころ・・・
また新たな写真が見つかったのですね。昭和3年と申しますと、大阪高等学校に入学して、間もない頃、この時期から田中克己先生と父が何か共鳴する接点をお互いに持ち始めた時期なのでしょう。父の遺作である翻訳本、《全訳叙事詩》「ニーベルンゲンの歌」の略歴の中に、1931年(昭和6年)3月大阪高等学校卒業、とありますので、二人が知り合えたばかりのころでしょうか・・・ありがとうございます。

375やす:2008/09/03(水) 18:03:21
『南村遺稿』
>埜中さま
入学当初、寄宿舎の図南寮で一緒だったのだらうと思ひます。
今後ともよろしくお願ひ申し上げます。

さて、『南村遺稿』といふ漢詩集の「下巻」だけを持ってゐて、「下」があれば当然「上」もあって揃ひになると思って探してゐたのですが、なんと過日古本屋さんにて全部で3冊揃ひであることが判明。といっても「中巻」があったといふんぢゃなく、後ろに立派な奥付のある「付録」がついて完本だったといふ話。元来、自費出版された漢詩集といふのは刊記のないものも珍しくないですし、付録には別の名前が付いてゐて一寸わかり辛い完本。購入した和本専門の古書店主も、これは扱ったことのないなあと仰言ってゐたし、『如亭山人遺稿』の付録『詩本草』と同様、珍しい本なのかもしれません。こちらも早速upいたしましたので漢詩集愛好家には御覧下さればと存じます。
また神田柳溪の『南宮詩鈔』も上下2冊に分かれた原装本を発見。持ち帰って校合したところ、刷り具合も含め、中身は手許の合冊本と同じでした。製本の途中で2冊にするのが面倒になっちゃったんでせうか。とまれ稀覯本が2冊も手許にあるのは贅沢なことです。

それから「四季派学会論集」第14集所載の拙稿ですが、ページ数の関係で割愛した部分を補ったものを【四季派の外縁を散歩する・田中克己文学館】にupしておきました。冊子をお送りできなかった皆様にはそちらの「完全版」を御覧頂けましたら幸ひです。

376やす:2008/09/04(木) 21:30:16
「朔」163号
 青森八戸の圓子哲雄さまより「朔」163号のご恵送に与りました。
 前回に続き後藤健次といふ詩人の特輯です。今回は資料として一戸謙三の文章を使用してゐるので、「一戸謙三特輯号拾遺」の趣きもします。かつて「朔」の初期には寄稿も度々あった詩人とのことですが、対談も含め、さうした当時の人々の遺した証言を、バックナンバーから丹念に拾ってまとめたら、それだけで貴重な詩壇資料の一冊が出来上がるんぢゃないかと思ひました。これは名古屋詩壇の生き証人雑誌「名古屋近代文学史研究」についてもいつも思ってゐることです。
 また、小山正孝夫人による中村真一郎氏をめぐっての回想、そして主宰者圓子様の詩集評・人物評を、中村光行氏のあたたかい言葉遣ひで読ませて頂きました。ことにも圓子様は眼を酷使しての体調不全にある由、恢復を願はずにゐられません。
 この場にもあつくお礼を申し上げます。ありがたうございました。

377やす:2008/09/09(火) 08:10:35
『嵯峨樵歌』
昨日到着した漢詩集の原本。『嵯峨樵歌』と『春水遺稿』(付録「新甫遺詩:頼元鼎遺稿」1冊欠)。
「北條霞亭」や「菅茶山」を読んでるときに手に入ってゐたら嬉しさも倍増だった本です。
「9万円が3万円になった、安いっ」って飛びつくのは、もはやブランド品のセールに反応するOL並みの脳味噌のレベルですが、
「そもそも一冊3万円が安いのかな〜。」と言はれても、
「この表紙の紗綾型“エンボス加工”、前蔵者に大切にされた証である紙袋や裏打ち補修の跡を御覧なさい。」と、物欲に領されて心焉にあらず。これでは朝晩唱へてる般若心経の意味がありませんね(笑)。読書の秋に向かって反省。

九日、七老亭に登るの期有るに臥病して果たさず。口占。

山に望みて上ることを得ず。
酒に対して嘗めることを思はず。
枕辺、菊を欠くが如し。
何を以てか重陽を過ごさん。(24丁)

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378やす:2008/09/16(火) 19:59:45
論語の素読
 最近、文学作品を朗読したCDを巷にみかけるやうになりましたが、生涯教育といふのでせうか、その最たるものに「論語」や「大學」の「素読CD」といふのが出てゐるのを知ったので早速聞いてみました。斯の道の先生(どの筋の先生? 笑)が素読されてゐて、アナウンサーぢゃありませんからちっとも恰好はよくはないのですが、おそらく昔の寺子屋ぢゃ、正座したお師匠さんがこんな調子で誦み上げてゐたんだと思へば有り難くもあり。まさに修養の一助にと、通勤の往き帰りに車の中で聞いてみたのですが、古代の訓読ですからテキストもなく聞いてるだけでは、さすがに何を曰ってゐるのかわかりませんでした(笑)。
 それでこの三連休、お恥ずかしい話ですが、初めて「論語」を最初から最後まで、そのCDに就いて読み通してみた次第です。まことに遅まきながら、なのですが、成句の語源のほか、例へば田中先生の名前の由来「克己復礼」はもとより、萱堂の名も正しくは「廉子」ではなく「これん」といふのですが「瑚[王連]」(公冶長)からなのかな、などとも思ったり。明日から出張ですが、これをBGMに、移動時間も耳学問にあてようと思ってをります。

379やす:2008/09/24(水) 22:42:37
矢野敏行詩集『自鳴琴』
 わが若かりし同人誌時代の先輩、矢野敏行様より、詩集『自鳴琴』の御寄贈にあづかりました。処女詩集は深沢紅子氏の描くツユクサのカットを配した函に収められ、羨ましい限りの装釘でありましたが、このたび約四半世紀を隔てて出される第二詩集では、眼目とするところ、最後の四季同人、杉山平一先生のお言葉を戴く「帯」にありませう。
「三好、立原、中也につながる「四季」の新鮮純粋の抒情を守る矢野敏行の美しい詩の灯を消してはならない。」
 こんな一言を頂ければ、寡作を恥ぢられる必要はさらさらないです。
 いったいに矢野さんの作品は、苦心の痕を消し去った美しい導入部に魅力あるものが多く、逆にオチをつけてみたく気がそそられる終はり方にも、確かに津村信夫ゆずりと云へる気質は存するやうな気がします。雑誌掲載時には物足りなくも思はれたそんな淡白さが、一冊になってはじめて水の味のやうに感じられるのも、実に矢野さんらしく、この度は初期作品も一緒に収められましたが、よくある、「初期の方がよかった」といふ批判も、矢野さんには中らないやうな気がいたします。本当に「生きていれば、佳い詩はいくらでも、書けるような気がした」時代が、誰にもあって、古いノートを読み返したらいろいろなことが思ひ出されてくるものですが、そんな調べこそまさしく「オルゴール」の身上ではありませんか。このたびの詩集は、渝ることのない、渝る必要もない、遠い星と近い星の、瞬きのやうな音色を綴った星座のやうです。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました(パソコン早くはじめて下さい 笑)。

矢野敏行『詩集 自鳴琴』2008年 編集工房ノア(大阪)刊 116p,20.2cm上製カバー\2000

鉦と笛は、また思い出したように声を上げ、祭列は一匹の巨大な蛇のように蘇り、ゆっくりと動き出した。・・・・(中略)・・・・魔を払いながら、俗なるものの只中を、鉾がゆく。それは巨体をきしませながら、声を上げ、一匹の聖なる蛇の、形をして。
「祇園祭」より

落葉松の防風林を、シルエットにして、その上、小指ほどの距離をおいて、馭者座が光っている。いびつな五角形の一角から、小さな鈴をつけた短い飾り紐がのびて、それが初頭の風に揺れている。・・・・(後略)
「鈴」より

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380やす:2008/09/29(月) 23:31:23
ご修身
 先日来「素読のCD」に御執心の『論語』ですが、その後、岩波文庫の定番(金谷治訳)と目から鱗の貝塚茂樹訳(中公文庫)を入手し、『論語集註』の槧本(後藤点)とテキスト(簡野道明註)には専用カバーを誂へ、携帯プレイヤーまで買って親しんでゐます。勿論天下の古典ですから、原文も全訳もネット上でみつかりますが、殊に集註の書き下しは江戸時代の教科書で雰囲気を楽しむ際の、有り難いアーカイヴ。周囲には数(しばしば)しませんが、みな呆れ顔です(笑)。
 そして久しく中断してゐた『梁川星巖翁』ですが、こちらも本日よりゆるゆる読耕を再開しました。詩人の「征西」も、広島と三原の間を行ったり来たり、ほぼ一年も淹留してゐるんですね。一簣を覆すと雖も進むは吾が往くなり。まづは読み進めていって、余力あらば文を書きます。

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381やす:2008/10/03(金) 08:49:07
森春濤ほか
【いただきもの】
 二松学舎大学の日野俊彦先生より、森春濤についての雑誌掲載論文をお送り頂きました。
漢詩文を専門とされる先生から御論文を忝くするのは初めてで、サイト管理者として非常な光栄に存じます。『下谷叢話』で血筋の大沼枕山には肩入れして語ってゐた永井荷風も、枕山の最大のライバルだった春濤のことはあんまり語ってゐません。これまで外部から祖述するひともなかったために、今では枕山と比すれば「明治詩壇の巨擘」といふ空疎なイメージにより名前のみが世に行はれてゐる感があります。論考は詩人の日常に分け入り、妻との三度の死別や、梁川星巌はじめ非業の死を遂げた勤王家の師友にかこまれて生き残ることとなったその「生き残り方」を、岡本黄石とも対照しつつ、詩から窺はれる述志と慟哭に焦点をあてられた連作。『岐阜雑詩』を郷土に遺してくれたこの先人の生涯については、あらためて勉強しなくてはと思ひます。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
※一部はCiNiiでも公開されてゐます。「森春濤「十一月十六日擧兒」詩考」  「幕末期における森春濤」
 また今月号の「国文学解釈と鑑賞」が珍しく漢詩文の大特集であることを同時に知りましたので、合せて報知させて頂きます。

【おしらせ】
 それからすでに御存知の方は御存知でせうが、Yahooオークションに『山羊の歌』が出現。染み入り並本ですが、記番は50番代の「矢追順子」宛の署名入り。「様」が敬意を払ってゐる人向けの書き方ぢゃなく、くづしてあり、また女性には他に一人しか献呈本が確認されてゐないらしいのですが、この「矢追順子」が長谷川泰子(佐規子)の酒場で働いてゐた時の源氏名なのか、同僚の女給さんか誰か分からないのですが、記憶力減退で忘れたのか未知の名かさへ弁じ得ぬ自分も情けないです。
 初見の立花晶子訳『ムーミン』私家版とともに幾らまで上がるか、興味は津々。

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382やす:2008/10/13(月) 20:50:38
モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回
【いただきもの】
 手皮小四郎様より『菱』163号を、
 國中治様より「文藝論叢」71号(大谷大學文藝學會)、および「四季派学会会報 平成20年春号」と、文芸同人誌「愛虫たち」Vol.74 を、
 鯨書房さんより「あほうかい」第一期完結となる12号をお送り頂きました。

 手皮様の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書 第4回」ですが、此度は詩人の父親であり、軍人から野に下った漢詩人の活堂(梅一郎)について、「聞き書き」『続防府市史』『マルスの薔薇』の三資料によって光を当て、謎多き生涯を俯瞰しようする試みです。在支中の版行になる別集もあるらしいのですが、探索して得られた漢詩は一篇にて、

  暁山雲    荘原活堂

白雲湧起岫林間    ???? 白雲湧起す、岫(みね)と林の間
触石随風暁更[間]      石に触れ、風に随ひ、暁更(しづ)かなり
[間]識乾坤王澤遍      まま識る、乾坤、王澤(皇威)の遍(あまね)きを
油油不(于?)岸出青山  ????油油として岸(がけ)より青山(雲の謂)出づる????[間]=[門+月]

 訓読は管理人です。
 今回は写真がなく、著者自ら「臆断を糊としてつなぎ合わせ、脹らませ」と謙遜されてゐますが、本来伝記考察とはさういふ資料の突合せ・縫合作業にあるのではないでせうか。加ふるに「聞き書き」に於いては、縦令そこに誇張があったにせよ、それは当の詩人の、屈折した心情を窺ふ恰好の証言でもある訳ですから、貴重です。
 如何なる不始末によるものか軍籍を解かれ、「大陸浪人」を命ぜられ、のち地方新聞の主筆にもなったといふ、この父親の数奇な経歴ですが、しかし詩人の誇張があるにせよ、兄たちが激怒したといふ「マルスの薔薇」における表現上の諱忌といふのが、体制の批判にあるのではなくして晩年の父親のあられもない描写にあったのではないかといふ指摘が、作品を読む限り、なるほどそのやうにも思はれて参ります。
 モダニズムを弄する詩人の脚色といふものは、國中さんの私小説風創作において毎度私はひっかかってをります口ですので(笑)、ここは締めてかからなくちぁあなりませんけれども。

 さて、次回はその國中様からのいただきものについてじっくり。
 手皮様にはここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。



【付記】
 オークションの期限前夜にテレビで中原中也の特集番組があったせゐか、『山羊の歌』署名本は凾付なみの金額で落札されました。やはり献呈先の女性に理由(いわく)があったのかもしれませんが、よくわかりません。
 私は探求本だった宮澤賢治の手帖の復刻を入手。( 抄録復刻版は現在も購入できます。)「ムーミン」には手が出ませんでした(笑汗)。

383やす:2008/10/20(月) 01:43:11
高祖保書簡集
 700ページにも及ぶ活版印刷の『宮崎孝政全詩集』をたった120冊しか作らなかったことにより、鮮烈な印象を刻してデビューした金沢のプライベートプレス、龜鳴屋さんですが、今年になって再び世の詩愛好家へのプレゼントといふべき『高祖保書簡集』(2008.5外村彰編207p \3000)が刊行されたとのことで、遅まきながら早速注文しました。
 先輩詩人井上多喜三郎に宛てた書簡集で、自筆詩集『信濃游草』および田中冬二の自筆詩集『菽麦集』の翻刻を含んでゐます。田中冬二はのちに正式に四季同人にもなり、四季派を代表する詩人の一人に目されるひとですが、交友圏をたどると「四季」の詩風と多分にリンクする「椎の木」の詩人たちの名が陸続とあらはれてきます。なかでも高祖保は紛ふことなき一等星で、戦地での病歿といふ悲運が詩人を一層の高みで輝かせてゐる気がします。栞を書いてゐる石神井書林の内堀さんも未見の『禽のゐる五分間寫生』は、龜鳴屋同様、限定本の制作をよくした井上多喜三郎が彼のために刊行した小詩集ですが、なんと表紙の絵が「貼り絵」だったことが判明。それでいろんなバリアントがあったのですね。目下一番「復刻版」をつくってほしい詩集ですが「貼り絵」付きにしたら話題になるでせうね…。名古屋の詩人坂野草史の名まで出てきたのには吃驚しましたが、北園克衛、ボン書店、セルパンといった、つまり「四季」「コギト」に拠らなかった知的抒情詩人たちの人脈を窺ふ好個の資料として、外村氏による写真入りの説明も懇切。
 本日「月曜」ゆっくり時間を作って読みたい内容です。

(一部紹介。)
昭和16年7月16日消印 東京市大森区田園調布三ノ三七八 七月十六日 御禮 封書

多喜兄、
ただいま、いただきました。たしかにいただきました。羽榑く天使の訪れのやうに、六十羽の賑やかな「禽」が、タキサン、タキサンと羽おとをあげながら、飛びこんできました。上袋をあける間のもどかしさ、御想像下さい。そしてあけたをりのうれしさ。これも御想像下さい。
玩具の古風な貼り繪は全く多喜兄の独創として、日本一でした。すばらしいでしたさつそく開けた本を、子供部隊に占領されて困りました。全く貼り繪の魅力でした。やつとこさ、返して貰ひ、恐らく多喜さんの思ひやりでせう、貼らずに置いてある十冊ばかりを、家内とあれにしようか、これにしようかと、たのしく苦心しながら全部貼りあげました。何ともいへないうれしさです、なんともいへない、すばらしい試みです。きつと、これは評判になるであらうと思ひます。表題とその下の貼り繪の何ともいへないマッチした美しさ、これを貼るのは大変だつたらうと存じます。ありがたうございました、ありがたうございました。
多喜兄のうれしい心ばえが、なんともいへない魅力となつて一冊を覆つてゐます、他へおくるのが惜しいくらゐです。ゆつくり、一冊一冊の表紙をみてから、送り先の顔を考へ、それから、ゆつくり袋をこさへて、一羽一羽とびたたせようと思つてゐます。
本當にありがたうございました。本當にありがたうさん!です、感謝のほかありません。うれしさで胸がいつぱいです、希臘十字ができあがつたをりのよろこびを、八年ぶりで味はひました。
この第二子は、うんと評判になつてくれると自惚れてゐます。多喜兄の貼り繪がきつと評判にしてくれます。
あつく、あつく、あつく、御礼を、御礼を、御礼を

井上多喜三郎様 坐右
七月十六日
午后四時 保拝

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384やす:2008/10/20(月) 01:45:25
深尾贇之丞の作品集
 大正初年に口語詩の黎明を啓いた地元の詩人、深尾贇之丞について、わが職場のある岐阜市太郎丸で、その遺業を故郷の住民に知らしむための講演会が催されるらしい。主催者の深尾幸雄様より、これまで探索された岐阜中学交友会誌「華陽」と三高交友会誌「嶽水会雑誌」に所載の作品(明治34年〜明治44年)をもとに協力を求められ、私からはHP上でのこれら資料コピーの公開から、手始めにお手伝ひをさせて頂くこととなりました。以前訪ねて分らなかった墓碑も、なんと職場の目と鼻の先にあったことが判明、早速翌日出勤前に立ち寄り霊前に御挨拶。
 以前『漢詩閑話 他三篇』の紹介の項で触れましたが、後見人だった母方の伯父中村嘉市とは、進路や結婚をめぐってやりとりがあった筈で、現存するらしい詩人の未公開書簡の行方が気になるところです。

385やす:2008/10/20(月) 02:00:19
白壁の文士たち?
 さて大正末年に地方発の口語詩の旗揚げを真っ先に行ったのも地元中京地区、名古屋城下の詩人である御存知、春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄・佐藤一英たちでありますが、彼らが拠った「青騎士」と、昭和初期に高木斐瑳雄が再び残党・新人を鳩合した「新生」。これらを中心に、文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)で小回顧展が行はれることになり、このサイトで紹介してゐる高木斐瑳雄の アルバム写真など数点の資料協力をすることになりました(ポスターの「斐嵯雄」は「斐瑳雄」の間違ひです)。
 また仄聞するところ、愛知県立図書館でも雁行して1920〜1930年代のモダニズム詩人にスポットをあてた企画展が行はれるらしく、何やら名古屋・岐阜がいま熱い(笑)。
 本日は資料持参かたがた、今回展示される「青騎士」のコピーを特別に許可頂いたのでせっせと画像スキャン。これも近々に公開できればと思ってゐます。お待ち下さい。

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386やす:2008/10/20(月) 22:06:40
高祖保書簡集 2
月曜の一日、井上多喜三郎宛の『高祖保書簡集』を味読。

当時の詩壇について記した部分、例へばマダムブランシュ同人に椎の木の連中と仲の悪い人がゐて、椎の木にもずいぶん変なテオリシアン(理論家)がゐる、なんて発言(12p)は意味深でしたし、また岩佐東一郎『三十歳』出版記念会(1938.3)では、彼は中村千尾と立原道造の間に座ったらしいのに、立原道造についての言及が全くない(73p)。自身が編集する雑誌「苑」について、「只今の「四季」のやうに感じのよいゆとりあるものをこさへ」たいと抱負を語ってゐたこと(35p)を思へば、つまり意識的に云はなかった訳であります。この度の新修『立原道造全集』には「『暁と夕の詩』贈呈表(1937.12)」が掲載されてゐますが、高祖保の名は、高森文夫・三浦常夫とともに番外に挙がってゐるのに井上多喜三郎の名はありません。プライベートプレスの編集者としても、いかにもディレッタントが好みさうな詩集や雑誌の刊行を楽しんでゐた井上多喜三郎にとって、中央の俊髦詩人である立原道造と縁ができなかったことは、詩人として見切られたやうでもあり、淋しい思ひをしたに違ひありません。田舎住まひの年長の身ながら、正確な批評眼と若々しい詩心を持ち、心優しき人格者でもあった彼だけに、高祖保が配慮して言及しなかったのは当たり前かもしれません。

この本はさうして高祖保を語るだけでなく、彼を通してそんな井上多喜三郎の人柄を語る内容にもなってゐるやうです。なかでも「あげ魔・くれ魔」の綽名を髣髴させるプレゼントのエピソードには事欠かず、厚意に応へるべく高祖保の言葉を尽くした礼状がまた楽しい。本に限ってみても今や稀覯の名詩集『瑞枝』(28p)『夏の手紙』(65p)をはじめ、自分のために編集してくれた第二詩集『禽のゐる五分間寫生』(149p前掲)の贈呈に及んで喜悦は頂点をなしたと思はれ、言葉に尽くせぬ感謝が形となって、心づくしの手製詩集『信濃游草』(181p)に結実するところとなった訳でありませう。

心を許した先輩への手紙で、高祖保は心おきなく手足を伸ばし、肯綮に中る批評や縦横に遊ぶウィットを弄します。誌名変更する「マダムブランシュ」について、
「マダムブランシュがエスプリヌウボオへ転身とは、逆行のやうな感が致します。「エスプリヌウボオ」は字義こそ新しいとはいへ、ずゐぶん使ひふるしの俗おちのした字で、」
なんて、やっぱりさうだよね、と思ったし(30p)、多喜三郎主宰の雑誌「月曜」の、葉書アンケートなんかには脱帽です。

×貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか 「「貴氏の胸のポケットに今何が入ってゐますか」の返事が入ってゐるだけ。」(95p)。
×春はどこから生まれるか 「木の股から生れるでせう。」 (107p)。

387やす:2008/10/29(水) 17:54:34
『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』
 津藩の碩学、齋藤拙堂の玄孫であらせらる齋藤正和様より、『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印版復刻本の御恵贈にあづかりました。一介の図書館員への御高誼に対しまして、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 ならびに齋藤様のエッセイ「昔の人の名前」(藤堂藩五日会会報より)も興味深く拝読。けだし江戸時代の漢学者の名前には難しい漢字が多いですが、由来は勿論どう訓むかといふことに思ひ至ったことはありませんでした。拙堂の「有終」といふ変はった字(あざな)は『易経』(謙は亨る。君子終り有り:終りを全うできる) に典故ある由。牧百峰や佐藤一斎の名前、「[車兒]げい」「坦」なども『論語』からとられたものかもしれませんね。
 また、頼山陽とお互ひを呼び合ふにおいて、齋藤拙堂が年長の頼山陽のことを「大兄」と呼び、私塾の先生である山陽が藩の督学=国立大学教授である拙堂のことを「公」と呼び、それぞれ一目置く者同士の、年齢と身分とを勘案した呼称となってゐることなど、面白いことに思ひました。「○○兄」と書かれるのをよくみますが、「兄」だけでは目上に対する礼儀に当らないのですね。

 國中様の論文紹介の一文は停滞中です。もうしばらくお待ち下さい。



『月瀬記勝・拙堂紀行文詩』影印復刻 齋藤拙堂撰, 2008.10, [1,62,54,80,98]p.菰野町(三重県) : 齋藤正和編 私家版非売

388やす:2008/11/21(金) 03:55:03
『齋藤拙堂傳』『斎藤拙堂物語』
 今回の復刻本刊行にことよせて、齋藤正和様御自身の著書について残部をお訊ねしたところ、重ねて『齋藤拙堂傳(複製)』『斎藤拙堂物語』の寄贈をかたじけなく致しました。恐縮の至りです。ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、現在『拙堂文話』を釈読中とのこと、完成を祈念申し上げます。ありがたうございました。

 さて、拙堂は24歳まで江戸藩邸で育った江戸っ子でしたが、後年幕府の儒官に招聘された際、これを断り、藩主が城外まで出迎へて喜んだといふ話が伝はり有名であります。しかし当時将軍拝謁の後、帰藩が聴されず足止めを食ったときに作った「客中書懐」に、

久絶功名念 久しく絶つ 功名の念
病羸何所能 病羸 なんぞ能くする所ぞ
官途熱如火 官途は火の如く熱く
心地冷於冰 心地は氷よりも冷たし
茗飲秋風榻 茗を飲む 秋風の榻
詩思夜雨燈 詩を思ふ 夜雨の燈
猶餘頭上髪 猶ほ頭上に髪を余して
人未喚為僧 人いまだ喚びて僧と為さず   (『鐡研齋詩存』巻九)

 とあり、また現存する掛幅では出だしが「久抱功名念」となってゐるさうです。正和氏は、
「「絶つ」と「抱く」とはどちらが本当だろう。この両者の差異は、功名心に燃える気持ちと、高齢や病気のせいで功名心を絶たざるを得ない残念な気持ちとの間の「揺らぎ」が示すもの」ではないかと解釈してをられますが(『斎藤拙堂物語』11p)、或は藩主への気遣ひが、私的な揮毫の「抱く」から、公的な版本の「絶つ」へと改めさせたのかもしれません。抱かなければ絶つこともできない訳ですから、どちらも本当なのでせう。ほかにも「善きかな」と揮毫を求められたら「ぜんざい屋」の看板だったとか、『斎藤拙堂物語』は、エピソードを交へて世に謳はれた文章をも余技となす真面目な人物像をわかりやすく説いた肩の張らない一冊。一方浩瀚な『齋藤拙堂傳』には身贔屓を排して資料を満載せる由。現在読耕を中断中の梁川星巌伝と併読してゆきたく存じます。

『齋藤拙堂傳』(絶版):
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, 1993.7, 427p.
齋藤正和著 -- 三重県良書出版会, [1993.7], 500p. 複製版5部

『津藩の賢人 斎藤拙堂物語』 : 斎藤正和著 ? 私家版(三重県三重郡菰野町大羽根園呉竹町15-2), 2004.10, 71p.
(2003-2004中日新聞中勢版での連載を纂めたもの)



 それから文化のみち二葉館の企画展「白壁の文士たち?」も始まったやうであります。明日の木下信三氏の講演は仕事で拝聴できませんが、11月22日には中部ペンクラブの詩の朗読会に久野治氏が参加される由、御挨拶に伺ひたいものです。とまれ会期中には一度伺って現場の雰囲気を紹介します。

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389やす:2008/11/22(土) 00:34:42
「浅野晃ノート」曠野の魂
山川京子様より『桃』11月号(No.633)を、中村一仁様より『昧爽』18号の御寄贈にあづかりました。

 『昧爽』の連載「浅野晃ノート」は、詩人が北海道勇払原野で展開した文化活動を丹念に追ってゐて、この地方とはたまさか御縁もできた私ですが、知ることのなかった発電所建設をめぐる穂別村の郷土史など、たいへん興味深く拝読しました。
 戦後日本の文化復興が、中央で華々しくアプレゲールによってなされる一方で、実際の生産現場にあった田舎の若者たちに、浅野晃のやうな戦犯扱ひを受けた文学者が信を得て、地域文化の指導者として遇されたことはもっと特筆されていい。宮澤賢治の世界を北の大地に移植すべく、旧友、理解者、弟子たちと交歓する様子がゆたかに描かれてゐて興味深い。

たきぎの早く燃えつきるのは惜しいが
その焔の色は朱くしてわが目を喜ばしむ    (・・・・・略・・・・・・)

蜂は海風のなかに時を忘れ
かぐはしき香りの中に時を浪費して惜しまず    (・・・・・略・・・・・・)

時を忘れてわれらは楽しく
時を失つてわれらは悔いる    (・・・・・略・・・・・・)

時の失はれるをなげくなかれ
われをおきていづくに時といふもののあるべき
                         (『文学組織』創刊号所載「たきぎの時」より)

 富山の高島高の詩集『北方の詩』の復刻本(昭和40年)に、どうして浅野晃が跋文を書いてゐるのか、奇異に思ったことも渙釈したし(『文学組織』は戦後高島が主宰した同人誌)、以前中村様がこの掲示板に書いて下さった「成田れん子」といふ歌人のことも、このたび初めて作品とともに、その数奇な生涯について知りました。山川京子様の「桃」を活動拠点としてゐたといふ条りを読むに至って、びっくりした次第。

金と虹の落ち葉が雲の奥に散る 日高の山の胸奥にちる

 かくも絢爛な詩情ならば、和歌に疎い私にも分かります。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。


 さて、一方わたくしの感想文予告ですが、國中治様の御論文を頂いてから、もう随分時間が経ってしまひました。それで書いてゐても何だか煮詰まってきたので、一旦筆を休めることにしました。不取敢もやもやの状態で公開してみますが、冒頭では國中さんが昨年「立原道造記念館館報」に書かれた鈴木亨氏についての文章も読まずに、勝手なことを書いてゐます。同号には外村彰氏が「井上多喜三郎宛立原道造書簡」について触れた一文も掲載されてゐるみたいですが、それも知らずに書いた先日の掲示板の一文も、ですから大いに憶測です。何とも情けなく、御論考の「後半」到着を心待ちにするばかりです。

390やす:2008/11/25(火) 21:28:14
「白壁の文士たち2」 / 「1920〜30年代 愛知の詩人たち」
 文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)での小回顧展「白壁の文士たち2 −春山行夫・井口蕉花・高木斐瑳雄−」に行ってきました。清潔なスペースに陳列された『東海詩集』(職場からの貸出品)などを観て、(こんな展示ケースがわが図書館にもほしい)と思ったり。また矍鑠たる久野治翁とも御挨拶が叶ひ、当日の朗読会を催されたの中部ペンクラブの方々からもお声をかけて頂きまして、たいへん恐縮いたしました。
そしてその足で、同時期に開催されることとなった愛知県図書館の展示「1920〜30年代 愛知の詩人たち 〜モダニズム詩を中心に〜」も観に行ってきました。

 こちらも小展示ながら、ここ数年の特別予算で収集されたといふ貴重な稀覯本が、惜し気もなく展示されてゐるのに瞠目しました。『月の出る町』も『晴天』も『青騎士』もあります。他図書館から借用された『赤土の家』が新刊本同様にビニールコーティングされちゃってる(!)のを見た時は、御挨拶頂いた司書さんとともに苦笑、そして公共図書館として著作権について多々考慮すべき部分もあったこと等、御苦労を伺ひました。

 たしかに著作権の現状では、本の表紙のデザインに対して、著作者とは別に装釘家の著作権が働くわけでありますが、人様の著作をキャンパスにして権利をふりかざすのは、やはり本末の転倒とも思はれ、写真集等を念頭においての措置なのでせうが、商業主義とは無縁の詩壇では一寸考へられない事態です。拙サイト内で掲げてゐる書影につきましては、個人の開設であることをよいことに、スキャナーによる精密画像、また撮影者に断りなく転載してゐる古書の書影写真が大分増へて参りました。これにつきましては、著作権法の理念が元来「文化の発展に寄与することを目的とする」ものであることを踏まへ、「色・素材・形状をとどめた表紙・函・帯および奥付の写真等もまた、確証されるべき書誌情報の一部ではないか。」といふ考へのもとに、戦前の稀覯資料に対して行はさせて頂いてゐます。
 更に、著作権者情報を募りながら「内容の公開」までさせて頂いてゐる、図書館でのテキスト確認も困難な絶版詩集についても、「詩集は詩人の墓碑に他ならない」といふ、詩人の御霊を顕彰する気持を以て、今後とも臨んでゆきたく思ってをります。
何卒あはせて御理解して頂けましたら幸甚です。

 さて、愛知県図書館でも催される11月30日の木下信三様の講演は、このたびも職場の行事ごとのため、拝聴できないこととなりました。残念でなりませんが、文化の日にあった二葉館での講演について、録音を聴かせて頂けさうですので、これを以て慰めにしたいと思ってをります。

会場の様子はこちら

391やす:2008/11/25(火) 21:36:12
「感泣亭秋報」第3号
 小山正見様より「感泣亭秋報」第3号をお送りいただきました。杉山平一先生をはじめ著名の人々からの原稿が並ぶのをみて、編集の御苦労とともに、書いて下さる人々の人脈といふのは、やはり書かれる詩人の愛され方によるものであることをあらためて感じた次第です。

 杉山平一先生の一文に「私たち、能見久末夫や太田道夫や塚山勇三らと違って、同人たちの推薦によって選ばれた大木実、中村眞一郎らの中の一人として、小山正孝が登場したのだった。」と、わざわざ垣根を作って区別して見せてあるのは、恋愛を詩にする手際についてだけでなく、そのやうな恋愛を実際にやってのけ、かろやかに四季のサロンの仲間にも入ってゆけた、才能に「育ちの良さ」と「したたかさ」も兼ね備えた山の手詩人への「嫉妬の思い」でもあるに違ひなく、杉山先生らしいなあ、と思はず微笑んでしまひました。

 また巻末「感泣亭アーカイヴズ便り」にありました、正見氏の八戸・弘前訪問記、ならびに小山正孝の父潭水が家元をつとめた「盆景」界の現状についての報告は、いまに四季派も「絶滅危惧種」になるんぢゃないか、といふ不安をもよぎらせました。詩人の青春を育んだ「津軽文化圏」が確固とした健在を示すなか、村次郎の実家旅館がすでに「「本丸跡」とでも記すしかない様子だった。廃墟になるのは簡単なことだと思った。」とあるのを読んでは尚更のこと、星霜移り人は去るの感を深くします。

 とまれ一詩人を顕彰する雑誌といふ意味では「小山正孝研究」といふ誌名でよいわけですが、さきの著作集たちにも「選集」の名は印刷されませんでしたし、これまた秋を誌名に謳って追善の意義を明確に感じさせます。ここにても七回忌に思ひを馳せ、厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

感泣亭秋報3 2008年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500

詩 夕方の渋谷 小山正孝 2
小山正孝の詩 杉山平一 6
小山正孝が追求しつづけたもの 里中智沙 10
ソネット逍遥3 桃井隼 14
小山正孝の詩世界2 近藤晴彦 16
正孝あれこれ 比留間一成 20
詩集「逃げ水」を読み返す 杉本正義 21
旅立たれなかった『冬の旅』−小山正孝「雪つぶて」−甲斐貴也 22
小山正孝さんと岡鹿之助 伊勢山俊 24
小山正孝の見た紙漉町 三上邦康 25
「井田川」周辺 南雲政之 26
詩 確定 森永かず子 28
詩 私の愛するあなたは 大坂宏子 30
回想 小山先生のこと 春木節子 32
回想 小山正孝さんの思い出 富士原桃子 33
「ポンペイ」三篇由来譚 坂口昌明 34
感泣亭アーカイヴズ便り 小山正見 43

392やす:2008/11/29(土) 15:01:45
山口正二詩集『夜光蟲』
 投稿フォームより戦前名古屋詩集のネット上の復刻について御案内を頂きました。早速リンクを張らせて頂きましたのでので御報告申し上げます。

【山口正二】『夜光蟲』1933/あざみ文藝研究會(あざみ叢書??第1巻)(名古屋)/24p/19cm並製/\0.20

 詩集も稀覯ですが、併せて公開されてゐる随想に、当時の同人誌の状況を窺はせる記述や、詩人たちとの交流がふんだんに盛られ、興味深く拝読しました。
 大正10年、白壁尋常小学校に入学した詩人は撞木町や東片端町界隈で育ち、市立第二商業学校を経て、都筑善雄と同人誌活動を展開。『名古屋地方詩史』によれば「薊」「楡」といふ詩誌に拠って、杉本駿彦、折戸彫夫、坂野草史らモダニズム詩人との通行もあった詩人と云ひます。昭和9年に徴兵で志を絶たれるも、戦艦「日向」に配属された海軍では抜群の珠算力を発揮。友人から送られてきた詩集『プルシア抄』や『ふるさとへの道』が没収された条りに思はず反応してしまった次第です(同舌門蚊 笑)。

 此度のテキスト再刊、惜しむらくは原本の詳しい書誌情報が不明なことですが、図書館にも所蔵がない本などは、画像で掲げられると、訪問者に詩集の雰囲気を「時代なり」に感じ取ってもらへるかもしれません。とりわけ孔版詩集といふのは、姿そのものに詩魂がこめられた手作りの記念碑であるやうな気がいたします。

 先日の二葉館における中部ペンクラブの朗読会で一言御挨拶させて頂いたことが御縁となったものと存じます。
 あつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

393やす:2008/12/03(水) 10:00:12
『日本語が亡びるとき』
「いったいいつごろからだろうか。
 日本に帰り、日本語で小説を書きたいと思うようになってから、あるイメージがぼんやりと形をとるようになった。それは、日本に帰れば、雄々しく天をつく木が何本もそびえ立つ深い林があり、自分はその雄々しく天をつく木のどこかの根っこの方で、ひっそり小さく書いているというイメージである。福沢諭吉、二葉亭四迷、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎等々、偉そうな男の人たち──図抜けた頭脳と勉強量、さらに人一倍のユーモアとをもちあわせた、偉そうな男の人たちが周りにたくさんおり、自分はかれらの陰で、女子供にふさわしいつまらないことをちょこちょこと書いていればよいと思っていたのである。男女同権時代の落とし子としてはなんとも情けないイメージだが、自分には多くを望まず、男の人には多くを望んで当然だと思っていた。また、古い本ばかり読んでいたので、とっくに死んでしまった偉そうな男の人しか頭に思い浮かばなかった。日本に帰って、いざ書き始め、ふとあたりを見回せば、雄々しく天をつく木がそびえ立つような深い林はなかった。木らしいものがいくつか見えなくもないが、ほとんどは平たい光景が一面に広がっているだけであった。「荒れ果てた」などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のように、すべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった。
 もちろん、今、日本で広く読まれている文学を評価する人は、日本にも外国にもたくさんいるであろう。私が、日本文学の現状に、幼稚な光景を見いだしたりするのが、わからない人、そんなことを言い出すこと自体に不快を覚える人もたくさんいるであろう。実際、そういう人の方が多いかもしれない。だが、この本は、そのような人に向かって、私と同じようにものを見て下さいと訴えかける本ではない。文学も芸術であり、芸術のよしあしほど、人を納得させるのに困難なことはない。この本は、この先の日本文学そして日本語の運命を、孤独の中でひっそりと憂える人たちに向けて書かれている。そして、究極的には、今、日本語で何が書かれているかなどはどうでもよい、少なくとも日本文学が「文学」という名に値したころの日本語さえもっと読まれていたらと、絶望と諦念が錯綜するなかで、ため息まじりに思っている人たちに向けて書かれているのである。」水村美苗著『日本語が亡びるとき』(58-59p) 2008.10筑摩書房


 長い前説の最後にこんなことが書いてあるのですが、問題作と呼ばれてゐるらしいです。 西岡さんのブログで教へて頂きました。近頃『島国根性 大陸根性 半島根性』といふ金文学氏の比較文化論を読んで感心したところですが、慰められて悦に入ってゐると、ここではしっかり喝が入りさうな内容です。
 私なんかは、本文がなくとももうこの箇所だけでいい。感涙なんですけど(笑)、世界に興亡した各種言語について歴史分析をしながら、現今の英語(米語)圧勝状況に説き及び、いったいどんな結論が引き出されてくるのかハラハラしながら読み続けました。そして本来佳境に入るところなんでせうが、福田恆存の「印籠」が出てきて、却って人心地ついたやうな次第。このサイトも及ばずながら同様の趣旨を以て「国語の存亡」を憂いてをりますから。
 ただ、終盤に水村さんは「日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのを主眼を置くべきである。」と口を酸っぱくして、三度も仰言ってゐるのですが、そこだけはちょっぴりガッカリしました。「日本近代文学」ぢゃ手ぬるいですから。読み継ぐべきは「論語」「芭蕉」など古典なんだと思ひます。走り読みのくせに重箱の隅を突いて恐縮ですが、178pの「危惧は危惧に終わり」は「杞憂に終わる」が正しいかもしれません。そんなところにも、福田恆存以降の戦後世代がすでにもう、なにかを享け損ねた気配さへ感じるのです。拙サイトの文章だって、ぜんたいがひどいものです。
 さきの金文学さんには『第三の母国 日本国民に告ぐ』といふ著書もあって、日本人の喪った数々の美徳のなかで、唯一顧みられてないのは「忠孝」だと仰言ってるんですね。よその国の人に江戸時代の文人の心得を教へられました。水村さんもきっと「忠孝」までいったら「なにそれ?」なんだと思ひます。私だって実はよくわからないけど太乙翁の軸にもちゃんとさう書いてある(笑)。良心を以て歴史の軋轢に苦悩する近代文学ぢゃ、「謙譲」以外の日本人の美徳は育たないと思ひますね。
                      (ひとり言につき、この項コメント不要です)

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394やす:2008/12/05(金) 00:18:19
漢詩詞華集
 最近の収穫から。いづれも日本の漢詩アンソロジーです。

『日本詩選』安永三年(1774)寛政六年(1794)再刻江村北海編 京都唐本屋吉左衛門ほか3軒刊 大本十巻7冊。江戸時代後期の漢詩ブーム幕開けを告げる一大詞華集。江村北海は主君青山侯が移封されたのに従ひ、郡上に47歳から五年間住み、その後も度々出張講義をしてゐる親美濃派(本当は田舎が嫌だったかも 笑)。「頼山陽家臣団」ができる一世代前の美濃の詩人たち(山田鼎石、宮田嘯臺ら)にとって、彦根の龍草廬とともに精神的支柱だった詩人です。


『日本名家詩選』安永四年(1775)藤元水晶編 京都山崎金兵衛刊 小本七巻1冊。藤元水晶は南宮大湫の高足で、安永元年に35歳で亡くなった美濃詩人の俊穎。つまりこれは遺編著であります。『日本詩選』に先立って企画されたにも拘らず、こちらの袖珍版は(おそらく)編者の夭折によって刊行が遅れ、江戸の出版も未だ京都には及ばなかったのか、こちらも寛政10年に再版が出てゐるのですが、一時代の権威宗匠が編んだ浩瀚な詞華集ほどには評判が残らなかった模様です。双方の選詩センスについて、はやく語れるやうになりたいですね。序跋をup しました。


『名家詩選』明治二十八年(1895)太田淳軒(才次郎)編 東京東雲堂刊 文庫版1冊
江戸時代が終はって社会から見捨てられたはずの漢文ですが、どっこい新文化の息吹のなかで後継者の無いまま空前の盛況を博したのも、実はこの明治時代でした。遺稿詩集だけでなく、活字によるこのやうな先人詩集の携帯本も各種刊行されたやうで、今では読む人(読める人)がゐないので簡単に手に入ります。しかし人選を見る限りこの本も江戸漢詩人を総決算した感のある一冊です。

ほかにも、別集(個人詩集)をもたない牧百峰の作品が読める『天保三十六家絶句』天保九年(1838)の端本をやはり破格で購入。所載の三十種(巻中17〜21丁)をupしましたのでご覧ください。

京寓遇梁公圖自西遊歸見過賦贈
烟鎖春城籠暖香 小留且勿促歸装 故園松竹陰長在 不似櫻花開落忙

京寓、梁公圖(梁川星巌)の西遊より帰り過ぎらるに遇ふ、賦して贈る
烟は春城を鎖して暖香を籠む 小留かつ帰装を促すことなかれ 故園の松竹、陰
は長く在らん 似ず桜花の開落の忙しきに

遅遅として進まぬ『梁川星巌翁』の伝記読耕、やうやく西遊から美濃に帰るも臀
の温まらぬうちに京へ出たところです。

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395やす:2008/12/05(金) 20:36:49
扶桑書房一人展目録
 扶桑書房さんの一人展目録が到着。今年もカラーページ盛り沢山。書影が掲げられてゐるのは、泉鏡花ほかの高額本ですが、眼福は井伏鱒二の『随筆』。山本信雄の詩集『木苺』の意匠の元となった本であります。また、つい先日ガラスケースの中にみた『赤土の家』は、ビニールコーティングされてなかったら(笑)40万円です。
私は去年同様、当日会場の開館時間と閉館後の飲み会が楽しみ。テロと金欠が起こらないことを祈ってゐます(汗)。

「第2回 扶桑書房一人展」
日時  2008年12月23日(祝)12時〜18時
場所  東京古書会館(東京都千代田区神田小川町3-22)地下1階

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396やす:2008/12/17(水) 23:38:43
梁川星巌の手紙
『梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノート (閑人専用)

 梁川星巌の伝記と全集を机上にでーんとひろげ、ひきつづき『星巌集』の版本を拾ひ読みしてゐます。いな、詩を読むといふより、星巌の詩を通じて中国の故事を勉強してゐるといった方が正しいです。不審に思ったことを調べるのは、いまや漢和辞典よりさきにgoogleに頼る有様。様々な賢者隠者仙人詩人の名と字と号が、次々に現れては覚えられず忘れられてゆくのですが(笑)、肩の力を抜ける場面もあって、食べ物やかみさんが出てくると、俄然生彩を帯びてくるんですね。版木で摺られた漢字の字面から直接ウィットやユーモアを感ずるのは、時を超えて鮮烈かつ何とも云へぬ温かい読書体験には違ひありません。

 食香魚
芙蓉紅浅雨初凉 [魚發]々銀刀落夜梁 一段人生快心事 香魚時節在家郷

 香魚を食ふ
芙蓉、紅浅くして雨初めて凉し。溌々たる銀刀、夜梁に落つ。一段人生快心の事。香魚の時節家郷に在り。


 旅夕小酌示内
燈火多情照客床 残瓢有酒且須嘗 又労袖裏繊繊玉 一劈青柑[口巽]手香

 旅夕小酌、内に示す
燈火多情、客床を照す。残瓢、酒有り、しばらく須らく嘗むべし。また袖裏の繊繊玉を労すれば、一劈の青柑、手に噴いて香ばし。 (繊繊玉・・・勿論おべんちゃらです。)

 さて美濃大垣の田舎には金森匏庵といふ後輩がゐて、旅先から星巌にいいやうに使はれてゐるのですが、何とかを送ってくれだの、誰々の書を斡旋してやらうだの、さういふ物に即した細々した消息を記した手紙が、全部遺ってゐるんですね。地元産の奇石を二人で欲しがった結果、値段がつり上がってしまったことを愚痴ってみたり、古書の購入を依頼して「しかし五両弐三歩ならば、尤も妙に御座侯、・・・(されど) 実は六両にても高き者には無之侯」なんて、金払ひの未練がましいところは、全く私と変りません(笑)。
 さらに「頼氏は口腹家ゆゑに一度話し申し侯ことは一向に忘れ申さず候につき、困り入り申し侯。」って云ってますけど、山陽のやうな駄々っ子でないだけで、私は星巌先生の方が食ひしん坊だと思ってます(笑)。如亭先輩には敵はないかな。
 そんな当時の、180年前の今月今夜の手紙も引いてみました。

 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月12日)
峭寒御勝常奉賀侯。小生無事に勤業仕侯、御放念可被下候。扨て石之義、(郷里の)舎弟より、追々かけ合申侯処、先方にて申候は、大垣魚屋嘉兵衛(金森匏庵)より至て懇望にテ、金三両より下にては、売り不申侯旨にて、初よりは、金壱両斗り価をあげ申侯故、舎弟も大に困り、小生方へ右之趣き申越侯。無拠右之価にて買取申侯。小生も買かけ申侯物故に、三分や壱両之事は思はれず、右之段御推察季希上侯。来春は、先便に申上侯通り、伊賀に遊歴、帰途は必御地に向、曾根へかへり申侯。僅の石にて、交際に隙を生じ侯てはあし(悪)く、石は来春迄、小生あづかり申置、何か様(いかさま)共可仕侯間、左右に御承知可被下侯。
○明史(『欽定明史(1739)』4帙40巻?)之義、急に御謀り之程奉希上侯、今年中に、小生方に参り申候様奉願上侯。
○珊瑚之義、急に御はからい奉願上侯、何卒急便に御返書奉願上侯。
○餘清斎法帖(王献之の摸刻)、御望も無御座侯ば、見せ本は御返し可被下侯。
○此間名硯出で申侯、価は金拾五両と申し候得共、此節之事、十両位には可仕侯。厚さ貳寸五分斗りにて、紫端溪、うらに眼三つ御座候。何分御返書急々奉願上侯。
西征詩不殘出来申候。委曲は後便に付し申候。草々不喧
 十二月十二日
                          緯上
煙漁老兄


 梁川星巌書翰(金森匏庵宛 文政11年12月17日)
十家詩話(『甌北詩話』)、尾州に無御座侯はば、此方より差上可申侯間、御申越可被下侯。本月十二日発御手帖接手、益御勝常之由奉賀侯。明史の義、御懸合被下侯処、六両位よりは引不申との事、何卒六両にても不苦侯間、急に御買取の程奉希上侯。しかし五両弐三歩ならば、尤妙に御座侯、明史は小生読かけに御座侯に付、何卒して求め置度、何分今年中に落手仕侯様急に奉頼上侯。実は六両にても高き者には無之侯、此節価少々あがり申候。珊瑚、餘清斎法帖慥に落手仕候。繻子之義は先御預り置可被下侯。其内売候はば御売り可被下侯。萬一一向に望む人も無御座候はば、御戻し可被下侯。〇細香よりの繻子之切、並手帖御伝達、慥に落手仕侯。○今春御托し横巻下の巻も、年内に落成可仕侯、後便には必ず差出し可一申侯
○中島(棕隠)先生(美濃遊興)の義、委細承知仕侯。実に遊歴中之拙計(不詳)可発一笑。帰途彦根へ立寄申候様子、一昨日帰京、小生方へ今朝参り申、暫く話し帰り申侯。
○頼(山陽)氏へ鴨を御送りの由、頼氏の横巻も、急に謀(計ら)ひ可申侯。頼氏に鴨御贈之節、別に一つ御求め可被下侯。是は小生より価を出し可申侯。小生も頼氏に鴨を約束いたし置候処、時々催促にあひ困入申侯。其かはりに、横巻を謀り可申候。頼氏は口腹家故に、一度話し申侯事は、一向に忘れ不申候に付、困入申侯。
○石之義、舎弟より度々かけ合申侯様子なれ共、彼理九郎(谷利九郎)、なかなかむつかしき男にて、兎角かたつき不申困入申侯。
○全唐詩之義、今一往高田梅二郎へ御かけ合可被下侯。何れ一帙は上木いたし度者なれ共、先づ半帙にても口あけをいたし度、何分急に御かけ合可被下侯。全唐詩の十両と申す本も、此方に引とどめ、吉治方にあづけ置申候。年内無余日寒気之節御自重奉頼侯。何分明史之義は、急に御かけ合、御越し奉頼侯、其かはり何にても又々御世話可申上侯。猶重便に期候。草々不一
 十二月十七日
                         梁緯拝上
煙漁老兄 文案下

 今月号の「日本古書通信」でも誠心堂書店の御店主が解説してをられましたが(連載「江戸の古本屋」)、「見せ本」といふのは、見計らひの為の見本のことで、仕官せず生計を立てることができるやうになったといっても、詩人は自らの潤筆料だけに頼る訳にもゆかず、講詩・校讐に加へ、書画骨董の斡旋まで何でもしてゐたんですね。

397やす:2008/12/21(日) 08:33:53
御礼2件
 『昧爽』の山本直人様より『四季派学会論集』拙論の感想に添へて、紀要抜き刷り「龜井勝一郎と敗戦--自伝『我が精神の遍歴』の成立背景」(東洋学研究 45号,2008)、「戦争と信仰--戦時下における龜井勝一郎」(同40号,2003所載)をお送り頂きました。ありがたうございました。
 御論文の中で冒頭に表明される「(戦争に)協力したとされる文学者の中から逆説的な抵抗を導き出すことが後世の我々のなしうる唯一の責務」といふ姿勢。「逆説的な抵抗」といふと保田與重郎の「イロニー」を思ひ浮かべますが、「日本浪曼派」に参加した亀井勝一郎にもさういふ上方文化的な屈折があったのかどうか、太宰治しか読んでゐない私には、氏の根底にも屈折といふより責任感がデスパレートに、出自に対する贖罪意識を伴って生真面目に蟠ってゐるものと予想するのみですが、とまれ当時の日本が掲げる建前理念を危なっかしく研ぎ澄ませてみせることで、非政治的な彼岸に精神の自由を確保しようとしてゐた「青春群像」のひとりだったことでは、一致してゐるやうに思ひます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、文化のみち二葉館で催された小展示の際に提供した、高木斐瑳雄の写真類ですが、一個人が所有する筋合ひのものではないため、相談した結果、このまま二葉館が保管・寄贈の労を執って下さることになりました。資料に一番愛情をもって下さる名古屋近代文学史研究会の方々の意向も伺ひ、しかるべき展示スペース整備に向けて、最終的には市でも県でもどこでもよいので最善の場所に収まってくれたらと念じてゐる次第です。予て懸案だったことが片付いて、ホッとしてをります。

398やす:2008/12/26(金) 00:13:40
上京記
 この週明けに上京、田中克己先生の実家へ久しぶりに御挨拶に伺ひ、昔のアルバムや手紙をお借りしてきました。文学者関係のめぼしい来翰は、かつて大垣国司氏が持ち去り行方知れず、残りも古本屋に売り払ってしまったことは、生前本人から直接伺ってゐましたから、このたびの選別の際、手紙の束から保田與重郎と堀辰雄の会葬案内状が出てきたのには吃驚しました。売ったりする筋合のものではないですが、しかしほかに文学者関係で残された葬儀案内はなく、つまり二者が先生にとってやはり特別の存在だったこと、また奇しくもこれが四季とコギトの中心人物の終焉を示す即物的な資料でもあってみれば、これも御縁といふのでせうか、お土産に頂けることになりました。封筒にはそれぞれ(おそらく先生の手で)保田氏からの礼状(昭和55年)と、堀多恵子氏筆の年賀状(昭和26年)が収めてありました。保田與重郎の田中克己宛書簡といふのは、見るのも初めてでしたし、礼状葉書ですが、これまでに買ひ戻し得た 伊東静雄、 三好達治からの二葉と並べてみれば、些か感慨無量のものがあります。
 ほかの手紙も年末年始にゆっくり拝見するつもりですが、まとまった分量で残されてゐたのは、恩師和田清博士(1890年11月15日 - 1963年6月22日)と実父西島喜代之助(1883年2月11日 - 1961年8月20日)からのものでした。学校時代の先生や父親から私信などもらったことのない私にしてみれば、これまた驚きでしたし、晩年まで大切に保管してをられたことに、あらためて師の人となりをみる思ひです。
 御遺族の皆様および埜中さまともお会ひでき、キリスト者だった先生夫妻をクリスマスの時期にしのぶことができたことが何よりの追善となりました。年末恒例となった「扶桑書房一人展」にも楽しく参加、神保町での収穫とともに胸を一杯にして帰ってきた次第です。

よろこびていみじきはふり訃らすふみいだきかへるをしは聴せるか

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399やす:2008/12/31(水) 08:51:40
大晦日
 毎年暮れのニュース「今年の漢字」は「変」ださうです。私事でも父が死んで変動の一年でした。般若心経と論語の素読に親しむやうになり、章句が口を衝いて出るほど馴染んできたこと。これなんかも日常の変化かもしれません。論語から多く引いてゐる『漢文法基礎』なんかも再びトイレで読んでゐます(笑)。
 書斎に掲げられた「黄巒書屋」の扁額と村瀬太乙の屏風。陋屋に於いて吾が居住まひを正してくれるやうになった風変りなコレクションです。また梁川星巌の伝記を読みはじめ、詩人観が親しみあるものに一変。著者伊藤竹東先生箱書の星巌掛軸や『西征詩』を入手できたことも、併せて今年の収穫と呼ぶものと云へませう。

 さてこの年末は、田中家からの借用物の検分をしながら、DVDで全24枚組といふ、漢字学の泰斗故白川静博士の文字講話なんぞも、折々拝聴してゐます。漢字のなりたちを語って毎回話題にはかならず日本語と日本文化への想ひを添へられ、日本が神の国であることや、また昨今騒がしい歴史観についても一言、私見を開陳されてをられます。真に尊敬すべき見識に感銘を深くするばかり。戦前世代最後の碩学の遺言といふべき、渾身の一節を引いてみます(コメント不要です)。

 なほ忌中につき年始の御挨拶は控へさせて頂きます。皆様にはよいお年をお迎へ下さいますやう。今年も一年ありがたうございました。

『DVD白川静文字講話』 第10回「戦争について」より
 最近わたくしは一寸いろんなものを読む機会がありまして、孫文のものなんかを読んでをったんですね。さうしますと孫文が、丁度辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ひますが、犬養木堂が逓信大臣になったときがある。そのときに孫文が木堂にあてた手紙がありまして、これ大変おもしろい手紙であると思ひまして、わたくしちょっと控へてきたんですが・・・一寸そこ読み上げますね。大変長い手紙なんでありますけれども、要するに中国がどういふ風になるかちふことでありますけれども、その時孫文はすでに大統領になってをる、辛亥革命の翌々年ぐらゐであったかと思ふんであります。「この四億の人間を奴隷化する力をもつものは、必ず全世界の覇権を握ることになります。そこで列強ははじめ中国を併呑しようとしましたが、他の列強に阻まれました。」といふやうなことが書いてあるんですが、これは辛亥革命当時、中国にをりましたフランスの社会学者、そのひとが辛亥革命の状態を、そのまま書いたものがありましてね。その中に「今の中国の状態はまるで洋菓子をナイフでさくやうに、西瓜を割るやうに分割占領することは容易である。しかし、さういふ場合に、日本が蹶起してこれを阻むといふやうなことがあっては・・・といふやうなことを恐れて、列強は手を出さんのである。」といふやうなことが書いてあるんです。多分それは、中国で生活をしてをったそのフランスの社会学者の実感であっただらうと思ふんですね。だから孫文も、この中国を分割支配するといふ調子で、当時イギリスやフランスは非常にたくさんの借款を清国に供与して居りましたからね、それの代償としてここを欲しいといふ風にしてとるとすれば、あるいは分割は容易であったかもしれん。しかし、日本が日露戦争において示したやうな、ああいふ風な力を見てをるから、列強は手控へてをるんだといふやうなことを、孫文がこの手紙の中で言うてをるんです。 しかしこのときに、孫文があとにつけ足して言うてをる言葉はですね、実は日露戦争は日本がアジアのために戦ってくれた戦争である、アジアの民はすべてさう思うてをった。だから日本がもしあの戦争を義戦として、アジアのための戦ひとして、終始そのやうな行動をしてくれたならば、我々は東方の君子国であるところの日本を、我々の盟主として、他の勢力に対抗することができたであらう。しかるに朝鮮を併呑するといふやうなことは、痛恨に堪へぬ遺憾事である。これによって日本はあの大きな犠牲をはらった日露戦争の戦果を、悉く失うてしまった、といふことを言ってゐるのです。そして今からでも遅くない、泥縄式といはれてもいいから、この問題を解決しなさいといふことを、孫文はいうてをる。
 これは大変長い文章で、いま御紹介しただけでは意を尽くさんのでありますけれども、おそらく孫文だけでなしに、当時のアジアの心ある人々が、皆そのやうな気持であったんであらうと思う。もし日露戦争を日本が、アジアのための義戦として終始することができたならば、今日の日本のあり方は余程変はって居ったであらうと思ふのであります。また今日においてもなほ、そのやうな認識のもとに、戦後のさういふ歴史を考へなほすことができるならば、今日のやうないろいろむつかしい、アジアの内部で、我々が最も将来頼りとしなければならんといふやうな国々からですね、不信をつきつけられるといふやうなことはなかったであらう。これは孫文がまことに痛恨の極みであると言うてをるやうに、わたくしも痛恨の極みであるといふ風に考へてをります。
 今日の問題は、単なる教科書問題としてね、手先で片付けられるといふ問題ではありません。やはり歴史の認識の基本に立って、いったい戦争といふものはどういふものであるか、一体日本はなぜロシアと戦ったのか。戦ふ理由は何にもなかったんです。日本が直接的にはね、何にもなかった。当時ロシアはすでに旅順・大連に権利をもち、満州をも殆ど支配下におき、朝鮮には軍備を禁止して、威嚇的にですね、南進の傾向を示して居った。そのやうな状態は、私は呉大澂といふ清末の金文学者が居ります。『かく斎集古録』という大きな書物を書いた金文の研究者で、わたくしは呉大澂の書物をいろいろ読み、彼の日記も読みました。彼は満州に居って、ロシアのさういふ南進勢力に対して、非常な努力をして戦ったひとです。境界線の画定なんかでもやり直しをさせて、そこに銅柱を立てて、彼が得意とする篆書でこれが境界線である、といふやうなものを建てて、ロシアに対して、なほ低抗するといふやうな気概を示した人です。しかし彼の日記には、しばしば朝鮮をめぐるロシアと日本との暗闘、といふやうなことが見えてをりました。
 日本は本来は満州に兵を出すべきではなかった。出す以上は義戦として戦ふべきであった。もしさうすれば、それからのちの歴史はたいへん変はってをっただらうと思ひます。現在の教科書問題は単なる教科書問題として、何故そんなに拘るのかといふ風に思はれる方も多いであらうかと思ひますけれども、私は孫文のその手紙をみましてね、向ふの有識者がどのやうな気持で当時の日本を見てをったのたか、といふことを考へますと、そののちの軍部の跳梁は、まことに見るに堪へん遺憾なことであったと思ふ。軍部を批判した者は、齋藤隆夫でも(議員を除名され)、中野正剛でもついには自殺にまで追ひやられた。尾崎咢堂でも野に下るといふやうなことで大変圧追をうけた。当時それを批判するものは、殆ど満足に安全を保障されるといふ状態ではなかった。かういふ風なことが日本の謂はば国運をかたむける、日本の国の行手を大きく歪めてしまった、さういふことになったのではないか。
 ま、戦争といふ課題でございましたから、さういふことをも含めて、今日の問題を考へ、将来の問題を考へるために、韓国にしましても中国にしましても、将来これは日本の与国として、日本の同盟国としてね、必ず手を結ばねばならん国なんです。わたしは特に漢文漢字をやってをりますから、さういふ漢字文化圏といふ歴史的な意味あひからも、この文化圏のもつ歴史的な意味を、失ふべきではないといふ風に考へてをる。この文字講話をしてをりますのも、一つはさういふ漢字文化圏の復権といふことを、考へてをるからでありますが、今日はたまたま戦争といふ主題でお話をいたしましたので、どこから日本の軌跡が狂うてきたのかといふことを考へるために、わたくしが一応考へてをりますことを最後に申し添へる、さういふことでお話を結びたいと思ひます。ありがたうございます。

400やす:2009/01/01(木) 22:09:34
『朔』芥川瑠璃子追悼号
 今年もよろしくお願ひを申上げます。

 八戸の圓子哲雄様より『朔』164号芥川瑠璃子追悼号を御寄贈いただきました。
 実は田中克己先生の実家からお借りしてきた昔のアルバムのなかに、このたび口絵写真に採られた詩集出版記念会(1960.4.29)の写真や、夫君比呂志氏とのスナップ写真(1954.7.9)がみつかり、このたびの特集をひとしほ親しく感じてゐます。また、坂口昌明氏が書いてをられますが、戦前「四季」での「葛巻ルリ子」時代には、立原道造が彼女の職場だった文芸春秋社を訪ねて行き、不在だったことなんかもあったと云ひます。或はどこかで読んで忘れてゐるのかもしれません。近頃忘れっぽくていけません。
 連載中の小山正孝未亡人、常子氏のエッセイもさうですが、愛を歌ふ詩人に、心やすらぐ文章を書いて寄せてくれる奥さんが居ったりすれば、これは夭折詩人の青春とは異なる、何か青春といっても琥珀色の気圏が雲蒸される訳で、まことに羨ましい限りに存じます。
 夫人の御冥福を祈りますと共に、ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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401やす:2009/01/02(金) 07:31:25
『初版本』終刊号
 予約の書誌雑誌『初版本』が晦日に到着、終刊号とのことで驚きました(第4号)。さういへば創刊の辞もなければ今回終刊の辞もなく、最後に扶桑書房東原武文氏が、新旧古書番付を引いて人気本の推移を論じてをられますが、初版本市場の変遷と同時に現在の不安材料を語る内容となってゐるのが、少しさびしく感じられました。ただ内容は此度も愛書家が目を細めるものばかりで、とりわけ管理人にとっては、JINさんのモダニズム詩人追跡、そして「詩集の掘り出し達人」のインタビュー記事は興味深かったです。ときに私のことを詩集コレクターのやうに云ふひとがありますけれど、私なんぞは自身の所蔵情報をネット上に開示することで、労なくして新しい情報を得ようとする横着人間(ただの貧乏人)にすぎず、彼のやうに丹念に地方の古書店をめぐって、一旦おさめた奇貨は深く蔵す、得意気に喋って取り上げられるといふやうなつまらぬ禍を避けるのが、本当のコレクターであります。
 今回は終刊号でもあり、特に乞はれて其の極く一部を紹介させられてしまった、といふことでせうね。かつて書庫を親しく拝見した記憶も蘇り、垂涎の書影と体験談は眼福もしくは目の毒です。あ、早速「日本の古本屋」にいって「故国の歌」で検索してるひと誰ですか(笑)。
 編集に関はった皆様方には、たいへんお疲れさまでございました。

『初版本』第4号(終刊号) 2008.12.31人魚書房刊 予約限定300部刊行 \1.000
表紙の本 うねうね川 1
芥川と太宰の識語本 川島幸希 2
三島著書目録稿番外抄 山中剛史 20
小松清の著書 樽見博 29
鏡花外装二題 34
詩集を掘り出す 大地達彦 36
荷風初版本拾いの記 鈴木光 46
清方と英朋の木版口絵 56
耄碌堂主人贋作噺 梶川良 60
陰の珍本あれこれ 山口哲司 66
藤村青一 知られざるモダニズム詩人 加藤仁 78
近代古書目録の旅 「太秦文庫古書目録」 76
雑本蒐書録 其之肆 彭城矯介 86
数寄者・楠瀬日年のこと 平田雅樹 92
文学史的評価と古書価 東原武文 100(当HPが7年前、戯れに選定した当時の「昭和初期抒情詩集番付」はこちら。今なら変更もありますが、一寸さういふおちゃらけたもの作る気力が涌きません。)

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402やす:2009/01/05(月) 22:06:12
更新報告
 「田中克己文学館」に御遺族からの借用資料の掲載を開始します。画像が巨きいので、ブロードバンドでない方には御迷惑をおかけいたしますが、高校大学時代の集合写真など、研究者にもおそらく初めて御覧になる資料が多く珍しからうと存じます。細部に至るまでごゆっくり御覧ください。(無断転載はお断りいたします)
 今年の喪中正月は、そんなこんなでスキャナーとサイト更新作業に明け暮れ、読書は全くお留守になりました。拝聴(拝観)してをりました白川静博士の文字講話DVDは、最後の第20回「漢字の将来」に於いて再び日本の歴史を憂へ、東アジアに於ける「漢字文化圏共同体」再構築の夢が語られてゐます。94歳とは思へぬ志操と、そして四六駢儷体の詩文を朗々と暗誦される記憶力には驚嘆です。共産主義と物欲主義(アメリカニズム)、さらに一神教や戦後教育に反省を求め、礼節と仁による平和を掲げようとする、そんなところが斯界に限らぬ敬慕の対象となってゐる所以なのでせうね。

403やす:2009/01/15(木) 23:17:21
『菱』164号
手皮小四郎様より『菱』164号の御寄贈に与りました。荘原照子の伝記もいよいよ「少女詩人」時代に入り、謎の多い文学的出発を聞き書きと文献と両面から解き明かされてゆくのを興味深く見守ってをります。投稿詩にみられる少女らしい淡い同性愛が、やがて告白しないまま失恋の孤独をかみしめる乙女の心情へと成長してゆく様を見、また母から英語、父から漢学と、あのモダニズム詩を書く教養を殆ど家庭学習により授かったといふ事実を知って、本人の詩人的な素質とともに、旧家の精神的な財産といふのはものすごいものだと思ったことです。次回は初恋のゆくゑと、それからそろそろ交友関係にも若い詩人達の名も現れてくるのでせうか。たのしみです。ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。

404やす:2009/01/15(木) 23:18:42
『近代文学 資料と試論』第9号
 碓井雄一様より『近代文学 資料と試論』第9号の御寄贈に与りました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
 今回の碓井様は、師である林富士馬を、そのまた師であるところの伊東静雄との関はりに於いて論ぜられます(「林富士馬・資料と考察 6伊東静雄と響き合う詩想」)。直前に掲げられた勝呂睦男氏の回想文「忘れがたき年月」が浪曼派詩人林富士馬の面目を明らかにしてをり、碓井様の文章に余韻を引いてゐる様を羨ましく拝しました。師に連なる先輩後輩の交りに薄かった私に殊更さう思はれ、「無益な遠慮と虚勢」を「含羞と自恃」のやうにも思ひなしてゐた過去を恥づかしく回想いたします。
 冒頭、「林富士馬は伊東静雄が最も愛し続けた詩人/知友であった。」と記されてゐることで私の頭に去来するのは、富士正晴氏が何かで書いてゐた回想で、東京で林富士馬と初対面の折、好青年の林氏に対して傍から見て度の過ぎる先輩風を吹かせてゐた伊東静雄が、あとで「あれ位でいいんです」とか嘯いて富士氏を呆れさせたといふ逸話です。富士氏は今回碓井様が抄出の文章中でも「『誕生日』について云ふのに「試論」一篇だけの話をした伊東静雄はやはり眼光の鋭い、たしかな人だったといはないわけにはゆかぬ」なんて書いてゐるのですが、「一篇だけ」なんて語気は伊東静雄の意を見透かすものでありませう。愛情と優位とを確信する相手に対しては、時に不遜の姿で自恃を迫る、また人前で故意にさういふ挙に及んで欝屈の片鱗を垣間見せる人だったんだらうと思ひます。母親に対しても「おまへは黙っとれ」とか怒鳴った事が記されてゐますし、百田宗治も伊東静雄のことを「自恥を知って」ゐるからこそ「きっと不敵なものを蔵してゐる男で、どうかすると傲岸無礼の挙動が平気で行へる種類の人物」と評してゐます。一中学教師の社会的身分と等身大の詩人とみる向きに対して非常な敵意を抱いてゐたと、こんなことは愛読者には今更なことですが、碓井様へ至るいみじき三世代の師事を鑑み、あらためて書き添へてみます。
 晩年の林富士馬を迎へて発刊された同人誌「登起志久」から数へれば11冊。終始篤実の気によって領せられてきた無償の営為も次回の「満願成仏号」を以て終刊となる由。本当に御苦労さまでした。

405やす:2009/01/15(木) 23:22:52
更新報告 続き
 山川京子様主宰の『桃』一月号(Vol.56(1),No.634)の御寄贈に与りました。山川弘至記念館増築に係る地鎮祭の祝詞を、桃の会の野田安平氏が撰してをられます。ここにても会の皆様にはあらためて御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 さて、物を納める蔵も大切ではあるのですが、歳月が日々損なってゆく資料の保存を、なるべく早い段階で画像に於いて留めることが、不取敢自分に出来る精一杯の供養なのではないかと思ひ、昨年「田中克己アルバム」の公開を発心しました。御遺族の全面的な協力を賜り、本日先生の17回忌にあたり、更新を一通り終へることができましたことを、茲に謹んでご報告申上げます。
(なほ、集合写真においてはお名前不詳の方も多く、お分かりの方にはメールにてこっそり耳打ち頂けましたら幸甚です。)

406やす:2009/01/17(土) 18:14:14
初荷のキコー本
 旧臘は、上京した折に見つけた村瀬太乙の初刊行書『菅茶山詩鈔』(嘉永6年序)が「買ひ納め」でしたが、本年の記念すべき「初荷」もまた、長戸得齋の紀行文集『北道游簿』(天保10年序)と、津田天游『天游詩鈔別集』(昭和2年)と、御当地美濃の漢詩文集となりました(ニコニコ)。『北道游簿』は、かつて明治古典会七夕古書入札会で美本を手に取るも、やりすごした紀行本の稀覯本。冒頭にわが町長良村の風景も述べられてゐて、佐藤一斎は跋文で、歴史がてんこ盛りのところが凡百の紀行と違ってゐて宜しいなんて云ってますが、ここはやはり当時の郷土の風景をもっと報告して欲しかったところ。『天游詩鈔別集』は、『美濃の漢詩人とその作品』(山田勝弘著)のなかで、後半の一章を割いて詳しく紹介されてゐる詩集。序文を書いてゐる矢土錦山の扁額を入手してゐることもあって、気になってゐた詩集です。幸運にも二冊とも入手が叶ひ欣喜雀躍。昨日の五反田展『堀辰雄詩集』(デッサン欠\40,000)は残念ながら外れたのですが、これ以上望んだらバチが当ります(笑)。

『北道游簿』(冒頭)    美濃 長戸譲士譲著
文政己丑[12年]季夏、余旧里に帰る。先塋を掃展し、勢・尾間の諸友を訪ふ。還って岐阜に至り、姉夫安藤正修の百曲園に寓すること弥月[満ひと月]なり。路を北陸に取って以て江戸に赴かんと欲す。北勢の原迪齋の、其の子玉蟾を托して遊学せしむに会ひ、是に於て鞋韈千里も蕭然ならざるを得たり。乃ち其の行程を記し、以て他日の臥遊に供す。

七月二十六日。午後啓行[出発]。藍川[長良川]を渡り、長良村を過ぎる。百百峯[どどがみね]を乾[北西]の位に望む。織田黄門秀信の岐阜に在るや、其れ良(まこと)に百々越前守安輝[綱家]なる者、其の地に居れり。山の名を得たる所以なり。土佛[つちぼとけ]の峡を踰(こ)えて異石有り。晶瑩として鑒(かがみ)なるべし。呼びて「鏡巌」と曰く。所謂「石鏡」も葢しまた此の類なり。飛騨瀬川[一支流]を渡りて白金村[関市]に抵る。路岐れて二つと為る。右に折れて二里、関村に出るべし。昔、名冶[刀鍛冶の直江]志津・兼元有り、此に住めり。今に至って其の鍛法を伝へ、良工多く萃(あつま)る。左に転ずれば、下有知[しもうち]松森の二村を歴て上有知[こうづち]に抵る。地、頗る殷盛たり。市端に欝秀たる者、鉈尾山なり。一名を藤城山、佐藤六佐衛門秀方の城趾に係れり。秀方、総見公[織田信長]に仕へ、実に吾が師[佐藤]一齋先生の先[先祖]なり。夜、村瀬士錦[藤城]を訪ふ。置酒して其の弟秋水、及び族太一[太乙]、門人田邉淇夫[恕亭]数輩をして伴接せしむ。酣暢縦談して更深に至って始めて散ず。士錦嘗て頼子成[山陽]に業を受け、其の得る所を以て教授す。就学する者、稍衆(ややおお)し。秋水は画に工みなり。

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407やす:2009/01/18(日) 11:48:20
詩集『揚子江』
 山口融さまより、御尊父正二氏の詩集『揚子江』の あとがき画像をお送り頂いたので追加upしました。戦中に刊行が予定されてゐた戦地での詩篇を、敢へて書き変へず上梓されたのは、徒な戦意高揚でも反戦でもなく、一兵士としての自らの詩想に雑ぜものがなかったからなのだと思ひます。当時軍人詩人として有名だった西村皎三のことを蔑んでゐないのがその証拠ですし、四季派関連で申しますと臼井喜之介と、ウスヰ書房から詩集を出してゐる大西溢雄と、共にお知り合ひであったことにも驚いてゐます。孔版印刷であることも手伝ひ、戦後に出た多くの戦争詩集とは一線を画す氛囲気をあとがきから感じ、興味深く拝見しました。ありがたうございました。

408碓井雄一:2009/01/19(月) 10:30:00
有難うございます。
いつもいつも優しい御紹介と御手紙を賜り、本当に有難うございます。ようやく第9号まで発行することができました。嬉しく衷心より御礼申上げます。拙文「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」と、林先生への追悼文、近日中にお送り申上げます。今日はこれから、大学の方の今年度の最終講義でございます。高校の方、センター試験が終り、僕は3年生の授業のみ担当ですので、こちらも一段落でございます。来年度も3年生の担当だと思いますが、何にせよ、4月中旬まで大勢の前で声を出すのは暫くお休みです。この間に自分の勉強の充実を……、と毎年思うのですが、サボってばかりおります。次号、7月上旬にはお届けできることと存じます。何卒お見守り下さいませ。

409やす:2009/01/21(水) 21:21:08
最近の経済的不況の折、伴侶にこれ以上本を買われるのを防ぐため、家人が目録を先に受け取り・・・
 碓井様、センター試験も終りひと段落された由。わが職場ではセンター終了を受けてのこれからが正念場です。今年もよろしくお願ひを申上げます。

 「田中克己アルバム」の写真の不明人物については、皆様から情報を募ってをります。かつて成城高校の国語教師であられた山川京子様よりは、成城国文学会の人々のほか、宮崎智惠・大伴道子合同出版記念会にも参加されてゐた由、御電話を頂きました。これには気が付かず、当日の雰囲気をお話し頂いた記憶力とともに吃驚です。ありがたうございました。

 さて本日到着の目録、和洋会の「お願い」に笑ひました・・・(今のところU^ェ^;U )。また石神井書林目録に『詩集西康省』の並本が\5250で出てゐましたのでお知らせします。

410やす:2009/01/22(木) 23:06:01
『天游詩鈔別集』
 風日事務局より歌誌「風日」の御寄贈を忝くいたしました。その精神的支柱である保田與重郎を回顧した「五十年記念誌」の頒布について、年会費の名目でお取り計らひ頂いた為、和歌の門外漢である私にまで昨年一年間、購読を賜ったのでした。谷崎昭男氏が草される先師の回想を楽しみに拝読してをりましたが、今号の話題は先だってこちらでも紹介させて頂いた身余堂写真集『保田與重郎のくらし』をめぐっての一文。いづれ一冊にまとめられる時を楽しみにしたいと存じます。ありがとうございました。

 探求書の『天游詩鈔別集』(津田天游著、昭和2年刊)を丸善から受取りました。馴染み深い岐阜市内の土地を詠みこんだ漢詩が目白押しに並んでゐます。金華山、達目洞、忠節橋、雄総山、岩井薬師、・・・尤も当時の風景なら写真がすでにある時代なので、何もわざわざ漢詩で偲ぶ必要はないのですが(笑)。用字・典故も江戸時代より易しくとっつきやすさうです。しかし、今しばらくは梁川星巌の伝記に齧りついてゆくことにします。「読書ノート」ゆるゆる更新してゆきますのでよろしく。

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411やす:2009/01/23(金) 23:51:35
御礼:『定本伊東静雄全集』逸文の紹介
 碓井雄一様
 林富士馬追悼文「先生の御事」(「新現実」71、2002.1)および「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」(「昭和文学研究」48、2004.3)のコピーをお送り頂きありがたうございました。書き込みを賜りましたので、掲示板より重ねての御礼を申し上げます。
 思へば私は田中克己先生の臨終に際して文章を書いてをりません。ですが碓井様同様、年少の友人として接して下さった師の家に足く通ひ、奥様から毎度手料理を振舞はれ恬然長居してゐた貧乏青年、世代をはるかに隔てた不肖の弟子としての想ひを言葉にするなら、全く同一のものになると思ひます。違ふのは、碓井様の2年間に対して吾が5年間(ただし酒と文学論議は無し)。そして120通も手紙を頂いた碓井様に対して、私は最初に「一度いらっしゃい」と葉書一枚を頂いただけ。矍鑠たる浪曼派詩人との濃密な交際といふより、いつも横に控へる奥様と先生を肴にして三人で雑談に興じてゐたことが多かったやうに思ひます。一緒に撮った写真も5年間のあひだに適ま来訪客があって撮って頂いた一枚があるきりです。それは自宅改築の際の仮住まひでの写真で、段ボール箱に囲まれた先生は入歯を外しはなはだ冴えず、私も着たことのない色のセーターを着て表情硬く・・・けだし唯一の大切な写真には変りありませんが、あんまりひとにみせたくないのであります(笑)。
 『定本伊東静雄全集』の逸文ですが、刊行された『伊東静雄青春書簡』以外のものに限ってもこれだけの分量があるのですね。改訂版定本の刊行が無理でも新たに拾遺資料として一冊にまとまると有り難いのですが、それも難しければHPに上してしまふのも一策です。研究者も愛読者も多い詩人ですから(嫌な言葉ですが業績価値も商品価値もあり)此処で勝手に「孫引きベータ版」を掲げてしまふ訳にもゆかないのが残念ですが、今回碓井様が整理して報告されてゐる新見資料の書誌のみ掲げさせて頂きます。

書簡:杉山平一宛(昭15.9.29付)、三島由紀夫宛(昭19.11.21付):『定本伊東静雄全集』第7刷(人文書院1989.4)別刷付録
歌詞:「木枯し」:『新修女子音楽』水野康孝編(大阪開成館、昭12.9):小高根二郎「伊東静雄・その詩碑と拾遺と」『文学館』5 (潮流社1984.11)
書簡:吉田貞子宛(昭7.5.4付)、宮本新治・貞子宛(昭9.2.3付)、宮本新治宛書簡(昭9.2.18付)、杉山平一宛、三島由紀夫宛(前述):同上(小高根二郎)
書簡:下村寅太郎宛(推定昭18.春)、下村寅太郎宛(昭18.10.27付):『伊東静雄―憂情の美学』米倉巌(審美社1985.9)
書簡:小高根二郎宛(昭25) (昭26.1.15):「当館所蔵の伊東静雄書簡について」『大谷女子大学図書館報』19(人文書院1987.1)
散文:短文4篇:『呂』3(昭7.8)、4(昭7.9)、6(昭7.11)、7(昭7.12) :赤塚正幸「伊東静雄読書目録」『敍説』9(敍説舎1994.1)
書簡:肥下恒夫宛(昭10.8.22〜18.10.12):飛高隆夫「肥下恒夫宛伊東静雄葉書二十通他一通」『四季派学会論集』6(四季派学会1995.3)
書簡:品川力方海風杜宛(昭13.11.20):「館蔵資料から 未発表資料紹介」『日本近代文学館』146(日本近代文学館1995.7)
散文:『呂』第四号(昭7.9):碓井雄一「伊東静雄の「全集」と「文庫本」・覚書」『群系』(群系の会、1996.8)
書簡:大塚格宛133通:大塚梓・田中俊広『伊東静雄青春書簡―詩人への序奏』本多企画 (1997.12)
散文:「一つの詩集」:『野人』第六号(昭14.9.20):碓井雄一「『定本伊東静雄全集』逸文の紹介、ならびに補説」『昭和文学研究』48(昭和文学会2004.3)

 文中『呂』の逸文の紹介者である赤塚正幸氏は、かつてわが職場で教鞭を執られた先生。おかげで図書館には四季派関係の文献が完備してゐます。過去の紀要所載論文も許諾を受けCiNii からFull Textを公開させて頂いてゐますので併せてお知らせ致します。
 ありがたうございました。

412:2009/02/04(水) 18:58:42
わが忘れなば
はじめまして。佐藤ゆかりと申します。

詩集にも古書にもまったく詳しくなく、なのにこんな「まさに素人!」の投稿していいのだろうか…と不安になりつつ、どうにも気になってメールしております。

私、「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」がとても好きです。何というか、生きようという力がわいてくるような歌だと思います。

この歌を検索しているうちに「四季・コギト・詩集ホームページ」に出合いました。
田中克己さんのいろいろな歌にふれることができ、喜んでおります。

そして、「エッ」と思いました。
私は今まで「わが忘れなば」と思っていたのですが、『戦後吟』の写真に「わが忘れたば」とあります。
「わが忘れたば」と「わが忘れなば」は意味合いが少しだけ変わるような気がしています。
中嶋様も「わが忘れなば」と書かれていらっしゃいますが、田中克己さんは『戦後吟』のあとに「たば」を「なば」に変えられたのでしょうか。
もともと「忘れたば」なのか、それとも「なば」に変えたのか(それとも現代用語では「たば」は「なば」なのかと考えたりもして…)などいろいろ考えております。
変えたならば「深い」と勝手に思ったりもしています。

「たば」と「なば」についていろいろ検索したのですがまったくヒットしません。それで、思わず投稿してしまっております。
もしも、ご存知でしたらお教えいただけると幸いです。
このような変な投稿で申し訳ありません。

413やす:2009/02/04(水) 21:42:52
お詫び
佐藤ゆかり様、管理人のやす@中嶋康博と申します。詩を感ずるのに素人も玄人もありません。
さてお尋ねの件ですが、「ご存知」も何も、これは小さな画像を掲げた私のミスなのですが、再度スキャンしました画像を御覧頂ければ分かるやうに「忘れなば」で正しいのです。申し訳ありません。
「生きようという力がわいてくるような歌」といふのは、あたらしい解釈ですね。
私にとっては、落ち込んでゐる時に口ずさんで、さらに完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌なのですが、いぢけすぎて悲しみの向かふ側をみて居る節も感ぜられます。
思ふにひとは一度泣きつくした所から再び立ち上がる力も涌きあがってくる訳ですから、さういふ解釈も成り立つかもしれません。
この歌に復唱して「たれをかも恨むにあらむこのみちを??いつよりわれはなきそめてこし」なんて歌もあります。
立派な公開資料に見合はぬ拙いノートを併載してをりますが、今後ともよろしく御贔屓に下さいませ。レファレンスありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000554.jpg

414:2009/02/05(木) 10:48:05
ありがとうございました
中嶋さま

ありがとうございました。詩集も「忘れなば」ですね。
お詫びなんてとんでもない。むしろ、私の見当違いでお手数をおかけしてしまいました。本当に申し訳ありません。

詩(本もみんなそうだと思いますが)はいろいろな読み方があるんですね。中嶋さんの「完膚無き迄に悲しませる感傷的な歌」に「そんな見方もあるのか!」と驚くやら、「確かに」と唸るやら。世界が広がり、ドキドキしております。
私はこの歌を人から教えていただきました。
「哀しみから立ち上がる」というよりも、「この道を泣きつつも頑張って歩んできたことを、誰が知らなくても私自身が知っている。それでいい」と言う感じでしょうか。

詩って本当にいいですね。今回、それをすごく感じています。
これからもHPによらせてください。よろしくお願いいたします。

415やす:2009/02/07(土) 19:25:23
御案内
>佐藤さま
「頑張って歩んできた」といふのは、読者の事情に依った解釈なのか、今一つピンと来ないのですが、「私自身が忘れたらこの私の徒労を知る者もなくなってしまふんだなぁ…それでいいか(嗚咽)。」といふのが私の理解でしたが、前向きに解釈されたのは珍しいことに思ひます。

さて、文化のみち二葉館からは次回の特別展「春日井建と仲間たち」の御案内を頂きました。そもそも和歌と現代詩と両方苦手な人間にして、さきの「この道」の歌さへオロオロ解釈、コメントもできなくって恐縮しきり。頂きましたチラシをとりいそぎ御紹介いたします。

416やす:2009/02/07(土) 19:51:56
詩集『揚子江』
山口融さまよりは、先日(1月18日)紹介しました父君正二氏の戦塵詩集『揚子江』(昭和51年私家版)の御寄贈に与りました。本来戦争中に出る筈だった詩集ですが、戦後手許に戻ってきた原稿を改作せず、30年後に再び刊行することにしたといふ代物。内容は掲示板で予想した通り、日中戦争で実際に戦った当事者の、のっぴきならぬ現実が、思想ではなく詩想を通じて吐露されてゐました。巻末には「文字、仮名づかい、何れも原文のまま」とし、読みづらいのは「それはとりもなおさず戰爭を知らないと云ふことに庶(ちか)いのではなかろうか」と記されてゐます。たしかに仮名遣ひの他にも、当時の中国語が説明無しでたくさん詠みこんでありますが、もとより生き残った知友の机辺におくるため、自ら孔版を刻し、たった200部刷って製本した私家版の詩集です。味方を疑はず、敵を蔑まなかった一日本兵の心情が、生のままに感ぜられ、当時抱いた詩情と真(まこと)を、そこにそのやうにしか在り得なかった青春を、三十年後の著者が併せて懐かしんだ。そのやうにみるべき作品集でありませう。序詩を紹介させて頂きます。

  (序詩)軍艦旗
              山口正二

おれはもうおれのおれではない
理窟も議論も無く、さうなんだ
おれが獨りのおれの時は
社會とか、秩序とか、
生きる爲の方針とかについて、そして又時々は見榮と謂った
こと等や、極くつまらない損とか得とかの區別までも、
ちゃんと考へてゆかねばならなかった。
そんなに多く、持ち切れない條件を背負ひまはっても、
おれは矢張り阿呆の様にしか生きてゐなかった。
おれは
今、もう棒ッ切れの様に單純だ
唯、鬪へばいいのだ。
大きなカのほんの一つの細胞となって
敵に打つかればいいのだ。
そして、勝てばいいのだ。
戦ひは勝てばいい様に、
おれは、誰の爲にとも、何の爲にとも考へる必要はなくて、
唯もう撃ち出された彈丸の様に、眞ッ直ぐに翔ペばいいのだ。
こんな簡単なことが、
おれを数倍も偉く感じさせる。
ともかく
おれはもう充分満足して、おれの動くのを凝視めてゐる。
おれの腦髄にも、網膜にも、
ああ、體中に、
はたはたとはためく軍艦旗
おれは
いっぽんの軍艦旗になって進む。
                    『揚子江』より

詩集の現物を手にすれば、飛騨高山で同じく謄写版印刷を生業とした和仁市太郎の詩集と同じ「手作り感」を実感できます。昨今の、小綺麗で均一装幀の自費出版詩歌集ブームの中にあって、慥かにこの「紙碑」は内容と同等の異彩をを放ってをります。いづれホームページで全文が公開されるのを俟ちたいと存じます。
ここにても厚く御礼を申上げます。ありがとうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000557.jpg

417やす:2009/02/11(水) 16:05:39
Book Review
 去年の10月に『ボン書店の幻』の改訂再版が出てゐたことを知らず、先日新本を求めて所感を記したのですが、同じ月にもう一冊、日本漢詩人選集(研文出版)で梁川星巌の巻が出てゐたこと。これまた不敏にして先週まで知りませんでした。昨晩さっそく県立図書館へ行って借りてきました。収録詩篇が少ないものの、解説は丁寧で江戸詩人選集(岩波書店)との重複はありません。『梁川星巌全集』での伊藤・冨永両先生による注釈以後、新たに補足された語釈や故事について知ることができ、わが拙き読書ノートにも裨益するところ大です(現在【ノー ト13 頼山陽との永訣 江戸へ】まで)。ともにBook Reviewより御笑覧ください。

 また図書館のついでに、全集の第4巻も借用してきました。5巻本のうち手許にこの巻だけないのですが、第1巻〜第3巻の星巌詩集本篇に比べて、350冊しか作られなかったこの第4巻(紅蘭詩集)と第5巻(書簡)のみを手に入れることは至難の業。結局コピーをとることになりさうです。

 中野書店『古本倶楽部・お喋りカタログ』第三号に『萱草に寄す』書入れ並本現る(\315,000)。これまた目録に出るたび切ない気分。

418やす:2009/03/14(土) 19:46:26
(無題)
 花粉症に加ふるに風邪が長引いてゐたため、連日眠気覚めやらず、読耕ままならず、この一ヵ月修養も遅滞してをります。
 山川京子様よりは『桃』の御寄贈を忝く致しました。山川弘至の戦地における遺著といふべき、古事記を和歌の調べに翻案した『日本創世叙事詩』が、版元を変へて三たび再版されます由、お慶びを申し上げます。民族受難の時代に詩人がなすべきことはなにか、神の国に在ることの意義や自覚を求心的に問ひ進めていった末に、凝(こご)り固まった祈りの姿が茲に示されてゐる、そのやうに思ひます。激烈な序文はもとより京子氏が後版跋文で補足された当時の詩人の消息を、今の日本人がどう享けるのか。彼が殉じ得た神話の詩精神が、このさきも歴史を祓ひ鎮め続ける祝詞として活き続けることができるのなら日本は決して滅びない。さうして漢詩文をふくむ古典を通じて、廃仏毀釈以前の日本人が規範とした慎ましい道徳のありかたに再び思ひを寄せることができるのなら、日本はその歴史に安んじて周りを見回すことだってできる、そのやうに思ってゐます。
 ありがたうございました。

419やす:2009/04/26(日) 08:58:19
近況報告
 近況報告を疎かにしてをりました。まとめて記します。

 鳥取の手皮小四郎様より『菱』165号の御寄贈。今回の荘原照子の伝記は読みごたへがありました。田舎らしからぬ執筆陣を聘した『白梅』といふ文藝雑誌をめぐり、中原中也15歳、荘原照子14歳の投稿詩歌の紹介、そして当時三木露風に激励された喜びを今も寸分違はず記憶してゐる元文学少女の老婆と、うなぎ丼を食べながら相対する筆者。残り物をビニール袋に「ドサドサ」詰めて持って帰らうとする姿をリアルに描いて締め括る、手皮様らしい文章と精緻な考証に感歎です。

酔ひたふれ正体も無き吾が父を山門に見て走りよりしも
山門に酔ひ仆れたる父をめぐり人集ひをれど吾は泣かなくに

 当時の、父親を歌った短歌が『マルスの薔薇』のなかの人物描写そのものであったことに「びっくり」ですが、「びっくり」はむしろそんな歌を父自身の目に触れるかもしれぬ雑誌に投稿する恐るべき14歳の少女といふべきかもしれません。この時代の詩人は光と影のコントラストの強いトラウマが、モダニズムを纏ふことなく素のままに渦巻いてゐる感じ。引き裂かれる初恋をめぐっては「いずれ詳しく触れ」られる予定です。


 八戸の圓子哲雄様から『朔』165号ならびにお便りを拝掌。雑誌はこのたびも小山正孝未亡人常子氏の一文に癒されました。丸山薫を語りつつ、引用された八木憲爾氏との件りもあたたかく、本が唯一の財産だったといふ詩人の文学気圏の中に留まり、いつまでもこのやうに回想してくれる奥さんをもつ喜びといふのは、やはり四季派詩人ならではの特権であると思はれたことです。


 圓子様のお便りには、『朔』編集局へ宛てた田中克己先生からの風変りな感想のことが書かれてゐました。そんな折、田中先生のハガキをまとめて送って下さった埜中美那子様には、宛先である辻芙美子様とともに、あらためてこの場を借りまして御礼を申上げる次第です。
 写真も同封されてゐましたので早速アルバムも更新しました。辻芙美子氏は帝塚山学院短期大学時代の四期生。ドイツ語を買はれ卒業後、服部正己博士の秘書に推薦された田中先生の教へ子です。最晩年の来信は、私が先生の御宅に出入りしてゐた時期と重なってそれまた思ひ出深し。けだし私宛ての手紙は、最初においでなさいと呼ばれた絵葉書一枚きりでしたから(笑)。

 みなさまには御身体御自愛のこと御健筆をお祈り申上げ、厚くお礼を申し上げます。
 ありがたうございました。


 さて、読耕が滞ってゐる梁川星巌先生の伝記は、このあと佐久間象山と出会ひ尊王路線を深めてゆく道行きです。日ごろ親炙してゐる「朗読CD」のなかには象山先生の『省[侃言]録せいけんろく』の触りも収めてあって、曰く、
「君子に五の楽しみあり、而して富貴は与らず。一門礼儀を知りて骨肉釁隙なきは一の楽也。」
 またこれも収録の『教育勅語』は、いぶせきこの頃繰り返し聞くうち覚えてしまひました。
「父母に孝に 兄弟に友に 夫婦相和し」
 朝晩般若心経を唱へながら喟然たる日々を送ってをります。

420やす:2009/05/02(土) 11:13:18
(業務連絡)
半月前よりトップページのcounter故障、大凡の数字を足して本日復旧しました。

421やす:2009/06/01(月) 11:50:01
宮田嘯臺翁
 昨日、旧加納宿の当分本陣だった漢詩人宮田嘯臺の旧宅に御挨拶に伺ひ、復刻本『看雲栖詩稿』の全文公開について御承諾いただいた御礼を申し上げるとともに、子孫である佳子様よりは、詩人の遺墨・文献の類を示され、当家に伝はる貴重なお話をお伺ひすることができました。早速、撮影画像を追加させて頂くとともに、この場をもちまして改めて御礼を申し上げます。
 拝見した遺品でびっくりしたのは、復刻された手稿本6冊の他、なほ未公開の漢詩集が1冊あり、多くの「まくり」の類も遺されてゐたことでした。まくりは、岐阜教育大学(岐阜聖徳学園大学)の教授であった故横山寛吾先生が、宮田家を調査された際に筆跡を解読された白文が遺されてゐましたので、テキストに起こして公開、順次読み下してゆければと思ひます。また漢詩のみならず、加納宿の好事家連で巻いた狂歌の写しもまとめられてゐて、こちらは全て佳子様が読み下され、すでに一冊のテキストになってをりました。安永4年(1775年)に25でなくなってゐる詩人の弟(士瑞)が参加してゐることから、狂歌流行の気運のなか、先代を中心とする近所の文学好きのサロンの中で、若き日のユーモアを存分に発揮したものと思はれます。ただ、和歌や芝居の知識も要りさうな江戸時代の狂歌の解釈は私に荷が重いかも(汗)。一例を挙げるとこんな感じ、友人の篠田氏より新蕎麦が送られ、皆で食べた時の模様です。

「花鳥軒の蕎麦切に」

秋なから蕎麦の名代は花鳥軒 はらのはるへ[春の春辺/腹の張る屁]をもてなしにして (霞亭)
扨も扨もこの蕎麦切りの信濃よさ[品の良さ] ほほう見事な花鳥軒とて (州蕷)
花鳥軒たたの鳥とはおもはれす 此ほうちょう[包丁]の手きはみるにも (丁江)
御馳走は花鳥の軒の蕎麦しゃとて はらはるならぬ人とてもなし (滄浪)
花鳥とほうひ[褒美/放屁]のうたのそろいしは 蕎麦にくさみ[ネギ]の取りあわせかも (奈何)
麺盤たるほうちょうときく蕎麦切は くふにしかさるへ[屁]けんどん哉 (奈何)

 蕎麦食べながらの歌会で、誰か大きなおならでもしたんでせうね。奈何は嘯臺翁の父。さても「緡蛮たる黄鳥・・・鳥に如かざる可けんや」を引ッ掛けて洒落のめしてしまふとは磊落な親父さん。二十代とおぼしき翁はこのなかでは(霞亭)の名で時折顔を出します。おそらく脇本陣の詩友、森求玉も混じってゐる筈ですが、どの号が誰なのか判然としません(滄浪は秦滄浪ではないらしいです)。

 当日は少し離れた塋域に立ち寄ることも出来、一日の御縁を墓前にあつく感謝申し上げることができました。訪問記をご覧ください。


 さて、皆様からお送り頂いてをります種々の雑誌、個々に御礼は申し上げてをりますが、ここでの御紹介が久しくお留守になったままでをります。誠に申し訳ありません。殊にも國中治様から4月にお送り頂きました、杉山平一先生の詩業を縦横に論じた論文の数々は、読後感を昨年末に半分書いたまま、継ぎ穂を失ってしまひ、書きあぐんでゐる始末。わたくし事で頭が思考に集中することができず、加之、BookReviewが投書を受けて削除されることもあり、自分のつまらぬ意見よりテキストの紹介に専心した方が、よほど世の為、精神衛生にも適ふと思ったものですから、いましばらく頭を使ふ更新を避け、テキスト紹介作業に集中したい考へです。よろしく御理解賜りたく存じます。

422やす:2009/06/25(木) 23:15:56
『龍山遺稿草稿』と『詩稿』のこと。
 加納の宮田佳子様よりは、ひきつづいて宮田嘯臺の若き日の盟友である左合竜山の詩集『龍山遺稿』の写本草稿と『詩稿』と題された謎の(?) 写本草稿をおあづかりしてゐます。
 『龍山遺稿』の写本は、岐阜県図書館にも昭和16年に寄贈された一冊がすでに所蔵されてゐますが刊本と異同がなく複写本と思はれ、拾遺詩を含んだ原草稿といふのは、編者嘯臺自筆の書き入れとともに、200年前の地元漢詩の新資料発見といふ意味でも、たいへん貴重な文献かと思はれます。
 またもう一冊の『詩稿』と題された文庫本大の写本草稿ですが、裏に嘯臺翁の長子である「宮田[龍共]」といふ名が入ってゐます。普通に考へればこの夭折詩人の自筆草稿といふことになるのですが、途中に現れる「辛巳元年」といふ年号が、宝暦11年(1761)としても文政4年(1821)としても、氏の生没年[明和4年(1767)〜安永9年(1780)]とずれてゐて、合はないのです。後半に「初夏村瀬士錦君見訪」といふ詩があることから、どうやらこれは文政4年、嘯臺翁75歳時の詩稿である可能性が大です。この年の春に翁が村瀬藤城(士錦)の生家である上有知(こうづち:黄土)に自ら赴き、30歳の藤城が礼をもって迎へ、今度は夏に藤城が加納にやってきた。さういふことではないかと思ひます。藤城先生はすでに嘯臺翁の古希(文化13年)に賀詩を贈ってゐます。師である山陽が以前、加納に枉駕したときに与へたといはれる「悪印象※」も、嘯臺翁の中ではもう過去のこととして、人格者村瀬藤城との往来のなかに氷解してゐたことでありませう。
(※文化10年当時34歳だった山陽は、美濃の田舎の宿場町に訪れ、集まった詩人たちを一瞥して「青田のごとし」と評した由。一代前の詩壇が流行させた平易低俗の弊が「擬宋詩」として、新世代詩人たちによって軽蔑され始めた頃ですから、狂俳が蔓延したといはれる美濃の地で嘯臺翁が奉呈した詩の謙譲さといふのは、山陽のためには「単なる文学好きな田舎爺」の媚態とでも映ったのでありませうか。)
 しかし、ならばなぜこの詩稿ノート裏に「宮田[龍共]」と記されてゐるのでせう。これは『三野風雅』に於いて父兄の順に詩人が載せられてゐるなか、三男の精齋が長男のを差し置いて前に記されてゐることや、二人とも同じ吉太郎といふ通称であること(嫡男としての通称を継がせたのかもしれませんが)、ともに謎です。或は多作家と伝へられる嘯臺らしく、息子が作って白紙のまま残してあったノートを、借用して自身の詩稿帳に使用したものかもしれません。

423やす:2009/06/25(木) 23:23:42
つづいて村瀬藤城のこと。
 先日ネット上で偶然村瀬藤城の自筆詩稿を見つけました。眺めてゐたらば、なんと以前BookReview『漢詩閑話 他三篇』で紹介されてゐた地元旧家に伝はる掛軸の詩篇とそっくり同じものを発見。早速その事実を著者の御遺族へ報告し、御挨拶かたがた先日、件の掛軸の写真を撮らせて頂きにお邪魔いたしました。
 往時の長良川の渡し場の面影は、鉄橋と堤防によって偲ぶよすがもありませんが、藤城の詩に記された森鬱たる背後の山や神社はそのままです(写真)。
合せて梁川星巌の詩軸も提示され、現在解読中。ともに故中村竹陽翁の秘蔵品だった由、残念ながら翁の従弟で口語詩人の深尾贇之丞にまつはる資料はありませんでしたが、土地に根ざした文献が、縁りの家に百年以上もそのまま蔵されてゐる有り難さを、しみじみ感じて参りました。
 さて次の日のことですが、偶然頂きものの福井のお土産「織福」といふ和菓子の包み紙に見覚えのある署名をみつけました。村瀬藤城の署名とこんなところで出会へるとは、連日の遭遇にびっくりした次第(笑)。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000568.jpg

424やす:2009/06/30(火) 22:38:48
「口語俳句 新刊号」
 在京時代勤務してをりました下町風俗資料館の元上司、松本和也様より「口語俳句 新刊号」の御寄贈にあづかりました。ここにても厚くお礼申し上げます。ありがたうございました。
 長らく自然消滅状態にあった雑誌の復活は、往年のロックグループの一夜限りの再結成みたいですが、「言うべきことは言っておこうというわがまま」と謙遜される松本館長、否「まつもとかずや」氏らしい節操と節廻しに触れてなつかしく、東京にをりました当時の極貧詩人時代の自分もなつかしく思ひ返されました。もとより作詩上においては180度ことなる立場にあった私ですが、下町の風景が変貌してゆくことに対して、下町風俗資料館ですごした6年間、「いまどきの若い者」なりに心を痛め、今はまた、日本の庶民が当たり前のこととしてゐた生活上の信条さへ、風前の灯下にあることを、ことさら強く感じつつ文章を拝読しました。
 「口語俳句」と「一行詩」とはどこが違ふのか、「口語俳句」と「川柳」とはどこが違ふのか、むかし館長にお尋ねして困らせたことがありました。思ふにそれを「一行詩」として一句ごとにタイトルをつけるのは(そのギャップにポエジーも生れるのですが)事々しく野暮天なのであり、また「川柳」には「あてこすり」はあっても真の批判精神はなかったことを思へば、「鹿火屋」の流れを継ぐ末裔の思ひとして、「川柳」とも一線を画されたのではなかったかと、さう解釈したことと思ひます。戦後民主主義の思想を投入された俳句が、ときに異物を注射された生き物のやうにのた打ち回ってみえることもあり、却ってそんな破調もふくめて「口語俳句」の持ち味として主張してゐるんだらうな、民主主義を前衛する自負と庶民の生活にうごめくエロティシズム、これらが同居した産物として「口語俳句」といふブランドであり、歴史的エコールなんだ、と思ひ至ったことがありました。
「ストリップ嬢の傍らでかぶりつく天皇がいてもいいよね」
 伝統に対する「わがこころのレジスタンス」の最たる一句でせうか。

 しかし「戦争を知らない子どもたち」の世代が老境を迎へ、日本はいまや「戦争を知らない老人たち」が、昔ぢゃあり得なかったやうな情けない事件で世間を騒がす前代未聞の時代に突入して参りました。伝統文化に対して、レジスタンスどころか介護認定をしなくてはならない現状に接して、日本の国はさきの敗戦で切り花のやうに、文化の命運をすでに絶たれてゐたのだらうかとも思はざるを得ません。戦前の面魂を存した斯界の巨匠たちが、たまさか戦後の自由な空気にふれて発火した、最後の燃焼といふべき精神的所産のピークを最後に、日本といふ国は物質的な豊かさと引き換へに精神的にはゆるやかに滅びていったのだと、この頃の私は考へるやうになりました。こんにちの日本文化を代表するとも云はれるアニメブームさへ何かしら、手先が器用だった職人文化の亡霊の仕業に思はれることが多々あります。
 などと、つまらぬ意見を礼状にも認め、大いに頻蹙を買ったことと存じますが(笑)、なにとぞお体御自愛頂き、再び怒りの爆発にむけて御健筆をお祈り申上げます次第です。ありがたうございました。

「口語俳句 新刊号」44p 2009.6.1発行 \500
 〒344-0007 埼玉県春日部市小渕2172口語俳句発行所

425やす:2009/07/13(月) 00:09:02
『マルスの薔薇』
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』166号の御寄贈にあづかりました。荘原照子の伝記は、投稿雑誌『白梅』で三木露風、『婦人之友』で佐藤春夫、『若草』で萩原朔太郎と、雑誌ごとに変容を遂げつつ先輩詩人に認められ、頭角をあらはしてゆく様子を追ひながら、のちに『マルスの薔薇』のなかで仮託して描かれるところの、詩人の生涯を決定づけたといってもよい、青年歌人小川五郎との出会ひと別れについても詳しく触れられてゐます。非常に興味深いです。

 この「マルスの薔薇」といふ小説ですが、導入と締め括りこそ詩的に過ぎる憾みが残るものの、主人公、宍戸タカナをめぐる人物配置の周到さ、実在の恋人からの手紙を思はせる、時衛との往復書簡を挿入する条りなど、処女詩集に収められる習作らしくはない、構想・表現ともに密度の高い散文作品であります。今年は100年祭の太宰治が何かと話題になってゐますが、こんな作品こそ「斜陽」の先行作品と呼んでもいいのではないでせうか。旧家の主人と取巻連はロシア文学を意識して設定されてゐます。主人公が幼児期に見聞きした祖母からの庭訓や、父の嫉妬に纏はる鶏の挿話は封建時代の墨色に彩られ、従兄からの暴虐に「電気に酔はされた蛙の子」になってしまったトラウマの描写にはエロスが漂ひます。彼女が育った一旧家の没落、その様相を綴る際のアレンジには、かう呼んで良いなら大陸モダニズムと日本浪曼派、太宰治といふより、(当時の小説を多く読んだことのない自分ですが、)むしろ安西冬衛や檀一雄を髣髴させます。それをまた、自立を夢見る羸弱な少女の視点を通して語ってゐる訳ですが、最後は唐突に、露天商に身を持ち崩し結核を思はせる病臥の身に主人公を陥れてをり、絶望を袋小路につきつめることで実作者自身は一種の再生を図ったのでせうが、これを「ろまん」と呼ぶには余りに告白の産物に過ぎたのかもしれません。つまり前回も書きましたが、寺の門前で酔ひ潰れる父親の描写など、現実にあったことを脚色して織り込み、赤裸々な恋愛の挫折表白とともに親族の怒りを買って「絶縁」が取り沙汰されたといふことであります。
 詩人らしい一瞬の輝きを形象化したモダニズム女流詩人の奇跡の作品集であることに変はりはありませんが、これが作者「テルちゃん」のあづかりしらないところで秋朱之介によって勝手に編まれてしまったといふ事情を察するなら、新人作家の彼女にとっては、(誤植の多さなどといふことよりも)、あらかじめ飛躍の芽を摘まれる理由を包含しての、不本意な出発を用意されてしまった、そんな側面はなかったのでせうか。次回の連載を楽しみにします。

 また今回、この雑誌の到着と時を同じくして、東京浄土宗の古刹一行院から頂いたメールによって、詩人の祖先の一族のひとりであった、庄原篁暾の塋域が明らかになりました。これも何かの符合を感じて感慨を深くしたことです。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『菱』166号 2009.7.1発行 71p
 〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会 \500

426やす:2009/07/15(水) 22:18:38
『桃』七月号
 山川京子様より『桃』七月号の御寄贈にあづかりました。今回巻末に掲載されたのは詩人山川弘至の母の手紙。昭和18年当時といへば、応召直前の詩人は27歳です。家名顕彰を託すに足る俊英とは云へ、手紙のなかで吾子に対し敬語を使用する萱堂の心映えには、詩人が気高く純粋に育つ基を見る思ひがしました。と同時に、帰省の折の慈愛と孝養と、決して他所の家庭と変るものではないことも分かって心温まる内容。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000572.jpg

427やす:2009/07/19(日) 02:00:51
六曲一双屏風・『聖代春唱』・『三野風雅』異本のこと。
 加納の宮田邸にて、嘯臺翁の染筆に係る立派な六曲一双屏風を拝見させて頂きました。それぞれ詩人の古稀、および八十二歳時に書かれたもので、宮田家の家宝といふより、まさに加納宿の文化財と呼ぶべきものと思はれました。追って詳しく紹介したいと思ひます。

 またお土産に、文政九年80歳の嘯臺翁の序文を戴いた『聖代春唱』といふアンソロジー詩集を賜りました。奥付のない、地元吟社が発行した自費出版の稀覯本です。そしてここになんと「宮田[龍共]」氏の名が再び現れてゐました。彼が宮田家を継ぐことのなかった養子であるらしいことや、また文政4年の『三野風雅』刊行時には死んではゐなかったことなど、これで確かなものになった感じが致します。内題に「九峯童梅龍、姓森名敬け小字菊之助継業(森梅溪)之男」とありますから、題字を書いてゐるのは実に嘯臺翁の畏友、森東門の孫といふことになります。正に『三野風雅』第二冊目に収められた人たちによる続編といった趣きですが、掲載は一人一首、順序も[龍共]氏が翁より前になってゐて、まちまちです。こちらも全文を公開する予定です。

 さて、『三野風雅』といへば、美本の揃ひが最近かわほり堂の古書目録に現れて驚愕しましたが、佳子様が
「県立図書館に寄贈した5冊のセットものとは別に、題簽のないこんな一冊があったんですよ」
 と話題に差し出された本を手にとった私はさらに吃驚。この、『三野風雅』第2冊目と思しき一本ですが、「巻三」に収められてゐる筈の宮田嘯臺翁がなんと「巻二」に収められてゐるではありませんか。つまり本来巻三(19丁)と巻四(16丁)を内容とする筈の第2冊目が、巻二として34丁のページが振られてゐるといふ事実です。おそらく第一冊目を巻一に宛てた為にさうなったに違ひなく、アンソロジーは計画段階では10巻5冊セットではなかったことがわかります。収録詩篇の異同をみると、通行本の巻四の初めに収められてゐる井上正方と、最後に収められてゐる伊藤冠峰が抜けてゐます。井上正方の詩篇は34丁あった巻二を(19丁+16丁)の巻三+巻四に分けた際、追加された1丁に収めたことが分かりますが、末尾の伊藤冠峰のために用意されたスペースは、これがどうみても版木に上から紙をかぶせて「隠して刷った」感じです。さらに奇妙なことを云へば、巻頭もまた「菅原達有功采録 西川軌子範校字」の1行が潰して摺られてゐて、題簽も貼られた形跡がなく、サイズも少しばかり大きい。これはおそらく、まだ「お上の許可」を得てゐない「試し刷り」版の一冊ではないでせうか。収録詩篇の一番多い嘯臺翁には、抜き刷りとして早々に配られたものでありませう。また伊藤冠峰については、載せるべき詩が未だ確定してゐなかったのかもしれません。結局掲載は2編でしたが「被せ」は丁の最後まで及んでゐます。遺族との「著作権交渉」がクリアされてゐなかったか、34年も前に亡くなってゐる冠峰の拾遺詩はうまく輯まらなかったのでせう。掲載された2編「読史」と「石川太乙過訪喜賦」は、「詩集を刊行してゐる人は新作か拾遺を収める」といふ編集方針に違ひ、冠峰の詩集『緑竹園詩集』に収録の詩篇です。この詩集には金龍道人の序があり、道人を先輩と仰ぐ翁と冠峰との交流も活発だったことが確認できます (163「春日宮田贈子(ママ)祥」199「次韻宮田士祥兼呈弟士瑞」455「和宮田士祥雨後作」など)、看雲文庫に『緑竹園詩集』はありませんでしたが、もしや嘯臺翁に憚る処あって刊行者津坂拙脩が、この抜き刷り印刷の際に配慮して削除したと考へたのは穿ちに過ぎたやうです。
 とまれ大変興味深い出版資料なので、これまた別に全頁を公開したいと思ひます。お待ち下さい。

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428やす:2009/07/28(火) 22:46:05
山川弘至記念館増築
 日曜日、郡上市にある山川弘至記念館増築竣工のお披露目にお招き与りました。悪天候にも拘らず歌誌「桃」同人の皆さんが多数参集され、主宰の山川京子氏の晴れ女の神通力の効あって、歌碑参拝と展示見学の間だけは篠突く雨も上がるといふ奇跡に恵まれました。

 この記念館、奥美濃旧高鷲村にある詩人の実家が独力で建設せられた、石碑と対をなす詩人を景仰する「祠」と呼ぶべき建物であることは、3年前の開館時にすでに述べたところですが、少時から28歳の戦死に至るまでの吾子ゆかりの品々を大切に保管せられた萱堂の慈愛と、歌誌「桃」を興し、やまと歌の道統を亡き夫の志とともに半世紀かたくなに墨守された京子氏の純愛と、それらを俟って初めて実現を見た「祈念館」とよぶべき性質の資料館であることを、今回の訪問で再び強く味はひました。それは一人の若い戦没知識人を顕彰しながら、決してひとりのものではない、稀有な愛情に貫かれた兵隊遺族の心情が、戦後変はり果ててしまった日本人の国家観の喉元に突き付け続けてゐる「匕首」であるのには違ひなく、志なかばに斃れた詩人国学者の矜恃と無念とを、同時に守り鎮めんとする館設立の趣旨といふのは、これを文学館と呼ぶより、確かに靖国神社と変はらぬもののやうにも思はれるのであります。明るい木のぬくもりの感じられる新展示室で、歩兵操典の字句を書き綴った手帳に涙する見学者の婦人の隣にあって、殊更さう思はれたことです。
 建立が、さうして詩人を殉教者として尊ぶ人々や、辛くも歌によって自らを支へてこられた御遺族の心映えをうつして、英霊の故郷「ふるくに」と呼んで差し支へない日本の農村風景を今も伝へる山深い村里になされたことは、来館者の多寡に拘わらず、里帰りを果たした詩人の安らぎとしてここに特筆すべきことであります。
 今後は、さきに開館した「蔵」を別館、今回草庵を拡張した展示室を「本館」と呼ぶことになるさうです。このたびの増築によって、詩人の旧蔵書900冊が京子氏が寄贈した400冊と一緒に保管されることとなり、その文業の拠りどころとなった師友の人々とともに俯瞰できる展示にしたいとは、事務方一切を引き受けてをられる野田安平氏の抱負でした。尤も整理にはまだまだ時間もかかり、とりわけ酸性紙に印刷された資料については劣化が進行中であり、現状の記録と、山奥まで足を運ばれない人たちに対する公開を兼ねた電子化作業が、ホームページ開設を前提に俟たれるところです。しかしながら精神的支柱である京子氏の全幅の信頼のもとに、野田さんが着実に進められる活動の様子を実見することができたことは嬉しく、この深い山林の中にひっそりと佇む文学館が、地方行政による「ハコモノ」とは全く違ふ形で日本の精神史の断絶面を保存するタイムカプセルのやうに存続してゆくだらうことには、深い安堵を感じた次第。山霧に包まれた奥美濃の深緑を堪能した一日となりましたが、翌日は京子氏の米寿のお祝ひかたがた歌会も催された由、ここにても感謝とともにお慶び申上げます。ありがたうございました。

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429やす:2009/07/30(木) 22:29:54
林富土馬と山川弘至
 碓井雄一様より『近代文学資料と試論』終刊号をお送り頂きました。当初からの予定で10号をもって区切りをつけられたわけですが、連載「林富士馬・資料と考察」の記念すべき最後は、詩人の単行本一覧と紹介に充てられることになりました(見送りになった、碓井さん宛の林富士馬書簡紹介は心惹かれますね)。かうして一覧してみますと、いづれの詩集にも長い序跋を、自ら書き、また師友からも戴いてゐることが、殊更この詩人に似つかはしい、浪曼派風の仕儀であることがよく察せられます。つまり大切にされるのは文人の矜恃と友情。前回書いた山川弘至とは、昭和17年に同人誌『まほろば』を創刊してゐるのですが、『天性』と『帰郷者』の2誌が合流したといふ事情のなかで、それぞれ両極にあった二人は、親しく交はるところがあったのでせうか。碓井さんや山川記念館の情報から検証してみたい関心事です。ともに浪曼派らしい人柄を感じるものの、ディレッタントとして戦後文壇から距離を置いた林富士馬には、師であった山岸外史の無頼派の視線と、伊東静雄のイロニイに富んだ市井人の視線と、双方を按配した韜晦の気分が感じられ、一方の山川弘至には、先人保田與重郎のさらに向ふ、国学に邁進して潔癖さゆゑに自決した蓮田善明の面影が重なります。山川弘至は自ら命を絶った訳ではなく、断たれた学者としての可能性が惜しまれてなりませんが、退ッ引きならぬ気分は当時同人たち全員に共有のもので、ことさら違ひを説くのは結果論に引きづられた言いざまかもしれません。
 ただ、ともに素封家の長男であったものの、田舎と都会の違ひといふのはあったでせう。これは山川弘至と増田晃を対比する際にも思はれることですが、林富士馬が父を介して佐藤春夫をはじめ伊東静雄や太宰治の知遇を得、昭和14年に早々と『誕生日』と命名された処女詩集を刊行して「詩人の出発」をなしたのは、同人たちにはさぞ羨ましく映ったことでありませうし、年令も僅かに皆より先輩であった彼にして、恵まれすぎた条件が却ってロマン派文学者として立つための宿命=憧憬の根となるべきモチベーションを奪ひ去ってしまったといふのは、御本人が一番自覚してをられたかもしれません。戦後、自らの浪曼派の祝祭の記憶から皇国史観をとり除いていった詩人には、いったい何が残されたのでありませうか。もう一世代前の先輩が味はった、逃げ隠れできぬ社会的敗北を背負はされた方が、却って新しい文学的な動機付けになり得たかもしれません。晴れがましい出発の記憶だけがついに詩人としての存在理由を強く規定するやうになった、とは言ひ過ぎかもしれませんが、文壇外にあって文学に臨む姿勢を語り続けた詩人は、三島由紀夫のやうな野心ある後進にとって、やがて物足りなく感じられ遠ざけられることになります。本分が開業医であった詩人にとって、学者・教育者として文学に係ることもままならず、さりとてこの一筋に繋がる決意は確かなものだったと、生涯文学青年の志を大切にされたスタンスといふのは、現在、一図書館員の身分にすぎぬ自分にとっては、やはり羨ましく思ふところなのですが、碓井さんがどのやうなお考へなのか伺ってみたいです。前誌『登起志久』から数へて11年になります。師への献身が、次にどのやうな形をとって顕れるのかを、楽しみに待ちたいと存じます。

 収録はほかにも初期の森鴎外を連載攻究してこられた小平克氏の論文や、伊東静雄や四季派研究で著名な米倉巌氏による佐藤一英の言論を追った珍しい論考。

 まことにお疲れ様でございました。そして長らく御寄贈を賜りましたことを、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『近代文学資料と試論』10号終刊号 2009.6.29「近代文学資料と試論」の会刊行
【目次】
森鶴外『普請中』と「舞姫事件」−『普請中』の本文読解とトポス的読解− 小平克 1-29p
『詩と詩論』における佐藤一英の言説 −(付論)詩学の現在と詩的言語− 米倉巌 30-46p
芥川龍之介「青年と死と」論 −〈大正〉的言説との関わりから− 乾英治郎 47-59p
林富土馬・資料と考察 −(七)単行本一覧、作品の紹介も少し− 碓井雄一 60-85p
後記 86p

430やす:2009/08/12(水) 00:35:58
『新編 丸山薫全集 全6巻』
 『新編 丸山薫全集 全6巻』が刊行された由、週刊新聞「読書人」で知りました。此度も編集に携はった潮流社の八木憲爾会長が祝辞をよせてをられます。職場に国文学科はなくなってしまひましたが、教科書とも所縁の深い詩人であることから、図書館にも収めて頂けることになりました。追加される第6巻目が「補遺」の域を出た、非常に内容の濃いものであるといふ事で大変楽しみです。

 丸山薫は、堀辰雄、三好達治とならんで雑誌「四季」の創刊同人ですが、自ら「四季」の詩史上の位置や意義について、昭和28年に出た創元版文庫のアンソロジー『日本詩人全集(第8巻)』の解説のなかで語ってゐます。しかし同じく『日本現代詩大系(河出書房:第9巻)』で解説を書いてゐる三好達治とは違って、「四季派」と呼ばれてゐることを追認した上で、当時戦犯の張本人扱ひだった保田與重郎と「コギト」の名を出し、いみじき評言で両者の結びつきを語り、総括を行ってゐるのです。これは書かれた時代をおもへば非常に思ひ切った立言であり、私は最初読んだときに非常な驚きと、「この人の言ふことは信じられる」といふ信頼の気分に包まれたことを思ひ出します。
 しかも他のインテリ詩人たちのやうには外国語を弄しなかったに拘らず、主知的かつコスモポリタンな詩想を道徳のやうに堅持し、常に若い詩人たちの動向にも注意を払ってきました。戦後豊橋に隠棲したのを機に、地元の詩人会に引っ張り出され会長に推されるのですが、現代詩が猖獗を極めたこの東海地区で、おそらく「取り仕切る」やうな野暮は何一つせず、非常に詩風の離れた詩人や、カリスマ性とは縁のない散文作家、小田実、城山三郎といった後進の人達からも慕はれてゐたやうです。「朝鮮」といふ詩を戦前に書き示した詩人にして納得しつつ、それはイデオロギーの産物ではない、上記の、抒情の正統を推進し得た自負の表明と合はせて、「肥った静かな重量感の人柄」の絶妙の重心を思ふのであります。
 本来が「四季」の創刊同人といふ「伝説的人物」であって然るべき人物ながら、非常に現代的なイメージも伴ふのは、そんなところにありませうか。愛知大学の講師もされてゐた由、世に伝はる署名も筆よりサインペンが多い(ただ自分のがさう 笑)気がします。

 期間限定特価、分売不可の由。以上、勝手気ままな報知宣伝です。

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431やす:2009/08/26(水) 21:15:42
『朔』166号
 圓子哲雄様より『朔』166号の御寄贈に与りました。今号は和泉幸一郎の未公開資料として、自筆書入れのある同人誌の切り抜きが写真版で公開されてゐます。これによれば遺稿集『母の紋』がまとめられた際、編者はこれらの訂正を見ることなく初出に拠った模様です。誌名が分からぬのは残念ですが、かうした細々した戦前の資料が途切れることなく発表されるネットワークを、現在ひとりで支へてをられる御苦労を偲びます。パソコンはされないといふことですが、いまインターネットで「圓子哲雄」と検索しますと、青森県近代文学館ホームページの「青森県ゆかりの作家」や、また朝日新聞ホームページでは、圓子さんがこの夏語られた、詩人村次郎についての記事などを閲覧することができます。御年79歳と伺ひ、あらためて御自愛を祈らずにはゐられません。
 それはまた、戦時中の青春時代を惜しみなく回想する小山正孝夫人常子氏も同様で、こちらは卆寿を迎へられるとのこと。詩人との出会ひの一瞬を、今もまざまざと心にとめてをられる、その心の若やぎに目を瞠りました。一体にシニカルな詩人に嫁いだ妻といふのは、耐へるばかりの人生かと思はれがちですが、文章を信ずる限り、どうやら田中克己先生とは次元の異なるラブロマンスを体験されたやうでもあります。田中先生の奥様に、いま少しの年月が許されたなら、きっと楽しいお話を沢山書いて頂けたことと、と常子氏の文章を読むたびに思はれてなりません。
 ともに御身体ご自愛頂き、御健筆をお祈り申し上げます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

432やす:2009/09/13(日) 13:21:43
『新編 丸山薫全集 全6巻』その2
 『新編丸山薫全集』が到着しました。早速「補遺」の第6巻目をぺらぺらめくってゐます。加納高校ほか、岐阜県の学校の校歌を作詞されてゐたとは知りませんでした。地元がらみでは「うかいのうた」なんて詞も収録。(『中部日本新聞』昭和30年5月30日号)

「うかいのうた」

ながれを くだる うかいぶね
えぼしの おじさん つなもって
ホーホーホイと こえ かけりゃ
てじなの ような はやわざで
みずを くぐって アユをとる
ふしぎな とりよ うのむれよ
あれ また くぐる それとった
へさきの かがりび もえたって
きらりと おどる ぎんのいろ
けれども うしょうに たぐられて
せっかく のんだ そのサカナ
のどから みんな はいてだす
はいては のんで またもはく
なんびき たべても ハラペコの
うのとり くろい よるのとり(93p)


 「座談会」記録や「来翰集」も興味深いです。亡き盟友三好達治の詩業を俯瞰して、詩篇ごとに詳しいコメントを付した50ページ余りは、原本が『世界の名詩9 三好達治詩集』(講談社1969)と聞くと、なんだか古本屋の平台にうち捨てられてゐさうな本でありがたみが感じられないのですが、かうして全集にまとめられると貴重で、ハッとさせられますね(429-481p)。また『新しい詩の本』(筑摩書房1952)といふ入門書で子供向けに詩を説いてゐるのも、戦前の口語抒情詩人たち作品から、どんなテキストが選ばれたかといふ興味とともに、易しいながら的確な解釈が、山形の小学校の教鞭をとったそのままの肉声として伝はってくるやうです。

「風と花(田中克己)」

 これはおとうさんの気持ちをのべた詩です。この本のはじめのほうでのべた「たかの羽(※永瀬清子)」という詩が、わが子への希望にみちたおかあさんの詩だったのとははんたいに、「風と花」は、子どもをなくしたかなしいおとうさんの詩です。
 このおとうさんがなぜかなしいかは、詩を読めば、だれにでもすぐわかります。どんなふうにかなしいか、どのくらいかなしいかが、あじわってみたいところです。
 風の吹く日に子どもが死んだので、風の音がきこえる夜には、子どもをおもいだします。死ぬまぎわに子どものいったことばをおもいおこすからです。季節は春になって、いろんな花が咲くのに、このおとうさんの気持は、そとの明かるいのとははんたいに、いいえ、明かるければ明かるいほど、なおいっそうかなしいのです。ある日、庭の大きな木蓮の木に花がさいたのでその木の下でよくあそんだ子どものことをおもいだして、いよいよたまらなくなりました。そしてその晩、ねていると、死ぬときにいった子どもの声が、ほんとうに耳にきこえたようにおもいました。いそいではねおきて、雨戸をあけてみると、風がきて、木蓮の大きな花びらがポタリとおちるところでした。
 春には花が咲きます。花は、草や木の、明かるいいのちのしるしです。ところで、いけないことに、春には風がよくふきます。風はむごたらしく、その明かるいいのちのしるしを散らしていきます。この花と風との二つのもののとりあわせが、子どもをなくしたおとうさんのかなしみを、読む人にもわかるように生かしています。そこのところをあじわってください。
 うれしい心も詩になります。かなしい心も詩になります。かなしい心を詩にあらわして、読む人にわかってもらうことで、このおとうさんの気持も、いくらかははれたことでしょう。
子どものことばだけをかたかなにしたのは、そのほうが、おさない子どもの気分があらわれると、作者が考えたからです。(400-401p)

 そして今回の編集では初めて、戦時中の「愛国詩」群も公開されることになったのですが、30年ぶりの全集の意義といふか、心残りに対しての清算といふか、目玉には違ひないのですが、私はこれを分売不可とした理由のひとつぢゃないかとさへ思ったことです。前回編集時にお蔵入りとなった愛国少年詩集『つよい日本』(国民図書刊行会1944)をはじめ、雑文でも、例へば山川弘至と杉山平一といふ二人を並べて誉める書評なんかが収められてゐます。尤も考へてみれば、お二人とも処女詩集を戦時中に刊行せざるを得なかった同世代の詩人なのですから驚くことではないのでせうが…。

「新らしき個性…-近刊詩集の感想」(『日本読書新聞』昭和18年3月20日号)

 詩が自己のはげしく郷愁するこころから出發する。詩が自已のはげしく憎むこころから立ち上がる。またはげしく憧れるこころから歌ひ出す。しかもそれらの個人の憧れなり、憎みなり、郷愁なりが、そのままに國土への郷愁なり、民族の憧れなり憎しみにつながる。國土に生ふる草木のなかの一本として郷愁し、民族の中のひとりの自己として憧れ悩む。――民族の血の中の一血球としてこころ――國土の相貌を帶びる一個性としての性格――さうした詩がいま若い詩人たちの中から生れやうとしてゐる。
 まほろば叢書(大日本百科全書刊行會)の「ふるくに」(山川弘至)を手にして、僕はこんな理想論的なことを感じてゐる。ここには單にいまの若い人達の誰しもが一應抱いてゐる國家とか民族とか郷土とかの觀念はない。詩人はやはりみづからに發する情緒で歌ひ、それは飽くまでみづからの個性に終始するがごとくにうけとれる。にも拘らず、それら個性をとほしたもののひびきは悉く波紋してより大きな、よりひろい彼岸にまで共鳴する。かうした大■な詩の効果は、やはりその詩人の個性の「在り方」に由來するものとしか思はれないのだ。(■不詳)
 嘗て理想を見失ひかけた一時代があつて、その現(うつし)みの中に時代と全く切り離されたが如き詩人の個性が無方向にポツンと存在した。詩はその個性に孑孑(ぼうふら)が湧くやうに發生し、その個性に閉じこもることによつて個性をすら失つてゐた。それと反對に、いまや明かに一つの目覺ましい黎明がきてゐる。日本がうごき、世界が動くときに、世界の脈搏の中にある日本と、日本の脈搏の中にあるみづからを感じることによつて、詩は詩人のそれぞれの個性をとほして、その個性が代表する、より大きな民族の聲音にまでも達しやうとしてゐるのだ。
 別の例として杉山平一の「夜學生」(京都市左京區田中門前町第一藝文社)をとらう。
ここには愛情をもつ詩人の個性からする二つの異なつた方向をとる反射がある。一つは詩人みづからと、みづからと同じ時代と環境に育つた知識人に對するものであり、一つは詩人のはたらく一工場の勞務者達へ向けられたものである。この二つの反射は屈折に富むこの詩人の個性をとほしてそれぞれに、微笑ましく巧みな作品を作り上げてゐる。しかもその現れが詩人の個性をいつさうはつきりと示してゐるかといふ問題になるなら、僕は躊躇なく後者の系列にある作品を數へるであらう。
 詩人の個性の位置は現実の只中にあるべきだ。みづから狹めることなく、思ひ切つてもののまん中に置かねばならない。(496-497p)

 安智史氏による解説(749-762p)でも、これまでの批評家たちが避けてきた部分、すなはち丸山薫が「純粋詩人」と「公的要請に係る詩人」の二面で身を処してきた結果としての、戦時中の社会的責任の自覚についてが踏み込んで語られてゐるのですが、もはや「戦争詩即ち悪」といふ図式的な偏見が無効である現在、この解説のなかではむしろ「大正期民衆詩人たちが主張した詩の民衆化の理念を、戦後から大衆社会にむかおうとする社会状況の中で、図らずも拡大再生産する立場に立った、といえる側面もあるだろう(762p)」と、戦後、豊橋に隠棲した後の地域活動に対して、はっきりした物言ひがなされてゐます。確かに校歌の作詞や「うかいのうた」なんてのはその産物でせうし、もっと云へば、中央に現れた若い戦後現代詩詩人たちの作品に賛意を送る「進取の気性」は、昭和15年当時のヒトラーに寄せた期待(560p)と、そんなに根が違はないやうに私には思はれる。また戦前に「朝鮮」といふ詩に発露した詩人の自覚が、無名のファンだった小田実少年の出世を喜ぶ(379p)一方で、中河與一の人と文学を擁護する一文ともなる(340p)。しかしそれは天邪鬼でなく日和見でもなく、恒産者でない詩人、外国語も堪能ではなかった丸山薫が守った誠実さの表れ方だったと、私は思ってゐます。ここから窺へるのはただ、時代とともにありながら右往左往しない人間性への信頼とも呼ぶべきものではないでせうか。頂点を見定め難い「山容」に生える雑多な草木が、二段組で1032pもあるこの「補遺巻」一冊にはびっしり植わってあって、従来の「丸くて大きな山」といふ表敬的な印象をかきわけて、実地に入り込むことができるやうになった、といふのが私の感想です。

 ただ、この一巻の為に分売不可の全6冊を抱き合はせで買はなくてはならないのはよいとして(笑)、残念なのは、『中原中也全集』のときと同様、造本が並装になってしまったこと、各巻巻頭に写真が一葉も収められなかったこと、そして私の大好きな(笑)「月報」がなかったことでした。さきに出た全集をそのまま再刷して付すなら、写真や月報もなければ仕切り直しにはなりませんし、前回と同じ装釘でこの6巻目だけを刊行したらよかったのです。いっそ別巻として、写真をあつめた「文学アルバム」、さらに第4次「四季」終刊号で行はれた追悼文を補完して「回顧」の巻など望みたいところですが、現在詩人の顕彰を街ぐるみで行ってゐる豊橋市の力を俟ちたいですね。

433萌葱:2009/09/19(土) 17:08:14
お尋ね
 亡父がこの分野の仕事に関係しておりましたこともあってか、父宛にお手紙をいただき、何とかその方の思いを叶えたいと図書館などあたりましたが、見つかりません。ご存知ならば教えていただけませんでしょうか。

 大正10年6月頃創刊の「かぎろい」という詩歌誌について。第4号まで出されているようですが。(山口県近代文学年表、97、226頁に記録があるようです)この「かぎろい」に故 野上巌(新島 繁)氏が当時 短歌など寄稿されていたようで 足跡を調べておられるようです。

 突然のお尋ね申し訳ありません。もしご存知でなければ、どのように探ればよいか教えていただけないでしょうか。

434やす:2009/09/19(土) 21:05:43
(無題)
こんばんは、萌葱さん、こちらではおしさしぶりです。
お訊ねの雑誌「かぎろい」は、「コギト」の前身、大阪高等学校の「かぎろひ」ではないのですね。
すでに検索済かとは存じますが、国会図書館、日本近代文学館、神奈川県立近代文学館等にもない雑誌です。
書誌に言及する『山口県近代文学年表』が、すでに30年以上前の刊行ですから、公の機関に寄贈されてゐないとすれば、
原本は、お持ちだった執筆者の手許からも散逸してゐる可能性が高いのでせう。
不取敢は山口県立図書館宛にメールで手掛かりを問ひ合はせられては如何でせうか。映画で話題になった地元人物についてのことですし、
県立のレファレンスカウンターなら、調べた結果を詳しく報告して下さる筈です。
勿論連絡先アドレスをリンクされれば、この掲示板からも御存じの方には直接お知らせ頂けるかもしれません。
拙サイトの守備範囲でない詩人ですが、社会的改良を志すことが文学者の良心として命じられてゐた時代の詩業です。調査結果が集成されれば喜ばしいことですね。
以上、私個人ではお力になれさうもなく、面目ありません。ありがたうございました。

435萌葱:2009/09/19(土) 21:52:34
ありがとうございます
 ご丁寧なお返事ありがとうございます。お察しの通りまともなルートでは見つかりそうもなく、かえって闘志が?(苦笑)わきます。地元を攻撃してみようと思います。
 掲示板を汚して申し訳ありませんでした。

436(モ):2009/09/19(土) 22:22:44
(無題)
通りすがりですが…『ポエチカ』にちょいちょい「野上巌」の名前が見えますね。
http://www.geocities.jp/moonymoonman/i/poetica.txt

437やす:2009/09/19(土) 23:12:39
(無題)
モダボ隊長、ナイスフォローありがたうございました。
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/HolderList?txt_docid=NCID%3AAN10555392

438やす:2009/09/23(水) 15:39:28
彼岸の中日
 どこにも遊びに行けなかった連休の最終日は先考の展墓。祝日法でも秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」といふ趣旨なのであるらしい。戦前は「秋季皇霊祭」といふ名でしたが、これは明治になって歴代天皇の忌日をまとめて奉祀するために作った新しい祝日だったやうです。ぢゃあ江戸時代はどう天皇をお祀りしてゐたのでせう。
 神仏混交の時代、天皇家も仏式で葬儀供養が行はれてゐた訳ですが、写真は、先週『五経』の揃ひを買った際に「おまけ」で付けてくれた折本です。中には崩御した天皇が日にち順に列挙してあるだけ。発行元は八幡様の総本社である宇佐神宮のやうです。
 これを見ますと・・・つまり三十日以外の毎日が誰かの命日なんですね。開巻劈頭、天照皇大神から天忍穂耳尊〜日向三代の計五柱の御名をつらね、神武天皇が朔日に薨じたといふところから始まってゐます(旧蔵者は「暦ニハ見ヘズ」と頭書)。おそらく神事と関係するのでせう、晦には該当者がをられぬことになってゐるのも意味深です。
 天皇家の菩提寺とは別に、江戸時代も神社ではこんな記録をもとに何らかの「日々のおつとめ」を行ってゐたのでありませうか。さうして当時の庶民は、これ買って一体どうしてたんでせうね。
 とまれ、珍しい「おまけ」付きの『五経』11冊の揃ひはなんと\1000でした。こちらの方は、読めもしない私が買って一体どうしたものかと(苦笑)……最近の収集物から、でした。

『天皇御崩日記』安政6年3月15日 豊前國宇佐宮 岩坂大神健平 謹撰

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439やす:2009/10/04(日) 20:59:48
寄贈御礼
 手皮小四郎様よりモダニズム詩人荘原照子の伝記を載せる『菱』167号の御寄贈にあづかりました。
 文学の先輩、小川五郎との生涯最大の恋愛と失恋につづいて、峠田頼吉といふ牧師と結婚(駆け落ち)したといふこと、詩人が時に峠田照子と記されてゐる理由を初めて知りました。もとより詩人に関するプライベートな略歴さへ詳らかにしない私にとって、手皮様の筆に上る報告はすべて驚きの連続な訳でありますが、今回は稀覯本『マルスの薔薇』に纏はる世間の誤解を解く見解も示されてをり、胸がスッとする心地を覚えたことです。

 昭和四十二年の夏、荘原の生存を報じた新聞や週刊誌は、必ずといっていいほど、『マルスの薔薇』と御真影一件を記事に織り込んだ。そして「札付きの危険思想家」「特高警察と憲兵が監視」等といった解説と相侯って、なにかこの小説が反骨のモダニズム女流詩人によって書かれた、当時の世相に対する痛烈な風刺の書であるかのような印象を与えた。
 もっとも『マルスの薔葎』といっても、それを読み記憶している人間が居るとしたら、それはもう奇蹟に近いようなことで、ほとんど知ることがない。中国との全面戦争に突入する大日本帝国の軍人を邪揄したものだと言われれば、そういう筋金入りの小説なのかと畏敬をもって彼女を思い出すだけだ。
 ところが、この稀書をいくら読み返してみても「危険思想の持ち主が書いた危険な小説」とは思えない。 御真影を売り歩く木場女史の話にしても、タネを明かせば、この小説をモダニズム文学らしく装うために仕掛けた細工の一つのような気がする。
 ぼくには徹頭徹尾、宍戸タカナと時衛の恋物語に終始しているとしか映らない。タカナと時衛の物語 ──それはすなわち彼女自らが語ったように、荘原と小川五郎の物語だった。

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

440やす:2009/10/21(水) 11:52:25
代休日記
【その1】
月曜日、地元図書館の研修会で関西大学図書館まで視察に行って参りました。ここには前から気になってゐた『五山堂詩話』の初刷り本と思しき10冊本が所蔵されてゐることが分かってゐたので、見学の合間に是非その本物を実見できたらと念じてゐたのですが、当日の申請は残念ながら却下。帰還後メールで各巻の奥付情報についてレファレンスを試みたのですが・・・版本に記された正確な刊行者名を訊ねることはレファレンスの範囲外とのことで、受け付けてもらへませんでした。重ねて残念です。

【その2】
まだ手にとってをりませんが、川島幸希氏『初版本伝説』無事出版の由、お慶び申上げます(予約者には31日以降手渡しとのこと)。
初版本・・・近頃は、「初刷本」には興味があるんですが(笑)、近代文学の本を殆ど買はなくなってしまひました。「ちょっと中身を見てみたい」程度の熱意では自分の手に届きさうな本も少なくなり、たうとう某書林の目録さへ来なくなってしまった次第。思ひ当たる節もありますが、むしろ何も買ってないのにこれまでよく送って下さったといふ気持。けだし古書価暴落の今日にも、極少量の供給しかないこの初版本の世界だけは、格差社会の勝ち組顧客によって値崩れもなく安泰のやうに思ひなしてゐたのですが、よくよく考へてみればこんな地味なコレクションに血道を上げる成金がゐるとも思はれず、今号の「古書通信」対談記事でも皆さんボヤいておいででしたが、本屋さんも経営の合理化を余儀なくされてゐる最中なのでありませう。
(尤も我が書庫にも、もう本のおさまるスペースはなく、漢詩文の注釈書も山のやうに溜まってゐますから、これ読む(理解する)だけで余生は潰れるでせうね。)

【その3】
まだ行ってをりませんが、文化のみち二葉館にて 「佐藤一英の足跡」展が始まりました由。御案内を頂きましたので早速紹介。
稀覯本の第一詩集『晴天』や『大和し美し』(ボン書店刊)の書影を飾った古書目録に胸ときめかした頃が、懐かしく思ひ起こされます。

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