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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
441
:
やす
:2009/10/24(土) 20:19:17
佐藤一英展
文化のみち二葉館で開催中の佐藤一英展を見て参りました。チラシの書影写真が寂しかったのは間に合はなかっただけで、『晴天』「青騎士」といった稀覯本のほか、切手になった油絵の肖像画など、御遺族保管の資料を中心に充実した展示と存じました。 写真upします。
帰途、名古屋で和本を扱ふ古本屋さんに。先日の目録で地元漢詩集が売り切れだった悔しさを滲ませてゐると、御店主がおもむろに、そんなマイナーな詩集注文してくるのはいつも3人で、うち一人は「キャンベルさん」だよと聞いてびっくり。スッキリ諦められました(笑)。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000588.jpg
442
:
やす
:2009/11/04(水) 23:35:42
近況
今週上京を予定してゐたのですが、家庭の都合でゆけなくなりました。
高価な詩集や掛軸を注文してバチがあたったかな。
神田古本まつりもあった先週行っておけばよかったのですが、残念です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000589M.jpg
443
:
:2009/11/16(月) 21:35:34
明治・大正期の文人写真
秦鼎の書の解読では、大変お世話になりました。
引き続き、地元の「図録」誌の準備を進めています。先般、旧家から、添付の写真が提供されました。この写真の裏書にある方々のうち、「土方久元」は最前列左から三人目と思われますが「細川文学博士」「坂 正臣」「藤沢南岳」はどの人か不明です。(但し、土方・坂・藤沢の略歴は知ることができました。)研究範疇から外れているかも知れませんが、何かご教授願えることがあればよろしくお願いします。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000590.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000590_2.jpg
444
:
やす
:2009/11/17(火) 09:32:00
(無題)
お早うございます。熊崎さま、御無沙汰してをります。
人物の顔など全く分かりませんが、「細川」は「細川潤次郎」といふひとでせうか。
またその下に「御奇(寄?)所良?事」とあるのは、或は「御器所ごきそ良事」といふ名前なのかもしれませんが、坂・藤沢両翁よりも前に記されてゐるのはどういふことなのか。名なら有名人でなければいけませんが、ネットでは引っ掛かってきませんね。
大正2年8月23日
中山七里探勝飛騨国漫遊、三留[して]下原村出身之人
加藤鎮之助氏ニ案内セシメシ。伯爵土方久元男爵
細川文学博士、御奇所(御器所?)良事、坂正臣、藤沢南岳翁
東西日本画家四名其他随行四名、本村通過之際
益田郡係勝会員本村有志者相謀リ迎ヘテ、孝池水畔
ニ昼食ヲ供シタル際時ノ記念撮影、写真技師
金山町山口真一氏
写真は推測するより仕方ありません。不取敢ネット上の情報を添付します。
土方 久元(天保4年1833 - 大正7年1918) 最前列左から4人目?
http://homepage2.nifty.com/ryomado/Portrait01/po_hizikata.gif
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/hijikatahisamoto/hijikatahisamoto.htm
細川 潤次郎(天保5年1834 -大正12年1923) 最前列左から3人目?
http://archives.cf.ocha.ac.jp/exhibition/a_ph_021-0070.html
阪 正臣(安政2年1855 - 昭和6年1931)最前列右から2人目?
http://www.urban.ne.jp/home/festa/ban.htm
http://www.rakutai.co.jp/etc/yamashiro/img/093/0931.jpg
藤沢 南岳(天保13年1842 -大正9年1920)の画像はみつかりませんでした。自宅図書館員のレファレンスの限界です。
以上本日フレックス出勤にて、自宅よりとりいそぎの返信まで。以降の御連絡はメールでも結構です。ありがたうございました。
445
:
やす
:2009/11/17(火) 22:57:50
訂正
「御奇(寄?)所良?事、坂正臣」→「御哥所主事、坂正臣」
熊崎様ありがたうございました。
446
:
やす
:2009/11/19(木) 23:20:20
『桃』終刊のこと
山川京子様より『桃』十一月号の寄贈にあづかりました。ここにても御礼申上げます。誠にありがたうございました。
巻末御挨拶にて、来年の三月号をもって創刊五十五年、六百余号の雑誌の歴史に幕が下ろされることが発表されてゐて、まづ仰天。ものごとには何でもをはりがあること、分かってゐても、この雑誌は志を継ぐ人々に託され、名前を変へることなく灯を掲げ続けるものと思ってをりました。今夏奥美濃で行はれた記念館増築のお祝ひの、にぎやかな集ひにも立ち会ってゐましたから、京子氏が親ら終刊を裁可されるなど、思ってもをりませんでした。
私が田中克己先生の不肖の弟子であることをふりかざし、桃の会の御縁を忝くしまたのは、思へば郷土の先達詩人山川弘至の『遺文集』『こだま』『山川の音』といった著作集が立て続けに刊行され、会が記念館設立に向けてもっとも活溌に活動してゐた時期でありました。私は京子氏今生の思ひの結実を、まざまざと目の当たりにしてをりながら『桃』の刊行にせよ、なにか空気のやうな当たり前のことのやうに思ひなして居ったやうです。記念館の資料管理についても、差しでがましい助言を申し上げたことなど、はづかしく思ひ返されることです。
作法など何も知りませんが、一首。
長良川つきぬ思ひのみなもとに みのりし桃をたれか享くべき
447
:
TeX
:2009/11/21(土) 18:23:36
Re: 明治・大正期の文人写真
藤沢南岳先生は、一番左の人?
通天閣こぼれ話
http://www.tsutenkaku.co.jp/shiryo/data.html
(写真:1986年3月25日付朝日新聞の記事)
448
:
やす
:2009/11/21(土) 21:23:21
(無題)
TeXさま、ありがたうございます。
たしかに、さうかも知れませんね。
(それにしても20年後、私も翁達のやうな顔になりたいものであります。)
449
:
:2009/11/22(日) 09:56:54
藤沢南岳翁の件
TeXさま、ご指摘ありがとうございました。朝日新聞を手に入れてみたいと思います。
もう一人、加藤鎮之助は、地元(現下呂市金山町)出身の人ですから、お顔を確認したいと思っています。加藤素毛の甥ですので、加藤素毛記念館の中島清氏ほうへ問い合わせ中です。
孝池水には「孝感泉」という加藤鎮之助が建てた碑があります。
450
:
やす
:2009/11/28(土) 23:00:21
「感泣亭秋報」第4号
小山正見様より小山正孝研究誌「感泣亭秋報」第4号をお送りいただきました。
抒情詩を解析することが、読むのも書くのもだんだん億劫になってきた私ですが、冒頭、詩人の交友圏のひとりであった松田一谷といふひとについて坂口昌明氏がものされた論考は、まさにこの会の趣旨「正孝と共に詩や文学に携わってきた仲間たちの業績を掘り起こすこと」に則った紹介。博捜する言ひ回しはいつもながら、も少しお手柔らかにと思ふところですが、『朔』誌上での戦前青森抒情詩壇の掘り起こし作業といひ、次々と未知の詩人にライトを照らしてゆかれる好奇心とバイタリティを羨ましく仰ぎました。
また先日の詩人を偲ぶ定例会で、小山正孝の漢詩訳についてお話をされたといふ佐藤保氏の一文を拝読。『唐代詩集 上巻』で李白を担当した田中克己とともに、杜甫が遺した膨大な詩篇から何を選んだかがすでに、享受者の批評に類すること、そして漢詩の口語訳が醸し出す「独特の味わいと親しみ」を再認識しました。ちなみに手許の『唐代詩集 上巻』を繙くと、
「ふりかえれば白い雲が見送るようにたくさんうかんでいる」とか、
「無数の花々は金貨のようだ」とか、
「鼠が古い瓦のかげにごましおのからだをかくした」とか、
「かやの実を手のひらいっぱいとることもあります」とか、
「石の間に海の眼のような 水のわき出ている眼がある」とか、
ことごとく四季派風の譬喩や表現に鉛筆で印がつけてあったのを見て、懐かしい限り。
また久松小学校同窓会の渡邊俊夫氏が語られた「立原道造を偲ぶ会」当時のこと」のなかで、「会は五十回忌で解散」と予め決めてあってその理由、「偲ぶといふ語彙は、故人と交流のあった者に許されるべきで、見ず知らず、赤の他人がやすやすと使うものではない」といふ言葉に感銘。「警視庁鑑識課顔負け」の考証をする堀内達夫氏、「一家言が背広を着ているやう」な鈴木亨氏、「自己主張しないことを主張している」小山正孝氏、といふ、御三方の人物描写も実に興味深く、世代対立も相俟った、なかなか窺ふことのできぬ会の内情なども、ゴシップに落ちぬ消息を伝へてたいへん得心のゆく文章でありました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
感泣亭秋報4 2009年11月13日(詩人の祥月命日)刊行 \500 問合せは 感泣亭HPまで。
詩 牛肉 松田一谷風に 小山正孝 2
ゴゴーとディディー 呼応する家庭詩 松田一谷氏の場合 坂口昌明 4
小説 葦 松田谷 18
小山正孝訳の杜甫詩 漢詩和訳の流れのなかで 佐藤保 26
ソネット逍遥4 桃生隼 32
愛と叛逆 渡邊啓史 34
生活の中の性愛「未刊ソネット集」の世界 里中智沙 38
気息から放散するポエジー 藤田晴央 42
小山正孝の詩世界 三 近藤晴彦 44
詩 多羅葉 馬場晴世 46
詩 ほんとうに存在しないもの 森永かず子 48
詩 心中をしてもいいような人 大坂宏子 50
回想
「立原遣造を偲ぶ会」当時のこと 渡邊俊夫 52
中教出版での小山さん 宮崎豊 56
関東短大時代の小山先生 新井悌介 56
感泣亭アーカイヴズ便り 58
>熊崎様
加藤鎮之助氏といふのは骨相からして最前列左から2人目でせうか…。
451
:
:2009/11/29(日) 02:03:01
加藤鎮之助について
中嶋様
ご指摘のとおりです。素毛記念館の展示写真と、飛騨漫遊の写真は特徴のある、はえぎわが一致していました。加藤鎮之助は、明治2年生まれで、梅村騒動が鎮静し、鎮之助となずけられたとのお話でした。加藤家はこの地域の名主のため梅村側とみなされ、この騒動で焼き討ちにあったとのことです。その後、鎮之助は、東京で農本を学び、殺虫剤の開発により財をなしたとうかがいました。
飛騨漫遊の画帖三冊と書籍一冊が遺品として保存されています。数頁の書画は撮影させていただきました。改めて、訪問し詳細を見せていただきたいと思っています。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000598.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000598_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000598_3.jpg
452
:
:2009/11/29(日) 19:26:11
加藤鎮之助写真他
加藤鎮之助の写真です。加藤素毛記念館に展示されているものを部分拡大したものです。
裏書に記載がある方々の当時の年齢を概算したところ、土方久元:80歳、細川潤次郎79歳、藤澤南岳71歳、坂 正臣58歳、甲斐虎山47歳、加藤鎮之助44歳、首藤白陽46歳、後藤秋崖27歳、煙律調査中となりました。お顔と氏名の確認はさらに情報を集めながら確定したいと思います。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000599.jpg
453
:
やす
:2009/12/02(水) 23:09:42
散文集『巡航船』
杉山平一先生が散文集『巡航船』を刊行され、一本の御寄贈にあづかりました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
今回は函の意匠が素晴らしく(「黒」冒頭で触れられてゐた黄色と鼠色の配色の美しさを初めて実感)、カバーの挿絵(聖橋とニコライ堂)も魅力的ですが、シックな本体の装幀が函にぴったりしてゐる分、カバーで隠れてしまふのが勿体無い感じもします。
収録は小説集『ミラボー橋』を中心に、これまでの散文からの選集ですが、さきの全詩集や土曜美術社版・思潮社版の選集にも収録のなかった「機械」が新たに選ばれてゐて、恰度、國中治先生がものされた杉山平一論「『四季』の最後の詩人」の理解を助けるやうな内容となってゐます。國中さんが「機械好き」とともに杉山詩の特色として指摘された「乗客観察」を前面に出した短編「巡航船」が、そのままタイトルとなってゐることにも気がつきました。「乗客観察」なら電車の方が杉山先生に相応しい感じですが、電車よりも船の方がポエムがあると思はれたのでせうか、或は師三好達治の『測量船』も念頭に置かれのでせうか、なにか杉山先生らしい気配りに思ひをめぐらせてをりました。
全詩集刊行以降の拾遺として、今回はもうひとつ、「かくも長き」といふエッセイも収められてゐるのですが、先生が両親以外の親族を、このやうな愛情をもって書かれたものを読んだことがありませんでしたし、また単に家族のことを書いたといふだけでなく、詩人杉山平一の文学出発の状況を、師友との交流からでなく、プライベートな側からみつめてゐる点が新鮮で、結末まで一気に引き込まれます。
後半に収められた拾遺篇の影響か、全体に「工場経営の負債」に関る文章が多いやうにも思はれたのですが、先生御自身は、或は「詩人らしくない話題ですが」なんて卑下されるかもしれませんが、私は『わが敗走』を読んだときの感動が忘れられず、この企画を立てられた方の選別に敬服します(自選でせうか 汗)。
さうして負債といふことなら、國中先生の論文に対する感想とともに、杉山先生のポエジーについても、私なりの感想を未だ書ききってはゐない自分にこそあるやうで、感ずるところを、いつかもう一度まとめてみたいとは思って居りながら、荏苒のびのびになって申し訳ない限りです。
ここにても御礼とお詫びを述べさせて頂きます。ありがたうございました。
杉山平一散文集『巡航船』2009年11月編集工房ノア刊 上製函入374p. \2500
目次
?「ミラボー橋」
杉山平一君(三好達治) 11
*
父 15
動かぬ星 42
虚像 68
ミラボー橋 86
黒 91
季節 95
暗い手 103
陰影 112
月明 124
巡航船 135
星空 144
あしあと 151
春寒 154
恋する人 165
通信教授 185
あとがき 193
*『ミラボー橋』拾遺
機械 199 (既刊単行本未収録)
覚書 236
目 254
?
かくもながき 269 (既刊単行本未収録)
顔見世 292
母の死 308
象 313
私の会った人 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
花森安治 318
大西克禮 320
石川武美 322
今村太平 325
伊東静雄 327
立原道造 329
また、いつか、どこかで (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
会う 332
在る 335
隠す 340
繰返す 342
ひとりぼっちの世界 346 (土曜美術社版『杉山平一詩集』収録)
鳩・公園・ピアノ (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
鳩 351
公園 354
ピアノ 357
星を見る日 (思潮社版『杉山平一詩集』収録)
桜 361
犬 362
星 365
私の大阪地図(詩) 368
あとがき 372
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000600.jpg
454
:
やす
:2009/12/12(土) 21:48:24
秋田の写本漢詩集
今月はのっけから、オークションやネット古書店での安物買ひが続いてゐます。
まづは再版漢詩集の種々32冊を破格値で落札。旧家の蔵から放出されたものと思しく、一緒に送られてきた自筆詩集の巻頭に「以詩為命」と大書してあるのをみれば、なにか旧蔵者だった漢詩人の先生から本たちの行方を託された気分になりました。
写本『周南峰詩鈔(明治〜昭和29年)』ほか5冊
著者は鈴木文齋、本名平右衛門、日露戦役に従軍した羽後長野の漢詩人。昭和19年に68歳とあるので明治8年頃のお生まれでせうか。昭和33年1月には翁をしのぶ遺墨展が地元中仙町の公民館で行はれてゐます。当時「御蘭吟社」「八乙女吟社」といふ漢詩・和歌の結社があった模様です。
『周南峰詩鈔』序文「本篇は作者少年時代よりの原作其の侭蒐集する者也。故に無秩序又無方法、随ひて背韻と誤調を免れず。後賢、宜しく斧正を請ふ也。 文齋誌す」(原漢文)
吊江幡澹園翁 江幡澹園翁を弔す
東北詞壇赤幟移 東北の詞壇、赤幟(盟主の意)移る
堪聞落日梟鳴時 聞くに堪へん、落日、梟(ふくろう)鳴く時
一生才筆揚奇韻 一生の才筆、奇韻を揚げ
百世文潮立供基 百世の文潮、供に基を立つ
桃李盈門衣鉢在 桃李、門に盈ちて衣鉢在れども
風花無跡訓言垂 風花、跡無く訓言垂る
由来木鐸何者振 由来、木鐸、何者か振る
寂寞西山雲一枝 寂寞たり、西山の雲一枝
頭評は総て明治時代の秋田の漢詩人によるものでした。名と検索結果を記します。
江幡澹園(運蔵、大館市の人『秋田歌集』編者『盍簪余事』著者)、狩野旭峰(大館市1832−1925『旭峰詩鈔』あり)、田口羽山、高橋午山(軍平『征露鐃歌』著者、児玉市隠、伊藤耕餘(直純『金沢史叢』『我観後三年役』著者、藤川豊城、六大山人、六五山人(『仙北郡案内』著者)、小野田半畝、高橋半山、金丸錦村、佐藤弘堂、飯村稷山(粋『佐藤信淵翁傳』著者)・・・。
活字になることなく遺棄されたこれら草稿の類ひは、ふたたび地元に寄贈できたらと検討中です。
【追伸】無事大仙市役所大仙市教育委員会文化財保護課が寄贈を受け付けて下さりました。といふより町史に写真付きで紹介されてゐた貴重なものだった由、危機一髪で歴史的な地域文献が散逸するところだったのでありました。関係者はすでに上京、おそらく分からずに古本と一緒に処分してしまはれたのでせう。(2010.1.12追加)
さて年末は自宅に逼塞することが決定、扶桑書房さん主宰の第3回「一人展」にもゆけず、安物買ひもボーナスで赤字になるかも、といふオチを控へて戦々兢々の日々。まさに薄氷を履むが如き暖冬とデフレの師走であります。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000601.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000601_2.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000601_3.jpg
455
:
やす
:2009/12/14(月) 00:00:38
詩人川添一郎
昨日池内規行様より「北方人」13号を御寄贈頂きました(ごぶさたしてをります)。山岸外史を師と仰いだ詩人のひとり川添一郎の事迹と思ひ出を綴ってをられます。拙サイトで紹介させて頂いたアンソロジー『詩集8人』に集結した外史門下の詩人の一人ですが、サムライたちはその後出征、シベリア抑留と帰還後の社会で辛酸をなめた川添一郎の詩は、なにかを沈殿させたやうな抒情詩に変貌、作品を2篇、池内さんが最後に抄出されてゐます。うち一篇。
父よ
一房の葡萄と三つの林檎
父よ
あなたは
この貧しい供物のなかで
もう夜も更けたれば眠っておいでか
あなたは
わたしの素裸な手に
母と六人の弟妹をのこして
忽然と遠い処へ行ってしまわれた
いまごろは
あの藁葺きの屋根の下で
病める母と幼い弟妹が
寄添って眠っていることだろう
故郷では今宵一夜を
あの竹藪深い軒端に
一つの提燈をかかげ得ただろうか
父よ
あなたの初盆というのに
わたしは故郷へ帰れもしない
だからこうして
夜更けて妻と二人
ふるぼけた書架の上に
一房の葡萄と三つの林檎を供え
あなたの御冥福を祈るばかりです
詩人からの聞き書きで、山岸外史が「川添君を(第4次四季の)同人に入れたらどうか」と相談したら、丸山薫が俄かに承知しなかったといふエピソードがあったのですが、「二人には一線があったような気がする」といふのも、山岸外史に対しては旧くからの知人の多くがそのやうな姿勢で接してゐたらしく、田中克己先生もまた「何をたよりにしてゐるのかわからん人」などと評してゐるのですが、これはしかし日本浪曼派にあった人物が戦後、政治的に変節したといふこと以外に、その「詩人的気質」そのものに原因があったもののやうに思はれます。けだし田中先生御自身もまた、戦後宗教的に変節し、また東洋学者と二足の草鞋をはいてゐることで「みな仲間はずれにする」と喞ちながら、その実は「詩人的気質」によって敬遠されてゐたので、師事してゐた自分にも十分理解できるのです(笑)。むしろこのエッセイは、孤高の詩人山岸外史と、見ゆることなく私淑しその評伝を書きあげた池内さんとの間を、川添一郎といふ一番弟子が東道し、外史門下として迎へ入れた経緯消息を物語ってゐるのであって、読む者だけでなく池内さん自身にとっても身の証しを立てるたいへんよい文章となってゐることに、読みつつ思ひをめぐらせたのでした。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。
456
:
やす
:2009/12/27(日) 21:04:37
山口正二氏関係詩誌『薊』ほか
一昨日の郵便にてお贈り頂いたのは、ここ何年ももらったことのない「クリスマスプレゼント」。名古屋の同人誌『薊』『新雪』『名古屋文學』『尾張文藝』などを一括して、同人だった山口正二氏(1913−1985)の御子息融氏よりお送り頂き吃驚、またその中身をあらためながら恐縮してゐるところです。ここにても厚く御礼を申し上げます。
『夜光蟲』(1933)ほか既刊詩集のテキストを全文公開する融氏のホームページについて、かつて拙サイトで紹介させて頂いたのですが(掲示板過去ログ2008年11月29日、2009年 2月 7日参照)、今回の御厚意をどうお受けしたらよいか、同封のお手紙には「不要な場合には廃棄して頂きたく」とありましたが、とんでもないことです。
一見すぐに貴重だと分かるのは、山口正二氏をはじめ当時弱冠の名古屋二商の学生たちが興した詩誌『薊』(創刊1933)でせう。最初は文学青年のおちゃらけたガリ版同好誌にすぎなかったものが、活版刷となる辺りから垢抜けし始め、杉本駿彦を迎へ入れた7号などは構成主義の写真を使用した全く面目を一新する表紙で、たった一年でかくまで変るものかと刮目させられます。その間、山口氏の処女詩集『夜光蟲』が「あざみ叢書1」として刊行をみるのですが、誌上に出版記念会の写真も掲げられ、謂はば同人のホープとしてさぞ面映ゆくも晴れがましい夢を膨らませたことでありませう。そのまま文学を続けられたらと思はずにはゐられませんが、7号を最後に詩人は召集され、入営先からは寄稿も雑誌受取りもままならなくなります(雑誌はそれから昭和12年13号まで続き、主宰者で親友だった都築喜雄はまもなく「悲惨な運命」により夭折した由)。そして海兵団のあった呉にあっても『柚の木』といふ雑誌に参加するのですが、憲兵に見咎められ大目玉。敗戦まで軍務に励みながら詩風(題材)を転じ、一兵卒として従軍詩を書き続けることとなるのです(『一枚のはがき』9p・『揚子江』あとがき132p・『その頃』67p参照)。
また戦後、名古屋詩壇に復帰してから、顧問格として招聘され、最後は山口氏自らが孔版専門職として印刷にも携はった『新雪』『青年文化』『尾張文藝』といふ岩倉〜一宮地区に興った同人雑誌も、今では貴重な地方文学史資料といへるのではないかと思ひます。丁寧正確なガリ版文字をきる職人は同時に発行者であり編集者でもあり、誌面は無償の労力を感じさせる細かいこだはりに満ちあふれてゐます。同人誌経営の常として、遅刊、廃刊、新創刊を繰り返しながら、この昭和22年から27年にわたった一連の活動は、結局山口氏の手許で一区切り=終焉を迎へることになった模様ですが、一冊一冊の編集後記を辿ってゆくと、掲載作品とは別に、地方の若い手作り文芸運動の舞台裏を文字通り手にとって感ずることができ、たいへん興味深いです。
尤も当時孔版が選ばれたのは、活版が高価だったからであり、つまり粗末な酸性紙に印刷されることが多かったこれら孔版雑誌のバックナンバーは、半世紀以上経た今日、読み捨てられる運命を免れたにせよ、御遺族の仰言るやうに粉韲する寸前の状態にあるのだと云へませう。私もしばらくは手許に置いていろいろ穿鑿してみたいと思ふのですが、繙くたびにボロボロ角からくづれてゆく様をみるにつけ、これはサイトで紹介を一通り行ったのちは、永久保存のため、さきの漢詩写本と同様、しかるべき図書館に寄贈を打診すべきではないか、と考へる次第です。融氏の御意見も伺ひ、その時にはまたここで報告させて頂ければと存じます。
貴重な資料を本当にありがたうございました。
受贈雑誌
『薊』(あざみ文芸研究会(あざみ社) 名古屋市東区新出来町 都築與詩雄(喜雄)宅) no.1-4 孔版
no.1(1933.4)\0.10,no.2(1933.6)\0.10,no.4(1933.10)\0.10,no.5(1934.1), no.7(1934.7)\0.10, no.9(1935.1)\0.15
『柚の木』(柚の木社 広島県呉市江原町 井上逸夫宅 [印刷は名古屋市東区])
vol.4(1937.8)\0.20
『新雪』(新雪文化倶楽部 愛知県丹羽郡岩倉町 藤井俊男宅→一宮市日比野通 桜井野生宅) 孔版
no.4(1947.8)会費\5,no.5(1947.11)\5,no.6(1947.12)\10,no.7(1948.8)\10, no.8(1948.10)\14
『青年文化』(青年文化会 一宮市広畑町 中島秋夫宅) 孔版
no.1(1949.8)会費\35,no.2(1949.9)会費\35,no.3(1949.10)会費\35,no.4(1949.12)会費\35, no.5(1950.1)会費3ヵ月\100,
『尾張文藝』(尾張文化會 一宮市浅野駅前 下郷聡男宅) 孔版
no.1(1950.3)会費3ヵ月\100, no.2(1950.4)会費3ヵ月\100, no.3.4(1950.8)会費3ヵ月\100, no.6(1950.12)会費3ヵ月\100,no.6(1951.3)会費3ヵ月\150, no.7(1951.5)会費3ヵ月\150, no.8(1951.7)会費3ヵ月\150, no.9(1951.10)会費3ヵ月\150, no.10.11(1952.2)会費3ヵ月\150, no.12(1952.6)会費3ヵ月\150, no.13(1952.9)会費3ヵ月\150, no.14(1955.12)会費記載なし,
『名古屋文學』(名古屋文學社 名古屋市中区梅川町 平野信太郎宅)
no.1(1947.12)\15, no.2(1948.2)\18, no.3(1948.4)\18, no.4(1948.6)\20, no.5(1948.8)\20,
『太鼓』(太鼓の会 茨城県下館町金井町 関操宅) 孔版
no.2(1949.1)会費\45,
『風貌』(東海詩人協會 海部郡蟹江町 藤岡洋次郎宅)
no.1(1952.[3])\50,
『ペン』(名古屋ペンクラブ 名古屋市中区梅川町 成田元忠宅)
no.22(1960.8)\50, no.23(1960.11)\50, no.24(1961.4)\記載なし
【追伸】お送り頂きました貴重な詩誌ですが、【明治・大正・昭和初期 詩集目録】にて紹介をさせて頂きました。もしくは過去ログ、 詩人の項目より御覧下さい。
書籍と違って雑誌といふ資料は、愛蔵する物でなく、しかるべき公共機関が保存にあたるべき地域遺産だと私は考へてゐます。関係機関に寄贈を打診するとともに、今しばらく斯様な資料の手許にあることの至福の時間を堪能したいと思ひます。(2010.1.11追加)
つづいて同じく山口さん繋がりで「正二さん」の次は「省三さん」。鯨書房さんより『破衣句』号2冊ご恵送に与りました。ここにても御礼申し上げます。しかしながら団塊世代の無頼派(チョイ悪おやじ連?)のみなさん、いつもながら基調不機嫌です。
コンビニに横殴りの風馬の足(sada坊氏「深夜の風景」)。続けるに…「金のたてがみ嘶けヤン車」とか。
頸筋撫でさすり股揉みしぼる手(同氏「夢いくつか」)。 あー、この仕草よくされてますねー(笑)。
岐阜公園一刻みどりのうねりかな(幻界灯鬼氏「青葉波立ち」) 。 照葉樹林が裏返る金華山がなつかしいです。
ありがたうございました。良いお年を。
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:
やす
:2009/12/30(水) 23:44:58
『昧爽』19号
今年最後にわが家に届きましたのは、山本直人様/中村一仁様共同編集『昧爽』の19号でした。ここにても御礼申し上げます。ご寄贈まことにありがたうございました。
中村さんが書かれた、今年2月に亡くなった渥美國泰氏の追悼文。テレビドラマを通してしか俳優を知らない私にとって、文壇人と劇団人との関係といふのは、皆目わからぬ事情に属しますが、文壇では保守系批評家の第一人者と目される福田恒存について、却って中村さんのやうな立場のひとが、虚心に渥美氏の回想に耳傾け、福田氏の興した劇団雲の分裂に対して是々非々でもって語る態度が良いです。義憤と人情と同時に「盲従も拒否する」ところが中村さんらしさですが、為に生ずる誤解も受けて立つ堅固な志操は、例へば自らの戦争体験から「世田谷九条の会」に賛同する一方、A級戦犯土肥原賢二を演じて辱しめなかった渥美氏の役者魂とも一脈通ずるところがあるのでせう。葬儀参列者には演劇関係より骨董関係者が目だった由。もとより渥美氏が心酔された亀田鵬齋は、漢詩人が尊王攘となる一世代前、化政期のサロンで活躍した人情に厚い庶民派の文人学者です。
中村さんらしい義憤は、今回『淺野晃詩文集』刊行の予告文においてより顕著でしたが、1985年に刊行された定本詩集をすでに所蔵してゐる人を念頭に編集中である旨を具体的に伺ひ、私もかつて自らの思ひ入れだけを頼りに『田中克己詩集』に収録する詩篇を選んだときのことを思ひ出し、いたく同感。私淑された先生の著書200冊余と謂はれる文業を俯瞰する「決定版の一冊」が、無事完成に至ることを祈らずにゐられません。中村さんが心配されるやうな、浅野晃の生きざまを否定する人間がどれだけの人物かどうか、相手にするまでもありませんし、またジャーナリズムの書評をあてにしても仕方がないことです。この詩人の大きさを示し、また今回封印の解かれる『幻想詩集』が捧げられた伊藤千代子の追善にも適った書評はかならずや現れませう。
及ばずながら拙サイトでも広報に努める所存です。残す終刊号とともに、悔いなき編集に専心されますことを祈念申上げます。
458
:
やす
:2009/12/31(木) 00:08:58
本年回顧
年男だった今年、古書の収穫はさておき、職場は危機意識に引締まり、わが家は内憂と外艱に揺れた一年でした。家人のライフワークのみ脚光を浴びましたが、これまた多忙のさまをオロオロ傍観するばかり。来年は数へでたうとう五十になるといふのに、おのが天命に安んずるどころか、不勉強四十九年の非を思ひ知り、加之記憶力の減退に驚き、呆れ、訝しがられる有様です。道なければ巻いて懐にすべき、とはなかなか参りません。
みなさまにはどうか良い年をお迎へくださいますやう。
【今年のおもな収穫】
長戸得齋『北道遊簿』/津田天游『天游詩鈔別集』/梁川星巌・柴山老山編『宋三大家律詩』/大窪詩佛『北遊詩草』/篠崎小竹『小竹齋詩抄』/伊藤信『日本竹枝詞集』/藤井竹外 掛軸/梁川星巌 掛軸/大槻磐溪『寧静閣一集』/曽我耐軒『耐軒詩草』/梁川星巌『やく天集』/神田柳溪『頼山陽實甫帖』/宮原節庵『節菴遺稿』/頼支峰『支峰詩鈔』/大窪詩仏『詩聖堂詩集』/山中信天翁 掛軸/梁川星巌書簡まくり/『経典餘師』四書之部小學之部/木蘇岐山『五千巻堂集』/堀田華陽編『聖代春唱』(寄贈)/篠崎小竹 掛軸/山川弘至 『國風の守護』/後藤松陰 掛軸/頼山陽 復刻掛軸/村瀬秋水 掛軸/長戸得齋 額/橋本竹下『竹下詩鈔』/檀一雄『虚空象嵌』/高橋杏村 掛軸/文圃堂宮澤賢治全集第2巻端本/古文餘師 前集後集/小高根太郎『富岡鉄斎の研究』など。
459
:
やす
:2010/01/01(金) 09:39:25
謹賀新年
今年もよろしくお願ひを申上げます。(掲示板での御挨拶は不要です。)
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460
:
やす
:2010/01/05(火) 21:52:06
寄贈御礼
年明けまして、皆様方から忝くしましたご寄贈を前に大変恐縮してをります。このささやかなサイトを通じて賜りました御縁に対しまして、あらためて深甚の謝意を表すべく厚く御礼を申し上げます。
石井頼子様、棟方志功カレンダーをありがたうございました。早速和室に掲げさせて頂きました。さういへば今年は保田與重郎生誕100年祭ですね。
手皮様、富田様、明日より週末一杯出張のため、来週以降にゆっくり御報告させて頂きたく、取り急ぎのお礼のみここにても申し上げます。
ありがたうございました。
461
:
やす
:2010/01/11(月) 21:37:44
上京報告その他
上京中、古本連との楽しい語らひの他、小山正孝ご子息正見さまと大変有意義な歓談に時を過ごすことができましたこと、あらためて御礼申し上げます。ありがたうございました。
ではこの連休、東京で1泊した収穫を御報告。
『日塔聡詩集』 (2009土曜美術社)。やはり一年に一度は神保町界隈を歩かないといけませんね。刊行を知りませんでした。詩人については詩集『鶴の舞』をのぞけば、雑誌「曠野」での追悼号(1984)、そしてさきに安達徹氏によってまとめられた『雪に燃える花 詩人日塔貞子の生涯』(2007改版)において触れられてゐることが情報の殆どだったのですが、件の雑誌追悼号の入手が困難な現在、編者によるあらたな解説を付したコンパクトな決定版の刊行は意義深く、多くが自費出版とおぼしき新叢書ラインアップにあって抜きんでた一冊となるものと思ひました(『鈴木亨詩集』もさうですが、旧「日本現代詩文庫」の一冊として刊行して頂きたかったです)。
『北方の詩』高島高詩集 (1938ボン書店)。ボン書店らしからぬ凡様の装釘と思ひきや、表紙は2種類の紙を使用。復刻版(1965)とは似て非なるものでした。(田村書店にて)
『山中富美子詩集抄』 (2009森開社)。これまた刊行を知りませんでした(田村書店に立ち寄ってよかったナァー)。 1983年に『左川ちか全詩集』を刊行した森開社の快挙ですが、左川ちかの方も拾遺を収めた改訂版が再び計画中なのだとか。かたや乾直恵が恋に落ち、かたや伊藤整に恋に落ち、と詩人の恋愛ゴシップが有名ですが、ともに成就しなかったのは知的抒情とはおそらくちっとも関係ない理由からなんだらうなと、かつて『左川ちか全詩集』や上田周二氏が著した評伝『詩人乾直恵』に載せられた写真を見るたびに思ったことでした。ところが今回の刊行の後日談として、病弱を恥じて文学上の知友と会ふのを拒み、突然筆を折って行方知れずになってしまった薄倖の佳人山中富美子が、実は2005年、北九州の病院で老衰のためひっそりと息をひきとってゐたといふ事実が分かったのだといひます(享年91歳)。夢を抱いて上京し病魔に斃れた「おちかさん」に対する追悼が、24歳の文学的才能に鍾るものであるのと同時に、文学と縁を切り地方に埋もれることを覚悟したこの詩人の謎の後半生もまた、明らかになって欲しい気がする反面、謎のままでも良いぢゃないかと思ふのは、夢を封印した彼女の意思を尊重するといふより、やっぱり私がつまらぬ男であるからかも知れません。とまれ初の集成は208p限定300部\3800、知らずに買へなかった人、恐らく後悔します。
雲のプロフイルは花かげにかくれた。
手巾が落ちた。
誰が空の扉を開けたのか。
路をまがつて行くと石階のあるアトリヱだ。
いつもの方角へかたむいて、扉までとどいた日影が、のびて行く所は昂奮する氣候を吐き出す白い海岸だ。
そこはすつかり空つぽだ。そこで海はおとなしい耳を空へ向けてゐる。(後略) (「海岸線」より)
「モダニズム詩人荘原照子聞書」
さて、この詩集を編集された小野夕馥氏は、左川ちかとの対比とともに謎に包まれた晩年を送った荘原照子との類似を指摘されてゐます。しかしこのたび手皮小四郎様よりお送り頂いた雑誌「菱」の連載「荘原照子聞書」では、山中富美子が為し得なかった結婚と出産と生活の苦労について多くのページが割かれてゐました。(ここからは前回掲示板で触れた所にさかのぼります)
雑誌「菱」168号(20101.1詩誌「菱」の会発行)
手皮小四郎「モダニズム詩人荘原照子聞書」第9回「鎌におわれて故郷をたつ」38-47p
妻子ある牧師男性との結婚は、初恋の人に対する当てつけの気持が働いてのことではなかったかといふ疑念。そして姓が変ったといふことは、病弱な前妻は二人の子を彼女に託し入院ののち亡くなったといふことになるのでせうか。罪ふかき彼女自身が生んだ子供の名についても「どんな漢字を当てたのか知らない」と書かれてゐることが、すでに非常な不吉な次号以降を予感させるものです。そして詩人はこの「できちゃった婚」によって故郷山口を追はれ、牧師失格の夫と岡山で新聞屋を始めるのですが、彼女自身あまり健康でないのに、子供たち3人を抱へての家業の切り盛りに堪へうる筈もなく、加へて出奔直後の父の急死に際しては、おそらく葬儀には参列できなかったであらうといふ客観的な考察も下ります。この時代に「後年のモダニズム詩の対極にある作品」が書かれたといふ事実、それは彼女のモダニズム精神が山中富美子とは異なり静謐な生活に育ったものではない証左ですけれども、さらに新しい職を求めて一家が金沢へ発ってゆくところで今回は終了してしまひます。
小兎よ
わたしの草原を飛び去って
もう帰らぬと思つてゐた
おまへの姿を
今朝 わたしはみいだした
わが子の
愛しい身をおほへる
うす紅色のアフガンに ※嬰児を包むおくるみ (「兎模様のアフガン」より)
普通の伝記とは異なり、年譜が謎だった人物に関する「新事実」と「稀覯作品」とが次々に明らかにされ、また敢へて距離を置いた視点で考察してゆく様は、今回特にスリリングです。ハラハラさせられるとともに次号が待ち遠しく、毎回連載で部分的に紹介されてゐる初期作品たちの完成度の高さを見るにつけ、こちらもいづれ全体がまとめて公刊される機会の来ることを、祈らずはゐられなくなって参りました。作品だけ公刊されて伝記が謎のままとなってゐる山中富美子とは正反対で、小野氏がブログで「恨めしい限り」の運命と白されてゐること、よく分かります。
ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
さてさて新刊の『山中富美子詩集抄』ですが、検索しても書誌や書評の類の情報はあんまりヒットして参りません。刊行元ほか一部の書店にしか販路を持たないからでせうが、茲に検索結果が全く出て来ない、四季派マイナーポエットと呼んでも差し支へない無名の閨秀小説家の遺稿集の一冊があります。(おそらく)昨年編まれました。正月明けに御遺族からその500ページにも亘る一本をお送り頂き、先週の出張往復の車中ずっとその集成に読み耽ってをりました。感慨一入、御礼状さへ未だ認めてをりませんが、次回以降に紹介したいと思ひます。
462
:
やす
:2010/01/20(水) 07:36:40
御礼
山川京子様より『桃』一月号の寄贈に与りました。お手紙に添へた拙詠を載せていただき赧顔の至り。 また次回の雑誌終刊を前にされた後記を、感慨をもって拝読しました。
さきに山口融様よりお送りいただいた『薊』ほかの戦前同人誌ですが、さらに書誌研究家加藤仁様より、当時の雑誌バックナンバーの画像の提供を受け、追加公開させていただきました。【明治・大正・昭和初期 詩集目録(名古屋戦前詩誌)】より御覧下さい。
皆様にはここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
463
:
:2010/01/31(日) 00:40:49
日塔聡詩集について
こんばんは、いつもいろいろ教えていただいてありがとうございます。
「日塔聡詩集」をお贈りしようかと思いながら忘れてしまって申し訳ありません。
私も安達先生から教えていただいて20冊ほど土曜美術社から送ってもらいました。
さしあげなければならないかたをメモしながら、小屋改築、荷物の引っ越しなどに追われ忘れていたのを中嶋さんのホームページを拝見して思い出しました。
この出版により「鶴の舞」と「鶴の舞以後抄」そのほかのいろいろな詩に出会えて、とても貴重なお仕事をしていただいたと思っています。
お気づきとは思いますがP139にある日塔貞子死去の年が昭和49年となっています。
どうしたらいいかと迷いましたが、土曜美術社に連絡したところ正誤表を入れたいということでしたが入っていましたでしょうか。
娘が「東京かわいいテレビ」拝見したそうです。私は見逃しましたがインターネットで見せていただきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
464
:
やす
:2010/01/31(日) 20:34:17
出張帰還
奥平さま、御無沙汰してをります(「なんとかテレビ」…(^∀^;))。
購入した本は古書でしたので、正誤表は入ってをりませんでした。年譜をみればどちらが正しいのか判断つくことなので心配ないと思はれますが、もちろん誤植は当事者にとっては居たたまれない関心事です。追ってこの掲示板で御紹介する予定の本も、編者の方がたいへん気を揉んでおいででしたが、私などはそれに懲りてこのやうなホームページを公開形態に択んだといってもいいかもしれません。
さてこの週末は再び遠地への出張でした。年明けには在京の人々と合流、久闊を叙すことが叶ひましたが、今回は北陸転戦の途次、金沢で大正詩研究の竹本寛秋先生と蓋かたむけて語り合ふ機会を得ました。口語詩の成立過程を専門にされる竹本さんですが、大学では文学ではなく教育系情報学のエキスパートとして重宝されてゐる由、学部改組をめぐる状況は国立も私立も変はりがないやうです。
また日常の移動は自転車に限るとか。Linux系を能くするインターネット草創期からのエンジニア。でありながら、仕事(飯の種)とは別に今どき文化に熱中する時間も惜しまない。そんな別々のベクトルを共通項として持ってゐるハイブロウな人がすでに自分の周りにはこれで三人も居り、もはや符合ではなく世代交代が進みつつあることを思ひ知った感じです。
とまれ一陽来復づくしの竹本先生には、今春の故郷北海道への喬遷を控へての得難い歓談となりました。ありがたうございました。
一方、北国の風にあてられたものか体調をくづして帰ってきたら、家では年越しのごたごたが待ち構へてゐました。こっちはうすら寒い春を迎へさうな予感に、もう滅入りさう。
465
:
やす
:2010/02/11(木) 23:37:13
『馬の耳は馬耳ならず』
八戸の圓子哲雄様より『朔』167号、および新詩集『馬の耳は馬耳ならず』の御恵贈に与りました。今号の『朔』は、青森詩人和泉幸一郎の未発表詩ほかに、小山正孝の若き日(昭和15年、16年)の堀辰雄宛書簡(下書き?)2通が、奥様の手で紹介されてゐます。興味深かったです。
圓子様の詩集は、これまでお送り頂いてきた『朔』巻末の名物コーナーで、「第二後記」と思って毎回なにが書いてあるのか最初に目を通してゐた文章がまとめられたものでした。エッセイ風の散文詩なのですが、長い雑誌の歴史のなかから斯様に厳選され、今回詩集の名のもとにまとめられたものを拝見すると、裏表紙に3段組みだった作品が大いに面目を新たにしてゐることに驚きます。後半にはすでに読んだ記憶のものもあるのですが、前半の、かなり意識して作られた頃の散文詩に注目しました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
北国
今年も林檎が実り ずしりと手応えのある実を頬張る 青々とどこまでも拡がりいく空 遠く甘い日が口の中から奔り出てくる
僕達が熊谷に住んでいた頃 父や母の里から送られてくる林檎は 童謡の国の主人公のように 広々とした香りを運んできた 杉の木箱も 北国の冷たい山の香りを運んでいた 母の語る北国 父の物語る北国は いつしか僕の中に深々と育っていった 僕達は 戦災で家を焼かれ 父母の故里《北国》に移り住んで 北国はそのまま僕の中で 甘く醸し出されていった
秋になると 幸せだった子供の国が 再び季節の中から甦ってくる (12p)
466
:
やす
:2010/02/11(木) 23:45:52
近況:『山陽詩鈔』ほか
最近の買物は『山陽詩鈔』の(おそらく)割と初めの頃の版本。この天下のベストセラーは明治に至るまで何度も版を重ねてゐて、見返しや奥付に「天保四年新鐫」と刷ってあっても信用できません。古書目録の記載書誌だけではどんなだか判断できないことが多いのです。状態が悪くても刷りのよい古いものを買はうとずっと機会を窺ってゐたのですが、このたび意を決して注文。届いた本は歴代の旧蔵者に繙かれて「くたくた」になった、河内屋徳兵衛以下6者による版本でした。赤字で補筆してある頭註は増訂版から書き写したものでせうか。嬉しいです。
追伸:
詩人山口正一関係の資料も、無事愛知県図書館へ(『太鼓』は茨城県立図書館へ)寄贈されましたので御報告いたします。旧臘手許にやってきた貴重資料、すべて収まるべき処へ収まってホッとしてをります。
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467
:
やす
:2010/02/11(木) 23:47:31
『躑躅の丘の少女』
さて随分ひっぱって予告しました四季派の閨秀作家の遺稿集ですが、Book Reviewに明日upします。後日また書き足すかもしれません。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000619.jpg
468
:
やす
:2010/02/13(土) 00:09:56
『昨日の敵は今日の友』
と本日Book Reviewに up しましたところが、富田晴美様より本日の郵便で、今回の本の元となった『兼子蘭子遺作集』、そして田上俊三氏の自伝『昨日の敵は今日の友』が届けられました。
まだ詳しく読んでゐませんが、岐阜県可児市出身の夫君の自伝には、(おそれてゐたことですが)家族のことが殆ど何も書いてない(笑)。 幼少からの正義感に基づく(もしくは、それが因となった)七転び八起きの人生、その武勇伝・失敗談の数々で埋め尽くされ、ほかに若き日にキリスト教に入信したことなどが書かれてゐて、或ひはお見合ひ時の蘭子嬢、堀辰雄の影響もありそんなところに勘違ひして惹かれた、といふこともあったのでせうか。野村英夫などとはもう、えらい違ひの豪傑キリスト者です。そしてこの数奇な自伝だけでも充分面白いのですが、やはり蘭子氏の遺著と、巻末に晴美様の書かれた年譜を合はせ読むことで、男のロマンとそのために振り回されて犠牲となった家族と、両面から人生といふものを俯瞰することができ、深い奥行きが行間ではなく冊間に醸し出されるやうな気がいたします。
また『兼子蘭子遺作集』の方は、雑誌の初出コピーをそのまま印刷にかけた本で、少女時代の校友会雑誌は編集後記のついた奥付ページとともに、評判をとった「野薔薇」は小林秀恒の挿絵もそのままに付して復刻されてをり、むしろ私などはこちらを珍重したく思ったほどです。やはり刊記のない非売私家版ですが、発行は2008年11月とのこと。
この週末にゆっくり拝読したいと思ひます。
ここにても取急ぎの御礼と御報告を申上げます。ありがたうございました。
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469
:
やす
:2010/02/13(土) 12:59:49
(無題)
Book Review の事実関係を中心に訂正。『兼子蘭子遺作集』の複写綴本は刊行5部の由、絶版です。
470
:
やす
:2010/03/01(月) 20:59:03
山中富美子の年譜と、高祖保の評伝
さきに刊行をお知らせした『山中富美子詩集抄』所載年譜の追加訂正について、坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子:西日本文化443号」に記述がありましたので転載します。お手許にお持ちの方は印刷して貼り付けておくとよいかもしれません。
「1914年(大正3年)1月15日 岡山県倉敷町に堀内喬・さわの二女として生まれる。四歳のときに、山中馬太郎・伊勢夫妻の養女となる。養父の仕事(鉄道省勤務)の関係で岡山に居住、養父の本籍地は高知市南新町(現・桜井町)。1931年(昭和6年)四月、福岡県小倉市篠崎へ移転。その後、城野(現・北九州市小倉南区城野四丁目)に養父が自宅を購入、長く住む。1963年(昭和38年)6月養母、1967年(昭和42年)12月養父と相次いで死去。養家に兄弟姉妹なく、岡山の縁戚関係も断ち、天涯孤独となる。2001年(平成13年)2月、認知症などで小倉北区内の病院に入院、2005年(平成17年)6月26日、同病院で老衰のため死去」坂口博氏「幻のモダニズム詩人 山中富美子」《西日本文化》443号(2010.2)37-43p より。
また同じく「椎の木」ブランドの抒情詩人である、高祖保の初めての評伝が刊行されてゐることを知りました。早速注文、モダニズム抒情詩の愛好家にとって必携の一冊となりませう。装幀・内容ともに掬すべき限定本です。
『念ふ鳥』(外村彰著 2009.8 龜鳴屋刊。A5変型上製 424p 限定208部 \8000)。
なほ、刊行元の龜鳴屋では、わが職場岐阜女子大学の卒業生でもある金子彰子さんの処女詩集『二月十四日』が、続く最新刊として発売中です。一緒にどうぞ。
【その他 古書目録記事より】
扶桑書房より100号目録が到着。
『宮澤賢治全集』 文圃堂版3冊揃 (11p)
札幌の弘南堂書店2010年国際稀覯本フェア出品目録より
四季萩原朔太郎追悼号原稿 (7p)
471
:
やす
:2010/03/10(水) 00:54:39
宵島俊吉『惑星』
宵島俊吉詩集『惑星』大正10年抒情詩社刊行
著者は関東大震災前夜の東京で「若き天才詩人」の名をほしいままにした、東洋大学系の詩派(のちに「白山詩人」と呼ばれる)の初期の中心人物。ただしその「天才」は詩才といふより、多分に早熟にして奔放な詩的人格に冠せられたものだったやうです。昔、『航路』といふ昭和22年発行の詩集を読んでその抒情詩を好ましく思った私は、その前の昭和8年に出た詩集『白い馬』なら、おそらくもっとよい詩が並んでゐるに違ひないと踏んで探し回り、見つけだした本の瀟洒な装釘に感嘆したものの、その期待が過剰であっただけに内容には却って失望した、なんてことがありました。今回縁あってさらに溯り、大正10年に刊行された文庫版の処女詩集に出会った訳ですが、そこで表白されてゐる、大正口語詩人特有の(といふよりまだ二十歳の青年特有の、といふべきですが)感傷と欲望、ことにも季節に仮託した表現が印象的でした。夏は欝屈した恋愛に汗ばむ狂奔の季節として、秋はその対極から観照を喚起する明澄の季節として、春は朗らかに爆発する生命力謳歌の季節として、そして不思議に冬だけがありません。つまり若々しい。で、若い娘のことがいっぱい出てきて、コンタクトはとれないんだけど、彼女らにも仮託して内から身もだえてみせる。こんな詩を衒ひなく書いて見せるところが、当時の青年にはカリスマに映じたのでありませう。詩人はこの後、もう一冊詩集を出して社会人となり、本名の「勝承夫」に戻って前述の詩集『白い馬』を出して(おそらく)評判を落とすかたはら、むしろ民間作詞家として佐藤惣之助のやうな名声を博します。さらに戦後は母校東洋大学の学長も歴任して当路の人に化けるのですが、詩風にとどまらぬ生きざまの変遷はともかく、最初に読んだ『航路』の堅実な抒情詩について、同じく大正期にデビューした詩人達が刊行した戦後詩集と等し並みにして軽視してゐたのは私の間違ひだったと悟った次第。これは苦労して人格陶冶した結果のぼりつめた詩境だった訳です。さういへば勝承夫は河出書房版『日本現代詩大系』でも、第6巻の大正民衆詩派ではなく、第9巻に昭和抒情詩として紹介されてゐます。同巻にはやはり処女詩集を無視されて茲に編入されてゐる野長瀬正夫もゐて、なるほどと思った次第。
今回、詩集の中になぜか「大垣」と題された「御当地ソング」がありましたので紹介します。布袋鷺山といふのは楽焼師の名らしいです。当時の大垣といへば稲川勝二郎と高木斐瑳雄が起こした角笛詩社があった筈ですが、東海詩人協会の面々が「東都で評判の若き天才詩人」を呼んで一晩語り明かしでもしたのでせうか。このあとに名古屋の客舎に病臥する詩が3篇並んでゐるので、当時の詩誌を丹念に調べ上げたら何か記事が出てくるかもしれません。
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やす
:2010/03/13(土) 18:09:21
詩集『春と修羅』
本日わが家に宮澤賢治の詩集『春と修羅』の初版本が到着しました。
正月に上京した際、神保町の田村書店の御店主に「欲しい本はまだあるの?」と尋ねられ、欲しい詩集で私が買へるやうなものはもう…と言葉に詰まり、ただどんな状態でもよいので、もし私に買へそうな一本が入荷したら、この詩集だけは是非御連絡して頂けたらと、それまでにも方々で話ししてゐた高嶺の花を口にしたのですが、その天下の名詩集がたうとう我が目の前に。私有物として手に取ることはないだらうと諦めてゐただけに、望外の喜び・感慨一入、雀躍してをります。状態もどうして分不相応に良好(笑)です。
この本、日本近代文学館から何度も刊行されたので、復刻版を持ってゐる人は多いのではないかと思ひます。とても感じよく出来てゐるので、私も若いころはぶらり旅に携行して、山稜や高原に寝転がって披いてゐました。中原中也ぢゃないですが、安く売ってると買ってきて何度かプレゼントにもしました。私が「詩といふもの」に出会った最初の詩人にして、今でも一番に尊敬する自然詩人「石こ賢さん」。その生前に刊行された唯一の詩集です。生涯の宝物として大切にします。本当にありがたうございました。
(ただしかし、妹を思ふ詩を、斯様な今、読み直す破目に陥らんとは。苦笑)
一句。 春が来て心象スケッチ修羅も来ぬ。
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:2010/03/14(日) 00:48:12
『春と修羅』の製本について
この『春と修羅』ですが、初版本を手にしてみて初めて気付いたことがあります。研究者や古書店の間では知れ渡ってゐることなのでせうが、まず16ページではなく8ページ分を一枚の紙に刷ってゐるらしいといふこと、それに合せて製本が普通の本のやうな「糸かがり」ではなく、「打ち抜き」と呼ばれる原始的な方法に依ってゐるといふことです。
打ち抜き製本とは、一冊分の丁合をとった束にブスブス穴をあけて紐で綴ぢたもので、図書館で雑誌を合冊製本するときなんかに使ひます。小倉豊文氏は「『春と修羅』初版について」のなかで、地元花巻の印刷屋には手刷の小さな機械しかなかったことに触れてをり、もちろんそれが原因でせう。
ではなぜこの田舎の印刷屋を使ったかといふことになるのですが、同じ町内のよしみで、とか、風変りな段組や使用字の指定には一々指示を出す必要があったから、とか考へられはしますが、費用節減のためといふのが一番の理由でせう。丁合作業はたいへんですが手伝へばいいのだし、小さな印刷機で刷れ、綴じる手間もこの方法が一番安く済む…なにしろ私自身が田中克己先生の日記を刊行する際に採用した方法ですから(笑)。
小倉豊文氏の文章で「殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い」とあるのは、だから「殆ど毎日、印刷現場に立ち会ひ、丁合をとる手伝ひにもこの印刷屋に通」った、といふことではないでせうか。「往復の途次には 校正刷を持って関登久也の店に立寄り」とありますが、もしかしたら校正刷りではなく、近世活字本のやうに順次刷りあがっていった現物を持って行ったのかもしれません。だって毎日「校正」に通ったにしては、あまりにもこの「心象スツケチ」、誤植が多いですから(笑)。でもって誤植があまりにもひどいページだけは切り取り、そこだけ一枚あとから差し込んで繕ってあったりする。或は同じページを2度印刷しちゃったんでせうか。ここ(202-203p)には「製本後に」切り取られた紙が残ってゐるのですが、落丁ではないのです。
目立つことなので、すでに誰かが書いてゐることだとは思ふのですが、詩人の作品については語る言葉をもちませんので、どうでもよいことを一応紹介しておきます。
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:2010/03/14(日) 01:06:35
文圃堂版『宮澤賢治全集』
ついでにもう一丁。これは昨年オークションで落札した不揃ひの旧版全集。なかになんと最初の全集である貴重な「文圃堂版」が一冊混じってゐました。けだしこの装釘で当時の詩人たちは宮澤賢治を読んだわけです。昭和10年といふ出版文化のピーク時にあって、造本、サイズ、装釘すべてが出色の出来。その後を引き継いだ「十字屋版」にどう受け継がれていったかもよくわかります。参考まで。
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:2010/03/19(金) 11:37:22
【おしらせ】
停電に関連しWEBサーバを停止します。この間ホームページがみられません。
3/19 19:00 〜 3/20 10:00の間を予定してゐます。
よろしくお願ひを申し上げます。
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やす
:2010/03/20(土) 11:28:07
お薦め一般書
漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ(一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』(2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていって一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でですが)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなったのでここまで。)
「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁みて感じている。『昭和のエートス』68p
WEBサーバ復旧しました。
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:2010/03/29(月) 00:47:43
歌誌『桃』終刊号
歌誌『桃』の641号をお送り頂きました。終刊の実感が湧かないのは、毎号お送り頂いてゐた事を空気のやうに思ひなして居った私などでなく、もちろん主宰者の山川京子氏自身が一番さうであるには違ひなく、氏が雑誌の終焉にあたって最後にしたためた文章(「桃」のはじまり)は、56年前の創刊当時を回顧され、その心情を忖度するになんとも云へぬ気持になるのですが、またこの雑誌を起こすやう強く勧められたといふ、作家松本清張が父方の従兄であったことなど、初耳の御関係にも驚かされた、貴重な回想文でありました。
とまれ、此度の終刊に際しては、折口信夫、保田與重郎、中河与一夫妻ほかの諸先達をはじめ、本来なら創刊当時の同人も一言なりとも感想を寄せられるべきところ、主宰者を除きそろって幽明境を異とする有様。代はってたまさか私ごとき後学が蕪辞を草し、伝統ある雑誌最終号の誌面をはしなくも汚すこととなった、その忝さと晴れがましさに、胸の詰まるやうな感慨、および御縁の不思議を覚えてゐるところです。
由来、私は和歌といふものに迂遠で、『桃』誌上における京子氏の選評も、作意のありありと現れたものより顕れないものを称揚される「保田與重郎ゆずり」の姿勢であることに、一種の畏れを抱いてをりましたから、夫君の山川弘至のことを詩人として祖述する文章はともかく、今回ばかりは拙劣な歌でも添へねばと思ひ四苦八苦しました(笑)。いざ自分で作ってみると、詩と同様にこねくり回さないと気が済まず、短いですから煮詰まって自分でもよくわからぬものに凝ってしまふ。歌詠みとして、さうして歌の鑑賞者としても失格(こちらは古典の素養がないから)であることは自任してゐましたが、同人の方々の、日本人として当たり前の日常を淡々と詠み重ねてゆかれる姿勢には、ですから本当に頭が下がります。ぜんたい私がインターネットといふ時代の利器を使って過去の詩人達を好き勝手に祖述しようなどといふ試みが、自身の作意と成心の表れに過ぎない訳ですが、顧みて営々たる歩みの「桃」にはさういふ邪心が一切ない。久しい前から世間では、短歌俳句ブームによる多くの歌誌や句誌が乱立してゐますが、茲に「あざとい個性の発現」を善しとしない国風の短歌雑誌が、創刊当時のまま棟方志功の表紙絵を掲げ、半世紀もの歴史を脈々と保ってきたことに、本当に格別な感慨を感じるのです。つまりその歴史が閉じられたことに際会してゐる自分をも、大切にしてゆかなくてはと、「実在する伝統」の終焉に際して思ひ至りました。「胸の詰まるやうな」とはさういふことです。
その奇しき際会の思ひを主調低音に、滔々と歌ひ上げられたのが、今回末尾に掲げられた野田安平氏の長歌でありませう。氏にはメールで「今後を託されてゐるといっていい野田様の述懐には、皆さんの注目が集まりますから」と、何を書かれるのか期待したのですが、なんの、万感極まる念ひの丈を一首に託し、このひとが未だ回想モードに入ってゐないことに、却って伝統が途切れることなく託された様子をみて、頼もしく思った次第です。
巻末に、京子氏は亡き夫君の詩作の中から二編の詩を掲げられました。けだし詩人の絶唱のなかからさらに選ばれた極めつけの二編として、これは山川弘至の代表作と京子氏自らが認定したことを意味しませう。今後、昭和の詩をアンソロジーに編む際には逸することのできない、まことに戦慄を秘めた抒情詩、心に迫る作品と私も思ひましたので、詩に関する掲示板として、あらためてご紹介したいと思ひます。( 『詩歌集 やまかは』1947所載)
君に語らむ 山川弘至
君に語らむみんなみの
荒き磯辺に開きたる
名知らぬ花の紅の
波高き日はその影を
寄せくる潮に砕きつつ
波しづかなる夕ベには
その美はしき花影を
ひた蒼き水に映すかな
ああ荒磯の岩かげに
はかなく咲きし紅を
君知り給ふことありや
大和島根を遠く来て
このみんなみの荒磯に
北にむかひていつの日も
ひそかに咲きし紅を
君知り給ふことありや
夕荒潮の鳴るなべに
雁の使も言絶えし
この岩かげの潮の間に
かつがつ咲きし紅の
花の色香はいつの日も
高くにほひてかはらねば
ことしげき日もみんなみの
かの岩かげを忘れ給ふな
ふるさと 山川弘至
そこに明るい谷間があり
そこに緑の山々まはりを取りまき
そこに深き空青々とたたへゐたりき
おほぞらを渡りて吹きし風のひびきよ
あかるく照りし陽の光よ木々のそよぎよ
雲はしづかに 白く淡く
かの渓流のよどみに映りゐたりき
ああ思ひ出づ かの美はしき時の流れを
ああ思ひ出づ かの遥かなる日々の移りを
かしこに 我が古き日の幸は眠りたるなり
かしこに かの童話と伝説は眠りたるなり
思へども思ひ見がたき かの遠き日は眠りたるなり
かの山深き谷峡の村に我が帰らむ日
かのふるさとなる古き大きなる家に我が帰らむ日
太陽はげに美はしく四辺を照らし
あまねく古き日のことどもよみがへられ
あまねく遠き日の夢はよみがへらむ
げに 古く久しく限りなきものよ
汝! そはふるさと
げに 常に遠くありて思ふものよ
汝! そはふるさと
我 かのしづかなる山ふところに いつか
常とはに帰り休らはむ日
そこにこそ かの背戸山の静かなる日溜りに
幾代もの祖先ら温かくそのしたに眠りたる
かのなつかしき数基の墓石
我が やがて帰らむ日を 待ちてあらむ
戦前の生き方を節操として体現し、示し続けてこられた世代も、京子氏のやうな数奇な運命に翻弄された当時の若者を最後に、この日本から消えようとしてゐます。国ぶりの変貌を、なほすこやかな言霊を信ずることで、些かでも回避することができればといふ願ひ。
雑誌は終刊しても京子氏を中心とした歌会は、引き続き行はれるとのことです。『桃』の歴史を閉じるにあたって、ここにても御礼かたがた、京子氏の御健康を切にお祈り申しあげます。
ありがたうございました。
【追而】
また、山川京子氏も執筆してをられる、『保田與重郎選集・全集・文庫』に付せられた月報の文章を纂めて成った『私の保田與重郎』といふ浩瀚な回顧本が、今月新学社より刊行されました。最初に出た南北社版の著作集には、月報執筆のトップバッターとして檀一雄と田中克己先生が書いてをり、その意義を編者の谷崎昭男氏がいみじくも後記で次のやうに記してをられます。
生前の出版にかかる「著作集」と「選集」には、装偵がいづれも棟方志功の手になつたやうに、収録作品の選定から月報の執筆をたれに依頼するかについて、編集者の考へ方はそれとして、当然著者の意向が反映されてゐなければならない。「著作集」の月報の最初を檀一雄と田中克己の文が飾ったのは、他の何といふより、友誼を重んじた保田與重郎の為人を偲ばせる(654p)。
偶然知った新刊本ですが、合はせて宣伝させて頂きます。
『私の保田與重郎』谷崎昭男編 -- 新学社, 2010.3, 658p.\4200
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やす
:2010/04/04(日) 23:08:01
蔵書刊行年記録更新
オークションでおとした『再遊紀行』といふ古本が届く。見返も刊年記も無い本ながら、大きな版型(27.4×19.2cm)と江戸中期以前の漢詩集独特の文字体がなんとも古めかしい。東海道中の紀行漢詩集ですが「萬治時己亥季春嘉再遊于東都・・・」の自序があり、予め刷り重ねた風の朱線が「嘉」の字の真ん中に入ってゐて、調べると山崎闇斎だと分かります。巻末にも「二條通松屋町武村市兵衛刊行」とあって、ネット上で
「武村市兵衛は初代二代ともは闇斎門人で、三代目が享保十四年に没して廃業したらしいが(藤井隆『日本古典書誌学総説』158p)、元禄十一年『増益書籍目録』などを見る限りでは、闇斎・敬斎・直方・慈庵などの崎門学派の書のほとんどが武村市兵衛の出版にかかるようである」
との 記述に遇ひました。しかし「万治」って…万延ぢゃないですよ。吾が「ごん太に小判蔵書」の刊行年記録が、これまでの『蛻巌集』(寛保二年)から、またさらに百年遡及して更新されたのですが、こんな稀覯本が、私ごとき一介の図書館員のお小遣ひで買へる国って…絶句です。
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やす
:2010/04/10(土) 21:02:27
荘原照子聞書 第10回目 金沢時代
鳥取の手皮小四郎様より『菱』169号を御寄贈いただきました。
詩人荘原照子の聞書、第10回目となる今回は、彼女ら一家が岡山で食ひ詰めて金沢育児院に移住した1ヵ年半の出来ごとについてです。ともすれば主観に流れ、思ひ込みに固執する聞書が、手皮さんのフィールドワークと稀少な地元文献の博捜によって補強・訂正され、伝記的事実として明らかにされてゆく様は、毎度のことながら説得力に富んで聞書の域を超えてをります。
この昭和6、7年といふのは詩人にとって、中央詩壇にデビューする直前の最も暗鬱な時代、といふ位置づけが「結果的に」なされるやうですが、後年のモダニズム詩人が生活苦のあげく、伏字の施されたプロレタリア詩さへ書いてゐたといふ事実はまことに衝撃的で、当時はモダニズム系の詩誌でも、例へば「リアン」のやうにマルクス主義を標榜するやうになるグループもあるにはあったのですが、彼女がキリスト者であったこと、羸弱であったこと、さうして末尾の年譜で手皮さんがおさへてをられるやうに、この年の「詩と詩論」に左川ちかや山中富美子が華麗なモダニズムを挈げてデビューしてゐる事実を思ふとき、ルサンチマンの極にあった詩人の精神生活が、革命思想に向かふことなく、むしろ一種の頽廃を宿したモダニズムの美学を許容してゆくことになる、この時代は正にそんなどん底の分水嶺、蛹の時代であったのかもしれない、と知られるのです。
これは何といふ哀しい馬だ
骨と皮ばかりの
何といふかなしいゆうれいり馬らだ!
(中略)
これらよはいものたちの吐息をはつきりきいた
否!否! じつにそれことは
サクシュされ利×され 遂にはあへぎつつゆきだほれる
わたしたち階級の相(すがた)ではなかったか!
その日
第××××隊がガイセンの日!
わたしは病む胸を凍らせる
北国の氷雨にびしよぬれ乍ら
とある町角に佇ちつくしてゐた!
ふかい ふかい 涙と共に!
「我蒼き馬を視たり」部分(『詩人時代』2巻12号1932.12)
「利×」が「利用」とわかっても、「第××××隊」について「育児園近くの出羽町練兵場で上海事変から帰還した歩兵第七連隊の兵士を迎えた時のものと思う」とさらっと書くには、調査の労と教養の下地の程が思はれるところです。物語は次回、いよいよ一家で上京、さらに夫・子供たちとも別れて独り横浜に移った彼女が中央詩壇にデビュー、といふことになる由。一体どういふ事情なのか、さうして詩がどのやうに変態を遂げて羽ばたいてゆくのか、手皮様からの報告を見守りたいと思ひます。
さて新年度を迎へて慌ただしいなか、「季」の先輩舟山逸子様より「季」92号を、富田晴美様からは図書館用に『躑躅の丘の少女』をもう一冊御寄贈にあづかりました。
御挨拶も不十分で申し訳なく存じますが、ここにても再び皆さまに対しあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。
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:
二宮佳景
:2010/04/21(水) 21:07:28
追悼 堀多恵さん
作家堀辰雄の妻多恵さん(筆名・堀多恵子)が96歳で他界された。
堀辰雄は昭和28年5月に信濃追分で亡くなつた。病気と戦争で十全な創作活動ができなかつたのは不幸だつたが、その死後ある時期まで、10〜15年に1度の割合で全集が大出版社からコンスタントに出たのは、漱石を除けば、おそらく近代日本の文学者では堀辰雄だけだつたのではないか。
生前、すでに角川書店が作品集を出して居たものの、最初の全集は没後すぐに企画され、新潮社と角川が激しい綱引きを演じ、角川源義の師である折口信夫が仲裁に登場する一幕もあつた末に新潮社が出版した。角川は10年待つた後で、河上徹太郎に解説を書かせた全集を刊行。さらにその後、堀の愛弟子といふべき中村真一郎と福永武彦が編集した決定版全集が筑摩書房から世に送られた。
大学生の頃一時期、堀辰雄にイカれて居た。あの生と死を見つめた甘美でありながら強靱な精神が確乎として存在する世界にあこがれてやまなかつた。バイト先の古書店で、上品な白い箱に濃緑の帯がついた筑摩の決定版全集を羨望の眼差しで見つめて居たが、結局学生時代はあまりにも高価で入手できなかつた。この完全版全集は後に、堀の著作権が消滅する直前に筑摩から復刊され、この時やうやく新刊の形で手に入れることができたのだつた。
書物の世界だけでは満足できず、バイトで貯めた金を使つて、信州まで足を伸ばした。「美しい村」に登場した岩や、エッセーで書かれた石仏を直接目にできたのは嬉しかつたが、軽井沢も堀の終焉の地となつた信濃追分も、やはり高度経済成長の波に洗はれて見事に俗化して居た。強く失望して、その後、軽井沢には足を踏み入れて居ない。
その際、堀ゆかりの油屋に宿泊したが、その際主から「多恵さんならこの前おみえになつて、しばらく青森で過ごされると仰つて居た」とのことだつた。夫人がお元気であることに一抹の安堵を覚えた。また、この時は足を伸ばさなかつた「風立ちぬ」の舞台となつた旧富士見高原療養所は現在、農協の施設になつて居ると聞いた覚えがある。ただ、信濃追分の森の中の、澄んだ空気にはなるほどここは療養にはふさはしい場所だと強く感じたものだつた。
その多恵夫人が書いたエッセーの数々だが、病人や病気、その看護を描いたものであるにもかかはらず、決して暗くならず、明るいユーモアを湛へたもので、読後こちらが元気になるやうな文章だつた。書き手のお人柄といふものを強く感じさせる文章であつた。多恵さんはどこかで「堀は戦後、中村さんや福永さんの書いたものの中で生きてきた」と書いてをられたが、ご自身の著作の中でも、夫である堀は生き続けたのだ。産経新聞に連載されて角川書店から出された『堀辰雄の周辺』は、連載当時から本当に愉しく読んで、続きが楽しみで仕方なかつたものだ。連載には、後に中央大学の学内誌を編集されたT記者が尽力したのだつた。そのTさんから
「多恵子さんはまだ元気なんだろ? 年賀状送るのに確かめようと思つてさ」
と新井薬師に住んで居た頃、突然電話をもらつたことがあつた。今回改めて、多恵さんによる「あとがき」を読んで、これが本になるにあたつて、風日舎のYさんが編集にあたられたのを知つた。角川時代の最後のお仕事だつたのか。単行本になる際に併せて収録された中野重治や福永武彦への追悼文もいい文章だつた。小林秀雄が死んだ時に『文藝春秋』に、小林と堀が旧制一高の頃、野球やキャッチボールをする間柄だつた云々と短い文章(談話?)が掲載されて居たはずだが、その文章は収録されなかつた。
ある時、著名な批評家の夫人が多恵さんについて、
「あの方は文章家ですもの」
と感に堪へないといつた口調で言はれたことがあつた。そして、
「堀さんは、あの方(多恵さん)だから結婚されたのでせう」
とも仰つた。夫人と多恵さんはほぼ同じお年だつたはずだ。妻は妻を知る、といふことかと思つたものだつた。
堀辰雄の死後、半世紀以上も一人歩み続けた多恵さんの偉大な足跡を目にする時、はるかなるものを仰ぎ見るやうな気持ちがする。矢阪廉次郎氏の学会発表の際に紹介していただいた竹内清巳氏から、江藤淳の「幼年時代」批判を気にした多恵さんが、はるばる九州まで足を伸ばして、堀の養父であつた上條松吉の工場で働いて居た弟子のところに、堀と上條の関係を聞きに出かけたと聞いた。夫とその作品の名誉を守らうとされたのだなと少なからぬ感動を覚えたものだつた。何よりも、堀未亡人ではなくて、随筆家堀多恵子の書くものに、常に敬意を払つてきた。それは今後も変はることはあるまい。
堀多恵さんの逝去に、心から御冥福をお祈りいたします。
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やす
:2010/04/21(水) 23:49:38
とりいそぎ
もう帰らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。
存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。
匿名氏の二宮佳景さん[鮎川信夫ペンネーム]、お報せありがたうございました。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm
482
:
やす
:2010/04/22(木) 22:50:33
追悼
堀多恵子氏が逝去された。96歳といふから天寿を全うされたといってよいのだらうが、図書館に勤めてをりながら知らずにゐた。迂闊であった。
四季派といふ、エコールといふより氛囲気と呼んだらいいやうな現象を、基底から醸成してゐた堀辰雄。その職業文筆家らしからぬ、詩的で知的に洗練された西洋風の有閑を愛する資性と、また実際に植物のやうな有閑でなくては身が保てなかった健康を、夫人として側らから理解し支へ、亡きあとは遺影を抱いて、時代とともに「青春の記憶」と遠ざかりゆくイメージに殉ぜられるままに、操を守られた。夫婦の有り様、ことにも結婚について私がことさら引き合ひに出して思ったのは、日夏耿之介である。生涯の頂点となる仕事を成し遂げたのち、そのままそこに留まると連れて行かれさうな精神の高みから、再び現世に生身の作家を引き戻し、子のない余生の充実に貢献したのは、実に年の離れた包容力のある夫人の坤徳に与るところが多い、といふ気がするからである。
もっとも当の夫君が、頭脳明晰の後輩達から先生と慕はれたのも、書かれたものと書いたひとから立ちのぼる悠揚迫らぬ香りと人徳に他ならない訳であって、さしずめ野村英夫を馬鹿にしたり、堀辰雄の芳賀檀への親近を訝しげに眺めて、四季・コギトの気圏から最も遠い所に位置してゐる加藤周一などは、頭脳明晰の後輩の雄たる存在だが、堀辰雄が好もしいと思ったのはもちろん血筋ではなく、育ちの良さにありがちな正直で向日的な詩人的資性に対する親近なんだらうと思ふ。彼自身は下町の出身だが、さういふ「生存力からみた本質的な弱者」への労はりが、若いころは才気走ったものが好きだった、この穎才の心情の基底には(己が身にも引き付けて)あるやうな気がしてならない。加藤周一が中村真一郎とともに多恵子夫人と行った『堀辰雄全集』最後の月報での鼎談で、夫人が野村英夫をフォローする発言を何気なく繰り返してゐるのは、さうした夫の心情の一番機微のところを、敏感に察して彼女自身のスタンスとしても受け継いでゐる証しなのである。さうでなければ、彼らとは文学的立場も社会的立場も対偶にあったやうな吾が師、田中克己が堀辰雄とともに夫人をも徳として仰いだ理由は説明できない。同じキリスト者でもあり、戦後の抒情詩否定の風潮のなかにあって、この人は全てが分かって下さってゐる、といふ安心があったのであらう。
私自身も、自らの詩集をお送りした際の受領のご返事として、厚情のこもったコメントを附した御葉書を二度、多恵子様からは頂いてゐる。今は亡い先生達から頂いた礼状とともに生涯の宝物である。また田中先生が亡くなって形見分けに御自宅に呼ばれた際、すでに末期がんで臥せってをられた悠紀子夫人を見舞ひに訪れた多恵子様と、偶然御挨拶を交す機会にめぐまれたが、それが最初の最後となってしまった。いづれも20年も昔の話になるのですが、今更ながら御葉書を掲げさせて頂き、個人的な思ひ出とともに偲び、茲に追悼いたします。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000635.jpg
483
:
やす
:2010/04/24(土) 21:46:26
追而
本日、『躑躅の丘の少女』を刊行された富田晴美様よりお電話をいただきました。そして堀多恵子様とは、亡くなる前の週に電話でお話をされ、此度の出版についてあらためて労ひの言葉を賜るとともに、なんと4月14日には追分への訪問も約束されてゐたといふことを聞いて吃驚。その後に自宅で転んで額を怪我され、治療に入院した病院で肺炎に罹ってしまはれた、とのことです。それでも約束の14日の時点では自宅から、「少し延期すれば大丈夫」との御返事だったと云ひますから、大事になるとは思ってをられなかっただけに、逝去と事の顛末を知らされたときには驚かれたさうです。御母堂の遺稿集『躑躅の丘の少女』と、多恵子様の序文(2009.7.3)と、両つながらいみじき形見になってしまったことについて、さぞかし感慨の尽きぬ胸中かと拝察申し上げます。以上御報告まで追書きいたします。
484
:
やす
:2010/04/29(木) 19:21:06
連休週間
さきに二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文(『清廿四家詩』について「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読ませて頂いてをります。
さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。
また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。
連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。
『幼学詩選』 序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶を好めり。[吟]唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やがて)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。
跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地下にて破顔するべし。
時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
藤城山人(村瀬藤城)
485
:
やす
:2010/05/21(金) 00:37:05
ニュース 三つ
目下『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定との進捗状況をお知らせ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるのでせうか、たのしみです。
さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。肝煎編集方に恒例の最強パートナーを迎へ、「開運!なんでも鑑定団」でも目利きを発揮されてゐる御店主によって、「間違いなく空前のラインナップ」の詩集たちが、人気と稀覯度と相俟って金額で表示されるのですから、触れこみがその通りなら当節古書界の大事件です。もちろん編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目録』(1986年)があるのは間違ひなく、今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興味津津です。ただし全ページ高価な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。
ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万人・・・是亦感無量哉。
486
:
やす
:2010/05/07(金) 09:45:28
10万アクセス御挨拶
サイトのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、この10年間で10万アクセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さまには厚く感謝を申し上げます。
顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流にフォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。
電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野ですが、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばかりか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれた先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いです(笑)。
このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません。
感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。
読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま写しました。ご覧ください。
487
:
やす
:2010/06/02(水) 12:14:49
『遊民』創刊号
職場の図書館まで資料レファレンスにお越し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 4〜15p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。
?
岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にもなった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。
とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76歳(!)、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げます。ありがたうございました。
同人誌『遊民』創刊号108p \500 遊民社
488
:
やす
:2010/06/02(水) 13:17:32
『伊東静雄日記 詩へのかどで』
昨日はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。
用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノートを、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同情するところです(笑)。
此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるものかどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係ってそこにありませう。しかしながら編者が、
「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と相違点とに、なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これはとてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、(十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編集後記522pより)
と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。
詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることができるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。
「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書かれた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中略)
本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略) (編集後記より)
『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行
内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日
ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日
ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日
ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日
ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日
編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏
\7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1
【参考】asahi.com(朝日新聞社) 2010年5月13日記事リンク
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000641.jpg
489
:
やす
:2010/06/06(日) 23:07:18
『杉山平一 青をめざして』
杉山平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂きました。最初手にした時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してなりませんでした。このたびの一冊は実に、この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあまり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。
「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんですね(95p)」
「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね(108p)」
などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんはそれを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程(76p)」
と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、
「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」
とか、
「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思想がね、ぼくは一部にあるんですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」
との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読んで、杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の関西詩壇の先人たち
山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳) 、杉山平一(47歳)
に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3号所載)でなく、当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく回想してきた話に時間を割かれ、初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。(217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なんて説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。
「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをります。先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが四半世紀前のことにして、先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。
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490
:
kiku
:2010/06/07(月) 02:39:35
(無題)
大変ご無沙汰しております。
ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか?
491
:
やす
:2010/06/07(月) 10:28:12
(無題)
kikuさま、こちらではおしさしぶりです。
書誌を記し忘れてをりました。まだamazonにはupされてゐないやうですが、
安水稔和著 『杉山平一 青をめざして』価格:2,415円 :編集工房ノア :2010年6月:235ページ/20cm ISBNコード:9784892711831
です。
旧「モダニズム防衛隊」(過去ログ参照 笑)としては「鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた」なん一文は聞き捨てなりませんよね。その後に続き、三好達治から創刊間もない「四季」で自分の初期の投稿詩が没にされた上、誌上でダメだしされた思ひ出を語ってらっしゃるんですが(130p)、そこで先生が反省されるところの「これ見よがし」のウィットや「手振」なんてのは謂はばモダニズムの表情であって、それを矯めるなんてのは、それこそ 「詩と詩論」から決別した当時の三好達治の事情ではあっても、新人にとってはモダニズムの芽を摘むことに他ならない訳です。まあ、小賢しい機智を弄する二流のモダニズム詩人なんかにはなるな、と、入選ラインを高くすることで若者を惹きつけてゆく三好達治の「師」としての手振が一枚上手だったといふことなんでせうが、先生そのあとに、「本当の意味がわかるのに数年かかりました」なんて殊勝に仰言ってます。もちろん「四季」の詩人として自分のスタイルを見定め得たからのことですからね、杉山先生の言葉は大阪弁の簡単な一言に含蓄がひそんで居ったりする、講演はそこがいいですね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000644.jpg
492
:
kiku
:2010/06/08(火) 01:15:37
感謝
詳細な書誌情報、ありがとうございます。早速注文したいと思います。
“鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた”あたりの事情も面白そうですけど、やすさま仰るように、講演やインタビューでの発言に結構な本音が垣間見れるんじゃないかなァ、なんて思ったものですから。
「燈下言」もわざわざアップしていただき、ありがとうございました。
三好の論評はまさしく正論ですね。どれほど機智に富んでいようと、それを“これ見よがし”に示し、己が機智を誇るために詩をつくる詩人なんてつまりませんからね。杉山氏が指摘された「浮薄の手つき」は所謂若書き故でしょうし、こうした叱咤激励、薫陶を受けたからこそ、詩人杉山平一として確固たる軌跡を刻む事ができたのでしょう。
それにしても、「懼れてもなほ懼れ足りない、夢寝にも忘るべからざる金戒であらう」との提言、時代やキャリアに関係なく、今なお(否、今だからこそ)以て銘とすべき言説だと思います。
って、話がちょっと脱線しちゃいましたネ。妄言多謝。
493
:
やす
:2010/06/23(水) 00:09:34
『続々・中部日本の詩人たち』
このたび多治見在住の織部研究家、久野治様より詩人伝記シリーズ第3弾『続々・中部日本の詩人たち』の御恵送にあづかりました。
さきの二作に於いてもさうでしたが、地元中部詩壇の生き証人としての翁(御歳87歳)に、私が一番求めて已まぬのは「あの詩人はこんな恰好でこんな顔をしてこんな風に喋るこんな癖のある人だった」といふ、詩人が遺した著作からは窺ふことのできない印象記でありました。このたびも翁の「肉声」を探しながらの拝読でしたが、3冊目ともなると直接交流のあった人も少なく、この点は憾みとして残ったかもしれません。一方これまで出番なく隠れてゐた詩人が、今回もビッグネームと同等のページ数を割かれて紹介されてをり、同人誌の連載だったからでせうが、地元で刊行された意義に感じたり、また連載が一人に余る分量のときには、周辺の詩史や所縁詩人の紹介もふんだんに挿入して「道草」してをられるのを、執筆の御苦労として偲んだ個所もございました。もとより翁御自身の一大伝記をこそ書き起こして頂きたい気持ちは今も変りませんが、かうして今3冊を揃へて並べて見ますと圧巻の観を禁じ得ません。
稲川勝次郎詩集『大垣の空より』のテキストが、何篇も印刷に付されるのはこの本が初めてでありませうし、一方詳しく書いてほしかったのは「詩文学研究会」の大所帯を率いてゐた梶浦正之の、戦前戦後をまたぐ消息でした。詩文学研究会の叢書詩集からは、書かれてゐるやうに木下夕爾の『田舎の食卓』のやうな、後世に残る名詩集も輩出してゐますが、多くは無名で、それも出版事情が悪くなる戦時中、同人達が戦地へ赴く際に遺書のやうな気持をこめて刊行した、地味ながらつつましい小菊のやうな印象を与へる詩集が多いやうに思ひます。最後はガリ版刷で刊行が続けられた事情の一切を、主宰者である梶浦正之は把握してゐる筈であり、感慨もつきぬものがあったでせうから、戦後、実業界に転じたのち回想が残されてゐないのは残念と云はざるを得ません。一体何冊刊行されたのか、書誌の全貌さへ未だにわかってゐないので気長に採集してゆきたいと思ってゐます。
ここにても新刊のお慶びとともに篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
『続々・中部日本の詩人たち』中日出版社:2010年 05月 367p
収録詩人:金子光晴・福田夕咲・稲川勝次郎(敬高)・佐藤經雄・浜口長生・錦米次郎・春山行夫・梶浦正之・稲葉忠行
『続・中部日本の詩人たち』中日出版社:2004年 01月 309p
収録詩人:伴野憲・中山伸・長尾和男・鈴木惣之助・中条雅二・坂野草史・和仁市太郎・吉田曉一郎
『中部日本の詩人たち』中日出版社:2002年 05月 322p
収録詩人:高木斐瑳雄・亀山巌・北園克衞・佐藤一英・日夏耿之介・丸山薫・殿岡辰雄・平光善久
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:2010/07/06(火) 12:25:49
御礼三誌
『朔』168号
圓子哲雄様より『朔』168号をお送り頂きました。
小山正孝夫人、常子様の回想エッセイ「人言秋悲春更悲」は、今回なかなか書きづらい消息、大学勤務時代の逸話の数々を明かされてゐて興味深く拝読。いったいに四季派の詩人たちは戦後、女子大や短大に赴任した人が多かったやうですが、皆さん当時は三十代の男盛りだった筈。しかも堀辰雄文学の薫染を蒙った抒情詩人な訳ですから、教養と学歴の向上が謳はれた文学部隆盛の時代、女子学生にもてない道理はございません。わが師でさへ修羅場もあったやに仄聞してをりますし(笑)、全幅の信頼をもって記されるも、当時の奥様にはさうさう心中おだやかな日ばかりではあり得なかったでありませう。
潮流社にも色紙が懸かってゐました、詩人のお気に入りの言葉「人言秋悲春更悲」。なにかしら堀辰雄が好きだった「一身憔悴対花眠」といふ詩句の一節にもかよふ気がします。さうしてこの「花」の原義が元来妓女を意味するところであったことを思ふと、今回常子様がタイトルに掲げられた「春」も、蘇軾の詩句や詩人の思惑を離れ、また別の趣きの深くも感ぜられるところではないでせうか。
『菱』170号
手皮小四郎様より『菱』170号をお送り頂きました。連載、モダニズム詩人荘原照子の伝記ですが、このたびは昭和7年から8年、金沢から上京ののち家族が瓦解してゆく足取りを辿ります。当人にとって最もデリケートな思ひ出に属してゐることから、この頃の具体的な「聞き書き」が少なくなるのは仕方ありません。その代はり、詩篇の描写を手掛かりにした手皮様の実地踏査が功を奏した回といってよいでせう。
新宿「希望社寄宿舎」での生活で体を壊した彼女は、僅か三月ばかりで母親と長兄の住まふ横浜へ引き取られてゆくのですが、夫君峠田頼吉との別居が子供たちとの別れともなった事情、夫婦間のことは分からぬながら、母親失格といふより、やはり手皮様が案ぜられる結核の疑ひなど、子供たちへの配慮もあったのかもしれません。
佳人の面影を伝へる肖像写真(『詩人時代』昭和8年1月号掲載)も紹介され、最後には「あるアヘン中毒の詩人」が詩人の「落魄の住家」に「足繁く通ふ」との謎の予告を以て終はる今回。次回はいよいよ「『椎の木』のころ」であります。詩中の描写を実生活に当て嵌める推論は、これまでのところまことに鮮やかに成功してゐますが、今回の『詩人時代』寄稿時代を最後に、独り身となった詩人はモダニズムの自由奔放な世界に傾斜してゆきます。韜晦もはげしくなれば、物証なき付会となり困難を極めませう。聞き書きとフィールドワークがものを云ふところ、それらを経糸と緯糸のやうに織り進んでゆく手皮様の手際が俟たれます。
『四季派学会会報』
あはせて國中治先生よりお送り頂きました『四季派学会会報』。文中の「ほめ殺し」には冷汗が出ました。先生何卒ご勘弁を(笑)。富田晴美様が刊行された 『躑躅の丘の少女』に係はり、私は仕事上「四季」掲載ページのコピーをお送りしただけで、尽力したなどとは赧顔の至りです。四季派学会に対しても、抒情詩 が学問対象となることに馴染めず、早々に会員の籍を抜いて「院外団」を決め込んでしまった、裏切り者であります。ひとこと訂正まで。
みなさま、まことにありがたうございます。ここにても厚くお礼を申し上げます。
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:2010/07/15(木) 12:02:52
収集本報告など。
まづは頼山陽の詩集。幕末〜明治にかけて実に夥しく刊行されてゐると思ってゐましたが、調べてみるとほとんどが後藤松陰が校訂した『山陽詩鈔』初版のバリエーションのやうです。注を付して補強したものといっては、
『山陽詩註』燕石陳人註 ; 銕齋漫士増校 耕讀荘藏 明治2年, , 8冊, 19m
『山陽詩解』根津全孝解 ; 杉山鷄兒閲 永尾銀次郎 明治11年, , 3冊, 19cm
『山陽詩鈔集解』頼襄子成著 ; 三宅觀集解 佐々木惣四郎 明治14年, , 4冊, 26cm
の三種ほどになるらしい。
このうち「三宅觀」は美濃加納藩の三宅樅台の手になるもので、小原鉄心が序を、森春濤が跋を書いてゐます(書き下し準備中)。また「銕齋漫士」は若き日の富岡鉄齋であり、8冊中前半4冊に関係してゐるやうです。知らない人が多いのか、手の出る値段で求められましたが、もちろん註も漢文。おいそれと中身に手が出ぬことが情けない。
次に梁川星巌の詩集。といってもこちらはアンソロジー。『[元号]何十何家絶句』などといふ名前で、これまた実に夥しく刊行されてゐますが、今回入手したのは生前最後に企図された『近世名家詩鈔』。刊行された安政5年は、正に大獄の始まった年です。その辺の事情を、早稲田大学図書館所蔵の万延2年刊行「再版」の画像と並べて比較してみました。興味のある方は【濃山群峰 古典郷土詩の窓】梁川星巌の項より御覧ください。
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:2010/07/16(金) 08:02:39
立原道造記念館の休館に寄す
立原道造記念館が今秋にも休館するさうです。さきに資産家の理事長が亡くなり財政的な後ろ楯を失った後、このたびまた館のシンボルであった堀多恵子氏を喪ったことが、一大痛惜事であったとともに、もはや赤字経営に見切りをつける良い潮時と判断されたのは、一面やむをえぬことのやうに思はれます。
ここが公の施設でないことは特筆に値すべきことでした。企画から運営まで一手に担ってこられた館長代理、宮本則子氏のボランティア精神に支へられて成り立ってゐた、私立の文学館です。私もそもそも出会ひのはじまりは、古本屋の目録から注文した2冊の詩集を脅かされてとりあげられた「事件」にあったのですが(過去ログ参照)、この十年余り、たびたび催し物の御案内や図録を頂いたり、展示の裏側も間近に拝見させて頂き、四季派詩人を主題に据える唯一の文学館として信頼もしてをりました。何の手落ちなく購入した詩集を私が古書店に返品したのも、氏が館の名前を出して説得されたからで、開館間もない頃のことでしたが、ここが社会的権威を保証する公器の文学館であることを信じてをりました。
館の広報サイト上では、掲載画像の解像度を故意に荒くしてゐることを聞きましたが、来館を念頭に置いた措置だったことでありませう。しかしながら経営難〜休館の話を聞けば複雑な気持です。今後は非営利の顕彰趣旨にたちかへり、貴重な資料のアーカイブ画像公開にもひろく協力されることを希望してやみません。さしづめ本サイト関連で申し上げるなら、館報第48号に紹介された「田中克己宛立原道造書簡」などは、この先どんな風に「お蔵入り」してしまふのか心配です。田中先生の教へ子だった方からの寄贈品の由ですが、私は現物の拝見はおろか、寄贈の事実も知らせて頂けませんでした。ホームページをチェックしなかった自分が悪いのですが、先日遅まきながらこの存在を知り、メールで問合せたところ、館報に掲載された封筒の写真さへ著作権を以て拙掲示板での紹介を丁重に断られた次第。けだし管理人の不徳が齎した結果なのでせうが、残念でなりません。
私設ホームページである本サイトも、扱ふ「ブツ」といっては画像とテキストだけでありますが、多くの人々から頂いた善意の情報の集積は、某かの形で次代に受け渡してゆく必要がありませう。他人事に思はれぬ気もし、今後のなりゆきを注視したいと思ひます。
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:2010/07/18(日) 01:17:29
詩集『媽祖祭』
ひさしぶりにドキッとする装釘の詩集が本屋さんから送られてきました。戦前の台湾詩壇の第一人者にして、凝りに凝った造本にエキゾチックな己が詩篇を刻んで世に送り続け、コレクター泣かせの詩人とも呼ばれた西川満。その彼が内地詩壇へ放った、実質的な処女詩集といっていい『媽祖祭』(昭和十年)といふ稀覯本です。別刷宣伝文のなかで長文の激賞を寄せてゐるのは、どことなく詩語の畳みかけ方が似てゐる「椎の木」の詩友高祖保。そして詩人のみならず、アオイ書房、野田書房、版画荘などプライベートプレスの主人や、恩地孝四郎、川上澄生といった装幀家からの言葉を珍重してゐるのは、此の人らしいディレッタンチズムの表明でありませう。内容も装釘も台湾趣味をふんだんに盛り込んだ彼の高踏的なスタイルは、早稲田人脈の先輩、日夏耿之介や台北在住の矢野峰人に好意を以て迎へられるところとなり、家産にも支へられた文学活動は、戦後に至って「日本統治下台湾文芸」の功罪そのもののやうに論はれてゐるさうです。
育ちの良い耽美的な姿勢が非難されるのは、品性を欠く逆恨みによる政治的な復讐にすぎません。外地において地方主義の立場でペンを執り続けた彼のことを「所詮植民地主義に過ぎない」と片づけることが、いかに人情を弁へぬ非文学的態度であるかは、却って彼が、皇国詩人のレッテルを貼られた山川弘至の遺稿詩集『やまかは』のために草した至醇の跋文を読んだら分かるでありませう。軍務の寸暇を惜しんでやってきた後輩詩人を、戦後になって愛しむその人柄に混ぜ物はありますまい。
若き日の田中克己も、学生時代に敢行した台湾旅行を偲ばせる彼の詩集には、おそらく一目置いてゐたと思はれます。名にし負ふ稀覯詩集の眼福に浴したいと念ってゐたところ、このたびあっけなく手に入ってしまひました。「詩集目録index」に書影をupしましたので御覧ください。
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:2010/07/23(金) 22:16:57
『桃の会だより』
山川京子様より、『桃の会だより』一号をお送りいただきました。『桃』終刊記念の歌会の様子を伝へる文章を読みながら、なにか終刊といふより、何周年かを記念する仕切り直しのやうにも思はれてならないことでした。懇親会もまた松本健一先生や保田與重郎未亡人典子様の来賓を得て盛会となりました由、お慶び申し上げます。
体裁を改めての機関紙創刊ともいふべき、このたびの『桃の会だより』ですが、活発な歌会報告を収めた内容に驚いてをります。このうへは、京子様にも御身体なにより御自愛頂いて、引き続き会の中心から目配りのゆきとどいた御指導をして頂かなくてはなりません。同人諸氏の希望を誌面から確と感じました。
また小山正見様よりも、某個人誌の回送を忝く致しました。連載が一冊にまとまるのが楽しみです。
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
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:2010/08/20(金) 00:47:59
熱血の詩人−桜岡孝治
詩集『東望』は店頭で見つけ中身を読んで買った。覚えをみると22年前のことである。表題の「柳―東望」といふ詩にしびれた。
柳 ―― 東望
一株の老柳あり
かたはら
土堤に程近き井の傍に立ち
東望のわが目を休ましむ
夏雲湧き立つ日も
吹雪枯枝を鳴らす時も
わが心その柳と共にあり
風に靡き
雨にうたれたり
春日 芽ぐみしその柳を
村人 来りて丁々と斧断せり
以来 東望するわが目は
穂麦の野をさまよひて
とどめあへず
(昭和十六年四月 河南省彰徳飛行場にて)
この詩人、只者でないと思ったら、伊東静雄の手紙に出てくるひとであることがわかったが、もとは太宰治に師事、そして山岸外史とは愛憎の深い関係にある後輩小説家であったこと、そして林富士馬・山川弘至とならんで『まほろば叢書』の著者の一人であったことなどは、長らく知らずにゐた。このたび『評伝・山岸外史』の著者、池内規行様より雑誌『北方人』14号をお送り頂き、この桜岡孝治といふ作家詩人の貴重なインタビューテープを起こした証言をもとに、「熱血詩人」のプロフィールや師であった太宰治・山岸外史にまつはる回想に接するを得た。山岸外史との絡みが激しく詳しく書かれてゐるのは、テープがもともと池内氏の山岸外史調査の過程で残されたものだからであらう。その成果は十二分に『評伝・山岸外史』のなかに活かされてゐる。今回、初耳に属することだけでなく、語り口から詩人の人となりまで窺はれる好内容となってゐるのは、肉声テープの威力であるとともに、やはりこの詩人と山岸外史が生半の関係でないからであるのは云ふまでもない。長尺のインタビューは、まさに文学史の裏側をかいま見る逸話に満ちたフィールドワークの賜物と思はれた。
太宰治が船橋でパピナールに毒され淪落の淵に沈んでゐた頃、文壇の先輩である井伏鱒二が「悪いとりまき連中がゐる」と言ってたいへん生活を心配してゐたといふ。結局精神病院に叩き込まれたり再婚させられたりすることになるのだが、指弾されてゐるのが具体的にいったい誰のことを指すのか、私は井伏のいふ所謂「とりまき連」からの証言を、その後の「鎌瀧時代」に密接だったコギト同人、長尾良が書いた『太宰治』といふ本しか読んだことがないので、よくわからなかった。それが主にこの桜岡孝治をはじめとする、太宰とともに山岸外史をも戴いてゐた後輩文学青年たちを指してのことであるらしい事が、まずこの聞き書きからは察せられるのであった。しかし物事は一方からの描写では(それも片方に圧倒的な発言力がある場合には)わからぬもので、当事者の不良文学青年側からの証言が、いたく真っ当なのを面白く思って聞いた(読んだ)のである。もっとも桜岡孝治といふひとは、礼儀に厳しい伊東静雄に助言を仰いだロマン派詩人でもあり、含羞すれど甘えは嫌ひで、戦争中は模範的軍人として(尤も模範でなくては当時本など刊行できまいが)、また戦後は養鶏事業を興し世俗的成功も収めてゐる。所謂頭でっかちの青二才文士とは範疇を異にする人である。むしろ10歳年長ながら、頭でっかち山岸先輩のド外れた非常識振りに苦言を呈しすぎ、たうとう絶縁破門された人物なのである。山岸夫人の評価も真っ向対立する二人として、連載前回の川添一郎に配するに、まことに好対照の人選とも思はれたことであった。
今回は、池内氏が『評伝・山岸外史』のなかで披露できなかった山岸外史に関するエピソードが、桜岡氏の口吻を以ってそのまま再現されてをり、貴重、といふか面白いといふか、ここまで書いて大丈夫か、でも事実なのだから仕方がない、といった感じの叙述でふんだんに楽しめる内容となってゐる。「青い花の会」で萩原葉子が髪の毛つかんでぶんなぐられた、ぶんなぐった男が山岸外史の家の玄関にふんぞり返って寝てゐる所をバケツの水浴びせかけてやったら夫人に怒られた、なんていふ武勇伝は、やはり「老いらくの恋」に関することだらうか。桜桃忌で禅林寺の鐘をガンガン突きまくるやうな荒事を敢へてやってのける山岸外史も、こればかりは「元寇」と呼んで記憶に焼きついてゐたのだといふ。桜岡氏はそんな彼について、
「政治性とか人におもねるところがない。書いたもので来いというのが真骨頂、良くいえば純粋、悪くいえば世渡りがへた。あれだけの人だから文学評論など、だれについてでも何についてでも書ける。政治論だって書ける。時流に外れるように外れるように、自分から仕向けていったところが多分にある。18p」
「火のような、空気の希薄な高い山で叫んでいるような、それこそ縄を帯にして荒野に呼ばわる者というところが多分にある20p」
と分析してゐる。いみじき理解者ならではの言葉だと思った。たしかに彼が政治(共産党)に求めたものは彼の非政治性によって全く裏切られたし、外史氏曰く人物評の面白さもちょっと比類がない。四季派の詩人たちとも関はりは深いが、エピソードから闊達に斬り込んで人物の本質を突いてゆく手法は、敢へて探すなら草野心平と双璧をなすものであらう。しかし縄を帯にして荒野に喚ばふといふことなら、桜岡氏いふところのモーゼやキリストより、むしろ屈原のやうな東洋の欝屈詩人の面影の方が近しい感じもする。
いったいに、所謂雑誌名としてでない現象としての「日本浪曼派」といふのは、政治的思想的には保田與重郎ひとりを血祭りにあげて象徴に据える一方で、文学論にひっかからないイメージの出所といふのは、多分にこの山岸外史の風貌から態度から、信条に殉じて老残に至るまで、一切駆引きのなかった奇特な人生の、「見栄え」や「居直り」に由るところが大きかったのではないかと私は思ってゐる。さうして若き日の彼から薫陶を受けた後輩たちが、「サムライ(無頼)文士」=「(井伏鱒二から見た)悪いとりまき連」といふイメージを引っ被ったまま、太宰治が雑誌「日本浪曼派」の同人だったことが経歴上、なにか一種の被害者だったやうなイメージを世間に植え付けるに大いに与ってゐる、不当に与ってゐる、そのやうにも思はれてならないのである。
桜岡氏が力説し、池内氏が提示してこられた「山岸外史を太宰治から切り離し、試しに彼を中心に眺めた時にひろがる文学史的眺望」から見えてくる景物といふのは、恐らく彼が書く人物評のやうに、書いたもので掛ってこいと云ひつつ人物本位の血のぬくもりを探し求めるやうな、いかにも熱血ロマン的評価に彩られたものとなるのであらう。文学史の裏側といふより、かいなでの文学史のすぐ下に、今は名前も埋もれようとしてゐる、かうした人達が渦巻く評価未定の人脈世界(ネットワーク)があること、それが文学の現場なんだよといふことに、このインタビューは気づかせてくれる。
「大柄な体格で黒縁めがねに色浅黒く、声高に話すエネルギッシュで情熱的」。盟友林富士馬とも何度か絶交状態になったといふが、ともに市井に隠れたる虎と呼んで差し支へないのだらう。むしろ江戸っ子気質で荒削りの人間味は、彼の上手を行ってゐるかもしれない。脇役たる証言者としてでなく、「東望」「夕陽の中の白い犬」を始めとする優れた戦争詩を書き得たこの詩人について、池内氏が補足して語るところに従って云へば、詩集の背景となった当時の思ひ出に、「毛六」といふやうな陰惨なエピソードが焼きついてゐることを知って、私は驚いた。
「すなわち河南省彰徳飛行場の格納庫の羽目板のトタン泥棒の毛六を捕えた桜岡上等兵は、盗んだトタンの代金のかわりに一カ月間、部隊の炊事場と風呂焚きの労働で放免する約束が中隊長の命令で破られ、銃剣術の刺突訓練の生きた標的として使われることを知り、中隊長に抗議にいくが無視され、毛六は結局殺されてしまう。27-28p」
戦後になって、一編の小説に書いてわだかまる思ひ出を吐き出した詩人であったが、このエピソード紹介の後に、「兵隊と水牛の仔」といふ愛らしい短い詩を引き、池内氏は今回の稿を擱筆してゐる。余白の関係もあったらうが、詩集中にはなほ「小盗児」のやうな、この事件に脚色を加へたかにみえる詩もあり、「石門をよぎりて」の一節
(前略)
ああ それよりも飛行場の
一隅のかのひともとの木の墓は
朝夕に花捧ぐるひとありやなし
申しおくらざれば草生ひて
見えわかずなるものを
わが心 なほ動かねど
汽車は早や飛び去りて
今とどろ沱河渡りぬ
沿線の棉の花 ほつほつ開き
みのりよき粟の穂は深く垂れ
わがこころまた深く垂れたり
(昭和16年8月4日京漢線車中にて)
などは、直裁にその「事件」を踏まへたものなのかもしれないと私は思った。引き続き軍務にあった当事者の表現の限界をいふより、むしろその当時に、こんなにしてでも記さずにはをれなかった詩人の心情を、あらためて詩集を繙きながら憶測を以って各所に認め得た次第である。詩集『東望』カバーの暗い鉄色の意匠(阿部合成装釘)は、そんな詩人の内省的な、孤独に向き合ふ姿を、一羽の鷲に象り映して出色のものと思はれる。サイト内に紹介してあるので一見されたい。
『北方人』14号 2010.8.1北方文学研究会発行 \400 問合せ先(kozo818kotani[アットマーク]yahoo.co.jp )
内容:随想/熱血の詩人−桜岡孝治さんのこと― 池内規行(8−28) ほか
【追伸】
池内様にはこの場にても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。
また詩人に宛てた伊東静雄や太宰治からの手紙の一部は、幸ひにも現在のところ玉英堂書店サイト内に写真で確認することができるやうです。
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:2010/08/20(金) 12:26:00
扶桑書房古書目録(日本古書通信より)
以前予告のあった「近代詩集特集」。さる蔵書家さんからの一括売り建てが元になってゐるらしい。彼とは過去に貴重な詩集のやりとりをさせて頂いた。
目も眩むやうな書庫も拝見してゐるから、もし売りに出されたとして欲しい本は決まってゐるのだが、買へるだらうか。
目録を手にする時間も、手にしてみるだらう値段も、予想するだに恐ろしい(笑)。
とまれ、まずは注文、目録を。
また加藤仁様より貴重な地元詩誌『牧人 (1928.1多治見)』と『青騎士3号(1922.11名古屋)』をお送り頂きました。ともに戦前の石川県詩人、棚木一良氏旧蔵書とのこと、『青騎士』には彼の詩集『伎藝天女』の表題詩編の草稿と思しき書込みや紙片も残されてをりましたので合はせて公開いたします。
ここにても謹んで御礼を申し上げます。ありがたうございました。
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:2010/08/31(火) 12:22:10
『江馬細香―化政期の女流詩人』
先週末の出来事より。私には悪いニュースと良いニュースがいつも一緒に齎される運命があるやうです。
まづは悪い方から。
●楽しみにしてゐた扶桑書房の「近代詩集特集」の古書目録ですが、「今回は送れない」旨の手紙とともに代金を返されてしまひました。恐ろしいものが届いたと思ひました。 文面によると、旧蔵者と私との関係を知ってゐるので、そして目録についてまだ見ぬうちから古書店の思惑を勝手に忖度してコメントしたことが、ダブルで障ったやうです。(半ばは宣伝にもなればと思って書いたことだったのですが。…だって出る前に宣伝すればライバルが増へるだけですからね。) 手紙通りなら、私は石神井書林に続きこの本屋さんとも縁が切れてしまっても仕方のない愚か者なのに違ひありません。近代文学詩書を殆ど買はなくなったのですから、古書店に対する「いい気なコメント」は今後、ますます自重したいと思ひます。
次にうれしい(ありがたい)話題を。
○相互リンクの小山正見さまの感泣亭ブログにて拙サイトの御紹介に与りました。ありがたうございました。
○門玲子氏の江馬細香評伝『江馬細香―化政期の女流詩人』、巻頭に吉川幸次郎の感想(書簡)を付して新装再刊されました。(写真は初版、再版、新装再刊)
戦前すでに、漢文に対する学者の態度が世代で異なってゐることを示す、序跋中の二ヶ所について少しだけ引かせて頂きます。伊藤信先生(明治20年生)より一回り以上若い吉川博士(明治37年生) 以降の世代から、斯界の研究は江戸時代以来の訓読と決別し、漢文を中国語として研究する態度がスタンダードになったやうです。けだし修身が義務教育科目だった時代に育ったエリート博士達にとって、訓読に染みついた儒教的精神主義には辟易すると同時に、日本から全くそれが喪はれるなんてことも、予想できなかったことでありませう。今にしてその大切さも見直されてゐますが、門玲子氏は30年前の執筆当時、自らを一介の主婦と謙遜されつつ、本場漢詩研究からも近世文学研究からも忘れられた伝統文学の大切さを、女流文学史の証しを立てるために力説、尽力され、なにより晩年の吉川博士がこれを嘉し、読後感に認め感嘆して下さったことに、万感の想ひを述べてをられます。
『江馬細香』読後(吉川幸次郎)より。
(前略)実は私は日本人の漢詩文は「紫の朱を奪う(※論語)」ものゆえ純粋の漢語に習わんには妨げなり、初学は一切目にするなという教育を京都大学にて受けました為に本邦儒先の業には一向に不案内。もっとも近ごろはよる年波と共に気が弱くなり伊物二氏(※伊藤仁斎と物徂来)に就きましては柳か述作もしましたが、幕末の諸賢に就ては山陽星巌をも含めて不相変の不勉強。(後略) ※やす注
跋文(門玲子)より。
(前略)次に私が熟読したのは、伊藤信著『細香と紅蘭』(昭和44年、矢橋龍吉発行)という私家版の一冊です。伊藤信という方は大正・昭和初期に大垣地方で国語・漢文の教師を勤めた人です。中国文学者というより、日本古来の漢学老の流れを汲む儒老というに相応しい存在です。その著書は、江馬細香や梁川星巌・紅蘭夫妻の業績を、郷土の先賢として深い敬意をもって祖述しております。記述は古風ですが、先人の業績・生き方に真正面から誠実に向き合っており、私はこの著書からどんなに多くのことを学んだか測りしれません。こうして私は江馬細香の世界に没入していきました。(後略)
○さて本日は田中克己先生(明治44年生)の生誕日、来年は愈々百周年です。さういへば東洋史を専攻し李白・杜甫・白楽天・蘇東坡について評伝を書かれた先生にも、江戸時代の儒者について考察した文章は遺されてゐません。お宅へ通ひつめてゐた当時、も少しこんな話をしてみたかったです…。
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:2010/09/21(火) 22:17:38
良寛禅師坐像
今月は出張で新潟県の出雲崎へ立ち寄ることを得、そのとき良寛堂で伏し拝んだ禅師の座像、これとよく似た小さなブロンズを、なんと偶然にも帰還してから入手するといふ僥倖に与りました。今夕到着、抃舞雀躍。今の私には余りある慰めです。
けだし近代詩においては宮澤賢治、江戸漢詩においては良寛。この御両人は、大乗と小乗と立場は違へど御仏の所縁深く、地域や政治の垣根を越えて広く民衆に親しまれてゐる点では正に日本を代表する詩人と呼んでもよいかもしれません。今年は、3月に宿願だった『春と修羅』の初版本を手に入れ、守備範囲の狭い詩集コレクターとしては、寔にお粗末ながら「ささやかな頂き」に立った思ひを深くしたのですが、以後身辺もそれに呼応するやうに、収集熱から解き放たれるべく色々の運気が移動してゐる気配がするのは不思議です。
此度、箱書きもゆかしき良寛禅師の銅像を手に入れることができたのは、格別の御縁と信じるところです。それを肝に銘じ、昔の詩人の素懐を探るべく、さらなる精進に勤しみたい。皆様には長い目でお見守り頂けましたら幸甚です。感謝と合掌。 宮沢賢治の祥月命日にしるす
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503
:
やす
:2010/09/28(火) 19:48:57
『菱』171号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載12回
手皮小四郎様より『菱』171号をお送り頂きました。詩人荘原照子の伝記は昭和8年3月より始まる『椎の木』同人時代、いよいよモダニズム詩人として面目一新です。 山口から横浜に拠点を移した荘原家の背景と、生活の意義そのものが詩作へと先鋭化してゆく詩人の様子が描かれてゆくのですが、モダニズムといふトップモードにギアチェンジするにあたっては、まるで似つかはしくない自暴自棄と呼んでよいやうな「デスパレートな環境」がいくつか与ってゐたやうです。
まづは腸結核に侵され、子供たちとも引き離されて、妻でも母でもない一人の孤独な女として、母と二人きりで営むこととなった闘病生活。そしてそれに複雑に絡むこととなる「新しすぎる詩人達」との交流。また四六時中鳴り渡る製氷工場の騒音。・・・騒音なんて外的要因も、言ってしまへばそれまでですが、逃げ隠れできない状況下では神経も異様に研がれて鋭くなってゆくものです。私も田舎から上京して(今なら低周波といふのでせうが)隣や階下のモーター音に悩まされ、人からみたら些細なことですが、詩的人格形成においても無視できない影響を受けたのでとてもよく分かるのですが(笑)、騒音が自分を駆り立てたのか、詩を書くやうになったから過敏になったのかは今思ふと不明です。
さて、腸結核の「痛み止め」として劇薬を使用せざるを得ぬやうになった彼女のことを「万病の問屋」と呼び、母娘の生活を脅かしていった悪人物といふのが、前回「あるアヘン中毒の詩人」として謎を掛けられた、自らも壮絶な人生の真っ只中にゐた平野威馬雄であったと云ひます。さらに詩人の間では新即物主義の紹介で有名な笹沢美明も、穀潰しの高等遊民として、その立派な新築の洋館は「食い詰め詩人の溜り場」となってゐた由、そして図らずも彼らとの交流の因となったのが、一歳年長の先輩詩人、高柳奈美(後年の乾直恵夫人)であったとのことで、詩人の曰く、
詩人仲間からも、誰があの放蕩詩人に荘原を引き合わせたかと問題になり、高柳が「荘原さんと笹沢さんが親しくなって噂が立つようになったらいけないと思い、平野さんを紹介した」・・・「責任を取って詩を書くのを止める」と言うので、その必要はないと答えた・・・。
聞き書きといふ一方的な証言を、手皮さんは「どこがホントで作り話か判然しないことを語って僕を煙に巻いていた。」などと、度々勘ぐったり意地悪く突き放してみせることで、出来る限りの記述の偏りを戒めるべく努めてはゐますが、もう十分ショッキングです。それでも私にすれば、
後に、本当は『四季』に入りたかった、『四季』からも誘われた、と浮ついた物言いをしたことがあった。
なんていふ条りには(当然ですが)うれしい驚きが走りました。当時マダムブランシュの同人でもあった田中克己が、『四季』の編集同人となった折にでも、勧誘の打診がなされた可能性は充分あり得たことですから。戦前の詩人の交流証言には驚くことが多いですが、今回の取り合はせは初耳でなんだか新鮮です。
これまでの叙述の進め方だった、詩篇からメタファーとしての生活の影を炙り出してゆく手法が、ここにきて難しくなってきたのは、韜晦を常とするモダニズム手法の結果として仕方ないことかもしれません。その分、生活の糧を頼った長兄の周辺に対する綿密な調査を行ひ、聞き書きの言ひなりになることを警戒し、絶えず平行して背景が固められゐます。次回も引き続いて『椎の木』同人時代が語られる予定。何卒ご健筆をお祈り申し上げますとともに、ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。
『菱』171号 2010.10.1発行 500円
問合せ 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会
504
:
やす
:2010/10/07(木) 21:50:01
『朔』169号・『季』93号
四季派学会大会として杉山平一先生のシンポジウムが今秋、大谷大学で行はれるらしい。先日ちょうど杉山先生にまつはる思ひ出を八戸の同人誌『朔』に寄稿させて頂いたばかりだったので(次号刊行後にupします)、折も折、慶賀に堪へないことと喜んでゐる。
初めてお会ひしたのは四半世紀ちかく前、先生には既に古稀を越えてをられた計算である。当時歴史的仮名遣ひで詩を書く私のことを老人だと思って吃驚なさったらしい。同人誌の先輩だった舟山逸子さんから、あなたも青年というより少年の印象でしたから、といふ感想を頂き、実年齢以上のギャップがさらにあったこと、まことに狭量だったに違ひない吾が詩的生活の実態を後悔のなかに懐かしんだ。
まもなく御歳96歳の先生には、車椅子を使用されるやうになったと聞くが、出席された会の発表をメモに取り、即座に要旨をまとめて総評を賜ふなど、矍鑠たる面目は今なほ健在の由。思ひ出話を良い気になって書き記したことに冷汗を流してゐる。直接拝謁してお詫び申し上げなくてはならないが、催しの正式な日時と内容が確定してをらず、職場の行事と重なることを心配してゐる。
圓子様よりお送り頂いた『朔』169号には、他にも、詩人小山正孝を回想する令室常子様の連載が今回も快調である。こちらは私とは反対に、読む人をして驚歎せしむる若々しい心映えと御歳とのギャップに、やっぱり羨望を禁じ得ない。「やっぱり羨望」と云ったのは、言ふまでもない、自分の場合は四季派の殻に閉ぢこもり偏狭一徹で押し通すことができた恐いもの知らずの若さに対して、である。
また手紙とは別に舟山様からは、現在の『季』(93号)もお送り頂いてゐる。杉山先生の最初の教へ子でいらした備前芳子さんの追悼号として、先生を始めほとんどの同人から、生涯にたった一冊『缺席』といふ名の詩集を遺した詩人の人となりに懐旧の情が寄せられた。詩人冥利・同人冥利を感ずるとともに、さすがアタマ員だけ擁してゐる雑誌の多くとは一線を画す、温雅にして守るところ固い、四季派直系の同人誌の面目と意義に出会った気がして心が洗はれた。
ともに遅まきながら茲におきましても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
505
:
やす
:2010/10/09(土) 20:08:31
『桃の会だより』 2号
山川京子様主宰の桃の会より本日『桃の会だより』二号(A4版11p)をお送り頂きました。末尾の後藤左右吉氏による岐阜新聞記事(3/8「岐阜文芸」)、図書館員であるにも拘らず迂闊にも見逃してをりました。
「一生涯、山川姓を貫き、若き日の夫の督励をいちずに守り続けた彼女に、私は戦中戦後を清くたくましく行きぬいた日本女性の一典型を見るようで敬服している」
といふ一節、さうして今号の巻頭に掲げられた十首のうちの一
「身は老いて心をさなくとほき日の面影若き人おもひをり」
といふ歌に感じ入ってをります。
思ふに現役の文学者で私が尊敬申し上げるのは、杉山平一、山川京子のお二人だけとなりました。伝統を新たにする戦前の抒情を、敗戦後に嘗め来った辛酸の痕と共に、両つながら身に帯びられて、今日どんなちょっとした発言にも、おのづからの重みが感じられる懐かしいお人柄…といふのは、もうこの御二方よりほか思ひ浮かばない。これははっきり申し上げて置くのがいいと思ひ、記します。
とりいそぎここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
506
:
やす
:2010/10/16(土) 20:11:54
自由書房「ふるほん書店」
岐阜の大手新刊本屋さん、自由書房の旧本店の店舗2階が、古本部として活用が始まったと聞いて、昨日「ふるほん書店」(そのまんまのネーミング。笑)に行って参りました。
午前中に行ったのですが、すでに地元古書店主が本を抱へて精算中…。自由書房さんはわが職場図書館の納入業者でもあり、学科や授業関連の本を漁ってきましたが30冊でなんと5000円。所謂「玄い本」は尠かったのですが、ブックオフよりはるかに品揃へは充実してゐて面白い。「あんまり整理しすぎず、本の回転も速くして、“何があるのかわからない感”を大切にしたい」とは、深刻な空洞化に悩める柳ケ瀬の活性化に一肌脱いだ担当氏の弁。
もちろん自分にも『酔古堂剣掃を読む』といふカセットテープの4本セット(定価\20,000)を\1,300で購入しました♪ おそらくは勝ち組経営者辺りを当て込んだ高額企画ものでせうが、安岡正篤といふ人はこんな声してをられたんですね。
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やす
:2010/10/16(土) 21:25:26
『漢文法基礎』復刊
序でに漢文関係の話題ですが、かつてZ会から「らしからぬ」受験参考書として刊行され、本屋の店頭に並ぶこともなく語り継がれてきた『漢文法基礎』といふ名著。その後ながらく増刷されず、一時は3万円余の古書価がついてゐた稀覯本でしたが、このたび匿名だった著者の本名を明かし、講談社学術文庫からたうとう復刊されました。出版社を変へての復刊にあたっては、内容も大幅に改訂された由。自分用にも購入しましたが、けだしこの度の再刊は、受験生のためといふより、おそらく私のやうな生涯教育として古典にいそしみたい中高年の需要が多からうと思ふのであります。
「さて、漢文という科目は中国古典を読む学科ではない。ここのところをまちがえないようにしてほしい。あくまでも、過去の日本人が、中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験なのである 42p」
なるほど、さうなんですね。昨今、日中間の摩擦が問題になってゐますが、つまりは漢文なんかがもっと身近になって、私たちのご先祖知識人がいったいどこからなにを受容し、咀嚼して、この誇るべき繊細な感受性と礼節とを兼ね備へた日本の国民性を培ひ、近代化のお膳立てが成ったのかといふこと、さういふ歴史を忘れ果てた末造に現在の自分たちが傲り立ってゐるといふこと。その自覚から出発しないと、「戦略的互恵関係」なんて小賢しい裏心を以てしては「良き隣人」なんかになれっこない、さう思ふ訳であります(脱線)。
ことほど左様に、江戸時代の儒者の見解も引いて説明される憂国の参考書ですが(うそ。笑)、本書全体の三分の一強を占める「助字編」の講義には特段の裨益を蒙ってをります。初版とならべて表現改訂の痕を詮索するのも楽しいかもしれませんね。
『漢文法基礎』 講談社学術文庫 2010.10.12刊行
二畳庵主人(加地 伸行)著 : 1,733円 / 603p ISBN : 978-4-06-292018-6
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やす
:2010/10/29(金) 09:41:45
『愛しあふ男女』復刻版
小山正見様より予告のありました、小山正孝詩集『愛し合ふ男女』復刻版の御寄贈に与りました。
詩人にこの一冊のあること、詩集収集家の端くれとしてもちろん知ってゐたものの、私の守備範囲から外れる戦後の著作で、古書価が高額であること、そしてその原因となってゐる、挿画を描いた駒井哲郎の世界が現代美術音痴の私には理解できないこと、を以て、稀覯で著名なこの本を探し回ったことはなかったのでした。(余談ながら彌生書房の選詩集シリーズなど版型も組字も実に好ましい叢書だったので、このひとの手になる戦後民主主義的(?)な意匠には必ず手作りのカバーを被せたものでした 笑)。
しかしいま改めて手にしてみると、サイズこそ縮小されたものの、歴史的仮名遣ひの字面をそのまま復刻。駒井氏の挿画も、19世紀ロマン派画家が好んで書いたやうな大木の写生であり、安堵したのです (笑)。書肆ユリイカの面目を施す一冊といってよいのでせう。うはさ通りノンブルがなく、1ページに一篇づつタイトルのないソネットが印刷され、おまけに無綴ですから、なるほど一度ばらけてしまへば順番がわからなくなる道理です。
尤も爺臭くなった最近の自分には、気恥づかしい位のムードが漂ふ詩篇もあり、熱い愛の描写からことさら目をそむけ、さびしい心象描写の部分部分に、戦前の四季派らしい「手触り」を確かめやうとする自分が居て苦笑する次第。原本がもうひとまはり大きな楽譜サイズで刊行されたことを思ひ合はわせと、いつしか立原道造のことも念頭にのぼってくるのでした。
ここにても御礼を申し述べます。寔にありがたうございました。
『愛しあふ男女』復刻版 小山正孝詩 駒井哲郎画 [16枚](図版共) ; 29.7cm \非売
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やす
:2010/10/29(金) 22:45:07
連絡
メインパソコン復旧。
510
:
やす
:2010/11/04(木) 23:02:42
有時文庫
近所に古くからあった古本屋さんの有時文庫の店舗が、ある日突然あとかたもなく消え去りました…。
昨今の古書価暴落にあって、仕入本がお店中に積み上がり、終ひにはシャッター外に置き晒しになるやうになったのを見て傍目に心配してはをりましたが、もう一軒ある鯨書房と比べ、戦前資料への目配りやインターネットへの対応が遅れたのかもしれません。尤も近くに学校もあるのに、中高生が古本屋でもじもじするなんて姿も見られなくなりましたしね…。さきにレポートした新刊本屋の古本店進出と云ひ、諸行無常の世の中であります。
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やす
:2010/11/07(日) 22:07:11
曽根崎保太郎詩集『戦場通信』
むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の『昭和詩大系』シリーズもあったが、戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁の)本を見つけるたび、一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。
なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だったから、といふだけでは当たらない。詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬なカタカナ表記の殻を被った代物である。と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての事であり、内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ審判」に於いても、判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私には推察されるのである。
この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふのは、復員後の詩人は、戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機会はなく、二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。
同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へと旋回(後退?)していった彼と比べれば、若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構してみせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざるを得なかった詩人の宿命を思ふのである。
私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と戦後の評価が反転するなど、戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」ではさらに、「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。
さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へた。 公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (明日upします。)
【後日記 2010.11.14】
詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。
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:
やす
:2010/11/14(日) 22:30:29
腹有詩書氣自華
わが書斎「黄巒書屋」へ詩集気狂ひに相応しい新しい額が到着。揮毫は明治官界の能筆家として名を馳せた金井金洞、後藤松陰に学を授かった人です。とまれ何とも嬉しい文句ではありませんか♪。
もとは治平元年(1064年)蘇軾29歳の冬、地方官見習ひの任期が終はり汴京(べんけい:開封)に帰る途次、長安に立ち寄った時につくられたとされる「和董傳留別」といふ詩の一節で、不遇の旧友の奮起を願った送別の辞なんださうです。ですから「詩書」とはもちろん四書五経のことなんですが、近代詩集の書庫に掲げてもいい感じです(大ばか者です)。原詩を掲げます。
和董傳留別 董伝の留別する(別れを告げる[詩])に和す
麤繒大布裹生涯,粗繒(そそう:荒絹)大布[粗末な成り]、生涯を裹(つつ)むも
腹有詩書氣自華。腹に詩書あれば気は自ら華やぐ
厭伴老儒烹瓠葉,老儒[老師]に伴ひ、瓠葉(こよう)を烹る[隠遁雌伏する:詩経]ことに厭(あ)き
強隨舉子踏槐花。強いて擧子[科挙の受験生]に随ひ、槐花を踏む[槐が咲く長安へ出て勉強した]
嚢空不辨尋春馬,嚢[財布]空しく、弁ぜず[(靴も買へなかった)虞玩之のやうに買へない]、春馬を尋ぬるも [孟郊のやうに「春風得意馬蹄疾:]とはゆかず、つまり落第して」
眼亂行看擇婿車。眼は乱して、行くゆく壻を擇ぶ車を看る[合格者の所へ婿入希望の車がおしかけるのを見る目は泳いだことだらう]
得意猶堪誇世俗,[しかし]意を得れば 猶ほ世俗に誇るに堪へん
詔黄新濕字如鴉。詔黄[黄麻紙に詔書を起草すること]新たに濕(うるほ)ひ、字は鴉の如き[黒々と立派]ならん
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:
やす
:2010/11/15(月) 13:03:00
daily-sumus
リンク集に、博覧する好奇心を以て古本情報の日録を更新してをられる林哲夫様の著名なブログ「daily-sumus デイリー・スムース」を追加させて頂きました。江戸時代には抽き書きを以て随筆と呼ぶ慣はしがありましたが、「詩・書・画」の三絶ならぬ「古書・画・装釘」三絶に遊べる古本達人の浩瀚な読書録は、すなはち現代の随筆に相違ありません。ブログを通して感じられるのは、(夙に『ちくま』表紙のお仕事にて思ったことですが)、「本」が写真で撮られたり描かれたりすることによって、著者・装釘家の思惑を越へ、「その一冊が経てきた歴史」に敬意が払はれたオブジェに化してゆくといふ魔法、その過程と意味とをまざまざと目の当たりにしたといふことでした。
このたびのきっかけとなりました蔵書画像の転載許可も有難く、伏して感謝申し上げます。
ちなみに以下に拝借したのは、かつて紹介した「我が愛する版型詩集」のルーツであるらしい、フランスはラ・シレーヌ社刊行本の書影。「現代の芸術と批評叢書」はここからヒントを得たんですかね。何の本かわかりませんが検索したら似たやうな当時の書影がヒットしてきたので合せてupします。
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:
やす
:2010/11/19(金) 12:42:17
頼山陽の掛軸
日本の漢詩のトップスターといへば御存知、山陽頼襄(のぼる)先生。村瀬藤城、太乙、細香、柳溪、松陰、百峰と、主だった美濃漢詩人たちの師でもあります。かつてはその書が頗る珍重され、掛軸一本で「家が一軒建つ」と云はれた時代もあったらしい。ですから当然にせものも多い、といふか多くが贋作だと聞きます。
もっとも今となっては好事家の代替はりに伴ひ、価値は急落。頼山陽のみならず、日本書画界、特に「書」の値段は地に落ちてしまったといってもいいかもしれません。旧い母屋の取壊しに際して「ざくざく出てくる美術品」の暴落のさまは古本の比ではなく、しかも本とは異なり価値が分からぬまま「真贋いりみだれて」放出されるといふところが恐ろしい。そもそもなに書いてあるか読める人が居らん訳です。「代替はり」とは云ひましたが、それはつまり漢学の素養がある旧家の御隠居のたしなみが孫子(まごこ)に継承されてといふことではなく、二束三文で売り払はれたのちに、縁もゆかりもない私のやうな貧乏人のコレクションに収まるといふことであって、またその条件として、閉鎖的な骨董屋の顧客市場が、豊富にオークション出品されるインターネットの市場へとひらかれ、環境が整備されたことをも意味してゐます。鑑定の権威はオークション上に成立しません。だからこそ「蔵出しのうぶ物」を、己れの責任において落札するワクワク感があるといふこともできるのでせう。
そんなこんなで夥しく出品されてゐる「頼山陽」でありますが、筆札を鑑定玩味する審美眼は勿論のこと、確(しか)とした印譜も資金も持ちあはせのない私のことですから、落ちたといへどそこそこには競り上がる代物を、画像で判断して買ひ取る勇気がない。テレビの鑑定番組を観てゐると、実に精巧な印刷ものもあるとのことであります。
山陽の真蹟については、一昨年すでに「自筆の法帖」といふものを、牧百峰の跋文を信じて購入してゐます。ただ自分勝手に真蹟と思ってゐるだけで、肝心の落款がなかったため競争者も少なかったのでした。或ひはつまらぬ贋物をつかむよりはと、予めそれと銘打ってある素性の明らかな復刻ものを手に入れて喜んでゐた、のが去年の話。
そんな私が今回色気を出してたうとう「掛軸」に手を出してしまひました。シミも折れもあったためか、敬遠して誰からも入札がなかったところを、「内容から判断して」思ひ切って初値で落札してしまったのですが、けだし贋物作者からすれば「内容から判断されるべく」本物らしく拵へるのは当たり前のことであり、詳しい印譜に照らせば真っ赤な贋作だったのかもしれません。
で、昨晩届いたこの掛軸ですが、本人いたく喜んでをりますゆゑ、何卒冷水を浴びせるやうな証拠のコメントは御控へ頂きたく(笑)、興味のある方だけご覧ください。
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やす
:2010/11/25(木) 22:46:21
「四季派学会会報」 / 「感泣亭秋報」
國中治さまより「四季派学会会報(平成22年冬号)」をお送り頂きました。12pの会報ですが「立原道造特集」を設け、記念館閉館にともなふ残念さ、含むところも感じられる皆さんのコメントを興味深く拝読しました。
「収蔵者が代わるということは、展示場所や展示方法が変わるだけでなく、展示品そのものが替わるということだ。(國中治)」
また小山正見さまよりは「感泣亭秋報」第5号の寄贈を忝くいたしました。先達てお送り頂いた小山正孝の稀覯詩集『愛しあふ男女』の非売復刻版(152部限定)に寄せて、感度不足の御礼しか申し上げられず気になってをりましたところ、今号巻頭には多くの犀利にして温かい書評がおさめてあるのを拝見し、あらためて勉強させられました。といふか、恋愛詩を勉強しないとわからないやうでは四季派失格であります。傘寿・卒寿を迎へられた先輩方がものされる強記溌溂の文章にも圧倒され、転載された吾が私信のぼんくら加減には、ため息をつくばかり。
しかも今回『愛しあふ男女』の復刻記念一色の特集号となるかと思ひきや、前号に続く回想の寄稿をはじめ、あたらしく伝記的追跡の連載も二本並んで、今までで一番濃い内容になってゐるのではないでせうか。
渡辺俊夫氏の「立原道造を偲ぶ会当時のこと(続)」のなかでは、詩人が鈴木亨氏と麦書房の堀内達夫氏とともに尽力したといふことが記され、一方「四季派学会会報」では錦織政晴氏の文章に、記念館の立ち上げについては逆に二者が杉浦明平氏とともに躊躇の側に立ってゐたことが指摘されてゐましたから、立原道造の顕彰をめぐって識者の立場が二様にあったことを初めて知ったのでした。
後記の最後には、正見様による「小山譚水の「盆景」の、土の部分を(土壌学の権威となった)兄正忠が、空の部分を正孝が引き継いだと言えないこともない」 といふ評言が置かれてゐました。いみじき発想に感じ入ったことです。
まだ全てに目を通してゐませんが、とりいそぎの御礼をここにても認めます。ありがたうございました。
さて、四季派学会冬季大会のお知らせ、もしや流れてしまったのかとも危惧してをりましたが以下のとほり、今週末に行はれる由。先日96歳を迎へられた杉山平一先生御当人をお呼びしてのシンポジウム、楽しみです。
平成22年度四季派学会冬季大会
日時平成22年11月27日(土)13:30
大谷大学京都本部キャンパス1号館4階1405教室
【講 演】 「杉山平一 近代を現代に繋ぐ」 詩人 安水稔和氏
【シンポジウム 杉山平一を読む】
司会 愛知大学短期大学部 安 智史氏
《基調報告》
「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握」 「PO」編集長 佐古祐二氏
「『ぜぴゅろす』と一篇の詩「桜」」 自在舎主宰 桜井節氏
「杉山平一の「詩的小説」を読む」 大谷大学 國中 治氏
「感泣亭秋報」(五) 目次 (2010年11月)
詩 愛しあふ男女 アルバム「愛しあふ男女」より 小山正孝2p
恋愛詩のパラドックス 小山正孝第三詩集『愛しあふ男女』を読む 高橋博夫4p
逃走の行方 詩集『愛しあふ男女』のために 渡邊啓史6p
光の輸もとどまつて 西垣脩(再録)18p
小山正孝の詩世界(4) 近藤晴彦22p
感泣亭通信【感泣亭秋報への返信】(到着順) 山崎剛太郎24p 神田重幸24p 木村和24p 中嶋康博25p 組橋俊郎25p 萩原康吉26p 布川鴇26p 岩田[日明]26p 馬場晴世27p 高橋博夫27p 高橋修28p
小山さんが貫いていたもの 伊勢山峻30p
回想の小山正孝
関東短大時代の小山先生(続) 新井悌介32p
小山さんの激怒 岩田[日明]33p
デッサン・感泣亭 宮崎豊35p
詩
黒一色の部屋の中では 大坂宏子36p
「夕方の渋谷」オマージュ 森永かず子38p
街 里中智沙40p
「立原道造を偲ぶ会」当時のこと(続) 渡邊俊夫42p
昭和二十年代の小山正孝(1) 小山−杉浦往復書簡から 若杉美智子48p
小山正孝伝記への試み(1) 出生から高校入学まで 南雲政之50p
感泣亭アーカイヴズ便り (小山正見)54p
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やす
:2010/11/29(月) 22:12:58
四季派学会冬季大会 シンポジウム杉山平一を読む
週末に開催された四季派学会冬季大会、詩人杉山平一の初のシンポジウムに、先生自らが同席されるといふことで、私も万障繰り合はせて推参しました。先生の謦咳に接して大満足のところ、國中治さん舟山逸子さんをはじめ諸先輩とも久闊を叙するを得、実に楽しく有意義な一日を過ごすことができました。
シンポジウムでの発表は、身に引き寄せた親愛に溢るる読みを披露された桜井節氏の言葉に聞き入り、気鋭の國中教授からは研究の糸口となるやうなキーワードがいくつも提示され、杉山先生御本人を前にしての臆せぬ論旨には衆目の注視が集まりました。
ただ少なかった参加者が、折角の機会に杉山先生の周りに集まらないのは、恐縮してゐるのか、私は最後にはちゃっかり隣に座り、後悔せぬやう発言までしましたけどね、学会だからでせうか。不思議でした。
さうしてお持ちした『夜学生』にも署名を頂きました。思へば初めてお会ひした折にサインして頂いた本も『夜学生』でしたが、当時はカバー欠・線引きの並本。この度は失礼のない本で臨みましたが、先生「昭和」と書きさうになられてわたくし狼狽(笑)。これもまたよい記念となりました。講演ほか当日の様子はいづれ論集に収められることでせう。
役員の皆様方にはお疲れ様でした。ありがたうございました。
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:2010/11/29(月) 22:53:15
山陽、星巌両先生掃苔記
さて当日は、朝一番の列車に駆け込み午前中に入洛、宿願だった梁川星巌先生夫妻を南禅寺天授庵に憑弔、点々とした住居跡をうろつき回り、四季派学会の散会の後は、古本先輩宅に一泊して、翌日曜日もふたたび長楽寺に頼山陽のお墓を訪ねて帰ってきました。山陽先生の塋域には頼三樹、牧百峰、藤井竹外、山田翠雨、児玉旗山といった錚々たる後進の墓碑もあり、また天授庵でも星巌先生の墓が簡単には分からず探し回ったお陰で、山中信天翁夫妻のお墓にばったり行きあたり吃驚したことです。といふか、そこら中が知らない「○○先生之墓」だらけなんですから(笑)。『漢文学者総覧』でも持ってゐれば、いくらでも時間つぶしができさうな感じです。最終回を迎へたドラマ「龍馬伝」の人気も重なったか、紅葉シーズンの東山は大変な賑はひだったのですが、維新の道筋に詩の灯火を掲げた文人達のお墓には訪れるひともなく、観光客とは無縁の閑散さが却ってよかったです。
墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。山陽墓所はわかりやすいですが、星巌翁の奥津城に案内板はありません。新しい顕彰碑が据えられた横井小楠(沼山)の墓の隣にあります。
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:2010/12/12(日) 06:27:53
『左川ちか全詩集』新版
さて昨年『山中富美子詩集抄』を世に問うて詩壇の話題をさらった森開社から、今年『左川ちか全詩集』の新版が、実に27年ぶりに刊行されました。内容の充実を図る一方で、愛蔵に相応しい旧版に比して軽装とすることで価格を抑へ、また別種の意が注がれてゐるやうです。個人的には贅沢を極めた旧版が今回の改訂を以て無価値にならぬやうな、編集上の配慮を同時に感じることができた点が嬉しかったのですが、久しき絶版に対する愛好家の渇望を癒すべく、限定500冊は不取敢一般書店に並べられることはなく直接購読制で売り捌かれるといふことです。その一方で、図書館員の私としては今度こそ多くの基幹公共図書館には所蔵して頂きたいとも思ってをります。言はずもがなのことですが、この詩人こそ、本を案外買はない人種であるところの書き手としての詩人、特に現代の若い表現者に対して、今なほ古びぬ、スタイリッシュな訴求力をもって迎へられるものと信じるからであります。
もとより彼女に限らず、モダニズム詩に限って「女流」などといふジャンルは不要でありませう。むしろ戦前の日本に於いては、少々乱暴な物言ひが許されるなら、「モダニズム」といふ概念自体が「ロマン派」と対峙したところの女性的概念のやうにも私は思ってゐます。その最良の感性といふのは、理論など持たぬ優れた若い女性たちの一握りによって、いつも軽々と表現されてきたのだと、そのやうに考へてゐるわけです。これはモダニズムを抒情の方便としか考へられぬ私ならではの偏見で、同様に外国では真逆のこと――「モダニズム」を男性的概念、「ロマン派」を女性的概念と思ひなして面白がってゐるのですが、果たしてそんな自分が彼女の詩をどこまで理解してゐるのか、といふより感じることができてゐるのか、といふ段になると、それは旧版全詩集に収められた「椎の木」追悼録で田中克己先生が書いてる以上に、性差にとらはれた、甚だ心許ない解釈に落ちることを白状せぬわけにはいかないのかもしれません。
新版刊行に寄せた一言まで。詳しい書誌と購入方法はこちらの「螺旋の器」 ブログにて。
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やす
:2010/12/13(月) 09:36:50
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」
林哲夫様より、この11月に終刊した文芸リトルマガジン「spin:スピン」1-8<2007.2-2010.11>を、なんと全8冊の揃ひで御恵投に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
各号に連載された「淀野隆三日記を読む」に早速目を通してをりますが、ひとへに林様の資料翻刻に係る労力が偲ばれます。自分もかつて師の創作日記に対し同じい暴露行為(?)に及んだことがあり、林様が47冊ものノートを前にした驚きと、これを活字に起こしつつ実感されたであらう、当にいま文学史的発見に唯ひとり立ち会ってゐるのだといふ感興が、びっしり埋まった誌面からは(自らの楽しかった苦労とともに)伝はってくるやうです。
ノートの主である淀野隆三については、三好達治や梶井基次郎のパトロン的旧友、京都の商家のボンボンといふ認識しかなかったのですが、どうして、彼らと知り合ふ前の日記が赤裸々で面白い。生真面目な少年がたまさか出会ってしまった文学といふ魔性の人生指針。そのため理性と欲望は折り合ひがつかず、正義感と無力感だけがどんどんつのってゆく文学青年への転落過程が告白体で綴られてゐます。裕福で健康な少年が、花街が身近な環境で女中にかしづかれて育ったら、そりゃ純情であるだけ只では済みますまい。恵まれた者は恵まれた者なりに汚濁や坎穽に遭遇せざるを得ず、又ぬるま湯を自覚しながらそこから抜け出せぬ事情は、ひとり恋愛と性愛の二律背反にとどまらず、大正末期に興った左翼思想についても、(彼が生真面目なだけに)勝者階級に生まれた者として懊悩する己が姿をノートに叩きつけることになるのは、ある意味自然な成り行きだったかもしれません。
そして「青空」同人からやがてプロレタリア文学〜日本浪曼派の人たちの名前まで入り混じってくる、後半に綴られた興味深い文壇模様。梶井基次郎や三好達治の才能をわがことのやうに喜ぶ友情をはじめ(彼は三好達治の結婚に際しても費用に至るまで細々と世話を焼いてゐます)、反対に林房雄、今東光、春山行夫、室生犀星、仲町貞子等には歯に衣着せぬ言及と、日記ならではの人物月旦は一番の読ませどころと云へるでせう。当サイト関連でいへば、
「人々は幸福を奪はれて行くその状態に於ける自身の悲しさを指して、そこに唯一のレアリテを見出してゐる様になった(コギトの連中)。何といふことか?」(vol.8:84p)
と、自ら加担した左翼文壇の潰滅時にデビューしてきた後進世代のデスパレートな心情を評してゐる一節は嬉しかったです。けだし前述の田中克己日記『夜光雲』は重要な時期である昭和 7年前半の一冊を欠いてゐるのですが、この日記群にも、彼が左翼文芸に関った昭和5〜7年当時の日々の出来事を記した日記が(破棄されたのか書かなかったのか)存在しません。いったいに彼の私生活については、父祖との対決に係る記述が全冊にちりばめられてゐるのですが、――文科への進路、芸者との恋愛と、親不幸の度に激怒した父との間にはさらに壮絶な、非合法活動にまつはる骨肉の人情ドラマが繰り広げられてゐた筈です。しかし再び付けられるやうになった日記には、以前の悩み多き青年の面影はなく、思ひがけない逮捕によって晩節を汚すこととなった父との、負ひ目ある者同士の和解が、永訣が、この連載の最後を締めくくることになりました。それによりこの目玉企画に負はされた使命の一半が、不取敢果たされたと慶んでよいものなのかどうか。経済的理由で終刊することになった雑誌を前にして、思ひは複雑です。今後さらに翻刻が続けられるのか、また単行本化やネット公開も念頭にあるのか、遺族の意向もありませうが見守りたいと思ひます。
まだ走り読みですが、ほかには「四季」「コギト」にも寄稿されたドイツ新即物主義文学の紹介者板倉鞆音を追跡した津田京一郎氏の研究(「板倉鞆音捜索」vol.2:27-43p)に注目しました。その昔、献呈した拙詩集に対し、視力の殆ど失はれたことを一言お詫びのやうに添へて返して下さった礼状を今も大切にしてをりますが、詩人の個人研究は嚆矢にして、抄出や参考文献に至るまでまことに貴重な資料と存じました。
「日常誰もが使うごくありふれた言葉でありながら、かように組み合わされみると、所謂写生でも写実でもなくなってしまっている…(中略)…この西洋史の不思議な描写力(奇蹟)の日本語における再現を徹頭徹尾追求すること、翻訳者の任務はこれ以外にないと考えている。」(vol.2:40p)
そのほか雑誌詳細は「daily-sumus」ブログにてご確認ください。
ありがたうございました。
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:2010/12/17(金) 09:50:43
山陽、星巌両先生掃苔記
『墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。』
世の中には、同じ事を考えて実行する人がいるのだと、嬉しくなりました。
林哲夫・由美子ご夫妻と昵懇にさせて頂いてます。
http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/
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:
やす
:2010/12/17(金) 17:14:17
(無題)
柳居子さま、はじめまして。
実は山陽翁のお墓へは翌日に思ひ立ち、下調べなしに行ったものですから、牧百峰・藤井竹外先生らが眠っていらっしゃるとは知らず、一束の花を使ひまはして(汗)お祈りさせて頂いた次第です。
林様の博覧ブログとはちがって極めて守備範囲の狭い偏屈者のサイトですが、今後とも御贔屓に頂けましたら幸甚に存じます。よろしくお願ひ申し上げます。
522
:
やす
:2010/12/30(木) 13:13:47
今年の収穫から。
兼子蘭子『躑躅の丘の少女』平成22年 (堀辰雄に師事した閨秀作家の遺稿集。新刊)
『山中富美子詩集抄』平成21年 (新刊。また同刊行所より『新版左川ちか全詩集』平成22年。)
高島高『北方の詩』昭和13年 (ボン書店末期の刊行書。)
小林正純『温室』昭和16年 (『田舎の食卓』とはほぼ同装釘。)
頼山陽『山陽詩鈔』天保4年 (やうやく購入?)
大沼枕山『詠物詩』天保11年 (処女詩集の再刷、嘉永二年玉山堂梓行。奥付なく見返しに表示の『附 梅癡道人』一冊を欠けるか?)
宵島俊吉『惑星』大正10年 (ひととなりが伝説だった若き日の勝承夫の行跡を示した一冊。)
宮澤賢治『春と修羅』大正10年 (田村書店に格安本をお世話頂きました。)
谷崎昭男編『私の保田與重郎』平成22年 (回想文の集成。新刊)
山崎闇斎『再遊紀行』万治2年 (蔵書最古記録更新。)
村瀬藤城 "岐阜稲葉山" 掛軸 (これは郷土の御宝でせう。)
西川満『媽祖祭』昭和10年 (装釘狂詩人の精華。)
『青騎士 No.3』大正11年 (名古屋モダニズム黎明期の稀覯雑誌。)
良寛禅師座像 昭和2年 桝澤清作、相馬御風箱書 (オークションで思はぬ僥倖。)
曽根崎保太郎『戰場通信』昭和15年 (戦争文学とモダニズムとの実験的融合。)
小山正孝『愛しあふ男女』復刻版 平成22年 (原本は戦後を代表する稀覯詩集。)
金井金洞 "腹有詩書気自華" 額 (今は和室に掲げゐたり。)
頼山陽 "莫咲先生不解曲" 掛軸 (破格で入手できた真蹟。と思ひこんでゐる。)
小野湖山『湖山樓詩鈔』嘉永3年 (初版らしい。)
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」 (いづれ単行本になる予定も。)
河崎敬軒『驥虻日記』文政3年 (『菅茶山』を読んでたときに手に入れてゐたら…。)
読んでない本が多く著者に申し訳ない。といふか、味読できるやうに早くなりたいといふのが本音ですね。
一番嬉しかったのは勿論『春と修羅』と、それから本ではないですが良寛禅師座像でした。
みなさま良いお年を。
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やす
:2011/01/01(土) 16:33:39
年頭感懐
古来五十ともなれば「知命」、「人間五十年」、また「年、五十にして四十九年の非を知る」
などと色々に申す由。けだしこしかた半百年、我とわが身の周りに突きつけられし無常のさま
に、ただ驚き悲しみ恐れ居れり。あるひは「四十五十にして聞ゆる無きは是また畏るるに足らざ
るのみ」とも申すとか。畏るるに足らざる者には、天命も下したまはざらん、されど人として、
思ひやり、肚をつくり、ユーモアを解す、この他に知るべき事の何かはあらん、などとひとりご
ちて、ささやかなる新年の祝杯を引けり。 先師生誕百年の元日に
ことしもよろしくお願ひ申し上げます。
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やす
:2011/01/04(火) 23:27:15
はつはるに白兔の伝記ひもとけり
年末年始もボソボソ読んできた梁川星巌翁の伝記ですが、やうやく前編を読了しました。特に翁の最晩年となる安政五年の事跡については、それまでの文人墨客の交遊関係を綴る伝記とは大きく様変はりし、明治まで秘匿されてゐた遺稿『籲天集』から尊王攘夷に彩られた慷慨詩編が紹介される辺りから、一介の宗匠詩人の生涯は、政治の裏舞台を暗躍する熱血に彩られ、変貌して参ります。これを裏付ける資料も、詩集以外から採られたものにかなりのページが割かれてゐて、生き残った志士の回想や書翰(特に佐久間象山と吉田松陰からの手紙が長い)、および事件処理のために残された供述調書(申口書)ほか、一様ではありません。東西日本を遍歴して名声の頂点に上り詰めた老詩人が、やがて「悪謀の問屋」「今度の張本第一なる者」と目されるまでに至った経緯は、その後の結果が分かってゐるだけに痛ましく危なっかしく映ります。その動機も社会転覆を謀るといふより純粋な詩人的熱情のなせる「諫言」が主目的なのですから、弾圧に当たった幕府側にしても、例へば寛典派で星巌にはかつて添削も請うたこともある間部松堂との会見が入京前にもし大津で実現して居たら、大獄の処断はこんなにも陰惨になっただらうかと思ってしまひます。
心が痛むシーン(もはやシーンと申していいでせう)といふのは幾つもあるのですが、ひとつは志士でなく学者だった人々の動向でした。京摂一番の儒者と星巌に信頼されながら、大獄前に謹慎これ努めて極刑を免れた春日潜庵、彼が星巌へ当てた苦衷を滲ませた挨拶の書簡や、「反逆の四天王」の一人だった池内陶所が、かつて『酔古堂剣掃』を共に編纂した同志、頼三樹三郎の手跡をお白州で証したといふ供述記録。なかなか苦いものがあります。一方、学者とちがって詩人とは云へば、三樹三郎にしても星巌にしても(結局は助からないのですが)どこか楽天的で抜けてゐるやうに映る。三樹三郎は吉田松陰同様の図抜けた詩人ぶりで、育ちの良さや支援者の多さにも拘らず、科せられた罪の重さが大獄の陰惨さを象徴するものとなってゐますが、大獄直前に病没した星巌翁は、吉田松陰の内命を帯びて間部侯襲撃に上京した久坂玄瑞を百方諭止したといふ条りなど、実に歴史の危機一髪を物語るやうな(これは著者である伊藤信氏の手柄ともいふべき、関係者から得た証言らしいのですが)、世故に通じた重々しい判断をなしてゐる。ところが間部閣老には談判すれば真情が通ずるだらうと詩を二十五篇も作って、実はカードはそれだけだったり、見舞客にコレラの出所と噂された鱧を食ったことを注意されると「旨かりしなり、なかなかコロリには非ず」なんて気丈に話してて翌日死んぢゃふなんてところは、どうなんでせう。さうして三日後に明治維新の遠因となる捕縛が始まるわけです。
安政の大獄といふのは、幕末ドラマファンにとっては、(志士たちの最初期の面目について興味深い報告に富んではゐても)あくまでもドラマの前史といふ位置づけなのでありませう。しかし物語がここで終焉する私にとっては、出てくる名前名前を片端から検索しながら、大獄に遭った人、免れた人、そして大獄を科した人、彼らが辿ったその後の運命について、ネット上で閲覧を繰り返しながら、あれこれと道草の思ひを馳せる処なのでありました。さうしてこれが戦前の著作であることを同時に考へたのでした。この本は、幕末の反体制思想が成就した結果の世界から、その黎明期の功労者にして最初の犠牲者となった郷土の偉人梁川星巌の功績を顕彰しようといふ結構を有してゐます。しかし今の日本には「帝の国」といふ世界観は喪はれ、尊王攘夷のスローガンなども、時代遅れの国粋主義としか捉へられなくなってしまひました。仕方のないことですが、実はこれらふたつの評価の向ふに、詩人が生きた時代の真実があったんだらう、さう思ったのは、頼山陽の時代を再評価した中村真一郎や富士川英郎の詩史観の延長上に、発せられるべき真っ当なリクエスト(要求)として、非常な新鮮を以て私に訴へかけてきた星巌翁の生きざまによるところでした。本書を資料にものを書かうとする現代の作家達を、時に辟易させる大正時代の伊藤先生の口吻ですが、鴎外の史伝『北條霞亭』と同様、むしろここは著者の最も個人的な思ひ入れを大胆に付して「星巌生涯の末一年」とでもして章をあらためて書いたら、もう少し星巌翁本人に近づき得たのではなからうか、さう思ったことであります。
星巌翁の最期にまつはる証言から以降は、詩壇の後輩達による弔詩の数々、大獄事件の後始末を受けて、歴史の表舞台から退いていった寡婦紅蘭女史の面目を示した回想やその後の世過ぎに筆は移ってゆきます。有名な紅蘭未亡人と暗殺前の佐久間象山とのやりとりなども収められてゐます。面白かったのは紅蘭が出獄に際して占ったところ
「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終(つひ)には吉。」
といふ卦が出て、これがどうやらおおきにウケたといふ条り、まねかざるの客といふのはもちろん取調官のことかもしれませんが、出迎へにやってきてくれた鳩居堂主人ほか、気の置けない支援者弟子達のことと解すると、旦那に劣らず磊落な女将さんの人柄が伝はってくるやうであります。
この年末年始の閑暇を以てゆったり読書ができたことをあらためて感謝します。私からこの伝記に新たに付け加へ得る報告としては、昨年書きましたが、生前に企図された最後の詞華集『近世名家詩鈔』巻頭にあった翁の名が、大獄の諱忌を以て一旦削られたといふ小事件、そしてこれも昨年展墓して発見したことですが、星巌夫妻の墓の高さが、実は建てられてから途中で女史の方だけ低く変へられてゐたといふ、なんだか可笑しいやうな事実についての報告、不日まとめて読書ノートの連載にも付したいと思ってをります。
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やす
:2011/01/09(日) 18:47:50
墓参記
先週の後半1/5〜1/7は新潟県に出張。昨年家宝となるやうな有難い銅像を得た機縁もあり、その日の仕事を終へて宿に帰る途中、長岡郊外の隆泉寺まで初めての良寛禅師の展墓を敢行しました。「敢行」に相応しく(?)底冷えのする曇天の下、当日1月6日は禅師の祥月命日だったのですが、夕刻の境内周辺に観光客らしき人影は皆無、供花もたった二束といふ実(まこと)にさみしい命日に立ち会ってしまひました。町ぐるみの法要が半年遅れで行はれる由ですが、しんみりした憑弔は、しかし星巌翁の時と同じく却って心に期するところ深くして帰ってくることができたやうに思ってをります。
さうして出張の帰途にはもう一基、今度は東京で途中下車して田中克己先生の霊前に一週間早い墓参り。こちらは「生誕100年」の御挨拶です。
数珠を持参しては何かと余禄に与った出張に「感謝」の週末でした。
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やす
:2011/01/10(月) 23:45:45
収穫報告ほか
さて週末土曜日は神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。
まづは大沼枕山門下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。
山を出ることを勧む人に答ふ
風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。
山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。
葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。
鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。
昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限定300部の稀覯本ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並べて写真を撮らせて頂くことを忘れたのが残念でした。)
おなじく格安で購入した『新領土詩集』もモダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジーの一冊。『四季詩集』『コギト詩集』『歴程詩集』『培養土(麺麭詩集)』とともに昭和16年に刊行されてゐます。今回「耳付き詩集」と共にわが書棚で「揃ひ踏み」を果たしましたが、ネット上ではカバー付き刊本であることが却って祟ってをり、やっぱり稀覯本らしくもなく複数冊が稀覯本価格でヒットします。
かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に催された大学図書館研修会で広報担当者が宣伝してゐたことを繰り返しますが、今年は国立国会図書館「近代デジタルライブラリー(ネット上の公開資料)」の進捗状況に目が離せません。「現在は主に大正期と昭和前期刊行図書の拡充を行っております。」とのことですが、デジタル化のネックとなってゐるのは主に「序文跋文の執筆者に関する著作権」といふことです。これについてどうチェックが進んでゆくのか、そんなもの削ってでも所謂「幻の稀覯本」と呼ばれてきた本は先行ネット公開して欲しいところですが、「提供された情報により収録可能」ともなるやうですから、或は私達が著作権に関する情報を積極的に寄せ、本来著者の意思(遺志)を非営利に表明してゐる詩集分野でのデジタル化とデジタル公開をどんどん求めていったらいいのかもしれません。さすればテキスト封印を盾とした一部の古書価格は瓦解しませう。原質としての詩集の価値がネット公開によって(増すことはあれ)減ずることはなく、あらためて内容と装釘に即した価格が付け直されて、書物愛好者の間に行はれることになる筈です。また漢詩集の場合はすでに「江戸期以前の和漢書約7万冊」が平成23年3月までにデジタル化が完了してしまふ予定らしく、こちらはいつネット公開が開始されるのか、(さきの近代ものについても、デジタル化=即ネット公開といふことではないらしいのですが)待ち遠しいところです。拙サイト上の公開コンテンツも、その有用性や進め方について今後再吟味が迫られることになるかもしれません。
さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎様から送られた『菱』172号。追って御紹介したいと思ひます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000681.jpg
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527
:
やす
:2011/01/12(水) 09:54:01
『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回
手皮小四郎様より『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。
最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』の掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。
わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひたすために……野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いたneptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。
「椎の木」2年11号1934.11
彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびます。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられます。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞれの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝記資料は確保できませんからね。
今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へらてゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」されなかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。
昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であったこと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子にはなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかった筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなかの配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。
その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
528
:
やす
:2011/01/20(木) 22:45:08
山田鼎石の墓
昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。
岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうです。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どうなってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったのでありました。
星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000685.jpg
529
:
やす
:2011/01/21(金) 05:57:32
『桃の会だより』三号
折りしも山川京子様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。
巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足すことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。
徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常にふたがる思ひです。
ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
530
:
史恵
:2011/01/25(火) 22:52:18
(無題)
突然の訪問失礼いたします。
私は北海道在住で、こちらのホームページを見つけて、管理人さんにお聞きできればと思い投稿させていただきました。
私の亡くなった祖父は荒谷七生といい、生前ぽつぽつと詩や郷土史研究をしていたようですが、私自身は祖父の本を見たことがありません。
唯一伯父(祖父からみると息子)が自費出版した方言集のみ、祖父の死後読みました。
詩を書いていたのは古い話しですし、それこそ自費出版ぐらいしかできなかったのかも知れませんが、ネットで祖父の名を探してみました。
それでこのホームページに祖父の名と作品集の文字を見つけた次第です。
この目録にあるものは入手可能なのでしょうか。それとも、どこかの蔵書になっているなら、直接そこに連絡を取ってみようかとも考えています。
祖父の長女は私の母で、ぜひ手に取ってみせてあげたいと思っています。
祖母も同時期に亡くなり、祖父の作品を知る機会もなく手元にはもうないので、ぜひ一度読んでみたいのです。
唐突で本当に申し訳ありません。何か情報がいただければと思い書きました。
531
:
やす
:2011/01/26(水) 00:00:13
レファレンスありがたうございます。
はじめまして。レファレンスありがたうございます。
本来メールで頂けるとよかったのですが、アドレスがわかりませんのでこの場で回答させて頂きます。
拙サイトに情報を掲げてゐる阿祖父様の詩集『おのが軍書』『小さな教室』『雪國天女』は現在国会図書館に所蔵がございます。マイクロフィルム化されてゐるので東京まで出向いていっても現物は見せてもらへませんが、郵送でコピーをとることができます。
http://opac.ndl.go.jp/index.html
(一般資料の検索/申込みボタン)
個人で利用者登録するのが面倒な場合は、お近くの公共図書館経由で郵送して貰ったらよろしいでせう。料金は一枚35円+送料梱包料が掛ります。留意しなければならないのは著作権者継承者(伯父様)の承認があることをカウンターを通じてうまく伝へないと著作権法の制限によって、コピーは半分しかとれないといふことです。直接伯父様から依頼される形にするのがよいでせうが、くれぐれも注意して下さい。
『小さな教室』と『雪國天女』は道立図書館にも所蔵があるやうですが、『雪國天女』はネット上の古書店(日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/public/book/detailsearch.do
)に現在3冊在庫がありますから、値付け直されないうちに一番安い一冊を購入し、『小さな教室』は『おのが軍書』と一緒にコピーを申しこんだらよいのではないでせうか。
http://www.kosho.or.jp/public/book/detail.do?tourokubi=B3CFFCF1CC0FBAE3260EFB6E68DA8AF9D2CB0F60AA7D1CD3&seq=1889&sc=5CF60044E458CF87C036DA8DE735CD16
以上、生もの情報を含みますので取り急ぎ回答申し上げます。幸運をお祈り申し上げます。
ありがたうございました。
532
:
史恵
:2011/01/26(水) 19:32:17
(無題)
こんばんは。
情報ありがとうございます!
すぐにお返事いただき、大変感激しています。祖父死後13年、急に思い出したのは何故なのか自分でも不思議です。
自費出版をしてくれた伯父も4年前に亡くなっており、手に入ったらお仏壇の祖父母と伯父に報告したいなと思っています。
また進展ありましたら、管理人さんに報告させてくださいね。本当にありがとうございます。
533
:
やす
:2011/01/27(木) 12:10:12
(無題)
本の外装と奥付の画像などメール添付で送って頂けましたら「詩集目録」に掲げさせて頂きます。ことにも処女詩集は地方の私家版出版の珍しい本だと思ひます。
レファレンスありがたうございました。
534
:
やす
:2011/02/01(火) 10:13:29
「朔」170号
圓子哲雄様より「朔」170号の御寄贈に与りました。まことにありがたうございました。
堀多恵子氏・三浦哲郎氏の追悼文は、いづれも真情のこもったものながら、山崎剛太郎氏がこれまでの長い思ひ出から、己が師の未亡人に対する尊敬に慊らぬ懐かしさを綴られた一文、堀門下唯一の生き証人であることにあらためて感慨を深くするものです。
それから私は作品をひとつも読んだことが無いのですが、圓子様が旧くは高校時代のクラスメートだった三浦哲郎氏に寄せられた回想は印象深く、ハンサム・利発・力持ちで人気者だった“華ある”三浦氏から、地味だが鉄棒の国体選手にも選ばれた圓子さんが内心「男」としてライバルと目されてゐたらしいエピソードや、そののち20年もしてから奇しくも両者共通の師であることが判った詩人村次郎氏を挟んで、当事者にしか窺ひ知れぬ曰く言ひ難き三者の心持と事情を語った条りは実に興味深く、殊にも文壇に出た三浦氏から、
「製作しても発表しない生き方だと言いながら、遠くから現代文壇を批評するのは間違えている。沈黙を守るべきだ。矛盾している。」
と村氏へ言ひ放ったといふ指摘は、もはや「師」に対する物言ひといふより凌駕しつつある「先輩」に正対しての堂々たる批判には違ひなく、手痛い指弾を受けた師の反応を敢へて包み隠さず書き留められた圓子様の、弟子を自任し続けた生き方と並べて同時に感じ入ったことでした。
他にも天野忠の詩業を概括した小笠原眞氏の評論、小山常子氏の回想を興味深く拝読しました。一体に抒情詩人といふものは最初の詩集で全てが決まってしまふものですけれど、壮年以降に一皮向けた花を咲かせる苦味の利いた詩人の系譜が示されることに、今日的な意義を感じます。
ならびに今回は、圓子哲雄様の短編小説集『遠い音』の御寄贈にも与りました。小説を読みつけない私の語るところではございませんが、あらがじめ刊行を前提とのことなれば、遠い日のスーベニールの再録ではなく、戦争を題材にしてゐるのですし、もっと手を入れて、詩人の手になる後日の問題作・奇書とも名づくべき「一冊の本」として趣向をこらされたらといふ気も致しました。皆様の意見はどうでありませう。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。
535
:
やす
:2011/02/07(月) 23:15:05
新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』
長らくオークション上に晒されてゐた『五つの言葉』 (昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。
さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。
古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むなしく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。
けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品でしたが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。
536
:
やす
:2011/02/16(水) 20:49:17
文字化け
外部の方より、サイトのあちこちが文字化けで見られない旨、指摘を受けました。
詳しい人に尋ねましたところ、Windowsをアップデートした際に起きるらしく、私のWebページの作り方にも原因があるやうですが、次回のアップデートで「回復する予定」だといふことです。ご迷惑をおかけします。2011.02.22更新情報
537
:
やす
:2011/02/21(月) 23:27:46
田辺如亭宛神田柳溪書簡
出品者がそれと知らずに「村瀬藤城の手紙ではないか」と出してゐたオークション、寝過してうっかり入札の機会を逸しました。なんたる不覚、幸ひ画像は不完全ながら全文公開されてゐましたので、読めるものなら読んでみたい文献であります。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000695.jpg
538
:
やす
:2011/02/28(月) 12:34:39
Twitter
細かい更新記録はTwitterでつぶやくことにしました。
よろしくお願ひ申し上げます。
539
:
二宮佳景
:2011/03/09(水) 02:51:11
広告をお許しください
鼎書房より、4月上旬刊行の予定です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000697.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000697_2.jpg
540
:
やす
:2011/03/13(日) 02:37:07
(無題)
二宮佳景様、広告ありがたうございます。
六草いちか様、舟山逸子様、御著ならびに雑誌をお送り頂きながら、昨日来のニュースの大きさに心奪はれ、手につきません。
八戸の圓子哲雄様ほか、被災地区の皆様の御無事を心よりお祈り申し上げます。
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