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TK師との会話
41
:
TK
:2013/09/14(土) 12:52:39
ワクワクの教えについては、私自身はあの教えより上の存在ですので、
一応お話だけしておきますが、
我々から見たらバシャール星人はワクワクするしないに縛られた不自由極まりない世界の生き物なのです、
私はそういうものを超えた自由を得ている、その次元より上の次元にいます。
皆さんのあこがれのバシャール星人を見下すようで悪いのですが事実です。
ただ、ワクワクの教えはスピ系の中では良い教えだと思います。
スピ系には珍しい積極性の教えですし、
エゴのままに思いっきり生きる事は人間として必要なプロセスだと思います。
それをしないで、スピ系だの悟りだのと言っても、その人たちはやはり駄目ですね、
最後まで酔っ払いのままで一生を終えるのだと思います。
ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。
ごちゃ混ぜで食べるとその人は死ぬ最後まで酔っ払いのままで生涯を終える可能性が高いのです。
色々なもののごちゃまぜではなくて、ちゃんとした教相判釈(順序立て)をして下さい、
手を抜けばいいと言うものではありません、怠惰になるのもいい加減になさいと言う所です。
以前の私が今で言うワクワクの実践をそのままやってましたから、
この実践の重要性は良くわかります。
ただし、思いっきりやればこの物質世界ではやがて行き止まります。
私が思うに、バシャール星人の世界は、私たちの世界と根本的な部分で相違があります。
ですから、バシャール星人が言う事がそのまま私達には当てはまらな部分があると思えます。
我々の環境よりワクワク(思い)を通せるバシャール星人の方が良い環境に見えますか、
ところがどっこい、
実はバシャール星人よりこの我々の環境の方が高次元にアセンションするための
要素がそろっているアセンションするためには遥かに優れた環境なのです。
だから私もワクワクするしないの不自由な世界より上の次元にアセンションして、
バシャール星人を超えてしまいましたよね。
私の方がワクワク星人より上なのですから、
反対にワクワク星人に教えを説ける立場なのですが、実は説ける教えは、
どうぞ、ワクワク星で天寿を迎えたら次は我々の環境に転生してきて下さい、
ここにはあなたたちバシャール星人の環境では得られない、
さらに高次元に行く事が出来る優れた環境が整っているのですと言う教えになると思います。
(続きます)
42
:
TK
:2013/09/14(土) 12:53:19
(続きです)
私が思う所に間違いが無ければ、恐らくバシャール星人の環境では、
私の所までアセンションすることは不可能です。
つまり、ずっとワクワクするしないに縛られたままの環境と言うわけです。
我々の住む物質世界の顕著な特性は、
「思いが実現しにくい」と言う点に尽きるのですが、
例えばこの物質世界の人間も死んで肉体を離れてアストラルに入ってしまうと、
思いは即実現のような思いの実現率の高い世界に入ってしまうのです。
これと同じ事で、
恐らくバシャール星人の住む環境は我々の住む物質世界より思いの実現率が高い世界のように思われます。
例えば我々の物質世界であれば、思いを伝える主な手段として、
まず話そうと思い、物質的な声帯を動かして空気を振動させ、
更に離れている人であれば電話機などの機械を利用してようやく対話して相手に思いを伝える事が出来る、
これが我々の住む思いが実現しにくい物質世界なのですが、
例えば我々も死後多くの人はアストラルへ行きますが、
ワクワク星も同様に思いが実現しやすい世界では、
思っただけでテレパシーのように相手に思いが伝わってしまうような状況になるのです。
思いが実現しにくいと言う特性を持つこの物質世界に対して、
恐らくワクワク星の環境はアストラルの世界のように、
思いの実現率が高い環境だと思われます。
ですから、ひとたびワクワクしたことをし始めれば、ほとんど障害無く、
そのワクワクのままでずっと進んでいけるのではないのでしょうか。
あるいは、今の我々の世界を物質文明の末期とすれば、
物質文明の発展期のようなワクワクをそのままずっとしていけるような環境か。
アセンションのための重要な環境は、
この物質世界の「思いが実現しにくい」と言う特性の部分にあるのです。
この物質世界の実践では「思いが実現しにくい」と言う物質世界の特性を有効に利用する事によって、
「思い」から離れる事で達成できるのです。
例えばアストラルのような思っただけで相手に思いが伝わってしまったり即実現する世界、
あるいはバシャール星人の環境のような思いの実現率の高い環境では、
「思い」から離れるための実践は不可能なのです。
このような環境ではさらなる高次元へのアセンションは逆立ちしても不可能です。
ですから、昔から、人間はより高次元にアセンションする事が良しとされるが、
反対に天の神々は、
さらなる高次元にアセンションを果たすためにこの物質世界に転生して思いが
実現しにくいと言う特性を充分に生かして「思い」からの解脱を果たし、
より高次元へのアプローチを試みるのだと言われていますね。
如是語経
> このように聞いて、ある比丘は世尊に次のように申し上げた。
> 「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
>また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
>さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
>
> 「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
>また、人間となって、
>真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、
>比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。
(続きます)
43
:
TK
:2013/09/14(土) 12:53:58
(続きです)
この我々の住む物質世界はバシャール星人とは比較にならないほど、
高次元にアセンション出来るための環境が整っているのです。
実は私はチャネリングの事を、イタコと呼んでましたが、
この行為は低次元に人間を縛り付けるクソくだらないものの一つという事を知ってましたので、
ラピ。さんにはそれを魔境だから無視しなさいと教えました。
低次元の教えはチャネリングで手に入れられると思いますし、
実は私自身がワクワクの実践に入る時にはチャネリングに近い手段(私は霊視、霊聴と呼んでおりました)で
教えを取得いたしまして、当時はとても高貴な教えに思えておりましたが、
それがほとんどワクワクに近い教えで、生きがいも感じてうまく行っていたのですが、
やがてものの見事にぶつかりました。
本当のアセンションするための高次元の教えは聖典から手に入れたのです。
自分がいて高次元の意識体がいてパイプ繋げて、これやっているうちはその人は低次元のままです、
これ偶像崇拝の一種です、そのパイプを有難がってすがっている人間は駄目です、それまでです、
釈迦やイエスの教えはこの手の類の全てのパイプを捨て去りなさいと言う教えなのです。
自分の外にはそれは無いのです、自分の外とパイプ繋げて、自惚れて、
世間に害をたれまくって、その人たちはいい加減に目を覚ましたらどうでしょう。
ルカの福音書17・21
>『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。
>いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
最終的には釈迦もイエスも捨てて行かなければならない、そしてそれがその人たちの教えなのです。
優れた教えがあるのは、人間の覚者の説いた教えの中にあるのです。
正しい教相判釈の元に順序だって進む事には価値がありますが、
ごちゃ混ぜは駄目です、死ぬまで酔っ払いのままで行きたいですか。
(続きます)
44
:
TK
:2013/09/14(土) 12:54:34
(続きです)
なぜ物質世界は素晴らしいのかと言うと、
我々が実践できる環境が整っているだけじゃない、
高次元にアセンションするための賢者の教えが手に入れられやすい。
賢者は死後物質的な肉体を離れたら、別次元に行くのですよ、ところが、
賢者も物質的な肉体を持つ上では、
どんな低次元の者とも容易に接触し言葉や文字などの物質的な伝達手段を通して交流が容易ですよね。
例えば我々も釈迦やイエスから直接の言葉では無くて、
その賢者たちが物質的な肉体をまとって生きていた時に残した言葉、
即ち聖典を通してその人たちの言葉に触れる事が容易に可能です。
私も肉体がある上では、
たとえ地獄に落ちる定めの人とも同じ環境で過ごしていますし、
この物質世界と言う所は異次元の者どおしの交流が容易なのです。
アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより
>人間の側から見れば、
>覚者と凡人の差異は、
>海の大波と小波程度のものにすぎない。
>霊の側から見れば、
>覚者と凡人との差異は
>月とスッポン以上のものではあるが、
>覚者の側から見れば、
>覚者と凡人の差異なぞ
>あったためしがない。
高次元の手掛かりが無ければ、
低次元の者がアセンションすることは不可能なのです。
ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
その意味で我々の住む物質世界は、
バシャール星人よりより高次元にアセンションするには遥かに特化した環境なのです。
とにかくまずは、思いっきりワクワクを実行してく見て下さい、
バシャール星人のアセンションの為には劣った環境とは違って、
直ぐにワクワク(思い)通りにはいかない、
この物質世界特有の特性にぶつかる事が出来ますから。
そこまできてようやく、
この物質世界の賢者である釈迦やイエスの教えの扉を開く位置に立てるのです。
この相対次元の物質世界では、ワクワクする事を選択するという事は、
同時にワクワクしない事から逃げることを指しています。
ですから、この物質世界ではワクワク(思い)は直ぐに袋小路に追い込まれ、
その後の教え、
ワクワクしない事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行する、
釈迦やイエスの教えが出てくるのです。
バシャール星人と釈迦やイエスの教えの違いは、
バシャール星人がワクワクすることをしなさい、と言う事に対して、
釈迦やイエスの教えはワクワクする事を実行する事は誰にでも出来る事なので、
ワクワクしない出来事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行しなさいと言う教えになります。
つまり、釈迦やイエスはバシャール星人の次元を超えるための教えなのです。
次の聖典のあたりがそれを表現をやや変えて現わしているものになります。
マタイの福音書 5章43-47
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
>
>それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
>天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
>正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
>
>自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
>取税人でも、同じことをしているではありませんか。
>
>また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、
>どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
思いっきり生きない人には、何一つ起きる事はありません。
今この世界こそが、バシャール星人が背伸びをしても手に入れられない、
この物質世界特有のアセンションするための特化した優れた環境なのです。
みなさんでバシャール星人を超えましょう、
せっかく思い(ワクワク)の実現しにくい物質世界に生を受けたのですから。
45
:
ラピ。
:2013/09/15(日) 06:07:51
☆T師
いつもありがとうございます!
みなさん、この師の書き込みに質問などがあったら
ぜひ書き込みください!
歓迎します!
@(*・ω・*)ポッ
46
:
TK
:2013/09/16(月) 18:04:40
バーナーデット・ロバーツの著書で「神はいずこに」と言う書籍があります。
この人はカトリックの家庭に育った人ですね。
実はこの人の話は、
今私がこの書き込みをしている意識状態より先の段階の事まで書かれています。
真剣に真剣に神を信じ、実践をし、
やがて私が「神の国(彼岸)」とよんでいる段階にたどり着きます。
実は、この段階では自分の前から神が消えるのです。
私も誰にも負けない神の信仰の実践をしておりましたが、
ある段階で私の前から神が消えました。
私は神の実践を止めたのではありません、
神が消えたので実践が不可能となったのです。
まだ、やれるのならやるのですが、
逆立ちしてお願いされても私の意識状態では不可能なのです。
これが本来の実践の意図している成就としての成果なのです。
この「信仰の対象を含むあらゆる対象の消滅」という意識変容の状況を、
私がまっとうに受け入れられたのは、
釈迦の教えを併用していたことによるものです。
実は、あの有名なマザーテレサもこの状態にあったと言われています。
マザーテレサほどになれば、当然に当たり前の事なのです。
この方も釈迦の知識があれば、もっと気分的には救われてました。
実はイエスの教えはこの状態にたどり着く為のものだったのですから。
マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す 写真5枚 国際ニュース AFPBB Newsより
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213
>数ある手紙の中の一通は、
>1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、
>「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、
>むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、
>聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。
中 略
>「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、
>むなしさと闇しか見あたらない。神よ、
>このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。
中 略
>「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
>若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、
>公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、
>彼女が亡くなるまでの50年以上を、
>神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。
(続きます)
47
:
TK
:2013/09/16(月) 18:05:14
(続きです)
バーナーデット・ロバーツは著書の中で、次のように説明しています。
>キリスト教では、このプロセス全体は「変容的合一」と呼ばれています。
中 略
>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。
真剣な信仰を実践すればするほど、自分の前から神が消える段階に入ります。
それが、実践の本当の意図している成果だからです。
私の言葉で書くより、バーナーデット・ロバーツの言葉をそのまま引用します。
なぜなら、私だけがこのように話しをしているのではない事が、
まだ至っていない人の誰が言っている事が本当なのかの判断基準になったりすると思われるからです。
人間の寿命など短い、どうせ一刻一刻、寿命を削りながら生きているのなら、
正師のもとで正しい実践を少しでも多くやった方が得策と言う物ですね、
そのためにあえて、この人の文章を引用します。
>ここで注意すべきなのは、自我が脱落するまでは、
>私たちが知っている最も深い、
>最も神聖な自己は「自我-自己(自我という自己)ego-self」である、
>ということです。私たちは、自我がなくなった後になって初めて、
>自我が本当は何であったかを知ります。
>
>それまで「自己の中心」であった自我は、虚偽でも悪でも、また、
>必ずしも利己的というわけでもありません。それどころか、神を体験し、
>神と聖なる生への探求に全力を注がせたのは、この自我でした。
>
>自我が偽りのものになるのは、神を拒絶し、自我にのみ執着するときです。
>
>私の場合、旅の初期には、後に「自我」だったとわかるものを、
>「本当の自己」あるいは「真の自己」(表面的な自己に対するものとしての)と呼んでいました。
>
>脱落以前には、これが私の知っている最も深い自己であったからです。
>
>この「最も深い自己」が脱落する事があるとは、
>一瞬たりとも考えたことがありませんでした。けれども、魂の暗夜の中では、
>この自我という中枢が脱落すると─それが神に結びついていたものですから
>─神の体験もすべてなくなってしまいます。すると、
>まるで神がいなくなったように思われ、まず、
>なんとかして神を見つけようとします。
>
>私たちは神においてしか真の自己を見出せないことを知っているからです。
>
>「霊魂の受動的な暗夜」すなわち「自我中枢の脱落」は、
>自分自身の中に空虚と空洞を見る恐ろしい体験です。神もなく、
>深奥の自己もなく、
>あたかも自分の存在の中心が突然消え失せてしまったかのように、
>まったくの暗闇の中に、取り残されるのです。
(続きます)
48
:
TK
:2013/09/16(月) 18:06:01
(続きです)
やがてこの状況に順応してくると、これが神との合一状態であることが見えてくるのです。
「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。
そして、自分の内側が滅びて無くなりますので、やがて信仰の生活から信仰の無い生活に戻るのです。
「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこで、今度は世俗の現実世界へと戻る旅になります。最初は内へ向かう旅でしたが、一転して、外へ向かう旅が始まるのです。
この辺りは実は釈迦も話をしています。
釈迦は「信仰」をイカダに譬えて激流を渡り終えたら手放しなさい、
捨て去りなさいと教えているのです。
ただし私は言います、それが的を得た本当の教えなら、
マザーテレサやバーナーデット・ロバーツのように神への信仰不能と言う意識変容(対象の消滅)で
終了を迎えるので、信仰の実践を捨てるな手放すなと教えます。
私も実践できるのなら実践するのですが、
このような信仰が持とうにも持てない意識変容(信仰対象を含むすべての対象の消滅)
の状態になるなど実践中は夢にも思いませんでした。
私の前から、信仰の対象である「神」が消え去ることなど夢にも思いませんでした。
スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」
相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」
なお、私もイエスから次の承認を受けた者ですので、
エゴが異論を唱えたくてうずうずする者がいるとしてもこの件に関しての反論は許されないことなのでお断りだけしておきます。
(それとも偽キリストになりたいですか。)
ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。
(続きます)
49
:
TK
:2013/09/16(月) 18:10:49
(続きです)
「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>その自己は、見返りを求めずに、絶えず与え続けることができます。それは自己満足のない生活です。
>
>しかし、ひとたび自己を超えたなら、もはや聖なるものはあり得ません。
>
>なぜなら、そこにはもはや与えるものも与える主体も存在しないからです。
>
> 合一生活の成就はめったに起こらないと言われてきました。
>
>しかし、恩寵を信頼する人とって、合一生活は予期されるべき当然の目標であり、
>献身が十分であればかなりすみやかに達成されるものです。
スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。
なすべきことをなす実践の成就した先の段階として、
なすべきことをなしおえたという段階があるのですから、
なすべきことをなす、いわゆる途上の段階の人は、
素直にまだ至っていないその事実を認めた方が得策であると私は思います。
なすべきことをなす段階の人は、行為の全てが神への奉仕の実践であったとしても、
これが成就出来て、なすべきことをなしおえた段階に進むと、
信仰対象である神が目の前から消えるのですから、
神への奉仕の実践はなすべきことをなしおえた、
すなわち成就なのです、もはや再びこのような神を想定した実践を行う事は出来ません。
これで嘆いたのがマザーテレサだったのでしょうか、釈迦が生きていれば、
嘆かなくてすみましたね。マザーテレサほどの信仰のあつい人なら、
当然にたどり着ける「合一」の境地だったのです。
スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
50
:
ラピ。
:2013/09/16(月) 21:53:15
☆TK師
師匠、「神」についてのお話、ありがとうございます。
マザーテレサの話やバーナーデット・ロバーツの具体的な話(言葉)、
知りませんでした。
なるほど、、、、。
私も今の状態で「神」という言葉は使えません。
信仰する、信じるもの(対象)がありません。
なにもありません。
それそのものです。
行動を伴わずそれそのものなんです。
私の経験を思い出すと、至ったとわかったのは
行動している自分が消えたことによるものでした。
いなくなってしまった。
思いっきり実践をしていて、ふと実践ができなくなる。
なんていうのかな。
すべてが止まったような感じかな。
「なんじゃこりゃ?」という状況になりました。
はじめは何がなんだかわかりませんでした。
でも考えようとしてもできません。
ただただそうあるのみ。
「これは何?」
そしてその後、その状況がそうであることがわかりました。
師匠、ありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ
51
:
TK
:2013/09/19(木) 00:23:00
自らの誤認による覚者について話しましたが、
実は実践者と名乗るエセ実践者と言うのも多いのです。
ネット上はエセ実践者は多くいました。
ちなみに、私は元実践者ではありましたが「現実践者ではありません」。
実践修了者ではありますが、「現実践者ではありません」。
正確には、実践者になりたくても、もう、なれないのです。
なすべきことをなしおえた、という事は、変容してしまったこの意識状態の元では、
実践はしたくてもできない、終わってしまったのです。
それは、「対象の消滅」と言う形で実践の終了を迎えました。
釈迦にしてもイエスにしても実践とは「対象」に向かって取り組むと言う仕組みに作られているので、
「意識の変容による対象の消滅」が起きてしまうと、
私は一般の人と同じ意識状態ではありませんが、
この意識状態では「対象」に取り組むと言う原理で構成されている実践は逆立ちしてもできません。
もちろん、生きているうちは、見かけ上そうでない人と何ら変わりないのですが、
死んで肉体を去った後は全く違うのです。
私は実践者ではありませんので、他者に向かってあいつは私より遥かに劣っている、
あいつは低次元だとか、あいつはバカ者だとか何でも言えます。
エセではない本当の実践者はこのような事は言ってはならないのですが、
何度も繰り返しますが私は実践者ではありません。
ですから、エセ実践者と呼ばれることもありません。
本物の「実践者ではない者」です。
他所の掲示板でも私がここまで宣言しているにもかかわらず、
あなたは囚われているとか、それは実践者としては間違っているとか、だから、
私は実践者ではないと初めから何度も言っているでしょと何度も断っているのですが、
それでもこのような頓珍漢な言葉をぶつけてくるエセ実践者がネット上には多くいました。
なぜ、この者たちを私がエセ実践者と呼ぶかと言うと、
私が実践者であろうがなかろうが、
その者が実践者であることと何ら関係の無いことですよね。
にもかかわらず、お前は変だと言う、
これは充分に目の前の私の事をそのエセの自称実践者は裁いてますよ、
だから私はその者たちをエセ実践者と呼ぶのです。
ちなみに、私は最初から実践者ではないと宣言していますので、
エセ実践者と呼ばれる筋合いの者ではありません。
(続きます)
52
:
TK
:2013/09/19(木) 00:23:36
(続きです)
もし私が近くの者にあいつは愚か者だ、と叫んだところで、
実践者でなければどうってことないですよね。
詳しく解説をしておくと、
実は私はその者を愚か者と思わずに愚か者と言葉で言っているだけなのです。
実際は、愚か者と言っているだけで、愚か者だと思っていないのですよ。
お断りしておきますが、愚か者でないとも思っていないのです、さらに言えば、
言葉すらが私のものでは無いのです。
ですので、あの者の態度は実践者としてはおかしいではないか、
このようなピント外れの頓珍漢な事を言わないように。
もし、それを言った者が自称実践者なら、その言葉を発した瞬間に、
その者は私の事を裁いた事となり、私からエセ実践者と呼ばれることになります。
実践者に対する実践者でない者とは、実に気楽でいいものです。
私もこのようになりたくて実践したわけではありませんが、結果として、
実践者に再びなれない身の上に意識変容が起きてしまいましたので、
実践の本質とはそういうものでした。
ですから、私のようになりたくない者は、
釈迦やイエスの教えの実践は即刻やめることです。
もちろん、気分だけ実践者で酔っぱらいたい人は、
巷には多数うようよいる自らの誤認による自称覚者に従えば、
死ぬまで酔っぱらいのままで生きて行くことができます。
(実は死んでからもなのですが。)
それも一つの生き方としてはありなのでは無いでしょうか。
それか、全く実践者じゃありませんをやって生きて行く、
一般的にはそういう人が多いですね。
色々な生き方があるのだと思いますが、
実際に私が認める本当の実践者は私が見かけた中では極めて稀でした。
私は気持ちよく酔わせるような酒はふるまいませんから、
どん底に落とされても構いませんと言う者しか、私を必要とはしないでしょう、
本当の実践とはそのようなものだからです。
そして、釈迦はそれを「激流」と呼んだ、決して「緩流」とは呼ばなかった。
それとも釈迦は激流と呼んだが、緩流で達成できる教えを私は説くなどと言う人が、
釈迦より遥かに優れた人とかいるのでしょうか。(笑)
それはそれでまた、滑稽な話ですね。
スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。
(続きます)
53
:
TK
:2013/09/19(木) 00:24:26
(続きです)
もちろん、実践者と言うのは名ばかりで、
その名の元にたむろする事が楽しくて目的なんですと言う人も多くいたように見受けます。
もちろん偽実践者なので自分で止めようと意志を働かせない限りはその人は死ぬまでそれを続けることができますが、
実践の成就と言うものも当然ですが迎えることもできません、
その人は文字通り死ぬまで酔っ払いの人生ですが、
それも夢があるかもしれませんね。
私は翻訳抜きには日常生活もままなりません、なぜなら、そのままを言ったら、
一般的にはわけわかりませんの世界になりますから。
例えば、お前はバカ者だと私が言葉を発したとして、
私は全然何にも言ってないですよ、の世界ですから。
「対機」という言葉がありますが、
我々の状態のそのままの言葉は接する人にとって何にも意味の無い言葉になりますから、
聞く人の次元に合わせた翻訳と言う意味なのです。
ですので、我々はすべからくこの翻訳(対機)と言う手段を通して話しますから、
我々の発した言葉から我々の事を推し量る事は不可能です、
発している言葉、行為が真実(私)ではないのです。
アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。
私は無だと言っても、現実にあなたそこで言葉発しているのに何が無なんですか、
あなたちゃんとそこにいるじゃないですか?
現実に生きて言葉を発しているのに、何もできないって、あなたそれ変ですよ?
まともに言ったら頓珍漢ですよね。
スッタニパータ837
師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
お釈迦さん、でもあなた立派そうにそこで説法を説いて、縁起だ、
八正道だと後世に伝えられているのに、
「このことを説く、ということがわたくしにはない」っておとぼけになるのもいい加減になさい、
まともならこうなっても不思議ではありませんね。
つまり、まともに言わないで便宜上「説く」と言った方が通じたりする場合もあるのです。
スッタニパータ222
> ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、
>空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
スッタニパータ458
> 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、
>何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
> (師が答えた)、
>「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
>その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」
このように、
聞く人の次元に通じるように「対機(翻訳)」で発せられている言葉でしかありませんから、
この言葉、行為から「なすべきことをなしおえた」人の真実を辿る事は出来ません。
(続きます)
54
:
TK
:2013/09/19(木) 00:25:19
(続きです)
最近巷の色々な視点に合わせると、負け犬の遠吠えと言う言葉が、私から出てきます。
いえ、私は決して勝ちも負けもしませんよ、ただし便宜上では勝つことがありますが。
ミラレパ - Wikipedia(2013年5月23日 (木) 01:01 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91
>またマルパは、激怒して公衆の面前でミラレパを罵倒、殴打し、蹴り上げるなど、
>過酷な仕打ちを繰り返した。
殴る蹴る、これは私が隣人に対して「バカ者」と罵倒したなどのレベルではありません。
これが悟った人と言うのなら私は悟りなどいらないと言う人もいるのかもしれません。
アヒンサー - Wikipedia(2013年4月25日 (木) 17:18 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC
>アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST ahiṃsā)は
>非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、
>古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、特にジャイナ教)の重要な教義である。
しかし、もし非暴力(アヒンサ)の戒律を犯している者がいると述べる実践者と称する者がいたなら、私はその者のことをエセ実践者と呼ぶ。
やってる者がマルパだからではありません、そのように言葉に表した時点で、その者は裁いているのです。
それが嫌なら、その者は釈迦もイエスの教えも即刻やめなさい。
そもそも実践とはそういうものなのです、例外はありません。
だから私に酔っ払いと呼ばれるのです。
ダンマパダ50
>他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
>ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
言いたい者は、私は実践者ではありませんと堂々と宣言してから言いなさい。
私は実践者ではありません、なすべきことをなしおえた者、実践修了者です。
スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。
55
:
ラピ。
:2013/09/20(金) 07:43:17
☆TK師
いつもありがとうございます!
そうですね。
私たちが発する言葉は単なる言葉なのですが
エゴがある人は言葉を勝手に判断してしまい、
その判断に影響されてしまいます。
私たちは言葉をツールとして使えますが
「私」がまだある人は言葉に振り回されます。
言葉に影響される「私=エゴ」がまだ存在しているからです。
ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
よくありません。
弟子たちにももちろんよくありませんが
自称覚者自身にも影響を及ぼします。
例えば、自称覚者が「これはよくない」と言えば
そう言った人自身に「よくない」と言ってることになります。
その人は言えば言うほど善悪という相対的世界に縛られることになります。
私たちは善悪を超えているので
縛られようがありません。
だからこの善悪という教えを説くのは、
善悪を超えてから初めてできます。
超える前は言葉を発するその人自身に影響を与えてしまうので
気を付けなければなりません。
まだ、善悪の影響下にいる人が
それを説くことはできるでしょうか?
まだ至られていない人が善悪を説くことはできません。
善悪を超えて初めて教えを説くべきですね。
そうでないと、善悪について
間違った教えを説いてしまうことになりますし、
その教えを説く本人によくない影響を与えてしまいます。
ちなみに余談ですが悟りとは思いが消滅することであり、
思うようにできるようになることではありません。
「思う様に」という言葉を使うなんて
「まだ思いがありますよ。」
と宣言しているようなものです。
56
:
TK
:2013/09/20(金) 18:38:05
ラピ。さん
>ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
>よくありません。
>弟子たちにももちろんよくありませんが
>自称覚者自身にも影響を及ぼします。
実は、そうばかりとは言えない部分がある。
この状況は君のある時期と一致している所がある。
不完全な悟り、不完全な実践、このキーワードで何か気が付かないかね。
君にとっての第1次実践時の状態に似ている。
>実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
>教えとしては完璧なのですが、
>これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
>メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
>エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。
この時期は、君にとっても無駄ではなかったんだ。
人にはそれぞれの段階と言うものがある。
>第1次実践は思い(ワクワク)を拠り所にする実践、
>第2次実践は強い意志の力のみを頼りに進む実践、
>この第2次実践の際は第1次実践の拠り所の思い(ワクワク)を完全否定する実践になります。
ただし、もし、まずい部分があるとしたら、
賢者の言葉のでたらめな取り合わせをし過ぎると、
このいわゆるワクワクの段階を延々と長引かせる事に繋がりかねない事になる。
理由は、賢者の言葉が、元々この段階に向けて説かれたものでは無いものであるからだ。
>ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
>他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。
そのまずい取り合わせによって、いたずらにこの時期が長引く可能性がある。
自称賢者は「裁くのが得意」だが、これは段階的にはまずくない、それで良い、
我らの段階に運よく上がれるためには必要なプロセスの一つという事になる。
問題になるものは、賢者の言葉の不一致な段階向けの教えの取り合わせにあるんだ、
この中途半端さが良くない。
それと、中には、これより先の段階が必要となった者が、
間違ってこの中に入り込んでしまう事があるかもしれない点だ。
しかし、精一杯ささえあれば、直に気づけて抜け出せるはずだ。
君の場合は、私が必要な段階にあったんだ、だから教えの内容がヒットした。
57
:
ラピ。
:2013/09/20(金) 21:36:54
☆TK師匠
そうですね。確かに。
私にとって、すべては必要な道でした。
無駄なことなんてひとつもなかった。
私はかつて、決めたひとつのことを精一杯実践しました。
なんでも精一杯すれば道は開けるのですね。
最後の扉はTK師から頂きました。
その扉は無事、開かれました。
TK師、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ
58
:
TK
:2013/09/21(土) 05:19:00
私も誤認覚者と同じことをしていたことがあります。
確かにその時には、
それはとても理想にかなったこれより先は無いと思えるような素晴らしいものだと思っていました。
この時期には理屈(理想)が全ての原動力になります。
出来るだけ、高い理屈(理想)を持つことです。
多くの者たちをこの高い理屈(理想)の元に先導し、
これから幸せな世界、社会を作っていくのだと言う大志がありました。
良いですね。
出来るだけ高い理屈(理想)が良い、それがこの段階の人の正しい進み方です。
ラピ。さんにもこのような時期があったと思います。
もちろん進む先には、障害が多数出てくる事でしょう。
しかし、精一杯頑張れば、やりとおせる、みんなで力を合わせればやりとおせる、
そう思います。
そして、幸せな社会を作って下さい。
もちろん、これより上の次元から見たら、これはエセ実践者の世界ですが、
気にすることはありません、障害に立ち向かい進んでいきましょう。
きっと立派な社会が出来上がる、そのように思います。
賛同する人も多数出てくる事でしょう。
正しい社会を作る、方向性は良いです、頑張って下さい。
今のはかなり低い人の次元向けの教えですが、
私やラピ。さんが多く多くここで語っていたのはこの上の次元の人向けの話しでした。
次元によって説く内容が変わるのです。
私もこのような色々な人の次元向けの内容をごちゃまぜに語ってますが、
聞く人は混乱するかもしれませんね。
59
:
ラピ。
:2013/09/21(土) 07:14:15
☆TK師
いつもありがとうございます!
そうですね。確かに人それぞれに段階がありますね。
私もいろんな段階を経て至りました。
ちなみに参考になるかもしれないので
私のことについて書いてみます。(何度もかいてますが、、、)
まず、第一の実践のきっかけは
わがままな自分を反省して
(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
得た答えでした。
この時の自分は
「こんな私ではダメだ。ダメだ!」という感じで
実は「下から」ができていたように思います。
とことんしました。
なぜなら私はダメな人間だから
努力するしかなかったからです。
そして第2の実践。
この実践のきっかけは
それまでの実践を否定される出来事が起こったからであり、
私はこれまたどう生きていけばいいか、との問いから得た
いわゆる「能力開発」のための実践でした。
自分の存在の価値が欲しかったのもあるかも。
なんてったって、私を否定する出来事があったから。
(この否定された私こそ、幻なんだけどね)
そして人の限界はどこまでなのか、
この世界の人々の限界を私が証明しよう!
なんて偉そうに思い(笑)でも、だからこそ、しつこく実践できました。
なぜなら人類代表としての実践だったからです。やめるわけにはいかない。
(めちゃくちゃ 妄想入ってます。)
でもこれが大きな原動力でした。
ちなみに私は一人っきりの実践でした。
孤独に実践です。
その実践から彼岸に渡りかけてその実践も終了しました。
それがある意味限界だ、と思っていました。
(至るとはどういうことなのか、わかっていなかったので)
そして第3の実践。
このきっかけは思い出すと、
「なぜ、私は覚醒を求めていたのだろう。
(よく、「覚醒するんだ!」って言ってました)
そうか、幸せになりたいから求めているんだ。
それなら直接幸せになればいいじゃない?
覚醒なんて目指さなくていい」
これでした。
だからここから「私は幸せ!!!」と言い続ける道を歩き始めます。
絶対的幸せがいいのだから
そしてどんな瞬間も幸せ!がいいのだから
今からそうであるよう、存在するのだ!
だから常に「幸せ〜!」なんて言ってました。
かつてのブログにもそう書き続けてましたね。
そして割と幸せな状態が保てていたので
(気持ちを切り替えるのが上手になっていました)
なかなかいい場所(覚醒に近い場所)にいるのではないか
なんて思ってました。
そこで師との出会い。
私のこの妄想が打ち砕かれました。
一からのやり直し。
第1の実践を一からやり直し、ということになりました。
私はまだまだで、まったくだめで もっとも下から実践しなければならない
という姿勢です。
ここでさらに師から厳しいことを言われました。
その時の私の正直な気持ちは
「それするの?嫌だなぁ、、、。でもすると決めたんだからやるのだ!」
というものでした。
かなりの葛藤が起こりました。
そしてこの葛藤から逃げず、葛藤する方向へ進みました。
葛藤できなくなるまで葛藤し続ける、という感じですかね。
そして葛藤の限界が来たとき、
ふとそれは訪れました。
@(*・ω・*)ポッ
60
:
TK
:2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。
特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。
もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。
これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。
マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。
穴に落ち込んでから次が始まるのですから。
私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。
その後にイエスの教えに出会いました。
>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。
第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。
主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。
最初はやはりここからです。
「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。
なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。
ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。
ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。
穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。
我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。
ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。
しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。
(続きます)
61
:
TK
:2013/09/21(土) 11:12:01
(続きです)
私自身のエゴ殺し、すなわち第2次実践段階は、
私は私の特殊性で実践段階で悟った者と同精度に近い自分のエゴを見抜ける目があった事によります。
私に自分を見抜く高い精度の目が無かったら、
今の所に至るのは無理だったと思います。
スピ。系で言えばワクワクと言う実践が、
「ワクワク(思い)」を拠り所に散漫になっているエゴに方向性づけると言う点で、
この第1次実践にあたります。
まず、第1次実践段階を要約すれば、
物質として正しい方向で生きると言う表現が近いものですね。
第2次実践は、物質である自分を捨てて、
自分の精神だけにターゲットを合わせて進む実践で、
第1次実践では思いを拠り所に正しさの追求ですから、
楽しいことも多くありますし、生きがいも付随しますが、
第2次実践ではそれはありません、一言でいえば地獄(激流)です。
第2次実践ではワクワクしない時に意識的にワクワクさせ行動したり、
喜べないような出来事に喜んで行動したり、このレベルの実践になりますから、
自然に心から喜べるような生き方はありません。
「意識的に」心をワクワクさせたり喜ばせたり、
自然な状態の悲しんだり喜んだりワクワクしたりの心の動きを「意志」の制御下で、
はっきり言えば撲滅する為の実践なのです。
人間の多くはそれを楽しみにし、生きる支え拠り所として生きていますので、
つまり、あなたは生きる支えを一切放棄して、
死んだものと思って生きて下さいと同じレベルの事をやらなければだめなのです。
ですから、
ラピ。さんにそれをやって良いものかどうか見極めるために4カ月かかりました。
今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。
釈迦の言葉の中の「激流」と言う表現を甘く見てはなりません、
「緩流」とは釈迦は言っていませんよね。
生き地獄のことを指すのです。
そして、釈迦とイエスの教えがそれにあたるのですが、
まともな実践をできている人など見たことがありません。
はっきり言ってみんな「緩流」です。
即ちほとんど全てエセ実践者です。
釈迦は「緩流」で水浴をしながら彼岸に渡れ等と言ってないのに、
ちょっとは自分のやってることに疑問を持ったらどうですか。
あえて渡りがたい「激流」と言う表現を使っているのですから、
仲良しクラブで渡れたら、釈迦より天才ですよその人は。
スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。
ラピ。さんの成就に関わる中で私が学べた点は、
現代社会の中に至るための正しい教えはある、しかし、
いくら正しい教えだけが有ったとしても、後他に、
悟った者に近い高精度な自分を見抜く目が必要であると言う点です。
そして、実際に会わずともネットを介した接し方でそれは事足りました。
62
:
ラピ。
:2013/09/21(土) 15:45:39
☆TK師
私が初めて師にメールしたのは今年の1月14日でした。
そして彼岸に渡ったのが5月13日でした。
ほぼ、4か月ぴったりです!
そうですね。
激流について師が書かれていますが
私の渡った激流もそういう感じです。
彼岸への道でここは避けて通れません。
>今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。
まさしく私はそうでした。
もう精一杯頑張って いろいろ経験したので何も怖いものがなく
ただ「師のいるところへ行くんだ!」
それしかなかった。
だからみなさん、今を思いっきり生きるといいです。
精一杯がんばって生きることは素晴らしく、
そうすることで勝手に道が開けてきます。
どうぞ、自分の人生を精一杯、限界まで思いっ切り
がんばって生きてください。そこからです。
この相対的世界だからこそ、頑張れるんです。
頑張れるからこそ、チャンスなんです。
ちなみに至ってしまえば、頑張る私はいなくなります。
あと、
「本物から教えをいただくチャンスなんてめったにない。
これを逃したらもうないかもしれない。これが最後だ。」
という思いもあり決心したのもあります。
師匠、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ
63
:
TK
:2013/09/28(土) 17:16:05
あなたの前に私はいる。しかし私の前にはあなたはいない。
世界の人々の前に私はいる。しかし私の前に世界は無い。
私の前に神はいない、神とは人知ではかり知ることが出来るものでは無い、
これがすなわち「それそのもの」なのだ。
マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
しかし、放っておきなさい、とはうまく表現したものです。
これは悪い意味ではありません、しかし、
実際に穴に落ちる事が出来るのは手引きをした方だけです。
結局は茶番ですね、
手引きをされた方は手引きをする者が穴に落ちるための材料にしかなれないのです。
結局は手引きをした方だけが何とかなるための、他は全て材料でしかありません。
だから、みんな頑張って手引きをする方の側になって下さい。
マザー・テレサ
>「導いてくれる人を待っていてはいけません あなたが人々を導いていくのです」
手引きをされる方は結局穴にも落ちることが出来ず、
手引きをする者のダシに使われるだけなのですから。
結局は手引きをする側の盲人にならなければ、次の扉は開かれません。
みんな頑張って手引きをする側の盲人になりなさい。
すなわちそれは、
人を頼らず他人から頼りにされる側の人間(盲人)になれという事です。
今の「盲人しかいない末法の世」においては、
アセンションするためには、それしか手がありません。
釈迦の教え通りです。
大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
人の理想を教えてもらっているようではだめです。
自分自身の命がけの理想として下さい。
多くの中途半端な姿勢の者の、その姿勢にこそ、問題があります。
理想のために命もかけず、その者は一体何のために生きているのでしょう、
あなたはただ欲望を満たす事を目的に生きているのですか、ただ無駄に飯を食い、
ただ無駄に命を長らえ、
そんな無駄な事の為に折角の寿命を費やし生きているのなら、
その者は生きている価値などこれっぽっちもありません、
死んだ方がましだと言われないような生き方をして下さい、
折角方向性を持ち生きて行くことの重要性を掴もうとしているのなら。
同じ盲人でも命がけで走っている盲人は、
「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」に落ちることが出来ます。
その「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」が、上の次元への入り口です。
命がけで走らなければ、
そこの「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」には辿り着く事も出来はしません。
手引きをする盲人のダシのままでだらだら生きて行くのか、
自らの命を懸けた生き方にするのか、
その姿勢こそが見えない先を進ませるための地図なのです。
私がラピ。さんに接して分かった事は、私やらラピ。さんに有った特殊性は、
挫けない意志、その部分でした。
そもそも挫けない意志、と表現できるような生き方もしていない者など、
最初からどんな道であったとしても歩む資格すらありません。
家でずっと死ぬまで昼寝していた方がましですよ。
私が無師だった理由は、人のペースになど合わせられないほどの、
エゴを理想の方向性に絞った上で突き進んだ結果です。
どんな団体も組織も、およそ生きている人間から教えを受けるなど、
全て手ぬるそうに見えて、
理想の実現に向けてエゴを精一杯生きて限界にぶち当たった私の求めているそれには見えなかった事によります。
そのようなものより私にはいつかは開けなければならないだろう扉がありました。
私は以前その扉を開けようとしましたが、まだその時ではありませんでした、
私が扉の向こうに逃避しようとしていたからです、しかし、
この時には再びその扉を開けてみるより他には残されていませんでした。
扉を開けて一歩踏み出したそこは文字通りの地獄でしたが、
一歩踏み出してしまった私に、もはや後戻りしようにも扉は閉じられていました。
地獄、地獄、地獄、気が狂おうが何をしようが、自殺をしたところで、
そこは脱出不可能な地獄でした。
その地獄の正体は我々の「心(内側)」の事でした。
豊かな心とか、心を美化した表現は数あったとしても、
そもそもにその心(内側)が地獄の別表現だったのです。
(続きます)
64
:
TK
:2013/09/28(土) 17:19:33
(続きです)
綺麗な心(内側)があるのではなく、そもそも心(内側)というものそのものが、
不浄なものだったのです。
マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。
私は地獄(心)を滅ぼすことに成功しました。
しかし、これは結果論で、内側を滅ぼすつもりなど最初からありませんでしたし、
清い内側が出来るものとばかり思っていました、しかし、
現実には内側は無くなったのです。
慣れた今となっては、全く当たり前のどうという事の無いものなのですが、
至った当初は結構珍しかったです。
きっと至った間もないラピ。さんは現在さぞ珍しいものと感じている事でしょう。
「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。
>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。
バーナーデッド・ロバーツの記述の中で一点欠落している点を私が語るなら、
実は「祈り」も我々の意識状態では逆立ちしてもできない行為です。
「エックハルト説教集」 マイスター・エックハルト
>離脱した純粋性には祈りというものはありえない。
なお、私がここで語るのは、一つには自らの誤認による覚者に対してです。
まだ、その者の居る所より先があります。
もちろん、他者に教えを説くと称して、
たんたんと自らの理想論を展開していくのは構いませんが、
それをしながら先に進めるものならそれも手です。
ところが、その教えの本質は、
やがて精一杯に動けば、真っ暗闇の穴が待っている次元なのです。
なにより、その程度の教えで人を先導する行為をやめなければ、
その者がそれより先に進めないことを意味しています。
正しい教えであろうが無かろうが、そもそもに教える行為そのものが、
道に反しているのですから。
教えを聞くことは良いです、しかし、
教えを説く行為自身はエゴを増強する行為なのです。
マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。
(続きです)
65
:
TK
:2013/09/28(土) 17:25:41
(続きます)
教えの内容も全く低次元ですが、教えを説けるようになるためには、
教えと言う行為そのものから受けるその悪影響を、
さらに上の次元に上昇し次のようになるのでなければ駄目なのです。
私はこの上の次元の者の教えの説き方を疑似エゴイズムと呼んでいます。
「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。
もちろん今は何を言っても駄目でしょう。
誤認覚者の特徴の一つに、人には自分の事を聞かせようとするが、
人の言う事は聞きたくありません、何を言いたいかと言うと、
典型的なエゴの強い人間の特徴そのものだからです。
もっとも、だからこそ、
怠惰でさえなければその者には穴に落ちるチャンスがあるとも言えます。
よって私が語るのは、その者が精一杯さが実り、めでたくこの先穴に落ちたとして、
それは大変な真っ暗闇の穴なのですが、
そこで少しでも私の話している事がその者の中で気に留まっていて、
灯明として花開くように今は種をまいているようなものなのです。
ラピ。さんも色々とやっていたようですが、
確かに我々がつまずきのための石になれるのならそれは幸いなことなのですが、
それが本物の理想主義者ならそんなに生易しいものではありません。
だからこそそれ自身が進めるチャンスであるともいえます。
それより、マザー・テレサの公開された書簡を見て、これこそ問題だと思います。
釈迦は実践を激流を渡るイカダに譬えて、激流を渡り終わったらイカダ(実践)を手放せと説きましたが。
スッタニパータ21
>師は答えた、
> 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、
>すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。
ところが、キリスト教に伝承されている教えの中にはそれが無くて、
渡り終わってそれでも無理やりイカダ(実践)にしがみ付こうとしてマザー・テレサがもがいているのです、
いや、真実はもがこうとしてももがけない訳なんです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm
紛れもなく、ラピ。さんが大喜びしている我々の意識状態なのですが、
このマザー・テレサに起こっている意識状態が、
我々が説明している意識変容の真実です。
もしも師がいる者なら、このマザー・テレサの状態を尋ねてみると良いでしょう、
これが至った者の状態であると理論的な解説ができる者は本物ですから、
このような著名人の件でもあるので、
自分の師を本物か偽物か判断するための良い材料となりますから、
真剣に求めるものは騙されたと思ってお尋ねになってみて下さい。
マザー・テレサは本物です。
教えの内容も次元が高いですし、愛の反対は無関心であると説いていました。
しかし、
これはかっての至る前のマザー・テレサの実践方法を思い出して人に説いているのであって、
これを説いているマザー・テレサ自身は、
無関心の状況に至っているのが真実のはずです。
このギャップをマザーは自らの心の闇と呼び、
何とかしようにも出来ないと嘆こうとしていますが、
書簡の上だけは嘆いていますが、
実際は嘆くこともできないと言う事であったと思います。
嘆こうとしても言葉の上でしか嘆くことが出来ないので、
なおさら表現だけしか嘆けないから、
精一杯の物凄い深刻そうな表現になっているのではないでしょうか。
これこそあまりにも変過ぎますよ。
さすがに至った人に対して可哀そう等と身の程知らずの大それたことを言うバカもいないと思いますが、
しかし実際には多くいたようですが、無理もありませんね、
書簡を読んだ人にとっては深刻になります。
これ、絶対に言葉の通りではないと思います、嘆くことを初め何もできないので、
もがいている分だけ過剰表現になっているだけだと思います。
折角素晴らしい実践方法があり、
マザー・テレサのような素晴らしい実践者がいて、
当たり前が如くに成就に至ったとしてもこれではね。
それともなに、マザー・テレサは日ごろの行いが悪く実践がなってないから、
罰が当たってこのように嘆いているのだと、
妄想を膨らませる身の程知らずの大それた人もいるのでしょうか。
(続きです)
66
:
TK
:2013/09/28(土) 17:35:42
(続きます)
スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」
相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」
マザー・テレサは紛れもなく優秀な実践者でありイエスの教えの優れた成就者で
あったことがこの書簡から全てわかりますが、本人も中身が闇だと話していますが、
表現だけで中身(内面)の無い本人なので、
実際は表現しているほどの深刻さはどこか普通の人の捉えているものとは違うと思います。
ただ、深刻さを現そうとする言葉だけの過剰表現になったのではないでしょうか。
実は、このような真実と表現が食い違うちぐはぐな状況は、
バーナーデット・ロバーツの記述の中にも見られます。
今までの自分ならすごく怖がりたい状況ではあるが、
肝心の怖がる心が無いと言うような。
「私のほほえみは仮面である」 とマザー・テレサの書簡にあったと言われていますが、
こんなのも我々にとって全然珍しくないですよ、
私は自分の事をよく「私は張りぼてだ」と言ってました、
なぜなら中身が無いのですから。
よく心にもないことを言うなと、悪い事の一つとして語られたりしますが、
至った者の通常がそれですから。
だから、
私が至った者の状態など至る前の者には害にこそなれ何の役にも立たないと良く言うのです。
ラピ。さんならよく知っていると思いますが、
至った者の意識状態では、逆立ちしても隣人を愛する事も出来なければ、
神に祈りをささげる事も出来なければ、信仰を持つこともできないという事を、
しかし、現在のキリスト教の組織の中でこのような事を語ったらどうなります、
これは大変な事ですね、異端者にされますよ、確実に。
しかも、この問題を解決できるのは至った者以外にはいないと言うのも真実です。
この件についても地球は丸いのに平らであると信じられています。
マザー・テレサのような著名人であるから、
この件にいつて公になった事にも価値があるのかもしれません。
これはキリスト教の伝承されてきている教えの中に、
至った者に対する「激流を渡り終わったら信仰を捨てろ」などの教えが欠けている事によるものです。
ただし、イエスの教えそのものは現されている内容だけを捉えて言うなら、
釈迦の教えより遥かに現代に適合する形にカスタマイズされている、
優れた内容です。
しかし、アンバランスにも、至った後の者に対する教えが無い。
だから、イエスの教えで至った者は、
ラピ。さんのように両手ばなしで喜ぶわけにもいかない、
マザー・テレサの書簡のように組織から成就を印可される事も無い複雑な状況が出てくることになります。
これはひとえに、
イエスの教えは釈迦に比べて遥かに短い期間しか説く事が出来なかったことに起因するものと思われます。
ナザレのイエス - Wikipedia (2013年9月11日 (水) 17:17 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9
>いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、
>イエスが宣教を行った期間は、1年か2年、
>長くても3年ほどという非常に短い期間だったことになる。
(続きます)
67
:
TK
:2013/09/28(土) 17:37:44
(続きです)
あと、最後に、変すぎるのは、キリスト教と言う組織にあります。
マザー・テレサからこの書簡を受け取ったマザー・テレサに対しての指導的な者たちの間抜けな対応にも、
何じゃこりゃと思うのは私だけでしょうか。
私には、どうみても指導的という名前の盲人にしか見えません。
神が何たらかんたら、イエスが何たらかんたら、
これ典型的な盲人の特徴なのですが。
バーナーデッド・ロバーツの記述の中に出てくる神父の存在も、
はっきり言ってしまえば盲人ですよね、なぜこんな者たちが、
教え導く立場にいるのか、変すぎですよ、なぜなら、イエスの教えとは、
そもそも盲人であるうちは手引きをしてはならないと言うものなのですから。
キリスト教組織はイエスの教えに反逆していますね。
マザー・テレサ自身にしても、修道生活が18の時からとなれば、
私の経験に照らせば、40よりもっと前に闇が出ても良かったのではないでしょうか。
組織的なキリスト教と言われる者たちの所にはイエスの教えではないものが
入り込んでいるような気がしてなりません。
盲人が人を手引きしている、そもそもここがおかしいのです。
マザー・テレサも言ってますので、
私もマザー・テレサに賛同する形で改めて言いますが、
聖書に従って実践する者ならイエスと1対1の関係位になれなければエセ実践者という事になります。
マザー・テレサが言うように、
本当に聖書のイエスの教えに従って実践が行われれば、
イエスはその者の前に現れます。
この奇瑞は本当です。
ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。
霊能力とか関係ありません、こちらが全く意図していない状況下で向こうから、
その力でアクセスしてくるのですから。
何もわかりもしない盲人が、
分かったふりして有ることない事べらべら言うものではないですよね、
実はこういう行為は非常に迷惑です。
さらに、これはイエスだけに限ったものではありません。
それが本物の実践なら、神仏が皆で示し合わせたように、
例えば釈迦の教えの実践者なら仏が前に姿を現したりしますから。
そのかわり、命がけの実践でなければなりません。
ただ、頑張ってます位の実践では駄目です。
失礼ですが、私はその者たちをエセ実践者と呼ぶ。
このような奇瑞が現れない者は、
自らの実践がエセであることをもう一度振り返ってみなさい。
誤認覚者にしてもそうです、その者が至るまでに大変したと言う、
こちらにしてみればその程度で、へ、みたいなものなのですから、
大仰すぎると思います。
なぜ、そこまで言えるのかですが、
その者のメンタルの状態があるがままの目を持つ我らには全て丸裸に見えてます、
さらけ出しです隠せませんから。
その思い高ぶった状態を一旦すっかり捨てて白紙に戻して下さい。
(続きます)
68
:
TK
:2013/09/28(土) 17:39:00
(続きです)
神仏が感動するレベルの実践をすれば、必ずや、
拠り所としている信仰の対象の方から姿を現してくる事でしょう、
心当たりの人たちはマザー・テレサもそう勧めています、
もう一度焼き直しをして下さい。
アストラルの特性は私は良く知っているのですが、
明らかにこの奇瑞については、
こちらはまるっきり意図していない向こうからのアプローチなのです。
私は新約聖書と原始仏典をテキストにしましたので、
時を分けて両方からありました、
私の実践法はどちらからも承認されているものなのです。
イエスともう一方は確かに釈迦なのですよ。
イエスは声が光になって飛ぶ世界からアクセスしてきましたし、
釈迦は身を起こすことが出来ない凄い圧力のある普通ではありえない金色の光を放っていました。
私の場合は生きている師はいませんでしたが、
この奇瑞のおかげで死ぬ覚悟が出来ました。
生命に危険な実践内容もいくつか取り入れてましたし、
私はこの実践で死ぬかもしれないが、死ぬのなら死ぬのでいい、
この命は神仏に預けます、実践とはこのレベルのものでなければ駄目なのです。
私は覚者になりたかったとかではありませんが、後戻りが出来なかった、しかし、
覚者と名乗りたければこれくらいは必要だと思います、
神仏が感動して自ら動き出すくらいの実践内容とは、このレベルです。
私はこの現象に対しての説明されている文章を、第1次実践の際に、
阿含宗の教祖の本の中に見た覚えがありました。
言っておきますが、私は何の信者でもありません。
生きている人間の師はいませんと何度も言っている通りです。
書籍が残っていましたので、引用だけしておきます。
ただし、この人にしても学者と同様で豊富に仕入れた知識は有難いですが、
イカダ(法)を手放す段階の話が出てこないというのがね。
「1999年カルマと霊障からの脱出」桐山靖雄
>まずなによりもその法が正しいという事です。法が正しくて、さらに、
>仏さまが感動されるなにかがなければならない。いうまでもないことであるが、
>仏が感動されるなんてめったにあることではない。
>めったにあることではないどころか、古今を通じて稀である。
>奇蹟といってもいい。その奇蹟を起こすだけのなにかがなければならない。
>それがあると、仏さまが感応してくださる。
中 略
>仏が感応されますと、かならず「現形」という現象(または現証)があらわれます。
>
>これは、元来、神道の方から出たことばです。神霊が感応されますと、そこに、
>はっきりと、なんの神であるとわかるお姿を顕現される。
ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。
マザー・テレサもそう言っているので、今回は私もこの件について話をしてみました。
(続きます)
69
:
TK
:2013/09/28(土) 17:39:33
(続きです)
ただし、
マザー・テレサにしてもバーナーデット・ロバーツにしてもイエスの教えの
肝心な点に気が付いていないみたいでしたね。
イエスの教えも、釈迦の教えもさらに上の表現が度々出てくるのですが、
お気づきでないのですかね、
釈迦の教えでは「ニルヴァーナ」イエスの教えの中には「父」と言うイエスから見て上の表現が必ず頻出しているのですよ。
釈迦は我々から見たらニルヴァーナではなくて、
イカダなのです。
イエスも然りです。
マザー・テレサはイエスが消えて虚無が出てきたと、
これこそイエスの教えの実践でアセンションしイエスの表現する「父」の近くにいるという事です。
マザー・テレサの修道歴に照らしたら、それが起こるのは遅いと思います、
つまり、イエスが現れ指示の通りに行動し始めたことが、
本当のイエスの教え通りの実践だったのであり、それまでは、やはり、
どこかが違っていたという事ですから、
イエスが出てきて実践内容が説かれるまでそれが起きなかったと私は思います。
http://sharejapan.org/sinews/magazines/33116k/vep55f/ln5rds
ですから、マザー・テレサの教えは本物です、
そのへんのキリスト教組織の中で神父と言う名前の盲人とは違うのです。
ちなみに、私はイエスから実践内容など説かれていません、ですが至りました、
私にとってイエスは、実践内容が間違いないことを承認する意味でした。
マザー・テレサのように説かれる必要が無かったのです。
マザー・テレサと私の違いは、私は釈迦にも実践内容を承認されたと言う点が違います。
イエスの教えと釈迦の教え、
この2つは一緒に食べ合わせをしても問題はありません、補完し合う関係です、
しかし、出家至上主義時代に説かれた釈迦の教えより、
イエスの教えの方が遥かに現代の社会に合うようにカスタマイズされていて優れている、
しかし、双方同一線上にある教えではあるが、釈迦の方が視点的に上まで説いています。
これは、イエスの教えの説ける期間の短さに主な原因があり、
渡る方法を説く事が最重要だったことが主な原因だったと思います。
自分がいてイエスがいて、話を聞いて、
イエスの教えは元々自分がいて他者がいてと言う、
このような相対の低次元から相対を超えた次元に上昇するための教えなのです。
ただ、私の場合は釈迦の教えを取り入れていましたので、
それから間もなくして、イエスも釈迦も遥かに超えた究極の「それ」まで行ったのです。
私に今師がいるとしたら、イエスでも釈迦でもなく究極の「それ」です。
そこは、イエスも釈迦も一切を捨てて、さらに先にあります。
善悪の彼岸がアダムとイブが禁断の実を食べる前に戻る事であるとすると、
究極の「それ」は光と闇が分かれる前です、
つまり光でさえも捨てて行かなければなりません。
原罪 - Wikipedia(2013年7月16日 (火) 00:32 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
>神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、
>善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。
>しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、
>女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。
天地創造 - Wikipedia_A0(2013年4月17日 (水) 14:48 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0
#.E5.89.B5.E4.B8.96.E8.A8.98.E3.81.AE.E5.A4.A9.E5.9C.B0.E5.89.B5.E9.80.A0
>1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
そこに至ったなら、イエスも釈迦もどんな神も、
この宇宙でさえ全て「妄想の産物」だったのだという事になってしまうのです。
スッタニパータ9
>走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
>「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
>この世とかの世とをともに捨て去る。
>──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
70
:
ラピ。
:2013/09/29(日) 08:57:11
☆TK師
貴重なお話 いつもありがとうございます!
私は釈迦やイエスの教えについては
有名な言葉は知っていましたがほとんど知りませんでした。
でも自分の不屈の(ある意味しつこい(笑)精神で
教えがなくてもある程度までは進んでいました。
でも、最終的に私を彼岸に導いたのは
師から教えてもらった「激流」でした。
その時の私にとって必要な教えでした。
まさか、激流の中に彼岸の道があるとは、、、。
師から教えてもらった「激流」
直感的に「これだ!」というものがありました。
だから最終的に激流が起こった時に
それに向かって進む決心をし、
無事渡り終えました。
ちなみに私の第2の実践は、
師も「地獄」だと言われているのと同じように
まさしく大変な状況でした。
でもあきらめなかった。
どんな状況でもそれを極めるために
(そしてその実践の限界を知るために)
なにがあっても続けました。
実践している自分が何度も消えそうになったけど
(何度もその瞬間を体験しました)
それでもやめなかった。
、、、しつこいのです。(笑)
実践をとことんやってると
もう引き返そうにも引き返せないのですけどね、、、。
(それまでの自分がどんなものであったか忘れてしまったのです。)
だからもう進むしかなく 何が起こっても
さらに実践をしてました。
そしてある瞬間、最終的に闇に放り出されました。
そこから必死に帰ってきたのです。
(「必死」という言葉はまさしくこの状況にぴったりでした)
自分が消えてしまったらどうなってしまうのか
怖かったです。
闇に放り出されたときは怖さに関係なく
勝手に放り出されてしまったのですが。
この放り出された時は「怖い」というよりは
時間が止まった感じで、なにもありませんでした。
あるとしたら闇?
時間にすると一瞬です。
そしてまだまだ至る時ではなかったからか、
彼岸に少し触れたけど 至ることはできませんでした。
でも、私は一歩足を踏み込んだ彼岸から
あるものを得て帰ってきました。
あるものとは
その闇の時に体得したもので
うまく表現できない「それの一部」です。
その経験のおかげで「からっぽ」でいることができるようになりました。
でもこの「からっぽ」はまだ意図が必要でした。
=まだ至れていない、ということです。
その時は「からっぽ」そのものではなかった。
でもそれのおかげか
最終の激流を1日で渡り終えることができました。
どんな経験も無駄ではありません。
どうぞ、不屈の精神で日々をがんばってください。
するなら「徹底的に」です。
私は実践に自分の人生をかけました。
もう生まれ変わらない、と決心していたので
「今世でしかもうがんばることはできない。
今世できなかったから来世でがんばる、という選択肢はない。
今しかない。」
まさしく、今世をかけていました。
>「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
ほんと、そうなんですよね。
「何も起こってないけど話せる。」
そんな感じですかね。
この状態で初めて何にも影響されず
純粋に表現できると思います。
まだまだ至りたてほやほやなので
この状況にもっと慣れていきたいと思います。
「ほやほや」の様子について、
またいつか書けるかもしれません!
@(*・ω・*)ポッ
71
:
滝沢
:2013/09/29(日) 22:36:09
TKさま、ラピさま
はじめまして
お忙しい所、失礼します。
一昨日に非常に似た経験をしたので、
書き込まさせていただきます。
色々な体験を通して、それである無、空、愛は、知っています。
いつもは、愛というよりは、無そのものになる事をワークをしていました。
一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
ここで感じられた虚無感というのは、
普段感じられる、愛である無であるといった存在意識至福といったものではなく、
圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
前兆は、3日前の無を感じる瞑想で、普段は意識そのものになるのですが、
その時は意識が粉々になって無に散らばってしまい、
何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑
私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
あの闇を考えると精神探求自体何もない可能性高いですが、
まだあの闇の世界は何かあるのではと恐いもの見たさの興味が出てきています。
なのでマインドも無くなってないです。直したいのですが、人嫌いな所は変わらないですし。。
72
:
滝沢
:2013/09/29(日) 22:38:09
すいません。
3:悟りを目指している方(143) : に書くべきでした。
間違えてしまい、ごめんなさい。。
73
:
TK
:2013/09/29(日) 23:53:20
滝沢さん
>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えて
>いき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
良い経験が出来たのではないでしょうか。
ここはなかなか興味深い物を感じます。
最初に光があった事を考えるなら、何かを体験させられたと言う感じに思えます。
ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
この時に得た感覚は、
これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。
>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
>
>ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑
悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。
>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。
探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
探して見えてくるものは、全てまやかしです。
74
:
ラピ。
:2013/09/30(月) 00:29:58
☆滝沢たん
書き込みありがとうございます!
滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
それを体験したことがある、ということでしょうか?
「無、空と一体であると経験できる瞑想」
みたいなのがあるのかな?
瞑想はほとんどしていないので
なんといも言えないところもあるのですが
私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
徐々に消えていく感じではなかったです。
(第2次実践の時も第4次の時も)
滝沢たんは闇を経験したかもしれないけど
それそのものではないかもですね。
なぜならまだ興味があるからです。
そのものになってしまえば興味を持つ必要もないし、
そもそも興味も出ません。
そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
必ず、至ったとわかります。
もしかしたら今回の経験は
私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
どうなんだろう、、。
私の場合 かつての2次の探究の時は
確かに闇を経験したけど
その時はそれがどういうことなのかわかっていませんでした。
>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
ここが気になります。
滝沢たんは目指すもののために日々瞑想をしている、
という感じでいいのかな?
@(*・ω・*)ポッ
75
:
滝沢
:2013/09/30(月) 07:18:01
TKさん、ラピさん
お返事ありがとうございます。
以下、マインドを使って書かさせていただきます。
ただ、、言い回し上、ぶっきらぼうな所があるかもしれません。
マインドを使おうとすると意識が飛び散っている状態で、
細かい事に注意が向けないため、気にしないでいただけると助かります。
>ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
>この時に得た感覚は、
>これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。
はい、そう思います。
闇の体験後は、
意識が周りに飛び散った状態で、自分をつかもうにもつかめない状態です。
自分が何なのか分かりません。ただの石ころでもあるし、全てでもあります。
何かの思考は出てきますが、それも無に混ざるチリのようです。
> 悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。
はい、闇の体験の前の日は、マインドが出てきました。
ただ、それも今となっては、過ぎ去った他人事のようです。
>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
>この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。
>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。
マインドは他人事のように闇は凄いぞ。存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。
今思えば、闇は存在そのもので、存在の無限性を表現していただけにすぎないという理解です。
マインドの観点ではなく、それの観点では
闇でも愛でも至福でもなく、私は、ただのそれで、ただの物です。
石ころと同じ何の意味もなさないただの物です。
ラピさん
>滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
>それを体験したことがある、ということでしょうか?
体験というとより、
存在意識至福がそれの性質で、
闇の体験前は、時系列?でそれが起こっていたのですが、
体験後は、それが無限ループで3つ同時に起こっている感じです。
>私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
>徐々に消えていく感じではなかったです。
>(第2次実践の時も第4次の時も)
>もしかしたら今回の経験は
>私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
>どうなんだろう、、。
第2次、第4次の記事あったりましますでしょうか?
ブログ探してみたのですが、見つかりませんでした。
>そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
>必ず、至ったとわかります。
1。自分は一切なくなりますでしょうか?
2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?
私の状態としては、2の方が近いと思います。
自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。
>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
>その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
>これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
>ここが気になります。
はい、体験そのものです。
それを後付けの思考で言葉で表現しただけで、
無味乾燥、闇の中に死神はいるというのは、思考です。
76
:
TK
:2013/09/30(月) 17:38:46
滝沢さん
至ったかどうか、私もあなた本人ではないので、
この表現を通して計り知る限りではかなりいい線で進んでいると思います。
しかし、私も前にも言いましたが、
本当に至ったのならマザー・テレサのようにそれまで続けてきた祈り等の実践をしようにも実践できない、
実践不能と言う状況がやってきますから、まず、その方向で進まれることをお勧めします。
ちなみに、
ラピ。さんは至った時には、私が印可して至った事を認めたとかよりも先に自身で至ったことが分かったのです。
どんなに逆立ちしても、
今まで必死にやっていた実践が出来ない実践不能と言う状況がやってきます、
それを成就か否かの判定にして下さい。
それが一番の判定法なのです。
>次は至った直後のラピ。さんの言葉です。
>
>[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html
>
>>この私はだれですか?
>>
>>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>>
>>何もできないのですが
>>この私はなんですか?
>>
>>師匠、これはなんですか?
>>
>>と送りました。
>
>実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。
>
>アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>>私は無だ。
>>
>>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。
77
:
滝沢
:2013/09/30(月) 19:01:29
TKさま
これ以上ない愛ありがとうございます
ただ沈黙せざる得ません
仰られますように行為自体が何の意味もなさず、為される事が完璧です
全ての行為は起こっては消えて行きます
行為者がチリとして残っていることも事実です
頂いた示唆を胸に
自然に進もうと思います
失礼いたします
78
:
TK
:2013/09/30(月) 19:07:11
滝沢さん
>マインドは他人事のように闇は凄いぞ。
>存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。
これもかなり、曲者ですね。
闇は求めないで下さい、あきらかに無色貪(精神的欲望)です。
これだと、真実とは別物の妄想による闇を作り上げてしまいますね。
マザー・テレサやバーナーデット・ロバーツ等クリスチャンの闇と表現している、
神が消えた、現象について解説すると、マザー・テレサの言葉の中にありましたが、
実践においては横たわっている具合の悪い病人を主イエスが横たわっているのだと言うつもりで接しなさい、
私たちは看病ではなく修道の実践をしているのです的な表現が出てきてましたね。
これが、マザー・テレサの言う主イエスとの一対一の関係性の構築です。
このように修道では自分の取り組む対象に対して、信仰しているイエスや神を、
妄想を駆使したオーバーラップと言う手段を使います。
所が、至ってしまうと、目の前から「対象」となるものが一切消えてしまいます。
よって、何も無いとしか言いようが無くなる、
妄想を駆使した対象物に対しての神のイメージのオーバーラップと言う実践手法も不可能となる、
これが神が消える現象、この人たちにとって神を光に譬えているので、
神が消えたのですから実践者にとってはつまり闇そのものと表現するような状況なのです。
79
:
TK
:2013/09/30(月) 19:47:08
色々な話が出てくると良いですね。
それにまつわるような部分の、今まで明らかにできていなかった所の、より、
明確な表現が出せますね。
ラピ。の原点│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1727.html
>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!
これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。
>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!
この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
と言うのが真実の実践法です。
実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。
結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。
命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。
色々と至るための必須のポイントがあるのです、
これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。
例えば世界の人たちのためにと思ったら、
世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
複雑ですが必要な事なのです。
善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。
そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。
80
:
滝沢
:2013/09/30(月) 20:28:24
TKさま
闇を求めたというよりは、自然に起きました。
それは、私の底深くにあった想念であり過去生なのかもしれません。
ただレットゴーを極限まで行った結果がゾンビ状態で闇でした。
あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。
闇を解明したいという事よりも本当に大切な事は、
何ももとめないで、起きる事をただ受け入れる事が大切な事だなと思います。
失礼いたします。
81
:
ラピ。
:2013/09/30(月) 23:26:07
☆滝沢たん
私の言葉もぶっきらぼうに見える時があるかもですが
単なる言葉ですのでよろしくです。
第2、第4の実践についての記事はいろんなところに書いてて
まとまってないかもですが
このスレッドでは38番から書き込んでます。
また「悟りを目指している方」のスレッドでは
111から書き込んでます。
あとブログでは第2の実践の状況をちょこっと表している記事があります。
「至る」
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1722.html
>1。自分は一切なくなりますでしょうか?
>2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?
えっと、私が書いたのは
「今まで自分だと思っていた自分」が消滅した
ということです。
そして付け加えると、その更なる自分がいた、ということです。
その更なる自分をどう表現していいか、、、。
いまだにできません、、、。
表現しようとすると、ただただ無心になってしまう
という感じです。
ちなみに至る前まで「本当の私」だと思ってた自分は
一般的に言われている「エゴ」と言われているものだったのだ
とわかりました。
それまで「エゴ」というものが
(いろんなところでその言葉をよく聞いてましたが)
どういうものかよくわかっていませんでした。
「それまで自分だと思ってた自分」が消えて初めて
「あ、これがエゴというものだったんだ。エゴが消えたんだ。」
とわかりました。
ちなみに第2次実践の時の私の言う「闇」も
いまだにどう表現していいかわかりません。
表現しようがないので「闇」と言ってます。
だから滝沢たんがその闇に対して表現できていることに
「ん?」と思いました。
>私の状態としては、2の方が近いと思います。
>自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。
そのただ起きて過ぎていっている自分を見ている「自分」
が存在していますか?
そしてもうひとつ。
もし至ってるとしたら。
そしてそれがつい最近のことだとしたら
ここまで その状況をすぐに明確に言葉には表せないと思います。
至ればそれまでと全く違う次元ですので、
私の場合その状況がどういうことなのか、
初めはただただ味わうことしかできなかったから。
本などで読んだ情報と照らし合わせて
「そんな感じなんだろう」という感じで表現されている感じがしました。
もし至ってしばらく経っていて
その状況に慣れていらっしゃっる方の表現だとすると
それもありなのかなと思いますが。
@(*・ω・*)ポッ
82
:
ラピ。
:2013/09/30(月) 23:35:21
☆TK師
ありがとうございます!
確かに実践の動機は
「まずは私を使っていろいろ実験して
みんなが使える方法を開発するのだ!」
でしたが
実践してる時はそんなことも忘れてひたすら実践でした。
その動機により、決めた実践をひたすらやってました。
決心したら ひたすら実践です@(*・ω・*)ポッ
83
:
TK
:2013/09/30(月) 23:47:52
滝沢さん
>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。
可能性は強いですよ。
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、
>自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
ただ、ここで曲者なのが次の部分。
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
ただ、光の存在に体験させられただけみたいにとれるのです。
なぜかと言うと、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
光をあなたの意志で消し、さらに真っ暗な虚無に突入したと言うのであれば、
あなたの取ったプロセスがヒットしたと言えるのでしょうが、
そのように思えないのですね。
でも、貴重な体験であるとは思います。
これからの、あなたの進むための手掛かりになるのではないでしょうか。
また、同じような経験が踏めると良いですね。
84
:
滝沢
:2013/10/01(火) 06:43:29
おはようございます。
TKさま
私の一過性なる体験談に付き合っていただき、
色々なご意見ありがとうございます。
それそのものであり、それから意識と思考、世界が、ただ起きていき消えていく無限ループ三昧で、
今自分の状況を説明できる状態にはなくなっています。
また機会があればお邪魔させていただければと思います。
失礼します。
85
:
TK
:2013/10/03(木) 07:06:46
エゴにはエゴを増強する作用の悪玉エゴと、
エゴを減らす(殺す)作用の善玉エゴの2種類があるのです。
方向的にヒットしているのではないでしょうか。
ちなみに私は自然が良いなどとどこかの間抜けみたいな事は言いません、
無理やりこそが鍵なのだと説く者ですから。
釈迦も「激流」だと説いてましたが、
「緩流」に対する「激流」とはそう言う事ですよ。
>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。
>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
読解力を駆使してみましたが、これが恐らく次元上昇のプロセスですね。
光はあなたが確認しているので自他がある、
つまり恐らく一般的にコーザルと呼ばれている次元なのでしょう。
>瞑想中に無、空と一体でいる
つまり、この段階ではまだ、無、空では無く残り物(形態)があるのです。
光が出た後に光が消える、これも次元上昇のプロセスです、
実際はこの光が消えた後が「形」を突破した「一体(合一)」と表現できるプロセスになると思います。
その後は、プロセス的には空間が滅び去る段階へと続きます。
経験できたプロセスを手掛かりとして、
繰り返しトレースできるように心がけると良いと思います。
やがて、自我が消滅します。
肉体はメンタルが物質化したものと考えるとちょうどいいようなものですから、
実際はメンタルの変化に応じた肉体の変化が出てこないと、
メンタルもしっくりしたものにならないと思いますが、
肉体は物質なのでメンタルと違って変化に時間がかかり、
その間メンタルは低次元に縛られますから、繰り返しの鍛錬が必要です。
86
:
滝沢
:2013/10/03(木) 12:35:03
TK様
ご教示ありがとうございます
長い時間、頭を使おうとすると、締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。
今は、自我の思考も含めた体験が起こり、消えていく。
生活していて楽になったという思いが出てはそれも消えていく。
というような無限ループです。
そのループがあたりまえになってきて、大分余裕になったという思いが出て消えていく。。
こうして書く事、表現する事自体に無意味さを感じ、TVを見るようにただ見ている聞いている方が楽に感じます。
ここ数日で気づいたら何かがシフトしており、自我が主人公となる事は無くなっており何かやろうという意味込みを作る事も難しくなってきています 頑張ればできるのですが
起こった事をただこなすのが楽で良いです。
今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、ただ座ろうと思います。
また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。
失礼いたします。
87
:
TK
:2013/10/04(金) 23:25:15
>行為者がチリとして残っていることも事実です
エゴがあるという事ですが、しかし、
そのエゴが究極に向かうためには推進力として使えます。
>長い時間、頭を使おうとすると、
>締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。
そのスタンスが良いです。
ここまでくれば、いい線です。
ラピ。さんにした指導と同じに言えますから、常時、
頭の中を空っぽで居るようにして下さい。
憶えておかなければならない事とかは、紙とペンを使って、筆記して、
度々見るようにして、頭の中はそう言う事も含めて常に一切空っぽにするのです。
あなたの前には先人が二人、私もラピ。さんも歩いた道です。
ここは、受け売り知識ではない自分の経験の話しをする場ですから。
ここでは「理解は低次元な行為」なのです、「理解を捨てて下さい」、
誤認覚者は「理解したことで悟ったと勘違い」している人たちですがあなたにはこの事が通じそうですね。
ラピ。さんはあなたと違って、
瞑想ではなく公開はできませんがあるヨーガの技法を利用したのです。
これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。
感情の無い力のこもらない、まるでロボットのような動き方や話し方、
全体として意志の無い生きる屍のようなと表現するとちょうどいいような動き方になります。
感情の無いロボットのようなシンプルな行為です。
これは、至る前の人は思いに基づき行動をし思いに基づき対話をし、
このように全て「思い」に基づいて行為をしている、
その行為の元である「思い」を捨てる事により全ての動きが出来なくなることに起因しますが、
やがて、至った後には、
「思い」に基づくどのような行為より優れた瞬間的な行為がそれにとって代わって出現します。
>今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、
>ただ座ろうと思います。
ちなみに、ヴィパッサナ等の日常生活を利用した実践はしてないのですか。
釈迦も教えてますが、こちらにも重要な価値があるのです。
>また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。
>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
悲しいマインド程度で良かったですね、
私は瞑想時には開けてはならないパンドラの箱を開けたがごとく、
幼いころに負った罪悪感のトラウマが巨大な怪物の形となって来る日も来る日も私に襲いかかり、
感受性は極めて鋭敏になった危険な状態で、
ポルターガイスト現象なども発生し、逃げ場の無い地獄の日々を耐え抜きました。
頑張って下さい。
日常実践は至る方法としては重要なウエイトのものです。
やるかやらないか選択肢の問題ですが、
私はそれをやらないわけにはいきませんでした。
なぜなら、
その時の私は肉体としての自分では無く精神体としての自分を生きていたからです。
修行のステージを上げて行くと言うのはこういう事を言うのです。
88
:
ラピ。
:2013/10/05(土) 04:36:25
☆TK師
師匠、いろいろありがとうございます。
補足させていただきます。
私のそのヨーガの技法は第2の実践なのですが
これは起きている間中ずっとしていました。
もちろん、普通に生活してましたので
(山に籠ったりはしてません(笑)
ご飯を食べてる時も、仕事をしてる時も
何かをしてる時もずっとです。
それが実践です。例外なしの日常での実践です。
この実践により、私は闇に放り出され
自分が消えそうになりました。
実際、消えた瞬間がありました。
でも完璧に消えることができませんでした。
ただ、この時に得たものが「からっぽ」でした。
でもこのからっぽも簡単に得た物ではありません。
闇から帰ってた時に、精神と体が分離した状態になっていて
今までどうやって体を動かしていたかわからなくなってました。
ちなみに闇に突入する前にも分離した状態であり、
(第1の実践で自分が否定さる出来事があり、どん底状態でした。
そこから第2の実践が始まりましたので)
日常の生活をするのが常に意識的でしかできなくて
(そうでないと、腕一本、あげることすらできなかった)
常に実践せざる得ない状況でありました。
ただ究極の消える体験をしてからは、その実践ができなくなりましたので
ただただ、相対的世界(此岸)に一生懸命帰ってきました。
ちなみに究極の消える体験の前も
何度も消えそうになる体験はしています。
それでも実践はやめなかったので究極の消える体験までいきました。
究極の消える体験をしてからは
赤ちゃんに戻って全ての行動を一からやり直していく感じでした。
そうやって帰ってきました。
ある意味、一度死んで、生まれ変わった感じですかね。
「私」をもったまま それを体験した、という感じです。
この一からのやり直しのおかげで
「私」はまだいましたが純粋に行動することができるようになりました。
(普通、赤ちゃんから成長してすべてできるようになるのは
いつの間にか だと思いますが
この時の新たなる私の誕生の時は
「私」があるままで全てを始めました。
ひとつひとつの行動を「私」が存在しているままできるようになっていった
という感じですかね。
無意識ではなく、意識的に、という感じです。
赤ちゃんの頃は「私=エゴ」はある意味いなくて
いつのまにかできるようになる感じ、
気付いたらできていた、という感じですよね。
私の場合、「私」という意識を持ったまま生まれ変わった経験ができた、
という感じですかね。
1つの行動があたり前にできるって、
ほんと実はすごいことなんですよね。
それがどうやってできるようになったのか、
考えてもわかりませんよね。)
今できる当たり前の行動を
ひとつひとつ、意図的にするようにしたらわかるのですが
私たちは実は何もしていなかった。
無意識に思考のまま生きていたのです。
そして赤ちゃんの状態から「私」をもったまま歩き始めて
思いに頼らない動き=純粋なる動きができるようになりました。
=からっぽです。
ただし、まだ「私」はおりました。
そのからっぽは「私」が意図しなければ空っぽではなかった。
その意図する私がまだいた。
私は「からっぽ」そのものではなかった。
その「からっぽ」そのものになることが悟りであるのだろう、
と直感的に思いました。
それになるために、最後の激流を渡る決心をし
それを達成しました。
からっぽなる私を超えて
からっぽそのものになりました。
@(*・ω・*)ポッ
89
:
滝沢
:2013/10/05(土) 16:19:50
TKさま、ラピさま
愛のこもったメッセージありがとうございます。
色々とありがとうございます。
メッセージからくる波動に、ただただ、感謝です。
ご返信しようと色々書いてみたものの、
どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。
すいません。表現できず。。
失礼します。
90
:
TK
:2013/10/06(日) 08:48:47
滝沢さん
>ご返信しようと色々書いてみたものの、
>どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。
まともな実践とはそういうものです。
質問すら出てこない。
なぜなら、質問も疑問も捨てられてしまうのですから。
私は今まで対話のピンポン遊びをやってる、
自称実践者といういかがわしい事をして遊んでいるエセ実践者を多くみました。
あの者たちは、
低次元のアストラルと言う次元での住人として楽しんでいるのですが、
絶対にあの者たちがそれより上の次元に上がれることはありません、断言します。
生きているうちよりあの者たちが死んだ後にその違いは明らかとなります。
あなたには分かるでしょうが、あの者たちの善も悪も無いと言っているのと、
私が善と悪が無いと言っているのは、表現だけは同じでまるっきり別物です。
それを知っている我々は、釈迦もそうでしたが、あえて善も悪もあると言うのです。
ただ、似非賢者の特徴は善も悪も無いと説きますから、
この辺が判断基準になるところです。
我々は善と悪はあると説きます、似非賢者は善と悪は無いと説きます、
なぜこのような違いが出るかと言うと、
我々は善と悪を無くするための善と悪の利用の仕方を知っているからです。
似非賢者はこれを知りません、ですから、
本からの受け売り知識しかないので善と悪は無いと理屈をこねまわして説いているのです。
しかし、真実は理屈が無いから善も悪も無いのですが。
私は実践時に幽体離脱と言うツールが使えましたので、
どんな実践をすると肉体を抜けた後はどうなるか、
繰り返し繰り返し確認する術がありましたが、
肉体と言う異次元交流のための便利ツールをまとっていると、
違いがはっきりしませんが、死んだ後には大違いです、しかし、
その時には後の祭りです。
あなたは、確実に次元上昇のプロセスを上がっている、
アセンションを果たすべく本物の実践者です。
次元上昇による行動方式が変更される過渡期はあなたのようになります。
これが本当の次元上昇です。
マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
あなたのような本物の実践者のために我々がいるのですから。
エセ実践者は、
目的が違いますから自らの誤認による覚者と戯れているとちょうどいい、
その二つがバランス的に釣り合うものですから、
両者ともそれで楽しい時期なのです。
堂々巡りを回っていても自分たちもそれで楽しいのですから、れはそれ。
「理解」と言うキーワードで結びつくのが、誤認やエセの結びつきですが、
本物は「理解と言う低次元行為をすっかり捨てて」合一に向かうのです
「理解を捨てて」、
この一言はあの酔っ払い(恐らく死ぬまで)の人たちには通じないキーワードなのです。
私は激流の実践時は「理屈」はすべて捨てました。
我々本当に次元上昇した者は「理屈」がありません。
今ここで述べているものも、
聞く者にとって理屈でも我々にとっては「理屈」ではなく、ただの言葉なのです。
これが次元の違いなのですが、エセ実践者も自らの誤認による覚者も、
本当にこれが分からない。
好きで酔っぱらっているのですから、
それはそのまま構わないでおくことが賢明なのでしょう。
エセ実践者ばかりを目にしてましたので、
あなたのような本物の実践者を見るとこちらもうれしくなります。
91
:
TK
:2013/10/06(日) 09:16:06
地獄と言う表現について、なるべくわかりやすい言葉で説明するならば、
一例で言えば悪いことをして刑務所に入るのにかなり似ていますね。
実際は恐らく刑務所などと言うそんな生易しいレベルのものでは無いと思いますが、
しかし、規則正しい生活を送らされてお勤めをさせられる、
禅寺などの修行環境と、刑務所はどこか似ている点があると思います。
そもそも刑務所も、人間を修養するための施設の一つと言う意味では、
似ていても不思議ではありません。
私が激流や地獄と表現するものは、
これらの機能をさらに倍増させたようなものなのです。
よく、囚人生活の映画とか見たことがありますが、
実際は刑務所と言えども懲役で働かせられているだけではなくて自由時間もある事でしょう、
しかし、これに対して私が激流や地獄と言うものに対しては、
就寝時以外の意識のある限りは、マインドに自由を一切与えない、
このような実践になります。
標準的な人間の感覚なら、
マインドのままに自由にできる時間を自由時間とか休憩時間とか表現していますが、
それを一切自分の生きている生活の中から排除するという事を指します。
マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、
この意味をさらに詳しく解説するなら、
自分のマインドの動きに無関心で居てはならないという事なのです。
至る前の人間は必ず、遭遇する出来事に対してマインドが動きます。
無視してもマインドは動いているのです、なぜなら、その「無視」そのものが、
既にマインドが動いているという事なのですから。
本当に至った者の辿り着いた状態としての無関心は、無視すらしないのです、
一般の人には逆立ちしてもこのような事は出来ません。
善と言う判断が僅かにでも起きたなら「必ず」無視しないで実行に移しなさい、
悪と言う判断が僅かにでも起きたなら必ず無視せずに絶対にそれをしてはいけません。
就寝時以外の意識のある限りにおいて常にこれを実行しなさい。
これ本当に口で言うのは簡単ですが、実行に移すと偉く困難性の高いものなのです。
肉体上の行動の自由を規制するのが刑務所なり禅寺などの修養機関であるとすると、
更に突き進んで、
メンタルの自由を就寝時以外の意識ある限り規制するのが激流の実践なのです。
更に激流の実践では善とマインドに僅かにでも浮かんだら、
100パーセントの行動を起こさなければなりません。
つまり、マインドも、行動も生きている生において一切の自由が無い、
これが実践の真実です。
刑務所は生易しいと思いますよ、
いくら行動を規制されても大元のマインドまでは規制されませんから。
所が、大元のマインドを自らで100パーセント規制したら、
行動の自由も一切ありません。
つまり、行動、メンタルともに牢獄の中という事です。
この実践で重要なのは例外無しの100パーセントと言う言葉にあるのです。
生きている意味が無いと感じますよ、でも、
それが至ると生きている事の最も重要な意味だったのだと言う事が分かります。
至った我々には生きている意味はありません、
この状態で楽々生きているのです。
至る前の者は変な所は真似せずに、
このような所こそ至った者の真似をしなければならないのです。
一般の人には意味なく生きる事はこの上なく苦痛です、
至った我々はそのような状況に常に楽々生きていますが、
これが次元の違いからくる苦痛なのです。
この、「意味なく生きる」事こそ真似して、
そのことから受ける苦しみを充分に味わって下さい、
それこそが真実の「激流」の実践なのです。
92
:
ラピ。
:2013/10/06(日) 11:40:42
TK師 滝沢さん
貴重なお話、いつもありがとうございます!
私がかつて実践していたときは
はじめは何も疑わず、自分を信じての実践でした。
そのあと、信じていた自分が信じられなくなる出来事がありましたが
それでもあきらめずに実践を行いました。
(ちなみに至ると 信じてた「自分」は消えます)
実は「師」はいらないと思ってました。
、、、本物の師なんて いない って思ってました。
だから自分だけで長年歩いてました。
TK師に初めてメールをしたのも
師匠を探していたのではなく
私が今どの位置にいるのかを知りたくてコンタクトしました。
でも最終的にTK師は「本物」であると確信しましたので
師を信じ、激流に飛び込みました。
実践中にいろんな疑いが出てくるかもしれませんが
それはすべて「エゴ」の声で
もし、その声に従って疑問をもって実践がおろそかになってしまったなら
それこそ、「エゴ」の思うつぼです。
だからひとつのことを決めたならどんなことがあっても
最後までやり通す、できなくなるまで続ける
くらいの決心が必要です。
ひたすら清き道を進んでください。
疑う時間を持つ暇もないほどに。
大丈夫です。
清き道を歩かれているすべての皆様。
@(*・ω・*)ポッ
93
:
滝沢
:2013/10/06(日) 18:46:40
TKさま、ラピさま
精妙なニュアンスに共感いたします。
何も言えないです。
ただ、受け取らさせていただきました。
失礼いたします。
ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
そのままコメントしないでおこうと思います。
掲示板は毎日チェックさせていただいておりますので。。
94
:
TK
:2013/10/06(日) 19:30:11
滝沢さん
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。
もし、
あなたに対してのコメントであるとあなたの中に判断が起きた時にはコメントは返してください。
理由は分かるでしょうか。
あなたの徹底できていない部分の実践が、
ここで明らかになったのです。
あなたは、あなた独自の意思表示について、
非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。
あなた独自の意志表示をしてもらっては実践上は駄目なのです。
この場合はコメントを返さない事があなた独自の意思表示となってしまうのです。
至った我々には意志と言うものがありません。
しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。
「緩流」では無く「激流」であると言う意味は、
細かい部分に至ってまで神経質なほどに見逃してはならないという事です。
95
:
TK
:2013/10/06(日) 20:08:54
滝沢さん
>至った我々には意志と言うものがありません。
>
>しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。
この件について少し。
マタイの福音書 5章39-42
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
>
>あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
>
>求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。
紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。
>ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。
マインドを働かせすぎです。
ラピ。さんから掲示板が汚れて迷惑とでも言われましたか。
これは紛れもなく、あなたの保身混ざりの妄想(マインド)です。
丸見えですよ。
96
:
滝沢
:2013/10/06(日) 23:57:50
tkさん
愛をありがとうございます
そうですね。状況書いてみようと思います。
さらなる激流現れてきません。
自分を意図的にいじめられなくなっています。なので生活を淡々としていく感じです。
頭はからで意識は頭上遠くに拡散されております。
完全にぽっかりサハスラーラ大きく空いている感じです。
体も虚無の真っ黒な空間に感じられます。実際に視界に入れば肌色です。
自分の思考が来てもどんどん高速に過ぎ去って行くように感じられます。
道の真ん中に立って車が200キロぐらいで頭の中をヒュンヒュンと通り抜ける感じです
自然の素晴らしさに関しては全身で愛や慈悲を感じ、散歩中に自然をじっと見ているとサマディ起こります。
97
:
滝沢
:2013/10/07(月) 06:33:06
tkさま
あのメッセージを書き込んだ後、
体に震えがおきまして、
一晩中意識がどこにあるかも分からず、
体は死んで思考も死んで、あの虚無空間の中ただいる中、
虚無空間そのもので、赤ん坊のように丸まって過ごしました。
まさに赤ん坊のように丸まるのが一番落ち着き、必然的にそうなりました。
いくつか意識がある時の感覚を思い出せます。
虚無空間に対する恐れ
お腹の中が洗濯機でグルグルかきまわされて気持ち悪さ。
頭の中は光の高速な点滅、もうろうとする意識。
2、3時間は、眠りについていたようです。
幸いな事に眠くありません。
虚無空間にこれほど長くいたのは初めてです。
理解を超えた体験でした。
98
:
滝沢
:2013/10/07(月) 06:52:03
tkさま
私にメッセージを出すよう促していただいた事、感謝いたします。
メッセージを読んだ時に一つのリミッタが外れ、震えの後、虚無が一気に吹き出したたように感じました。
99
:
TK
:2013/10/07(月) 07:15:47
滝沢さん
私の言葉に反応が起きるのは、あなたにはまだ確実に、自我があるという事です。
この残った自我こそが、
激流を渡るイカダの正体ですからうまく利用しないと駄目なんです。
私に出会う前のラピ。さんの段階に似てますね。
自我が少なくなってかなりの楽が実現できているのです。
ラピ。さんは私に会う前にその段階で、悟ったと誤認してました。
とにかくまずは空っぽを確実なものにして下さい。
それと、実践できる限りは実践するという事です。
本当に激流を渡り終えたら、実践はいくらやりたくても不可能になるので、
ラピ。さんのように
おのずとわかります。
今のあなたの段階でも充分に楽は実現できている、
その先に進むかはあなたの問題です。
ラピ。さんは進みたいと言う強い意志がありましたから。
100
:
ラピ。
:2013/10/07(月) 07:40:20
みなさまおはようございます!
☆滝沢たん
掲示板に書き込むことで気付くこともあると思いますので
どうぞ、思うものがあれば書き込んでね。
ちなみに彼岸の前には必ず激流があります。
☆TK師
そうですね。
ということは滝沢たんは今まさしく
チャンスの時、ということですね。
@(*・ω・*)ポッ
101
:
滝沢
:2013/10/07(月) 09:18:56
自我をイカダに激流を乗り越え至るですね
了解いたしました
102
:
TK
:2013/10/13(日) 11:01:39
私は決死の状況で激流を渡ったが、
はたしてこのような道を他の者が渡れるものだろうかと思った。
何人もの自称道の者と言う者たちに出会ったが、どれもこれも、
私が折角命がけで見つけたものだったが、
いつしか私はもう誰にも道案内などしなくて良いと思っていた。
しかし、少なくとも一人道案内したら至ったんだ、
だからもう一度ここで少し話をしてみている。
ただし、至れる者とそうでない者の違いで気が付いた部分がある、
三止三請と言う言葉を聞いたことがあるが至れる者と言うのは
私が教えないと言えば三度でも四度でも教えてくれと迫ってくる者だ。
大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。
それくらいの意志の強さの無い者には、教えても無駄だと言うことが分かった、
これは「激流」なのだから、
意志の強さの至らない者は「激流」の流れの方が勝って流されていく。
私は本物の「激流」を説く者だ、
あちらこちらの「緩流」で一生涯賢者ごっこを続けたいような者に私は用はない。
マタイの福音書 16章21-23
>その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、
>律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
>
>するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
>「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
>
>しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
>「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ヨハネの福音書 13章8-9
>ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
>イエスは答えられた。
>「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
>
>シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
「あなたはわたしと何の関係もありません。」はすなわち
「下がれ。サタン。」と同じ言葉として使われている。
ペテロと言う人物の中に住んでいる者がイエスから「サタン」と呼ばれている者だ。
そして、それを釈迦も「悪魔」と呼んでいた。
実は私が実践者だった頃に、私はペテロと言う人物とは違って、
イエスに言われるまでもなく自分で自分の中の「サタンと言う者」を見抜く精度の目があった。
つまり、ペテロがここで述べたような事は私は他者から指摘されるまでもなく、
自らで出来なかったという事だ。
このペテロの言葉の中のどこがサタンだと言うんだと思う者も多いだろう、
私ははっきり言うが、そう思う者が既に「サタンという者」に乗っ取られているからそう思うのだ。
「サタンという者」に自らを乗っ取られていて、それを自分だと思い込んでいて、
さらに気持ち良いとか言っているんだ。
これは、私が述べているみんな次の内容にかかってきているものだ。
>イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。
>
>紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。
他者の意志を自分の独自の意志表現で妨げてはならないという事だ、
これをペテロと言う人物がやった、
だからこの者は「サタン」に乗っ取られた者とイエスから呼ばれた。
イエスが盲人に手引きをさせないのは、
この盲人の独自の意志表現がイエスが話した「サタンという者」に乗っ取られた行為になるからだ。
至った我々に意志はない、すなわち、このようにならなければ、
語る言葉には細心の注意が必要なのだ。
>「あなたはわたしと何の関係もありません。」「下がれ。サタン。」
(続きます)
103
:
TK
:2013/10/13(日) 11:02:20
(続きです)
以前も自称道の者と言うバカな者に、あなたの表現するそれは「識別」ですとか、
間抜けさらけ出しまくりの、
ヨーガやってるとかインドで習ったとか言うエセ実践者がいたが、
その者こそ私に対しての独自の意志表現すなわち「サタンという者」に乗っ取られていた。
私と対等に議論などしたら、カルマを背負うのは相手だけだ。
イエスの説いた「従順」の実践、
この実践を私がやっていた時に時々私をある種の不安が襲った。
私は自ら進んで私の持っている個性とか独自性とかオリジナリティーとかアイデンティティとか、
そのようなものを完膚無きまで意図的に意志を振るってことごとく徹底的に私の中から潰して排除する行為をしているのだが、
このような方向性の道を歩んでいる私はどうなるのだろうか、
「このままでは私は私で無くなってしまう」。
しかし、
私には進むしかなかった、私には「サタン」を見抜く目が与えられていたからだ。
「このままでは私は私で無くなってしまう」この声がサタンという者の声だと私には見えているのでこの声を無視する、
すなわち進むしか手が無いという事になる。
「サタンという者」と一緒にいて、
それで良しとして気分が良いと言うものたちの私には気がしれないがね。
私の話を聞いて進む者は、
私と言う結果を見て実践するのだからまだ進んでいく事にためらいはないだろうが、
私の場合は文字通り自分自身を実験台そのもので率先して個性、独自性、
アイデンティティなるものを自らで片っ端から徹底的に潰していくと言う行為は私には非常に恐怖だったよ。
ただし、「私はとても大変だった」、この表現は好ましい表現なのだ、
大変な環境が作り出せれば作り出せるほど、
激流度合いが増して早く渡れる事に繋がる、
知っててやるより知らないでやる方が激流度合いが増して早く進めることになる。
このような理由から、有能な指導者と言うものがもしいるのなら、
理由を説明せずに理不尽を無理やりやらせる、
このような手段を取り入れる事だろう。
大変(激流)を避けて通りたい者など、
所詮、彼岸(神の国)へのアセンションは無理だからやめておくことです。
マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
ここで述べた実践がイエスの説いた子どもたちのようになるための実践にあたります。
あとネット上でエセ賢者とエセ実践者も良く目にしたが、彼らの特徴は指導する、
それを受けると言う事を利用して、
その正体はその場の雰囲気を楽しんでいる者たちだった。
そして、時々、自分たちはこのような真理を学んでいない多くの者たちと違って、
学んでいる分だけ優れているんだ的な無意識の固定観念を自分自身の中に宿している。
エセ実践者とはこう言うものだ、しかし、
真実の実践とは私が何度もここで話している通りで、
この自分は世界の中で一番劣った者で他は全て自分より優れた人たちなのだと言うポジションこそが、
アセンションの入り口なのだから全く違うのです。
エセは善も悪もないとか言っていますが、これも、本質とは全くの別物で、
至った後の賢者の状態をあの頭の悪い人にわかるようにカスタマイズしなおすと、
善の想いも、悪の想いも、善も悪も無いと言う想いも、
そもそも「想い」そのものがないと言う意味なのです。
善も悪もないと言う想いを抱けなどと、誰も説いていないのですよ。
善も悪も、善も悪も無いという想いも無いと説いているのです。
エセ賢者が「理解」を説くが、これはエセと言う証です。
最終的に「理解」は消えますが、
実践段階でも「理解」無く進む事に優れた価値があるのです。
104
:
ラピ。
:2013/10/13(日) 23:24:41
☆TK師
いつもありがとうございます。
私の通った道も、どの瞬間も気を抜かず、抜けず
必死の道でした。
ある意味、「エゴ」との勝負です。
エゴに自由にさせる時間は全く持たせず、
徹底的にやっていくのです。
この道は簡単、楽ちんではありません。
自らその選択をする人だけが
誰かに何も言われなくてもその道を選んで進んでいくのだと思います。
彼岸の前に激流があると言われていますが
まさしくこれは激流です。
彼岸に渡ろうとする者に対して
大きな抵抗が彼岸の前に立ちふさがっています。
でもあきらめなければ門は開かれます。
あきらめればそれで終わり。
本気で真剣に実践してる人にとっては
「あきらめる」という選択はできないと思いますが。
ちなみに師とのかつてのやり取りについて
参考になるかもしれないのでちょっと書いてみます。
初めの頃は 自分のそれまでの「知識」というもので
師にメールしていましたが
それらはことごとく否定されてしまいました。
(ちなみにこの知識は必要ありません。
道の妨げになります)
いろいろ否定されて、何がなんだかわからなくなり
どうしていいかわからなくなりました。
最終的には
「あの、私わからなくなりました。
どうしたらいいですか?どうしたらいいですか?」
という言葉になりました。
師は「本物」である、という直感がありましたので
師を信じて実践することにしました。
今までの知識をすべて捨てて一からのやり直し。
まさしく何も知らない一番低いものとして実践させていただくと決心し
やりとげました。
@(*・ω・*)ポッ
105
:
TK
:2013/10/14(月) 18:31:49
マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
誰も子供時代が無い者はいません、つまり、
成長する過程でだんだんとカルマの世界にはまってくるという事です。
「子どもたちのようにならない限り」、
ここからわかる事は科学さえ進めばこの世界全体の次元上昇は可能だと言う理論も浮上してくることになるかもしれません。
つまり、生まれた最初は良かったのに、
成長の過程で低次元になってくるという事なのですから。
まず、生まれてくる子供に罪はないと言いたい所ですが、
貧困地域に生まれる子供もいれば、裕福な資産家の家に生まれる者もいるし、
人には生まれながらにして差があります。
カルマと言うものがあるとして、そのほとんどがどのような環境に生まれるかで、
決定づけられると言っても良いです。
例えばどこに行っても虐められる者がいるて、
虐められない者はどこでも虐められないと言う現象がある点を捉えれば、
虐められる者の中に虐められるための原因があると考えるのはこれ以上無いくらとても科学的な考え方です。
人の一生の幸、不幸を左右する性格はほとんど全て生後に親から収集したものです。
つまり、どの親の元に生まれるか、
カルマと言うものがあるとしたらここでかなりの部分が決定づけられます。
エゴの無い子供の段階からどんどんとエゴを収集して、
幸福なあるいは不幸な人間になって行く。
子は親の背中を見て育つとか、三つ子の魂百までもと言う言葉がありますが、
これが一生を左右していく事になります。
私などの悟った人間であったとしても、出力形態としての行動パターンはやはり、
親から収集したようなものが基本となっています。
これは、日本人であれば日本語を出力して表現するのと同じことで、
悟った者も何らかの行動パターンで行為を出力する以上、
その基本は親から収集したパターンで編成されるという事になると思います。
ただ、収集元の親との大きな違いは、
悟った者の場合はあくまでも仮の出力形態でしかないという事なのです。
私はこれを疑似エゴイズムと呼んでいますが、
即ち行為はあくまで我々の仮の姿なので状況に応じてパターンの編成は自在と言う意味です。
ただし、
悟る前の者は親から授けられたそれそのものの狭い中で右往左往するしか手がありません。
親を呪ったところで仕方がありません、
もっと親が金持ちだったら自分はこんなに苦労しなくてよかったのにとか、
親がもっと出来た人間だったら自分はもっと良かったに違いないとか、
あんな親のようにはなりたくないと反発しながら、その、
反発を通して親と同じ特性を身に着けて行くと言うエゴの特性があります。
自分は親とは全く正反対だと思っているのは本人ばかりで、
思考のパターンはほとんど親と同じようになって行きます。
まず、実践者の取らなければならない第一の方法は、
自分の「理想」と言うものをしっかりと持ち、
それの実現に向けて精一杯生きる事です。
親と話し合いと称した議論するも良し、対立する事もあるかもしれませんが、
そうやって、「理想」を精一杯生きてみることです。
これがすなわち「ワクワク」の次元の実践段階です。
(続きです)
106
:
TK
:2013/10/14(月) 18:32:26
(続きます)
「ワクワク」は私が見る限り低次元アストラルで、
釈迦やイエスの教えのレベルと比べれば、それより遥かに下の次元の内容です。
物事には順番と言うものがあって、
この「ワクワク」と言う低次元の段階を精一杯やりもしない者は、
その先には進む事はできません。
その意味で「ワクワク」と言う低次元の段階の実践は必要な実践という事になります。
ここだけはスピ系は当たりだったと思います。
自分の親から与えられた「エゴ」のコマを充分に利用して「理想的」な生き方をしてみるという事です。
釈迦やイエスの教えは、「ワクワク」の実践を終了した段階の者のための教えです。
もちろん当人は釈迦やイエスの教えの実践に入るまで、
自分は親とは正反対だと思い込んではいるのですが。
ワクワクの次の段階に進んだ者の実践内容を記します。
マタイの福音書 15章4
>神は『あなたの父と母を敬え』、
>また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
反発する事で同じエゴを収集して来たのですから、
「従順」にする事によってエゴが解けていくのです。
エゴの中にいる人にはこの理論分かりませんね。
この実践をしていると面白いように、
自分の反発は親の特性とそっくり同じであったことをまざまざと思い知らされます。
この実践では親に神をオーバーラップさせて、敬い従順を実践する形となります。
親に対して馴れ合いでは無く、礼儀を重んじた他人行儀の接し方となります。
自らの中のエゴを落す手段は、
自分の外の人のエゴを利用するしか手が無いと言う原理があります。
即ち、自分にエゴをふるってくれる人が居なかったら、
自分の中のエゴは落とす事は出来ません。
自分に対してエゴをふるってくれるその振るわれたエゴに対抗せず、
従順に接する事によって、エゴは落ちるのです。
これはすごく科学的な理論です。
「従順」と言う行為そのものが、
「対抗」があって初めて成立する相対の原理でエゴを減らす作用の善玉エゴですから。
これは、本当に凄い実践でしたね、親からも気持ち悪がられるし、
反対にやめろと言われるし、
それでも実践は最優先なのでこの場合は実践を優先していいのです。
「従順」の実践中であったとしても、方向性のぶつかり合った選択肢の場合は、
優先順位を付けた選択と言う手段が許されます。
実践者を続けたければ実践は命に代えても最優先事項です。
親を神のように敬い他人行儀に礼節をもって従順にするたびに、
親のこの性格が自分の中にもあった、親のあの性格が自分の中にもあったと、
次々と親から収集した自分の性格の客体化が自らの中で起きてきます。
間違ってもこの実践の際は、駄目親と言う判断は許されません。
どんな親の行為に対しても神として敬い従順です。
実践とは「激流」なので、当然危険も付きまといますし、
アセンションを志す者はそれを自己責任でやってもらうしかありません。
いやなら、アセンションはあきらめる事です。
このような奥義の数々を、気安くさらしていいものかとも思うのですが。
この先を、どうしてもという者は、メールという事になりますが、しかし、
それほどの志の者がいるとも思えませんし。
危険な部分も無いような行法など、
真実の行法とは言えないしそれをあえて仰々しく「激流」などと呼びはしません。
聖書というものがほとんどどこの書店でも売られていますが、
あれを真実に解釈できたなら、
あのような危険な本を良くどこの書店でも置きますねの話しになると思います。
つまり、いかに真実は何も伝わっていないという事を指します。
至った者は至れるような読み方をしているわけですが、
至れない者は至れるはずの無いような読み方をしています。
本質的にあの聖書に記載されている実践法をやれば誰でも至れるはずなんですが、
ただし「激流」です。
イエスは磔にされましたし、踏み絵を踏めなくて拷問にあった者も過去に居たし、
この「激流」と言う言葉は生易しいものでは無いと言いたいのです。
107
:
実践マン
:2013/10/15(火) 19:55:58
TK先生
上記のお話、たいへん有難いです。
親に反発して、自分の理想を実現しようと気のすむとこまでやりました。
今は、親に従順であろうと奮闘中です。
一年ほど前に親の満足する家(親の近所)に引っ越しました。
それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。
それがきっかけで、エゴが出てこないように、他人行儀な態度に変わりました。
介護をする覚悟です。
時々、親と主人との意見が割れます。
基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。
108
:
TK
:2013/10/15(火) 22:23:45
実践マンさん
>それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。
何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?
ここが問題なのです。
これ次第で私の回答が変わるのですよ。
109
:
実践マン
:2013/10/16(水) 05:04:04
TK先生
ありがとうございます。
>何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?
他の家族のために、私がこの怒りをおさめなくてはならないと感じました。
「私の」親と思うと怒りを感じたので、他人と思い、甘えを無くすようにつとめました。
他人と思うことにより、感謝の気持ちが出てきました。
再度、怒りの気持ちが湧くこともありますが、親がいてくれるからこそ怒りが湧くことに感謝しています。
110
:
滝沢
:2013/10/16(水) 07:04:40
TK様、ラピ様
ご無沙汰しています。
突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。
ラピさんの至った後のおっしゃっている事がよく分かりました。
また、TKさんの自我への考え方がよく分かりました。
お二人の愛に感謝いたします。
今は、子供のように、淡々と平穏な生活を送っております。
本当に普通で、戻ってきたという感じです。
色々とありがとうございました。
111
:
TK
:2013/10/16(水) 18:05:46
実践マンさん
>時々、親と主人との意見が割れます。
>基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。
実践マンさんの場合理屈の範疇で生きてますから、
実践と言っても理屈で解決する実践ですね。
どちらと決めてしまうよりも、状況に応じてという判断が的確だと思います。
理屈で解決できなくなったその時には、その先の進み方がありますから。
精一杯に実践すると言う事さえあれば、いかなる場合でも先に進めると思います。
112
:
TK
:2013/10/16(水) 18:08:13
滝沢さん
>突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。
僅かのこの文章から、私なりの判定は不可能ですが、たとえ、
誤認であったとしてもあなたなら、自分だけでも進んでいけると私は思います。
とりあえず、良かったですね。
113
:
滝沢
:2013/10/16(水) 18:33:50
TKさま
光明の後、起こるがままにtkさんおすすめの聖書、ブッダの2冊を買いました
何度も読み返したここの記事を広く理解したいなと思いまして
正直、光明起こってもそれで探求は終わりですが覚者の物語、深い理解こそが、この生を全うすることだなと思っております
114
:
ラピ。
:2013/10/16(水) 23:01:40
☆滝沢たん
今、平穏な生活を送られているのですね。
ほんと、よかったです!
ちなみに至りますと、
もう自我がありませんので
勝手に自我がどういうものだったのかわかってしまいます。
今まであったものがなくなってしまうので
その違いというのですかね、それが分かってしまいます。
至ってしまえば
自分の存在が真実そのものになりますので
どうぞ、いろいろ表現してみてくださいね!
@(*・ω・*)ポッ
115
:
TK
:2013/10/16(水) 23:22:59
滝沢さん
>光明起こってもそれで探求は終わりですが
この言葉が誤認ではなかったとしても、
あなたにはまだ明らかにしていかなければならないものがあるはずです。
まず、あなたの今いる所はまだ、私やラピ。さんの居る彼岸ではないですね。
実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。
あなたが怠ることなく実践を続けたなら、必ず成就出来る事でしょう。
釈迦もそうでしたし、私もそのようなプロセスを踏んでいますが、
自分で辿り着けた光明を師として進んでいけばいいのです。
私の紹介した本を持っているのなら、
悟りを開いた間もない頃の釈迦の言葉が載っています。
まだ、悟りを確実なものに出来ていないことが分かります。
悪魔との対話(相応部経典6−1−2)
>3.そのとき尊師は次のように思った、−−−「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に
> 実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実
> 践している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したい
> のであるが。
>4.未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>5.まだだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>6.まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>7.まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に
> 体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めてのすべての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱し
> たと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び
> 敬いたよって生活したいのであるが。
>8.むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだ
> ろう。」
116
:
滝沢
:2013/10/17(木) 05:46:38
おはようございます
ラピさん
おしゃるとおりです
自我がわかってしまいました。
TKさん
読んでみようと思います
まだ1ページも開けてないです。。
117
:
滝沢
:2013/10/17(木) 07:45:03
http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html
TKさんラピさんのおしゃる事に近いと感じました
今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!
118
:
実践マン
:2013/10/17(木) 09:45:30
TK先生
はい、理屈で解決する実践を精一杯頑張ります。
ありがとうございましたm(_ _m)
119
:
TK
:2013/10/17(木) 17:48:06
滝沢さん
>今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!
これを今あなたがやったら、私やラピ。さんの所へは至れませんが。
しかし、あなたの選択肢ですから。
今のあなたは、私に出会う前のラピ。さんですね。
私はこの人に出会って更なる地獄に突き落としたのですから。
あなたには空間があるでしょ。
我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。
120
:
滝沢
:2013/10/17(木) 18:36:46
実践がある実践もないも含めた
生を楽しむという表現をさせていただきました。
というのも実践が分からなくなってしまったためです。
もし、実践がはっきりすれば実践したいと思っています。
光明後、サタンが愛であると体験しました。
サタン退治以外の実践がありますでしょうか?
>あなたには空間があるでしょ。
>我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。
見られるものは見るものになります。
これを空間がないと呼べますでしょうか?
121
:
TK
:2013/10/17(木) 18:56:50
滝沢さん
>見られるものは見るものになります。
>これを空間がないと呼べますでしょうか?
よべません。
今のラピ。さんもあなたのこの言葉には異次元から生じる違和感があるはずです。
まるで、私と出会ったころのラピ。さんのようですね。
彼女は私と出会う前のかなり過酷な実践をした成果で、
あなたの言う空っぽを実現して、私がまだまだ全然、
と言うのが分からなくてね、悟っていると言い張ってましたから。
122
:
滝沢
:2013/10/17(木) 20:13:17
書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました
123
:
ラピ。
:2013/10/17(木) 21:41:16
☆滝沢さん
掲示板を見られている皆さんの
気づきのヒントになるかもなので
ちょっと話は戻りますが
書かせていただきますね。
滝沢さんの表現された言葉
「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」
ここなんですがTK師は「自我への考え」については
一度も書かれていません。
考えとは、人それぞれによって違うものであり、
正しい、正しくないというもの含んでいます。
人によって正しくなったり、正しくなかったりします。
師は「自我」という事実について述べられているのみであり、
それは絶対的なものであり、師の考えではありません。
そもそも至ってしまえば真実そのものになるので
表現することは「考え」ではなく「真実」なのです。
そして滝沢さんの引用されていたサイトですが
http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html
だから滝沢さんは「光明を得た」と宣言したのでしょうか?
この内容は「実践者」に対しての方便が書かれていると思います。
>もしかしたら光明を得ているかもしれないし、もしかしたら得ていないのかもしれない。
>そこに「もし」や「だが」はなかった。それは単純な言明だった。もう一度、繰り返そう。
>あなたは光明を得ているし、そうであるしかない。
「もし」とか「だが」とか疑うことなく
光明を得ているものとして実践しなさい、ということです。
光明を探したり、求めたりするのではなく。
だから滝沢さんは「光明を得た」として
これから実践をしていく、ということですかね。
>もっと別の言い方をしてみよう。
>自分自身を光明を得た存在として敬うようになった瞬間から、あなたは誰しもをあるがままで光明を得た存在として敬うほかはなくなってしまう。
このように実践しなさい、ということです。
実際、至ってしまえば敬う対象は消滅するのです。
だから実践者にそう語られているのでしょう。
>見られるものは見るものになります。
この表現が滝沢さんの状態であるなら
残念ながら私たちの状態に至ってはないですね、、。
私たちの状態ではそんな表現はできません。
>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました
かつての私も似たようなことを師匠に言っていました。
滝沢さんは自分の言っていることが
私たちに伝わっていないとお思いでしょうが
実は丸見えなんです。
@(*・ω・*)ポッ
124
:
TK
:2013/10/17(木) 23:06:20
滝沢さん
>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました
滝沢さん、あなたはまだです。
実は私やラピ。さんは、同次元の者同士、打ち合わせなどしなくても、
この次元の者にしか通じない対話というものが分かります。
それは、本当に至っているからなのです。
ですから、あなたが限界を感じるのは、異次元だからです。
これが結論です。
ちなみにあなたの次元はこちらからは丸見えです。
125
:
TK
:2013/10/18(金) 00:21:22
滝沢さん
私はあえて至った後の状態がどのようにあなたの表現と
相違しているのかというようなことをあなたには語りません。
理由は、あなたの悟りの誤認の元になってしまうからです。
私はここで前にも述べているつもりなのですが、至る前の者に、
至った後の者の状態を述べる事は害にこそなれ参考にはならないのです。
ただ、あなたはまだなのです。
あなたの特性も大体掴めています。
とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。
それはそれで構わないと思います。
あなたがここで明らかにした経験から、
あなたならそれでも進んでいけると思えるからです。
ここで、至ったと誤認して甘んじてしまう事さえなければです。
私も究極が明らかになった時には、その後退転して、まだ此の岸の者でした。
その後になって次々と明らかになったものがあったのです。
なぜ、このような事が起きるのかと言うと、
エゴの力を悟りに至る推進力として使っているからなのです。
126
:
滝沢
:2013/10/18(金) 05:18:38
Tk様
ありがとうございます
真摯に受け取りたいと思います
道なき道ですね
全て計画済みで起こるがままパーフェクトに感じます
127
:
滝沢
:2013/10/18(金) 09:18:02
あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう
ラピさま
Oshoのページで響いたのはあなたは釈迦でもないという部分とダンスするという部分です
Tkさんの釈迦の悪魔との対話の引用に通じる部分やラピさんの表現してくださいという部分に通じるなと思っています
また、光明が起きてから検索でoshoのページを見つけました
おっしゃる通り自我の考え方というより過去に起きた事の事例から受け取った私の理解という表現が正しいですね
言葉は難しいですね
Tkさま
私は独自の道を歩んでるわけではありません
ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、それが縁で色々な事実を教えていただきました
そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を受けて今があると考えています
128
:
ラピ。
:2013/10/18(金) 20:09:42
☆滝沢さん
ここを見つけてくださって、そして書き込んでくださって
ほんとうにありがとうございます。
ほんとこれもご縁かもしれないですね。
Oshoの記事に関してですが、了解です。
>「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」
実はこの表現からも滝沢さんの状態がわかったのです。
私たちの状態では使えない言葉をつかってらっしゃるから。
普通に使っている言葉にその人の次元が現れています。
どうやってもそれは隠せないのです。
私たちはそれを見抜いてしまいます。
滝沢さん、かつての私と同じ状態であるとしたら
あと少し、でも遠いあと少しです。
次元を超えるには激流が必ず必要です。
穏やかなままで次元上昇はあり得ません。
私がそれを経験していますから断言します。
今回の光明に、激流はありましたでしょうか?
滝沢さん,私はかつて師の言葉が分かりませんでした。
自分の知っていると思っている言葉を使っても
ちっとも伝わってない気がしたし、
「何言ってるの??え・・??なんで???」という状態でした。
「????」でした。
だから、ついに降参し、一から始めさせていただく
と決心しました。
今まで得たものをすべて捨てて
初心者としての実践です。
この時の動機は実は
「師匠のいる次元に行きたい!」これでした。
ちなみにこの「師匠の次元に行きたい!」というのは動機であり、
実践するときはそれすらも捨てて、
ひたすら実践です。
おかげさまで今に至ることができました。
願望を抱いた実践では、至ることができません。
ひたすら実践することが大切です。
129
:
TK
:2013/10/18(金) 20:38:30
滝沢さん
>あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう
この辺もあなたは実践中の人のスタンスではないのですね。
つまり、シンプルではないという事です。
あなたは思考(マインド)的な振る舞い方が非常に多いのではありませんか。
実践者はシンプルがもっとうなのです。
マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
実践中の私にはとてもあなたが今ここでしているような振る舞い方は出来ませんでした。
私はラピ。さんに関しては、かなり私への接し方で戒めた部分があります。
私は何度も宣言していますが実践者ではありませんので、
我々と同じつもりになって至る前の人が振る舞っていたら絶対に至れません。
あなたの立ち位置が高いという意味ですよ。
>Tkさま
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
>ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
>たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、>それが縁で色々な事実を教えていただきました
>そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を>受けて今があると考えています
実践者にはとてもできないような受け答えの数々ですね。
>あなたは、あなた独自の意思表示について、
>非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。
>実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。
この言葉、厠にでも捨てられたようですね。
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
わかりましたか、
あなたが私の話すのとは違う独自の道を歩んでいるという意味が。
どうぞどうぞ、ご自由に。
130
:
滝沢
:2013/10/19(土) 08:28:04
TKさま
ありがとうございます
おっしゃられる通りです
やはり私は、まだまだ修行僧の身ですね
精進させてください
131
:
TK
:2013/10/19(土) 10:31:05
滝沢さん
今、あなたがなにをもって光明と言っているのか私には分かりませんが、
前にあなたがここで公開された体験については、
束の間体験であれ相当のものと判断しています。
ですから、
その経験で辿りつけたものを師として確実なものにするべく歩めば良いと話をしたのです。
以前のラピ。さん同様の空っぽが実現できた程度なら、
実は以前のラピ。さんもあなたもそうですが、
私の目には全然空っぽではありません。
つまり、感覚が鈍い鈍感がもたらした空っぽの誤認と言う意味です。
ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。
132
:
ラピ。
:2013/10/19(土) 20:32:12
確かに今と比べるとかつてのからっぽは今とはまったく違います。
ただ、これからの道、
このからっぽも活かしてていけると思います。
>ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。
師には、自分の状況をお伝えしていました。
そしてその都度、言葉をいただきました。
滝沢さんも状態がどうであるかなどを表現されたら
師からの言葉があると思いますよ。
だから表現をおすすめしたのです。
至っていれば、表現でそうであるとわかるし、
至ってなくても今の状況について
言葉を頂けると思います。
私もなにか言葉にできるかもしれません。
そしてあとは実践あるのみです。
133
:
TK
:2013/10/19(土) 23:39:26
滝沢さん
あなたは、私に出会ったばかりの至る前のラピ。さんの状況に近いですね。
私に出会ったころのラピ。さんは、空間認識の中に住んでいて、
空っぽの内面と外側があるというようなところで精神世間の知識をしこたま仕入れて楽々生きていたのです。
それで、私には自分は悟っているんだと言ってたんですね。
滝沢さん、あなたの表現の端々が、
私はそのあたりにいますと私には聞こえてくるのです。
ラピ。さんも私に出会ったとき、私の指示する内容が、
全く楽で屁でもないみたいな状況でした、
これ悪魔の声がかなり少なかったことを意味していました。
でもね、これ残念ながらラピ。さんが至ったと言う激流の彼岸ではありません。
>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?
あなたの鈍感な目で空っぽと思えても、空っぽではない(サタンはいる)のですから、実践はあります。
私はそれをラピ。さんの中からあぶり出しました。
これがラピ。さんの言う激流ですが、実はあなたの中からもしこたまあぶりだせるのですがね、一杯いますよ。
どんなに微細な内面も見抜いていかなければ彼岸には渡れずいつまでもいつまでも此の岸の人のままです。
ここで光明だと語られると誤認覚者になってしまいます。
もちろん現代ではあなたのような方も珍しくはないので、
お好きなようにとは思います。
134
:
滝沢
:2013/10/20(日) 09:39:35
光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております
非常に平穏になりました
そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
そしてひっかかった場合、即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しです
135
:
TK
:2013/10/20(日) 17:46:16
滝沢さん
>光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております
そのレベルの意識を、純粋意識とは言いませんが。
あえて言えば空間認識の次元の意識というのです。
つまり、空間と言う「対象」がしっかりとあなたにはあると言う意味です。
意識の拡散現象すなわち「ありのままに見える」とは、
「対象」が目の前にぶら下がっているうちは起きません。
あなたのそれはまだ、空っぽではないのですから。
>非常に平穏になりました
以前のあなたに比べたらの条件付きで、そうでしょうね。
>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、
>その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
>そしてひっかかった場合、
>即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しですそうでしょうね。
あなたは、まだ、彼岸ではありません。
私に出会う前のラピ。さんですね。
>とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
私があなたに対して自分独自の方法と述べるのには、主な理由がまだあるのです。
私はあなたに対して今の所導師ではありません。
あなたの私に対する接し方と言うのは、当然そういう人はいると思いますが、
自分が拾いたい情報が出てきたらもらって行こう、そういうスタンスですね。
つまり、
それだけ私の把握していないあなた独自の方法があなたにあるという事であると私は把握しています。
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
このように、何が独自で何が独自でないかこれは主観の問題ですから、
あなたが私は独自に進んでいるわけではありませんと言われても、
私が独自と言っている事とは食い違ったりしますよね。
私は別に何が正しくて何が正しくないかなどという事を
ここで弁じようなどと言う気はないのです。
あなたの、視野の狭さを指摘したいのです。
悟った者の「あるがままの見え方」とはまるで正反対の視野の狭さで、
自分は光明を得たのだと、あなたの光明は誤認ですと私は言いたいのです。
私などあなたが光明を得た、探究は終わった、と言った直後位に、
あなたが誤認の光明である事を見抜きました。
あなたはこの時点で何の情報も流してないですよ、しかしそれでもわかるのです、
これが本当のあるがままに見えるというものですから、
誤認の光明のあなたと違いますね。
(続きます)
136
:
TK
:2013/10/20(日) 17:46:46
(続きです)
実践者は自分の捉え方と違うものが相手から出てきた時に、
まず相手が正しくて自分が違うのだ、あるいは自分が理解できないだけなのだ、
最悪保留と言うスタンスを取りながらも、
自分は相手の言うのとは違うと言う内面の声の方を殺すのです。
たとえ相手が間違っていて自分が実際は正しくても、実践者はそうするのです。
そもそも、内容が正しかろうが正しくなかろうが、
内面の声そのものが悟った者のそれではないのですから、
殺さなければその上の次元には行けません。
ですから、私はあなたはまだだよ、
そこで甘んじたらエセ賢者(偽キリスト)になてしまいますよとだけ言うのです。
基本姿勢として、私はあなたの取っている私の把握していない方法については、
私が教えたものではありませんから何か言う事はできません。
よってあなた独自に進んでいると私が述べるのです。
ただ、あなたの独自性の部分で当然ヒットしている部分もあると思います。
>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?
それにしても、
あなたの内面にまだいっぱいありそうなのに悪魔をそのままにして悪魔退治以外に実践はありますかとはね。
はっきり言いますが、ありません。
>光明後、サタンが愛であると体験しました。
あなたの場合は、サタンといつまでも同化している事が愛です、と聞こえてしまうのです。
はっきり言いますが、あなたの取っている振る舞い方の数々では、
あなたに同化している悪魔とあなたは対面すらできません。
私はちなみに実践中は、サタンを親の仇同様に思ってました。
それくらいにけ嫌って同化から離れました。
だから戦いと言うのです。
釈迦の言葉にもよく「勝者」とか「激流」とか言う言葉が出てきますが、
激流の相手はただ自らと同化している悪魔だけです。
スッタニパータ439-443
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
>(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
>
>このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか?
>(敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。
>わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
>
>或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、
>姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
>
>軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、
>わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
>わたくしをこの場所から退けることなかれ。
>
>神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、
>わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
>──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
イエスの言葉を取ってみてもほとんどそのような感じですよね。
>「下がれ。サタン。」
>「あなたはわたしと何の関係もありません。」
あなたは悪魔と仲良くしたいのだったら、もう実践者では無いですね。
至る前のラピ。さんにも言いましたが、
私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
あなたの一生の中でもそうあるものではありません。
私も、いつここのサイトからいなくなるかもしれませんし。
137
:
ラピ。
:2013/10/20(日) 19:28:44
☆滝沢さん
師の言葉から、いろんな感情が起こってると予想します。
それとも何も変わらずでしょうか?
ちなみに私の時の師の言葉はもっと厳しかったですよ。
まだまだ甘いかもです。
>私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
>あなたの一生の中でもそうあるものではありません。
私の場合、この言葉を聞いて「はっ!」とし、
このチャンスを逃してはならない、と思い、
素直に師の言葉を聞くようになりました。
138
:
TK
:2013/10/20(日) 20:51:12
ラピ。さん、
もともとラピ。さんの言語化練習に付き合う形での私の参加でしたから、
それでは、次の事をラピ。さんの言葉で説明してあげたらどうでしょう。
>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが
これ、ラピ。さんが私に出会う前のまだ彼岸に渡る前の、
空っぽ実現時の次元の内容ですが、
この事についてラピ。さんの言葉で経験談とか話してみられると参考になると思いますよ。
>これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。
これ、ラピ。さんが彼岸に渡る前の此の岸での内容ですね。
ようやく、滝沢さんは今、
私に出会う前のラピ。さんの居たところに来たという事のようですから。
もちろん、ラピ。さんにとってこれは光明ではなかったわけですし、
これが光明の誤認である事が理解できると思います。
139
:
ラピ。
:2013/10/20(日) 22:31:10
師匠、いつもありがとうございます!
はい!
>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが
まず、この表現からもまだ、至られてないことが分かります。
私もかつて、「からっぽである」と師に宣言していました。
この時点でのからっぽとは
確かにいろんな思いが浮かばなくなっている状態でありましたが、
肝心なものに気づいていませんでした。
でも、その肝心なものに気付いてないときは
とりあえず、「からっぽ」でいることにしました。
さて、滝沢さんのおっしゃっている「からっぽ」も
私のかつての「からっぽ」も
どんなからっぽでしょうか?
本当にからっぽでしょうか?
確かに思考は止まっているかもしれませんが
止まっているのですよね。
止まっているだけで「思考」そのものはまだ存在してるわけです。
消滅してからっぽ ではなくて
それを「選択する自分」がいるからからっぽ、ではありませんか?
「からっぽである!」と宣言する私がいて
そのからっぽを意図的にしているからこそのからっぽではないですか?
私はそれに気づきました。
私はからっぽそのものではなく、
からっぽをを意図する私がいる「からっぽ」でした。
「からっぽ」という対象が存在する状態、
「からっぽ」を実践している状態です。
まだ実践できていたわけです。
からっぽを、、。
エゴがまだ存在していたのです。
ここから実際に師に送ったメールをそのまま転記します。
☆
師匠、
「頭が空っぽの状態であること」と「からっぽそのものであること」
は全く違いますよね?
私は彼岸がよいです。
空っぽの状態を保つ自分がまだいます、私には。
空っぽそのものがいいです。
今、空っぽの状態はわかりますが
あまりに穏やかすぎます。
だって空っぽですから。
師匠、「激流」が必要だとおっしゃってましたよね?
☆(ここまで)
ここで私は激流に飛び込みました。
滝沢さんも今、かつての私のように穏やかな状態でしょうか。
でも、何かをきっかけに暴れだす「自我」がまだいますね。
いや、それには負けないくらい
「穏やかである自分」を選択し続けるでしょうか。
では、穏やかであることに集中したり意図したりする自分はいませんでしょうか?
その「自分」を野放しにしても、ずっと穏やかでいられるでしょうか?
あと、「激流は起こりましたか?」
この問いの答えをいただいていません。
ということは、滝沢さんに激流は起こっていなかった
と捉えてもいいですね?
140
:
TK
:2013/10/20(日) 23:25:08
ラピ。さん
彼岸に渡る前の此の岸の空っぽ時に、体が動かせなくなる現象も起こりましたよね。
そこから徐々に体が動かせる状態になる過程も少し説明してもらえますか。
つまり、思いか無い状態で体を動かすコツと言いますか、そのようなものですね。
これもみな私に出会う前の此の岸での出来事ですからね。
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