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「まじめな話」の板

7615シャンソン:2018/10/29(月) 16:02:34

 そういえば、きけちんは、まともになったようでなにより。
 トキさんからインフルビーを貰わないように気をつけてください。

7616🐔:2018/10/29(月) 16:06:13

.                                                .@chi_maki
フォローする
風俗店の会員証を偽名で作るときに、名前を忘れないように職場の上司の氏名を使ったら、その会員証を社員食堂で落として紛失してしまい、巡り巡って上司が総務部長に呼び出しをくらった話、今まですべったことがない
返信 リツイート いいね 2018.10.25 22:21

7617トンチンカンな日々:2018/10/29(月) 16:55:39
7600 :トンチカン信徒 :2018/10/28(日) 03:44:28
>>7599

西日本のバカボンにわからない<

 江差追分なんて、どこの地方の若者でもわからないよ(笑)

7618トンチカン信徒:2018/10/29(月) 23:07:16
>>7617
そりゃ、西日本の田舎地区だから、知らないんだよ。

シャンソンさん
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
617:トンチンカンな日々
18/10/29(月) 16:55:39
7600 :トンチカン信徒 :2018/10/28(日) 03:44:28
>>7599

西日本のバカボンにわからない<

 江差追分なんて、どこの地方の若者でもわからないよ(笑)

7619トンチカン信徒:2018/10/29(月) 23:41:40
>>7614
志恩さんが、男性なんですか?

シャンソンさん

7620公正さとは何か:2018/10/30(火) 10:09:31
>>7619

36歳ではなくて、26歳に戻る?歌、とか
 ひとりナルシストぶって歌紹介してるから
 ただのあほでしょう。メイビー。

7621シャンソン:2018/10/30(火) 12:28:57
>あなたの移動されたもう一つの部屋には シオはお邪魔しません。

 そういいながら、純粋一途の九州女性の部屋を占領するのに
 成功しました!天性の会話泥棒です。

 お山時代からしゃしゃりんのけがあった。
 周囲の女子職員がみんな沈黙している中で
 輝子先生からご指名を受けてひとりでしゃべっていた。

 これが見事に再現されたようです。
 この調子で年末まで暴走することでしょう。

7622転載:2018/10/30(火) 15:39:29

会話泥棒の心の中は「常に中心にいたい」という気持ちが溢れています。
みんなの注目をずっと浴びていたい、自分が中心にいならなければ気が済まないという人が多いでしょう。
そして妙に自分に自信があったり・・・おいおいと突っ込みたくなる事満載の人が会話泥棒の傾向にあります。
会話泥棒の共通点として、常に会話の中心でいたいと思う自己中心的な感情をもつお子様タイプの人があげられます。
そういう人は会話泥棒をしたことを指摘されるととても憤慨します。
元々感情自体が幼い傾向があるので、注意されると子供の様に怒る人が多いでしょう。
周りの忠告が聞ける程の人は会話泥棒にはなりません。
どこにでもいる会話泥棒。
あなたの周りの会話泥棒の心理を知る事で対処法も見えてきますよね。

7623シオン観測隊:2018/10/31(水) 05:01:39
〜志恩さんの本音〜
『相当、悔しい、志恩さん』

NAME
志恩
MES
トキさま

トキさまは、トンチンカン信徒さんの、ここへの書き込みも
認められておられるのですね。

トキ掲示板と傍流掲示板へは、
トンチンカン信徒さんは 書き込めますので、ここへは、
アラシ行為のような書き方ばかりされるトンチンカン信徒さんは、
書き込めなくされる方針かと思っておりました。

私は、新羅人ではなく、日本人だということは、閲覧者の皆さまは
よくわかっていらっしゃると存じますので、
このようなことを書き続けているトンチンカン信徒さんの方が、
私よりも、むしろ、笑われる対象になると思っております。

私は、トンチンカン信徒さんに、何を言われましても、
彼は、おなじことを繰り返すご性格のお方だと思っておりますから、
あぁ、彼は、ああいう性格の人なんだ!と思っておりますから、
ノープロブレムですけれどね。

トキさまが雅宣総裁のされることを、度々 批判されますから、
トキさまの自称・子分である志恩に八つ当たりしてるってことも
充分に考えられますが...

それよか、ご覧になられる皆さまが、
同じことの繰り返しでは、うんざりされて、ここの掲示板を
ご覧になるのをやめてしまうのではないかと、その方が案じられることです。

トンチンカン信徒さんは、
雅宣総裁のされることを批判するトキさまや志恩を倒したい、

特に、生意気な口をきく、にっくき志恩は死ねばいい、
災いが降りかかればいいという一念で、

ここの掲示板まで 万歩進んで、万法進ませずに、万歩進んで.
倒しに来て、そのようなバカバカしい行いをして、どうするかってことですよね。

とにかく、敵とみなされる人物たちを、やっつけることに日夜励んでおられるのだと
存じます。

私なんか、倒そうとされなくても、高齢者なんですから、そのうち、いつかは
死にますんで、何もされなくても、何も心配されなくても、大丈夫なんですけれどね。

もしかしたら、彼は、おヒマ なんでしょうか?(笑)

          トンチンカン信徒さん
              ↓

シオンよ、氏ね〜━━ヽ( ▼皿▼ )ノ━「新・トキ掲示板」イッテモ、タ オ ス ゾ〜!!

SION YO SINEEEEEEEEEE ウォラァ〜(#▼Д▼)=・ O)゚ )EEEEE!!!!・☆\(-.-メ)バシッ

7624蒼天の實相:2018/10/31(水) 17:51:34
〜天地の食事〜
7.遊牧民の食生活
モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。冬場は肉を食べる。干し肉等に加工して保存する。乳からはバター、チーズ、ヨーグルト、馬乳酒なども作る。朝は乳茶も飲む[6]。肉食中心の遊牧民の生活において、馬乳酒は貴重な野菜の替りにビタミンやミネラルを補うものとして夏場を中心に大量に飲まれている。酒とはいうものの、アルコール分は1-3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として赤ん坊から年寄りまで飲用する[7]。酒というよりは限りなくヨーグルトに近い乳酸飲料であり、これだけで食事替りにしてしまうほどの夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5 - 1.5リットル位を摂っているという報告が殆どだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという驚くべき調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200キロカロリーに相当し、基礎代謝に相当する。発酵の過程で増殖する酵母や乳酸菌は、モンゴルでの乏しい食物繊維の替わりに、菌体が腸管老廃物を吸着して排出させている可能性がある[8]。北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれていた。乳酸菌がビタミンCを生成し、野菜を摂らない遊牧民のビタミンC補給源となっている[6][8]。馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8-11 mg含まれている[9]。馬乳中の乳糖は発酵によりその多くがアルコール、乳酸または炭酸ガスに変換されるので乳糖不耐症の問題も起こりにくい。[10]。夏季に遊牧民が食事を摂らず馬乳酒のみで過ごしていることが旅行記[11]に記されている[10]。ただ乳糖不耐症のモンゴル人もなかにはいる[12][13][14]。
淡水魚、野菜、果物は通常入手できないため、ほとんど食べない[6]。
上記のように肉(馬肉や山羊肉。ホルホグなど伝統料理がある)、乳製品、馬乳酒が必要なエネルギーとタンパク質を提供し、不足している糖分は体内でのアミノ酸からの糖新生で補われ、ミネラル、ビタミン類は馬乳酒が提供し、酵母と乳酸菌が食物繊維の代替を果たしている。必須脂肪酸については、家畜が自然の草を餌とするため肉、乳製品、馬乳酒にω-3脂肪酸とω-6脂肪酸がほどよいバランスで含まれている。偏った食事ではあるが、必要な栄養素はすべてそろっていて健康を維持できることになる。また魚を食べることもある[15]。

7625蒼天の實相:2018/10/31(水) 18:10:38
〜天地の掟〜

1.概念
似た概念に移牧民があるが、こちらは季節ごとに移動しても定住地を持つ点が異なる。英語では、ノマド(nomad)がほぼ相当する言葉だが(語源はギリシア語のノマデス νομ?δε?)、牧畜以外の生業を取る移動型の人々(ジプシーなど)を含んでいる。
遊牧民の存在は人類の歴史に大きく影響を与えてきた。特にユーラシア大陸の歴史においては、西アジアで牧畜の場を定住集落から離れて拡大する集団、すなわち遊牧民が誕生したことと、中央ユーラシアで遊牧民が騎馬技術を獲得したことの2つは、歴史の流れを大きく変えたと言える。
農耕民に比べて人口がはるかに少ないにも関わらず、生まれながらの騎兵である遊牧民は古代から中世にかけて強大な軍事力を誇った。特にモンゴル帝国は太祖チンギス・カンが没した時点でユーラシア大陸の大半を版図におさめるという、空前絶後の大帝国であった。

2.遊牧

家畜を時間と空間的に移動させながら植生、水、ミネラルなどの自然資源を利用する生活と生産様式である。


5.中央ユーラシア遊牧民の民族概念
遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治・軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語、文化を共有するとされる近現代的民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人、タタール人といった遊牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。
実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市としての意味合いが強い。その典型がウイグルのオルド・バリクや元の大都である。


6.中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴
中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。
農耕民に比べて女性の地位が高い
能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する
男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している
人命(人材)の尊重
実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する
非完結の社会
などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。
抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的に一体化することによって広域国家が発生する[5]。
これらの文化は、遊牧に起源をもつものであるが、現代の国民国家、産業社会においてその遊牧的慣習は抹殺される傾向にある。その一因として、現代型の民族観、国家観と遊牧民の持つ集団編成原理に相容れない性格がある事が挙げられる。

7626蒼天の實相:2018/10/31(水) 18:29:12
〜天地の掟〜

狩猟採集民(読み)しゅりょうさいしゅうみん(英語表記)hunting and gathering people
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
狩猟採集民
しゅりょうさいしゅうみん
hunting and gathering people
動植物の狩猟採集によって生活する諸民族。狩猟採集の経済形態は牧畜や農耕に先立つ最古の経済段階である。今日でも熱帯の密林や大陸の縁辺部などにごく小さな集団を形成し,狩猟採集によって生活している民族があり,居住形態により,遊動的狩猟採集民と定着的もしくは半定住の狩猟採集民に分類される。前者にはコンゴ民主共和国のムブティ族(ピグミー),カラハリ砂漠のサン族,マレー半島のセマン族およびセノイ族,アンダマン諸島のアンダマン島民,スリランカのベッダ族,オーストラリア先住民,南アメリカのフエゴ島民などが該当する。彼らは数家族単位のバンドをなして移動し,根茎植物などの採集と弓矢,槍などの武器を使って狩猟を行なっている。後者には,アザラシやセイウチの狩猟を行なうエスキモー,野牛の狩猟を行なう北アメリカの平原インディアン,漁労を行なう北アメリカのトリンギット族,ハイダ族,クワキウトル族などや,カシの実を採集するカリフォルニアインディアンなどが該当する(→アメリカインディアン)。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディアの解説
狩猟採集民【しゅりょうさいしゅうみん】
→採集狩猟民
.
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
関連語をあわせて調べる
チョンゴニ
トゥウェイフルフォンテーン
ジャー動物保護区
オラン・アスリ
ジェー語系諸族
ベルグダマ族
ボトクード族
狩猟採集文化
サンダウェ族
シャバンテ族
アラカルフ族
平等主義社会
エスキモー犬
環境収容力
ワルラウ族
ボトクード
コンゴ盆地
生態人類学
ムンダ諸族
ハツァピ族

7627蒼天の實相:2018/10/31(水) 18:38:04
〜天地の掟〜

鳥葬(読み)ちょうそう
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
鳥葬
ちょうそう
遺体の処理を鳥類にゆだねる葬法。インドのゾロアスター教徒 (→パールシー ) やチベット人のものが有名である。パールシーは,大地と火をけがさないために,塔の上 (沈黙の塔 ) に遺体を置いて鳥に食べさせる。この葬法は,台や木の上に遺体を葬る台上葬,樹上葬と関連があるとされている。チベットでは,ラマ教やボン教の僧侶が遺体を解体し,鳥が食べ残さないようにうまく処理する。死者の肉体と霊魂は鳥に食べられて天に運ばれると信じられているからである。スリランカのベッダ族,東アフリカのマサイ族は死体放棄を行い,ハイエナやハゲタカのえじきとなるにまかせるが,これは鳥葬の一変形とも,原初形態ともみられる。しかしパールシーやチベット人のような天上他界観念はみられない。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
ちょう‐そう〔テウサウ〕【鳥葬】
死体を野山などに放置して鳥の食うのに任せる葬法。ヒマラヤ周辺に現存。
.
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
鳥葬【ちょうそう】
ハゲタカ,ハゲワシといった肉食鳥に死体処理をさせる葬法。チベットやゾロアスター教徒の間で行われる。後者の場合その施設は〈沈黙の塔〉(ダフメdakhme)の名で知られ,現在でも西インドの教徒(パールシー)によって実行されている。実際には風葬と組み合わされることが多い。
→関連項目パールシー
.
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
ちょうそう【鳥葬】
死体を野や藪のなかに放置する死体遺棄ないし風葬の場合,結果的に死体が野鳥や野獣によって食われることはあるが,厳密な意味での鳥葬とは,ハゲタカやハゲワシなどの肉食鳥に死体の処理をさせることを意図して死体を特定の場所に置く葬法のことで,チベット人と西インドに住むゾロアスター教徒パールシーのあいだで見られるだけといってよい。チベット人のあいだでも燃料用の木が豊富な地方では火葬が頻繁に見られる。鳥葬をする場合は死体を山上に運んで解体し,鳥が肉部を食いつくしたのち骨を埋葬するのが普通であるが,ときにはさらに骨も砕いて食物と混ぜて鳥に与える。
.
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
ちょうそう【鳥葬】
遺体を鳥に啄ついばませる葬法。チベットや、西インドのゾロアスター教徒の間で行われる。

.
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
鳥葬
ちょうそう
鳥に死体を食べさせることによって死体を処理する葬法。ヒマラヤのチベット系住民や、インドのムンバイ(ボンベイ)を中心として住む民族集団パルシーの鳥葬はよく知られている。パルシーは、人が死ぬとその死体を「沈黙の塔」へと運び込む。この塔は天井や屋根がなく、死体が塔内に放置されるやいなやハゲタカが舞い降りてきて、死体の肉を食い尽くしてしまい、残った骨は風雨にさらされて洗われる。チベット人の場合は、死体を山の中腹に運び、僧たちが刀で死体を骨ごと切り刻み、頭は石で砕くなどして鳥が食べやすいようにする。死体の解体作業が終わると、僧たちは死体を残して山を下り、ハゲタカのついばむに任せる。この方法だと、毛髪とか骨のごく一部だけを残して死体のほとんど全部は鳥に食べられてしまう。
 このような鳥葬の風習の背景には、死者は鳥に食べられることによって天へ運ばれるのだとする観念がある。また、鳥葬はもともと犬や猛獣などに死体を食べさせて処理する葬法と関連する。これらは草原地帯の遊牧民が、移動の途中死んだ者を草原に放置して鳥や野獣の食べるに任せ、さらに移動を続けていく、という古い葬法から発展してきたものであろうと考えられる。[清水 純]

7628蒼天の實相:2018/10/31(水) 19:32:38
〜天地の掟〜

1.概要
狩猟採集社会は、北極圏から熱帯雨林、砂漠にいたるまで地球上全ての地域に存在している。19世紀から20世紀にかけては、社会進化論に基づいて狩猟採集社会から農耕社会という「進化」を世界的に適用し、狩猟採集社会が農耕社会に劣っているとする論者もいたが、これは本来自文化中心主義的な理論でしかない。これまでの研究の蓄積によって、アジアの狩猟採集社会のように、民族間の政治生態学的な権力関係の中で狩猟採集に分業した場合や、そもそも歴史的に栽培植物や家畜と縁がなくて、農耕や牧畜という生業形態に移行しなかった場合があることがわかっている。そして歴史的にもほぼ全ての狩猟採集社会は周辺の農耕社会と交易などによって結ばれた社会なのである[1]。
狩猟採集社会の社会構造は多様である。ある社会には首長が存在し、そのような存在が確認されない社会もある。一般的に見て首長に権力は存在しない。首長が権力を持とうとするのを妨げる集団世論が働いているのである(ピエール・クラストル『国家に抗する社会』参照)。ただし戦時下においては一人の人間(指導者)に権力が集中する場合がある。
以前は「厳しい食料事情によって余剰食物が出ることは稀」とされていたが(生存経済)、民族誌の蓄積により、彼らは生存に必要な量の倍の食料を生産できるにも関わらず、また原始農耕よりも労働時間が少ない過小生産傾向によって、余暇を生みだし生活していることが判明している。専門的な指導者や役人や職人といった人たちは滅多にいないが、ジェンダーによる作業の分離などは行なわれている。
現在、農耕社会と狩猟採集社会の境界線は明確ではない。多くの狩猟採集民は、食料となる植物を増やすために、森林の植物を伐採したり、焼いたりといった伝統的な方法を持っている(半栽培)。また、現代においては定住化政策によって自給できなくなった分を配給によって獲得していたり、農耕民の手伝いをすることを通して食料を獲得している。

7629蒼天の實相:2018/10/31(水) 19:33:25
>>7628
〜天地の掟〜

2.平等主義社会幻想
アフリカの狩猟採集民ブッシュマンやピグミーには広汎な分配な習慣が認められてきた。彼らは食料を獲得してから消費するまで何度も何度も分配が繰りかえされる。この様式を支えているのはマーシャル・サーリンズが指摘した一般的互酬性の原則である[2]が、彼らの中で生じる分配は権威を発生させるものではない[3]。ブッシュマンのサンの場合、優秀なハンターは大量に捕獲した後は狩りにでないようにし供給そのものを減らし、分配される側にまわる。さらにハンターや獲物の所有者に対して節制が求められ、分配による威信獲得の機会を縮小される。また互いに矢[4]を交換することで、獲得した獲物の所有者を分散させている。つまり、サーリンズが指摘したような、所有に対する欲望がないから平等な分配が起きている[2]のではなく、日常の中から常に威信を平準化するプロセスが働くことで平等な関係が達成されている[5]。

7630蒼天の實相:2018/10/31(水) 19:34:05
>>7629
3.ワイルドヤム問題
中央アフリカの狩猟採集民ピグミーは熱帯雨林地帯の自然環境に強く依存しているのと同時に、バントゥー系の隣接農耕民と歴史的に密接な協力関係にある。以前はピグミーたちは、この地域の多数派を占める農耕民が西アフリカのサバンナ地帯から森林に移入する以前の先住民だと考えられていたが、1980年代後半から、こうした「狩猟採集民=先住民説」に疑問が呈されるようになった。その根拠として以下のことがあげられている。
現在の熱帯雨林の狩猟採集民はすべて周辺の農耕民との間の交換や自身の農耕活動によって入手した農作物に食生活のかなりの部分を依存していること
過去にも純粋な狩猟採集民が熱帯雨林の中で生活していたことを示す考古学的証拠が発見されていないこと
熱帯雨林のなかには人間の生存を支えるに足る十分な食物基盤がなく、とくに果実が入手できない乾季にはエネルギー源が極端に不足すること
「熱帯雨林の狩猟採集生活というのは、焼畑農耕民による半定住的な生活を基盤にしなければ成り立たず、ピグミーは先住民ではないのではないのか?」というのがワイルドヤム問題である。
ただしこれらの疑問は野生ヤムの分布などの間接証拠に依存していたとし、食料が不足するとされた乾期における実証研究が行われたところ、熱帯雨林において農耕に依存しない狩猟採集生活が可能であるということが示唆された[6]。

7631蒼天の實相:2018/10/31(水) 20:40:48
食事も天地が、決めるのであり、人智の介入する余地は、ないのである。

肉食だろと、菜食だろと、それは、天地一切の神が決めるである。

バカボン日野は、勘違いしてる。

7632蒼天の實相:2018/11/01(木) 04:34:53
〜聖フランチェスコの祈り〜

概要
フランシスコの平和の祈り(ふらんしすこのへいわのいのり)は、13世紀にイタリア半島で活動したフランシスコ会の創設者、アッシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)に由来するとされた祈祷文。実際にはフランシスコの作ではないが、そのように広く信じられて愛唱されており、マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が演説の中で引用や朗誦を行い、公共の場で聴衆と共に唱和するなどして有名。

7633蒼天の實相:2018/11/01(木) 04:36:00
>>7632
〜聖フランチェスコの祈り〜

今日、広く世界で「聖フランシスコの平和の祈り」として知られる祈祷文は、1912年、第一次世界大戦前夜のフランスのカトリック信徒団体「聖ミサ連盟(Ligue de la Sainte-Messe)」の発行部数8000部の月次報告書『鈴(Le Clochette)』の中に「ミサにおける美しい祈り(Belle pri?re ? faire pendant la Messe)」として無署名で発表されたものが初出である。掲載された報告書の中には、その祈祷文についての一切のコメントは無く、聖フランシスコへの言及もない。また、1919年に廃刊されるこの月次報告書にこの祈祷文が掲載されることはその後は二度と無かった。作者は、団体創設者で月次報告書の編集者であったエステール・ブクレル神父であろうとも推測されているが、それを裏付ける資料は発見されていない。[1]
ブクレル神父は作家のゾラやユダヤ人、フリーメイソン、プロテスタント、イギリス人、ドイツ人などを「敵」扱いするなど[2]、思想的にはカトリック右派に属していた。当時は聖体崇拝運動に関与しており、「聖ミサ連盟」もそれを趣旨とする信徒団体であった[3]。
この祈祷文は、その翌年に『平和の聖母』というノルマンデー地方の信徒団体の年報誌に転載された[4]。それを読んだノルマン人のスタニスラス・ロシュトロン・グラント侯爵が、この祈祷文を広く世に出すことになる。グラント侯爵は「ヨーロッパの祖父」ウイリアム征服王の子孫と称し、『ノルマン通信(Souvenir Normand)』という雑誌に依ってヨーロッパ平和統一運動を行っていた。そして1915年12月に『ノルマン通信』の使者を通じてローマ教皇ベネディクト15世に二つの「平和の祈り」と「ノルマンディーの聖母の祈り」を献上した。[5]この時期は第一次世界大戦下であり、教皇は平和の祈りをカトリック世界によびかけていたのである[6]。
この二つの「平和の祈り」のひとつが、前述した「ミサにおける美しい祈り」そのものだったのだが、ローマ教皇庁の記録によれば「ウイリアム征服王の遺志に啓発されて御心へ捧げられたノルマン通信の祈り」という題名で献上されている[7]。さらに、翌年1916年1月のカトリック機関紙"Osservatore Romano"は「『ノルマン通信』は平和のための祈祷文を教皇様に献じた。ウィリアム征服王の遺志に啓発され、イエスの御心に捧げられたその祈祷文を掲載する。感動的なまでに簡単な原文そのままに」という紹介文と共に「平和のための『ノルマン通信』の祈り」と題した祈祷文の全文をイタリア語で掲載した。[8] 次いで、フランスのカトリック紙『十字架(La Croix)』は、このイタリア語版をフランス語に逆翻訳して掲載した[9]。この時点で、オリジナルの祈祷文からの差異を生じることになったが[10]、祈祷文自体はこの後も様々な題名を付けられながら世に知られて行くようになる。さらにアレクサンドル・ポンはその著作の中で、この祈祷文を引用しながら「これはウイリアム征服王の遺言に基づいた古(いにしえ)の祈祷文である」と説明をつけることで、この祈祷文が古いものであるという誤解を広めた[11]。
この祈祷文は在俗フランシスコ会(第3会)の団体においても愛唱された。その結果、聖フランシスコの御絵(肖像カード)の裏にこの祈祷文が印刷されたものが作成され、広く配られた。この御絵には、祈祷文が聖フランシスコのものだとは書かれていないのであるが、この御絵によって祈祷文の作者が聖フランシスコであるという誤解が生じたのではないかと研究者たちは推測している。[12]
この祈祷文は教派の壁を越えて、プロテスタントにも広がった[13]。この祈祷文を用いた信徒団体の一つが「平和の王子の騎士運動」である。当初は「平和の騎士団の祈り」と名付けていたが、1927年に「アッシジのフランチェスコによる平和の騎士の祈り」と題して祈祷文を印刷したパンフレットを配るようになっていた[14]。その経緯の詳細は不明であるが、これ以降「アッシジのフランシスコによる平和の祈り」という呼称が世に知られていくようになる。
そして、イギリス[15]、スイス[16]、ドイツとオーストリア[17]、オランダ[18]へと広がって行った。アメリカでは、第二次世界大戦後にニューヨーク大司教のスペルマン枢機卿とホークス上院議員がこの祈祷文を積極的に国内に広めたと言われており、その過程で「アッシジの聖フランシスコの平和の祈り」という題名が定着していった[19]。

7634蒼天の實相:2018/11/01(木) 04:38:22
>>7633
〜聖フランチェスコの祈り〜

2.本文
この祈祷文は、世に出た直後から色々な雑誌に転載され、翻訳が重ねられた結果、様々な差異を生じている。上述したように、フランス語からイタリア語に翻訳された後、フランス語に逆翻訳されて『十字架』紙に掲載された例もある[20]。その結果、フランス語版ではおおよそ60、英語版ではおよそ40、ドイツ語版ではおよそ20、イタリア語版ではおよそ10のヴァージョンが存在する[21]。以下に示すのは、初出のフランス語版[22]から訳出したものである。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
この祈祷文がアッシジのフランシスコの作で無いことは、19世紀以前に遡る資料が発見されていないことに加えて、フランシスコが使わなかった言葉遣いが見られること[23]、「私を平和の道具としてください」のような自分と社会との関わりを願う近代的な内容からもほぼ確実であるとされている[24]。とはいえ、形式的には古風にみえる。
この祈祷文は3つの部分に分かれており、最初の部分は「憎しみ/愛」「侮蔑/許し」「分裂/和合」「誤り/真実」「疑い/信頼」「絶望/希望」「闇/光」「悲しみ/喜び」という8組の対比が見られるが、こうした対照法は中世の祈祷文によく見られるものだった。実際の祈祷文で、似たものも幾つか探し出されている。[25]
また、2番目の部分は「慰められる/慰める」「理解される/理解する」「愛される/愛する」という3組の受動態と能動態の対照が使われているが、これは、聖フランシスコと行動を共にしたエジディオにちなむ『兄弟エジディオのことば』に類似例がある[26]。
3番目は「与えることで受け取る」「忘れられることで人は見出し」「許すことで許される」「死ぬことで復活する」の4組の逆説で構成され、「忘れられることで人は見出し」以外は福音書に出典を見出すことができる[27]。
従って、その内容にも関わらず、この祈祷文が古風に見えたことは、ごく自然なことだったようである。

7635蒼天の實相:2018/11/01(木) 04:41:23
>>7634
〜聖フランチェスコの祈り〜

3.公的な場で用いられた例
フランシスコ会の一部では、国際連合が結成された1945年のサンフランシスコ会議の席上でトム・コナリー上院議員がこの祈祷文を読み上げたと信じられているが、文書記録には残っていない[28]。
カルカッタにおいて貧者のための奉仕活動に携わってきたマザー・テレサは、彼女の修道会でこの祈祷文を毎朝唱え、1979年のノーベル平和賞授賞式においても聴衆に共に唱和することを呼びかけた[29]。南アフリカでアパルトヘイト政策に対して非暴力抵抗を行ったことで1984年のノーベル平和賞を受賞したツツ主教も、この祈祷文を愛唱していたことで知られている[30]。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は1986年にアッシジで世界宗教会議を開催した際、何度もこの祈祷文を引用し、参加者たちに唱和することを求めた[31]。
イギリス初の女性首相となったマーガレット・サッチャーは就任直後の首相官邸前で、この祈祷文の一節「不一致あるところに調和を、誤りあるところに真実を、疑いあるところには信頼を、絶望あるところに希望を」を引用した[32]。アメリカ大統領ビル・クリントンは1986年に訪米したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて、この祈祷文を話題に出して「アメリカでは、カトリックやプロテスタントを問わずこの祈祷文を持っています」と言った[33]。

7636蒼天の實相:2018/11/01(木) 08:09:11
〜天地の食物〜

概要
馬乳酒(ばにゅうしゅ)とは、馬乳を原料とした乳酒[1]の1種で醸造酒かつ乳製品でもある。主にモンゴルなどウマ飼育が盛んな地域で夏に作られ、同地域で飲まれている。エタノール濃度は1%から1.5%で、これは馬乳に含まれる乳糖の酵母による発酵と、エタノール産生型乳酸菌に由来する。なお、このエタノールを生成する発酵と同時に乳酸菌による乳糖の乳酸発酵も進行するため強い酸味(pH 4から5程度)を持ち、発酵時の二酸化炭素ガスを含むため微発泡性を有する。

1.呼称
馬乳酒は、モンゴル国ではアイラグ(айраг、??????)、内モンゴル自治区ではツェゲー(цэгээ、????)、カザフスタンなどのテュルク系の言語圏ではクミス(кумыс)と呼ぶ。ラクダの乳から作られる同様のものにインゲニーアイラグ(ингэний айраг)というものもあり、これと区別する為に馬乳で作ったものを特にグーニーアイラグ(г??ний айраг)と呼ぶこともある。ただしこれらの呼び分けは地域によって微妙に異なり、絶対的なものではない。


2.概要
馬乳酒の起源は定かでないが、中央アジアで人が家畜化した馬と暮らし始めた頃には自然発生的に作られていたものと考えられており、マルコ・ポーロの記録やチンギス・ハーンの伝説に既に登場している。第一次世界大戦当時にグルカ兵が多く飲用しグルカ兵の結核罹患者が少なかったことから、結核を防ぐ飲み物として広まったとされている。
モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。肉食中心の遊牧民の生活において、貴重な野菜の代わりにビタミンやミネラルを補うものとして大量に飲まれている。酒とは言うもののアルコール度数は1% - 3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として、モンゴルでは赤ん坊から年寄りまで飲用する[2]。エタノールが含まれている以上酒ではあるのだが、モンゴルではヨーグルトに近い乳酸飲料といった扱いがなされており、これだけで食事の代わりにしてしまうほど、夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5〜1.5リットル位を摂っているという報告がほとんどだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200キロカロリーに相当し、基礎代謝に相当する[3]。モンゴルでは丼のような入れ物にいれて飲む。
馬乳酒の液色は乳白色で、乳酸発酵によって作られるため、かなり酸味の強い(pH3.5程度)飲み物である。また馬乳酒は特有の臭気を持っている。基本的に殺菌処理を行なわないため乳酸発酵が進行し続け、醸造してからも酸味と匂いが増していく。一般的に砂糖や塩などで味付けはせず、そのまま食す。
[

7637蒼天の實相:2018/11/01(木) 08:16:05
〜天地の食物〜
概要
ヨーグルト(トルコ語: yo?urt、ドイツ語: Joghurt)は、乳に乳酸菌や酵母を混ぜて発酵させて作る発酵食品のひとつ。ヨーグルトにたまる上澄み液は乳清(英語ではwhey(ホエイ))という。乳原料を搾乳し利用する動物は専用のウシ(乳牛)だけでなく、水牛、山羊、羊、馬、ラクダなどの乳分泌量が比較的多く、搾乳が行いやすい温和な草食動物が利用される。

7638蒼天の實相:2018/11/01(木) 08:17:13
>>7637
〜天地の食物〜
1.概要
ヨーグルトの起源はヨーロッパ、アジア、中近東にかけての様々な説があり、およそ7000年前とされる[3]。生乳の入った容器に環境常在菌である乳酸菌が偶然入り込んだのがはじまりと考えられている。
気温の高い地方では、生乳のままだと腐りやすいが、乳酸菌で乳を発酵させると保存性がよくなる。イランなどでは乳を醗酵させた後で乳脂肪分を分離し、バターを得ることも行われていた。
いわゆるヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国で色々な名で呼ばれている。欧米や日本でこの乳製品を指すのに用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yo・urt)」に由来する。ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yo?urmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映している。イリヤ・メチニコフ(微生物学者:ノーベル生理学・医学賞 1908年受賞)がブルガリア(当時はロシア領だが直前までオスマン帝国領)を訪れた際に、ブルガリア人が長寿で有ることを発見し、その原因を現地の伝統食品であるヨーグルトであるとし、『ヨーグルト不老長寿説』[4]を発表した事によって広まった[3]。なお、日本語のヨーグルトという呼称は直接にはドイツ語のJoghurtを由来とする[5][6][7]。
ヨーグルトが固まる原理は乳内の糖を乳酸菌が分解し作り出した乳酸によって、乳が酸性に傾くことで乳内のカゼインが固まることによる。pH4.6(等電点)を超えた当たりから凝固し始める。乳酸菌は酸に対してある程度の耐性を持つため、他の酸に弱い雑菌(ブドウ球菌や一部の大腸菌)の増殖を抑えて増殖する。


2.ヨーグルトの定義
FAOとWHOによって1977年に定められたヨーグルトの厳密な定義によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア株(Lactobacillus bulgaricus)とサーモフィルス株(Streptococcus thermophilus)が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められている。日本において乳等省令では「はっ酵乳」のことである。


3.人体への効果
乳酸菌は通常、腸内細菌として棲息しているが、ヨーグルトの乳酸菌は、腸内定着することはできない。ただし、その代謝物などが腸内のウェルシュ菌(Clostridium)などを減少させ、Bifidobactoriumなどの在来乳酸菌を増殖させるという整腸作用をもつ。結果として、腸内細菌叢中のウェルシュ菌などの比率の低下と産生される物質を減少させ、腸管免疫系を活性化させるとされている[8]。乳酸菌の耐酸性には差違がありヨーグルトでよく利用されている「ブルガリア株」は胃酸で不活化(死滅)する。また、生存し胃を通過したとしても小腸内で胆汁酸により不活化(死滅)するため大腸内に定着はしない[9]が、その菌体や代謝産物が腸内で有効に働くとされる。一方、ビフィズス菌もヨーグルトで利用されるが、胃酸、胆汁酸で不活化(死滅)せず、大腸内で定着する性質を有する[10]。定常的に摂食することで乳清由来乳酸による腸内環境が弱酸性(pH5.3〜)化し、糞便菌叢の胆汁酸(弱アルカリ:pH8.2〜)に耐性があるクロストリジウム属(Clostridium)株の生育を減少させ、腐敗産物(アンモニア、フェノール、p-クレゾール、インドール、スカトールなど)生成量を低減させると報告されている[11]が、詳細メカニズムは解明されていない[11]。
「免疫力を高める」「アレルギーが治る」などの宣伝文句が使われるが、ヒトを対象にした臨床試験では支持する結果が得られていない[12]とする指摘もある。
乳中の水溶性ビタミンは乳源動物の血中濃度にほぼ依存し変化する[13]が、牛乳にビタミンCがほとんど含まれていないのは、ウシなどの動物は自らビタミンCを合成できるので摂取する必要がないためである。乳酸菌は発酵の際にビタミンCも生成し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる[14]。このため、ヨーグルトには若干のビタミンCが含まれている。
ヨーグルトが形成される過程で、乳酸菌の働きによりラクトースの一部がグルコースとガラクトースに分解されるため、乳糖不耐症の牛乳を飲むと下痢をしてしまう人がヨーグルトと共に牛乳を飲んだ場合、牛乳だけよりも症状が軽減される[15]との研究がある。

7639蒼天の實相:2018/11/01(木) 09:23:17
〜天地の食物〜
2.起源
創世記、第7章、第8章にあるように、イスラエルには古来から「清い動物」と「清くない動物」の観念があり (7:2, 7:8)、ノアは「清い動物」を神にささげている (8:20)。「清い動物」という概念は「神に捧げるのにふさわしい動物」という概念と関係して用いられている。また、神が「清い動物」「清くない動物」と説明抜きに言い、ノアがそれで理解できていることから、この区別は少なくともある程度までは、ヘブライ聖書以前から存在している文化的観念であった。高等批判的に言えば、創世記が書かれた時点では既に、想定する読者にとって「清い動物」「清くない動物」の意味は説明不要だった。その意味においては、神によって命じられたというのは、むしろ後づけの説明である[6]。もちろん、「ノアは無垢な人だったので、神が清い動物と言ったときその意味をおのずから理解したのだ」などと考えることも可能である。
一方、神はノアに対して「清い動物を7つがいずつ、清くない動物を1つがいずつ」生き延びさせるよう命じており、この区別は単に人間が神へのささげ物に対して抱いていただけでなく、神によっても価値的に是認されていると考えられていた。神は「清くない動物」を滅ぼそうとはせず、明示的に生き延びさせようとしているが、「清い動物」をより優遇した。「神に捧げるのにふさわしい」と考えられ、神からもより良いとされていると考えられる動物を食物とすること、神に捧げるのにふさわしくない「不浄な」動物を自分も避けて食べないようにすることは、神によって是認されたと考えられる清らかさに従うことであり、観念的には神に従うことや正しく生きて神に近付こうとする努力の一つである。
バビロン捕囚により神殿崩壊と祖国喪失の原因が神に対する自分達の背信行為にあるという確信が強まり、律法に則った儀式、食物規定、日常生活の倫理が励行されたという考え方がある。しかし、カシュルートは出エジプト以来のことが描かれるトーラーに基礎がある。
実際、創世記・第9章では神はノアとその子どもたちに「動いている命あるものと植物は、すべて食物にするがよい」と言っており、レビ記の制限よりはるかに緩やかだ。創世記では「清い家畜」「清くない家畜」といった区別があり、神へのささげ物は「清い家畜」「清い鳥」であったが、神の側からは「清い動物だけ食べよ」とは言っていない。
4、5世紀に編纂されたタルムードで、食生活に関する神の掟(ハラハー)も確立した。
カシュルートの重要な目的の一つは、ユダヤ法に照らして適合した清浄な食物を明確にし、そのために調理法や、食品ならびに調理用什器の選定と管理に至るまで規範を示し、食物や調理、食事そのものを聖化することである。そして、これに適合した清浄な食物や料理が、一般に、カシェル(またはコシェル)と呼ばれる。

7640蒼天の實相:2018/11/01(木) 09:24:19
>>7639
〜天地の食物〜
3.「カシェル」であるための条件
レビ記・第11章によれば[7]、
海や川・湖に住む生き物で、ヒレと鱗のあるものは食べてもよい。エビやカニなどの甲殻類・貝類・タコ・イカなどは食べられないことになる。また、鱗が目立たないウナギも食べられないとされている。
鳥の中で食べてはいけないものは、鷲・クマタカ・鳶・ハヤブサ・鷹などの猛禽類、カラス、ダチョウ、フクロウ、カモメ、ハクチョウなどである。
昆虫の中で食べてよいものは、イナゴ・バッタなどのごく一部のみで、ほとんどの昆虫は食べることができない。一般的な解釈ではバッタ類は基本的に食べてよい。しかし、バッタ類のうち特定の4つの種だけを食べてよいとする解釈もある。(詳細はレビ記の4種類の昆虫)
ハチはカシェルではないが、純粋なはちみつはカシェルと解される。
カシェルとされる動物は、カシェルでない昆虫を餌にするとしてもカシェル。 レビ記・第17章や出エジプト記・第22章によれば、
「自然に死んだ動物の肉」
を食べることも禁じられ、あるいは好ましくないとされる。また狩人が殺したものも「カシェル」ではない。食べてよい動物でも、一定の仕方で食肉処理しないとカシェルにならない。
レビ記・第17章や創世記・第9章などでは、血を食べることが厳重に禁止されている。食べてよい動物でも、血抜きをしないとカシェルにならない。
このほかにも、調理法や調理場所などについて、いくつかの制限がある。その代表的なものとして、肉と乳製品の混食禁止がある。
出エジプト記23章19節「子やぎをその母の乳で煮てはならない」から、肉類と乳製品を一緒に食することが禁じられている。具体的には、一回の食事に両種の食品を同時に食すことはもとより、調理器具や食器、さらには貯蔵場所の混用も禁忌とされる。厳格なユダヤ教徒は、肉類用と乳製品用の食器を別々に揃え、しばしばキッチンも別にしている場合もある。また、肉製品を食した後は1〜6時間の間隔を置かなければ乳製品を口にしない[8]。

7641蒼天の實相:2018/11/01(木) 09:27:07
>>7640
〜天地の食物〜

3.「カシェル」であるための条件
3.1.レビ記の4種類の昆虫
この節ではレビ記で「食べてよい」とされている昆虫について扱う。
原文[7]の大意は「羽があり4足で動き群れるもの(昆虫)は不浄だが、足の上に接続した脚があり地面を跳ねるものは食べてよい。つまりアルベ、サルアム、ハルゴル、ハガブは食べてよい」である。前半は跳躍するバッタ目の昆虫を指していると考えられる。現代の解釈では昆虫は6本足だが、4本の足と2本の手(または「足」以外の何か)と考えたのだろう。「足の上に接続した脚があり」は「折れ曲がる長い足があり」と理解できるが、Nevo[9]は「4足で歩き、その上さらに、地面を跳ねるための(2本の)脚がある」と解釈するべきだとしている (Locusts as Food)。
後半は例示とも読めるが、4種類を限定しているとも読める。例示とすれば、基本的にバッタ目の昆虫はすべてカシェルである。David Guzikの注解では「locust(イナゴ)、cricket(コオロギ)、grasshopper(バッタ)などはカシェルである」と広義に取っている[6]。イスラエルの文献でも、例えばAzureに「あらゆる種類のイナゴ・バッタなどは食べて良い」という記事がある[10](ただし英訳聖書の影響を受けているようである)。International Standard Bible Encyclopedia (ISBE)[11]も、基本的にはバッタ目全体は食べてよいという解釈をしている。実際、英語訳では一般にcricketやgrasshopper(コオロギ、バッタなど)を含めているし、欽定訳聖書ではbeetle(甲虫類)まで含めており[12](これはさすがに広過ぎる解釈であろう)、現代で言うバッタ科よりかなり広い範囲と了解されていた。
一方、Nevoによれば英訳聖書は混乱の原因であり、本来はバッタ目の多数の種のなかで特定の4種類だけが食べてよいものと理解されていたという。その根拠として彼は、タルムードで「不浄なバッタは800種類」と述べられている、としている[9]。つまり、バッタ目のほとんども食べてはいけないのだという。Lis? Sternのガイド How to Keep Kosher では、古代ヘブライ語の昆虫名の正確な意味は不明なのですべての昆虫は食べないほうが良いとしつつ、「ただしどの昆虫がカシェルであるか習慣が確立しているなら、それに従う」としている。つまり、基本的には、カシェルなのは特定の4種類のみという立場である。
このように、4種類は限定なのか例示なのかについて(言い換えれば、どの昆虫がカシェルであるかについて)、ユダヤ教徒の間にも解釈に揺れがある。昆虫食自体が現在では一部地域を除いてあまり一般的でないため、この解釈(バッタ類のどの種がカシェルでどの種がそうでないか決定すること)は必ずしも日常的に切実な問題ではない。
4種類の名称はヘブライ語の古語で、確実な同定はできない。4つの名称が異なる昆虫を指すのかすら分からないし(同一種の相変異を呼び分ける語かもしれない)、仮に同定できても地中海地方の昆虫であるから和名があるかも分からない。
一番目のアルベ (ヘブライ語: ????????・, ラテン文字転写: arbeh)は旧約全体で24回も言及されており、災厄(蝗害)をもたらすという記述から、いわゆる「バッタの大群」を作る昆虫で、当時、その地方においてごくありふれていたものに違いない[11]。バッタ科のうち、移動相を持つ種か、またはその種が移動相にある状態を指すと考えられる。七十人訳聖書では「羽のないバッタ」と理解され、羽の有無(または長短)を分類基準としていたふしもある。Nevoはこれをバッタ科のサバクトビバッタ(Schistocerca gregaria Forssk?l, 1775; 英 Desert locust)でまず間違いないとしている[9]。Aharoniも同意見のようだ[13]。
日本語では、新共同訳、新改訳が「いなご」、口語訳が「移住いなご」である。(なお、いなご(Catantopidae科)は大群となって蝗害を起こす事は無く、正確に訳せばバッタ科のバッタである。)
サルアム
二番目のサルアム (????????) は、英語ではしばしば「bald locust」と訳される。ISBEによると、タルムードで「滑らかな頭を持っている」とされていたため、そう訳されたのだという[11]。ISBEは漠然と genus Tryxalis (T. unguiculata or T. nasuta) と同定している。
日本語では、新共同訳が「羽ながいなご」、新改訳が「毛のないいなご」、口語訳が「遍歴いなご」である。新改訳は英語訳と同等で、baldを「はげ頭」のように理解したのだろう。
ハルゴル

7642蒼天の實相:2018/11/01(木) 09:33:41
3.「カシェル」であるための条件
3.1.レビ記の4種類の昆虫
この節ではレビ記で「食べてよい」とされている昆虫について扱う。
原文[7]の大意は「羽があり4足で動き群れるもの(昆虫)は不浄だが、足の上に接続した脚があり地面を跳ねるものは食べてよい。つまりアルベ、サルアム、ハルゴル、ハガブは食べてよい」である。前半は跳躍するバッタ目の昆虫を指していると考えられる。現代の解釈では昆虫は6本足だが、4本の足と2本の手(または「足」以外の何か)と考えたのだろう。「足の上に接続した脚があり」は「折れ曲がる長い足があり」と理解できるが、Nevo[9]は「4足で歩き、その上さらに、地面を跳ねるための(2本の)脚がある」と解釈するべきだとしている (Locusts as Food)。
後半は例示とも読めるが、4種類を限定しているとも読める。例示とすれば、基本的にバッタ目の昆虫はすべてカシェルである。David Guzikの注解では「locust(イナゴ)、cricket(コオロギ)、grasshopper(バッタ)などはカシェルである」と広義に取っている[6]。イスラエルの文献でも、例えばAzureに「あらゆる種類のイナゴ・バッタなどは食べて良い」という記事がある[10](ただし英訳聖書の影響を受けているようである)。International Standard Bible Encyclopedia (ISBE)[11]も、基本的にはバッタ目全体は食べてよいという解釈をしている。実際、英語訳では一般にcricketやgrasshopper(コオロギ、バッタなど)を含めているし、欽定訳聖書ではbeetle(甲虫類)まで含めており[12](これはさすがに広過ぎる解釈であろう)、現代で言うバッタ科よりかなり広い範囲と了解されていた。
一方、Nevoによれば英訳聖書は混乱の原因であり、本来はバッタ目の多数の種のなかで特定の4種類だけが食べてよいものと理解されていたという。その根拠として彼は、タルムードで「不浄なバッタは800種類」と述べられている、としている[9]。つまり、バッタ目のほとんども食べてはいけないのだという。Lis? Sternのガイド How to Keep Kosher では、古代ヘブライ語の昆虫名の正確な意味は不明なのですべての昆虫は食べないほうが良いとしつつ、「ただしどの昆虫がカシェルであるか習慣が確立しているなら、それに従う」としている。つまり、基本的には、カシェルなのは特定の4種類のみという立場である。
このように、4種類は限定なのか例示なのかについて(言い換えれば、どの昆虫がカシェルであるかについて)、ユダヤ教徒の間にも解釈に揺れがある。昆虫食自体が現在では一部地域を除いてあまり一般的でないため、この解釈(バッタ類のどの種がカシェルでどの種がそうでないか決定すること)は必ずしも日常的に切実な問題ではない。
4種類の名称はヘブライ語の古語で、確実な同定はできない。4つの名称が異なる昆虫を指すのかすら分からないし(同一種の相変異を呼び分ける語かもしれない)、仮に同定できても地中海地方の昆虫であるから和名があるかも分からない。
一番目のアルベ (ヘブライ語: ????????・, ラテン文字転写: arbeh)は旧約全体で24回も言及されており、災厄(蝗害)をもたらすという記述から、いわゆる「バッタの大群」を作る昆虫で、当時、その地方においてごくありふれていたものに違いない[11]。バッタ科のうちハルゴル
三番目のハルゴル (????????) は英訳ではコオロギだが、アラビア語の「ハルジャル」(バッタの群れ)との関係から、やはりバッタ・イナゴの一種と見られる[11]。
日本語では、新共同訳、口語訳が「大いなご」、新改訳が「こおろぎ」である。
ハガブ
四番目のハガブ (?????) もバッタまたはイナゴの類とされる。
日本語では、新共同訳、口語訳が「小いなご」、新改訳が「ばった」である。

7643蒼天の實相:2018/11/01(木) 11:56:21
〜天地の食物〜

1.自然毒の種類
1.1.植物性自然毒
(食中毒統計ではキノコ及び植物)
毒性獲得の理由は、種子や実、若芽が動物や昆虫や鳥類などの餌となることを抑止することが目的とされている。致死性の物質から、下痢程度の症状で済むものまで幅が広い。
中毒の殆どが食中毒で90%はキノコによる。症状は胃腸型中毒症状、コレラ様症状、脳症状の3種があり、発生時期は秋季に集中する。キノコ以外にはアルカロイド系の物質を含有する草花によるもので、代表的な物にはトリカブトのアコニチン、ジャガイモのポテトグリコアルカロイド(ソラニン)、青梅のアミグダリンなどがある。
人間に対する毒性はないがアブラナ科の植物では、発芽前後にイソチオシアネートなどの成分が増加する。これは、成長途上で昆虫類や鳥類の餌となることを抑止する事が目的で毒性は弱く、貝割れ大根やスプラウトの辛味成分が該当する。豆類では生の豆の状態に毒性分(レクチンなど)があり、下痢を起こす。

7644蒼天の實相:2018/11/01(木) 12:25:57
〜植物の毒〜

概要
大麻(大?、たいま、cannabis[1])は、アサの花冠、葉を乾燥または樹脂化、液体化させたもの。マリファナとも[1][2]。花から製造されたものをガンジャ、樹脂をハシシ,チャラスと呼ぶ[3]。含有される約60種類のカンナビノイド、特にテトラヒドロカンナビノール (THC) には薬理作用があり[3]、紀元前から用いられてきた[4][5]。嗜好品、また医薬品として用いられ近年では医療大麻とも呼ばれる。喫煙、気化、飲食により成分を摂取することで用いられる。
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、神事のお祓いの大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。1912年の万国阿片条約を1925年に補足した際に、大麻が精神等に害毒を起こすことを理由に国際法上、流通や使用が制限された。1961年、麻薬に関する単一条約により輸出入だけでなく国内流通・生産、所持にも規制を求めるに至った。万国阿片条約の制定時より大麻の有害性は議論され続け、現在に至るまで様々な形で議論されてきた。21世紀に入り大麻の有害性の再評価を求める動きが強まっている。日本では大麻取締法により、大麻草(カンナビス・サティバ・エル)の花や葉の許可のない所持、輸入は医療目的であっても禁止されており、医学的評価を行えない状況にある。
国連世界保健機関 (WHO) の2016年の報告書は、大麻常用と、精神病や知能低下との関係について妥当性があるとすると指摘している。一方で癌、後天性免疫不全症候群(AIDS)、緑内障の治療や抗うつ薬、食欲覚醒剤、抗けいれん剤、疼痛疾患対策など様々な分野での治療効果が実証されていることから、さらなる研究の必要性についても推進している。[6]

7645シャンソン:2018/11/01(木) 20:23:17
7626 :蒼天の實相 :2018/10/31(水) 18:29:12
〜天地の掟〜

ポーランドからブルガリアへ。
 動くアドリブ人形の投稿は爆発寸前です。

7646シャンソン:2018/11/01(木) 20:27:44
7626 :蒼天の實相 :2018/10/31(水) 18:29:12
〜天地の掟〜

 みずほ銀行に立ち寄る者さんと、トンチンカン信徒氏は別人物ですね。
 蒼天の實相とかいう新規事業の立ち上げですか??
 もういいかげんにしてほしいです。

7647シオン観測隊:2018/11/01(木) 21:47:39
志恩さんコメントより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「その著書を返す日の 夕刻の その時間に、
〇〇ちゃん(私のこと)と、ホテルオークラのロビーに 自分も一緒に行くから」
と、
申し出てくださいました。


※○○ちゃん=金(キム)ちゃん(志恩さんの新羅姓で、金姓の金志恩の、金と、呼ばれた)

7648シオン観測隊:2018/11/02(金) 02:25:40
>>7647
MES
志恩さんが、また、愛国の掲示板、仮=ハンネを使用して、嘘をついています。

セール伝道の開発者志恩さん。

志恩さんの過去歴
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
志恩さん、玉露コーヒ命名者=光明第二掲示板より、当時志恩さんは、クレマチスでした。


はい。ご苦労さまでした。 (8115)
日時:2014年05月10日 (土) 20時47分
名前:管理人



数日後に、消えていただきます。



クレマチス様。
コーヒーにはコーヒーの味があり、玉露には玉露の個性があります。

今まであえて志恩さんには申し上げなかったのですが、

「生長の家を思っているのだから、何でも一緒になれば、お話すれば良い物が出来上がる。」というものではありません。

「玉露コーヒー」を作るのは、かえって今回のような結果をまねく事が多いものですヨ。

一度お考えください。


ご両者に合掌

↓↓↓↓↓↓↓↓

NAME
愛の伝道
SUB
素晴らしい「生長の家の伝道」をしましょう。
MES

初めまして。

私は本部に数年在職した者です。

7649😸:2018/11/02(金) 07:29:56
>>7647

これが本部の啓蒙運動ですか?
 心の改革はここからはじまった(笑)

7650🌷:2018/11/02(金) 07:31:21

どうぞ@dozosan
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娘が「パパは何が好き?」と聞いてきたので「パパは ◯◯(娘の名前)ちゃんとママが好き」と答えたら「そっか。わたしはアンパンマンとお花が好き」と言われました。

7651。、:2018/11/02(金) 10:11:12
>>7649
汚点ちゃん=シャンソンさん

志恩さんの時代の原宿本部だろね?(笑)

シャンソンさんも、高校生だね(笑)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

7649:・
18/11/02(金) 07:29:56
>>7647

これが本部の啓蒙運動ですか?
 心の改革はここからはじまった(笑)



7647:シオン観測隊
18/11/01(木) 21:47:39
志恩さんコメントより
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「その著書を返す日の 夕刻の その時間に、
〇〇ちゃん(私のこと)と、ホテルオークラのロビーに 自分も一緒に行くから」
と、
申し出てくださいました。


※○○ちゃん=金(キム)ちゃん(志恩さんの新羅姓で、金姓の金志恩の、金と、呼ばれた)

===========

私は、幼稚園くらいだら、時代が、古いね。

7652、、:2018/11/02(金) 10:17:56
動くアドリブ人形=シャンソンさん

それは、シャンソンさん御自身のハンネでしょ。

気にくわないと、八つ当たりするのは、良くないですよ。動くアドリブ人形の、汚点ちゃん事、シャンソンさん。

7645:シャンソン
18/11/01(木) 20:23:17
7626 :蒼天の實相 :2018/10/31(水) 18:29:12
〜天地の掟〜

ポーランドからブルガリアへ。
 動くアドリブ人形の投稿は爆発寸前です。

7653トンチカン信徒:2018/11/02(金) 10:22:34
>>7646
何故、蒼天の實相
が、気にくわない?
ですか?

シャンソンさん

7654蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:28:41
〜堕天使の意義〜

ルシファー (Lucifer、ルキフェル、ルシフェルとも) は、明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者という意味をもつ悪魔・堕天使の名である。キリスト教、特に西方教会(カトリック教会やプロテスタント)において、堕天使の長であるサタンの別名であり[1]、魔王サタンの堕落前の天使としての呼称である[2]。
「ルシファー」は英語からの音訳で、古典ラテン語読みではルキフェル、ルーキフェル(羅: L?cifer)、教会ラテン語読みではルチフェル、その他日本ではルシフェル(仏: Lucifer[3], 西: Lucifer, 葡: L?cifer)、ルチーフェロ(伊: Lucifero)、リュツィフェール(露: Люцифе?р)などとも表記される。

7655蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:30:23
>>7654
〜堕天使の意義〜
1.概要
キリスト教の伝統においては、ルシファーは堕天使の長であり、サタン、悪魔と同一視される[4]。神学で定式化された観念においては、悪魔はサタンともルシファーとも呼ばれる単一の人格であった[5]。
悪魔にルシファーの名を適用したのは教父たちであった。たとえばヒエロニムスは金星を指すラテン語であったルーキフェルを、明けの明星としての輝きの喪失に悲嘆することになる、かつて大天使であった堕天使長の名とした。この光の堕天使としてのルシファーの名がサタンの別称として普及したが、教父たちはルシファーを悪魔の固有名詞としてでなく悪魔の堕落前の状態を示す言葉として用いた[6]。キリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、神と対立し、天を追放されて神の敵対者となったとされる。「ヨハネの黙示録」12章7節をその追放劇と同定する場合もある。
天使たちの中で最も美しい大天使であったが、創造主である神に対して謀反を起こし、自ら堕天使となったと言われる。堕天使となった理由や経緯については様々な説がある。神によって作られた天使が神に背いて堕天使となったという考えは、旧約偽典ないしキリスト教黙示文学の『アダムとエバの生涯』にみられる[7]。その中で悪魔はアダムに向かって、自分は神の似姿として作られたアダムに拝礼せよという命令を拒み、そのために神の怒りを買って天から追放されたのだと語る。『クルアーン』にもこれに類似した話があり、イブリースは粘土から作られたアダムに跪拝せよという神の命に背いて堕落したと数箇所で述べられている[8][9]。キリスト教では悪魔は罪によって堕落した天使であるとされ、オリゲネス、アウグスティヌス、ディオニュシオス・アレオパギテス、大グレゴリウス、ヨハネス・ダマスケヌスらは天使が罪を犯すという問題について論じた[10][11]。大グレゴリウスやセビーリャのイシドールスは、罪を犯して堕落する前のサタン(=ルシファー)はすべての天使の長であったとし、中世の神学者たちも、サタンはかつて最高位の天使である熾天使か智天使の一人であったと考えた[12]。

2.キリスト教神学におけるルシファー
2.1.聖句
イザヤ[編集]

イザヤ書の聖句は第一義的にはバビロンの王を指しているものであるが、アウグスティヌスはこれは預言者イザヤが悪魔をバビロニアの君主の人格をもって象徴的に表していると説明している[13]。ビリー・グラハムはここにルシファーの5つの「私は行おう」という罪が見られると解説している[14]。
エゼキエル[編集]

エゼキエル書28章12-17節は堕落前のルシファーの輝かしい記録と言われている[15]。エゼキエル書28章1-10節はティルス(ツロ)の君主、12-19節はティルス(ツロ)の王である[16]。ここでティルス(ツロ)に述べられていることは、悪魔にあてはめられる[17]。
「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。」「わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。」
??エゼキエル書28章12-17節、新改訳聖書



2.キリスト教神学におけるルシファー
2.2.歴史
キリスト教会では、ルシファーはサタンであると考えられてきた。教父たちはルシファーをサタン、堕天使、悪魔と結び付けている[18]。教父テルトゥリアヌス (Contra Marcionem, v. 11, 17)、オリゲネス (Homilies on Ezekiel 13) らがそうであり、ヨハネの黙示録12:7、ルカによる福音書10:18がその根拠となる聖句である。
4世紀末、ヒエロニムスは、聖書のラテン語訳(ヴルガータ)において、ヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 ??????(イザヤ書 14章12節)を、lucifer の語を当てて訳した。ラテン語のルキフェルはキリスト教以前から「明けの明星」である金星を指すものとして用いられ[19]、オウィディウスやウェルギリウスなどの詩歌にも見られるものであった[20]。旧約聖書はヘブライ語とアラム語で書かれており、新約聖書の原典もギリシア語であるため、ルシファーの語はラテン教父たちによる訳語ということになる[21]。
今日でもキリスト教会ではルシファーはサタンであるという見解が取られている[22][23][24]。ただし、サタンや堕天使を伝説とする考えもある。プロテスタントの福音派は、サタンの人格性を否定する傾向があるとして自由主義神学(リベラル)を批判している[25]。バルト主義者の山本和は、日本キリスト教協議会(NCC)編纂の『キリスト教大事典』の悪魔の項目で、キリスト教の伝統的理解を否定している。また、イエス・キリストはルシファーだとする主張がある[26]。

7656蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:34:52
>>7655
3.宗教史学上のルシファーの来歴
3.1.原義
Lucifer はもともと、ラテン語で「光をもたらす者」(lux 光 + fero 運ぶ)を意味する語であり、当初は悪魔や堕天使を指す固有名詞ではなかった。
ラテン語としてのルキフェルが見出されるのは、ウルガータ聖書の以下の箇所においてである。
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」
??旧約聖書「イザヤ書」14:12[27]
ここでの明けの明星は或るバビロニアの専制君主のことを指し、輝く者を意味するヘブライ語の「ヘレル」が明けの明星 lucifer と訳されている[28]。
「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
??新約聖書「ペトロの手紙二」1:19[29]
この一節では、明けの明星を意味するギリシア語の「ポースポロス」(Φωσφ?ρο?)が lucifer とラテン語訳されている。このように、悪魔や堕天使を含意せず、時にはキリストをも指すルシファーの語が用いられた事例としては、4世紀のサルデーニャの聖人である司教ルキフェルの名や、賛美歌カルメン・アウローラ(Carmen aurorae)などがある。イギリスの詩人シェリーは、地獄の第9層に拘束されているルシファーをおぞましい怪物として描いたダンテを「星たちの群れの中のルシファー」とほめたたえた[30][31]。

7657蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:41:07
〜クリルタイ〜

概要
クリルタイ(モンゴル語:????????, Хуралдай, Khuruldai; トルコ語: Kurultay))は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽鄰塔、『集史』などのペルシア語資料では ???????? Q?r?lt?? などと表記される。
『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。
モンゴル皇帝(カアン)の命のもとに広く召集された王族および有力諸部族の首長、重臣たちからなる遊牧国家の最高の政治会議である。その役割は、第一に皇帝候補者の選定と即位、第二に諸外国への遠征計画、第三に法令の制定、などが含まれていた。開催時期は春期や夏期が多く、大河の水源地域など牧草地や水情に恵まれた土地が開催地として選ばれた。また回数も、皇帝一代のうちでせいぜい2、3回程度で、皇帝のオルドの近傍で定められ、国政についての様々な討議ののちに、場合によっては1週間以上にもわたる長い祝宴(トイ toi )が常に伴った。
モンゴル皇帝や皇族たちがウルスの方針を決めるために主催するこれらのクリルタイは、特に大クリルタイ(Yeke Qurilta、 ペルシア語では Q?r?lt??-yi Buzurg)と呼ばれた。その他の集会をジェルゲ(jerge)と呼んでいたが、現在のアフガニスタンにおいて国会に相当するローヤ・ジルガの「ジルガ」はこのモンゴル語のジェルゲに由来する。
著名なクリルタイ[編集]
1206年初春、テムジンがモンゴル高原をほぼ統一してチンギス・カンの尊称を得たクリルタイ(オノン川河源)
1226年8月、オゴデイがチンギスの後を継いで即位したクリルタイ(ケルレン川とセングル川の合流部コデエ・アラル)
1246年8月26日、摂政監国ドレゲネ皇后の招請によって開催されグユクが即位したクリルタイ(ココ・ナウル)
1249年、グユクの死の直後にバトゥによってトゥルイ・ジョチ両家を中心に開催されたクリルタイ(イリ川上流ジュンガル・アラタウ山脈方面のアラ・カマク)
1251年7月1日、バトゥ主導によってモンケが即位したクリルタイ(コデエ・アラル)
1260年4月、クビライが金蓮川の開平府にて自派のみで即位したクリルタ

7658蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:45:39
〜アイヌ〜

概要
日本人 > アイヌ アイヌは、北海道を主な居住圏とする先住民であり[2]、独自の文化を有する民族である[3]。かつては北海道だけでなく北は樺太、東は千島列島全域、南は本州北端にまたがる地域に居住していた[4]。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。母語はアイヌ語。
アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが[5]、生業から得られる毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[6]。
1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下[7]、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。

7659蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:46:38
>>7658
〜アイヌ〜

1.呼称
1.1.アイヌ
アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[9]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人、シサム・シャモ[10])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけてとされている。
アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。
地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。
大和民族(和人)は、アイヌのことを「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は「現地人」のような意味の言葉であったが、近代には次第に侮蔑感とともに使われるようになった[11])」とも呼び、「アイノ」(=アイヌ)と呼んでいた。その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。

1.呼称
1.2.ウタリ
ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが[12]、長年の差別の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、行政機関の用語としてもでも長年使われてきた。
1.呼称
1.3.蝦夷
詳細は「蝦夷」を参照
中世以降、大和民族(和人)はアイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた[13]。
朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。
東北の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、鎌倉時代までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、アイヌ語地名も散見され、古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であったとも考えられている。一方で北海道、樺太は室町時代に和人の入植が始まるまでは、阿倍比羅夫による征討の試みはあったものの中央政権からは化外の地と見なされていた。
また、中国東北部の民族からはアイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。

7660蒼天の實相:2018/11/02(金) 10:53:22
>>7659
〜アイヌ〜
5.1.宗教
「イオマンテ」を参照
アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を持つ(カムイ)を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。
千島列島に住むアイヌ人はロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になり、北千島の住民は色丹島に移住させらた。色丹島のアイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[24]。
また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[25]」と記述している。

7661蒼天の實相:2018/11/02(金) 12:37:38
〜ネルチンスク条約〜
概要
ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく、簡体字:尼布楚条?、繁体字:尼布楚條約、ロシア語: Нерчинский договор)は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約[1]。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。

7662蒼天の實相:2018/11/02(金) 12:39:12
>>7661
〜ネルチンスク条約〜

1.概要
「日露関係史」も参照
17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と朝鮮王朝の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。
清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンはフョードル・ゴロヴィンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始した。ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立した。両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。
内容は、次の通りである。
国境をアルグン川(満州語:ergune bira、額爾古納河)・ゴルビツァ川(ロシア語:река Горбица、満州語:gerbici bira)とスタノヴォイ山脈(満州語:amba hinggan、外興安嶺)の線に定める。
ウダ川(udi bira、鳥第河)とスタノヴォイ山脈(amba hinggan、外興安嶺)の間は未確定部分とする。
アルグン川以南からロシア人は退去する。
不法越境を禁止する。
旅券をもつものは交易を許される。


2.影響
対等の条約ではあったが、清にとって有利なものとなった。なぜなら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させ、9月にゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。ピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営した。その後、ピョートルが親政を開始した。
清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。

7663蒼天の實相:2018/11/02(金) 16:16:24
〜アイグン条約〜

概要
アイグン条約(・琿条約、ロシア語: Айгунский договор)は、ロシア帝国と中国の清帝国が、1858年5月28日に中国北東部、アムール川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約。


1.解説
条約によって、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。
19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱やアロー戦争(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた[1]。
現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン(・琿)条約と1860年の北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004年にようやく国境全部の画定が完了した。
この条約により、実質的にネルチンスク条約の効果は完全に失われた。

7664転載:2018/11/03(土) 02:12:25
愛国から (7160)
日時:2018年11月02日 (金) 21時34分
名前:転載失礼します

同感です。 (24156)
日時:2018年11月02日 (金) 16時02分
名前:鑑定人


たしかに日野君は、こうもり管理人や貼りつけおばさんよりも純粋だ。

こうもり管理人や貼りつけおばさんは名前も顔も出さず、体を動かしてもいない。

日野君は本物のほうを向いている。

7665シオン観測隊:2018/11/03(土) 02:42:33
>>7664
第1の疑問

、ハンネ→7664:転載

、ハンネ→名前:鑑定人


この?二人の、通常=ハンネは、何だろ?

7666シオン観測隊:2018/11/03(土) 02:50:32
>>7664
第2疑問

確か、この定義は、正しい、日野くん=日野氏は、『純粋無垢』である。
→たしかに日野君は、こうもり管理人や貼りつけおばさんよりも純粋だ。

こうもり管理人や貼りつけおばさんは名前も顔も出さず、体を動かしてもいない。←


だが?

この?コメント者の言葉裏には、日野くん=日野氏へ本心が隠れている。

即ち、『日野くんは、純粋無垢だが、天才バカボンの見本だ!』と言う、意味が、隠れている。

日野氏を完璧に、ボンボンとバカボンとバカにした、コメントなのだ。

7667シオン観測隊:2018/11/03(土) 03:27:53
>>7664
第3の疑問


極めつけの、最後の言葉に、現れてる。

この、ハンネ=鑑定人は、日野氏を褒めあげているが、實は、そうではない、日野氏は、単純無垢に、この、ハンネ=鑑定人の、コメントに騙されては、いけない。

彼は、褒めあげながら、日野氏を、本音では、バカにしてるのである。


そして、最後の極め言葉は、殺し文句に成ってる
※→日野君は本物のほうを向いている。←※


日野くんは、本物の方をむいているの?裏の真の言葉意図は?日野くん単純な○○である。

7668シオン観測隊:2018/11/03(土) 04:10:09
>>7667
シオン観測隊は、正しく、観測している。

7669蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:24:55
〜日露修好通商条約〜

概要
日露修好通商条約(にちろしゅうこうつうしょうじょうやく)は、幕末の日本とロシア帝国との間に結ばれた通商条約。1858年8月19日(安政5年7月11日)に調印され、1859年8月18日(安政6年7月10日)に批准された。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって総て無効になった。
この条約では、領事裁判権に加えて最恵国待遇が双務的となっている。
改正[編集]
日本政府とロシア政府との交易業務の便宜を図るため、1867年12月、ロシア全権委任大使のコンスルコルレジスキー、ツウェツニク、エウゲニー、ビューツォフと外国奉行・加賀守江連堯則とのあいだの協議が江戸で行われ、「魯西亞國新定約書(慶応3年11月18日魯歴1867年12月11於江戸調印交換)」が調印された(即日施行)[1]。
関連項目[編集]
安政五カ国条約
日露間樺太島仮規則
津田正路
ポーツマス条約
脚注[編集]

7670シャンソン:2018/11/03(土) 09:29:52

 北海道では氷点下を記録していると思います.......

7671蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:42:40
〜クリミア戦争〜

概要
クリミア戦争(クリミアせんそう、英語: Crimean War、フランス語: Guerre de Crim?e、ロシア語: Крымская война、トルコ語: K?r?m Sava??)は、1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である[1]。


1.概要
フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。

7672蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:43:56
>>7671
〜クリミア戦争〜

2.背景
2.1.ナショナリズムの台頭
19世紀中頃に、ナポレオン以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制が各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。
中でもボスニアやヘルツェゴヴィナは、民族的にはスラヴ系でも宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層はキリスト教徒が多数であったため、また工業化がほとんど進んでいないこの地域では人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったため、たびたびセルビアやモンテネグロの反オスマン運動の宣伝に使われた。
オスマン帝国は、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図して、キリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなど、問題の解決に奔走していた。しかし、1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したために、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したオスマン帝国は、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。これに対して支配層のムスリム貴族たちが反対したために、オスマン帝国は1850年にドナウ方面軍司令官オメル・パシャを派遣して反対派をサラエヴォから追い出して一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。
ロシアとオスマン帝国の直接の対立の発端となったのは、オスマン帝国が支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ1世がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉し、これがモルダヴィアとワラキアへの兵力投入につながっていった。

7673蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:44:38
>>7672
〜クリミア戦争〜

2.背景
2.2.諸国の策略とイギリス外交の不調
1852年にモンテネグロ公ダニーロ1世は、ロシアとオーストリアの賛同の下に制定した新憲法にオスマン帝国が反対したことを理由に挙兵し、同年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を支援してオスマン帝国軍を攻撃し始めた。地の利があるモンテネグロがヘルツェゴヴィナから越境攻撃を繰り返すゲリラ戦を展開する一方、これに苦戦を強いられたオスマン帝国側は、オメル=パシャによってスクタリから武器を買い付けてボスニア人ムスリムに流すことによって対抗した。こうして戦況は次第に泥沼化していった。
モンテネグロはセルビアからの支援を受けて善戦するも、兵力の上で圧倒的に不利なため、1852年12月にオスマン帝国がアドリア海に艦隊を派遣すると、ロシアからの助言の下に和平交渉の準備に入り、1853年1月にダニーロ1世の叔父にあたるカラジョルジェ・ペトロヴィチ (Kara?or?e Petrovi?) が使者としてサンクトペテルブルクに赴いて、ロシアにオスマン帝国との仲介を依頼した。
一方で、戦線の拡大を望まないオーストリアもオスマン帝国との講和を打診するものの、2月からの交渉においてオスマン帝国とモンテネグロとの双方が講和に合意するには至らなかった。これに加えてアルバニアで、フランスの支援を受けたオスマン帝国軍の前にモンテネグロが大敗北を喫した。
モンテネグロがこのような危機的状況に陥ったことを受けて、汎スラヴ主義を掲げる体裁上バルカン半島を無視できなくなったロシアは、プロイセンを仲介としてオスマン帝国に使節団を送って双方に停戦を合意させた。この時点でロシア皇帝ニコライ1世はこの問題に関して、オスマン帝国と対立する側に立てば必ず英国やフランスとも対立することになるにせよ、オスマン帝国領を分割することで妥協できると踏んでいた。この認識がロシアの強気の行動を助長することにつながった。しかし、外相カール・ロベルト・ネッセルローデが苦言を呈したように利害関係が複雑化してしまっている以上、いたずらに各国の疑惑を呼ぶような行為は賢明でなかった。
ニコライ1世としては、イギリスについては首相が第2次ピール政権で外相として穏健外交を展開したロシア寄りのアバディーン伯だったので、関係は悪化しないだろうと踏んでいた。一方のオスマン皇帝アブデュルメジト1世は第二次シリア戦争(第二次エジプト・オスマン帝国戦争)で味方してくれた当時の外相だったパーマストン子爵が内相としてアバディーン政権の閣内にいる限り、イギリスは援護射撃をしてくれるだろうという勝手な期待を抱いていた。
アバディーン内閣は連立政権であるため、首相を支持する一派はロシアに同情的でありながらも、クラレンドン外相やパーマストン内相はフランスと組んでロシアと対決すべしと考えていたために、外交方針が定まっていなかった。本来イギリスは、ロシアとオスマン帝国(フランスが支援)といった関係国を仲裁しうる大国だったにもかかわらず、閣僚間の足並みの乱れから統一した外交政策がとれずにいた。更に選挙法をめぐっても政権内部が分裂様相をきたしていたために、紛争当事国の仲介役をする状態になかった。よって、ロシアとオスマン帝国の両方がイギリスの支援に勝手な期待を抱いたまま、紛争が拡大していった。

7674蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:49:22
>>7672
2.背景
2.3.開戦へ
1853年2月末にロシアはオスマン帝国に特使を派遣するが、選ばれたのは経験豊かな外交官ミハイル・オルロフではなくオスマン帝国嫌いの軍人アレクサンドル・メンシコフだったため、不安になったネッセルローデは方針はあくまでも不戦であると釘を刺した。
3月にイスタンブール入りしたメンシコフは、まずオスマン帝国最大の債権国だったフランスの干渉を退けることに努め、交渉相手がフランス寄りのムスタファ・レシト・パシャである限り交渉には応じられないと頑なに拒否し続けたことから、オスマン帝国側は何度も交渉役を変更せざるを得なくなった。当初から難航が予想されたが、4月にオスマン帝国が領内の正教会信者、つまりスラヴ系民族の生命と財産を保証するのであれば、ロシアは国際的な危機からの安全を保障するという合意が成立した。
ところが、この合意の中にはスラヴ系商人に対する特権の付与なども含まれていたため、完全に蔑ろにされたフランスが猛烈に抗議し、様々な妨害工作を行った。エルサレムを巡る聖地管理権問題はこの一環といわれている。また、この時期にロシアがセヴァストポリで黒海艦隊に戦闘準備をさせ、オデッサで陸軍の大部隊が編成され、海軍のコルニーロフ大佐が突然ギリシャに派遣されたという情報がもたらされたため、駐イスタンブール英国大使ストラトフォード・カニングはフランスと組んでスルタン・アブデュルメジト1世に様々な圧力をかけ、ついには金角湾に軍艦を並べて砲撃を行うなど強引な手段に出たことから、オスマン帝国はロシアの提案を断ることになった。
こうして4ヶ月に及ぶ交渉は失敗に終わり、6月にメンシコフが帰国すると同時にロシアとオスマン帝国は国交を断絶した。この間、オーストリア外相プオルを中心としたウィーンで開かれた国際会議も議定書を作成したものの最終的に失敗に終わった。この4ヶ月後の10月に両国は開戦した。

7675蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:50:11
>>7674
〜クリミア戦争〜
3.戦闘の経緯
3.1.バルカンでの戦闘
1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキア(現在のモルドヴァとルーマニアの一部)に進軍した。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。
装備の上で勝っていたロシア軍は、砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてオスマン帝国軍の河川艦隊を破ると、勢力を盛り返してドナウを越えて南下した。さらにギリシャの義勇兵が北上し、手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けた反オスマン帝国組織が叛乱を煽動したため、オスマン帝国軍はバルカン半島で挟撃される形に追い込まれた。この状況に慌てたイギリスとフランスはギリシャに撤退を求めるが、中央政府の権威が大きくないギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。
ついにフランスは巡洋艦を派遣して、ギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキで撃沈し、イギリスもアテネの港湾ピレウスを封鎖して圧力をかけたため、ギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなった。これにより反オスマン帝国を掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅に至り、再び盛り返したオスマン帝国軍がロシア軍をドナウ以北にまで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠いたため、戦線は膠着状態に陥った。

7676蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:51:01
>>7675
〜クリミア戦争〜

3.戦闘の経緯
3.2.クリミアでの戦闘とイギリス首相の交代
ロシアの過大な要求に不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、本格的に参戦するつもりはなかった。ところが1853年11月、黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン帝国艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため、状況は一変した。
これは黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブールに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン帝国側の明らかなミスだったが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国のメディアはこれを“シノープの虐殺”と報道した。これにより、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにオスマン帝国と同盟を結んで1854年3月28日、ロシアに宣戦布告した。イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオン戦争から第一次世界大戦までの100年の間でこの1度だけだった。
当初、同盟軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(現在のブルガリア東部)に上陸させてオデッサの攻略を目指したが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポリへの変更を余儀なくされた。
しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。
ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマの戦いでは地の利があるにもかかわらず、実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまった。一方、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けた偽指揮官たちによる攪乱工作により、バラクラヴァの戦いやインケルマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポリを前にして立ち往生する羽目になった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。最終的に、サルデーニャ王国がピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して同盟軍に与したことにより、街は3日に及ぶ総攻撃の末にナヒーモフもコルニーロフも戦死し、1854年9月28日から始まったセヴァストポリの戦い(土: Sivastopol Ku?atmas?-セバストポリ攻囲戦、露: Оборона Севастополя-セバストポリ防衛戦)は1855年9月11日に陥落を見て決着した。
しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。

7677蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:51:44
>>7676
〜クリミア戦争〜

3.戦闘の経緯
3.3.終戦へ
セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝カルス要塞がロシア軍の前に降伏したことから、事実上の戦勝国はなくなった。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともに、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。
時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。もっとも、明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビー活動によりハプスブルク批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視された。
こうして1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立した。多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。

7678蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:52:34
>>7677
〜クリミア戦争〜

3.戦闘の経緯
3.4.バルト海での戦闘
クリミアでの戦闘は、北欧においても転換期となった。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回の意図を講じ、参戦を計画した。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものだった。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣した。1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧する。
しかしスウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言した。しかしこの中立は英仏にとって有益なものとなり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用することが出来た。英仏艦隊は、フィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスよりオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診したが、スウェーデン王オスカル1世は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われてしまった。1855年に入り、クリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となると、スウェーデンは直接参戦の意思を露にする。
しかし、スウェーデンの参戦は時機を逸していた。セバストポリの陥落とスウェーデンの参戦はロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊はバルト海から撤退した。結局スウェーデンは何の利益を得るところも無く、戦争は終結した。なお、スウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、列強諸国によるパリ条約において黒海同様、非武装地帯とすることで合意を得たが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921年にフィンランドの自治領になることが決定された。

7679蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:55:00
>>7677
〜クリミア戦争〜

3.戦闘の経緯
3.5.太平洋での戦闘と日本への影響
太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時には、ロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。
また、プチャーチンが長崎に入港中との情報を得、英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。到着時にはすでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかったが、長崎奉行水野忠徳は条約締結を提案し、1854年10月14日に日英和親条約が調印された。日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
新興国で大きな海軍も有していないアメリカが、この時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったことも理由の一つである。
なおこの戦争でフランスでは、政府の命令を受けてパリ天文台台長のルヴェリエという学者が暴風雨の研究を行い、これが今日の天気予報という学問のジャンルの起源になった。


4.戦争に関わった人物
アッバース・ヒルミー - エジプト総督。ムハンマド・アリーの孫でオスマン帝国側に立って参戦
アントワーヌ=アンリ・ジョミニ - スイス人軍学者。開戦当時のロシアの軍事顧問
ジェームズ・スターリング - 英国海軍軍人。極東のロシア艦隊を攻撃するため来日し、江戸幕府にヴィクトリア女王の親書を渡す
フェルディナン・レセップス - オスマン帝国側について参戦したために混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得
ハインリヒ・シュリーマン - 戦争のための補給物資を扱い、財を成す。その金を元にトロイ発掘を行う
パトリス・ド・マクマオン - フランス外人部隊指揮官として参戦。後のフランス第三共和政の下で大統領を務める
フローレンス・ナイチンゲール - 看護師として従軍。負傷兵たちへの献身や統計に基づく劇的な医療衛生改革を実行し、「クリミアの天使」とも呼ばれた
レフ・トルストイ - 将校として従軍。セバストポリ要塞の戦いに参加。従軍した体験を元に小説「セヴァストポリ物語」を執筆して国家的栄誉を得る
エフィム・プチャーチン - ロシア海軍軍人。幕末に条約締結のため来日
吉田松陰 - 幕末の思想家。長崎からの密航を計画したが、開戦によりロシア艦が予定より早く引き上げたため失敗し、その後、別件で自首して投獄された
マイケル・ファラデー - イギリス人化学者。英国政府から化学兵器の開発を依頼されるが、拒否
アドルフ・エリク・ノルデンショルド - 学者、探検家。フィンランド大公国から追放されたが、1879年、地理学に名を残す北東航路の制覇を達成した
パーヴェル・ナヒーモフ - ロシア海軍司令官
ウィリアム・ライト - イギリス軍の騎兵隊士官として敵陣の偵察を担当していた。

7680シャンソン:2018/11/03(土) 15:25:50

 トンチンカン信徒さん、遂にクリミアにまで遠征に行かれたんですね。
 元気でなにより。

7681トンチカン信徒:2018/11/03(土) 18:01:22
>>7680
シャンソンさん

に、誉めて貰えて、光栄です。

> 7680:シャンソン

18/11/03(土) 15:25:50

 トンチンカン信徒さん、遂にクリミアにまで遠征に行かれたんですね。
 元気でなにより。<

===========
志恩さんは、トンチカン信徒、1個人に対しては、<ご免なさい>が無いからね。


あんだけ、総裁だとか、曳馬じいさんとか、トンチカンにナリスマスして言っていながら。


だから、そこだけは、許せないね。


逃げきろとしてるからね。ズルさの塊だね。志恩さんて。

7682トンチカン信徒:2018/11/03(土) 18:05:39
>>7681
兵法36計てあるが、36番が、逃げることなんだとさ。

7683蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:36:17
〜東方教会〜

概要
東方教会(とうほうきょうかい、英語: Eastern Christianity)は、中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(正教会、東方諸教会)の総称。正教会のみを指す場合もある[1][2]。西方教会の対語。
広義の東方教会には以下の諸教会が含まれる[3]。
正教会
ギリシャ正教・東方正教会とも呼ばれる[4]、第7回までの全地公会議を承認する教会[3]。コンスタンディヌーポリ総主教を名誉的なトップとし、グルジア正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会といった、諸々の独立正教会・自治正教会が連合体を形成している[5]。
非カルケドン派
第3回までの全地公会議を承認するものの、カルケドン公会議を否定する教会[3]。アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会、エチオピア正教会、インド正教会等が含まれる。
アッシリア東方教会
第2回までの全地公会議を承認する教会[6]。イラクを中心に分布。近現代以降、米国などに多数の亡命者が移住した[7]。
東方典礼カトリック教会
典礼(奉神礼)形式は正教会や非カルケドン派と同一であるが、ローマ教皇権を認めその傘下に入り、教義をローマ・カトリック教会と等しくする諸教会[3]。
上記諸教会から異端とされるグループ
現在では消滅したバルカン半島のボゴミル派や、ロシアのモロカン派、ドゥホボルなど[3]。
樹形図(概略)[編集]
脚注[編集]
東方教会(デジタル大辞泉)
日本正教会(公式サイト)
東方正教会とアトス(長司祭長屋房夫によるページ)
世界正教会(長司祭長屋房夫によるページ)
Assyrian Church of the East
関連項目[編集]
東西教会の分裂
正教会の教会機構一覧
教派別のキリスト教用語一覧
キリスト教諸教派の一覧
正教会
コンスタンディヌーポリ総主教庁(コンスタンティノープル総主教庁)
グルジア正教会
ロシア正教会
ルーマニア正教会
ブルガリア正教会
ギリシャ正教会
日本ハリストス正教会
東方諸教会
非カルケドン派
アルメニア教会
シリア正教会
コプト正教会
エチオピア正教会
アッシリア東方教会
東方典礼カトリック教会
1. 東方教会(デジタル大辞泉)
2. 日本正教会(公式サイト)
3. "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p168 - p169,
4. 東方正教会とアトス(長司祭長屋房夫によるページ)
5. 世界正教会(長司祭長屋房夫によるページ)
6. Assyrian Church of the East
7. "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p122 - p123,

7684蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:42:30
>>7683
〜正教会〜
概要
キリスト教 > 東方教会 > 正教会 正教会(せいきょうかい、ギリシア語: Ορθ?δοξη Εκκλησ?α、ロシア語: Православие、英語: Orthodox Church)は、ギリシャ正教[9]もしくは東方正教会[10](とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。
日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξ?α" に由来する[9]。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている[11]。
なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある[9]。
例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している[12]。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである[13]。
なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。

7685蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:43:09
>>7684
1.概要
1.1.正教会を指す対象
正教会とは、東方教会のうち、七つの全地公会議を承認し、ふつう、古代総主教庁(コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁)とキノニア(コミュニオン)関係にある諸教会をいう[14]。

7686蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:47:23
>>7685
〜正教会〜

1.概要
1.2.信仰内容の概要
正教会は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世ギリシャ語およびロシア語読み)の十字架刑による死と復活の証人とされる使徒達の信仰と、使徒達から始まった教会のあり方を唯一正しく受け継いでいると自認している。正教会は、神の啓示を信仰の基盤とし、連綿と受け継がれてきた神による啓示に基づく信仰と教えを、聖伝と呼び、聖伝を伝えていくにあたっては、聖神(聖霊)の導きがあるとする[16]。また正教会においては、キリスト教は復活の福音に他ならないとされる[17]。
正教会における聖伝の本質は、教会を形成していく人々の生きた体験の記憶である[18]。聖書・聖師父の著書・全地公会議の規定・奉神礼(祈祷書・イコン・聖歌なども含む)等は個々別々な現れであり、これらの構成要素を集積しても聖伝全体とはならない。なお正教会において聖書は、聖伝の中核であり、使徒らが残した最も公的な啓示と捉えられている[16][19][20]。
正教会においては、信仰は神の存在を認めることにとどまらず、神の慈愛に自らを委ねることであり、行いを伴う信仰が本来の意味における人間の完成を実現し、周囲を明るく照らすものであるとされる。信仰を自分のものとするかしないかは、その人自身の自覚と努力する意志によるとされる[21][22]。
教会に属する全てのものは機密的で神秘的なものとされる。特に聖体機密は「機密の機密」ないし「教会の機密」と呼ばれ、教会生活の中心と理解される[6][7][8]。
詳細は「機密 (正教会)」を参照
正教会が信じている内容を簡単かつ適切な言葉で表していると位置づけられるのが、日本正教会では単に信経(しんけい)と呼ばれるニケヤ・コンスタンチノープル信経である[23]。
「正教はハリストスの復活のいのちそのもの」「いのちは言葉では伝わらないこと」から、正教について言葉で説明し尽くすことは出来ないことが強調される[10]。

〜〜つづく〜〜

7687蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:48:37
>>7686
〜正教会〜

〜つづき、より〜

「復活 (キリスト教)」、「聖伝」、「神の像と肖」、および「共働」も参照
斎(ものいみ)について[編集]

西方教会では、第二バチカン公会議以降、斎の義務がゆるやかになったが、正教会では今でも食物制限を伴う「斎」が教義上重要な位置を保ち、信者の生活の習慣となっている。
斎は主に食物摂取の規定に言及されるが、斎の期間は他の遊興なども控え、行いを慎み、祈りを増やし、学びの機会を積極的に設け、ハリストス・教会のための働きを増すことが勧められている。「断食」という言葉で斎を限定する事は避けられる傾向がある。
斎についてのキリスト教文書の最古の規定は19世紀にコンスタンディヌーポリ総主教庁図書室で発見された1世紀の文書『ディダケー』(十二使徒の教え)である。斎の習慣は旧約時代から継承されたものであり、古代からごく最近に至るまで、東西を問わず守られていた。
斎は祭と表裏一体をなす。大きな祭には必ず厳格な斎がその前に義務付けられる。正教徒の生活は斎と祭によってリズムをつけられているといえる。
斎の種類[編集]
斎の規定は食品を以下のように分類する。


乾酪類:卵およびすべての乳製品
ぶどう酒とオリーブ油
その他の食品
斎は程度に応じてこれらの食品を禁止または許可するものである。 もっとも厳格な斎は、肉、魚、乾酪、酒、オリーブ油を禁食するものである。明示的に禁止されているのはぶどう酒であるが、他の酒類も避けるのが通例である。これに対して、オリーブ油以外を避けなければいけないかどうかは、論者により分かれる。
最も厳格な斎は次の時になされる。
斎解禁時を除く、水曜日と金曜日
降誕祭前日
神現祭前日
大斎・復活祭前、赦罪の主日の晩課後より復活祭までの期間の平日。西方教会の四旬節に相当。ただし生神女福音祭のときを除く。
これに対して、祭および他の定められた時節には、斎が解かれる。
光明週間(復活大祭につづく週) この期間はむしろ斎が「禁止」されている。
税吏とファリセイの主日につづく週(不禁食週間)
降誕祭後の一定期間
また大斎中の主日には酒とオリーブ油、生神女福音祭が大斎期間にある場合には加えて魚が許される。
なお一般信徒の間では斎の際にも魚食は許される事が多い。上記の斎規定はあくまで標準的な修道院のものであり、一般信徒に対してはこれらに比べて比較的緩やかな斎が勧められるのが常である。しかしどの程度の斎・食物規定が信徒に勧められるかは地域・教区によって差があり、一概には言えない。
斎の期間[編集]
もっとも期間の長い斎は大斎である。土日を除く8週間、合計四十日が最も厳しい斎に充てられる。詳細は大斎の項を参照。
これに対して短い斎は、水・金曜日および定められた祭の前の一日の斎である。領聖前の禁食を斎とみなすならば、半日に満たない斎期間もあるといえる。
これらの中間に
使徒の斎(聖神降誕祭の次の主日からペトル・パウェル祭まで)
生神女就寝祭の斎(生神女就寝祭まで)
フィリップの斎(使徒フィリップの記憶日から降誕祭まで)
などの比較的長期にわたる斎がある。

7688蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:53:03
>>7687
〜正教会〜

1.概要
1.3.沿革・分布
成立期において地中海の沿岸東半分の地域を主な基盤とし、東ローマ帝国の国教として発展したことから「東方正教会」の名もあるが、今日ではギリシャ、東欧において優勢であるのみならず、世界の大陸すべてに信徒が分布する[24]。また、中東にも初代教会から継承される少なくない正教徒のコミュニティが存在する。
他教会(教派)との関係については、「正教会と他の諸教会が『分裂』した」のではなく、「正教会から他の諸教会が離れて行った」と正教会は捉えている[10](西方教会には逆の観方ないし別の観方がある[25])[26]。
20世紀に、正教会が盛んな地域である東欧に成立した共産主義政権の弾圧を受けて大きな人的・物的・精神的被害を受けたが、共産主義政権の崩壊後に各地の正教会は復興しつつある。
日本には亜使徒の称号で後に列聖されたニコライによりロシア正教会から伝道され、日本正教会が成立している。日本正教会では、イエス・キリストを中世ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと転写したり、"?γιο Πνε?μα"(アギオ・プネヴマ、聖霊)を聖神と訳したりするなど、用語上、日本の慣例的な表記と異なる点がある。以下、この記事では日本ハリストス正教会で使われている用語を断りなく用いる場合がある。こうした用語については日本正教会の聖書・祈祷書等にみられる独自の翻訳・用語体系を参照。
「正教会の歴史」を参照

7689蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:53:50
>>7688
〜正教会〜

2.教会
2.1.全世界の組織
基本構成[編集]

正教会は上記4つの古代総主教庁(コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁)のほか、独立正教会、自治正教会の数々で構成されている[14]。
基本的に総主教達は平等である[27]。
各独立正教会・自治正教会の首座主教(総主教・府主教・大主教のいずれかがその任にあたる)は「同格者中の第一人者」として、他の主教達に比べて若干の特権を持って居る。しかし首座主教といえども、他の主教達・主教会議の同意が無ければ独断では行動できない(聖使徒規則34条)[28]。
独立教会・自治教会[編集]

各独立教会・各自治教会には統括する首座主教が居るが、それぞれの教会組織・首座主教に歴史的な尊敬の度合いの違いはあっても権威の優劣は存在しない。カトリック教会におけるローマ教皇をトップとするような組織構成をとらず、各地域の独立教会・自治教会が、正教信仰と使徒時代以来の教会の姿を分かち合って緩やかに結びつき、正教会としての一致を保っている[10]。
各教会が区別されながら一つに一致しているのは、「区別と一致」である至聖三者(三位一体の神)の姿が教会に映し出されているものと理解される[29]。こうした教会の現状は、歴史上、教会共同体が拡大するにつれ、母体となる母教会から子教会が生まれ出るというプロセスを経て形成された。「母教会」「子教会」「姉妹教会」という表現が使われる[30]。
独立正教会や自治正教会の中には、正教会に複数ある総主教庁からの承認が一部のみにとどまっているものがある。たとえばエストニア使徒正教会はコンスタンディヌーポリ総主教庁からは自治正教会として承認されているが、モスクワ総主教庁からは自治正教会としては承認を得られていない[31]。逆に日本正教会はモスクワ総主教庁からは自治正教会として承認されているが、コンスタンディヌーポリ総主教庁からは自治正教会としては承認を得られていない[14]。ただしこれらの場合、論点になるのは当該教会の地位についてであって、お互いに正教会としては承認し合い、交流も行われている(例:日本正教会の他正教会との交流)。
また20世紀末から、アンティオキア総主教庁、およびロシア正教会に、自主管理教会という教会組織の種別が設けられている。
これらのほかに、マケドニア正教会、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁、モンテネグロ正教会など、上記の正教会の組織からは承認されていない教会組織がある。これらの教会との交流をどのようにするかについては、それぞれの正教会組織において個別に判断されており、全世界の正教会に共通する統一見解は無い。
詳細は「正教会の教会機構一覧」を参照
総主教[編集]

コンスタンディヌーポリ総主教は全地総主教とのタイトルを保持し、「対等な者達(主教達)における第一人者」(First among Equals)と呼ばれ敬意を表されるが[32]、総主教達は基本的に全て平等である[27][4]。
正教を国教とする国家[編集]

正教を国教とする国家としてはギリシャ(ギリシャ正教会)、フィンランド(フィンランド正教会)、キプロス(キプロス正教会)が挙げられる。ロシアにおいてはロシア正教会が最大多数を占めるが、国教とは定められていない[33][34]。

7690蒼天の實相:2018/11/03(土) 19:58:43
>>7689
〜正教会〜

2.教会
2.2.名称・別称
東方正教会[編集]

東方正教会という別称は、西方教会(ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントほか)に対置される語である。両者は11世紀頃に分立した。東方教会という名称は多く西方で使われる語であり、正教会自身は、たんに「正教」ないし「正教会」の語を好んで用いる[35]。これは「正教」が「正しい教え」であるため、それ以上の限定を必要としないという発想に基づいているほか、現在は正教会の伝道範囲が東方に限定されていないという現状も反映されている。また自称としては「正教徒」が多く使われる。
ギリシャ正教[編集]

英語ではギリシャで発祥した教会という意味で Greek Orthodox Church ともいい、これにあわせて日本では正教会を指してギリシャ正教と呼ぶことも多い。これはギリシア語圏に正教会の中心があったことから誤用とはいいがたく、日本ハリストス正教会関係者のなかにも、ギリシャ正教の語を用いる者がいる[36]。なおギリシャ正教会と呼ぶこともあるが、これは近代に設置された、ギリシャ共和国を主として管轄するギリシャ正教会(ギリシャ共和国の正教会)(Church of Greece) を指す名称でもある。
「ギリシャ正教」も参照
その他[編集]

「ロシア正教」が教派名として使われる事がままあるがこれは誤りである。「ロシア正教」は教派名ではなく組織名であり、その教義は他の正教会組織であるグルジア正教会、ブルガリア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会などと完全に同様である。また、グルジア正教会は5世紀、ブルガリア正教会は10世紀、セルビア正教会は13世紀に独立正教会として承認されているが(ただしいずれも後代、一時的に地位喪失の期間があった)、ロシア正教会は独立正教会としての地位を母教会から承認されたのは16世紀に入ってからであり、相対的には新しい組織であるという点に鑑みても、「ロシア正教」は教派の別名として用いるのは適切でない[13]。
正教会と頻繁に比較される別教派としてローマ・カトリック教会があるが、「オーソドクス」(正しい讃美)と「カトリック」(普遍)は元来、対立概念ではなく、違う文脈から教会の性質を述べるものである(後述)。正教会もまた信経にある通りに、「一つの聖にして『公なる』(カトリケー)使徒の教会」であることを任じており、教会の普遍性(カトリコス)を深く自覚しているが、自教会の名称としては「オーソドクス」を名乗っている[37]。
「ロシア正教会」も参照

7691蒼天の實相:2018/11/03(土) 20:15:42
>>7690
〜正教会〜

2.教会
2.3.教会とは何か(教会論・聖職者)
基本[編集]

正教会における教会論(教会とは何か)においては、教会はハリストス(キリスト)の体であり、至聖三者(三位一体の神)の像であると理解され、教会の首(かしら)はハリストスであるとされる[4]。
「聖にして公なる使徒の教会」[編集]

正教会は信経において「聖にして公なる使徒の教会」とされる[38]。
教会は聖なるハリストスの体であり、至聖三者(三位一体の神)の像であり、聖なる神との交わりの中にあるため、聖であると理解される[38]。
「公なる」(カトリック、ギリシア語: καθολικ?? カソリコス[39], 英語: Catholic)については、地理的な広がりといった外的なものとしてのみ理解されるべきではなく(地理的に拡大する以前から教会は「公なる」ものであったと理解される[38])、質的な面からも理解されなければならない[40]。「公なる教会」は正教において、充分であり、完全であり、全てを包括し、欠落が無いことを意味する[38]。
「カトリック (概念)#正教会におけるカトリック(普遍)」を参照
「使徒の」については、正教会が自教会を、使徒達の信仰と、使徒達から始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできた教会であるとすることを意味する[10]。また、「ハリストス(キリスト)の体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体」としても自教会を捉え、ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、ハリストスと使徒達によって行われた礼拝のかたちと霊性が保たれているとする[10][30]。
聖体礼儀[編集]

パンとブドウ酒をハリストス(キリスト)の体と血として食べる感謝の祭儀(聖体礼儀)は、正教会においてキリスト教の伝統の神髄とされる。教会共同体の中心にはこの感謝の祭儀(聖体礼儀)があるとし[30]、この「聖体血を食べる」ことを通じて、信者がハリストス・神と一つとなり、互いが一つとなり、ハリストスが集めた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられるとする[10]。
神品(聖職者)[編集]

正教会における聖職者は神品(しんぴん)という[41]。
教会という共同体が拡大するにつれて使徒達が自身に代わるものとして共同体の中心に置いた者は主教であり、現代の正教会にみられる主教はこれの継承者であり、主教達のまとめ役として総主教、府主教、大主教がいる[30][42]。
主教の輔佐役として司祭・輔祭がいる。司祭は主教区に属する管轄区において奉神礼を司祷し、説教、相談等の職務にあたる。輔祭は聖体礼儀や教会の他の職務に際し、また他の教会における働きに際し、主教・司祭の輔佐を行う。輔祭、司祭、主教の順に叙聖されていくが、司祭と輔祭は輔祭叙聖前であれば妻帯できる(主教は修道士から選ばれるため独身である)[43]。
詳細は「神品 (正教会の聖職)」および「教衆」を参照

7692蒼天の實相:2018/11/03(土) 20:17:04
>>7691
〜正教会〜

3.聖伝
正教会において、聖伝(ギリシア語: Ιερ? Παρ?δοση[44], ロシア語: Священное Предание, ルーマニア語: Sf?nta Tradi?ie[45], 英語: Holy Tradition)とは神の民(すなわち正教会、正教徒)の生活そのものである[46][47]。聖イウスチン・ポポヴィッチは、聖伝について「ハリストス(キリスト)にあっての生活=至聖三者(三位一体の神)にあっての生活、ハリストスにあっての成長=至聖三者にあっての成長」とまとめている[48]。
聖伝は継続し[46]、教会が聖神(せいしん、聖霊)の導きを受けて生き続けるゆえに、成長し、発展する[16]。セルゲイ・ブルガーコフによれば、「聖伝は今も以前より小さくなることなく恒に続き、私たちは聖伝の中に生き、聖伝を実行する。」[47]。
聖伝の内容には、具体的には聖書、聖使徒・衆聖人・致命者・聖師父達によるの著述や教え及び行動、奉神礼、初代教会の伝承、全地公会議の確認事項などが挙げられるが[49]、聖伝は全てがこれらの具体的な諸事物に還元できるものではない。聖伝は単なる伝達事項や情報を超えている。聖伝は神について私たちに教え神の知識を教えるが、実際に聖伝の生活に入るとはどのような事なのかを理解するのには、神との交わり(キノニア)の直接的体験が必要であるとされる[50]。
聖神(せいしん・聖霊)によって与えられるものは、楽園の更新、天国への上昇、子たる身分の更新、神をあえて自分たちの父と呼ぶこと、ハリストス(キリスト)の恩寵にあずかる者となり、光の子と呼ばれ、永遠の光栄にあずかること、一口に言って、この世においても、また来るべき世においても、ことごとく「満ち溢れる祝福」(ロマ書15:29)の中にあること…
??聖大ワシリイ(バシレイオス)、「聖大バシレイオスの『聖霊論』」山村敬訳、p109(南窓社 1996年6月30日発行 )より、一部を正教会での用語に換えて引用
聖大ワシリイ(バシレイオス)による上記の記述は、教会の聖伝について真の「実存的な」面を示している。正教会において聖伝は、固定された教義でもなければ、画一的な奉神礼の実践でもない。確かに聖伝には教理や奉神礼の定式が含まれるが、それらを超えて教会の日常生活を通して体験される、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の恩寵と、神父(かみちち・父なる神)の仁愛、聖神(せいしん・聖霊)の交親(交わり・キノニア)(コリンフ後書13:13)を通しての神の民の変容があるとされる[51]。
教会にある全てのものが聖伝とされるわけではない。神の国とは本質的には関係がなく、一部の地域でのみ習慣的に行われているものもある。[16]教会の中にあるものが聖伝かそうでないかは、「使徒時代に遡るものか(聖書に基礎づけられているか)[16][44]」「全ての教会に受け入れられ聖師父によって教えられているか[44]」などによって判断される。なお、全ての聖師父による著述が同等の権威を有するわけではなく、特に重要と判断されるものとそうでないものとがある[52]。

7693蒼天の實相:2018/11/03(土) 20:19:11
>>7692
〜正教会〜

3.聖伝
正教会において、聖伝(ギリシア語: Ιερ? Παρ?δοση[44], ロシア語: Священное Предание, ルーマニア語: Sf?nta Tradi?ie[45], 英語: Holy Tradition)とは神の民(すなわち正教会、正教徒)の生活そのものである[46][47]。聖イウスチン・ポポヴィッチは、聖伝について「ハリストス(キリスト)にあっての生活=至聖三者(三位一体の神)にあっての生活、ハリストスにあっての成長=至聖三者にあっての成長」とまとめている[48]。
聖伝は継続し[46]、教会が聖神(せいしん、聖霊)の導きを受けて生き続けるゆえに、成長し、発展する[16]。セルゲイ・ブルガーコフによれば、「聖伝は今も以前より小さくなることなく恒に続き、私たちは聖伝の中に生き、聖伝を実行する。」[47]。
聖伝の内容には、具体的には聖書、聖使徒・衆聖人・致命者・聖師父達によるの著述や教え及び行動、奉神礼、初代教会の伝承、全地公会議の確認事項などが挙げられるが[49]、聖伝は全てがこれらの具体的な諸事物に還元できるものではない。聖伝は単なる伝達事項や情報を超えている。聖伝は神について私たちに教え神の知識を教えるが、実際に聖伝の生活に入るとはどのような事なのかを理解するのには、神との交わり(キノニア)の直接的体験が必要であるとされる[50]。
聖神(せいしん・聖霊)によって与えられるものは、楽園の更新、天国への上昇、子たる身分の更新、神をあえて自分たちの父と呼ぶこと、ハリストス(キリスト)の恩寵にあずかる者となり、光の子と呼ばれ、永遠の光栄にあずかること、一口に言って、この世においても、また来るべき世においても、ことごとく「満ち溢れる祝福」(ロマ書15:29)の中にあること…
??聖大ワシリイ(バシレイオス)、「聖大バシレイオスの『聖霊論』」山村敬訳、p109(南窓社 1996年6月30日発行 )より、一部を正教会での用語に換えて引用
聖大ワシリイ(バシレイオス)による上記の記述は、教会の聖伝について真の「実存的な」面を示している。正教会において聖伝は、固定された教義でもなければ、画一的な奉神礼の実践でもない。確かに聖伝には教理や奉神礼の定式が含まれるが、それらを超えて教会の日常生活を通して体験される、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の恩寵と、神父(かみちち・父なる神)の仁愛、聖神(せいしん・聖霊)の交親(交わり・キノニア)(コリンフ後書13:13)を通しての神の民の変容があるとされる[51]。
教会にある全てのものが聖伝とされるわけではない。神の国とは本質的には関係がなく、一部の地域でのみ習慣的に行われているものもある。[16]教会の中にあるものが聖伝かそうでないかは、「使徒時代に遡るものか(聖書に基礎づけられているか)[16][44]」「全ての教会に受け入れられ聖師父によって教えられているか[44]」などによって判断される。なお、全ての聖師父による著述が同等の権威を有するわけではなく、特に重要と判断されるものとそうでないものとがある[52]。

7694蒼天の實相:2018/11/03(土) 20:30:50
〜キリストの真理〜

正教会の教えの中で、キリストの真理に、ついて、生長の家の一般解釈より、一歩先じた、ことが言われた。

>>「正教はハリストスの復活のいのちそのもの」「いのちは言葉では伝わらないこと」から、正教について言葉で説明し尽くすことは出来ないことが強調される[10]。<<


良く、公案禅とかやると、どこぞの、老禅師が、言わる、説教に、似てござる。

キリストの真理も、言葉では、伝わらないそうだが、言葉は神と、聖書にある。

真に、宗教とは、矛盾だらけだ。

7695蒼天の實相:2018/11/04(日) 09:05:07
〜神の食事(キリスト教)
斎(いもみ)、聖体儀礼

「復活 (キリスト教)」、「聖伝」、「神の像と肖」、および「共働」も参照
斎(ものいみ)について[編集]

西方教会では、第二バチカン公会議以降、斎の義務がゆるやかになったが、正教会では今でも食物制限を伴う「斎」が教義上重要な位置を保ち、信者の生活の習慣となっている。
斎は主に食物摂取の規定に言及されるが、斎の期間は他の遊興なども控え、行いを慎み、祈りを増やし、学びの機会を積極的に設け、ハリストス・教会のための働きを増すことが勧められている。「断食」という言葉で斎を限定する事は避けられる傾向がある。
斎についてのキリスト教文書の最古の規定は19世紀にコンスタンディヌーポリ総主教庁図書室で発見された1世紀の文書『ディダケー』(十二使徒の教え)である。斎の習慣は旧約時代から継承されたものであり、古代からごく最近に至るまで、東西を問わず守られていた。
斎は祭と表裏一体をなす。大きな祭には必ず厳格な斎がその前に義務付けられる。正教徒の生活は斎と祭によってリズムをつけられているといえる。
斎の種類[編集]
斎の規定は食品を以下のように分類する。


乾酪類:卵およびすべての乳製品
ぶどう酒とオリーブ油
その他の食品
斎は程度に応じてこれらの食品を禁止または許可するものである。 もっとも厳格な斎は、肉、魚、乾酪、酒、オリーブ油を禁食するものである。明示的に禁止されているのはぶどう酒であるが、他の酒類も避けるのが通例である。これに対して、オリーブ油以外を避けなければいけないかどうかは、論者により分かれる。
最も厳格な斎は次の時になされる。
斎解禁時を除く、水曜日と金曜日
降誕祭前日
神現祭前日
大斎・復活祭前、赦罪の主日の晩課後より復活祭までの期間の平日。西方教会の四旬節に相当。ただし生神女福音祭のときを除く。
これに対して、祭および他の定められた時節には、斎が解かれる。
光明週間(復活大祭につづく週) この期間はむしろ斎が「禁止」されている。
税吏とファリセイの主日につづく週(不禁食週間)
降誕祭後の一定期間
また大斎中の主日には酒とオリーブ油、生神女福音祭が大斎期間にある場合には加えて魚が許される。
なお一般信徒の間では斎の際にも魚食は許される事が多い。上記の斎規定はあくまで標準的な修道院のものであり、一般信徒に対してはこれらに比べて比較的緩やかな斎が勧められるのが常である。しかしどの程度の斎・食物規定が信徒に勧められるかは地域・教区によって差があり、一概には言えない。
斎の期間[編集]
もっとも期間の長い斎は大斎である。土日を除く8週間、合計四十日が最も厳しい斎に充てられる。詳細は大斎の項を参照。
これに対して短い斎は、水・金曜日および定められた祭の前の一日の斎である。領聖前の禁食を斎とみなすならば、半日に満たない斎期間もあるといえる。
これらの中間に
使徒の斎(聖神降誕祭の次の主日からペトル・パウェル祭まで)
生神女就寝祭の斎(生神女就寝祭まで)
フィリップの斎(使徒フィリップの記憶日から降誕祭まで)
などの比較的長期にわたる斎がある。


聖体礼儀[編集]

パンとブドウ酒をハリストス(キリスト)の体と血として食べる感謝の祭儀(聖体礼儀)は、正教会においてキリスト教の伝統の神髄とされる。教会共同体の中心にはこの感謝の祭儀(聖体礼儀)があるとし[30]、この「聖体血を食べる」ことを通じて、信者がハリストス・神と一つとなり、互いが一つとなり、ハリストスが集めた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられるとする[10]

7696理数系観測隊:2018/11/04(日) 09:53:44

 東野ふしみちゃんは、今度は「正教会」について
 お勉強中です。

7697蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:13:23
〜三種の浄肉(仏教)〜

概要
三種の浄肉(さんしゅのじょうにく)とは、初期仏教の僧が托鉢の際、自らが戒律中五戒の不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいというもの。
四分律より[1]その条件は、次のとおり。
訳して、
自分に供するために殺したと聞いていない
自分に供するために殺したと知らない 
(見聞知)
簡単な例をあげると、こういう事になる。夕刻、托鉢の際に僧侶が村を訪れた。ある家では鶏肉のカレーを作っていた。このさい、
恐らく僧侶がこの村を通りかかるであろうから、家族の数より余分にカレーを作り、布施する際、僧侶に「せっかく鶏を潰すのだからお坊さんの分も作りました」と告白した場合――× 口にしてはならない。「自分に供するために殺したと聞いていない」ことに反する。
見当や分量の違いなどからカレーが余ってしまい、たまたま通りかかった僧侶に布施をした場合――○ 
比丘・比丘尼とは当時の言語で「乞食」という意味であり、托鉢は他人の余りものを物乞いして食するという意味であったからである。あくまでも他人の食事の余りものを食べているのだからその肉を食べようとも間接殺にはならない。また他人から物乞いして食べ物を享受している立場にありながら、食事に好き嫌いを示すのはよろしくないという理由である。比丘・比丘尼は托鉢によって日々の糧を得るが、食物を布施する在家の者の皆が食事を選り好み出来る身分の者ばかりではなかった。獣の肉しか提供できない者からの布施を拒むことは、善行を積む機会を奪うことになる。そのため托鉢僧は、布施された食物は選り好みせず、ありがたく受け取るということである。
実際、托鉢で受け取ったものはすべて食さなければならないとされている。一例としてハンセン病を患うものから托鉢を受けたときその人の指の肉がほげ落ちた場合にその人肉を食したとの記録が教典に存在する。ただし摩訶僧祇律や四分律など各部派仏教の律では十種の不浄肉、あるいは十種肉禁(人間、アジアゾウ、馬、犬、ヘビ、インドライオン、ベンガルトラ、ヒョウ、クマ、シマハイエナ)として三種の浄肉ではなく食べてはならないものがあった。これらの動物の肉を食することによってその匂いが体に移り、これらの動物から身の危険にさらされるからであるとされている。このように仏典には一見矛盾する記述が多く見られる。
大乗仏教では後に中国で大般涅槃経などにより肉食そのものが禁止された。これは大寺院が発展し、在家信者が僧に食事を特別に用意することが広まったため、肉食と間接殺の関係が強まったからではないかといわれている。
現代では、日本仏教において明治政府の命令以来、僧侶の肉食がゆるされている。(1872年(明治5年)「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という御触れが出された)

7698蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:30:09
〜ラマダン(イスラム教)〜

1.概要
「ラマダーン」を、断食のことと誤って捉える人も少なくないが、ラマダーンとは、あくまでもヒジュラ暦における月の名である。ただし、ラマダーンという言葉が断食を今日では意味することも増えてきている。
イスラム暦で9月を意味するラマダーンに、コーランが預言者ムハンマドに啓示され、イスラム教徒にとって、ラマダンは「聖なる月」となった。
この月において、ムスリムは日の出から日没にかけて、一切の飲食を断つことにより、空腹や自己犠牲を経験し、飢えた人や平等への共感を育むことを重視する。また共に苦しい体験を分かち合うことで、ムスリム同士の連帯感は強まり、多くの寄付や施しが行われる。
断食中は、飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などの忌避されるべきことや、喫煙や性交渉などの欲も断つことにより、自身を清めてイスラム教の信仰心を強める。

7699蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:31:03
>>7698
〜ラマダン(イスラム教)〜

2.名称
ペルシア語など、非アラビア語圏における発音に基づけば、ラマザーンないしラマザンとも書ける。ラマダーンのダの音?・(現代標準アラビア語音d?)はダードと呼ばれるが、これは他の言語において、近似の難しい音韻である。古典アラビア語の段階(少なくともシーバワイヒが記述・規範両面にまたがる文法を書いたころは)には、ザとダとラの混じったような咽頭化音であった(有声咽頭化側面破裂〜破擦〜摩擦音)。
そのため、ペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語など西アジア、南アジア、中央アジアの諸言語のように、比較的古い時代に、アラビア語から借用した言語では、ダードをzの音で取り入れる例が多いため、「ラマザン」「ラマザーン」となる言語が多い。
インドネシア語など東南アジアの諸言語のように比較的新しい時代にアラビア語から借用した言語では、ダードをdの音で取り入れて「ラマダン」となる例が多い。スワヒリ語ではダードを摩擦子音dh(?)で取り入れている語が多く、ラマダーンはramadhani(ラマザニ)と呼ばれている。ハウサ語では、dとlのそれぞれで取り入れた語形が共存する。それぞれ古典アラビア語や現代標準アラビア語の発音を各言語なりに借用した結果である。

7700蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:31:42
>>7699
〜ラマダン〜

3.期間
イスラム暦は、純粋な太陰暦で閏月による補正を行わないため、太陽暦で毎年11日ほど早まり、およそ33年で季節が一巡する。そのため「ムスリムは、同じ季節のラマダーンを人生で2度経験する」と言われる。
ラマダーン月の開始と終了は、長老らによる新月の観測によって行われる。雲などで、新月が確認できなかった場合は1日ずれる。夏に白夜になる北極圏や南極圏の極地地方にあっては、近隣国の日の出・日没時間に合わせるなどの調整も図られる。
ラマダーン中には、世界中のイスラム教徒が、同じ試練を共有することから、ラマダーンは、ある種の神聖さを持つ時期であるとみなされている。
ラマダーンの期間中は、????? ????・(Ramadan Kareem、ラマダーン・カリーム。「恵み多い月ラマダーンおめでとう」)という挨拶が使われる。

7701蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:32:28
>>7700
〜ラマダン〜

3.期間
3.1.西暦対照表
以下は、2014年までのラマダーン期間と、2015年以降のラマダーンの予定日である[1]。西暦年、イスラム暦年、西暦開始日、西暦最終日の順で示す。


4.断食
断食といっても、1ヶ月間という期間を完全に絶食するわけではなく、日没から日の出までの間(=夕方以降から翌未明まで)に、一日分の食事を摂る。この食事は普段よりも水分を多くした大麦粥であったり、ヤギのミルクを飲んだりする。
旅行者や重労働者、妊婦・産婦・病人、乳幼児、老人、精神的に不安定な人など合理的な事情のある場合は、断食を免除されるなど、ひと口に「断食」と言っても、その適用範囲にはある程度の柔軟性と幅を持つ点にも注意が必要である。また、免除される者にも、後で断食をやり直す必要のある者(旅行者や妊婦、生理中の者など)とやり直す必要の無い者(高齢者や乳幼児、回復する見込みの無い重病人など)がある。
断食をするかどうかは、原則として宗教的モラルの問題である。旅行者は断食を免除されるというのを拡大解釈して、イスラム教徒の富豪の一部には、ラマダーンに旅行に出かけ、断食逃れと呼ばれるようなことをする者もいる(ただし、その場合別の日に断食をやり直さなければならない)。また、基本的に異教徒には強制されない。
断食は、ヒジュラの道中の苦難を追体験するために行われるものである。したがって、飲食物の摂取量を減らすことや、苦痛を得ること自体が目的ではない。あくまで宗教的な試練として課される。また、食べ物に対する有難みを感じさせるためとも言われている。
日没になれば、すぐに食事を摂り、日が昇るぎりぎりまで食事を摂っている事が良いとされ、日没後も念のために、しばらく飲食を控えたり、日が昇るはるかに前から飲食を止めたりする事は、ふさわしくないとされている。
苦しみを和らげるために、あらゆる方法を取ることは全く問題がない。例えば、仕事の無い日は、日中は礼拝をする時などを除いて、寝ていてもかまわない。日中の空腹を和らげるために、日の出前に多めに食事を取っても全く問題はなく、日中体内の水分が失われないように、対策を採ることも全く禁じられていない。
また、一年を通して断食をすることは完全に禁止され、昼夜を通して断食することも禁じられている(ただし、預言者ムーサー(モーセ)やイーサー(イエス)は、例外的に昼夜を通して断食を行ったことがあるとされている)。慣例的に、ラマダーンの前日は、断食を行わないこととなっている。
断食の成立には、意図が大きくかかわっている。例えば、断食をしているのを忘れうっかり何かを飲み食いしてしまっても、断食は無効にはならない。一方、例え飲食を行っていなくても、断食をしていると言う意図がなければ、それは無効になるとされている。例えば、あまりの苦しさに断食をやめ、飲食物を探したが、日没まで見つからなかったとしても、それは断食を行ったことにはならない。
むしろラマダーン中は、日が落ちている間に食い溜めをするため(そのために日が出ていない時刻に人を起こす者が巡回していることさえある)、夜食が盛大になり、通常より食糧品の売れ行きが良くなったり、肥満になる人が多くなるといわれる。
断食期間中に禁止されている行為は、飲食・喫煙・性行為・投薬(ただし健康上支障をきたす者は、断食が免除されるので、投薬もやむをえない)、故意に物を吐く事などである。唾を飲み込む事や、うがい、歯磨き、入浴、昼寝などは許されている(イスラーム文化センター 断食ガイド他、参照)。
日没後も、イスラームで禁止されている物は言うに及ばないが、禁止か否か明確でないような物を食べることも避けるべきだとされている。なお、イスラーム過激派の中には、ラマダーン中、支配地域の電気を止めるなど、市民生活に重大な影響を与える措置を取る場合もある[2]。
ラマダーン明けの祭りは『イド・アル=フィトル』と呼ばれ、盛大なものである。

7702蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:40:04
>>7701
〜ラマダン〜

5.非イスラム教徒にとってのラマダーン
イスラム教徒が多数派となっている国家や地域において、非ムスリムも外での飲食などで、自粛が求められる場合もある(ただし、ムスリムが断食によって得られる利益は、非ムスリムが断食を行っても一切無いとされている)。飲食店が営業を控えるなどの影響が出てくる。酒が入手できた地域でも、ラマダーン期間は入手が困難になることがよくある。
また、イスラム教を侮辱したととられかねない言動は、なおさら慎むことを要求される。ラマダーンでの断食を実行しないムスリムも最近は増えているものの、ムスリムと思われる人たちとの共同作業において、ラマダーンについての配慮が求められてくる。ラマダーン中に、ムスリムが多く居るイスラム国家に滞在するときは、注意が必要との指摘がある。
株式相場などでオイルマネーの影響を考えると、ラマダーン期間は、少し低調の方に動くとされている。また、イスラム勢力が関与する地域紛争においては、ラマダーン期間の戦闘行為が自粛される傾向にあったが、最近のアフガニスタンのタリバーン、シリアのISILなどは、ラマダーン期間にもかかわらず、積極的に攻勢に出ることもある。
断食が行えない高齢の者は、断食が免除されるため、イスラム教徒が多数派の国においては、当然高齢者よりも若年者のほうが積極的に断食を行うのが普通である。ところが、ムスリムが少数派の国家では、社会的制約の多い若年者よりも、退職して社会的制約が少ない高齢者のほうが、むしろ積極的に断食を行っている場合がある。つまり高齢者と若年者の立場が逆になっている。イスラム国家なら、もう断食が免除されるような超高齢者が、非イスラム国家では普通に断食を行っていることも珍しい事ではない。
厳格なイスラム法を採用しているサウジアラビアでは、ラマダーンの期間中、非ムスリムの外国人が公共の場で飲食や喫煙をした場合、国外追放すると発表している[3]。
一方、無宗教の立場を取る中華人民共和国(社会主義国)においては、ラマダーンの断食は規制の対象である[4]。

7703蒼天の實相:2018/11/04(日) 11:40:49
>>7702
〜ラマダン〜

6.ラマダーンとスポーツ
2012年のロンドンオリンピックと2014 FIFAワールドカップがそれぞれ開催期間とラマダーンが、たまたま同じ期間に重なった(建前上、ラマダーンは長老の確認をもって始まるため事前に確定できないが、月の運行によって決まることから、ラマダーンがいつ頃になるかは事前に把握できる)。この二つの大会がラマダーンと重なることは当初からわかっており、イスラム圏の国は日程のスライドを要望したが、その要望は聞き入れられなかった。
また、2014 FIFAワールドカップでは、イスラム圏の国の選手が、ボトル状の容器に口をつけていた。
日本の大相撲では、エジプト生まれでイスラム世界の出身者では初の関取である大砂嵐が注目を集めた。敬虔なムスリムである大砂嵐は、本場所の開催期間とラマダーンの期間が重なった場合、日中の断食を励行していた。しかし2018年に不祥事で引退を余儀なくされている。


7.ラマダーンとAKB48
前述のとおりイスラム世界では、ヒジュラ暦の第10月(シャッワール)の頭は、断食が終わったことを祝う宗教行事(イド・アル=フィトル)を行う時期とされている。特にインドネシアではこれを「レバラン」と呼んで、国の方針により1週間ほど宗教祭日としている。
日本のアイドルグループ・AKB48は2018年の「世界選抜総選挙」の被選挙権を海外姉妹グループの非日本人メンバーにも開放したが、インドネシアの姉妹グループであるJKT48は「選挙の期間がラマダーンやレバランと重なり、メンバーが公正に立候補の判断をすることが難しい」として最終的に集団ボイコットすることを決め、AKB48サイドに認めさせた[5]。
またJKT48は、通常の活動においても宗教上の配慮を行っており、ラマダーンと重なる時期は劇場公演を控え、代わりにチャリティーイベントなどを行っている[6]。2012年にAKB48からJKT48に移籍した仲川遥香は2014年、現地の文化を己が身で理解するために、「異教徒」でありながら断食に参加した[7]。現地では後に仲川が本気でインドネシアのことを理解しようとしたとして好意的に受け止められ、インドネシアでの人気獲得に繋がった。

7704トンチカン信徒:2018/11/04(日) 16:28:30
日の丸掲示板に、『六章経』に、『大調和の神示』が、書いてある事を知って(老婆:志恩さんの情報でしょ<推測>)


争訟をお越したんでしすね。ハンネ=事情通の話も、今市市、都合悪い話変わってるし。


だって、『六章経』は、偽経では無いしにね?

冒頭の詩も、雅春先生の詩だしね(笑)。

無茶苦茶な、事言ってますね、ハンネ=事情通も(笑)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

だぶん、あの話内容て、シオン観測の推測値では、話は真逆ではないかと?思われます。


あくまで、空想、推測値ですから、わかりません。

7705トンチカン信徒:2018/11/04(日) 19:32:32
破邪さんの掲示版を読んだら、実に、面白コメントが、書いてあった。

吉本より、笑える。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓

そう捉えてはじめて、今の現状のオカシサが見えてくるし、また合点もゆくのです。

そもそも、聖経「甘露の法雨」を〝補完〟しなければならないとして、新たに〝讃歌〟本をつくりあげたこと自体、明らかなる教義の改竄ではありませんか。

それは、時代に応じて説き方を変えただけだという次元を遙かに超えて、教えそのものを冒涜する以外のなにものでもありません。

そして、現に、教義の改竄が行われているが故に、心ある信徒が悩み、苦しんでいるではありませんか。

説き方が変わっただけであれば、どうして、ここまで苦しむ信徒が出てくるのですか。

7706トンチカン信徒:2018/11/04(日) 19:57:32
>>7705
特に、ここが、笑えるた。

先月だたか?

六章経を売店て、まとめ買い、された、御夫人を見た。

救われないて?

破邪さんの頭脳の中世界の出来事の様に、思う。
では、では(笑)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
説き方が変わっただけであれば、どうして、ここまで苦しむ信徒が出てくるのですか。

7707トンチカン信徒:2018/11/04(日) 20:00:01
>>7706
トキさんに、隔離病棟された、トンチカン信徒。

シャベルと笑われるね(笑)

7708シャンソン:2018/11/04(日) 21:08:21

 トンチンカン信徒さんもラマダンしたら?

7709トンチカン信徒:2018/11/04(日) 22:33:31
>>7708
シャンソンさんへ

毎日してるよ。

志恩さんへのラマダン。

>> 7708:シャンソン

18/11/04(日) 21:08:21

 トンチンカン信徒さんもラマダンしたら?<<

7710トンチカン信徒:2018/11/04(日) 22:41:47
>>7708
シャンソンさん聞とくれよ?

志恩さんは、スマホと自宅パソコンで、オレオレ詐欺式の、ネット式勧誘伝道をしてるんだよ!

オレオレ詐欺きおつけてとか、誤魔化しコメントしてさ〜。

本当は、神奈川県民センターの仲間とスマホで、在庫の新生命の實相をとかを販売してるんだよ。

六章経とかに、イチャモンつけてる、奴らも、志恩さんの神奈川県民センター時代の仲間だね。


在庫が売れないんだね。
前、山ちゃんさん愚痴てよね。

7711シオン観測隊:2018/11/05(月) 01:36:26
〜シオンな出来事〜

ハト大臣と水野誠一(慶應大関係で、新党さきがけとかだから、リベラルな人だね)が、中国の雲門宗に所縁のある禅寺の御坊さん連れて、リベラルな、曹洞宗の御坊さんに、日中友好の文化交流の為に会いに来たようです。
曹洞宗といえば、志恩さんが、東京第二教区に、リベラルが、嫌いな、筈なのに、教化部長先生の写真が、好みのタイプだから、講習会に行きましたね(笑)

慶應大も、若い男子学生が、いるから、スボーツクラブにズンバしに通ってますね。

志恩さんて、本当な、 何をしてるんでしょね(笑)

生長の家の本流で?保守ですとか?トンチカン信徒に、散々言ってたんですよ?

こんな、事実が、外部から、洩れるわけです。

志恩さんて、怪しいですよね?ほんと

7712シオン観測隊:2018/11/05(月) 01:53:46
この人は、二代総裁や、二代白鳩会総裁が、澁谷、原宿を、ごみ&空きカン拾いをしてた話は聞いたこと無いのかな?


オレは、精神秒と言われてるけど、ウチのお袋や、婆ちゃんから聞いたな(笑)、

コイツは、記憶傷害だな
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ともあれ、私にしてみれば、総裁の言う地球環境保護の運動とは、尊師・谷口雅春先生のつくりあげられた運動の完全否定でしかないということです。

「なないろ」さんには、環境保護という木だけを見るのではなく、ぜひ、森そのものを見ていただきたい。

総裁が、環境保護主義という名のもとで、どんなことを言い、やってきたのか。

「森に行こう」ではなくて「森から木を見てみよう」
のお言葉は私の信仰姿勢を問われているように思い、考えさせられました。

7713蒼天の實相:2018/11/06(火) 00:49:50
〜神道の歴史一般検索〜
神道の歴史

日本の古代史を考える時、必ずと言っていい程登場してくるのが、神社であり祭神です。そこに、宮があった、そこで戦いがあった、そこに埋葬されたと伝えられる時、それらの場所には神社がたっていることが多々あります。また、それぞれの神社で祀られている神は、それぞれの伝承に関連する神が祀られていることが多いのです。

天皇家の宗教として、また、日本の国教として存在するのが神道であると思われている方も多いかもしれませんが、確かに神道に定められた様式に従い、様々な儀式がなされますが、神道は厳密な意味で天皇家の宗教ではありません。また、もしろん国教でもありません。そのように感じるのは、丁度、相撲が国技と言われるのと似ているのかもしれません。

「古式ゆかしいしきたりに則り」の嘘

各地の神社で行われている全てではないにしろ、そのほとんどが「古式ゆかしいしきたりに則り」と言うのは、全くのデタラメです。
神社が少なくとも、現在の形になったのは明治以降のことです。そもそも明治時代のはじまりは、「王政復古」すなわち、天皇中心の政治に戻すこと。言うなれば、古代の祭政一致の世に戻すことでした。ですから、記紀はバイブルとなり、始祖は神武天皇となりました。
しかし、明治以前、特に江戸時代においては、寺請制度によりどの人も皆どこかの寺の檀家になることが義務づけられていました。そして、これに基づく、宗旨人別帳こそが、戸籍謄本の代わりをしていたわけです。ここから外れた人が、「非人」であり差別階級として扱われました。「士農工商」のどれにも属することがなかったわけです。
寺がとんでもなく強い組織であったわけですから、神社は寺の一部として、もしくは、一体と成ったものとして存在していました。これが、神仏習合の実態です。

神と仏はいつから混じったのか?

仏教が日本に伝わったのは、現在、552年と538年の説がありますが、いずれにしろ欽明天皇の時(538年は宣化天皇ですが、残る書物には欽明天皇と書かれている)に管さの聖明王からもたらされた物となっています。仏教は伝わった時点で、既に非常に体系化された考え方や世界を持っていました。一方、その頃から神道の元になるようなものは存在していたはずですが、それは慣習の一つとして受け入れられていたことから、仏教の中に集約されることになったと考えられます。
但し、その傾向が顕著になったのは、蘇我氏と物部氏との争いからだと考えられます。

神と仏の争い

神道の元になったもの、すなわち、大和政権の中で信奉された神を祀っていたのは、物部氏であり、中臣氏でした。これらの氏族は、神を祀ることを生業としていた氏族です。一方の蘇我氏は朝鮮半島からの文化の受入に積極的であったと言われています。日本書紀の欽明天皇の条には、天皇が譲り受けた仏をとうしたものかと問うた時、蘇我稲目は受容することを進言し、物部尾輿と中臣鎌子は180いる日本の神(国神)怒りを買うと言って反対します。所謂、崇仏廃仏論争です。一時期、物部・中臣が勢力を持ち、仏像の廃棄や寺の焼却を黙認します。次の世代である蘇我馬子、物部守屋になると、次の敏達天皇は廃物希釈を実施しますが、次の用明天皇から大きく流れが変わります。そして、武力で、蘇我馬子が物部守屋を倒すに至り、完全なる仏教の時代がやってきます。


神の整理の仕方

日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩と呼ばれる成仏を求める修行者や天部と呼ばれる密教の神々なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん、「権」は「仮」)であるという整理の仕方がなされるようになります。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と言います。仏教は世界中どの国であっても、既に確立した宗教を持つ土地に入り込んで布教活動を行います。このため、常に土着の宗教を包含していく必要がありました。このために作られた考え方で、「皆さんの祀っている神は、仏が形を変えて表れたものです」と説明して仏教に取り込んでいったわけです。

これにより、生まれたのが「xxxxx権現」と言われる神(仏)です。現在でも、熊野権現、愛宕権現等名前を残しています。
ちなみに、熊野十二所権現では、伊弉冉尊=千手観音、伊弉諾尊=薬師如来、国常立命=阿弥陀如来、天照大神=十一面観音、天忍穂耳命=地蔵菩薩、瓊瓊杵命=龍樹菩薩、彦火々出見尊=如意輪観音、などに割り当てられています。天照や、瓊瓊杵命の位置づけには、少し違和感を感じるのは、熊野の神が天照系ではないからなのかもしれません。

7714蒼天の實相:2018/11/06(火) 00:50:45
>>7713
〜神道の歴史一般検索〜
天武天皇の時、天皇中心の国家体制が整備されます。この時、天皇家の氏神である天照大神が日本民族の代表の神として位置づけられます。この後、作られた記紀の中でも天照大神を祀ることの重要さが記載されています。この時、仏教の中においても神様の格上げが行われます。そして、菩薩になった神があらわれます。代表的なのが、応神天皇こと八幡神は、八幡大菩薩となりました。現在の宇佐神宮も、延喜式に記載されている名前は、八幡大菩薩宇佐宮です。

神道の確立

鎌倉時代になると、まずは仏教ありきの中でも、本地垂迹説を日本において、また、各仏教宗派の中で整理しようという気運が生まれてきます。天台宗系の山王神道、真言宗系の真言神道(両部神道)などが確立していきます。日蓮宗では、法華神道がおこり、日替わりの神様である法華三十番神が祀られるようになりました。また、それと同時に伊勢神宮の外宮では、古くからの儀礼を体系化した度会神道(外宮神道、伊勢神道という言い方をされる本も見受けられるが、江戸時代の同名のものとは異なっている)がおこります。

吉田兼倶と吉田神道

室町時代に入ると、ようやく仏教とは別次元で、日本における神の道なるものを確立しようする動きが表れます。それを成し遂げたのが、吉田兼倶(よしだかねとも)です。彼の起こした教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになります。そして、『唯一神道名法要集』の中で、神道の考え方を整理し、仏教に依存する本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられとし、最後の、元本宗源神道こそが、吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であると主張しました。また、仏教、儒教との関係を、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」、神道は「根」と表現し、仏教や儒教が神道の上に成り立つ物であると示しました。吉田家は、兼倶の父の代まで卜部家であり、古来の神道を引き継いでいた家柄であることは間違い有りません。しかし、兼倶以降、皇室の白川家に変わって吉田家が神道の家元になり、権限を持つようになりました。

仏教との大逆転

江戸時代迄は、仏教の一部としてしか見られなかった神道に、大逆転が行われるのが明治維新です。ここで、神仏分離令(神仏判然令)が出されます。これによって、権現が消滅し、八幡大菩薩も八幡大神へと名前を変えます。法律は、神と仏の違いをはっきりさせましょうということに主眼がありましたが、人々はそうは受け取らず、廃仏毀釈、すなわち仏教禁止の法律のように受け取られました。時代がかわり、制度が変わったと受け取った民衆は、寺請制度の呪縛から逃れられると喜び、寺院の打ち壊しへと発展します。そんな中で、寺であったところは神社であると言い張るようになります。妙楽寺は談山神社(藤原鎌足を祀る)、大山寺は大神山神社、松尾寺は金刀比羅宮(讃岐の金比羅さんです)と変わっていきます。断念することに成りましたが、法隆寺も神社になろうとしたのです。

国政への中への組み込み

明治維新の理想から、神道国教化が模索されていたことも確かです。明治4年には、神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって神祇省(じんぎしょう)が設置され天皇による祭政一致がめざされました。組織が確立するに伴って、教部省へ、そして内務省へと移され、明治33年には神社は内務省神社局、それ以外の仏教やキリスト教等他の全ての宗教は内務省宗教局へと管轄が分けられます。戦後は、もちろん、文部科学省の中の外局に追いやられています。


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