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「まじめな話」の板
7675
:
蒼天の實相
:2018/11/03(土) 09:50:11
>>7674
〜クリミア戦争〜
3.戦闘の経緯
3.1.バルカンでの戦闘
1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキア(現在のモルドヴァとルーマニアの一部)に進軍した。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。
装備の上で勝っていたロシア軍は、砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてオスマン帝国軍の河川艦隊を破ると、勢力を盛り返してドナウを越えて南下した。さらにギリシャの義勇兵が北上し、手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けた反オスマン帝国組織が叛乱を煽動したため、オスマン帝国軍はバルカン半島で挟撃される形に追い込まれた。この状況に慌てたイギリスとフランスはギリシャに撤退を求めるが、中央政府の権威が大きくないギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。
ついにフランスは巡洋艦を派遣して、ギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキで撃沈し、イギリスもアテネの港湾ピレウスを封鎖して圧力をかけたため、ギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなった。これにより反オスマン帝国を掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅に至り、再び盛り返したオスマン帝国軍がロシア軍をドナウ以北にまで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠いたため、戦線は膠着状態に陥った。
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