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「まじめな話」の板

7714蒼天の實相:2018/11/06(火) 00:50:45
>>7713
〜神道の歴史一般検索〜
天武天皇の時、天皇中心の国家体制が整備されます。この時、天皇家の氏神である天照大神が日本民族の代表の神として位置づけられます。この後、作られた記紀の中でも天照大神を祀ることの重要さが記載されています。この時、仏教の中においても神様の格上げが行われます。そして、菩薩になった神があらわれます。代表的なのが、応神天皇こと八幡神は、八幡大菩薩となりました。現在の宇佐神宮も、延喜式に記載されている名前は、八幡大菩薩宇佐宮です。

神道の確立

鎌倉時代になると、まずは仏教ありきの中でも、本地垂迹説を日本において、また、各仏教宗派の中で整理しようという気運が生まれてきます。天台宗系の山王神道、真言宗系の真言神道(両部神道)などが確立していきます。日蓮宗では、法華神道がおこり、日替わりの神様である法華三十番神が祀られるようになりました。また、それと同時に伊勢神宮の外宮では、古くからの儀礼を体系化した度会神道(外宮神道、伊勢神道という言い方をされる本も見受けられるが、江戸時代の同名のものとは異なっている)がおこります。

吉田兼倶と吉田神道

室町時代に入ると、ようやく仏教とは別次元で、日本における神の道なるものを確立しようする動きが表れます。それを成し遂げたのが、吉田兼倶(よしだかねとも)です。彼の起こした教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになります。そして、『唯一神道名法要集』の中で、神道の考え方を整理し、仏教に依存する本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられとし、最後の、元本宗源神道こそが、吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であると主張しました。また、仏教、儒教との関係を、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」、神道は「根」と表現し、仏教や儒教が神道の上に成り立つ物であると示しました。吉田家は、兼倶の父の代まで卜部家であり、古来の神道を引き継いでいた家柄であることは間違い有りません。しかし、兼倶以降、皇室の白川家に変わって吉田家が神道の家元になり、権限を持つようになりました。

仏教との大逆転

江戸時代迄は、仏教の一部としてしか見られなかった神道に、大逆転が行われるのが明治維新です。ここで、神仏分離令(神仏判然令)が出されます。これによって、権現が消滅し、八幡大菩薩も八幡大神へと名前を変えます。法律は、神と仏の違いをはっきりさせましょうということに主眼がありましたが、人々はそうは受け取らず、廃仏毀釈、すなわち仏教禁止の法律のように受け取られました。時代がかわり、制度が変わったと受け取った民衆は、寺請制度の呪縛から逃れられると喜び、寺院の打ち壊しへと発展します。そんな中で、寺であったところは神社であると言い張るようになります。妙楽寺は談山神社(藤原鎌足を祀る)、大山寺は大神山神社、松尾寺は金刀比羅宮(讃岐の金比羅さんです)と変わっていきます。断念することに成りましたが、法隆寺も神社になろうとしたのです。

国政への中への組み込み

明治維新の理想から、神道国教化が模索されていたことも確かです。明治4年には、神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって神祇省(じんぎしょう)が設置され天皇による祭政一致がめざされました。組織が確立するに伴って、教部省へ、そして内務省へと移され、明治33年には神社は内務省神社局、それ以外の仏教やキリスト教等他の全ての宗教は内務省宗教局へと管轄が分けられます。戦後は、もちろん、文部科学省の中の外局に追いやられています。


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