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「まじめな話」の板

7676蒼天の實相:2018/11/03(土) 09:51:01
>>7675
〜クリミア戦争〜

3.戦闘の経緯
3.2.クリミアでの戦闘とイギリス首相の交代
ロシアの過大な要求に不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、本格的に参戦するつもりはなかった。ところが1853年11月、黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン帝国艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため、状況は一変した。
これは黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブールに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン帝国側の明らかなミスだったが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国のメディアはこれを“シノープの虐殺”と報道した。これにより、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにオスマン帝国と同盟を結んで1854年3月28日、ロシアに宣戦布告した。イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオン戦争から第一次世界大戦までの100年の間でこの1度だけだった。
当初、同盟軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(現在のブルガリア東部)に上陸させてオデッサの攻略を目指したが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポリへの変更を余儀なくされた。
しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。
ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマの戦いでは地の利があるにもかかわらず、実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまった。一方、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けた偽指揮官たちによる攪乱工作により、バラクラヴァの戦いやインケルマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポリを前にして立ち往生する羽目になった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。最終的に、サルデーニャ王国がピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して同盟軍に与したことにより、街は3日に及ぶ総攻撃の末にナヒーモフもコルニーロフも戦死し、1854年9月28日から始まったセヴァストポリの戦い(土: Sivastopol Ku?atmas?-セバストポリ攻囲戦、露: Оборона Севастополя-セバストポリ防衛戦)は1855年9月11日に陥落を見て決着した。
しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。


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