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「脱力ネタ」板

1「訊け」管理人:2013/08/15(木) 14:17:56

 こんにちは、現在「試験運用中」です。さてところで「皆さん」は、脱力したことは、御座いませんか?

 そんな方はこちらで、どうぞ「脱力ネタ」をご披露ください。いやその脱力ですが、キチンと成仏させましょう。

 それではどうぞ、皆さんの「脱力ネタ」のご披露です・・・・

737さくら:2014/03/22(土) 16:28:49

>>735
前にも謹写したんです。
春さまとのやりとりのために。
(最終的には、春さまは、話の分かる方でした。)


ここでは、
これを論点に、
今後もだれとも、
そして、貴女とも、議論のようことをする気には、一切、まったくないので、

貴方が、それほど執拗に願われてるなら、
いつか読めると思いますよ。

がんばってください。

合掌、ありがとうございました。

738初心者:2014/03/22(土) 18:19:48
訊け様

>われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

#727で引用されていた上記の雅春先生のご文章ですが、これがまさしく、わたしのいっている人間中心主義なのですよ。

雅春先生がいっておられるのは、実相の完全性を現象の不完全に投影してこれを完全なものに変える、ということですよね。「征服」とはつまり不完全をなくすということですよね。

問題は誰が投影するのか、ということです。もちろん投影するのは人間ですよね。人間が投影することで不完全を征服するということですよね。

このことには、じつはふたつの問題があります。ひとつはこれが人間中心主義であるということです。人間には現象を支配しコントロールする力がある。こういうことをいっているわけですから、これはあきらかに人間中心主義の考え方です。

さらに別の問題があります。この問題こそが、雅春先生の教えを完全否定する問題なのです。

訊けさん、上記の引用文で雅春先生がなにをいっておられるか、わかりますか。雅春先生は「主観と客観を一致させよ」といっておられるのですよ。わかりますか?実相を主観、現象を客観と考えればわかりやすいでしょう。

主観と客観は一致しない。ソシュールによってこのことが証明されています。一致は不可能なのです。この不可能を雅春先生は要請しておられるのです。雅春先生の教えは、ソシュールによって完全否定されています。

739「訊け」管理人:2014/03/22(土) 19:26:01

>>初心者さま

>>>このことには、じつはふたつの問題があります。ひとつはこれが人間中心主義であるということです。人間には現象を支配しコントロールする力がある。こういうことをいっているわけですから、これはあきらかに人間中心主義の考え方です。<<<


 いやなぜ「問題」なのか・・・・・それが、わかりません。この種の中心主義ならば、むしろ、喜ばしいのではナイでしょうか。いや、この種の考えがなければ人間は、「状況に流される」であるとか「ニヒロズムに陥る」ということに、なりはしないですか。また、ここで雅春先生が云っておられる概念は、〝人間中心主義〟ではなく実は、「神」です。私はそのように読みました。

 人間(肉体の)には力はナイのだ、と。実相一元を主張されておられるご文章ですからこれを、「人間中心主義として」解釈されるのは、少々ムリはないでしょうか。また、以下の点ですが、


>>>引用文で雅春先生がなにをいっておられるか、わかりますか。雅春先生は「主観と客観を一致させよ」といっておられるのですよ。わかりますか?実相を主観、現象を客観と考えればわかりやすいでしょう。

主観と客観は一致しない。ソシュールによってこのことが証明されています。一致は不可能なのです。この不可能を雅春先生は要請しておられるのです。雅春先生の教えは、ソシュールによって完全否定されています。<<<


 これは、貴殿の解釈が間違いだと思います。雅春先生はそのような主張は、されておられません。先生のご主張は「主観と客観を一致させよ」では、ありませんよね。よく、読まれてみてください。先生のご主張はそのようなものではなく、「主観も客観もナイ、ただ、実相あるのみ!」には、なりませんか。たしかに方便的に、「現象に投影していくのだ」「征服していくのだ」との説明文は見えますけども、これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。(※)あくまでも先生のご主張は、

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 の部分だと、思います。これが>>727掲載の、聖典の内容だと思いますけども、いかがでしょう。

 ご返答をお待ちします。





<註>

※ これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。

 「主観と客観」ですが、雅春先生は「仮にあるかのような前提で」語ってくださるワケです。そしてそんな面の配慮がおありですから、私のような凡人にも伝わりやすいのだと思います。ですけれども、この、対機説法を捉えてそして、「谷口雅春は、主観と客観を認めている!」とか云われる方あらば、それは、間違いです。クドイですがそれは、単に(私のような凡人向けの)対機説法であり、方便だからです。本筋の主張で雅春先生は、未だかつて一度たりとも「実相も現象も、ある」とはご主張あそばされては、おられません。

740初心者:2014/03/22(土) 21:16:58
訊け様

>人間(肉体の)には力はナイのだ、と。実相一元を主張されておられるご文章ですからこれを、「人間中心主義として」解釈されるのは、少々ムリはないでしょうか。

人間には力がないということですね。では「実相をみる」といっている人たちは、なにをなさろうとしておられるのですか。「実相をみる力が自分にはある」とおもうからこそ「実相をみる」といっているのではないのですか。

いったいぜんたい、こういう人たちはなにをなそうとしているのですか。「実相をみる」というとき、この人たちは全員が神になっているということですか。神になって世界を変えようとしているということでしょうか。

>これは、貴殿の解釈が間違いだと思います。雅春先生はそのような主張は、されておられません。先生のご主張は「主観と客観を一致させよ」では、ありませんよね。よく、読まれてみてください。先生のご主張はそのようなものではなく、「主観も客観もナイ、ただ、実相あるのみ!」には、なりませんか。たしかに方便的に、「現象に投影していくのだ」「征服していくのだ」との説明文は見えますけども、これはあくまでも、対機説法なのであって、本論ではナイでしょう。(※)あくまでも先生のご主張は

「病気はない」とおもうとすれば、これは主観ですよね。ふつうに考えれば、「病気はない」という主観と「病気が消えた」という客観的出来事の一致をもって「これは真理だ」ということになりますね。主観と客観の一致をもって「これは真理だ」といいますよね。

でも訊け様はそうではないといわれる。一致は必要ないといわれる。ならば訊け様は「病気が治るから雅春先生の教えは真理である」となぜいっておられるのでしょうか。主観と客観とが一致したから「これは真理だ」といっておられるのではないのですか。

一致が必要ないのであれば、治ろうが治るまいが、どっちでもいいことでしょう。「奇跡が起きた」とことさらに言い立てる必要もないでしょう。

ところで、雅春先生は「現実人生を支配する」といっておられますよね。これも対機説法の方便ということですか。主観も客観もなければ支配のしようがありませんから、これも方便ということなのですね。これをはっきりさせてください。

741初心者:2014/03/22(土) 21:43:22
訊け様

よくはわからないのですが、生長の家では「いいことを思えばいいことがあらわれる」といいませんか?もしいっているとすれば、これは主観と客観の一致ではないのですか。

雅春先生は「いいことを思っていいことをあらわしなさい」と信徒のみなさんに要請しておられるのではないのですか。このようなかたちで、主観と客観の一致を要請しておられるのではないのですか。

742初心者:2014/03/23(日) 08:52:25
イデア論とはなにか、というと主観と客観の一致なのですね。主観としてあらわれたイデアと、客観としてあらわれている物質界とをいかにして一致させるか。これがイデア論がなそうとしていることなのです。

では、古代ギリシャの思想がなんであったかというと、それは言葉の一致です。言葉の姿をいかにして一致させるか。これが古代のギリシャ人たちがなそうとしていたことです。

主観と客観の一致と言葉の姿の一致。むつかしいのはどちらでしょう。ふつうに考えれば、言葉の姿を一致させるほうがたやすい、となりますね。でも事実は逆です。

主観と客観の一致は不可能なのですね。不可能であるからこそ、逆に「一致できた」と簡単におもえてしまうのですね。

言葉の姿は一致させることができます。ここでいう言葉の姿とは、自然の言葉の姿と、人間の言葉の姿です。このふたつの言葉の姿は一致させることができます。

一致させられるということは、一致しているかどうかがわかってしまうということです。一致していなければ、「一致していない」ということが実感としてわかってしまいます。「この言葉は一致していない」ということがじっさいにわかってしまいます。

無数にある人間の言葉のなかで、自然の言葉に一致させられるのは、おそらくひとつだけでしょう。このたったひとつの言葉をみつけださなければならないのです。みつかったときには、「一致した」との実感があります。

しかしこれは簡単なことではありません。しかも自然の言葉は、「一致した」とおもえた瞬間に、まるで狩りの獲物が逃げていくかのようにその姿を変えてしまいます。その変化した姿にふたたび言葉を一致させなければならなくなります。もしかしたら自然は、このようにしてみずからの言葉を語りかけているのかもしれません。

主観と客観の場合は、一致を確認するすべがありません。たとえ一致してなくても「一致していない」ということが実感としてわからないのです。そのために人は、なんとなく一致しているような気になってしまいます。

「意は似せやすく、姿は似せがたい」と本居宣長がいっているのはこのことです。主観と客観は似せやすいが、言葉の姿は似せがたい。宣長はこういうことをいっているのです。

宣長がいうように、和歌は、自然の言葉の姿と人間の言葉の姿とを似せるためのいとなみであるといえそうです。もしそうであれば、古代のギリシャ人たちがやろうとしていたこととおなじことを、日本人はずっとやりつづけてきたということになります。

西行はいいました。「自分が歌を詠むのは、たんに風景や文物に心を動かされて詠んでいるだけではない。それを超えた歌という形にの中にあるもの、形に見えないもの、その向こうにある、えもいわれぬ真実をつかまえたいとおもう。それは仏道で悟りを得ることと同じことなのだ」。

いっけんすると、歌を詠むということは主観と客観とを一致させることのようにおもえますが、ほんとうはそうではありません。西行がいうように、歌を詠むのは、自然の言葉の姿と自分の言葉の姿とを似せるためであるのです。そして、このことが「仏道で悟りを得ることと同じである」と西行はいっているのです。

一致したか一致してないかがわからぬような心など、ほんとうはどうでもよいものなのです。言葉こそがすべてなのです。自己をはこびて万法を修証させようとするはイデア論であり、迷いなのです。万法すすみて自己を修証するとは、万法に言葉の姿を似せようとすることであり、これこそが悟りなのです。西行はこういうことをいっているにちがいありません。

※言霊としての和歌は主観と客観を一致させようとするものであり、この意味ではイデア論といえるのかもしれません。

743初心者:2014/03/23(日) 16:59:40
古代のギリシャ人は、大地には真理が隠されていると考えていました。その大地からいかにして真理をあらわしいだすか。ギリシャ人はつねにこのことを問題にしていました。

プラトンがイデア論を唱えたことで状況は一変します。イデア論は、イデアの真理によって大地をいかにして照らしだすか、ということを問題にしていたからです。イデア論以降、大地は、真理が隠された場所ではなく、真理を照射する場所であるとみなされるようになりました。真理を照射するのはもちろん人間です。

たいへんに大きな変化があったということがわかります。極論すればこれは、大地が人間の運命を決めていた時代から、人間が大地の運命を決める時代への変化なのです。

イデア論の登場によって、大地中心主義から人間中心主義への大転換がおこなわれたのは間違いありません。人間中心主義とは、「人間が天地万物の価値を決める」とする、思い上がった発想をいいます。

総裁は、時計の針を逆転させ、人間中心主義から大地中心主義へと回帰しようとしておられるにちがいありません。

744初心者:2014/03/23(日) 17:29:35
訊け様

先ほどの投稿で、「真理を照射するのはもちろん人間です」と書きましたが、「照射する」とはどういうことかおわかりでしょうか。それは「それがなんであるかを真理の言葉で言い当てようとすること」なのです(「物質はない」とは、物質の非存在を真理の言葉で言い当てようとすることです)。

日本人は真理を言葉で言い当てようとはおそらくしてこなかったですね。むしろ自然がそのつど語りかけてくる真理を言葉に変えようとしていたのではないでしょうか。

「物質はない」、「現象はない」、「実相は完全である」。このように、真理を言葉で言い当てたがるのはなぜなのでしょう。なぜ生長の家の人々は、このようなことを延々とやりつづけているのでしょう。ふつうの日本人がおそらくはやろうとしていないことを、なぜ延々とやりつづけるのでしょう。

いったいなにがそうさせているとお考えですか。わたしには「主観と客観とを一致させたい」とする衝動にとりつかれているとしかおもえないのですが、いかがお考えでしょう。

745初心者:2014/03/23(日) 20:03:02
病気治しと環境破壊から自然をまもることと、どっちが大事だとみなさんはお考えですか。いくら病気を治しても、自然が破壊されたらおわりです。どっちが大事かはあきらかでしょう。

このようなことをいえば、なぜ宗教団体が環境運動をやるのか、ほかの団体や個人にまかせておけばよいではないか。このような批判が返ってきますね。

宗教がやらないとダメなんです。環境破壊の原因は人間中心主義にあるんです。人間中心主義をなんとかしないかぎり、問題はなにも解決しないのです。そして、それができるのは宗教だけなのです。生長家が率先して自然宗教へと回帰し、大地中心主義を世の中に広めなければならないのです。

このように書けば、「そのように考えるのは悪を認める二元論だから虚説だ」との批判が生長の家の人からよせられますね。もちろんですから、こうした批判にも対応する必要がでてきます。

こういうときには、「そうして批判する生長の家こそ人間中心主義である」と逆批判するしかありません。真理を言葉で言い当てようとすることじたいが、すでに人間中心主義なのです。「物質なし」といってしまえば、これだけで立派な人間中心主義なのです。ですから、この逆批判はまっとうな批判なのです。「虚説」といってるほうが虚説なのです。

総裁は真理を言葉で言い当てようとしておられますでしょうか。おそらくそれはないですね。言い当てようとしておられたなら、いまのような批判は受けずにすんでいたでしょうから。

批判を覚悟であえて言い当てようとはなさならなったとすれば、これは「さすが」というほかはありません。

746初心者:2014/03/24(月) 06:49:07
訊け様

わたしのいう人間中心主義を定義します。

「言表と出来事との一致をもって真理とみなすこと」。

これを定義にいたしたいとおもいます。ちなみに、「言表」とは「言葉で言い表すこと」です。

たとえば「病気はない」と言表してじっさいに病気が治れば、言表と出来事とが一致したのでこれを真理とみなすのが人間中心主義です。

したがって、「言葉で真理を言い当てられる」とおもうことも人間中心主義です。あるいは、「言葉で真理を言い当てたい」と欲するのも人間中心主義です。

ようするに、そのものの価値、たとえばそれがあってよいものなのか、あってはならないものなのか、といったようなことはすべて「人間が決める」、と考えるのが人間中心主義です。

この意味で、生長の家は人間中心主義といえます。

747初心者:2014/03/24(月) 06:52:36
訊け様

#711の投稿でわたしは、「筋書きの妥当性」を訊けさんに打診いたしましたが、訊けさんからは「雅春先生は人間中心主義ではない」とのご返信をいただきました。

どうでしょう。雅春先生の教えは、これでもやはり人間中心主義とはいえないとお考えでしょうか。雅春先生は、言表と出来事との一致をもって真理としておられないのでしょうか。あるいは生長の家の方々がそのように考えておられるとはいえないのでしょうか。いかがでしょう。

イデア論は「言表と出来事との一致」をもって真理とみなそうとします。こうした真理観が「ものの価値は人間の言表によって決まる」との思い込みを生みだしました。言表とは主観でもありますから、イデア論は「物の価値は人間の主観によって決まる」との思い込みを生みだしたということになります。これが、のちに環境破壊をもたらす人間中心主義のはじまりです。

748初心者:2014/03/24(月) 07:44:41
総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは、以下の3つの理由によるものと考えられます。

①人間性に問題がある。
②真理を語れない。
③救済を否定している。

以上の3つが「適性を欠いている」とされる理由であるとおもわれます。人間性はいくらでもごまかせる、というのはトキさんの掲示板の事例でもあきらかでありますから、これは問題にいたしません。

真理を語れない。これが事実であるとして話をすすめます。事実は、語れないのではなく、語ることを欲しておられないのです。

真理を語るとは、真理を言葉で言い当てようとすることです。すでに定義いたしましたように、これは人間中心主義です。総裁は人間中心主義を否定しておられるわけですから、真理を言い当てようとなさるはずがありません。

真理を語ろうとすれば、どうしても人間中心主義におちいってしまいます。人間中心主義を否定していながら、それでも真理を語ろうとするのは矛盾なのです。

「自然環境をまもりましょう」といいつつ、それでも真理を滔々としゃべれる人物など誰が信用いたしますか。

総裁が救済を否定しておられるとすれば、その理由は、救済が人間中心主義にむすびつくと知っておられるからです。

「病気はないのです」といってしまったら、この時点ですでに人間中心主義を認めたことになります。人間中心主義を否定しておられる総裁がもしも、「心をいれかえて、これからは個人救済もやります」といわれたなら、このひと言で総裁の信用は地に堕ちるでありましょう。

個人救済と環境問題を計りにかけられたとき、総裁は環境問題の解決を優先されたのだとおもいます。

以上が、総裁が真理を語ろうとなされない理由であり、個人救済を否定される理由と考えられます。総裁は、宗教家として節度ある判断をなさっておられるのではないでしょうか。

このようにいったところで、みなさま方は、総裁を余計に否定なさるかもしれません。逆効果といえば逆効果でありますが、なぜそうなるのか、その理由を考えるのはけっして無駄ではないと考えます。

749「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:40:10

>>740初心者さま

 論点が多岐に渡りますが、いくつかに絞って語ってみます。ここでは以下二点に絞って、返信してみます。その二点とは、

○ 雅春先生は「主観と客観の一致を要請している」のか否か
○ 人間中心主義は、問題なのか

○  これです。これに関して以下、雅春先生のご主張を紹介して参ります。


<雅春先生は「主観と客観の一致を要請している」のか否か>

○  再度申し上げますが雅春先生は、そのような思想を紹介されては、おられません。>>727にて紹介させて頂いた如く、雅春先生のご主張は明快に、「実相一元」です。一元なのですから「一致させるもナニもない」のです。一致させるもナニもなく、「ただ実相一元」というのが、光明思想です。これが先ず、述べたい点です。

 ・・・・で、次に「方便」「対機説法」の面から、この件を語ります。いやたしかに一見しますと、貴殿云われるが如くです。雅春先生ですが恰も、実相と現象との二つを、「ある」と看做しておられる気する、そんなフシを感じる記述箇所は、ございましょう。その点で貴殿ご主張の趣旨は、理解できます。しかし、先にも述べましたように「それ」らの記述は、あくまでも「方便」「対機説法」です。(※1)光明思想の本筋ではナイのでありこれら(「方便」「対機説法」)を以て雅春先生が、「実相と現象を分けて解釈している!」と主張される方がもしもあらば、当方返信は「その主張は少々ムリがある」になります。

 ・・・・・で、補足めいた話などを一点。「心の法則」に関してです。

 雅春先生は聖典の前半では、この、心の法則を説かれておられます。そしてその記述箇所では確かに、「実相と現象と、ふたつがあるかのような」記述のされ方が、なされております。ですがその後、何巻だったか失念しましたが雅春先生が突如、「今から本当のことを語るのであります」と、主張を一転される箇所があるのです(※2)。

 ・・・今、その箇所を見つけられナイため、紹介できないのが残念ですけども雅春先生は、「心もない」ということを主張あそばされる箇所、これがあります。前半部分で語られてきた「心の法則」ですが、それすらも「ナイのですよ」とご説明、される箇所なのです。

<人間中心主義は、問題なのか>

 さて、貴殿のご定義は>>746にて、確認致しました。けれども、「なぜそれが問題なのか」が、不明です。これを問題とされる理由は、いったい何なのでしょうか。




<註>

※1 先にも述べましたように「それ」らの記述は、あくまでも「方便」「対機説法」です。

 現象を仮に「ある」として記述された方が、私のような凡人には伝わりやすいワケです。その意味で雅春先生における「矛盾」(=貴殿からご覧になられれば矛盾でしょう)とは、私にとっては「愛念」に映ります。雅春先生は、「実相と現象を混同していないか!?」てな批判を浴びるリスクを(敢えて)採られて、私の様な凡人にも分り易いように説明を、されておられると思うためです。たとえば雅春先生が、「この方のガンが治ったのであります」 ―― こんな記述をされておられたとしるならば、「ほら見ろ!谷口雅春は『ガンがある』ことを前提に語ってイルじゃないか!」てな批判をすることは、カンタンだと思います。ですがその、「ガンが治ったのであります」の「治った」とは、私のような凡人向けの「方便」なのであり「対機説法」なのです。光明思想の本筋では「ない」のです。


※2 「今から本当のことを語るのであります」と、主張を一転される箇所があるのです

 まあ正確には、「一転でも何でもナイ」のですがね。雅春先生は心の法則を説かれつつも、「実相一元の世界」つまり、「現象などナイ」世界を聖典前半でも、繰り返し主張されておられます。(何回か通読すれば、それがわかります)

750「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:52:49

>>749主張の補足

 「谷口雅春と云う人物が『心の法則』(横の真理)のみしか語っておられなかったならば、初心者さまの批判・疑問は的を射ている」 ―― そんな話です。


 ・・・・重要ですんで繰り返しますが、その、「実相と現象のふたつを扱っているではないか」(趣旨)という貴殿の疑問に関する当方返信は、既述の如しです。それらはあくまでも「方便」「対機説法」です。仮に谷口雅春という人物が実相一元を説きながらもたまに、「・・・・そのご婦人のガンが治ったのであります」というような記述をしておられようが、矛盾はナイのです。その記述に於ける「ガン」「治った」とはあくまでも、(私の様な)凡人向けの対機説法なのであり、「こんな風に書かないとワカンナイ」ための方便なのです。光明思想の本筋とは、違いのです。ここのところが、私が主張したい点です。

 まとめますが、貴殿が種々ご提出あそばされた疑問の数々ですがそれらは、あくまでも、「心の法則」に関することです。「谷口雅春と云う人物が『心の法則』(横の真理)のみしか語っておられなかったならば、初心者さまの批判・疑問は的を射ている」 ―― それが現段階での、率直な感想です。




752「訊け」管理人:2014/03/24(月) 08:54:38
(×)光明思想の本筋とは、違いのです。
(○)光明思想の本筋とは、違うのです。

753さくら:2014/03/24(月) 09:14:34
>>748
初心者さま

①仕方ありません。

②真理を語れないとは、なにを持って真理というかわかりませんが、
生長の家の教えの基本は、ほぼ正確には「解説」されているのですよ。

(もしかしたら、初心者さまが言われる、大地の真理や身体性を否定されておられないのかもしれません。
実相と現象二元論にしてはいけない、ということも書いて、
「真性」を味わうことが大切である、と言ってます。)

確かに、総裁は人間至上主義を否定していますが、
それは、生長の家の真理からくるとは、言われてはいません。
科学万能主義や、原理主義(わたしにはロゴス中心主義ですが、)を、否定されていると思います。


ただ、問題は、そこに、「宗教的な力」をもたせることを、否定されている節がある、ということなんです。

わたしの本は、聖典とは、呼ばないで下さい、
総本山を、聖地と呼ばない。

生長の家の体験談で「奇跡」が起こるというのは、ほとんど真理とは関係ないことが多い、とも言われていました。
(これは、心理学の知識を用いられて、宗教的奇跡の認識とはなにか、など、考察されていたように思います。)

③救済。

環境問題に取り組むことが、総裁の考える、救済だったんです。
でも、わたしはこれは、何度もいうように、組織の方針にしてエコロジー運動にして、
宗教的なものを、否定していることに、問題があると思っています。

754さくら:2014/03/24(月) 09:22:38
訊けさま

訊けさまは、
「虚説」の考えを認めて、それを排除しましょう、という指導も、
対機説法であり正しい、というお考えですか?

755「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:35:06

>>754さくら

 いやまた、こりゃなんか、モノスゲエこと聞いてくんな、オマエ。

>>>訊けさまは、
「虚説」の考えを認めて、それを排除しましょう、という指導も、
対機説法であり正しい、というお考えですか?<<<

 ・・・・・OKとしようか、虚説の排除は。いや、たとえば、藤原敏之先生は練成会を妨害シタ奴に対し、「出て行け!」って云ったらしいね(笑)これ、虚説の排除とも、言えなくもナイ。なので排除だけど、OKとしよう。だけどもね・・・・・・・・まあ、排除の前に「やり取りは必須」だろうね。(アタリマエだけど)

 問題なのは、やり取りもせずに「排除」なんだろうね。

 「オマエは間違っている!」「雅春先生に反している!」・・・・・そんな言葉は多々、掲示板に踊れども、未だかつて一度たりともその言っている本人が聖典を、「読んでいたためしがナイ」よね(笑)読まずに「お前は間違っている!」だからね(笑)これじゃ、笑われるよね。ですんでまあ、排除もOK(と仮定)して、だよ?排除OKとしても前段での「やり取り」くらいは、まあ、必須じゃないかなあと、思うんだ(アタリマエだけどもね)



756「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:39:12


 ・・・・て、云うか排除だけども、オレはOKとは思ってないからな(笑)。



追伸

 まあ、「やり取りをしている最中の、珍文妨害」だけども、あれは排除(?)でいいんじゃ?いやだって、だよ・・・・・・政治経済の話をしている最中に、だよ、たとえば、「昔の彼氏の話」とか開始する参加者いたら、これ、迷惑でしょうよ(笑)まあ、こんな場合は排除(て、いうか「ふさわしい場所へお戻り頂く」ことは、必要だと思うがね(笑)

757さくら:2014/03/24(月) 09:50:58
…すみません、いきなり、話の途中で。
わかってます。

虚説を、排除は、
わたしにとりましては、
信仰の、本質的な、部分なんです。
人間的に、どう誤解されても、なんにしても、
どうしても、「信仰」において、譲れない、一点があり…。

…もう、話はそれるかもしれませんが、(女ってこれだから、…って言わないで、、汗)
実は、きのう、宇治の友人から久しぶりに電話があり、
榎本一子先生から、榎本恵吾先生がわたしを覚えていて下さっていた話を聞いて、おどろきました。
…晩年の、小さな出会いさえ心をとめて頂いた深いご愛念に、今になって気づき、思わず涙が出ました、。


久しぶりに、先生の「葩(はなびら)さんさん」を読んで、さらに、泣きました。

「無神」も、思い出しました、
一部、謹写させて下さい。


『もしも、神というものがあって、その神に向かって誰かが「神は無い」と言ったとすれば、
神は、「その通りである。私は無いのである。」と言われるであろう。
 そして逆に、その人に対して、「あなたによって私は生かされているのであります」といって礼拝されるのではなかろうか。

 神ご自身が『私が全宇宙の生みの親である。〇年〇月〇日。』などというものを、どこかに建てておられるとは、どうしても思えない。もしも、そういうものがあれば、そんなものを、自ら建てられるようなものを神と呼ぶ訳には行かない。

 神は全宇宙を創造し給うていながらその姿を消しておられるのであります。

 神は、人間を礼拝し給うているのであります。

春には花を咲かせ、野山を緑でかざり 雨を降らせ、陽を明るく
 風を渡らせて、何とかして人間を喜ばせてやろうとしておられるのである。

 生きた花々草々をもって、神は我らを供養し給うているのであります。
 しかし、依然として神はご自分を消しておられるのであります。

 どこまで消しておられるか。

 それは、神がお生みになった人間に「神は無い」といえるようにしておられるまでにであります。
 「神は無い」という声も、神のいのちによって人間はそう言っているのであります。そこまで神ご自身で、無神になっておられるのであります。

 「神など無い」と言えば言うほど、そこに、神の無神の聖なる輝きが、証明されているのではないでしょうか。

 日本神道の幽の幽なる神とは、ある意味でこのことを言っているのかもしれません。
宗教も、真の宗教はこの神の無神なる輝きをうつしたものであるはづである。
宗教が「この教えがお前たちを救ってやるのである。この教えにふれなければ、あなたは救われない。」というようなものであれば、即、それは神ではなく、愛ではなく、聖なるものであるという訳にはいかないのである。

 人前に立って「救ってやった。救ってやった。」というところには、聖なるものはないのである。

 説法も、お経も、そこにもし「この説法を聴かなければ救われない」とか、「この本を、このお経を読まなければ救われませんよ」というのを、少しでも残しておれば、それは無我ではなく、愛でもないのである。
それは無神の聖なるいのちの流れとは、およそかけはなれたるものでありましょう。』

758さくら:2014/03/24(月) 09:51:18
こういうご文章に接していると、
真の生長の家の教えのどこから、
「虚説」の考えを排除する、混乱する人とは距離を置く、という人を傷ける発想が、どういう指導で出てきたのだろう、と思えてしまうんです。

でも、だからこそ、他を見ず、信仰の原点に帰ります。

759「訊け」管理人:2014/03/24(月) 09:55:59

>>>「虚説」の考えを排除する、混乱する人とは距離を置く、という人を傷ける発想が、どういう指導で出てきたのだろう、と思えてしまうんです。<<<

 だよな。それは、基本だと、思うんだけどもね。なんで、できないんだろう・・・・

 あなみに「あの」(「あの」を強調)、あの、無免許掲示板スラも、こんな方針ダケは、あるんだぜ?(笑)

――――――――――――――――
「生長の家光明掲示板・第二」のルール/Regras

④これから本掲示板の宣言や方針に対して疑問や質問を提出する「去就に迷える信徒様たち」が多く現れます。それらの人達には、その人達の気持ちを汲んで説明を行ってください。決して、「我々が正しいのだ。貴方が間違っている、わかっていないのだ。」で終わらないようにご留意願います。「去就に迷える信徒様たち」が離れていくような書き込み文には、管理人が警告などを行います。

――――――――――――――――

 ・・・・・・。(小爆笑)





760初心者:2014/03/24(月) 11:03:12
訊け様

「主観と客観の一致」ということでわたしが言っておりますのは、雅春先生の教えの矛盾とか、そういうことではないのです。

わたしがいいたのは、雅春先生の教えは、言表と実際の出来事との一致を必要としているのかしていないのか、ということです。

「物質はない」との教えでありながら「物質」が本当は実在していたというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。

「病気はない」との教えでありながら、病気が治るという出来事がひとつも起こらないというように、言表と実際の出来事が一致していなくても、雅春先生の教えは成り立つのか、ということです。

761初心者:2014/03/24(月) 12:01:24
訊け様

>さて、貴殿のご定義は>>746にて、確認致しました。けれども、「なぜそれが問題なのか」が、不明です。これを問題とされる理由は、いったい何なのでしょうか。

具体例で話したほうがよいですね。

「総裁のいっていることは虚説だ」といってる人は今もいますね。これにたいして、「どこが虚説なのか、具体的にいってみろ」と回答を要求したところで、ロクな答えは返ってきません。しかしそれでも、総裁を「虚説」といいつづける人がいます。

こうしたことから、客観的事実とは関係なく、「虚説」という言表はその人にとって絶対的な事実であることがうかがえます。自分が「虚説」と言表すれば、それとおなじ出来事が客観的世界でも起きているとその人は信じきっている、と推測されます。

ここで問題にすべきは、世間のごくふつうの人々も「虚説」という表現をもちいるのか、ということです。わたしは聞いたことがありません。「あの人のいってることはおかししいんじゃないか」とか「「あの人のいってることは自分の考えとちがう」とか、こういうのは聞きますけど、「虚説」といって相手を否定する人とは出会ったことがありません。

世間の人々というのは、気に入らぬ言い分ではあっても客観的に評価しようとはしますよね。ところが、「虚説」といってる人にはこれがない。客観的に評価しようという気がまったくないのです。なぜこうなるのかといえば、「病気はない」といえば病気がないのが絶対的事実であり、「実相がある」といえばこれが絶対的事実となる世界に、そのひとが住んでいるからなのです。

「虚説」といってのけられる人というのは、言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界に住みつづけている人なのです。そのために、言表をうたがおうとはしなくなった人なのです。「虚説」と言表すれば、それがその人のなかで客観的事実となってしまう人なのです。生長の家は、こういう人々を大量につくりだしてきましたよね。

わかりますか。言表と客観的事実とが絶対的に一致する世界が真理の世界なのです。真理の世界とは、世間の常識とはおよそかけはなれた、言表の帝国なのです。ひとたび言表すればそれが真実となってしまう言表の帝国なのです。「真の生長の家の教え」と言表するだけで、それが事実とは関係なく絶対的真実となってしまう世界なのです。

言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。

言表の帝国に住みつづけている人はどうなるとおもいますか。その人の言表が世界の価値をすべて決めてしまうようになるのです。「虚説」と言表すれば、客観的評価とは関係なく、もはや相手にはそれだけの価値しかないのです(ここでいう「価値」とは真理にかかわるものですから、個人的評価ではなく絶対的価値基準による評価となります。それだからこそ「虚説」とみなされるのです)。

天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。

言表と出来事との一致を真理とみなすような人は、ついには、自分が「真である」と確信する言表はすべてが絶対的真実であると思い込むようになります。これを問題ととらえるか、とらえないか、それは訊けさん次第です。

763初心者:2014/03/24(月) 12:27:24
さくらちゃんへ

とりあえず、ちょっとだけ書きます。

>神は、人間を礼拝し給うているのであります。

訊けさんに「天地の万物を神として礼拝する」と書かれたときには、「これこそが人間中心主義の思い上りだろうが」と反発を感じ、「天地の万物に礼拝される」と書くのがほんとうだろうがと、じつはそのとき考えたのです。

榎本先生のことはほとんど存じておりませんが、生長の家にありながら真理を悟った稀有な人物ととらえております。

764「訊け」:2014/03/24(月) 13:10:11

>>初心者さま


>>>言表と出来事との一致をもって真理とすることがなぜ問題かといえば、事実がしめすように、客観的評価とは関係なく、自分の言表と客観的出来事とをいともやすやすと同一化させてしまう人物をつくりだしてしまうことにあるのです。こういうことを疑問にもおもわない心理状態をつくりだしてしまうことにあるのです。<<<

 「じゃ、真理とはなに?」でしょうね、私の疑問は。「果を見て樹を知る」のが、どうして問題となるのでしょうか。百歩譲って、雅春先生の御教えが「真理ではない」ことが科学的に、証明されたとしましょう。カミオカンデを超えるような実験施設が創設されそして、そこで「谷口雅春の真理は否定された!」と、なったとします。それでも私は、信じますけどもね。

 いや、谷口雅春先生は、偉大だからです。なぜならば、「あれだけの奇蹟が生まれている」のですよ・・・・一例だけにしますけども、志恩さんの体験談など、普通、医学の力を以てしても果たされなかった事でしょう(参考:志恩さんの体験談http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1308876271/1937

 ・・・・・これだけの奇蹟が起こっているものを、私は「真理と呼びたい」ですね。で、「コッチが真理だ!」な方がおられようとも、否定は致しません。「病気は治らないけど、こっちが真理!」そんな方がおられても、よしとします。(ただし、そんな方の御著書を読む気には、なれないでしょうね)




765「訊け」:2014/03/24(月) 13:22:02

>>初心者さま



 まあ、>>761に関して申せば、「未読暴走」です。生長の家が大量生産している、のではなく、「聖典の未読」です。未読のまま、相手方を決め付けていく行為です。でもこれ、『生命の実相』が生んだわけでは、ナイみたいですよ。

 その、榎本先生いわくですが、原因は「聖典の軽視」です。運動に特化して行ってしまい、聖典を「ぜんぜん読んでいない青年会員が増えた」、そんな記述がございます。そして、吉田國太郎先生が、嘆かれたという・・・・

 ところで、以下にも返信しますが、

>>>天地万物の価値は人間が決める。これが人間中心主義です。「虚説」といってる人は、総裁の絶対的価値を、たんに言表することによってすべて自分中心に決めているのです(自分の言表は、真理に照らしてすべて真実ですから、こういうことが可能になります)。<<<

 それでは雅春先生は、人間中心主義では「ない」です。雅春先生のは「神中心主義」になりましょう。そしてその神とは、「ただ善のみ」という、そんな存在です。ですんで雅春先生は、人間中心主義では「ない」です。




768初心者:2014/03/24(月) 13:46:56
さくらちゃんへ

>②真理を語れないとは、なにを持って真理というかわかりませんが、
生長の家の教えの基本は、ほぼ正確には「解説」されているのですよ。

たとえばですね、雅春先生のご文章を貼りつけるのは上手でも、真理を語れない人っていますよね。ですから、ほぼ正確に語られたとしても、それは語っておられるのではなく、さくらちゃんが書いておられますように、「解説」しておられるだけなのではないでしょうか。

総裁はおそらく、「真理はこんなに素晴らしいんだ!」というようには真理を語っておられませんね。「生長の家ではこのようにいわれています」というように、真理を淡々と解説しておられるのではないかと想像しております。

「総裁が宗教家として適性を欠いているとみなされるのは」の投稿でわたしがいいたかったのは、「偶然かもしれないが、総裁がなさっておられることに矛盾はない」ということなのです。どう矛盾がないかはすでに書いたことですので、ここでは書きませんけども、もしも偶然でなく意図してやっておられるとするなら、たいした深慮遠謀家というしかありません。

いずれにしても、騒いでいる連中というのは、深いところをみることができずに、浅いところだけをみている連中であるのは間違いありません。

「真理とはなにか」といえば、総裁がいっておられますように、「病気がこうして治った」というのは真理ではないということですね。わたしはかねてより、「真理とは仕組みである」といっておりますが、仕組みを探究していくうちに、「言表と出来事の一致」を真理とみなす従来の真理観とは根本的に異なった「大地の真理」に出会ったといったところでしょうか。

>環境問題に取り組むことが、総裁の考える、救済だったんです。
でも、わたしはこれは、何度もいうように、組織の方針にしてエコロジー運動にして、
宗教的なものを、否定していることに、問題があると思っています。

宗教的なものというより、古代ギリシャ風の環境運動というのはどうでしょう。古代のギリシャでは、大地から真理をあらわしだすのに霊的秘儀をもちいていたのかもしれませんが、現代では大地から真理をあらわしだす方法が哲学的に確立されておりますので、宗教色を否定しつつも宗教的味わいをかもしだすのは可能かと存じます。

たとえば、自然の言葉というのは、人間が言葉をそれに似せた途端に逃げていくものですね。それで追いかけていって、ふたたび言葉をそれに似せると、また逃げて行くことのくり返しとなりますね。こうした仕組みを古代ギリシャ風に「ポイエーシス」と呼ぶことができそうですから、こうした用語をふんだんにおりまぜた、古代ギリシャ風の「大地の真理」を、総裁にはぜひとも実現していただきたいと考えてます。

770「訊け」:2014/03/24(月) 13:58:52
>>初心者さま

 以下の文が「私のこと」を指すのでしたら、このやり取りは終了しましょう。以下です、

>>>たとえばですね、雅春先生のご文章を貼りつけるのは上手でも、真理を語れない人っていますよね。ですから、ほぼ正確に語られたとしても、それは語っておられるのではなく、さくらちゃんが書いておられますように、「解説」しておられるだけなのではないでしょうか。<<<

 いや、そりゃ、そうですよ・・・意味は、わかりますか。「雅春先生はどうご主張されているのか」が、論点だったでしょう。そんな論点に於いては雅春先生のご文章を紹介、していくのが当たり前の態度ではないでしょうかね。(それでも案外、時間はかかるのですよ)。

 また、「病気くらいを治せない真理」なんて、アルんでしょうかね。

 その点はまだ、貴殿のご回答を拝読しておりませんが、いかがでしょうか。病気を治せない真理、「ある」のでしょうか。



771初心者:2014/03/24(月) 14:32:10
訊け様

>「じゃ、真理とはなに?」でしょうね、私の疑問は。「果を見て樹を知る」のが、どうして問題となるのでしょうか。百歩譲って、雅春先生の御教えが「真理ではない」ことが科学的に、証明されたとしましょう。カミオカンデを超えるような実験施設が創設されそして、そこで「谷口雅春の真理は否定された!」と、なったとします。それでも私は、信じますけどもね。

ですから、雅春先生の教えが否定されるとか、そういう問題ではなくて、言表と出来事の一致を真理とみなすような考え方は最終的に人間中心主義にむすびつく、ということをいっておるのです。このことを#761で詳しく説明したつもりなのですが、読んでいただけてないのですか(わかりにくかったとはおもいますが)。

いずれにしても、雅春先生の教えが真理であるかないかを問題にしているのではなく、言表を出来事と一致させることに快感をおぼえた人々がおちいりやすい心理状態を問題にしておるのです(「現象はない」と言表すれば、たしかに気持ちがよいでしょう。そのうち、あらゆることがらにたいして自己中心的な言表をしたがるようになるのです)。

イデア論とは、対象となる相手にイデアがあらわれているかどうかを問題にする思想なのです。生長の家もおなじです。相手に実相があらわれているかどうか、生長の家の人々は、つねにこれを問題にしているではないですか。

そのイデア論によって,大地中心主義から人間中心主義への大転換が行われたということは、すでに書きました。「実相があらわれているかどうか」と、イデア論とうりふたつの発想をする生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証がどこにあるというのでしょう。

>まあ、>>761に関して申せば、「未読暴走」です。生長の家が大量生産している、のではなく、「聖典の未読」です。未読のまま、相手方を決め付けていく行為です。でもこれ、『生命の実相』が生んだわけでは、ナイみたいですよ。
 その、榎本先生いわくですが、原因は「聖典の軽視」です。運動に特化して行ってしまい、聖典を「ぜんぜん読んでいない青年会員が増えた」、そんな記述がございます。そして、吉田國太郎先生が、嘆かれたという・・・・

未読暴走?それなら、総裁を「虚説」というように、「相手方を決め付けて」おられた復興Gさんは「未読暴走」ということになりますね。復興Gさんはたしかに「虚説」という言葉をつかって総裁を批判しておられましたよね。復興Gさんでさえも未読暴走なさったということなのですね。

復興Gさんは#761で述べたケースに、あきらかにあてはまりますね。復興Gさんでさえこのありさまです。生長の家が人間中心主義の拡大に加担しないとする保証はいったいどこにあるのですか。

773初心者:2014/03/24(月) 14:33:50
#770

復興Gさんのことです。

774「訊け」:2014/03/24(月) 14:41:36


>>>「偶然かもしれないが、総裁がなさっておられることに矛盾はない」ということなのです。どう矛盾がないかはすでに書いたことですので、ここでは書きませんけども、もしも偶然でなく意図してやっておられるとするなら、たいした深慮遠謀家というしかありません。<<<

 ・・・ところで貴殿は、総裁御著書は何冊くらい読まれましたか。上記は推測のお話しでしょうか。まあ、よいのですが。 

 そしてまあ、「真理を語れない男」でけっこうな、訊け管理人です。雅春先生のご文章を、貼り付けることだけが上手です。で、その、貼り付けた文章で「人が救われている」わけです。・・・・・・救われていれば、まあそれで、充分ですね。なにも「自分が!」とか、力む必要はナイのでは?自分が真理を語れなくとも、生長の家には聖典『生命の実相』がアルのです。この本さえあれば、(昨日まで普通のおっさん、おばちゃんだったような)普通の人でも、自宅の誌友会で「奇蹟を起こせる」わけです。・・・・たとえそれが「真理と呼ばれなくとも」、私は充分素晴らしいと思います。

 で、こんなタイミングでなんですが、休日の間に起こった「オモシロイ話」などを紹介しましょう。まあ、初心者さまに信じてもらうのが、目的ではありません。まして、「オレさまは、これくらいの信仰者だ!」てな、デモンストレーションをしたいワケでもナイのです。以下は、そんな話です。

 『甘露の法雨』です。このお守りを、「野球のユニフォームの尻ポケットに入れていた」という話です。で、私は迂闊にも、そのお守りを尻ポケに入れたままで洗濯に出したんで、ありました。気づいた時は、焦りましたよ・・・「ぎゃあ!8年間も愛用していたあのお守りが!」と。「たぶん、ズブ濡れでグチャグチャだろうなあ」と。


 ・・・・ところが!なんとその、『甘露の法雨』ですけど、「ぜんぜん濡れてナイ」んです。洗濯を依頼した母に聞いたところ、「キチンと洗濯したわよ」てな返答でした。キチンと、ガンガンに洗濯機をまわしたらしいのですが、普通なら「ズブ濡れ+グチャグチャ+お守り破損」でしょう。でもそれが、「まったく濡れてイナイ」のです。もう、ビックリしましたけどもね。まあ既述の如く、初心者さまに信じてもらうのが、目的ではありません。まして、「オレさまは、これくらいの信仰者だ!」てな、デモンストレーションをしたいワケでもナイのです。でも、私程度の者でも、そんな事が起きるんです(!)。いやホント、「なんで?」なんですけどもねえ・・・





追伸

 で、追伸しておきますがこの、ズブ濡れになってなきゃオカシイ『甘露の法雨』ですけども、これ、書いたままですよ。ホントに「濡れてもイナイ」んです。私、本当にビックリしてます。

775初心者:2014/03/24(月) 15:22:44
訊け様

>また、「病気くらいを治せない真理」なんて、アルんでしょうかね。
 その点はまだ、貴殿のご回答を拝読しておりませんが、いかがでしょうか。病気を治せない真理、「ある」のでしょうか。

あるんじゃないですか。たとえば1+1=2は真理であるはずですが、これで病気が治るとはおもえません。

訊けさんがおっしゃりたいのは、「病気を治せる」というのは真理の必要条件であると、こういうことなのですよね。それなら、なぜ「病気を治せる」ということが真理の必要条件であるとお考えなのか、その理由をお聞かせください。

わたしは必要条件とはおもいませんので、訊けさんがなぜ必要条件としておられるのか、その理由を知りたいくらいです。なにを根拠に病気治しが真理の必要条件とお考えなのでしょう。

もちろん、雅春先生の教えを根拠にした説明は無効です。それでは、我田引水の説明にしかなりません。

ところで、総裁の著作ですが、ただの1冊として読んだことはありません。「偶然かもしれないが」と書いておりますように、すべて想像です。しかし矛盾がないのは事実なんですよ。矛盾だらけの復興Gさんが矛盾のない総裁を「虚説」と批判しておられるのですね。

「総裁と和解を」といっておられた復興Gさんが、「虚説と和解してはならない」といっておられるわけですから、これはどうしたって矛盾ですよね。

復興Gさんの暴走問題についてなにかコメントいただけますでしょうか。

776「訊け」:2014/03/24(月) 15:29:36

>>>なぜ「病気を治せる」ということが真理の必要条件であるとお考えなのか、その理由をお聞かせください。<<<


 単純な、話です。「それが真理だから」という、ものです。人間を幸せにするか否か、です。(←言葉尻を捉えれば、如何様にもツッコミは可能でしょうが)ところで1+1=2なんて、そんな次元の話をしてんじゃ、ないでしょ(笑)これじゃ単なる、言葉コロガシではないですか。

 繰り返しますが、「真理」ですよね、我々が語っているのは。で、「果を見てその樹を知る」ということも、あるのではないですか。つまり、雅春先生の御教えに従いますと、治っちゃうわけですよね。これって、スゴイんじゃないですかね。そして、「病気くらい治せないで真理と呼べるの?」とは単純に、貴殿とのやり取りの中では発生する疑問に、なりましょうかね。



777「訊け」:2014/03/24(月) 15:33:11

>>>もちろん、雅春先生の教えを根拠にした説明は無効です。それでは、我田引水の説明にしかなりません。<<<


 貴殿のやり取りの目的は、「雅春先生の教えではどうなっているのか?」では、なかったですか。そして、その様なやり取りの中では雅春先生のご文章ですけども、引用してやり取りするのは「当たり前の態度」ではないですか。それをスキップして、私のような、キャバクラ狂いの野球脳男のイケンなど聞いたとて、なんの価値もナイと思いますけどもね。



778初心者:2014/03/24(月) 15:38:37
病気の治癒や奇跡の実現の仕組みは、Dブレーンをもちいれば説明可能かと存じます。ただしわたしはド素人ですので、想像的に説明してみることしかできません。たとえ稚拙であっても、それらしい説明はできますので、なにが起きても「不思議」という感覚はありません。じっさいわたしのまわりでも、説明できないような出来事は数知れずおきております。雅春先生の教えとの直接的な関係はないものとおもわれます。

政春先生は、病気の治癒や奇跡を起こす仕組みを発動させることに長けておられたのでしょう。

>「真理を語れない男」でけっこうな、訊け管理人です。

復興Gさんのことだといってるでしょう。

何度でもいいますよ。

貼りつけ上手で真理を語れない人とは復興Gさんのことです。

779初心者:2014/03/24(月) 15:43:38
政春先生って誰でしたっけ?

780私はヘタレな神の子さん(だははは):2014/03/24(月) 15:45:27
>>779

  ブッ(笑)

781「訊け」:2014/03/24(月) 15:48:38


 まあ、ザッと当方の主張をまとめますが、箇条書きにすれば以下の如しでしょうか ―

○ それが目的ではナイにせよ、「真理」であるならばせめて、「人間の病気くらいは治る」ものではないでしょうか。

○ ここにふたつ、「真理がある」とします。片方は「病気(くらい)治り」まして、もう片方は、「治りません」とします。さらには後者は、「科学的に証明された真理」とし、前者は「証明されてイナイ」としましょう・・・・それでも私にとっての真理とは、前者でしょうかね。

○ なぜなら「真理だから」です。真理と呼ばれるもので病気が治らないとは、考えられないからです。

○ あの、志恩さんの体験談をご覧ください。科学的には「治らない」とされた外傷ですけども、「治っちゃった」わけです。これっていったい、どっちが真理でしょうか。(参考:志恩さんの体験談http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1308876271/1937

○ (貴殿ご定義の人間中心主義ですが)それに「雅春先生の思想が該当する」にせよ、問題はナイと思います。実際の雅春先生の思想とは、人間を中心にしたものではなく、「神を中心にすえたもの」だからです。

○ 「虚説を排除せよ」とは、生長の家の思想ではありません。正しくは、(聖典14巻にあるごとく)「相手を悪だと見る目を排除せよ」です。つまり、虚説とは相手方にアルのではなく、あくまでも「自分側にあるもの」とするのが、御教えです。排除すべきは相手ではなく、「自分側の曇った目」を指します。(ちなみに復興Gさまのご発言は、そんなに問題でしたか?ウロ覚えです)

○ また、「雅春先生のお考えでは、どうなのか」の論点に於いて、御著書から引用するのは「当たり前の議論態度」だと、思います。




782初心者:2014/03/24(月) 16:32:00
訊け様

まとめていただいてありがとうございます。

○ (貴殿ご定義の人間中心主義ですが)それに「雅春先生の思想が該当する」にせよ、問題はナイと思います。実際の雅春先生の思想とは、人間を中心にしたものではなく、「神を中心にすえたもの」だからです。

政春先生の教えにもとづいて「問題はない」というのではなく、じっさいに起きていることからどうなのか、ということです。復興Gさんの暴走事件のような問題がじっさいに起きているのです。もちろん本流問題も起きてます。じっさいに問題が起きているのに「問題はない」というわけにはいかんでしょう。

なんどもいいますが、わたしがいっているのは、言表と出来事とを一致させようとすることの問題点です。「虚説」と言表すれば、その人のなかで、矛盾がないはずの総裁が虚説となってしまうことの問題点です。「教えとはちがう」といわれても、じっさいにこういう人があらわれているわけですから、この問題をほっておくわけにはいかんでしょう。

○ 「虚説を排除せよ」とは、生長の家の思想ではありません。正しくは、(聖典14巻にあるごとく)「相手を悪だと見る目を排除せよ」です。つまり、虚説とは相手方にアルのではなく、あくまでも「自分側にあるもの」とするのが、御教えです。排除すべきは相手ではなく、「自分側の曇った目」を指します。(ちなみに復興Gさまのご発言は、そんなに問題でしたか?ウロ覚えです)

「虚説」といっている人の側に虚説があるとします。それで、この虚説を消したらなにが起こるのですか。それまで虚説であった総裁が虚説でなくなるのでしょう。「虚説」と言表すれば総裁は虚説となり、「虚説はない」と言表すれば総裁は虚説でなくなる。その人のなかですべてが処理されるわけですよ。

総裁が虚説であるかないかはその人がぜんぶ決めるわけです。言表と出来事は一致するわけですから、その人が「虚説」といえば総裁は虚説となり、「虚説はない」といえば総裁は虚説でなくなるのです。これを人間中心主義といっているのです。自分中心にすべてが決まる。これを人間中心主義といってるのです。問題は大ありではないですか。

○ また、「雅春先生のお考えでは、どうなのか」の論点に於いて、御著書から引用するのは「当たり前の議論態度」だと、思います。

雅春先生の教えでどうなのか、ではなく、一般的にどうなのか、でなければならないでしょう。雅春先生の教えでは必要条件だが、一般的には必要条件ではないというのであれば、「必要条件ではない」となるではないですか。

ところで復興Gさんの暴走問題ですが、WEB誌友会板2の#498に以下のコメントがあります。

>虚説は排撃して、「神の子・人間至上主義」の真説を高く掲げましょう。結果は同じでも、その過程が大切です。

「虚説」のみならず、「神の子・人間至上主義」や「真説」の文言もありますね。どうですか。これでも「問題ない」とお考えでしょうか。とりあえず問題の投稿をご覧になってみてください。

783初心者:2014/03/24(月) 16:44:43
訊け様

復興Gさんの暴走問題は「未読暴走」では片づかんでしょう。雅春先生の教えがこのような人物をつくりだしたと考えるしかないでしょう。復興Gさんでも「未読暴走」であるなら、ほぼ全員が「未読暴走」の危険性をはらんでいるということではないですか。

791初心者:2014/03/24(月) 22:38:04
訊け様

あやまって「未開」と呼ばれる人々のなかには、なにをするにも大地や聖霊におうかがいをたてる人々がいるといいます。たとえば聖霊に「総裁は虚説か」とうかがいをたて、「虚説である」との答えがあれば、総裁は人々によって虚説とみなされ、逆の答えがあれば、虚説とはみなされないわけです。

こうした人々は、自分の言表と客観的出来事とを一致させようとはしていないので、人間中心主義におちいることはありません。文明人のあいだでは、言表と出来事の一致は、誰も問題にしないほどに、いまやあたりまえのことと考えられています。

誰におうかがいをたてるでもなく、「地下資源は人間のものだ」と言表しさえすれば、すべての地下資源は人間のものとなるのです。「牛は牧場で飼って食用にすべき生き物だ」と言表すれば、それが客観的真実となって、牛は食用の家畜にされてしまいます。

文明人にとって、自分の言表が客観的事実となるのは、もはやあたりまえのことなのです。言表すれば、それが客観的事実となるのです。ギリシャの時代はどうであったのでしょう。いまでもうかがいをたてている人々はいるわけですから、ギリシャの人々も、必要とあらば大地におうかがいをたてていたのかもしれません。

イデア論の登場によって事情は一変したはずです。言表と出来事とを一致させることが人々の課題になったからです。おうかがいをたててなにかを決める時代ではなくなったのです。

「あのものにはイデアがあらわれている」と言表すれば、あのものにはイデアがあらわれていることになるのです。「あのものにはイデアがあらわれていない」と言表すれば、あのものにはイデアがあらわれていないことになるのです。イデア論の登場によって、人間が「あのもの」の価値を決められる時代になったというわけです。人間中心主義がこうして開始されました。

792志恩:2014/03/25(火) 04:56:03
「地球環境問題」で、今、日本でも、一番憂慮すべき問題は、
        🇨🇳「中国の大気汚染」問題であるそうだ。

3月23日(日)11時30分、中国メディアによれば、「PM2.5濃度、室内の方が高い場合も―とある。」と。

このPM2.5濃度の猛毒大気が、日本の上空に流れて来て、日本列島全体を覆う。
誠に憂慮すべき「地球環境問題」だと思う。

中国の企業は、大気汚染源となる重油を使い、各家庭では、石炭を燃料に使っているためだと聞いている。

専門家によると、室内のPM2.5濃度に影響を与える要因は主に2つある。1つは室外のPM2.5濃度。
室外の濃度が高い時、室内の濃度は通常室外と一致する。

室外のPM2.5濃度が低い時、室内のPM2.5濃度は室外をはるかに上回る。
大気が汚染されている時は、窓を閉めても室内のPM2.5濃度は効果的に下がらない。

♠2億8000万人が危険な飲用水を利用、中国政府が環境報告書発表―中国

♠深刻な大気汚染、観光客は“青空の時に撮影された風景写真”の垂れ幕で記念撮影―香港

♠外に出なくても生活できる! 中国に  「インドア都市」続々誕生―米誌

♠中国で成功した外国人創業者が 次々と海外へ“逃亡”、生活環境の悪化が原因―中国メディア

793「訊け」管理人:2014/03/25(火) 10:20:35

>>さくら

(ちょっと「さくら」に助力を請います。)

 ・・・・ところでさくらは、この、初心者さま説が「理解できる」の?オレには、もう、さっぱり分らないのだ・・・・なんでその、「人間中心主義」だけども ―― 雅春先生が、これに該当するか否かはさて置いて ―― これが「何故問題なのか」が、先ず、ワカラナイ・・・・。

 ところでこの、「人間中心主義」なんだけど、こんな定義の様子だ。「人間中心主義」とは>>746に拠れば、

「言表と出来事との一致をもって真理とみなすこと」。

 との事。

 さくらには、理解できるのか。「言表と出来事との一致をもって真理とみなすこと」だけど、なんでこれが「問題」なのか、等は。オレ様はこの件だけども・・・・

 ・・・・・いや、ワカンナイ。先ず、「なんでそれが?人間?中心と呼称されるのか」が、ワカンナイし、さらには、「なんでそれが問題なのか」だけども、それも、ワカンナイ。さらにつづいて、

>>>(>>746初心者さまご投稿文より)したがって、「言葉で真理を言い当てられる」とおもうことも人間中心主義です。あるいは、「言葉で真理を言い当てたい」と欲するのも人間中心主義です。<<<

 ・・・・これだけども、やっぱり、うーん、ワカンナイ。先ず?言い当てる?の意味も、ワカンナイし、言い当てたいと欲することが、「問題とされる」(=人間中心主義だから)理由も、ワカンナイ。




追伸

 ざっと初心者さまの説を読めば、こうはならないか?いやその、>>746が?問題?であり?人間中心主義?なのであれば・・・・・・先ず、「教団の環境運動だって、問題ですよね」と。いや、アレだって、「言表と出来事との一致を目指してイル」んじゃ、ないのかね?環境保護!の方針の元、三代目の総裁は150億も費やして、森の中にオフィスまで造営あそばされたよね(笑)これって、「言表と出来事との一致を目指してイル」じゃ、ないのかね?(「そうではない」のであれば、理由は何だろうか)

 ・・・・いややっぱ、ワカンナイ。初心者さまの説は、ワカンナイわ、オレ様には。

794「訊け」管理人:2014/03/25(火) 10:33:21
>>793投稿の補足

>>>(>>746初心者さまご投稿文より)したがって、「言葉で真理を言い当てられる」とおもうことも人間中心主義です。あるいは、「言葉で真理を言い当てたい」と欲するのも人間中心主義です。<<<


 ・・・・・これが「人間中心主義」であり、「問題である」のならばいったい、我々はどうすればよいのだろうか。それが、一点目の疑問だろうか。そして、二点目の疑問は、初心者さま説によれば現総裁は、「この点を解決しようとしている」と、こうなるワケですよ。総裁の環境運動は、この、「人間中心主義を脱しようとしている」と云うのが、初心者さまの仮説だけども、意味はワカルのか?さくらには・・・・・・オレには、まったく、ワカンナイのよ(笑)。

 ・・・・・まとめるけども、

○ なんで「人間中心主義が問題なのか」が、ワカンナイ
○ なんで現総裁は、「人間中心を否定しようとしている」と云えるのか、それがワカンナイ

 に、なるだろうか・・・・・(まあ、雅春先生の御説がこの、「人間中心主義」に該当するのか否かの判断は、先ず、先送りと言うことで・・・・・いやだって、ワカンナイんだもの※)




<註>

※ 雅春先生の御説がこの、「人間中心主義」に該当するのか否かの判断は、先ず、先送り

 >>746の定義通りに行けば、雅春先生は「人間中心主義」なのでしょう。でもこれ、あくまでも、「初心者さまの基準に拠れば」ってな、話になるよね。
 で、雅春先生がそれに該当するならば、世の中の哲学のほとんどは、その、「人間中心主義と云える」のでは?なぜと申してほとんどは、まあ、「真理を言い当てようとしている」わけでしょ?(「言い当てる」の意味を解さないままに、投稿しているケド)「言葉で真理を言い当てたい」とも欲している、そうは言えるよね(雅春先生以外の哲学も)。

 ・・・・なのでよく、ワカンナイのだよ。(助けてください)

795「訊け」管理人:2014/03/25(火) 10:43:05
>>793投稿の再補足


 で、>>794でオレ様は、「雅春先生は人間中心主義と云えます」と、述べたワケだけど(背景説明を要する言い方なので、必ず>>794を読んでもらいたいケド)、でも、以下の初心者さまに拠れば、また、違ってくるのよね・・・・読んでみましょうか。

>>>こうした人々は、自分の言表と客観的出来事とを一致させようとはしていないので、人間中心主義におちいることはありません。文明人のあいだでは、言表と出来事の一致は、誰も問題にしないほどに、いまやあたりまえのことと考えられています。
誰におうかがいをたてるでもなく、「地下資源は人間のものだ」と言表しさえすれば、すべての地下資源は人間のものとなるのです。「牛は牧場で飼って食用にすべき生き物だ」と言表すれば、それが客観的真実となって、牛は食用の家畜にされてしまいます。<<<

 キーワードは「おうかがい」なんだけども、これならば雅春先生のは、「問題ではない」つまり、人間中心主義ではナイになるよね。理由は明快であり、雅春先生の御教えは(神想観などにより)「常に自分を無くして」「神の意向を聴くこと」に、あるわけだからね。「吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地の〜」(招神歌)にあるように、雅春先生の御教えは「常に自分を無くすこと」だったでしょう。

 ならばこれは、雅春先生の御教えだけども、「人間中心主義には該当シナイ」に、なるんじゃなかろうかと・・・・・・・なので、ワカンナイのよ、オレ様には(笑)




796初心者:2014/03/25(火) 10:57:50
訊け様

>三代目の総裁は150億も費やして、森の中にオフィスまで造営あそばされたよね(笑)これって、「言表と出来事との一致を目指してイル」じゃ、ないのかね?(「そうではない」のであれば、理由は何だろうか)

訊け様は、以上のことをもって、総裁が「言表と出来事との一致を真理とみなしておられる」とおっしゃりたいのですか。

797「訊け」管理人:2014/03/25(火) 11:10:30

>>>訊け様は、以上のことをもって、総裁が「言表と出来事との一致を真理とみなしておられる」とおっしゃりたいのですか。<<<

 いや、他にもありますよ。たとえば・・・・思いつくところを挙げれば「ノーミート」でしょうか。「動物がかわいそう = 肉を食べるな」でしょ?それって、該当しないのでしょうか。いやその、「言表と出来事との一致」ですけども、目指していることには、ならないのでしょうか。

 いやなんか、定義が特殊過ぎて(少なくとも、私にはw)全然、意味がワカンナイ状態です。その状態での問い合わせですんで、トンデモナイ事例を持ち出すことは、あるでしょう。けども、「以上のことをもって、そう言いたいのか」と問われれば、「そうですね」としか返答、できぬ状態でしょうか。



798さくら:2014/03/25(火) 11:21:15

>>793
……ごめん監督。
(そして、初心者総裁、、笑)

端的に言いますと、
わたしは、初心者哲学理論で、おそらく理解はしてないのです。
(なんで、超越左脳読解力!がある訊けさまに分からなくて、わたしに読み取れると…?)


…ただ、わたしは信仰問題から
そして、初心者さまは、哲学的な立場からだけれど、
ベクトルは、同じような気がしているんです。

なぜなら、
初心者さまは、
榎本先生の悟りの世界観には、
賛同くださいましたので、感じたんです。

 『私たちはまた、「實相」という揮毫を見ますと、實相を観なければならないと思い、ついつい力んでしまいがちです。
しかし、そもそもこの「實相」という言葉は、神さまがご自分のおつくりになられた世界と神の子人間があまりにも素晴らしいので、「甚だ善かりき」と言い給いて、「善いかな、善いかな」という意味に於いて「實相、實相」と神様の無限の祝福が文字になってあらわれているのであります。

ですから、むしろ「實相」のほうが私達を観じ、拝んでいてくださっているのです。』

「葩(はなびら)さんさん」より

…うまく、言えてないと思いますが、
その違いが訊けさまなら、お分かりになりますでしょうか?
おそらく、訊けさまの信仰観と同じだとも、感じていました。

>虚説は排撃して、「神の子・人間至上主義」の真説を高く掲げましょう。


わたしは知識も全く乏しく、非常に人格も劣り幼いものですので、言う資格はないのですが、
それとは無関係に、こういうお立場は、決定的に信仰観が違うことを感じてしまうんです。
(あなたが奇しくも仰いました、
「果を見て樹を知る」
の例も見せて頂きましたし、
そして腫れ物に触るようなお仲間意識の世界と、女性の世界には、決して口をだすもんじゃない、という、良い、オトナなまなびを、させて頂きましたので、これまで。m(_ _)m)

初心者さまが、人間中心主義?を、問題にするのは、
おそらく、信仰でいえば…、
「自我」の増大を助長してしまう構造はないのか?
ということだと理解があります。

そして、これが、生長の家の問題を作りだした原因には、なってはいませんか?
との問題提起だと、個人的には受け取っています。
(初心者さま、違っていれば、訂正を…)

いまの教団の問題も、その思考の構造から抜けられなかったからではないか、…という思いがあるので、
本来の信仰運動にもどることを、わたしは願っているのですが。

799さくら:2014/03/25(火) 11:38:29
ちなみに、訊けさまの学習障害だったというプロフィールを読んだとき、
この超越左脳読解力なら、ありうるな…と感じたことがありました。

それは、褒め言葉ですよ、もちろん。

あまりに読解力が正確すぎて、苦労もするだろうなというか…。

800「訊け」管理人:2014/03/25(火) 11:43:45

>>>学習障害だったというプロフィールを読んだとき、<<<

 もう、障害者なんだよ、オレさま(笑)「もっと、優しくシロよ」とか、言いたくナルよな(笑)で、障害者のオレ様は現在、「語源に夢中」です。(詳しくは、雑話サロン板を)




801「訊け」管理人:2014/03/25(火) 11:45:45


 「・・・・・3年前から、読めるようにナリました。ウソつくつもりは、ありませんでした」


 (もちろん、>>800に関する余談なんで、スルー希望)

802初心者:2014/03/25(火) 12:03:16
訊け様

>>746の定義通りに行けば、雅春先生は「人間中心主義」なのでしょう。でもこれ、あくまでも、「初心者さまの基準に拠れば」ってな、話になるよね。
 で、雅春先生がそれに該当するならば、世の中の哲学のほとんどは、その、「人間中心主義と云える」のでは?なぜと申してほとんどは、まあ、「真理を言い当てようとしている」わけでしょ?(「言い当てる」の意味を解さないままに、投稿しているケド)「言葉で真理を言い当てたい」とも欲している、そうは言えるよね(雅春先生以外の哲学も)。

ギリシャの時代にも「世界は水である」や「世界はアトムでできている」というようなことは言ってました。現代科学にもこうした傾向はありそうです。科学者たちも世界がなんでできているかを知りたがっているはずですから。

生長の家ではどのようにいわれているでしょう。「物質はない」、「現象は心の影である」、「実相は完全である」と、このようにいわれています。

ギリシャの時代とのちがいがわかりますか?ギリシャの人々は世界のなんたるかを言い当てようとしていた、ということがわかります。生長の家はちがいますね。生長の家は、世界のなんたるかを言い当てようとしているのではなく、世界を評価しようとしているのです。

生長の家の「言表」とは、世界を評価するための言表です。「物質はない」と世界を評価して、世界がこの評価どおりになっているとみなすのが、生長の家の考え方なのです。

わたしのいう「言表と出来事との一致」とは、自分が世界を評価して、世界は自分が評価したとおりになっているとみなすことをいっているのです。ギリシャの時代の「言表と出来事の一致」とのあきらかなちがいがここにあります。

「世界は自分が評価したとおりになっている」。このように考えるのが人間中心主義です。

803さくら:2014/03/25(火) 12:13:17
>>763
初心者さま

ちょっと前の返信になり、割り込むみたいで、ごめんなさい。

生長の家ではない初心者さまと、
榎本先生の世界観に共感できるのは、嬉しいです。

…ちなみに、
友人の話で、
先生は、晩年、マクドナルド・ベインという人の、キリストの霊示集の解説を読まれていて、
「ここには、キリストが『私の説法はあなたを悟らせることはないのだ』って言ったと書いてあって、ぼくはいっぺんでこの本を信用したんだ。」と仰っていてたり、

また、指揮者チェリビダッケに感動した人が、
「あなたの指揮がすばらしかったので感動しました。」と賛辞をのべると、
チェリビダッケは不愉快そうに「あなたが感動したのは、あなたが感動したのであって、私の演奏は関係がないでしょう。」と云ったという話を聞かれて、
先生は、チェリビダッケ指揮の音楽を愛聴されていたと。


わたしも、あまり直接ご指導を受けたことはないのですが、
自分の指導の力を、「趣味だよ!笑」と言われて、
そのお力をあまり表に出されることされなかったようですね、

ほんとうの指導というのは、こういうことなのかな、と垣間見ます。

ただただ、一人一人が、
そのままに、内なる真実や喜びに気づくことだけを、願われていたのかということを伺い知りました。

804さくら:2014/03/25(火) 12:34:00
>>798追加、

端的にいえば、
前に書いた、

一、宗教の教義や論理を根拠にして、
自分が信じた理想の正義、または善を実現するために
都合の悪いもの、邪魔になるもの、またその反対になる考え方を、
「悪や虚説」として、排除する、
という二項対立の考えに陥るものと、

二、宗教行や祈り、感謝の生活を大切にしていく信仰心。
「理想実現」を掲げるというより、
人や物の奥にある「理念」や神性を礼拝する生活。
(二項対立がないので、何かを排除するという発想はない。)


そういう違いでも、あると感じています。

すみません、
わたしは超右脳読解力すぎてか、
聖典の論証とかできなくて。

805さくら:2014/03/25(火) 12:46:11


>>798

…で、訊けさまは、このことについては、どう思いますか?

この解釈では、ご理解できませんでしたか?

806初心者:2014/03/25(火) 13:28:00
訊け様

>キーワードは「おうかがい」なんだけども、これならば雅春先生のは、「問題ではない」つまり、人間中心主義ではナイになるよね。理由は明快であり、雅春先生の御教えは(神想観などにより)「常に自分を無くして」「神の意向を聴くこと」に、あるわけだからね。「吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地の〜」(招神歌)にあるように、雅春先生の御教えは「常に自分を無くすこと」だったでしょう。

復興Gさんはまいにち神想観を実修しておられるそうですね。訊け様がいっておられるとおりだと、復興Gさんは、おうかがいをたてて、それで「虚説を排除し、人間至上主義を実現せよ」といっておられることになりますよね。雅春先生の教えを忠実に実践なさった結果、こうした結論をえられたことになりますよね。

「問題ではない」とはどういうことなのでしょう。復興Gさんは、教えにもとづいて「人間至上主義の実現」ということをいっておられるのではないのですか。

807初心者:2014/03/25(火) 14:55:09
さくらちゃんへ

>先生は、晩年、マクドナルド・ベインという人の、キリストの霊示集の解説を読まれていて、
「ここには、キリストが『私の説法はあなたを悟らせることはないのだ』って言ったと書いてあって、ぼくはいっぺんでこの本を信用したんだ。」と仰っていてたり、
また、指揮者チェリビダッケに感動した人が、
「あなたの指揮がすばらしかったので感動しました。」と賛辞をのべると、
チェリビダッケは不愉快そうに「あなたが感動したのは、あなたが感動したのであって、私の演奏は関係がないでしょう。」と云ったという話を聞かれて、
先生は、チェリビダッケ指揮の音楽を愛聴されていたと。

理解しがたいほどの高い悟りの境地だとおもいます。あえて解釈するなら、すくなくともここには、言表と出来事との一致を真理とみなすような考え方は書かれていない、ということになりますかね。

「わたしの説法はあなたを悟らせることはない」とはどういうことなのでしょう。「すでに悟っているのだから悟らせることはできない」。生長の家の人々であればきっとこのようにいうでしょう。榎本先生の悟りがこの程度のものであったとはおもえません。

「あなたを悟らせることはない」とは、「あなたが感動したのは、あなたが感動したのであって、私の演奏は関係ない」とあるのですから、これは「わたしの悟りとあなたの悟りは関係ない」ということなのでしょう。

>初心者さまが、人間中心主義?を、問題にするのは、
おそらく、信仰でいえば…、
「自我」の増大を助長してしまう構造はないのか?
ということだと理解があります。
そして、これが、生長の家の問題を作りだした原因には、なってはいませんか?
との問題提起だと、個人的には受け取っています。
(初心者さま、違っていれば、訂正を…)

生長の家の人たちは、「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係ない」とは考えませんよね。「迷っているかどうか」を、かならずといっていいほどに問題にしますよね。なぜなのでしょう。

「真理の言葉で心がうちふるえた」という人がいますよね。「真理の言葉と、心がうちふるえるほどの感動はなんの関係もない」という人はいませんよね。どうしてでしょう。

生長の家の人たちは、「世界はほんらい完全なのだから迷いというものはあってはならない」と、きっとこのように考えているのでしょう。思いと現実は一致しなければならないのですから、迷っている人がいるという現実が許せないのでしょう。

「世界に全責任をもて」とする雅春先生の教えに反して、榎本先生は「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係がない」と考えておられたのでしょう。もしそうであれば、このことは、榎本先生が言表と出来事との一致を問題にしておられなかった、ということを示しているようにおもいます。

「相手が迷っているかどうかは自分には関係がない」とする人と、相手が迷っているかどうかが気になって仕方のない人とでは、自我の拡大の仕方がまったくちがっているということです。

たいていの物事というのは、大きくなればなるほど薄まるものなのですね。クルマの排気ガスにしても、大気中にひろがれば薄まります。榎本先生の自我は拡大しつつ薄まっていかれたのでしょう。生長の家の人たちの自我は、いくら拡大しても薄まることがないのですね。なぜかといえば、生長の家の人たちは、言表と出来事とを一致させることで自我を拡大させていってるからなのです。

それにしても、真理の言葉を聞いて心がうちふるえるほどの感動をおぼえるのはなぜなのでしょう。おそらくは、「どんな言表にもそれに出来事を一致させる力がある」という話を聞いて、その人のなかでつかのまの自我の拡大があったからなのでしょう。うちふるえるほどの感動とは、自我が薄まることなく拡大したことのよろこびなのでしょう。チェリビダッケという人は「自我を薄めることなく拡大させるな」と、このようにいいたかったのかもしれません。

榎本先生の悟りは、言表と出来事との一致を否定することで得られたのではないでしょうか。

808志恩:2014/03/25(火) 15:33:28
トキ様掲示板より
240 :志恩:2014/03/23(日) 00:37

吾々、心ある信徒たちは、雅宣様が、「環境問題」「自然への回帰運動」をやることについてを 
反対や批判をしているのではありません。

雅宣様が、「法燈継承者」と自称しながら、肝心要の生長の家の「法」(真理)は、これっぽっちも
継承せず、切り捨ててしまい、「自然への回帰」運動のみ にしてしまったことを、おかしい!!と、大批判しているのです。

話を、すり替えないで欲しいです。!!


⬇は、雅宣総裁の代弁者=初心者様の過去文です。

今から2年前のものですが、「自然への回帰」という「環境問題」をやる理由を述べておられます。

2年前は、初心者様は、

シャーマニズムを、面白いからという理由で、個人で勝手に やってみようと思うと言われてました。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

信仰板
1866 :初心者:2012/03/27(火) 16:42:

組織が変わらないのであれば個人でやるしかない。

わたくしは、生長の家が嫌いになりましたから。

(略)

できれば、アーノルド・ミンデル(志恩注:シャーマニズム)を救済に役立てたいと考えております。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
つぎの ご投稿文は、

💚初心者様が、初心者様が考えておられる
「真理」・「救済」・「信仰」とは 。

💚初心者様は、私の「真理」は、生長の家とは、無関係だ。とい述べられ、

 アーノルドミンデル(シャーマニズム)を応用して、個人で勝手に、やってみようと思う。

💚「自然への回帰」を、面白いから、やってみようと思う。  と、明言されてます。
…………… 
1868 :初心者:2012/03/27(火) 18:53:48 ID:ixiWFYoQ

>1) ここで云う「真理」とはなにを指すのでありましょうか。これは「真理の追究」を指す、
という理解でよいのでありましょうか。

💚わたくしのいう「真理」とは、生長の家とは無関係です。

現代思想と現代科学から 何を学ぶかということです。実は 私の中では、この二つは つながってきています。
現代科学の成果にたいして、生長の家の教義では説明できないことがらが、現代思想では説明できてしまう気がするのですね。
その昔、仏教 中観派も おなじようなことを言っていたと理解しております。

💚このあたり、面白いので 追究していきます。 もちろん、たいしたことはできませんけども。
面白いからやるだけです。

>2)同じく「救済」とはどういった規模のものでありましょうか。
また、たとえば現在の教団方針(CO2削減等)はここに含まれるという理解で宜しいのでありましょうか。

💚「救済」は、なすとすれば、個人で 勝手にやってみようということです。極小規模です。

アーノルド・ミンデルを応用できれば、これはよいですね。

💚「組織」としての「救済」は、もちろん「環境問題」ですね。

>3) 最後に「信仰」に関してでありますが、これはどんな意味になりましょうか。
「聖典を機軸とした」方針で行きつつも、「真理探究の結果知りえた」ことがらを随時反映させて行く、
そういったイメージでありましょうか。

イメージしている信仰は、個人的には素朴なものですね。

💚宗教とはおそらく無関係です。

809志恩:2014/03/25(火) 15:35:37
トキ様掲示板より

実相哲学を論じる部屋
278 :志恩:2014/03/24(月) 22:26:0
「脱力ネタ」板

728 :さくら:2014/03/22(土) 12:21:42
初心者さま


(…想像するに、組織の抵抗や変革は、大変ですよ、。
雅春先生も、政治運動に力を入れて、
本来の信仰が疎かになったと言われたことがありましたしね。)
………………………………………………………………………..
        ⬆
さくらさんが「歴史から何を学ぶか」から引用されたと書かれていましたので、
私は中古本(送料込みで450円)で取り寄せまして、その部分を、読みました。

で、この、さくらさんの書かれた文だけですと、
まるで、雅春先生が、生長の家が政治運動をしたことが、悪い事だったと言われたよう
に、受けとれますが、

59,60頁の全文を読みますと、ニュアンスがちがいます。

雅春先生は、そうではなくて、「勝利に傲らず聖胎を長養すべし』と題された
文を「聖使命紙」 昭和43年9月1日号に 示されたのです。

確かに、さくらさんが、言われたように、幾分方向転換して、政治的方面に
運動を進めてきたために、宗教の純粋さや、清潔さが少しでも失われて来ていないか
と言われておりますが、

だからといって、雅春先生は、
政治をやった事が、間違っていたとか、政治は、
やめるべきだとか、は、書かれては おられなかったのです。

そうではなくて、
「今までは、宗教方面が縮んで政治方面が伸びたが、今度は
宗教方面が伸びるために、政治方面に伸びる力を内に秘めて養う必要があるとされ」、

それは、どんな意味かと 申しますと、

翌年昭和44年の参院選に打ち勝って更に吾々の同志を増やし、昭和45年の日本の危機
を乗り越え、更に次の参院戦のために力を蓄えるためである、と述べられて
おられるのです。

つぎの選挙のことも、考えられての ご発言なのです。

しかし、その後、生政連は、遂に活動停止となりました、
とあります。
どなたによるご決断とご発表によるかといえば、清超先生のご指導により、
と書かれておりました。

つまり、生政連の活動停止をされたのは、清超先生でありました。

810志恩:2014/03/25(火) 16:06:31
トキ様掲示板の方に、以前から、
初心者様とさくらさんは、二人でコンビで出て来ては、

(私は知りませんが、お二人は、同一人物 だという噂ですけれど)

自分たちが気に入らない事を言った人間…

かっては、復興G様、a hope様でしたが、

こんなふうなやりかたで、激しく狙い撃ち、連射されてました。

今回も、今までのやりかたと、まったく、うりふたつの、やりかたですね。

初心者様、さくらさんのお二人は、

まったく、おんなじ意見で、おんなじ思考回路ですが、

入れ替わり立ち替わり、互いに助け合いながら

これでもか、これでもかと

対象人物に対して、理屈をこね上げるのです。

今回は、訊けさんが、その対象者になりました。

訊けさんの疑問は、生長の家の心ある閲覧者の皆様が抱く、ごく当たり前な当然の

疑問であったと思います。

私は、3年間、訊けさんを見て参りましたが、

今回の訊けさんが、今までで一番、素直さと 人間としての良さと、

男としての かっこよさを 感じました。

これが、正直な気持ちです。

さくらさんは、なんですか、負けそうになったら、相手のプロフィールのことまで

持ち出して、そんな事は、掲示板上のことですから、真偽のほどは、不明ではないですか!!

あなたは、人間として、最低だと感じました。

いやったらしぃたら、ありゃしない!!!!!!

初心者様もさくらさんも、口では、どんなに偉そうな正しそうなことを、

くどくど くどくどしゃべり続けても、いつものように、

1000人のうち、5人しか、分かりませんでしたよ。

わかったのは、「うつわ」の小ささだけでした。

閲覧者の、ほとんどの方々が、そのように感じられたと思います。

811志恩:2014/03/25(火) 16:10:07
初心者様

反論がございましたら、🐎さんでなく、初心者様のお名で、
おっしゃってください。

812初心者:2014/03/25(火) 16:40:16
訊け様

人間という生き物は、言表に出来事を一致させようとしますよね。「田舎にすみたい」とおもった人は、「田舎に住んでいる」という出来事を実現させようとしますよね。

でもですね、わたしのいう「言表と出来事の一致」はこういうことではないのです。「言表すればそれが事実となってしまう」。こういうことをいっているのです。

「人間知」という言表はすでに「ある事実」をあらわしています。ある事実とは「自分が相手より上である」という事実です。

「田舎に住む」というように、具体的になにかをなす必要はありません。「人間知」と言表するだけで、「自分のほうが相手より上」という事実を簡単につくりだせるのです。「人間知」と言表する人たちにとって、「自分が相手より上である」というのは、すでに確実な事実なのです。

わたしが、「言表と出来事の一致」を問題にする理由がわかりますか。言表するだけで事実をつくりだしてしまう人たちの存在を問題にしているのです。こうすることで自我を拡大させつづけている人たちの存在を問題にしているのです。

そうした人たちの存在が、言表と出来事の一致を真理とみなすこととどう関係するのか。訊けさんはおそらくこうした疑問をもたれるでしょう。

すでに説明したように、生長の家の真理はギリシャの時代の真理とは大きく異なったものとなっています。世界のなんたるかを言い当てるのではなく、言表がそのまま世界の評価となってしまう真理なのです。

「物質はない」とする言表と、物質があるかのようにみえている現実と、はたしてどちらが優先されるのでしょう。いうまでもなく、優先されるのは言表です。世界が言表を決めるのではなく、言表が世界を決めるのです。

よいですか。「言表が世界を決める」。これが生長の家の真理の考え方なのです。自我を拡大させている人たちは、言表によって世界を決めているのです。

813初心者:2014/03/25(火) 16:47:26
志恩様

訊けさんが助言を求められたので、さくらちゃんがでてこられただけではないのですか。しかもさくらちゃんは、わたしの考えに反対するような意見も述べておられるようにおもいます。

「総裁は宗教家として不適格とみなされるのは」のわたしの投稿にたいして、さくらちゃんが異なった見解を述べられました。そこでわたしは「総裁には矛盾がないということをいいたかった」と弁明いたしました。

814初心者:2014/03/25(火) 17:15:42
訊け様

総裁は言表がそのまま事実にはならないとわかっておられるからこそ、言表を事実にするための具体的な運動をはじめられたのではないですか。

総裁は、言表によって世界の運命を決めようとしておられるのではなく、具体的な活動によって世界の運命を決めようとしておられるとわたしは理解しております。

815志恩:2014/03/25(火) 17:17:05
初心者様

>>しかもさくらちゃんは、
わたしの考えに反対するような意見も述べておられるようにおもいます。<<

さくらさんのやりかたは、

初心者様に対して 
多少の 疑問 を呈したり、
多少の 反対意見 も述べるのです。

すると、それに対して、初心者様は、さくらさんの疑問に答えたり、そうではないと、説明したり、

独りで言っただけでは、話が、それで終わってしまうために、
さくらさんという人物を用意されて、

二人で、言葉のキャッチボールをしながら、ご自分の意見を、どんどん膨らませるために、
延々としゃべり続けるために、そうされていることが、分かりました。

過去、3年間分の、
ものすごくたくさんある初心者様とさくらさんの過去文を、時間と日数をかけて、読み返しましたので、
その手法は、分かっております。

816初心者:2014/03/25(火) 18:23:15
志恩様

論点ずらしの相手はいたしません。

817志恩:2014/03/25(火) 18:47:14
初心者様

「歴史から何を学ぶか」(平成15年度 生長の家教修会の記録)の
第二シンポジウム 生長の家における法燈継承とはを、読みました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

法燈継承者の資格につきましては、
「生長の家の教規」に

創始者の家系に属する者、その他「生長の家」の信仰厚き者のうちより…とあり、

なぜ、血筋から選ばれるかといいますと、
自ずから、「法脈」と「血脈」は、一貫して伝えられるからだと、書かれています。

この「血脈」についての、仏教的な説明は、
「血脈」は「けちみゃく」と読み、

「血脈」とは、「法(真理)とか教義」とかが、連綿とするが如き、相承されていることを
いうのであって、「血脈」とは、「法脈」のことである。

と明記されてます。

正確にいえば、「法脈」は、 「血統」、(血筋)に...という意味ではないのでした。

なのに、なぜ、「法燈継承者」を、血筋から選ぶかといえば、
その方が、
「法脈」(法や教義)が、連綿と相承されるからだと、ありました。

(釈尊の如く、一系の血筋に法燈が 継がれないのは、一系の血統に生まれた者に、
法燈を 継ぐ資格がなかったからであり、親鸞、善鸞の問題も然りであるからだそうです。)


次に『法燈 継承の不可欠性』についてですが、

真理(法灯)は、無形にして、無限なるものであります。

しかし、有限なる現象界において、それを人に伝えるときには、有形の説法、すなわち言葉や観法等を

媒体として行うことになります。

その場合、真理を伝える人自身の悟りが正しく深く、かつ表現能力が

勝れていなければ、最高の指導者にはなれません。

また、最高の指導者には、他の布教者が宣布する教義の正否を判断し得る力もなければなりません。

また、時代が変わり、文化、文明が変われば、それに適した内容にさせる必要があります。

宗教は、本来「普遍の真理」とか「不磨の大法」そのものだけでなく、それを実際生活に応用した
場合のわかり易い「処方箋」を示さなければならない。

人々は、主として、それを求めるからであります。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

以上を読みまして、
生長の家の「法燈継承者」とは、生長の家の法や教義を、連綿と継ぐ人のことをいうのだとわかりましたが、

雅宣総裁の代弁者である初心者様は、はっきりと、「私は、アンチ生長の家である」「私は、生長の家が嫌いだ」と
述べられています。法や教義は、 継いでおられませんよね。きらいなんですから。

雅宣総裁も、初心者様の発言と連動するかの如く、
本来の生長の家のやってきた救済は、やめてしまい。環境オンリーにしてしまいました。

初心者様、
初心者様と、雅宣総裁のお考えは、同じだ とお思いですか。

そうだとしたら、雅宣総裁は 「生長の家の法燈継承者」とは、
とても、言えないのではないかと、私は、この本を読みまして、すごく疑問に思いました。

818初心者:2014/03/25(火) 20:07:46
志恩様

わたしは、総裁が総裁としていかにふさわしい人物であるかを述べているつもりです。訊け様からさまざまな疑問や否定的意見がよせられていますので、いまはこれに答えているところです。

819さくら:2014/03/25(火) 20:15:10
訊け管理人さま
初心者さま

誤解があるといけないので、掲示板書くのはやめますが、
誠実なやりとりの出来るお二人のおかげ様で、しばし想いを書かせて頂くことができ、ありがとうございました。
心配りを頂き、感謝いたします。

これからのご活躍お祈り申し上げます。

お陰さまで、榎本先生を思い出し、深く心に落ちるものがあったので、こころが喜んでいます。
ありがとうございました。



820さくら:2014/03/25(火) 20:16:00

『ある人が「此の世の中に神はあるか」と問うたところ、
ある人は「此の世の中に神は無い」と応えた。
その訳を質すと「此の世の中に神は無いが、神の中にこの世はあるよ」と応えたという話しを聴いたことがある。
このような、すべてのすべてなるものを無神というのであろうか。
有限なるものから見れば、無限なるものはないにちがいないのである。

 全てのものをわが内に包有出来るものを無我、もしくは、無神というのであろうか。

 また「神がなかなか解らない。」という。繰り返しになるが、神はご自身を消しておられるから、解らないのであり、神ご自身がみずから姿を消して解らないようにしておられるのではあるまいか。

 神は知られたくないのではないか。

「私はただただ、生かすだけでよいのである。」と言っておられるのではないか。

 神が解らないということこそが、神の無神の聖なる所以であると言うことが出来るのかもしれない。
 神はその意味においで、解らないようにしておられるのであり、知ることが出来ないようにしておられるのである。
『古事記』の天之御中主之神が「身(みみ)を隠したまいき」とあるのはこの意味であるのかもしれない。

 神は知ることが出来ない。
 何が出来るか。
 生かされることが出来るのみである。

 神はただただ生かすのみであるから、そして姿を消しておられるのであるから、すべてにとっては、ただただ「生かされる」ということが出来るのみであり、神はただただ生かし切り、与え切るのではあるまいか。
 このような意味において、知ることが出来ず、生かされることだけがあるということは、神は知る必要のないものであるということではあるまいか。

 知る必要もなく、しかもそれによってあらしめられていることを「生かされている」というのでありましょう。

 神は知ることが出来ない、
 神は知る必要がない、

ということは、実に無神なるものの荘厳であります。』

榎本恵吾先生「無神」より

821初心者:2014/03/25(火) 20:16:00
訊け様

現時点でのわたしの主張は以下のとおりです。

○生長の家には、言表によって世界のなんたるかを決定することをもって真理とする傾向がある(「善のみ」と言表すれば、世界は善のみであると決定され、これが真理となる、というように)。

○イデア論にも同様の傾向があって、こうした傾向が、「人間の言表によって世界のなんたるかは決まる」とする人間中心主義を生みだした(「牛は食用の家畜」であるとの言表で牛の運命は決定される、というように)。

○「言表と出来事との一致をもって真理とみなす」とは、「言表を出来事に一致させるのではなく、出来事を言表に一致させることをもって真理とみなす考え方をいう。

○「生長の家は人間中心主義ではない」とする訊け様の反論は、復興Gさまの「人間至上主義」等の発言をもって十分に論駁できると考える。ただし、これにかんして訊け様からの応答はいっさいなし。

以上です。

822九州方面の信徒:2014/03/25(火) 21:28:54
初心者さん。横から失礼致します。

他所の掲示板に転載された初心者さんの発言にしばらく突っ込みを入れていたのですが、あまり建設的ではないなと思い、直接気になった点を初心者さんに質問してみたいと思いました。

他の方への返答で大変かと存じますが、お手数で無ければ、私の疑問に答えてくださればと思います。


私は初心者さんの個人救済が一切必要がないや。人間の心がどうあろうと問題ではない。という発言を読んで、反射的に、これは旧来の生長の家を否定する危険な発想だと思いました。しかしながら、私も人間中心主義について長年疑問を感じていた事を忘れておりまして、初心者さんの発言で私の中にも人間中心主義に対する疑問があったと思いだした次第です。

私の人間中心主義における疑問とは、都市計画と人間の幸福度の問題です。

日本という国は幸福度がとても低い国だと言われています。どこの市町村に赴いても上下水道や電気ガス、ハイテク機器、医療機関など、途上国に住まう人々にとってはまぶしいほどの最先端の都市設備が揃っていますのに、一方で、画一化された町並みであり、土地の特性や住まう人の歴史が洗いざらい消しさられています。

地方では非効率な産業は途上国との競争で淘汰されてしまい、若者は地の縁を断ち切り都心部へ行かざるを得ません。地の縁をベースにした世代間の厚い人間関係も失われ、そこに行政やサービス産業が取って換り、サービスとしての人間関係が、とりあえず家庭の生活機能を回しているような現状です。

阪神淡路大震災の被害を受けて計画された新都市計画では著名な建築家が作ったハコモノの影に追いやられて、古くからそこに住まう住人は、除外されてしまいました。

災害が起って。行政が入って来て。かえって住みにくい場所になってしまう。

高度成長期以後、このような都市設計を「縮退社会の都市計画」ととらえて問題視する声があがっています。
東北地方太平洋沖地震の復興でもまた同じ事が繰り返されるのではないか?という憂いがあります。

この逆の発想で、東京の代官山。「代官山すてきな町づくり協議会」の取り組みでは。「七曲りの大木」なる古い大木が都市計画のうえで邪魔になるにも関わらずあえて切られずに残されました。日照も悪くなるし落ち葉の掃除が大変でウロにはボウフラがわくような、大変に手間がかかる巨木がわざと残しました。

人間中心で目的合理性のみで計画される都市設計を、あえて、あるがままの地形を中心にしてみたわけです。そのおかげで、個性のある、そして不便、だけれども、思い出に残る憩いの場としての、巨木が街のど真ん中に今でもある。そのような事例がありました。

さて、代官山の事例は、不便なものが残ったのだけれども、人間中心主義の外側にも何か別の価値観があるのではないか?と人の感覚に印象付けるような絶好の事例です。

七曲りの大木の木陰に入れば。その場所が印象に残る。落ち葉を掃き掃除する人々が協力している様子をみれば、地の縁を受けて共生する人々の気持ちがなんとなしに伝わる。そのように人の感覚にこの木を残した意義を訴えかけられるに違いありません。

私が初心者さんに質問したいことは、人間中心主義を離れても、そこに、何か人間としても良い物が残った、生み出されて来たという、事例を想定しているのか?という事なのです。

初心者さんの、言われ方はとても冷たい無機質なものしか私には伝わって来ません。

…人のココロ。関係ない。個人救済、自然災害が起こるのだから怖いだろ?じゃあ救われなくても我慢しろ。みたいな。

断片的に引用される、私が転載されて目にする初心者さんの発言は、人のココロに対して思い遣りのないしごく傲慢な物言いに感じられるのですよ。

ですので、今後、一国としてはシュリンクしてゆく、この日本において、「人間中心主義をやめよう」と提言したとしても、初心者さんの物言いのように、人のココロにとって冷たいものではなく、ココロが暖かくなった賛同者が喜んで集まるような、そんな積極的な事例を想定しているのか?と問いたいのです。

人間を中心にせずとも人々が喜んでやってゆける。老若男女、人のココロを捕らえてやまない。そんあ事例があれば、運動としての将来性はあるのではないかと。そう思うのですが。

そうゆうものを、想定できなければ、初心者さんの理屈遊びになってしまうのではないかと思います。

もし、人間中心主義の外の世界が、初心者さんの周囲に伝わったとしても、同じ世代、同じ社会階層、同じ団体に属している。そんな、ごく初心者さんにとって近しいところにしか、その論理の良さなるものは伝えられないのではないでしょうか?

823初心者:2014/03/26(水) 00:33:20
九州方面の信徒様

○私が初心者さんに質問したいことは、人間中心主義を離れても、そこに、何か人間としても良い物が残った、生み出されて来たという、事例を想定しているのか?という事なのです。

人間中心主義を「言表と出来事との一致を真理と見なすこと」と定義しておりますように、人類の意識をいますぐ変えようというような、そんな大それたことを考えているわけではありません。まずはこうした真理観をあらためようということをいっているのですね。

問題は、そのためにはどうすればよいのかということですが、ここでその方法を述べるつもりはありません。

「事例」については、もちろんここで書くことはできません。総裁のなさっておられることがいかにまっとうなものであるか。これを説明するために持論を述べているところです。

>人間を中心にせずとも人々が喜んでやってゆける。老若男女、人のココロを捕らえてやまない。そんあ事例があれば、運動としての将来性はあるのではないかと。そう思うのですが。
そうゆうものを、想定できなければ、初心者さんの理屈遊びになってしまうのではないかと思います。

そのとおりですね。仲間と話しあっているところです。これ以上のことは、ここでは書くことができません。

不誠実な回答ではありますが、これでご勘弁いただければとおもいます。

824初心者:2014/03/26(水) 11:04:17
訊け様

>――上記でも、総裁の視点は「人間=地球上の害獣、つまり罪の子・肉体人間」なのですね。
本来の「神の子人間」を復興しよう、という明るい呼びかけがなされたら、信徒はもっともっと燃えるのでしょうが。
本来の生長の家が消えてしまっているように思われます。これでは、信徒が激減するのもやむを得ないでしょう。
「汝ら、罪の子人間よ、地球上の害獣よ」と責められているようなものですから。
虚説は排撃して、「神の子・人間至上主義」の真説を高く掲げましょう。結果は同じでも、その過程が大切です。

以上が復興Gさんの考え方のようです。人間はいったいどれだけの種を絶滅においやってきたでしょう。人間以外の生き物からすれば、人間は「害獣」以外のなにものでもないのはあきらかでしょう。復興Gさんは、こうした事実を(生長の家ではたんなる現象でしかありませんが)完全否定しておられるわけです。

なぜそういうことになるのかといえば、「人間神の子、罪なし」の言表が雅春先生からなされたことで、人間がいかなる悪行をなそうとも、「人間は罪なし」であるとする事実が確定したからです。「現象の悪はみない」、「人間の完全性のみをみる」と言表されたことによって、人間の行為はすべてが善であるとする事実が確定したからです。

もう一度いいましょう。人間が多くの種を絶滅においやったのは「出来事」です。「人間罪なし」は「言表」です。どちらをもって、生長の家は「真実」とみなすでしょう。出来事はけっして真実とはならず言表が真実となる。こういうことではないのですか。復興Gさんのは発言がこのとをみごとに例証しています。

復興Gさんは、「種の絶滅」よりも「人間にとっての明るい呼びかけ」を優先しておられるようです。これが人間中心主義でないとすれば、いったいなんだとお考えですか。

客観的な出来事からではなく、人間によってなされる言表によって事実を確定する。こうした考え方が人間中心主義である、というのがわたしの主張です。生長の家もおなじ考え方をしているのではありませんか。反論があればお聞かせください。

825初心者:2014/03/26(水) 11:09:34
志恩さんは「訊けさんのほうが正論だ」といっておられます。堂々と正論を述べられるべきでしょう。

826「訊け」管理人:2014/03/26(水) 11:47:56

>>初心者さま

 以下の>>824ご発言ですが、根拠はナイと思います。(おありでしたら、ご提出ください)

>>>なぜそういうことになるのかといえば、「人間神の子、罪なし」の言表が雅春先生からなされたことで、人間がいかなる悪行をなそうとも、「人間は罪なし」であるとする事実が確定したからです。<<<

 雅春先生は、そのような意味をお述べでしょうか。雅春先生の「罪なし」とは、貴殿が申された如き概念でしたか。雅春先生は、そのような意味のことをご主張あそばされたことは、一度たりともありませんね(断言致します)

 ・・・・さて、雅春先生が仰ってもおられナイことを、あたかも「言ったかの様」にされ、そして、それを前提に貴殿は、ご自説をお述べになられておられるだけでは、ないですか。いやその、「人間中心主義」に関してもですけども、>>802>>812〜にご解釈の補足をたまわりましたね(感謝します)。ですがその中の、この>>821を取上げますけども、ここを拝読しましたらば、こう言えると思います ―― 「人間中心主義」ですが、雅春先生に於かれましては「該当しない」と。説明致します。

 さて、>>821に於いて貴殿は、「以下のように」お述べですね。

○「言表と出来事との一致をもって真理とみなす」とは、「言表を出来事に一致させるのではなく、出来事を言表に一致させることをもって真理とみなす考え方をいう。


 雅春先生は残念ながら、その、貴殿云われる「人間中心主義」には、該当しません。理由は明快です。雅春先生はお悟りとして「ただ善のみの世界を観た」のです。(貴殿ご解釈で言う「出来事」に該当?)そして、その出来事を以て「ただ善のみの世界」と言葉にされた、わけですね。「ただし」ですよ、ただし・・・・・・・・外形的には、該当しそうですね。でも、該当しないのです。なぜなら雅春先生は、「一致させることを目的にはされておられない」からです。
 
補足をつづけます。たしかに外形的には、貴殿の云われる「人間中心主義」に、該当するのかもしれませんけども、雅春先生の思想は「一致もなにもない」というモノです。「これから必死に一致させて行こう!」(※)というような思想では、「ない」のです。これから一致させていく思想を御著書で、展開されておられれば雅春先生、その、「人間中心主義」に該当するのかもしれません。ですけど実体は、そうではナイのです。

 一致させるもなにも、雅春先生に於かれては「実相一元の世界だった」わけですからね。




<註>

※ 「一致もなにもない」という、そんなモノです。「これから必死に一致させて行こう!」というような思想では「ない」

 ・・・・愛国運動家の中には、「勘違い」されている方はおられます。そしてその方々は、貴殿云われる「人間中心主義」に、該当するのかもしれません。彼らは「これから実相を顕現させて行く!」とされてます。でもこれは、「雅春先生の思想ではナイ」ものです。さらに余談ながら、「雅春先生のご著書を読めば、この種の問題は防げる」と以前申しましたけども、その意味です。現総裁が問題を防ごうとされておられるならば、つまり、「人間中心主義」を脱しようとされておられるとするならば、むしろ、「聖典拝読運動をすべき」です。

827「訊け」管理人:2014/03/26(水) 12:02:12

>>826

 以下の点にも補足を、付けておきましょう。

<註>追加
※ なぜなら雅春先生は、「一致させることを目的にはされておられない」からです。

 以前述べました、「方便」「対機説法」の面から、補足しておきます。
 雅春先生は(貴殿云われる問題点)「一致を目的にしていない」と、述べました。しかしながら、「方便」「対機説法」の面では、当然ながら違いますよ。雅春先生ですが、私のような凡人を相手にご著書をお書きあそばされたワケです。私のような凡人向けに、ありとあらゆる「方便」「対機説法」をご用意されておられますので、話しの流れの中では、「実相を出せば大丈夫なのであります」や、「現象とよう闇に、光(実相)を出すのであります」と云ったような説明は、されておられます。その点は補足しておきましょう。

 けれども重要なのは、「実相一元」なのです。雅春先生のお悟りは「一致させるも何もない!」というものでした。一致させるもナニもなく、「ただ実相一元の世界だった!」・・・・・これが、光明思想の根幹(のひとつ)であり、その点は、「方便」「対機説法」とは分けて考えられることが、必要です。

828初心者:2014/03/26(水) 13:04:08
訊け様

>雅春先生は、そのような意味をお述べでしょうか。雅春先生の「罪なし」とは、貴殿が申された如き概念でしたか。雅春先生は、そのような意味のことをご主張あそばされたことは、一度たりともありませんね(断言致します)

「貴殿が申された如き」ではなく、「復興Gさんが申されたこと」を問題にしておるのですよ。復興Gさんは、

○人間が他の生き物になにをなそうとも、人間は「害獣」ではなく「罪なき神の子」であり、それゆえに人間を「害獣」と説く総裁の教えは虚説である

と、このように申されておられるようにおもえるので、これを問題にしております。

>以下の>>824ご発言ですが、根拠はナイと思います。(おありでしたら、ご提出ください)

#824におけるわたしの発言は、すべて復興Gさんの発言からの推測です。根拠は、

○人間が他の生き物になにをなそうとも、人間は「害獣」ではなく「罪なき神の子」であり、それゆえに人間を「害獣」と説く総裁の教えは虚説である

といわれているともとれる復興Gさんの発言です。

根拠は復興Gさんの発言です。「ナイ」といわれるのであれば、その理由をお聞かせください。

ちなみに、以下は、WEB誌友会板2の#494における復興Gさんの発言です。

>――この、神なる人間至上主義を復活しなければならないと思います。

「この」とは雅春先生のご文章です。雅春先生のご文章を、復興Gさんは、「人間至上主義」であると、はっきりと述べておられます。雅春先生の教えが「人間中心主義」であるのはもはやあきらかでないですか。

「ちがう」といわれるのであれば、根拠をお示しください。

829初心者:2014/03/26(水) 13:13:24
訊け様

>・・・・さて、雅春先生が仰ってもおられナイことを、あたかも「言ったかの様」にされ、そして、それを前提に貴殿は、ご自説をお述べになられておられるだけでは、ないですか。いやその、「人間中心主義」に関してもですけども、>>802>>812〜にご解釈の補足をたまわりましたね(感謝します)。ですがその中の、この>>821を取上げますけども、ここを拝読しましたらば、こう言えると思います ―― 「人間中心主義」ですが、雅春先生に於かれましては「該当しない」と。説明致します。

「言ったかのようにされ」は心外です。雅春先生がなにを言われたかではなく、実際に起きている出来事を問題にしていると、わたしはなんども述べているにもかかわらず、訊けさんはいつもかならず「雅春先生の教えはこうである」との論法で反対意見を述べられます。

じっさいに起きていることをまずは問題にしましょう。教えがどうであれ、じっさいに起きていることが問題であるからです。

830初心者:2014/03/26(水) 13:21:04
訊け様

>さらに余談ながら、「雅春先生のご著書を読めば、この種の問題は防げる」と以前申しましたけども、その意味です。現総裁が問題を防ごうとされておられるならば、つまり、「人間中心主義」を脱しようとされておられるとするならば、むしろ、「聖典拝読運動をすべき」です。

復興Gさんは読んでおられないということなのですね。

831「訊け」管理人:2014/03/26(水) 13:38:21

>>>訊けさんはいつもかならず「雅春先生の教えはこうである」との論法で反対意見を述べられます。<<<


 もう一度、申し上げます。それは、「アタリマエの態度」です。違いますか。

 ・・・・ここで問題として取上げられているのは、「雅春先生の光明思想」ですよね、違いますか。『生命の實相』の著者が私ならば、自説を述べればよいでしょう。しかし、貴殿が扱われておられるのは、雅春先生に関することで、ありましょう。ならば、「雅春先生の教えはこうである」でしょう。それ以外に返答が、ありますか。(先ずはここから確認しましょうか。確認してから次に移りましょう)

 これは普通の議論態度だと、思っております。クドイですが、『生命の實相』の著者は、私ではなく、谷口雅春先生なのです。そして、貴殿が危険性を唱えておられるのも、私の思想ではなく、谷口雅春先生の思想です。「雅春先生の教えはこうである」と反論寄稿するのが、当たり前の態度なのではないでしょうか。



832「訊け」管理人:2014/03/26(水) 13:41:18


 いやなんで、急に「復興G」さまがメインテーマになるんでしょうか(笑)今、読みましたけども、どうして雅春先生ではなく、復興Gさまをメインにやり取りを?私、最初から、Gさまの主張を今から読まねばならんのでしょうか。そうせねばこの問題、解決せぬとでも?

 ・・・・そうじゃ、ないでしょう。





追伸

 なお、「復興Gさまが云々」の問題は、私にはわかるはずがナイでしょう(笑)そんな件はご本人へ、問い合わせをされてはいかがでしょうか。貴殿ご主張は復興Gさまではなく、「谷口雅春先生の危険性」なのでしょう?

833「訊け」管理人:2014/03/26(水) 13:53:16

>>>「人間至上主義」であると、はっきりと述べておられます。雅春先生の教えが「人間中心主義」であるのはもはやあきらかでないですか。<<<


 それは、定義の違いでしょう(笑)貴殿の云われるソレと、復興Gさまのソレとは、違うものでしょう。「人間中心主義」ですけども言葉は同じであれ、別概念ではないでしょうか。ですんで、「もはやあきらか」は、〝あきらか〟に言い過ぎですよ。

 貴殿ご定義通りの、用語なんですか。復興Gさまの「人間至上主義」とは。



834初心者:2014/03/26(水) 14:11:45
訊け様

撹乱戦術のようにおもえますね。訊けさんらしくもないですなあ。

わかっていてもわからぬふりをして相手により多くの説明を求める。使い古された戦術をつかってもらってはこまりますよ。

樹のよしあしをみるには成れる果をみよ。これはたしかキリストの教えですよね。訊け様はあくまでも「成れる果」ではなく、樹だけをみてその「よしあし」を判断せよと、このようにいっておられるわけですか。このあたり、はっきりさせてください。

835初心者:2014/03/26(水) 14:19:51
訊け様

訊けさんは、たしか「奇跡が起こる」という「成れる果」をみて雅春先生の教えの正しさを判断しておられたのではなかったのですか。それが今度は、「成れる果」ではなく樹そのもので判断せよと、このようにいっておられるようにおもえますね。

それなら聞きましょう。「成れる果」とは関係なく答えてください。雅春先生の教えを訊け様が「真理」と認められる理由とはなんなのでしょう。もちろん「成れる果」とは関係なく答えていただけますよね。

836初心者:2014/03/26(水) 14:22:37
訊け様はたしか「成れる果から樹をみてなにがわるい」と、このようなことを言っておられませんでしたか。それが今度は「成れる果から樹をみるな」といっておられるようにおもえる。矛盾してませんか。


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