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「脱力ネタ」板
807
:
初心者
:2014/03/25(火) 14:55:09
さくらちゃんへ
>先生は、晩年、マクドナルド・ベインという人の、キリストの霊示集の解説を読まれていて、
「ここには、キリストが『私の説法はあなたを悟らせることはないのだ』って言ったと書いてあって、ぼくはいっぺんでこの本を信用したんだ。」と仰っていてたり、
また、指揮者チェリビダッケに感動した人が、
「あなたの指揮がすばらしかったので感動しました。」と賛辞をのべると、
チェリビダッケは不愉快そうに「あなたが感動したのは、あなたが感動したのであって、私の演奏は関係がないでしょう。」と云ったという話を聞かれて、
先生は、チェリビダッケ指揮の音楽を愛聴されていたと。
理解しがたいほどの高い悟りの境地だとおもいます。あえて解釈するなら、すくなくともここには、言表と出来事との一致を真理とみなすような考え方は書かれていない、ということになりますかね。
「わたしの説法はあなたを悟らせることはない」とはどういうことなのでしょう。「すでに悟っているのだから悟らせることはできない」。生長の家の人々であればきっとこのようにいうでしょう。榎本先生の悟りがこの程度のものであったとはおもえません。
「あなたを悟らせることはない」とは、「あなたが感動したのは、あなたが感動したのであって、私の演奏は関係ない」とあるのですから、これは「わたしの悟りとあなたの悟りは関係ない」ということなのでしょう。
>初心者さまが、人間中心主義?を、問題にするのは、
おそらく、信仰でいえば…、
「自我」の増大を助長してしまう構造はないのか?
ということだと理解があります。
そして、これが、生長の家の問題を作りだした原因には、なってはいませんか?
との問題提起だと、個人的には受け取っています。
(初心者さま、違っていれば、訂正を…)
生長の家の人たちは、「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係ない」とは考えませんよね。「迷っているかどうか」を、かならずといっていいほどに問題にしますよね。なぜなのでしょう。
「真理の言葉で心がうちふるえた」という人がいますよね。「真理の言葉と、心がうちふるえるほどの感動はなんの関係もない」という人はいませんよね。どうしてでしょう。
生長の家の人たちは、「世界はほんらい完全なのだから迷いというものはあってはならない」と、きっとこのように考えているのでしょう。思いと現実は一致しなければならないのですから、迷っている人がいるという現実が許せないのでしょう。
「世界に全責任をもて」とする雅春先生の教えに反して、榎本先生は「あなたが迷っているかどうかはわたしには関係がない」と考えておられたのでしょう。もしそうであれば、このことは、榎本先生が言表と出来事との一致を問題にしておられなかった、ということを示しているようにおもいます。
「相手が迷っているかどうかは自分には関係がない」とする人と、相手が迷っているかどうかが気になって仕方のない人とでは、自我の拡大の仕方がまったくちがっているということです。
たいていの物事というのは、大きくなればなるほど薄まるものなのですね。クルマの排気ガスにしても、大気中にひろがれば薄まります。榎本先生の自我は拡大しつつ薄まっていかれたのでしょう。生長の家の人たちの自我は、いくら拡大しても薄まることがないのですね。なぜかといえば、生長の家の人たちは、言表と出来事とを一致させることで自我を拡大させていってるからなのです。
それにしても、真理の言葉を聞いて心がうちふるえるほどの感動をおぼえるのはなぜなのでしょう。おそらくは、「どんな言表にもそれに出来事を一致させる力がある」という話を聞いて、その人のなかでつかのまの自我の拡大があったからなのでしょう。うちふるえるほどの感動とは、自我が薄まることなく拡大したことのよろこびなのでしょう。チェリビダッケという人は「自我を薄めることなく拡大させるな」と、このようにいいたかったのかもしれません。
榎本先生の悟りは、言表と出来事との一致を否定することで得られたのではないでしょうか。
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