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「脱力ネタ」板
820
:
さくら
:2014/03/25(火) 20:16:00
『ある人が「此の世の中に神はあるか」と問うたところ、
ある人は「此の世の中に神は無い」と応えた。
その訳を質すと「此の世の中に神は無いが、神の中にこの世はあるよ」と応えたという話しを聴いたことがある。
このような、すべてのすべてなるものを無神というのであろうか。
有限なるものから見れば、無限なるものはないにちがいないのである。
全てのものをわが内に包有出来るものを無我、もしくは、無神というのであろうか。
また「神がなかなか解らない。」という。繰り返しになるが、神はご自身を消しておられるから、解らないのであり、神ご自身がみずから姿を消して解らないようにしておられるのではあるまいか。
神は知られたくないのではないか。
「私はただただ、生かすだけでよいのである。」と言っておられるのではないか。
神が解らないということこそが、神の無神の聖なる所以であると言うことが出来るのかもしれない。
神はその意味においで、解らないようにしておられるのであり、知ることが出来ないようにしておられるのである。
『古事記』の天之御中主之神が「身(みみ)を隠したまいき」とあるのはこの意味であるのかもしれない。
神は知ることが出来ない。
何が出来るか。
生かされることが出来るのみである。
神はただただ生かすのみであるから、そして姿を消しておられるのであるから、すべてにとっては、ただただ「生かされる」ということが出来るのみであり、神はただただ生かし切り、与え切るのではあるまいか。
このような意味において、知ることが出来ず、生かされることだけがあるということは、神は知る必要のないものであるということではあるまいか。
知る必要もなく、しかもそれによってあらしめられていることを「生かされている」というのでありましょう。
神は知ることが出来ない、
神は知る必要がない、
ということは、実に無神なるものの荘厳であります。』
榎本恵吾先生「無神」より
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