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『web「生命の實相」輪読会』 板

1トキ ◆UMw6UoGELo:2016/03/15(火) 11:09:09 ID:lgv9ASqI
 このスレッドは、生長の家信徒の人達の『web「生命の實相」輪読会』のために作成したスレッドです。『web「生命の實相」輪読会』についての話題は、このスレッドでお願いします。

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では、このスレッドを利用して、生命の実相の勉強をお楽しみ下さい! よろしくお願いします。

94a hope:2016/05/16(月) 12:26:51 ID:vdNCBnG6

>>93 a hope所感)

第三章は「芸術教育の神髄を語る」というタイトルがついていて、彫刻家の山根八春氏、服部仁郎氏はじめ、
音楽家の方、軍人の方々、校長先生を始めとする教育家の方々が主に芸術教育について話し合われています。

そして上の謹写部分では雅春先生が、芸術教育の伝授の「コツ」を「生命の実相」の悟りに例えられて説明されています。

子供の習い事なんかを見ていても、良い先生に教えていただけるととても上達がはやいですが、
あまり評判のよくない先生だと上達がおそいばかりでなく、下手をするとその習い事自体への興味を失わせてしまうこともあります。

芸術も宗教も、本物を悟られた本物の達人(先覚者)につくことがとても重要だと思います。

谷口雅春先生は本物でした。

雅春先生が現象界にいらっしゃらない今、わたしたちはその谷口雅春先生の残された聖典を拝読することで、
本物の悟りを得ることが可能なのだと思います。

95a hope:2016/05/17(火) 08:34:56 ID:xVBwxesw

「生命の實相」26巻 p91 後から7行目〜

照井――ここで問題になることですけれども、いつか先生に申上げようと思うておったのですが、神想観の時に口と鼻とここ(眉間)から霊気(いき)が出るということですね。

あれを谷口先生および「生長の家」の方々に申し上げたいと思っておりましたが、わたしがかつて外国でゴロゴロしながら声のことを勉強していながら覚えたことですけれども、声の一番上の出し方では声が眉間からでるのです。

解剖学的に申しますとここに額の骨が下部に来て二枚になりまして頭(眉間)にきて分かれる、横断面的にみるとくるみの内部くらいのうつろがある。

眼と眼の間で、少し眉寄りの間の辺から、それに声がうまいこと共鳴してくれなければ本当の声が出ないのです。

それは谷口先生が合掌の時にここから霊気(いき)が出ることをお書きになったのを見ましたが、それでここが声のほんとの出所(でどころ)だということを感じさせられたのです。

ここからきたものが人に入るのです。(発声の見本を示さる、眉間から声がでるように聞こえる)

これが実に楽なんです。

これを練習していますと、体にかまわずに声ばかり出ているような感じになるのです。

そうでない出し方は、どうしても肉体に執(とら)われ、苦しいですから。

それでほんとの声の出るこの眉間の空洞、これがなんのために存在しているか十八世紀の末葉(まつよう)まではわからなかったのです。

声楽の発声法の研究がだんだん進歩するにつれてこの眉間の空洞が高音を出すために存在しているということを発見したのです。

それが偶然にもこの神想観の時にここから霊気(れいき)が出るのと符合するので、心息の神秘性といったようなことに、非常に感激しているしだいなのです。

生きの調節のしかたが合掌と同じなんです。

96a hope:2016/05/17(火) 08:37:01 ID:vdNCBnG6

>>95 a hope所感)

わたしはつい最近まであるコーラスグループに所属していて、ソプラノを担当していました。
(現在は事情によりお休みしていますが・・・)。

最初のころは、アヴェマリアなどの高音を出すときに、必ず喉を傷めていましたが、
ある時どんなに高音をだしても、まったく喉に負担がかからない方法を見つけました。

自分の声なのに、自分の身体からでていないようなそんな発声です。

わたしはコーラスは初心者の部類なので、その発声がうまくできるときもあればできないときもありましたが、
上手に発声できているときは、必ず、先生から褒められました。

今、この上の謹写部分を拝読して、「そういうことだったのか・・・」とすっきり納得しました(^◇^)

97a hope:2016/05/17(火) 08:41:05 ID:vdNCBnG6
>>95 訂正
生きの調節 →息の調節

98a hope:2016/05/21(土) 12:29:54 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第26巻 p106 3行目〜

「苦労をありがたく受けてゆける処世のコツがわかる」

栗原――今日は皆さんからいろいろ有益な話をお聞きしましたが、要するにわたしは、苦労というものは人間を研(みが)くものであって、それは何百冊の本を読んだよりもよけいに自分を研いてくれるような気がする。

しかしわたしはこの世に苦労があると思うていたがゆえに、苦労を引き受けていたような観がある。

そうして苦しみどおしで三十七歳の今日まで過ごしてきた。

過去の話は長いが十六歳の時から家を飛び出し、流浪し、苦学し、甚(はなな)だしい時には、二週間近くもごはんをたべられずにいたこもあり、今から顧みればいささかトッピにも思えるが文房具屋に一円五十銭借金してそれが返せないため、一カ月半のあいだ真剣に死ぬことばかりを考えていたこともあった。

こうしたことがしらずしらずのうちに自分を研いてくれたような気がする。

いかなる名誉もこの苦々しい体験から得たところの心の磨きにはとうてい及ぶべくないような気がします。

こうした問題について、教えてくれる学校はないのです。

本当に渇(かわ)き飢えた生命、枯死せんとする生命を蘇らしてくれるところの、真から蘇らしてくれるところの学問というものはない。

それでわたしはずいぶんと無駄に生命を摺り減らしていたような気がするが、やっと生長の家の『生命の實相』がそれを救ってくれたわけなのですが、わたしは小学校から大学を通じてこの生命の教育が本当に心から望ましい。

苦労を不幸だと呪いながらする苦労と、苦労を自分を研いてくれる砥石だとありがたく受けてする苦労とはおのずから千里の隔たりがあり、生命の伸展の上にもたいへんな相違ができてくるわけです。

そうしたなら、生活苦も、就職苦もいっさいが解決されて、人生とはかくも美しく明るいものであるとの、光明一元の生活ができるんですがねえ……。


谷口――あまり時間が長くなりますから、この辺で閉会します。皆様ありがとうございました。

(昭和十年一月二十九日、生長の家本部座談室にて)

99a hope:2016/05/21(土) 12:31:17 ID:xVBwxesw

>>98 a hope所感)

この世の中に苦労や困難がなかったら、わたしたちは何が本当に大切で、なにが本当の幸福なのか考えないまま一生を終えるのかもしれません。

『生命の實相』を拝読し続けていると、本当のことがだんだんとわかってきますね。

100a hope:2016/05/23(月) 20:42:46 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p129 3行目〜

谷口・・・(略)・・・要するにこの宗教というものが、やはり、それを指導する師、家庭の親とか学校の先生とかというものが本当の自覚に入っていない場合には、同じ形式でやっても、お前は神も子であるといっても神とは何だかわからない。

ところが、実際に信じている指導者が、「あんたは神の子だ」とこう一言いえば本当に神の子であるということがわかってくるだろうと思うのです。

どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。

これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。

その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。

101a hope:2016/05/23(月) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>100 a hope所感)

この第四章は、「宗教教育」がテーマの座談会の内容が紹介されています。
上に謹写した部分は、雅春先生のご発言の一部ですが、わたしはとても考えさせられる内容だと感じました。

とくに後半の、

<<どこかで読んだのですが、宗教とはなんであるかという問題に対して「ひとつの尊敬すべき人格の周囲に集まった人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。
これは神とは何ぞやというような抽象、問題でなしに、社会的現象として存在する、一つの生きた具体的事実としての宗教を説明していると思うのであります。
その場合、宗教とは、やはりその中心者となる人が本当に神の子の自覚、あるいは個我と全体我との一つの融合感を持っている、その一つの人格にあこがれて慕い寄ってくる一つの生きた具体的な団体であり、宗教教育を施すにも、そういうその中心者になれる人があって初めて、そこに完全な宗教的教育が施されうるということになるのだと思います。>>

という部分ですが、これを、仮にこの現象世界に具体的事実として現れた宗教団体「生長の家」にあてはめてみると、
その中心者は紛れもなく谷口雅春先生でした。

谷口雅春先生の人格に対して人々が集まり、大きな宗教団体となっていったんですよね・・・。

そう考えると、谷口雅春先生がご昇天されてからは、わたしたちはその中心的人格を失ってしまったわけですから、
現象の宗教団体「生長の家」が衰退していくのは当然のなり行きなのかもしれませんね。

102a hope:2016/05/26(木) 06:46:17 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p153 6行目〜

谷口――そこで下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。
宗派に偏した儀式も儀礼もいらないで、簡単に宗教的情操が養われる、十年間坐禅しても得られなかった悟りが得られてというような人がたくさんあります。
手前味噌のようですけれど。

103a hope:2016/05/26(木) 06:47:03 ID:vdNCBnG6

>>102 a hope 所感)

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>

これは、谷口雅春先生のお言葉です。
そのために雅春先生は聖典『生命の實相』を残してくださったのですよね!

感謝 合掌。

104a hope:2016/05/26(木) 07:46:47 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p155 8行目〜

井上――いくら学者を呼んだって、宗教的情操ではなしに宗教学的情操ではだめです。
ちょっと情操といっても霊的にならなくちゃだめです。
いくら「物」を練ったってだめです。

谷口――人格的信仰的になってこなくちゃだめですね。

井上――やはり自己の霊を信じなければ。霊の実在を信ずることが最も根本ではないかと思う。
それをまあこれまでは死んだらそれきりという浅薄な考えでやっているのですから。

谷口――来世の存在のことで思い出しましたが、宗教的情操とは、個と全体との融合意識、神と自己との一体感というものであるとして、それが、ずっとこの座談の主題を貫いてまいりました。
これは縦に自己の本質を貫く真理です。
ところが、今、井上先生のお話で思い出しましたが、宗教的情操のもう一つ横の真理となるものは、三世を貫く因果の法則を信ずるということです。
つまり生長の家でいうと「三界は唯心の所現である」というこういう心にこういう結果がくるのであるとうことを信ずることによって初めてわれわれは本当に正しい生き方ができるので、過去現在未来を通じて作用(はたら)く因果の法則を知らす、現世さえ好き候(そうろう)に生きたら後はどうでもいいのだというのじゃ本当の宗教的生活ができない――。

井上――それはどうしてもできないです。

谷口――しかし、三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな
宗教的信念をもたすことはできない。
それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。
生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。
「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。
……これで宗教的情操の「縦の真理」と「横の真理」がちょうど揃うわけですねぇ。
それではこれで閉会にいたしたいと思います。

105a hope:2016/05/26(木) 07:53:29 ID:xVBwxesw

>>104 a hope所感)

ここで井上氏と雅春先生は、指導者が人々に宗教的教育を施すときに、
『ただ単に「縦の真理」「横の真理」等の宗教的真理を議論だけで説くことは「宗教学的情操」教育であって「宗教的情操」教育ではないので、人々に宗教的信念をもたすことはできない』
というような内容を話し合われています。

そして、雅春先生は、

<<三世を貫く因果の法則があるといっても、議論だけで近代人に、そんな宗教的信念をもたすことはできない。それには、やはり心の変化によって、いかに肉体の病気や、境遇や、環境がよくなるかという実証を示す威力がなければならない。生長の家では病気が治るのは病気そのものを治すためではない。「三界は唯心の所現である」という宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆくためなのです。>>

と結論づけされています。

ここのところを拝読すると「生長の家」のいわゆる「奇跡の体験談」がいかに人々に宗教教育を施す(宗教的真理を知らしめて、生活を正しいものに具体的に導いてゆく)上で重要であるかがわかります。

本当に人々を宗教的に感化するためには、指導者が理屈だけを捏ね回している「机上の空論」者であってはいけないということなのだと思いました。

(参考文献)
きじょう‐の‐くうろん〔キジヤウ‐〕【机上の空論】
頭の中だけで考え出した、実際には役に立たない理論や考え。

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%BA%E4%B8%8A%E3%81%AE%E7%A9%BA%E8%AB%96-473791

106トキ ◆NeaLgIQX3w:2016/05/26(木) 20:41:52 ID:IjaJpifQ
>>103

 この言葉は、極めて重要だと感じます。

 自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。

107るん吉:2016/05/30(月) 10:35:22 ID:TWYtDbA.
a hopeさま
トキさま

<<下手な指導者につくくらいならば、「自分で『生命の實相』を根気よく読め」とわたしは言うのです。>>
<<自分でまず本を読み、考えるぐらいの熱意がないと、本物にならないと思います。>>


わたしも激しく賛同します。

(自分は)今まで根本真理で喜べてたのが、変な指導を受けてしまった結果、却ってわけがわからなくなり

めちゃくちゃになってしまったことがありましたもの。(*‘ω‘ *)ニャは

ちゃんとすごい本を残してくださってるのですものね。

108a hope:2016/05/30(月) 16:11:06 ID:vdNCBnG6

>>106 トキさま、>>107るん吉さま

ご賛同ありがとうございます。

結局、指導者に頼ってばかりいるということは、自分自身の無限力を信じず、
他に依存心を起こしているということですから、そういう意味でも本物を摑めないのだと思います。

自分自身の力を信じて自分の脚で起とうと決心した時、本当の協力者が出て来て助けてくれるような気がしています。

109a hope:2016/05/30(月) 16:14:12 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第26巻 p184 6行目〜

本部員――叱り方にも、失意落胆させるような叱り方もありますし、激励する叱り方もありましょう。この頃光明寮の御指導の様子を拝見しましたが、時に鉄槌の教育を遊ばせしていらっしゃる。鉄槌(てっつい)的に生徒に迫っていらっしゃるのですね。

この間の「教育」の三月号にも谷口先生の「鉄槌の教育法」ということが載っておりましたですが、それで、今までにお書きになられたことと、この頃お書きになられたことと、そこになんだかこう行き方がちがうようじゃないかといったような感想を、この頃もつ方がありますが、そんなお感じはございませんでしょうか。

『鉄槌の教育これまた愛の教育』

山村――そのお話に関係すると存じますが、この鉄槌の教育、したがってこの努力の教育、つまりその鉄槌を加えて努力を強いるかのごとく聞こえる言葉でありまするが、わたしはその鉄槌の教育なるものがまたこれ愛の教育であるとこう思うのでございまして、愛なるがゆえの鉄槌教育であり、そうしてまたこれが本当であると思うのであります。

最も進んだ状態におきましては、叱ることがいらないのだと思いますし、鉄槌を加えることもいらないと思うのでありますけれども、この過渡期におきましては、その鉄槌の教育が必要だろうと思う、しかしその鉄槌でもって頭を殴りつけるのではなくして、鉄槌で殴りつけられるものは本来のものではない迷いが殴られるのであって、その子供の神の性というものが殴られるのじゃないのです。

わたしはこのあいだもある生徒さんのお母さんに申しましたが、叱ってもよいのです。しかしどういうふうに叱るかと申しますると、たとえばここに百点取るべき成績に対して六十点しかよう取らなかった、その時は大いに叱りなさい。

なんと言って叱るか。

あなたはこんな点を取るあなたではない。こんな拙(まず)い点を取るあなたは実に怪しからぬ、実に贋物だ。本当のあなたはこのような怪しからん贋物の点を取るあなたではけっしてない。本当のあなたは百点取るにちがいないのだ、この六十点の点を取るあなたは虚(うそ)のあなただ、虚のあなたを出してはいけない。本当のあなたを出しなさい。本当のあなたは百点を取るお利口さんであると、こう言って叱りなさいということを申したことがありますが、ここですね、その迷いの方、六十点に縛られている方を、鉄の固い固いやつでガンとやっつける、そして本物の立派な力を激励して出すというのが谷口先生のおっしゃる本当の教育だというふうにわたしは解釈しております。


『「叱る」の真の意味』

本部員――徹梱(てっこん)深切というところですね。

山村――わたしはそう思いますね、けっしてそれは叱るのじゃない。深切に説き聞かせておる。そういう点においてわたしは叱るという言葉を使いたくない。もうわたしの頭にこびりついております。叱られるものの悲哀というものが。ハハ……。

本部員――なかなかおもしろい問題ですね。

山村――決して叱ったらいけない。諭す、これがわたしは必要だと思います。深切に道理を説き聞かしてやる。諭してやることはよいけれども、頭から叱ることはいけない。それでわたしは将来もう叱るという言葉はこれから先も出すまいと思っております。

本部員――今の山村さんのお話はなんですね、結局その実相を見てのお叱りである。実相を見ないところの、従来の叱り方はいけないという点では一致していらっしゃるわけですね。

山村――そうです。

本部員――どならないで、深切に説いて美点を引き出してやるのでこざいますね。

110a hope:2016/05/30(月) 16:15:42 ID:vdNCBnG6

>>109 a hope所感)

一般的に大人は子供が悪いことをすると「なんて悪い子なんだろう」という目で見てしまいがちです。

その対象が大人であってもその人の素行がわるいと「あの人は悪い人だ」「あの人は腹黒い」みたいに表現することが多いのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは、常に相手の「実相」を観て、その実相を拝み出すようにするんですよね。

でも一方で、まわりの人たちのその人を「悪」だと思う想念が強かったりすると、いくらその人の「実相」を礼拝しても、
その悪い想念に負けてしまい、いつまでたってもその人の「実相」が顕現しないのだと思います。

たとえば、心ある信徒の方々が一生懸命雅宣先生の「実相」を祈っていても、他方で雅宣先生の「実相」を語らず批判ばかりしている人たちがたくさんいたら、
雅宣先生の「実相」は、いつまでたっても顕現しないのではないかと感じています。

愛のない批判はただの悪口ですものね。

111a hope:2016/06/01(水) 09:20:21 ID:vdNCBnG6

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会  案内

期間   平成28年6月1日〜6月30日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻 久遠仏性篇 上
内容   常楽宗教の提唱<上>

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

112a hope:2016/06/01(水) 09:21:33 ID:vdNCBnG6

みなさま おはようございます。

6月になりましたので、第3回web「生命の實相」輪読会 開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、「本流復活」を考える 『web「生命の實相」輪読会』 板 に於ける
生命の実相 輪読会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

113a hope:2016/06/01(水) 09:23:35 ID:vdNCBnG6

今日から、あたらしい巻、「生命の實相」27巻 久遠佛性篇を学びます。
その内容は、『常楽宗教の提唱』です。

常に楽しいと書いて常楽、大辞林によれば、――【仏】永遠の楽しみ。悟りの境地をいう。――とあります。

常楽宗教である「生長の家の教え」を次から次へと学べる幸せ、心から感謝してます!

合掌。

114a hope:2016/06/02(木) 08:36:46 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 

(はしがき)

わたしは本書において一点の暗い影もない明朗の宗教を提唱する。今まで宗教はなんらかの意味において暗い影がどこかに潜んでいたのである。曰く、

(一) 人間には原罪というものがある。あるいは因縁とか罪業というものがあってなかなか救われがたい。
(二) 罪を消滅するには苦行が要る。献金が要る。犠牲が要る。そのままではなかなか救われがたい。
(三) 神と富みとには兼(か)ね事(つか)うることはできない。救われるためには貧乏しなければならない。経済的苦痛は忍ばなければならない。
(四) 仏の救いは肉体滅後の世界だけであって、肉体のある間は仏の本願力といえどもどうすることもできない。
(五) 釈迦も出家して家庭生活を破壊し、キリストも「それ我(わ)来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜(しゅうとめ)より分かたん為なり」と言ったごとく、大なる悟りを開くためには、一時は家庭生活を破壊しなければならない。
(六) 悟りを開きまたは、救いを受けるには長途の旅行をつづけて本山に参拝し、多数の日子と、多額の金額とを費やさねばならない。
(七) 宗教的信仰をもつというだけでは、死後救われるかもしれぬが、現在の経済生活、健康状態、児童の学業成績をも左右するということができない。
(八) 一つの宗教的信仰は他の宗教的信仰と衝突して、宗教の名において骨肉相争い、家庭不和の状態を演じ易い。

まだまだあげれば、在来の宗教には無数の暗い影があるが、まず上記はその主(おも)なるものであろう。

われわれはかかるいっさいの暗影を放擲(ほうてき)して、光明一元、神一元、天国のみの実在、浄土のみの実在を高調して完全に光明のみのいとも明朗なる宗教を打ち建てて無数の実際生活に功徳をあげたのであり、現に続々その実証をあげているのであって、その体験実例はわたしたちの機関誌たる『生長の家』『精神科学』『白鳩』『光の泉』『理想世界』等に毎月発表されているのであり、『実相体験集成』という大部の書籍も昭和十二、三年に上下二巻出版されたのである。

最近、『わたしはこうして癌が治った』と題する二十数氏の実際体験を集めた書物も出版されているのであって、現在なお医学界で完全な治療法の見当たらない癌にさえこれだけの治験例を挙げることは注目に値するのである。
(つづく)

115a hope:2016/06/02(木) 08:37:52 ID:vdNCBnG6
>>114 つづき)

その功徳の生ずる原因は――

(一) 人間の罪悪感念の払拭。人間本来神の子・仏子であって本来罪なく、本来救われているという真理を知り、決して因縁罪業等によって縛られなくなる。
(二) 罪本来無きがゆえに、罪を滅するために苦行も、献金も、犠牲も不要である。人間はそのまま救われていると知るがゆえに、自己処罰がなくなること。
(三) この教えをきいて経済問題が解決するのは、神(仏)は、その神の子(仏子)なる人間が貧しくあることを喜び給うはずはない、人間が貧しくあるのは神の無限供給を本当に知らないからにすぎぬ、本当に神を知ったら、すでにここに無限供給が与えられていることを見出しうるからである。
(四) 神仏の絶対力は、肉体と相対立する相対的な存在ではないから、肉体は死ななくても生きていながら人間はそのまま救われていると知るから、不安恐怖が除かれる。
(五) すでに釈迦キリストが悟りを開いて真理を直指(じきし)啓示せられた以上は、その悟りをそのまま生きていればいいわけであって、釈迦キリストのごとく悟りを得るためにいったん家庭生活を破壊する必要はない。
(六) すでに釈迦キリストの開きたる悟りがあり、人間の救われるのは「心」によるのであるから、釈迦キリストの悟りをそのまま平易に解説し、流麗暢達(りゅうれいちょうたつ)なる文章をもって、その悟りが人類の「心」の奥底に流れ込むようにしさえすれば、人類は救われるのである。人類は「足」で救われるのではないから、長途の旅を続ける必要はない。人類は日数で救われるのではないから長期の日子を要しない。人類は旅費で救われるのではないから、多額の旅費を支払う必要はない。ただ流麗暢達なる文章に表現された悟りの本を読むだけで「心」の中に真理が流し込まれて悟りに入るから、読書するだけで功徳が生ずるのである。
(七) この世界は神一元の世界、仏の無礙光尽十方に満つる世界であるから、一の悟りは法界一切のものを救いの無礙光のうちに見出すのである。経済も健康も教育も悉くこの無礙光の中に見る時、いっさいの光明輝くものに変貌するのである。
(八) われらは古今を貫く真理を解明するのであって、敢(あえ)て一宗一派の宗教を樹(た)てるのではないから、どの宗教の信奉者もその教えに接するとき、各自の宗教がその真理を本来各宗教共通の天地一貫の真理になることを悟り、強いて為にするところあって反発するもののほかは、各宗派人悉く互に相和することを得るに到るのみならず、在来の神道仏教キリスト教がとうてい融合しえなかった欠点を補って、完全に神仏耶三教の融合を完(まっと)うして人類が平和に融合しうる基礎を築いたのである。


ともかくわたしはかつて書いた原稿を纂(あつ)めたこの本を校正しながら、自分自身の執筆であるところのこの書の語る真理にまったく打たれて、反省せしめられた幾多の箇所があったことを告白する。

その感想をいちいちここに列挙することは止めるが、唯一つ言っておきたいのは、理想家は善人にありがちな自己虐待の精神がいつの間にか頭をもたげて、ともすれば悲壮の方へ、悲劇の方へ、暗黒の方へと誘惑されやすいのである。

多くの善人は自己虐待が好きで、ともすれば自己を奈落の底に引き落とす暗黒思想に知らず識らずにひきつけられて行きがちである。

聖フランシスやトルストイなどの不幸はその適例である。

われわれが説くところが正しいのは、最近の精神分析の発達に従い、罪悪感念が原因で無数の病気や災難が起っていることが明らかにされたことによって裏書されたのである。

この問題について興味のある人はメニンジャー博士の『おのれに背くもの』に無数の病気や災厄が自己処罰であらわれている実例をあげており、戦争までも大量自己処罰だと説いているから、それを読まれるがよい。

この書は三島由紀夫氏が書評に絶讃していた、日本教文社の発行である。

昭和四十年 一月 十日          著者しるす

116a hope:2016/06/02(木) 08:40:24 ID:vdNCBnG6

>>114 >>115 a hope所感)

毎回感じるのですが、「生命の實相」は(はしがき)も素晴らしくて、決して読み飛ばすことができません。

もっと言えば、ブックカバーの帯に書いてある、キャッチフレーズみたいな文章も素晴らしいです。(これは編集者の方が書いたらしいですが・・・)


第27巻のブックカバーの帯の文章を紹介します。

――――――――――――
「現代をリードする宗教とは」

アメリカまで数時間で行けるという科学の驚異的に進歩した現代、本当の宗教とは如何なるものだろうか……どこか暗い影があった今までの宗教(上段=△)と本書の提唱する明朗な宗教(下段=○)とをならべ、生命的宗教の特長を明示する。

▽人間は生まれながらにして罪がある ○人間本来神の子・仏子であって罪なし
▽罪を滅ぼすには苦行、献金、犠牲がいる ○罪はないから罪を消す苦行は不要
▽救われるには貧乏しなければならない ○人間には無限の供給が与えられている
▽人間は死んでからでないと救われない ○人間は本来そのままで救われている
▽悟りを開くためには家庭は破壊される ○真理を生きる時そのまま家庭は調和する
▽一つの宗教は他の宗教とぶつかる ○全ての宗教は神髄において一致する

本著名『生命の實相』とは――いのちの本当のスガタを書いたものです。
――――――――――――

雅春先生の(はしがき)のご文章が簡潔にまとめられています。
聖典『生命の實相』には無駄な文章が一つもありませんね!

117a hope:2016/06/02(木) 08:43:39 ID:vdNCBnG6
>>116訂正

ブックカバーの帯 → ブックカバーの袖 

着物の一部だと覚えていて間違えました・・・ハズカシ・・・(≧◇≦)

118a hope:2016/06/03(金) 07:37:07 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p4 4行目〜

宗教の使命は、梗塞(こうそく)された生命を解き放って本来の自由に復帰せしむるにあるのであるから、宗教を信じながら、苦しんだり、罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

抜苦与楽(ばっくよらく)が宗教の使命であるのは何人も肯定して疑わないところであるのである。

(略)

幸福感に満つる生活こそ本当の生活であるのである。

悲しみと不幸に満たされた人々が「生長の家」の教えを受けて旬日(じゅんじつ)ならずして、家庭に夫婦喧嘩は絶え、幸福の空気がその家庭の雰囲気を満たし、喜色が家族たちの顔貌にあらわれ、間もなく、家族の人相まで変わってしまう事実が多くあるのは「生長の家」が悲しみの似非(えせ)宗教でなく、常楽宗教の実相を教える真宗教であるからである。

119a hope:2016/06/03(金) 07:38:39 ID:vdNCBnG6

>>118 a hope所感)

「生長の家」を信仰していると信じていても、その生活が喜びに満たされていなければ、
それは本当の「生長の家」の信仰ではないということなのだと思います。

みなさんは、「悲しみの似非(えせ)宗教」を信仰されていませんか?

みなさん、聖典「生命の實相」を毎日拝読して、まことの「生長の家」を信仰しましょう!

120a hope:2016/06/08(水) 20:42:18 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p51 2行目〜

すべて善き宗教は、教祖が教団をこしらえようと計画してはじめた教えではなかった。

最初はたいてい、普通の常識を超えたことを言うものだから皆気が狂ったのかと思ったけれど本人は気が狂ったのでもなんでもない。

その至誠(しせい)が高次元の世界の神様に感応してそこに神さまからの教えがひらかれたのであります。

最初は教祖の至誠の教えでありましたが、しだいに教えを継いだ宣教者が、人間知恵をもって計画的に教義をこしらえ無理に教勢を拡張しようとしたので躓(つまづ)いたのであります。

121a hope:2016/06/08(水) 20:43:55 ID:vdNCBnG6

>>120 a hope所感)

 頭注より
○至誠…このうえなく誠実なこと。まごころ。
○宣教者…教えを伝えひろめる仕事をする人。


色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

122るん吉:2016/06/10(金) 21:08:46 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま
>>罪についていつまでも低回(ていかい)して悲しんだ状態にあらしめる宗教がありとするならば、その宗教は宗教としての使命を果たしていないと言わなければならないのである。

生長の家以外の教えでは罪無しにならないから、苦しいでしょうね・・


>>(宣教者・・)色々、考えちゃいますね・・・(゚∀゚)

にゃはは、ほんとですね。

いつも有難うございます。

123a hope:2016/06/12(日) 08:11:42 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻p61から始まる「石橋さんの体験」はとても印象的でした。
かつて石橋さんは和歌山で鍼灸院を開かれて、とても繁昌していて、家族とも幸せに暮らしていたのですが、
あることがきっかけになり、転落の人生を歩み始めます。

ついには借家の家賃も払えないような貧困になり、管理人から立ち退きを迫られているのをなんとか置いてもらっていたのですが、
そんなとき生長の家の教えに触れ(パンフレット八冊を拝読する)ことで物質への執着心がなくなってきます。

そして、その借家への執着心もなくなり神さまに全托して、管理人のいうように素直に出ていこうと決心した時、
すべてがよい方に方向転換していきました。

(つづく)

124a hope:2016/06/12(日) 08:13:09 ID:vdNCBnG6
>>123 つづき)

「生命の實相」第27巻 p69 2行目〜 「石橋さんの体験談」より抜粋 

・・・今まで管理人をいやな奴だと思い、どうにでもしてこの家にいなければならないと思っていたのに、管理人には本当にすまないという気持になってきたし、これまで「この家におらならん、おらんければ生活に困る」と家に執着していたのに、その執する心がなくなってきた。

ここが大切です、先刻(さっき)は体のことを申しました。

この体をこの体をと思って体ばかりに心をひっかからせていたら病気は快(よ)くなりはしないし、終(しま)いには神経衰弱になってしまうよりほかはないのだということを話しましたが、今度は体ではない、家の話です。

しかし同じことで、物質にひっかかっているかぎり良くなりっこはない、かえって苦しくなるばかりなのです。

それで石橋さんもこの家この家と思って執着していた、その時には管理人が隔日にやって来て大声でどなっても黙って忍ばなければならなかった。

ところがパンフレットを読むにつれて、

「人間は神の子であって生かす力は神から来るのだ。この天地が地上にわれわれを生んだ以上決して人間が食べるものにことかくということはあるはずがない。それなのに食べるものがないという状態にあるのは、神の豊かな供給を自分の心を狭くしていて受け入れなかったからだ。人間みずから詮(せん)をして神の供給を拒んでいるからだ。これからは心をもっと広く持って、お示しのままにもしこの家を出ろといわれたら出ていこう、そこにまたお示しがあるのだ」

と、こういうようにひっかかる心をすべて神様の大きな御手(みて)に委(まか)せる気になられたのでありました。・・・

125a hope:2016/06/12(日) 08:15:33 ID:xVBwxesw
>>124 a hope所感)

この「体験談」は本当に興味深いです。
このあと、石橋さんの心が変わることで、管理人の心にも変化が現れてくるのです。
つまり、石橋さんが管理人に「すまなかった・・・」という気持ちを持ったとき、
管理人の心にも同質の憐みの心が湧き上がって来たのです。


まことの「生長の家」は現象界にはありません。
わたしたちは現象界の「生長の家」に執着しているかぎり、転落人生を歩むことになってしまうかもしれません。

みなさん、聖典を拝読しましょう! 聖典にすべての答えが書いてあります。

126a hope:2016/06/15(水) 06:08:36 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p84 1行目〜

「・・・生長の家というのはいっさいのものと仲良しになって調和するという教えなのです。

考えてもごらんなさい、炊事係の不注意からかもしれないけれども、食事の中に油虫が入っていればこそ、あなたが退院する気持ちになったんじゃありませんか。

もし油虫が入っていなかったら、あなたはまだまだこんな病念の蓄積した所から退院しなかったかもしれない。

食事の中に油虫がいたればこそ、こんなに早く君は退院する気になったのだから、油虫は、いわば恩人じゃないか、そう思うとありがたい油虫だと手をあわして拝まねばならん」(拍手起こる)と懇々と言ってあげられた。

そうすると、ほんとにそうであった、なるほどありがたいことであった、それを恨んでいたというのはわたしのまちがいだった、この世の中にはどこにもありがたいことがあるのだと気がつかれたのでありました。

127a hope:2016/06/15(水) 06:10:13 ID:xVBwxesw

>>126 a hope所感)

そうでした、「生長の家の教え」はすべてに感謝する教えでした。

自分を害するかもしれない、食事の中の油虫にさえもその存在価値を見つけて感謝する・・・。

それができたとき、わたしたちははじめて、「天地一切のものとの和解」を成立させることができるのかもしれませんね!

128a hope:2016/06/15(水) 06:59:13 ID:vdNCBnG6

>>127補足)

ここの「油虫への感謝」のところはちょっとややこしくて混乱するかもしれません。

なぜなら、生長の家の教えでは、一方で「天地一切のものとの和解」を説きながら、他方では「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」と説いているからです。

「虚説や、黴菌とは和解してはいけない」という意味は、

虚説や黴菌は人間に害を及ぼすので、その害を及ぼす部分(内容)は決して受け入れるな、という意味なのだと思います。

でも、その「虚説」(間違った教え)があるお蔭で、わたしたちは何が真説なのか自ら考えることができるわけです。

そういう意味で、その「虚説」の存在に感謝できるのだと思います。

つまり、油虫に感謝するからいって、油虫の入った料理を食べ続けたら必ず健康を害します。

「真説」は雅春先生のお残しになった『聖典』のなかにあります。
(わたしは、雅春先生のお書きになった愛国書と呼ばれるものは『聖典』だとは思っていません。)

いつまでも「虚説」を食べつづけないように気をつけてくださいね。

129a hope:2016/06/15(水) 08:44:28 ID:vdNCBnG6
頭注より 

油虫・・・ごきぶり。

130a hope:2016/06/17(金) 06:58:33 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p103 後から1行目〜

皆さん、ただ今、眼を瞑(つぶ)って「肉体は無い」と観じ、そうして「南無阿弥陀仏」を称えてごらんなさい、キリスト教の人ならば「神と一体」と称えてごらんなさい、神道の方であれば「天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と一体だ」と考えてごらんなさい。眼を瞑っているから肉体がないように思われ、その無いように思われる程度にしたがって、われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられるのであります。

131a hope:2016/06/17(金) 07:00:34 ID:vdNCBnG6

>>103 a hope所感)

みなさま、おはようございます。

今日は、谷口雅春先生の御命日です。 
大感謝、合掌。

そして、上に謹写したお言葉は、間違いなく谷口雅春先生のお言葉です。

ここに、ハッキリ、<<われわれは、阿弥陀仏または神様と一体だということがいっそう深く感じられる>>とあります。

わたしたち人間は本来神様と一体なんですから、まことに〝肉体無し〝 の真理を理解してれば、
「無限絶対の神は、だから感覚できないのである。」などという軽々しい発言は絶対ありえないと思います。

(参照) 『「生長の家」の教義について議論する』板 >>108
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458205600/108-n

132a hope:2016/06/17(金) 07:05:01 ID:vdNCBnG6
>>131訂正
>>103 a hope所感)→(>>130 a hope所感)

133a hope:2016/06/22(水) 18:15:33 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p108 後から6行目〜

「物質は無い」「肉体は無い」ということがわかれば、わが身というものはみんな幻のようなもので何も無いのだと思う観方を「断見」といって、釈迦がまちがった見解の一つして排斥されたところであります。

「物質が無い」と知ったと同時に「実相がある」と知り、「肉体が無い」と知ったと同時に「ほとけ が有る、それが自分だ、神がある、それが自分だ」と知らねばなりません。

「実相がある」「我(が)がある」と言ったら、その実相とはこの肉体の自分のことだ、「この肉体が有る」のだ、と思うのは「常見」といって釈迦はまた排斥されたのであります。

この「断見」「常見」いずれにも堕(だ)さないようにしなければ正しい悟り(正見 しょうけん)ではないのであります。

正しい悟りというものは、「無くて有る」この反対のことを一つに自覚したような状態にあります。

肉体の無がわかっていて、金剛不壊の実相が有ることがわかることが断常二見に堕さない正見なのであります。

この正見を得たときには「無くてしかも有る」ことがわかりますから、肉体が眼に見えていても、それがただちに無いとわかり、実相身が眼に見えないでも、それがただちに有るとわかり、「臨終の一念」を待たないでこのまま、今(いま)成仏していることがわかるのであります。

134a hope:2016/06/22(水) 18:18:25 ID:vdNCBnG6

>>133 a hopeまとめ)

「何もない」・・・断見 ×
「肉体が実相」・・・常見 ×

「(肉体)無くて(実相)有る」・・・正見(正しい悟り)○

135a hope:2016/06/22(水) 18:18:59 ID:xVBwxesw

>>133 a hope所感)

聖典の言葉はどこを拝読しても格調高く、魂に響きます。

それはこの聖典を書かれた谷口雅春先生が、「正見」つまり正しいお悟りを得られた方だったからに他なりませんね。

136a hope:2016/06/24(金) 08:17:39 ID:xVBwxesw

「生命の實相」第27巻 p128 3行目〜

生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

「現象も現象として在るのであって、かく本体界のみ主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界を混同するのである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われわれは本体界と現象界とを混同するのではない、混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象無しと自覚するゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。

「現象は現象として在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展(じじょじてん)が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂(ほうせつ)せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。

生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截ち切り、「実相独在」を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからである。

※ 本体界・・・実在の世界。実相界。(頭注より)

137a hope:2016/06/24(金) 08:19:49 ID:xVBwxesw

>>136 a hope所感)

「実相独在」・・・これが、まことの「生長の家」の思想なんですよね。

でも、今現在の「生長の家」の現実をみると、現象、現象、現象・・・・

ある団体が運動をしていく上には、現象を見なければ始まらないというのもわかりますし、
「生長の家」教団の総裁としての谷口雅春先生も、現象を見てたくさんの運動を指揮されていたのだと思います。

そしてその一つが、雅春先生の愛国心から生まれた政治運動だったのではないでしょうか?

わたしは、右翼とか左翼とか、政治に関してはよくわかりませんが、今、現象の「生長の家」が分裂して、
大変な危機的な状態にあるのだけはわかります。

なぜこんな状態になってしまったのかな〜と考えたとき、この「現象無し」の「実相独在」の思想が、
信徒の心から忘れさられてしまっているからなのではないか・・・と漠然と感じています。

138a hope:2016/06/25(土) 12:55:37 ID:vdNCBnG6

「生命の實相」第27巻 p139 後から4行目〜

本当に肉体のお釈迦さんが説いても、まちがいはまちがいであるし、肉体の釈迦が説かなくとも、真理は真理ですから、必ずしも肉体のお釈迦さんが説くからありがたいということではないのであります。

本当にわれわれを成仏させてくれる、「仏」を得、「自由解脱」を得させてくれる教えなら、キリスト教であろうと生長の家であろうと、すべて仏教であり、ホトケ(解脱)の道なのであります。

それだのに「肉体の釈迦」にこだわっていますと、相当の仏教学者が「釈迦は大乗を説かず、小乗仏教のみを説いた。大乗は後世のこしらえた物だ」と言って、仏教の中でも互に喧嘩していなければならなくなるのであります。

しかし喧嘩することが本当の仏教ではありません。

仏教は聖徳太子の仰(おおせ)せ給うたように和(わ)をもって尊(とうと)しとするのであります。

和を説いているのが本当の仏教であるのに、仏教内部で互いに相排擠(はいせい)して争っている。

ちょっと良い説がでると自分の宗教が潰(つぶ)れるといかんと、すぐそれを邪教だと言って、撃滅しなければならぬと、秘かに運動資金を撃滅運動者に回して騒ぎたてるのは、本当の仏教ではないのであります。

そんな撃滅の心がすでにお釈迦さんの心ではないのであります。

139a hope:2016/06/25(土) 12:57:30 ID:vdNCBnG6

>>138 a hope所感)

なんか、ここのところのご文章は、他人事ではないような感じですね・・・。

雅春先生は、現在の「生長の家」の混乱を予測されていたようですが、この文中の「お釈迦さん」を「谷口雅春先生」と置き換えて、
「仏教」を「生長の家の教え」と置き換えて読んでみると、今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。

まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれませんが
何度でも言わせていただきます。

みなさん、和の心が説かれた真理の書「聖典」を拝読しましょう!

140るん吉:2016/06/25(土) 18:57:48 ID:TWYtDbA.
>>a hopeさま

>>生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。

>>さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

>>「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。


この文、ググっと来ました。(*^-^*)あ〜、うれしっ!

いつもありがとうございます。読ませていただいてますよ。ありがとー。

141るん吉:2016/06/25(土) 19:02:33 ID:TWYtDbA.
現象無し!

なんと「現象無し」ひぇ〜〜〜 あまりにもすごすぎてどう表現してよいのか?くらいすごすぎる真理です。
誰も思いもつかないこの真理。すごすぎですね!

142神の子さん:2016/06/25(土) 19:13:12 ID:nFi3G1bg
生長の家はかく「実相世界」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空(くう)じ去る。
「現象あり」を観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。

という生長の家にあって

今の「生長の家」の様子にそっくりで驚いてしまいます。
まあ、ここで、わたしが何を発言しても、今の皆さんには何の関心も持っていただけないかもしれません

なんて現象ありの感想が何処から出て来るのか、不思議です。

143a hope:2016/06/25(土) 19:29:01 ID:xVBwxesw

>>140 るん吉さま

いつも励ましのメッセージをありがとう(*^▽^*)

わたしは「現象なし」って考えると、いろんな現象的な問題があっても負担に感じなくなって、
むしろ、「よーし、魂みがいてやるぞ!」って生きる意欲が湧いてきます。

生長の家の教えは最高ですね!

144a hope:2016/06/25(土) 19:33:00 ID:vdNCBnG6

>>142 曳馬野さま

いつも同じようなメッセージをありがとうございます。

そうですね、わたしも一日も早く「実相独在」を大悟して、ホントの「現象無しの自覚」に入りたいです。

145神の子さん:2016/06/25(土) 20:59:46 ID:nFi3G1bg
『煩悩本来無し、唯菩提あるのみ、現象本来無し、唯実相あるのみ』これ以外無いのが真理であり、これ以外無いのが生長の家である。天地崩るるとも此処以外に心走らない人間であること。

『身は是れ菩提の樹、心は明鏡の臺の如し。時に拂拭して塵埃を惹かしむること莫れ』と示した神州上座の心と、
『菩提は本樹無し、明鏡亦た臺にあらず。本来無一物、何れの處にか塵埃を惹かん』と示した慧能禅師の心と。

慧能は心安穏とし、神秀は心苦しみに覆われていたことであらう。神のみあること。完全のみあること。そして、それ以外には遂に一物の存在も無いこと。今から完全にして行く自分ではないこと。今から完全にしていく自分はないこと。今完全であり、それだけであって其れ以外は無いこと。この自覚に帰るとき、其処が其の儘道であり、神の子である。そして誰もが今此の儘でそれなのであった。

『其の儘でよいのである、人間は其の儘で完全である。人間の其の儘が神である』の恩師の御言葉が新たなる響きを持って身に沁みる今日である。  常楽への道

146a hope:2016/06/26(日) 10:35:30 ID:xVBwxesw

>>145 は吉田國太郎先生の「常楽への道」からの抜粋文でしょうか?

ですが、この板は「生命の實相」の輪読会用の板ですので、次回からは「生命の實相」以外の文献や御子弟やご文章は、
Web「生命の實相」輪読会参考文献板
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1458099618/l50
の方に謹写していただき、その旨のコメントをいただけるとありがたいです。

ところで、ご紹介のご文章の中に、中国禅宗の第六祖の法燈をついだ慧能(えのう)大師の「本来無一物」のお話がありますが、
これはとても有名なお話ですね。

わたしは、もう10年以上前になりますが、近所の曹洞宗のお寺の法話で初めてこのお話を聞きました。

今、丁度この輪読会でも、「久遠佛性篇」を学んでいます。

貴重なご文章の紹介に感謝いたします。

147a hope:2016/07/01(金) 06:09:52 ID:vdNCBnG6
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第3回 web「生命の實相」輪読会案内 改訂版

期間   平成28年6月1日〜7月31日まで
テキスト 「生命の實相」第27巻久遠仏性篇 上p117〜 第28巻 久遠仏性篇 下
内容   7月1日〜「われらの祈願および修養」「近眼・色盲等は治るか」「体験談」
    
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

148a hope:2016/07/01(金) 06:11:34 ID:xVBwxesw

みなさん、おはようございます。

7月に入りましたが、「生命の實相」第27巻の第八章「われらの祈願および修養」は、
第28巻に続く内容となっているため、輪読会の方もそのまま続けさせていただきます。

この第八章「われらの祈願および修養」の最初の文章を紹介させていただきます。

<<これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれにかいてあるのであります。順々にそれを説明いたします。>>

今、現象の「生長の家」はとても混乱しています。

このタイミングで、「生長の家家族の祈願および修養」の内容を学ぶというのは、
わたしたち「生長の家」の信徒の本来の使命とすべきことはなんなのかを学び直すいい機会が与えられたのだと思います。

現象的な運動をする前に、まずは生命の実相の真理の説かれた「聖典」をぼろぼろになるまで拝読しその真理を自分のものとしなければ、
まことに谷口雅春先生の御遺志を継いだ運動をすることは不可能だと思います。

今、この混乱の中で、一人でも多くの信徒さんが本来の「生長の家」の信徒に戻られることをお祈りしながら、
「『生長の家』の家族の祈願及び修養」の箇条書きをすべてここに謹写させていただきます。

149a hope:2016/07/01(金) 06:22:13 ID:xVBwxesw

『生長の家』の家族祈願及び修養 (新編 聖光録 p74 75より謹写)

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。

五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。

六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

十一、吾らは自己の好む所を他に施し、自己の好まざる所を他に転嫁せざらんことを期す。

十二、吾らはすべての人類をして健康と幸福と安住との生活を得しめんがため、この光明思想『生長の家』をひろめ全人類に真理を伝えん事を期す。

十三、吾らは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝(ようはい)し奉り、次いで一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、且つ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年の如く生きんことを期す。

十四、吾らは実在の実相のみを見、移り変わる仮の相(すがた)にとらわれず、常に光風霽月(こうふうせいげつ)の如き生活を営みて情(こころ)を動ぜざらんことを期す。

十五、吾らは今日一日出来る限り強く明るく正しく充分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らん事を期す。

十六、吾らは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、常につとめて善に還(かえ)り、愛を行い、真理の書を読み、全人格の雰囲気と心の習慣とを神の如く完全なるものたらしめんことを期す。

『生命の實相』「久遠佛性篇」より


ありがとうございます。 合掌。

150a hope:2016/07/01(金) 19:40:12 ID:vdNCBnG6

一、『生長の家』の誌友及び読者はすべて『生長の家』の家族として此の祈願に従いて、生活し、修養し、各々隣人を照す燈台たらん事を期す。

151a hope:2016/07/01(金) 19:41:35 ID:vdNCBnG6
>>150 つづき

【第一条、説明文の抜粋】 副題 「生長の家の意義と誕生について」

生命の實相 第27巻 p177 後から1行目〜 

そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌を出したその雑誌にたまたま付けた名前ではあったのですが、しかしながら本当の「生長の家」というのはこの雑誌の名前だけではない、といってまたわたしの個人の家の名前でもないのであります。

「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、「生長の家」というのは「大宇宙」ということであります。

「生長する」というのは創造(クリエート)することで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。

だから大宇宙のことを「生長の家」と申しますので、この大宇宙に満ちてる生命創化の法則を研究し、その法則を宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されています。

「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。

で、この「実相の世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。

(略)

この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して顕われたのが、地上の「生長の家」であります。

皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。

この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。

(略)

ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びに満てる、光に満てる実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。

そうしてその言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであります。

むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。

本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。

だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光となり、おのおの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれらの祈願の第一条の標識であります。

152a hope:2016/07/01(金) 19:53:32 ID:vdNCBnG6

>>150 >>151 a hope所感)

わたしは、「生命の實相」を拝読していると、本当に嬉しくて、嬉しくてたまらなくなります。

なぜなら、聖典「生命の實相」は真実のみをはっきり伝えてくださるからです。
今、流行りの言葉で言えば、「聖典はウソをつかない」でしょうか・・・

<<「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。>>

谷口雅春先生が現象世界に生きられていたころから「宗教法人生長の家」と真の「生長の家」とば別物だったわけです。

だったら、現在の「宗教法人生長の家」が、真の「生長の家」ではないのは当然なわけです。

<<むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には限らないのであります。
本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家の家族であるわけであります。>>

言い換えれば「実相の浄土を地上に生きる人」なら教団の信徒でなくても、
雅春先生の崇拝者でなくても、み〜んな「生長の家」の家族ということになります。

わたしは教団にも、どこの団体にも所属していませんから、この真実は本当に嬉しいです。

それでは、「実相の浄土を地上に生きる人」とは具体的にはどんな人なのでしょうか?

輪読をつづけます。

153a hope:2016/07/03(日) 07:19:51 ID:vdNCBnG6
二、吾らは凡(あら)ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す。

【第二条説明文抜粋】副題 各宗教に対する生長の家の立場 

「生命の實相」第27巻 p182 後から5行目〜

いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の光となろうとする使命をもって生まれているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われているのであります。

(略)

こんなわけで、この世の宗教は、おのおのの総ての電燈は照らす光として働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の働きをしているのであります。
それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。
宗教は要するに愛を説くものである。愛とは仏教でいえば慈悲と申しますが、キリスト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きです。

(略)

すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。

かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよいのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他は他でまた光ればよい。人類も多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現われてこれを照らす、五百燭光(しょっこう)の電燈がありさえすれば、懐中電灯は要らぬというわけではない、太陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。

生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。

154a hope:2016/07/03(日) 07:20:55 ID:vdNCBnG6

>>153 a hope所感)

<<それに、いちいち相手をけなして自分ばかり良いのであると、こういうような宗教争いをするようなことでは実にみっともないことであります。>>

<<すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという実相を知らせ本当の相(すがた)を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同士仲がわるくて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつは撲滅しなければならない、あいつが栄えたらわたしの方の宗教は栄えなくなるというふうな利己的な観念をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われ他という目的に反(そむ)くわけであります。>>

ほんとに、そうですよねぇ(;´∀`)

でも、きっと宗教争い真っ最中の方々は、ご自分自身が「虚説」だと感じるもの(違和感を覚えるもの)に和解しないために、
一生懸命戦っておられるんだと拝察いたします。

わたし自身、現教団の運動や雅宣先生の教義内容、そして、本流関係の掲示板で見られる教団や雅宣先生への執拗な批判文等には、とても違和感を覚えます。

違和感を覚えれば、排斥したくなるのは当然ですよね。

でも、でも、ですよ・・・ それって、本当に、「虚説」なんでしょうか・・・?

以前、復興Gさまに『「虚説」とは無いものである。』と教わりました。
「本来無いもの」をありとして見て、批判し続ければ、それは当然現象となり現れてきてしまう・・・、
それが、「心の法則」なのではなかったのでしょうか?


ですがだからと言って、
<<生長の家では決して他の宗教を悪くいわないのであります。みんな結構である――。>>

この、聖典のお言葉の意味を軽く考えていると、本当に「虚説」に和解することになってしまいます。


自分が違和感を覚えることには従わず、「自己内在の神」を信じて、自分が正しいと思う信仰をし続ければいいのだと思います。

「自己内在の神」を信仰すること、それが、本来の「生長の家」の信仰だとわたしは信じています。

155a hope:2016/07/05(火) 10:57:51 ID:xVBwxesw

三、吾らは自己を神の子(又は仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内なる魂の矜持(ほこり)を傷つけざらん事を期す。

【第三条説明文の抜粋】 副題 「神の子の生活を今生きよ」

さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子を生きて行くということが必要なのであります。

「自分は神の子である」とわかりながらそれを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。

そういう人は実際は、本当は神の子であるとわかっていないのであります。

そういう人が神の子であると思うのは、偽存在(にせもの)の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのであります。

偽存在(にせもの)の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖典を読んでも実際に神の子らしき行いとしてそこに現われてこないのであります。

真鍮の指輪をもってきて、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであります。

それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。

それでわれわれは神の子でありという自覚を実相から出してくるということが必要であります。

(略)

それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は神の子を生きるということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うとまちがいであります。

つまり、「知る」とは「生きる」ということである。

(略)

本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。

156a hope:2016/07/05(火) 11:00:11 ID:xVBwxesw

>>155 a hope所感)

わたしは、聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」教団に入信しました。
なので、その聖典の真理を説かない教団には、なんの未練も愛着もなかったので、すぐに退会しました。

ですが、退会した後も宇治別格本山の練成会には何度も参加だせていただきました。

当時の宇治別格本山には、楠本加美野先生もおられて、霊的な雰囲気に満たされていて、魂が震えるような体験を何度もしました。

「人間は神の子だ」「神の子なんだー」「嬉しい楽しいあっはっはー」「お父さん、ありがとうございます。 おかあさん、ありがとうございます。」・・・

今でも、練成の思い出がはっきりと蘇ってきます。

自殺未遂をされた自営業の男性、若い娘さんを亡くされたお父さん、拒食症の少女、末期がんを宣告された女性、職場で窃盗をしてしまった青年・・・。

ほとんどの方が、心に大きな不安や悲しみ、絶望を抱きながら、最初は暗い暗い表情で練成に参加されていました。

それが、練成最終日には見違えるように元気になって明るい表情で帰って行く・・・。

もちろん、全員がそうなったわけではありませんが、最終日までしっかり参加されていた方のほとんどは、生きる希望を取り戻されていました。

今思えば、参加者のみなさんは、練成によって「辛い現象はすべて影」であり、
本当の自分は「神の子」であったと自分の実相を知り、「神の子を生きる」決意をされていたんですね。

宇治別格本山の練成会は、本当に素晴らしかったです。

157神の子さん:2016/07/06(水) 21:19:00 ID:1ThqK4Lc
それにしても輪読会、盛り上がらないスね。。

皆、教団の内紛とか政治の話の方が好きなんでしょうね。

158トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/06(水) 21:24:13 ID:D6liK7g.
 いえ、じっくりと読む人が多いので、この輪読会は人気ですよ。

159神の子さん:2016/07/07(木) 13:29:51 ID:ylBQgeIU

現象に完全を求むることなかれ

 「現象は時間と空間の制約を通し

  実相が展開する過程なり。

  過程は常に中途にして完璧ならざること、

  楽曲が中途にして完結すること能わざるが如し。

  汝、人生の楽曲を正しく味わうべし。

  曲の最中に

  完結を急ぎて声上ぐるは愚かなり。

  曲は必ず完結するが故に、

  心静かに曲の進行と転調を楽しむべし。

  世界の実相、必ず完全なるがゆえに、

  創造神を信じ

  人生の変化と多様な進展を味わうべし。」

(『観世音菩薩賛歌』より)

160法の精神:2016/07/07(木) 13:31:11 ID:ylBQgeIU
>>159は私です。

161a hope:2016/07/07(木) 16:14:31 ID:xVBwxesw
四、吾らは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、大地を、火を、水を、一切の大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、礼し、愛し、苟(いやし)くも浪費せざらんことを期す。


【第四条 説明文抜粋】 副題 「いっさいのものを拝め」

生命の實相 27巻 p199 後から4行目〜
そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一ヶ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに美しい世界があるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌(すがた)は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、写真として見える。【たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相(すがた)は写真に比べると、もっと複雑な相(すがた)をし、もっと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。】

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海(あおうみ)や、大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、味の少ない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。

「生長の家」は、ここに明らかに生命礼拝の宗教でありますが、原始人の生命礼拝の宗教とはちがう。

原始人は物の奥の奥にある実相などというものを知らない。

だから生命礼拝といっても浅薄な現象生命の礼拝であったので、現象そのものを不思議がって礼拝していたのであります。

(略)

「生命の實相」第28巻 p6 1行目〜
ともかく、われわれは現象を見ても現象だけを見てそれを全部だと思ってはいけないのです。

その現象の奥にある実相を見、そこに十全なる神の相(すがた)、実相の円満な相を観て、そうしてそれに対して敬礼をするという気持ちにならなければならないのであります。

(つづく)

※十全・・・少しも欠けたところがなく、すべて完全なこと。頭注より

162a hope:2016/07/07(木) 16:16:00 ID:xVBwxesw


>>161 a hope所感)

ここで説かれている内容を簡単に要約すると、わたしたちが五官で確認できる三次元の世界はそれがどんなに美しく見えても感じてもそれがすべてではない。
その奥にある無限次元の世界の「実相」を観て、「生命の実相」を礼拝せよということなのだと思います。

つまりそれが副題の「いっさいのものを拝め」いう意味になるのだと思います。

だから、ここでいう「いっさいのもの」とは、現象的に見えているものの奥にある実相が含まれるわけですね。

そしてその「実相(生命)礼拝」こそが、わたしたち「神の子」の活動であると・・・。

世の中のほとんどの社会運動は、現象社会の不完全さを良くしようとして始められるのだと思いますが、
「生長の家」の人類光明化運動は、実相世界の完全円満さを人類に伝えていく運動なわけです。

だから「生長の家」の運動は他の社会運動とはまったく〝 次元〝 が違う、「実相世界の運動」なんですね!

163a hope:2016/07/07(木) 16:19:11 ID:vdNCBnG6

>>159 法の精神さま)

『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださいましたが、ここは「生命の實相」の輪読会板です。
「生命の實相」以外の聖典やその他の文献のご文章の紹介はご遠慮ください。

また、今回『観世音菩薩賛歌』の一節をご紹介くださった理由はなんでしょうか?
もし、質問等があるのであれば『「生長の家」の教義について議論する板』の方にお願いいたします。

164るん吉:2016/07/07(木) 22:18:07 ID:TWYtDbA.
>>それにしても輪読会、盛り上がらないスね。


一番、好きなスレッドですが?

165a hope:2016/07/08(金) 10:29:46 ID:xVBwxesw

>>158 トキさま >>164るん吉さま

ありがとうございます(*^^*)

166a hope:2016/07/09(土) 08:18:34 ID:vdNCBnG6
>>161 つづき)

「生命の實相」第28巻 p6 4行目〜

蓮如常人(れんにょじょうにん)は「一枚の紙もすべて仏物(ぶつもつ)である」と言われたそうでありますが、その心持こそ大切である。

「生長の家の経済学」には「物質は無限供給であるから使うほど殖える」ということが書いてあります。

「使うほど殖える」から、紙でも無暗に一字くらい書いて紙屑籠に捨てると、これは大変経済循環をよくしていいことだろう、こう考える人もあるかもしれない。

しかし、それは嘘である。

本当に使えば使うほど殖えるけれども、それは破って捨てるのは使うのじゃないのです。

われわれは一枚の紙にも、その背後に神の生命を見、神の無限の光を見、神の無限の愛を見、これを拝まずにはおれない。

これを礼拝して使わずにはおられない。

今までは「もったいない」ということは棚の上に上げて蔵(しま)って置くとこういうふうな考え方が多かった。

それで「もったいない、もったいない、食べたらもったいない。着たらもったいない」と戸棚や箪笥に入れて置くという、これじゃいけないのです。

神の生命は、使ったら減るというふうなものでない。

実に立派なものであるから、この立派なものを、その顕われている生命の働きを十二分に発現させて使えば使うほど増えるということになるのであります。

無限供給であるから破って捨てるというのじゃないのであって、用途に従ってそこに顕れている神の生命を使えば使うほど、神の生命がはっきり顕わされてくる、それが無限供給である。

「物質は無い」ということは、そこに何も無いということではない。

みんな仏物である、みんな神の生かす力の顕現(あらわれ)である。

その奥には物質ならぬ実相があるということであります。

これを履き違えると大変なまちがいになるのであります。


生命は生きる、生きるから生活であります。

我れ神の子なりと知ったら、神の子を今生きるということ、これが神の子を知るということであると申しました。

それを客観界のものにしましたならば、紙が一枚ここにある。

この紙一枚が、その奥にある実相を見れば、それが仏様であり、神様であって、ここに神の生命が現れているということを知れば、それを生きるということは、ことごとく与えられたる生命を完全に発揮させるということです。

この「生命を発揮させる」ということが紙を使うということです。

すると使えば使うほど殖えるのであります。

この一枚の紙の使命を完全に発揮させたならば、そこに神の生命が生きてきて無限供給ということが出てくるのであります。

167a hope:2016/07/09(土) 08:20:34 ID:xVBwxesw

>>166 a hope所感)

現象に見える物質は本来ないものだけれども、その肉眼で見える物質の背後に神の生命を見、
神の無限の光を見、神の無限の愛を見、それを礼拝して使う・・・

その「心」が大切なんですね。。

「天地の萬物(すべてのもの)へ感謝せよ」とはこのことだったのですね・・・。

今、わたしのまわりにあるすべてのものが光り輝いて見えます。

168a hope:2016/07/12(火) 09:04:32 ID:vcpdnQEI
五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。


【第五条、 説明文の抜粋】 副題「心を清く空虚にせよ」
「生命の實相」第28巻 p10 7行目〜

『心の清き者は神を見ることを得(う)』ということは、キリスト教のバイブルにある句であります。

「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。

何もない人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。

この幼児(おさなご)の心を持ったものが初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるのでありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

(略)

世の中には妙な人があって、生長の家では病気が治る事実があるのに、「宗教で病気が治るはずがない、若(も)し治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起になっている人もあります。

理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら仕方ないのであります。

それと同じくわれわれが「神の子である」とはなぜ人間は神の子であるか、なぜ人間は神の子でないのかとこういったところが、神の子であるから神の子である、これはもう理屈ではないのです。

神の子であるから神の子である。

(略)

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている人は事実があっても本当に素直に受容(うけい)れることができない。

現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減っている事実を見ても、全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる人を、こういう我の理屈や塵埃(ごもく)を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。

心の中に塵埃(じんあい)が一パイにないからするすると真理が入るのであります。

(略)

それで、われわれは『生命の實相』を読んでも、この心の清き人ものになって『生命の實相』を読まなければならないのです。

『生命の實相』を読んでもすぐに病気が治らないような人は、きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな意味ではないのです。

――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。

いっさい人知を否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍(かたわら)のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。

コップの中に濁った液体を入れておいて、その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚(からっぽ)にしておいて入れる。

この虚無のこの心、空虚(からっぽ)の心が「清きもの」であって、嘘を吐く(つ)かぬとかそういうふうなことじゃないのであります。

本当にこの虚無(からっぽ)の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

169a hope:2016/07/12(火) 09:05:53 ID:vcpdnQEI

>>168 a hope所感)

<<――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。>>

この情報化が過剰に進んだ社会で生きてゆくためには、わたしたちはそれが正しい情報なのか間違った情報なのかを見分ける力が必要です。

それと同じことが宗教や思想に関しても言えるのだと思います。

ですがまずは、その宗教や思想が真理なのか虚説なのか、自分自身で考え、判断することが大切ですね。

実際、「生長の家」と名乗っている現教団の思想は、「生長の家」の教えとはまったく別物になってしまっています。

まちがいない「真理」を学びたいのであれば、『生命の實相』を心を空っぽにして拝読し続けるのが一番確かな方法なんですね。

170a hope:2016/07/14(木) 12:18:28 ID:HpPPMIUs
六、吾らは『類は類を招(よ)ぶ』の心の法則を以て苟(いやしく)も自己の欲せざることを心におもわざらんことを期す。

【第六条 説明文の抜粋】 副題 「自己の欲せぬことを思うな」
生命の實相 第28巻 p15 10行目〜

「類は類を招(よ)ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心の所現」である。

これは現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を顕わしたものであります。

業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によって流転しているのであります。
(つづく)

171a hope:2016/07/14(木) 12:20:04 ID:HpPPMIUs

>>170 a hope所感)

この第六条では「横の真理」である心の法則(三界唯心所現)と、「縦の真理」である神の子の自覚(唯神実相)の関係が説明されています。

この関係性がよくわかっていないと、『現象は時間と空間の制約を通し実相の展開する過程なり』みたいな、
間違った思想をもつことになってしまいます。

上に謹写した部分に、<<現象界が展開して来る、業の流転してくる法則>>という部分がありますが、
現象界の展開は業の流転による影の世界の展開なんですから、悪い念(迷いの心)を持っていれば悪い結果が現れるし、
良い念(悟りの心)を持っていれば実相さながらの現象が現れてくるということになるのだと思います。

ですから、頭で「実相」が完全だとわかっていても、自分の悪い念(迷いの心)をなおざりにしていては、
いつまでたっても現象に良い結果は現われてこないということになります。

それでは、悪い念(迷いの心)を捨て去り、良い念(悟りの心)を持つためにはどうしたらいいのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

172a hope:2016/07/14(木) 12:25:31 ID:HpPPMIUs
>>170 つづき)

「生命の實相」第28巻 p22 5行目〜

病気の人を見て人の心持ちを何でも良く当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおりの相(すがた)が肉体に現われているのを看破(かんぱ)するから当てられるのです。

このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好(そうごう)をし、円満完全健康な肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならねばならないのであります。

その円満完全なる心になろうとしましても、修養や克己(こっき)で、腹立つ心を抑えたり、憎む心を制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。

けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑えなくても急所がある。

猫でも首の上のところを撮(つま)んでひょいっと上げる、急所を捉(つか)むとじっとしている。

それと同じで、われわれの感情でも急所を把(つか)んでひょっと上げるともう温和(おとな)しくなってしまうのです。

その急所はどこにあるかというと「実相」です。

われわれは「生命の実相」を捉(つか)む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。

ほかの修養では心を外から抑えてゆこうとしますが、「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても万事がよくなるようになっているのです。

それでそんなに意地悪な姑(しゅうとめ)さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――神の子――という急所を把むと、そうするとみんな猫のように、イヤそうじゃない、神の子のように温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である、この人も神の子であると、本当に大調和した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというようになって円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。

173a hope:2016/07/14(木) 12:32:27 ID:HpPPMIUs

>>172 a hope 所感)

「生命の實相」を拝読するだけで、「迷いの心」が消えて「悟りの心」が現れる・・・、
そして「類は類を招ぶ」の法則によって、周りの環境もどんどん良化していくんですね!

聖典を拝読しない人って、なんか、すっごく損しちゃってる感じですね。

174a hope:2016/07/16(土) 08:33:40 ID:9YJfssAE
七、吾らは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、自己の新生と生長とに利用せんことを期す。

【第7条 説明文の抜粋】 副題「自他の悪を思わず常に光明に転向せよ」

生命の實相第28巻 p26 3行目〜

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。

概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

『自覚(さとり)の心』
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心

でありまして、その反対の

『迷いの心』
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰鬱の心
三、 不平、不満足な心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心

などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであります。

細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに纏(まと)めると、「迷いの心」とは、「我執の心」であります。

我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などがおこってくるのであります。

(略)

不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るまいと思ってそれを抑圧してもたいていは駄目であります。

不安に思うまいと努めれば務めるほど焦り出し、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。

それは「不安を……」と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現れるのが心の法則でありますから、「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」をなくするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に心を集中しなければならないのであります。

すなわち、この時こそわれらは、「神を想い、完全を想い」心を旧我から一転せしめて、「神と一つなる自分」を新しく発見するように努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行うに当って招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え終ると次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境はわが心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と生命と供給とが満ちているのである」

この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

175a hope:2016/07/16(土) 08:34:46 ID:9YJfssAE

>>174 a hope所感)

日常生活に追われていると、つい「神想観」を怠りがちになってしまうことがあります。
そんなときは、自分の心が「迷いの心」で満たされているな〜と感じることが多いです。

先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。(自分の存在が無くなったような不思議な感覚)

今まで、坐禅をしても、ヨガの瞑想をしてもそういう気持ちになったことはありませんでした。

生長の家の「神想観」は自分一人が行ずるのではなくて、「生長の家の大神さま」のお導きとお守りがあって行ずるわけですから、
神さまと波長さえ合えば「神さまを感じる」ことができるのだと思いました。

176るん吉:2016/07/17(日) 12:59:44 ID:TWYtDbA.

>>先日「神想観」の時に、初めの経験ですが、完全に「我執の心」がなくなったように感じました。


すんごい体験ですね!
Congratulations on your mysterious experience!(*^▽^*)

177a hope:2016/07/18(月) 08:48:03 ID:xVBwxesw
八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。

【第八条 説明文の抜粋】 副題 「神と偕(とも)に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ」

われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。

他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起こってくるとともに、その明朗さは破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであるとの自覚さえありさえすれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐れるべきは「重大なる事件」そのものではなく、重大なる事件に驚愕し周章(しゅうしょう)狼狽して「神吾と偕(とも)に在り」との自覚を失ってしまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光(しょこう)が見えはじめます。

しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。


ですから、われわれは何事が起ろうとも事件そのものは恐ろしくない。

どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲観し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのでありあす。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかつて事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共に科学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評されるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。

この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。

取越し苦労患者は、常住楽観者の反対であります。

常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労患者は成功の中でも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったいない」とか、「幸福が続けば必ず不幸がくるのだ」とか。「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施すところをしらないのであります。


およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネルギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労もせずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに必要なる縦横(じゅうおう)な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。


取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦(とりで)は神であるから恐るるところのものはない」と断々乎(だんだんこ)として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、どんな体験も次なる成功に達する一段階であると喜び勇んで、その現在の地点を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

178a hope:2016/07/18(月) 08:49:33 ID:vdNCBnG6

>>177 a hope所感)

わたしは「現象は無いんだ、すべて影なんだ」って思うと、反対に「この現象世界で思いきり生きてみよう!」という力が湧いてきます。

なぜなら、この現象が影だったら、必ずその影を映し出す元の光があるわけで、
それは、とてつもなく大きくて明るい一つの光 …… つまり「神」なんですよね。

そして、現象でどんな悲惨なことが起っているように見えても、わたしたちは常に「神の光」の中にいるんですから、そう思うと、わたしはとてつもない安心感と幸福感につつまれます。

179a hope:2016/07/18(月) 08:55:02 ID:xVBwxesw

>>176 るん吉さま ありがとうございます(#^^#)

You will have the same experience as me if you do ' sinsoukan ' every day.

Let's enjoy our spiritual life!


わたしも英文で、がんばってみました💦

180誌友会ファン 一読者です。:2016/07/20(水) 12:21:04 ID:j41BUutM
トキさんへ
ユタカですけど?

181トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 12:29:11 ID:mh4XEL12
>>180

『web「生命の實相」輪読会』へのご参加を心から歓迎申しあげます。
また、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。

今後とも宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

182a hope:2016/07/20(水) 15:15:23 ID:xVBwxesw
>>180 ユタカさま

お久しぶりです\(^o^)/

183a hope:2016/07/20(水) 15:15:57 ID:xVBwxesw
九、吾らはたとい躓(つまず)くことありとも渋面せず、その瞬間起き上がりて光明に面せんことを期す。

【第九条 説明文】副題 躓く刹那に光明に転向せよ
「生命の實相」第28巻 p34 9行目〜

人生にはいろいろのことが起こってきます。それは無限創造の世界であるからであります。

われわれが自分だけの小さき立場から、かくあれかしきと祈っても、事件は自分の欲するとおりに展開しないことがあります。

しかしそれは神が諾(き)き給わないのだろうか。

否々否(いないないな)、この時こそ神がわれらにいっそう大なる生長を遂げしめんためにわれわれの内部より無限の力を引き出さんとしてその動機を与え給うているのであります。


あまり裕福な家庭に生まれ、欲しいものはすべて親より与えられ、なんの苦労なくしていっさいの必要品が贅沢に揃えられるというような家庭に育った子女たちは一面においてはまことに不幸な人たちであります。

なぜなら、そういう人たちは、すべての善き物はことごとく外からのみ与えられて、自分自身の内部から生み出す機会を恵まれないからです。

本当の幸福というものは、自分の内にあるところの善きものを生み出すことにあるのです。

他から与えられた幸福は他(ひと)が立派な着物を着ているのと同じであって、自分自身の立派さでないのです。

自分自身が立派になることのほかに自分が幸福になる道はないのです。自分自身に力がつくほかに自分の強くなる道はないのです。


かかる意味において逆境はわれわれを鍛えて、われわれの中味の善さを引き出してくれる冶金の坩堝(やきんのるつぼ)なのです。

冶金の中に投げ入れられて、われわれは鉛か金か、鍍金(めっき)か本物かがわかるのです。

われわれは好んで逆境を招(よ)ぶのではありませんが、逆境がいかにわれわれを捉えようとも、それはわれわれをいっそう聖化し強化するところの機会だとして、内より奮迅(ふんじん)の力を奮い起こすものはついに大成して逆境を脚下に蹂躪(ふみにじ)ることができるのであります。


されば逆境の来たるごとに※莞爾(かんじ)として感謝せよ。これが「生長の家」の生活であります。

微笑は心の中に光明を点じていっさいの苦難を耐え易からしめ、失われたる希望を喚(よ)びおこし、再起の勇気を奮い立たし、暗黒なる生活を光明に転向せしむるのであります。

キリストは「死にし者は死にし者に葬らせよ」と言っています。

すでに来れる逆境を嘆いたとてなんになりましょう。すでに来たり終われるものは「すでに死せる者」なのです。

「すでに死せる者」について歎いてみたとてなんになりましょう。すでに来たり終れるものを嘆き悲しむ暇(いとま)あらば、莞爾として新しい幸福に突進すべきであります。

光明に満てる微笑こそはわれらによき運命の微笑を招ぶのです。我れ渋面すれば運命も渋面するのです。

「嬉しいぞ、これから運命が開けるのだ。」苦難に捉われず、難関の来たるごとに、莞爾として微笑しつつ奮迅の勇気を奮い起こすものこそ生長の家の生活であって、必ずいかなる難関をも征服して自己自身の力で幸福になる運命を建設することができるのであります。

※莞爾… にっこり。 (頭注より)7

184a hope:2016/07/20(水) 15:19:54 ID:xVBwxesw

>>183 a hope所感)

「生長の家」の伝道とは、もちろん、個人指導をして現実的な悩みを解決してあげることも含まれると思いますが、
それよりも重要なことのは「真理」を自分自身で追究し、悟り、すべての悩みを自分の力で解決できるように
人々を導いていくことなのではないかとと思っています。

いつまでも人の力に頼っていては、その人の魂の生長はないと思うのです。


次の第十条には、どうして隣人救済(個人救済)が重要なのか、どんな風に助けていったらよいかが詳しく説明されています。

素晴らしい内容なので、みなさんも第28巻をお持ちでしたらぜひ拝読してみてください!

186トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/20(水) 21:00:48 ID:mh4XEL12
>>184

 そうですね、基本的に生長の家というのは、生命の実相を読んで感激した
人達が自発的に集まって、この喜びをみんなに広げよう、という運動を始め
たのです。それが、いつの間にか、変な方向へと曲がりましたが、本当は
一人一人が神の子の自覚を持つことなんですね。

 以前、復興G 様が、一人一人が法灯継承をする、ということを言われまし
たが、そういう発想が大事なのかもしれません。

187a hope:2016/07/23(土) 22:10:50 ID:xVBwxesw
十、吾らは出来る限り悩める隣人を扶(たす)けてその暗黒なる生活を光明に転向せんことを期す。

【第十条 説明文の抜粋】 副題 隣人を光明生活に生かせ
生命の實相第28巻 p36 後から6行目〜

人間は自己が幸運を築き上げたばかりで満足すべきではありません。自己が幸福になったならばこの幸福を人に及ぼさなければなりません。

われわれは肉体的には周囲の人とはなんの関係もない孤立した存在のように見えますけれども、その実、われらはことごとく一体なのでありますから、周囲の人が本当に幸福にならない限りは、自分一個人も本当には幸福になれないのであります。

単に病気の問題のみからいってみましても、良人の病気が妻の心の反映から来ている場合はザラにあります。妻の病気が良人の心の反映から来ている場合もたびたびあります。子供の病気が親の心の反映で起こっている場合もたびたびあります。

さらに祖先の霊魂の霊界での悩みが現実の世界の子供に不幸や病気を起こしていて、祖霊に対して『生命の實相』を読んで聞かせるだけで子孫の病気が消えたり、運命が好転したりしてくる場合がたびたびあります。

そのほか他人の嫉視憎悪反感がわれらに不幸をもたらし、それが解消することによって不幸が消えてなくなることもあります。

このようにわれわれの肉体としては離ればなれのように見えましても、心の世界では一つでありますから、自分自身が本当に幸福であるためには、推し及ぼして周囲の隣人をも幸福にしてあげなければならないのであります。
(つづく)

188a hope:2016/07/23(土) 22:14:46 ID:xVBwxesw

>>187 a hope所感)

ここの部分を拝読すると、なぜ、隣人救済をすることが自分の本当の幸せに繋がるのかががよくわかります。

これは「情けは人のためならず」という日本のことわざの意味とも通じると思います。


※情けは人の為ならず (故事ことわざ辞典より)

【読み】 なさけはひとのためならず
【意味】 情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。

http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html 


それでは、いったいどういう「情け」をかければ本当に隣人が救われて、自分自身も本当の幸せを感じることができるのでしょう・・・。

189a hope:2016/07/24(日) 07:16:41 ID:vdNCBnG6
(>>187 つづき)
p37 8行目〜
ある場合には物質で扶(たす)けてあげることもよろしい。しかし物質で扶けることは一時的の救助になっても永遠の救いとはならないことが多いです。

物質で扶けてもらう習慣性がつきますと、その人の他に頼る依頼心が増大し、かえってその人の永久の救いとならないことが多いものです。

ですから隣人を救うには、心に光明を点ずる方法を教えてあげる方がいっそうよろしいのであります。

といって、全然「物質」で隣人を扶けるのが悪いというわけではありません。「物質」で人を扶けてよい場合は、……

(略)
p38 後から6行目〜
いつも物質を与えるばかりで人を助けるのは、年中消化剤を与えて胃腸を丈夫にしようとするのと同じことです。そんなことをすれば本人自身の自活能力は減ってしまうのです。これでは人を助けたことにならないのです。

本当に助けることは本人の力を強め、価値を高め、その人格を向上さし、神の子そのままの自主的完全さにまで生長せしめてあげることでなくてはなりません。

(略)
p39 8行目〜
「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。

温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。

明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。

かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。

これは外のものに頼るところの依頼心ではありません。われわれの愛が、相手の内に埋蔵(かく)されていた無限の力を喚び起こすのです。

これこそ本当に隣人への助けです。

生長の家の誌友は互いに兄弟なのですから、ただひとり聖典を読んで高慢に他(ひと)を批評するようなのは本当ではありません。

本当の悟りは人間互いに兄弟であることを悟って、互いに好意の花葩(はなびら)を投げかけ合うことです。

好意ある微笑、希望に満ちた光明の掛声こそ失意のドン底にある人々にとってどんな物質的扶助(たすけ)よりも、大きなる助けになるのです。

悟りとは、人を審判(さば)くところの鋭い知識のメスを研ぎすますことではありません。

悟りとは広く大いなる明るい人物になることです。

悟りとは山に籠って行いを澄ましていることではありません。

市(まち)に下って誰にてもあれ、魂の光明を打ち開いてその光で相手を包んでしまう人のことです。
(つづく)

190a hope:2016/07/24(日) 07:17:55 ID:vdNCBnG6

>>189 a hope所感)

本当にここの第十条の説明文には、まさに、わたしたち「生長の家」の家族がどういう態度、
どういう心持で隣人扶助をなすべきかが述べられているとても重要な箇所であるとわたしは感じていますが、
みなさんはどう思われますか?

省略した部分にもとても大切なことが書かれているので、本当は全文を謹写したいのですが、
それではすごい長文になってしまうので涙を呑んで割愛しています。

「生長の家」のみなさん、ぜひ、聖典「生命の實相」第28巻のp36「隣人を光明生活に生かせ」を全文を拝読してみてください。

<<「物質では短期間助けよ。温かい愛では常に助けよ」とは生長の家の標語であります。
温かい愛はいくら常に与えても与え過ぎるということはありません。
明るい希望に満ちた深切な言葉、優しい眼光(まなざし)、愛情のこもった手紙、好意に満ちた握手、愛嬌ある微笑、「何、大丈夫だよ」という激励、「愛する兄弟姉妹!」と呼びかわす言葉――これこそ永久に癖にならない魂の強壮剤であります。
かかる光明を降らすような交わりこそ生命の泉であります。その生命の泉に触れるときわれわれの衰えた活力は蘇生(よみがえ)るのです。>>

特にこの部分を拝読している時、わたしは、宇治別格本山で受けた練成会での数々の素晴らしい出会いを思い出していました。


ところで、いつだったか、純子先生がブログで、月1回「子供食堂」をはじめられたと発表されていましたが、
あれは現在も継続されておられるのでしょうか?

子供食堂で無料、もしくは格安の金額で食事を提供するのは、物質的援助に当たると思われますが、
「生長の家」の白鳩会総裁であられる純子先生はすでに物質的援助は終了されて、生長の家のお山のオフィスから市井に下られて、
生活難や病気で苦しんでおられるたくさんの市井の方々を生長の家の「温かい愛」で救済されてくださっておられるのでしょうか?

191a hope:2016/07/28(木) 14:02:17 ID:xVBwxesw
>>189 つづき)

「生命の實相」第28巻 p40 8行目〜

われわれの心が狭くなれば、われわれは生長したのではなく、縮小したのです。

宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。

誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。

その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。

皆さんはただその人の側へ坐るだけでもなんとなく険しい、気詰まりな、憂鬱な、窮屈な感じを受ける人がありましょう。

またある人の側に坐ると春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)のような感じがして、なんでも打ち明けて話したい、その人の胸に飛び込んで抱擁されたいような感じがすることがありましょう。

これは人それぞれの人格の雰囲気でありまして前者のような感じがする人は何事をやっても発達しない人であり、後者のような感じのする人は何ごとをやっても発達する人であります。

192a hope:2016/07/28(木) 14:04:10 ID:vdNCBnG6

>>191 a hope 所感)

<<宗教家が宗派で互いに相争っているのは醜いことです。彼らは「縮小」を「生長」と思い違いしているのです。
誰にてもあれ、人を審判(さば)く一つの尺度を持つようになったならば、その人には「型」ができたのであり、「殻」を造ってその中へ入ったのであり、大きくなる代わりに小さくなったのであります。
その時その人には人を排斥する力ばかりが強くなり、容れる力がなくなって、味方となるべきはずの人も逃げ去り、事業の発展は停(とま)ってしまうのであります。>>

「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

193神の子さん:2016/07/28(木) 14:21:32 ID:IN5M8yuw
>>「生長の家」のみなさんはこの聖典のお言葉を読まれてどう解釈されますか?

他人のことはどうでもいいでしょう。自分の見ている世界は自分の心で翻訳した世界ですから。
目を瞑っている時だけ実相世界に住んでいて、目を開いている時には違う世界が見えるのであれば、あなたが違う世界に住んでいるというだけのことです。


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