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『web「生命の實相」輪読会』 板

168a hope:2016/07/12(火) 09:04:32 ID:vcpdnQEI
五、吾らは『心の清き者は神を見る事を得(う)』との真理を信じ、心を飽くまで清く尚(たか)く純に素直に保たん事を期す。


【第五条、 説明文の抜粋】 副題「心を清く空虚にせよ」
「生命の實相」第28巻 p10 7行目〜

『心の清き者は神を見ることを得(う)』ということは、キリスト教のバイブルにある句であります。

「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。

何もない人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。

この幼児(おさなご)の心を持ったものが初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるのでありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

(略)

世の中には妙な人があって、生長の家では病気が治る事実があるのに、「宗教で病気が治るはずがない、若(も)し治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起になっている人もあります。

理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら仕方ないのであります。

それと同じくわれわれが「神の子である」とはなぜ人間は神の子であるか、なぜ人間は神の子でないのかとこういったところが、神の子であるから神の子である、これはもう理屈ではないのです。

神の子であるから神の子である。

(略)

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている人は事実があっても本当に素直に受容(うけい)れることができない。

現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減っている事実を見ても、全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる人を、こういう我の理屈や塵埃(ごもく)を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。

心の中に塵埃(じんあい)が一パイにないからするすると真理が入るのであります。

(略)

それで、われわれは『生命の實相』を読んでも、この心の清き人ものになって『生命の實相』を読まなければならないのです。

『生命の實相』を読んでもすぐに病気が治らないような人は、きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな意味ではないのです。

――知恵や学問の塵埃(ごもく)でいっぱいに詰っている、そういう人ほどかえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――まず一遍いっさいの知恵学問を捨てて『生命の實相』を読まなくてはならない。

いっさい人知を否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍(かたわら)のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。

コップの中に濁った液体を入れておいて、その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚(からっぽ)にしておいて入れる。

この虚無のこの心、空虚(からっぽ)の心が「清きもの」であって、嘘を吐く(つ)かぬとかそういうふうなことじゃないのであります。

本当にこの虚無(からっぽ)の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。


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