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『web「生命の實相」輪読会』 板
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:
a hope
:2016/07/18(月) 08:48:03 ID:xVBwxesw
八、吾らは常に無限力と偕(とも)に生くることを信じ、神に背く事のほか、何ものをも恐れず、取り越し苦労をせざらんことを期す。
【第八条 説明文の抜粋】 副題 「神と偕(とも)に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ」
われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さであります。
また次なる重大なる事件が起こってくるとともに、その明朗さは破壊せられずにはいないのであります。
どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであるとの自覚さえありさえすれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。
かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐れるべきは「重大なる事件」そのものではなく、重大なる事件に驚愕し周章(しゅうしょう)狼狽して「神吾と偕(とも)に在り」との自覚を失ってしまうことであります。
この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光(しょこう)が見えはじめます。
しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。
ですから、われわれは何事が起ろうとも事件そのものは恐ろしくない。
どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。
しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲観し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのでありあす。
ヘンリー・フォードは言っています。
「自分はいまだかつて事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共に科学の実験としては成果を収めているのである」と。
まったく常住「楽観病」と評されるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。
この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。
取越し苦労患者は、常住楽観者の反対であります。
常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労患者は成功の中でも失敗を見るのであります。
こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったいない」とか、「幸福が続けば必ず不幸がくるのだ」とか。「悪」を心に描いて恐怖します。
そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施すところをしらないのであります。
およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネルギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労もせずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに必要なる縦横(じゅうおう)な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。
取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦(とりで)は神であるから恐るるところのものはない」と断々乎(だんだんこ)として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。
またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、どんな体験も次なる成功に達する一段階であると喜び勇んで、その現在の地点を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。
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